恋
煩い 7
15.
台所の電気を消す音がする。
ぴくんと飛び跳ね、青島は腰砕けとなっていた身体をようやく元に戻した。何故か正座する。
ぎゅっと拳を握れば、その手が汗ばんでいることを知った。
電気を消してくるということは、もうあっちには用ないってことで、それはつまり。それってつまり。
ごしごしと、拳を無暗にスラックスで拭ってみる。室井の靴下が床を鳴らす音がぞわりとこの肌を泡立てる。
すぐ後ろに、室井が近づき、止まった気配がした。
顔を見れない。
振り返ることも忘れ、只じっと息を呑んだ。
自分で口火を切ったくせに今は室井の顔を正面から見ることが怖くもあった。
室井はどう思ったのだろう。
そして、どう出てくるのか。
呆れられてはいないだろうけど、これが室井の望むお付き合いというやつではなかったら、傷つくのは一体どちらになるのだろう。
酔いの回った頭が虚ろな思考を混沌へと落とし込む。
年上を誘うなんて、したことない。ましてやオトコを誘うことだって、したことない。
恋の場馴れをしていたつもりでも、自分に雰囲気や色めいた誘惑が出来るかどうかは甚だ疑問だった。
ましてや相手はこの堅物の室井だ。
エリート官僚を誘惑するという現実が、青島から経験も自信も喪失させる。
情けないとも思うままに、心臓が壊れるほど早鐘を打っていた。
青島が息を大きく吸ったその次の瞬間、真後ろに沈み込んだ室井が跪き、背後から両腕で強く抱き締める。
力強く、しっかりとした筋肉質の腕が囲うように肩から回され、青島の柔髪がふわっと宙を舞った。
息を呑む間もなく、室井の頬が青島の耳朶に押し付けられ、男のざらついた肌が妙な背徳を煽る。
「・・・ッ、ぁ、の・・」
黙ったまま、回された室井の腕に力が籠められ、青島はバランスを崩すまま室井に引き寄せられる。
背後の室井に寄りかかる形で抱きすくめられ、息を殺した。
すぐ横で微かな、でも確かに熱い息遣いが感じ取れる。
背中から伝わる体温が、初めて知るような感覚を呼び覚まし、青島は顔を火照らせるままに俯いた。
言葉にはしない室井の意志や気持ちが、回された腕の剛堅さに凝縮されているようだった。
しっかりと自分を繋ぎ止めようとする腕に、あの星降る夜の尊貴な告白が蘇る。
さっきまでの澄ましていた男とは別人のような腕の力は、良く知っているようで知らない男の素顔だった。
あれほど顔を見るのが怖かったのに、今度はその顔が見たくなる。
回された腕に先を強請るように青島の指先を合図とし、息を軽く吐いた室井が、その力を緩めた。
「・・・隣、いいか?」
低く、艶のあるバリトンの声が青島のすぐ横で囁いてくる。
こんな声も出せるなんて、反則だ。
強張るままに小さく頷き返すと、室井は青島の頭部のてっぺんをゆるりと掻き回し、その髪を指先に絡めてから穏やかに離れた。
背中から消えた温もりが軽い疎外感を齎してくる。
見上げれば、同じく見下ろしてくる室井と目が合った。
ゆっくりと腰を下ろした室井は、青島から目を逸らすことはなく、何度か躊躇った手をゆっくりと青島の頬に添えた。
深淵の深みまで瞳を覗き込まれ、青島もただその動きを追った。
どうやって雰囲気を作ろうかあれほど悩んでいたのに、あっさりと空気の色を変えてきた室井に一気に捕り込まれている。
壮大な敗北感と、絶対的な屈辱感が入り混じる取り留めない気持ちが、青島の中でより焦れた熱を生み出した。
どちらも一言も喋らない。
じっと見つめ合えば、先程までの緊張も戸惑いも、室井の漆黒の闇に敗北を知っているかのように呑み込まれていく。
温度も光も持たない室井の虹彩は果てがなく、恐ろしくもあり、ただその黒闇に青島を滔々と映しこんでいた。
室井が喋らない理由が掴めないままエアコンの空調が止まり、時計の秒針の音だけが残る。
静かな息遣いさえ肌で感じ取れる距離で、あまりに長く見つめられ、照れくささから青島は愛想笑いで視線を泳がせた。
なんか、じっと見ていていいもんじゃない。・・・気がする。
自分を捕り込まれてしまうような、自分を見失ってしまうような、際どい危うさがそこにはある。
だがそれは、添えられた室井の少し冷たい指先により、戻された。
顎を掴まれ、視線からも逃してくれるつもりはない意志に、ますます青島の息が浅くなる。
なに?と真意を問う青島の蒼に溶ける瞳が揺れ、その風のような動きに促されたように、ゆっくりと顔を近づけた室井は
両手で青島の頬を柔らかく包み、額に額を押し付けた。
