恋
煩い 6.5
14.
ひび割れた剥き出しのコンクリートと錆びた鉄柵は、築年数の高さを無言で伝えてくる箱型団地の特徴だ。
そして警視庁キャリアの独身寮でもある。
暗闇に紛れ、二つの影が人波が途切れたタイミングを見計らい、裏口へと回った。
非常階段を音を立てないように素早く登っていく。
建物を半分登ったところで山成の影の動きが止まった。
間を置かず、先に立つ影が一つ、指先を立て合図を送った。
待てとの合図に影が分離、物陰に紛れるままに影が一つ走る。
目当ての扉が一つ開けられた。
二つの影が息を合わせて潜り込む。
音もたてずに吸い込まれた後は、何事もなかったかのように街は静まり返った。
「ぷっ、はあぁ・・っ、おんもしろかった!」
馬鹿言うなと室井が青島の肩を拳で小突く。
呆れ顔の室井に対し、うししと含み笑いを零す青島は、尚楽しそうだ。
その蕩けそうな顔を、暗闇という条件に隠し、室井が物言わず瞠目し、気まずそうに反らされる。
刑事なだけに、二人とも逃走犯染みた動きは掌握していた。
恐らく誰にも気づかれず、証拠も残さず侵入できただろう。
無論発覚した所で何か咎められるものではなかった。ただ単にキャリアの部屋にノンキャリが訪ねてきただけのことである。
忍び込み方を教えて欲しいという青島の突飛な要求に、渋々室井が応じただけのことであった。
たったそれだけのことなのに、青島にかかれば世界は遊園地に変わる。
「なんかワルイコトしちゃった気分ですねっ」
「・・・したんだろ」
「まだ何も?」
失敬なと反論して、でも言葉を間違えた気がして青島が口を噤み、そのため中途半端に言葉尻が二人の間に落ちる。
その先のネタが咄嗟に思い浮かばず、変な間が伸びた。
扉が締まれば二人きりの空間だ。
妙な沈黙に、室井と青島は揃って顔を見合わせた。
こういう関係になってから初めての二人きりである。
途端、触れ合う肩に同時に意識が走り、二人の身体が狭い軒先で硬くなった。
「ぁ、すいませ・・・」
「いや・・・」
高層というほど上層階ではないが、妙に静まり返った音の無さが二人の緊張を煽った。
身長さのない恋人というのも初めてで、お互いの目線も口唇から零れる息遣いも、妙に近く肩幅の厚みが男同士である意味を感じさせる。
お互いの息遣いが耳障りとなって、心臓の音まで鼓膜を震わせた。
なんか照れ臭い。
室井がしまったというように視線を反らし、そのせいで行き場を失くした青島の視線が困ったように上に向かい
その場に二人は立ち尽くした。
二人きりにされたからって、いきなりがっつくのも違う気がした。そもそもそんなことをしていいのかどうか。
青島にとっては二律背反を与えられたような試練がそこにある。
室井と恋を始めたからといって、夢も約束も未来も置き去りにしたくはなかったし、大切な存在だからこそ、そこに幸せというものを残したい。
でも今は未だその方法も行き先も不透明なままなのだ。
室井がプラトニックを貫きたいというのなら、それも一つの恋の形な気がした。
どういう恋を紡いでいけばよいのか、それはまるで青い初恋に戸惑う思春期のようだ。
いい歳をして、リードも取れなくなるなんて、思いもしなかった。
始末におえなくて青島も口元を抑え、立ち竦む。
一つ、切り替えるかのように室井が詰めていた息を吐き、靴箆を取った。
ぴくっと跳ねた心臓を抑え、青島も暗闇に慣れてきた目を凝らせば、妙に近い距離が湿った体温を肌に感じさせる。
衣擦れの音に煽られる心がその鼓動を高めていく。
「あがってくれ」
スイッチが点けられ、そこから奥に伸びている廊下がぼんやりと黄土色に浮かんだ。
初めて視界に浮かび上がった部屋に、青島は息を詰めたまま鞄のショルダーを握り締めた。
黒の靴下のまま、室井が奥へと消えていく。
その後ろ姿はまるで違う男に見えた。
怖じ気づいたようなあの不安感が青島の足元に煙のように纏わりつく。
自分は一体ここへ何しに来たのか、一瞬にして理想は霧散した。
「今、エアコンを入れる」
室井の低い声が、開始のゴングのように聞こえた。
青島は緩く首を振り、一旦堅く目を閉じる。
上司の部屋へ招かれた経験は今迄にだってある。
それと同じだと、念仏のように頭で三回唱えて、先に向かう室井の背を追った。
案内された室井の部屋は、闇の中にあって、こじんまりと電灯に浮かぶ。
漆黒の瞳を模したような黒ばかりのモダンテイストに統一され、黒のカーテンが夜を纏うような、物の少ないシンプルな部屋だった。