むろいさん、と、嫌に掠れた吐息となった声で名を呼べば、室井の瞼が持ち上がり、それは哀愁の色に染まる。
何でそんな顔をするのか分からず、青島の指が無意識に室井へと伸び
その手が室井の頬に触れる、その直前、室井の手によってそっと囚われた。
「青島」
柔らかく名を呼ばれ、その声音が愛の調べであることを知った。
室井の哀しみが移ったかのように、今度は青島の目尻が哀色に揺れる。
後悔も罪も、全部背負って室井はこの愛を選んだ。
そんな苦労をしなくても十分満ち足りた人生を手に入れられただろう男なのに、いつだって苦難の道を選択する。
悲しい恋で泣いていた筈の記憶を閉ざし、愛しいものを尚大切にしようとする。
僅か緩んだ吐息を落とし、手を掴まれたまま青島は法廷で弁論する裁判官のような顔をしている男の薄い口唇に
引き寄せられる衝動に逆らわず、青島はそっと誓いの印を与えた。
「もっと、他にいいひと、いただろうにね・・・」
室井の、過去も恋も意地も全部受け止めて、未来まで保証してくれるような、そんな完璧な女性が。
黙ったまま室井が腕を伸ばし青島を引き寄せてくる。
引き寄せられるままに青島はぎこちなく室井の首筋に顔を埋めた。
久しぶりの薄い男の口唇の感触は、まだ消えない。
知ったばかりの室井の匂いに包まれ、青島はこの男が幸せになってくれたらと、心から願った。
男に甘えるのは、まだ慣れていない。
でも、室井の不器用で拙い愛情が、今はこの上なく愛おしかった。
「これが現実なのか、まだ半信半疑な気分だ」
ようやく口を開いたと思ったら、それなのか。
苦みを乗せた青島の口端が室井の肩口で滲む。
なんだか壮大な悟りにまで思考が飛んでしまっていた青島とは違い、室井はまだ足元でくずぶっていたようだ。
散々デートもしたし、キスだって一応済ませたし、今日だってこうして数時間同じ時を過ごしている。
まだ付き合い立ての初々しい夢の中なのかと思ったら可笑しくなった。
でも室井のぶっきらぼうな物言いが、また逆に青島を落ち着かせる。
多少緊張が解された青島は身形整った室井のワイシャツの境目に小さく口唇を落としてみた。
「嘘にする?それとも、確認してみますか?」
確かに出来立ての恋人との距離感は、実のところ告白前とさほど変わりはない。
食事して、メールして、他愛のない日常を主に青島が一方的に喋って。
勿論、室井は優しいから青島の提案も願いも、無下にはしてこないことは分かっていた。
でも空気を読んで乗ってきてくれるということと、本気で欲情されるということは別物である。
それでもふと気付けば、室井が青島に対し、社交辞令のような余所行きの対応を取ることや、作り物の硬い顔をすることはあまりなくなっていた。
キスすらしなくても、手を繋がなくても、こうして室井は変化を見せてくれていた。
室井の分かりづらい片言や渋い眉間に引きつった顔で笑っていた昔が懐かしい。
「嘘になってしまったらどうする」
「そこを賭けるのがオトコです」
「悪いがギャンブルはそんな好きではない」
「キャリアなくせに?」
「大切なものを賭けられるほど肝はでかくない」
「っ」
瞬間、強張った青島に室井が気付かぬわけがなかった。
言い過ぎたとでもいうように、室井が口を噤んだ。
誤魔化すように、室井の腕が青島を抱き締め直す。
「一緒にいるだけで俺は安心できる。俺が、安心する場所を失いたくないだけだ」
「・・・」
「照れるな」
「照れてません」
みるみる赤面していく青島の横顔に、それが事実と知れる。
薄っすらと目尻を細めた室井は青島に気付かれぬようにもう一度抱き寄せ直し、青島の後頭部に五指を差し込んだ。
ぐしゃぐしゃと後ろ髪を掻き混ぜるように愛撫する乱雑な仕草の中に、室井の気持ちが潜んでいる。
「さっき、家事分担って言ってたけど・・・」
「ああいう言い方をしたが‥本当は君の手料理を食べてみたいだけだ」
「男飯ですよ」
「大味だって、不格好だって、楽しみだ」
ますます顔を上げられなくなった青島が、ぐりぐりと額を室井の肩に押し付け、後ろ髪をぐしゃぐしゃに乱されるまま
室井の背中に両手を回した。
硬質で肉厚な、男の背中だ。
室井だってガタイの良い自分を然程違和感なくその腕に囲い入れてくれるのが、照れくさくも密着感が半端ない。
ベスト越しの美麗な背中にも逞しさがある。
この高貴な肌身に、一体何人の、どんな女が爪を立てたんだろう。
女の子みたいに柔らかくもない身体は見た目よりもがっしりとしていて、この道行の不透明さにも、恋の曖昧さにも安心感を与えてくれるようだった。
「みんなに・・・誰かに、言います?俺たちのこと」
「わざわざ吹聴するほどのことではないが、まあ、そのうち、そういう機会でもあればな」
「隠さないんだ?」
「ご両親にもご挨拶に行かれない仲だ」
「いぃ、言うことないでしょ、そこは・・」
「知らないで済むならと思う人もいるだろう。でもこれから先一緒に生きていき、共に暮らし始めた後で他所から知らされるとなると、その衝撃も大きい」
「うぅん・・・」
「認めて欲しいと強要はしないから案ずるな。ただ自らの行為に恥じるところはない」
「・・っ、ぁ、ぅ、けど、さ」
「仲の良い友人だと誤魔化し続ける負い目を、君に背負わせたくない。告白した以上、こちらが罪を背負って生きていくだけの甲斐性は持っているつもりだ」
「ちょ、ちょっと飛びすぎですよ、おぉ、俺らまだ付き合って1か月もっ」
「大人の男のマナーだ」
「~~・・・っっ」
あの室井が男相手にこんな台詞を吐いたなんて、一体誰が信じるだろう。
「ちょっ、待って・・・くそ、何だよもう・・・・」
ようやく本当に室井が自分を好きなんだと実感した気がした。
教育的な悟りにまで発想を飛ばさなくても、誰もが抱く、恋愛というはしたなくも胸を痛ませる、あの感情を室井も青島に感じている。
一方的に好きになって諦める努力しかしてこなかったから、室井の気持ちが半信半疑なのは青島も同じである。
自分だけが惚れているわけじゃない。恋した強さも時期も違っても、室井も確かに青島にちゃんと恋をしているのだ。
独り善がりの恋ではなかった。
「・・・刑事なんですねぇ・・・」
「君に恋しても刑事でありたいから、モラルに反する行為にしたくないんだ」
真剣さと言うよりはどこかやっぱりズレている室井の感覚に、青島も開き直り、首筋に今度は軽く歯を立ててみる。
やはりびくともしない室井は、それでも青島のやりたいようにやらせてくれている。
もっと求められたい欲望はあれど、室井の広く豪胆な懐の居心地は悪くない。
調子に乗って歯を立てた場所を今度はぺろりと舐めてみる。
ほんの少しだけ室井の息が乱れたのが伝わった。
「よかった・・・」
「・・・なにがだ」
「室井さん、ちっとも俺に触れてこないから、俺、そんな気はないのかと思っちゃった」
「・・・・」
「あれ以来、キスもしてこないしさ」
ほっぺたにちゅっと音を立ててキスを落とすと、ようやく室井と目が合う。
「俺だけ悶々としてたのかなーって」
「君を無暗に怖がらせたくなくて遠慮していたんだ」
「オトコですけど」
「だからだ」
言葉短く告げた室井の真意に、敏い癖に変な所で鈍い青島の表情がようやく少し艶を帯びる。
「ふぅん・・?ガマン強いんだ」
「怯えさせたいわけじゃない」
緩やかに室井の指先が柔らかく青島の細髪を擽り、確かめるように青島を覗き込んできた。
「なにもしないの?」
室井がうっと詰まったのが喉を唸らせることで分かる。
面白そうに覗き込むと、室井の眉間に皺が寄った。
室井の手が柔らかく青島の後ろ髪を慈しみ、くしゃりと握り潰され、青島の胸が小さく軋む。
少しだけ細め、ただじっと潤んでいるような瞳で室井を見つめ続けた。
「しないなら、俺からしちゃうよ」
楽しそうに、嬉しそうに青島の瞳が愛くるしく室井へ愛を伝える。
顔を下から近づけ、ちゅっと男の口唇を盗んでやった。
すると、追いかけるように室井が青島の口唇にそっと口を押し当ててくる。
柔らかいキスはあの日以来の室井からのキスだ。
ふふっと笑いが堪えきれずに青島の口から吐息ような甘い息が室井を襲い、そのまま室井は感触を確かめるように口唇を押し付けた。
身に染み渡る触れ合いに、青島の顔に笑みが零れ、またキスを返す。
青島の緩んだ貌に、室井の目が微かに眇められた。
「君は一生言わないつもりだったのか」
「言えるわけないでしょ俺の立場で。・・・・って、何不貞腐れた顔になる?」
「君の気紛れにどれほどの気苦労があったか振り返っていた」
「室井さん、将来ハゲるよ」
「誰のせいだ、この酔っ払いが・・」
会話の間に柔らかく塞ぎ合う気怠いキスが心地好く、青島が瞼を伏せればそこにもキスを落とされる。
「あんた、酒、強すぎ・・・」
「勝負は俺の勝ちか」
「今回は譲ってあげます」
抱き合うでもなく、触れ合うのでもなく、ただ口唇だけを交わす甘ったるい接触が、室井の愛情そのもののように青島を包んでくる。
大人びていて、余裕があって、いざとなったら腹を据えられる貫禄があって。
成熟した大人の男とは、こんななのか。
さっきまで性に関して淡泊な室井をどう誘うか悩んでいたことも、もう笑い話だ。
いっそ、すべてが雲の上のような気がして、青島は指先で室井を確かめる。
「いっつも一人であんな量飲むんですか・・?」
「君がいるから少し進んだ」
「俺に酔ったとか言ってもいいのに」
「口では敵わないな・・・」
煩い口を塞ぐように室井が再び青島の口唇に重ね、下唇を軽く咬んだ。
ふふという吐息が青島から洩れ、それはまた甘く溶ける。
「あんたの殺し文句も悪くなかったよ」
「君がなかなか言ってくれないから、随分焦らされた」
室井が再び追いかけるように青島のふくよかな口唇を塞ぎ、甘ったるいキスは途切れない。
嬉しそうに青島から甘い吐息が部屋に溢れていく。
通りを過ぎる人の声、風の囁き、エアコンの唸り。今は他になにもない。
「君は少し優しすぎる。もっと我儘になってもいいんじゃないか」
「キャリアみたいに俺様演技で生きてけるほど下っ端の世界は甘くないんですよ」
髪を撫ぜられる心地好さにうっとりした顔で、青島は室井の顔の輪郭を指先で辿った。
瞳と同じ色で黒々とし撫で上げられた、堅めの短髪。理知的な額。深い皺の寄る眉間と筋の通った鼻から、薄い口唇。
「今からでも逃げる気か?」
「んな、もったいないこと・・・やっと落ちてくれたのに」
「だが、消えそうだ」
決して離そうとはしない頑固な男の腕はしっかりと青島の腰に回り、ホールドされている。
低く囁き合う吐息に眩暈を感じさせられながら、それでも室井のキスは穏やかに青島の頬から耳、こめかみへと続けられた。
「だぁから・・さ、そうじゃなくてさ」
「?」
察しの悪い室井のネクタイを粗雑に手繰り寄せ、今度は青島がその頬に小さなキスを落とす。
それを攫うように、室井が青島の口唇を追いかけ、また塞いでくれた。
「渋い顔しない」
青島の耳を玩弄する悪戯な室井の指を掴み、青島はそこにもちゅっとキスを落としてやる。
「将来いつかどこかでまた会えた時さ、俺こんなにやったぜ!・・って言い合えたら幸せだなーって言いたかったの!対等なライバルって感じでいいなーって
思ったんですよ」
「分からなくもない」
「なんかそれってトクベツじゃん?俺以外できないじゃん?恋にしたら台無しになるなって」
「なかったことに・・・したいか?」
「またそれ言う?意地悪いよ」
「意地悪くさせるのは誰だ」
んもぉ~と目尻を緩め、青島は目の前の室井の薄い口唇を小さく咬んだ。
「なかったことには・・・されたくないです」
「そうか」
「ま、傍にいるなら、それはそれで文句ないですけどね~」
へへっとご満悦に青島が目尻を染めてはにかむ。
その刹那、空気が動いた。
甘い吐息を漏らし青島がはにかんだその瞬間、室井が突然両手で青島を強引に引き寄せ、その口唇を乱暴に塞ぐ。
「・・んぅ・・っ」
子供をあやすかのような穏やかな愛撫に油断していた青島が目を丸くして口唇を奪われたまま室井を見る。
掴まれた二の腕に指先が食い込むほど力が込められていて、両方痛い。
温度どころか本音さえ見せなかった室井の瞳に雄の焔が揺れ、それは怒りに近い苛烈さを持って青島を貫いていた。
微かに室井が口付けを解き、確かめるように青島の瞳を覗き込む。
事情に追い付けず、本能的に青島が身を後退らせば、再び男の力で縫い留められ、室井がまた顔を傾けた。
何をしたいのかは理解できたが、一旦顎を引き、青島が室井を押しとどめる。
腕から抜け出そうとする青島を止めるべく、室井が名前を呼びかけた口唇を塞いできた。
「・・ん・・っ、・・・っ、」
室井は反射的に開きかけたそこに熱い舌を捩じ込み、酒の味の残る口腔を探ると、舌を暴こうと吸い上げてくる。
ぎゅっと目を閉じて青島は口唇を許しながら、室井の胸元をとんと押した。
あの夜以来の室井からのキスは嬉しいし、もっとしたいけど、何かが違う。
いきなりどうしたというのだろう。
さきほどまでの可愛いキスが嘘のようだ。
室井はすぐに解放してくれたが、その手は放そうとはせず、力で引き寄せたまま青島を拘束する。
お互いの唾液で光る口唇が至近距離で糸を引き、その瞳に、先程までは隠されていた雄の焔が宿っている瞳を、青島は驚愕のまま見入った。
「・・・ぁ、なに・・・」
「俺のものか、確かめていいか」
「はい・・?」
「どうやって君をその気にさせようか、苦悩していたところだった。君がそのまま俺に煽られてくれるのなら、こんな手っ取り早いことはない」
「ぇ」
怯えさせたくない理性と、喰らい尽くしたい本能がせめぎ合う室井が青島を捕え、先程までは冷たかった指先に今は熱が帯びる。
声音とは対照的に、柔らかく吸い付くようなキスを瞼を伏せて幾つか落とし、室井は掠れた声で呻いた。
「そんな風に、無防備に笑うな」
「は、ぃ?・・ぇ?」
「無防備にもほどがある。誰の前でもそんな顔を見せて、その都度俺がどんな気持ちでいるか考えたことなんかないだろう」
「ぇ、・・ぇぇ?」
掠めるように室井が口唇を短く押し当て、そっと離す。
「警戒心を解く前と後とではこうも変わるものなのか、想像以上だった。嬉しい反面、嫉妬で狂いそうだ」
まるで子供がおもちゃを強請るみたいに毒気なく懐く青島の態度に、室井はこの上ない多幸感と、むず痒いような取り留めなさに包まれていたことに
青島は気付くこともない。
苦渋に淪落する室井の眉間は険しく刻まれる。
「独り占めしたくなるような醜い執心など、君は知りもしないだろうが」
「んなことは・・・、ンッ」
室井の真意が未だ読み取れない青島は、後手になりながら喰らいついてくるキスを甘受する。
苛烈な熱を帯びる声音が語る白状に青島は緩く首を振るが、室井は青島をしっかりと拘束してから、今度はゆっくりとキスを落とした。
だがそれももう子供染みたリップキスではなく、ねっとりと絡み卑猥な動きを想起させる遊玩だった。
大人のビターなキスに、青島の肌がぞわりと栗立つ。
「気持ちに引き摺られ、独り善がりで強引な恋愛だと、おまえが疲れてしまうとも考えた」
「ん、んん・・っ、待っ」
言いながら、室井は何度もキスをする。
甘く、強く、深く、緩く、繰り返し重ねられ、青島はペースを掴めず息を途切れさせた。
「君が望むなら、健全で近しい友人のような関係をもう少し望んだって良かった。そのくらいの時間は待てると思えた」
「・・ぁ・・、・・んん・・っ」
触れるだけの甘ったるいキスが青島の身体全体を痺れさせていく。
酒のせいもあって、指先まで緩慢な動きとなった青島に、その抵抗は虚しく空を切り、緩く腕を振り身じろぐだけとなり、室井はたじろがない。
「一緒にいるだけで安心があると言ったのは嘘じゃない。でもそんな無邪気に傍で笑われて、懐かれて、俺の理性を試すようなことはやめてくれ」
「いみ、わから――」
柔らかく肉の弾力を愉しむように口唇を強く押し当てられ、室井は青島の言葉ごと封じた。
「だがもう限界だ」
もう一度甘く口唇を吸われ、青島は眉を顰め、息を殺した。
胸の奥がチリチリと痛み、息苦しく切なく、喘いでいる。
酸素が欲しくなり室井のワイシャツを掴んだが、それは室井を更に煽る仕草にしかならない。
「本当はもっとさっさとおまえをベッドに入れたくて堪らなかった。だが連れ込んだらこちらに大人でいられる自信がまるでない」
「っ」
先程、青島を怖がらせたくなくて遠慮していたという室井の言葉が蘇る。
室井がこんな下世話なことを口にすることがまず乖離していて、青島は困惑のままに零れた吐息を押し殺した。
本当にこのひと、俺に発情してんのかっ。
「きっと、触れたら歯止めなど」
「ぁ、俺・・っ」
「さっき無邪気に強請ったおまえの言葉に俺がどれほど震えたか分かるか」
「そんな顔ちっとも・・、んぅ・・、も・・っ」
吸い付かれるようなキスを繰り返され、青島は顔を横に反らせたが、室井は止めなかった。
両手で掴んだまま、頬から耳へとキスを続ける。
「・・ろぃ、さ・・っ」
「頼む。おまえをここに閉じ込めてしまいそうだ」
「室井さん・・もう、いい」
浮かされる言葉を遮るように、青島は呻いた声で堰き止めた。
まるで聞きたくないとでもいうようなその態度に、室井の飢餓感がより一層煽られたようだった。
「確かめたい。だから今夜は帰らないでくれ」
顎を持ち上げられ、固定されたまま、ついに深く強く塞がれる。
いままでの甘く子供みたいなキスとは異なり、独り善がりに奪ってくるようなキスでもなく、最初から濃密に求めてくる口接だった。
僅かな隙間をこじ開け捻じ込んでくる舌の熱さに思わず目を閉じる。
男の分厚い舌だ。
圧迫感すら伴い、青島の敏感な口腔を淫らに戯弄する。
口腔を隅々まで弄られ、奥へと逃げ込んだ舌を捕らえられると、ひとつ、強く吸い上げられた。
「ふ、・・・っ、・・っ、・・・ッ」
室井とは、まだこんなキスはしたことがなかった。
こういうキスをしてくる男だとも思っておらず、侮っていた自分を叱咤する。
煽った?俺が?
気持ちがお互い空回りしていて、好きなのに伝わらなくて、飢餓感だけが増殖して。
欲しいものはきっと同じなのだ。
媚びるような声が出て、気恥しさから身を縮こませるが、室井がそれを暴くように身体ごと捕え、更に奥深くまでを蹂躙した。
絶え間なく玩弄されていく口腔が、熱を孕み、青島の息が朱に染まれば
必然的に聴覚が色付いた音を捕らえてしまう。
気恥しさも疎かに、酸素の薄さと激しいキスで青島の目尻に薄く膜が張り、頑是なく首を振るが、それさえ室井は赦さない。
ねっとりと舌に絡みつかれ離れない軟体が男の肉の厚みと堅さを伝え、呼吸さえ阻害し、青島を狂おしく貪り続ける。
こんなキスされて、青島だって制御していた感情が煽られる。
眉間を切なく寄せ、青島は室井のキスに無意識に応えていた。
室井の頬に手を当て、首を傾け、自ら口を開いたせいでなまめかしく強請る。
密着した口端から透明の液体が溢れ出て、より激しくなった口接は、呼吸さえも奪い取っていく。
兇悪に甘いキスは、どれだけ室井が青島を欲し、どれだけ我慢していたかを伝えていた。
くたりと青島の身体から力が抜ける頃、青島の手が重たげに室井の首へと回された。
片手で室井はぐいっと青島の腰を引き寄せる。
無意識に、室井の後ろ髪を掻き混ぜた指も力なく、より激しさを増す口接は、途切れた息遣いと猥らな水音を残し、部屋の大気に熱を孕ませる。
好きだと、どんな言葉でも伝わらない気がした。
*:*:*:*
長いキスが解けた暁には、いつの間にか押し倒された形となり、天井を見上げる視界に室井の影が電灯を遮っていた。
獣のような光を走らせながら、それでもどこか遠慮がちに室井が青島を視界に捕らえ、室井を強請ろうとした手も捕えられ
絡めようとした足もも圧し掛かられ、捩じろうとした身体も体重で押さえ付けられた。
未だ名残惜しく口付けを降らせる室井は、そのまま青島の両手首を抑え込んでくる。
「・・・・、俺のこと、好きか」
「・・・」
先程までの危うい均衡が、完全に甘い恫喝の色に染まっていた。
室井の声色が変わっていた。もうキャリアでも官僚でもなくて、ただの一人の男として惚れたものを欲している姿だった。
一気に空気を爛れたものに変えられた。
室井が作り出す荘厳で絶大な気配に青島は目が反らせない。
何か不安にさせていたんだろうか。俺も。
何か、不安な気持ちが零れていたんだろうか。
喘がされた息を戻しつつ、青島が濡れた口唇を震わせる。
赤く色づくそれは、果実のように熱っていた。
「俺、ちゃんとOKしましたよ。そのイミ、分からない?」
「――」
「信じられない?」
「・・・・」
「ですよね。こっぴどく振ったし、だいぶ待たせちゃったし。けっこヒドイこと言ったし」
「気にしてない」
そういう室井の眉間は深い。
小さく笑い、青島は両手を縫い付けられたまま上目遣いで揶揄うように覗き込んだ。
「うそばっか」
「・・・・」
「俺がここに来てることで、分かりませんか」
「なら、今夜、帰らないでくれるか」
「―・・・」
それは、と答えようとして、青島はまた室井の意思を否定しようとしている答えしか持ちえないことに気が付いた。
抵抗なんかしないのに、そして抵抗させるつもりもないくせに、未だに押さえ付けているこの手首もそうだ。
「ずるい、聞き方」
「俺は元々そういう男だ。その覚悟がなきゃ、君を口説き落とすことなんか出来なかった」
「・・・・」
そうしてまた、そんなことないと青島に否定させる言葉を誘発する。
言葉を閉じることで抵抗し、青島の瞳が不条理と悔しさに艶めいた。
それを見越したかのように、室井が目を眇める。
青島は普段陽気で人当たりも良い気さくな男だが、こうして過度の義憤や負荷を与えることでより開花することを室井は知っている。
むしろ、そこを見てきたからこそ、室井は青島に魅せられた。
挑発すればするほど、青島の稀有で豊潤な魂が磨かれる。
挑発に乗れば乗るほど相手を、室井を雄として煽ることに気付いていない青島は、あっさりと艶めいた瞳を輝かせ
室井によって乱された前髪の奥から挑発的に口端を持ち上げた。
「俺から言わなきゃ、だめ・・・?」
「言わせたいんだ」
「そんな直球で、オンナに引かれませんでした?」
「君から、求められたい」
「・・・やっぱ、カゲキだ」
最初からだらしなく開いていたシャツの胸元は、今は倒れ込んだことにより際どく乱れ、そこから青島の内から発光するような艶肌が覗く。
こんがりと熟したようなそれは、毒を持って相手を酔わせるような危険な香りが潜んでいる。
ようやく室井から発せられた言葉は、呻きに近かった。
「焦らさないでくれ青島。いつまでもダラダラとケジメ一つ付けられない男ではいたくない」
「・・・まじめですね。たかがオトコの情事に」
「遊びだと言って欲しいのか?」
「あんたが遊びでこんなこと出来るオトコじゃないことぐらい、知ってますよ」
手首を抑えたまま、室井が体重を乗せ覆い被さってくる。
絡められた足が青島の脚を床に縫い付けたまま、身動きを封じるように官能的に絡められる。
密着する下半身と、その重みが、青島に室井に組み伏せられている事実を実感させた。
視線は外さず、人差し指だけ伸ばし、青島の左手に結ばれた銀色のリングを室井が磨くように辿る。
「初めてだ・・・こんなにどうしようもなくなるのも、抑制が効かなくなるのも、失うのが恐いのも」
「俺だって」
「失うくらいなら、遠くで大事にしていたいだなんて酔狂なことを思う。俺を忘れてくれていいとさえ思った。でも、もう無理だ」
「・・・・」
「めちゃめちゃにしてしまいそうだ」
室井を見上げる青島の瞳はひどく無垢で、ただ真っすぐに室井の言葉を受け止めた。
爛れた心を見透かすように、室井に求められているものが理解した躰が、無意識に小さく戦慄いた。
室井は抱かれたいのでも快楽を与えられたいのでもない、青島を抱きたいのだ。救済や解放を求めているのではなく、一心に青島を求めている。
漲り、行き場さえ失った感情の渦が、恫喝に近い飢餓で荒れ狂い、その解放を探して救いを青島に求めている。
じっとりと青島に注がれる室井の視線は室井の情欲そのものだ。
思えば昔から室井には、こういうねめつけられるような視線を感じていたことが微かに過ぎる。
大人しい顔をして、激しい恋に堕ちる男の眼だ。
まるで服の上から犯されているような羞恥に、じわりと青島の肌は熱を帯びた。
男に征服される未知に、それでもそれを求める唯一の男が室井である事実に、言い知れぬ震撼が青島を襲う。
「・・・怖いか」
「・・いえ」
「君を手放してやることも、忘れてやることも、もう、出来ないぞ」
「いいんですか・・俺なんかで」
「・・・、枯れたように見えると」
「そこじゃなくて」
「今日まで待ったんだ誰にも文句は言わせない」
室井の前で虚勢を張り、強がることがもうできなくなる。
あれだけ悩んだ。あれだけ待たせて、あれだけ泣いた。
返事をしたのは、そこの覚悟を持ったからだ。こっちだって半端な気持ちじゃなかった。
何もかも室井に見抜かれたあの時に、年貢の納め時だと思ったのだ。
与えられるものを持たぬ青島だからこそ、室井が求めるものには応えたい。身体を与えることさえも厭わないくらい、このひとが大切だ。
ゆるりと息を吐き、青島は瞼を伏せた。
目尻に残った僅かな滴が電灯を反射し、唾液に濡れた口唇と睫毛をきらめかせる。
もう一度視線を上げた青島の視線に、室井の頬が緊張したのが分かった。
「あんたがほしい、・・って、思ってる、・・よ」
掠れたような青島の声に、室井の瞳が揺れる。
そんな恋に最初に堕ちたのは自分の方だった。
この身がどれほどこの男を欲しているかは、誰より知っている。
欲しいと泣き叫び喚く心を宥めすかす方法も知らぬまま、一人の夜を幾つも越えてきた。
端から実らせるつもりのなかった恋心である。
どんな形であれ、青島にとっては付き合えただけで上出来だった。
待ち焦がれた願いが叶う奇跡に、震えるものはきっと俺だけじゃない。
至近距離でぶつかった眼差しが本当かと尋ねているような気がして、青島は少し首を傾けて室井のそれに口唇を重ねた。
彼が本気なのも、青島に気持ちを向けてくれている事も分かった今、惜しいものなど何もなかった。
「本気か」
「大体俺がいつからあんたに惚れてたと思ってんの」
「いつだ」
「あんたが自分の気持ちに気付くずっと前・・!あんたより俺の方が熟成されてんの・・っ」
その先のことは、今はまだ何も分からない。
俺たちの間で勝手に敷いたルールがそのまま世間に通用するとも通用させるつもりもない。
野放図のようにどでかくなっていくだけの底のない愛を、どこかで舵を取る杭のようなものが必要で、それが禁欲的な掟だというのなら従った。
でもそれが枷となって室井から自由を奪うというのなら、そんな戒律、俺が壊してやる。
その他にこの気持ちを全部室井へ伝える手段を、俺は知らない。
「一目会った時から・・とかまでは言いませんけど、俺だってあんたが染み付いて、もう、消せないです」
この身が欲しいならくれてやる。命だって人生だって与えてやる。元々全てを懸けて選んだ男だった。
その代わり。
「意味、分かっているな?」
「当然」
「・・・」
「好きに、しなよ。あんたの望むままに。その代わり、あんたの気持ち、俺が全部貰っていくから」
室井が上から喰らい付くように口唇を重ねた。
「んぅ、・・っ、・・ん、もっと・・っ」
指を絡めてくるから、それをしっかりと握り返した。
応えるように室井の指にも力が込められる。
舌の裏を丁寧に舐め上げてくる室井の舌の感触に、背筋がゾクリと慄き、脚まで力が抜けた。
まったりと絡みつく舌に、自ら明け渡して誘い込みを掛ければ、深く貪られていく。
「だからおまえは・・・。分かってない。すぐそんな気軽に俺を喜ばせる台詞を吐く。男を煽った分、保証はしないぞ」
「ふーん?そんなコト言ってだいじょーぶ?あんたこそ・・・オトコ相手で勃たなかったら一生笑うかんね?」
忙しなく口付けてくる男に、挑発的に口端を持ち上げてやる。
オトコの誘惑の仕方なんてのも知らない。でも室井を煽る方法なら、青島は知っている。後はもう真正面から突っ込むだけだ。
絡み合う視線が、二人を馴染みの温度で共鳴させていく。
こうするしかなかっただなんて刹那的なことは思わないけど、愛しくて愛しくて、切なくなる気持ちはあるもんだ。
「うんって言え」
漆黒の闇が見下ろせば、深い蒼色の瞳が組み伏された下からじっと見上げる。
迷いのない甘い誘惑に室井の身体が震えた。
「・・・言ってくれ」
「教えてくれるって、言ったじゃない。あれから俺、ずっと待ってるんだよ」
乱れたシャツの裏から薫る甘い熟れた肌、艶めくような瞳で誘う夜を灯す瞳が、室井に組み敷かれたまま、仄かに妖艶さを以って
室井への愛を全身で告げる。
ようやく青島の手首を解放した室井に、青島は腕を伸ばした。
覆い被さってきた男の身体を両手でしっかりと抱き留めた。
「はは・・っ、むろーいさんっ」
やっと落ちてきた男の腰に長い両脚も巻き付けて抱き締める。
これ、俺ンだ。
俺のモンで、いいんだよね。
室井から薫る匂いと体温にくらりとなりながら、青島はぎゅうっと目を閉じて噛み締めた。
幾千幾万もの奇跡を越えて巡り合えた相手に、燃え尽きない恋が運命さえ超えていく。
室井が青島の首筋に熱くキスを落とし、隙もなく、ネクタイに手を掛けられ、するりと引き抜かれる。
手際いいなぁ。
こんがりと媚びる艶肌を強く吸い上げながら髪を乱してくる男に、答えを、と問われ、青島は破顔した。
しょうがないよなぁもぉ。
敵わない。
思っていたのと大分違う恋だけど、思った以上に室井は真摯で誠実に青島を想ってくれている。
なら、満点だ。
「俺を!ぜーんぶ、あんたのものにしてくださいっ」
答えは、今までで一番激しいキスで返ってきた。
自分は言葉じゃないのかよ。
ずるいなぁと思う思考はあっという間に室井に消し去られ、夏の宵闇に淡く霞んだ。
窓の外には満天の星空と東京夜景が広がっていた。
七夕の夜から始まった一つの恋は、束の間の逢瀬に永遠を謳い、未来を誓い合う。
年一度、七月七日は恋に正直になっていい解禁日であり、永えの邂逅を約束されるエンゲージメントだ。

続きはぬるいエロがあるので苦手な人はエンディングへ