まるで言葉も疎む主が乗り移った、部屋そのものが室井であるような気にさせられる。
言葉が憚られ、寂し気な感じがするそれを、まじまじと見ている青島の肩からショルダーバッグがずるりと落ちた。
不意に背後からしゅるりと衣擦れの音がして、顔を向ければ室井が肩からジャケットを落としたところだった。
脱ぎ捨て、近くのソファに無造作に掛けられる。
「・・っ」
その典麗な立ち姿に青島の視線が奪われた。
男がスーツを脱ぐ時に何かを感じ取ったことなんかなかったのに、今は目が外せない。否、直視できない。
ワイシャツに着られたような、サイズの合わないスーツを着ている男は多いが
想像通り、夏と言うのに三つ揃えの室井のスーツはオーダーメイドらしく
肩甲骨から腰のライン、そして臀部へと続く男性らしいそのボディラインに沿って仕立てられた一流品であることが青島の眼にも判った。
口元を抑えて顔を横に逸らす。チラリと盗み見れば、室井は脱ぎ捨てたジャケットをハンガーにかけている。
引き締まったウエストラインを強調するベストが、男らしさを青島に見せつけた。
布越しから想像させる肉厚の筋肉は一切の無駄がなく、程良く丁寧に鍛え抜かれていることを伝える。
役職上マッチョに仕上げる警察官は多いが、室井のそれは見映えを意識したスマートさがあった。
だからこそ、見る者を目で圧倒し、黙らせる。
それは、この先をきちんと見据えている男の努力だ。
肉体的条件だけではない、一貫性のある存在美は征服欲が潜む。
無害だが一筋縄ではいかな人物だと、相手を問答無用で支配させる毒を持つ。
どうして良いか、真っ白になった頭で立ち竦む青島に、室井の切れ長の視線がちらりと向けられた。
一気に呼吸が止まる。
こんなひとが俺なんかと付き合うの?
こんなひとと俺キスしちゃったの?
こんなひとに俺、オモチカエリされてんの?
あの夜以来、室井は一切青島に触れようとしない。
優しい大人の目をしながら、労うように髪を撫ぜるだけで、抱き締めることはおろか、キスの一つも仕掛けてこない。
それはどこか当然のことのような気がした。
自然と赤くなりそうな頬を根性で抑え、変な顔になっていく青島とは対照的に、室井は婉然とし、一歩、青島の方へ踏み出した。
ショルダーを握る青島の手に汗がジワリ滲むまま力が込められる。
が、きちんと折りたたみながら腕まくりをする室井の様子から、ようやく青島は室井が食事の支度に入ることを思い出した。
「適当に座っていろ」
「・・・手伝いましょうか?」
「大したものは作れない。皿を並べるくらいだ」
ぶっきらぼうに指示だけ残す室井に、逆に緊張を解される青島は、やっぱり室井さんだと思って、不貞腐れた顔で小さく頷いた。
「妙に素直だな?」
「う゛・・、そこそこの礼儀くらい、俺だって弁えてますよ」
そーだよ、メシだよ。色気じゃないよ食い気だよ。
一人煽られている自分が恥ずかしくなる。
ここへ帰る前、二人でスーパーに寄り、軽く食材を仕入れた。
酒はあるというから、軽く飲み直しながら夜を楽しもうと相談していた。
台所へ向かう室井と擦れ違いざま目が合い、室井の見透かすような黒々とした瞳に青島が反抗的な顔を向ける。
それに気にした風もなく軽く受け流し、室井は短く告げた。
「あんまり見てくれるな」
青島が丸っこい指を指すと、沈黙で応える室井に今度は青島の瞳が悪戯気に回る。
「なんで?俺の部屋よりずっとマシじゃん。すんごくキレイじゃん」
「男の部屋なんか皆同じだろう」
「圧倒的に物が少ないし、家具もないし、床に落ちてるものもない」
どんな部屋だと今度は室井が不思議そうに首を傾げ、その視線がそのまま遠くを思い描く様に宙を見た。
「キャリアはいつ異動になるか分からないからな・・・、極力持つなと教わった。実際引越しの度に面倒になる」
「ふぅん・・・」
でも寂しいなと思い、青島も揃ってもう一度部屋をぐるりと見渡した。
思い出も記憶も土地を離れる度に捨て、上書きにして、温かさも優しさもなく、ただ一点だけを目指し孤高に生きてきた男の生き様のように思えた。
ここにあるのは過去でも成果でもなく、現在だけなのだ。
同じ男である以上、そこにカッコイイと素直に感心する自分もいる。
しかし同時に、その削いだ人生岐路と青島への執着はまるで異なるもののように思え、恋だけが異質だった。
恋だけが融合していないようだった。
「キャリアってみんなこんな感じ?」
「だろ」
「俺たち下っ端の世界とは違いますねやっぱり」
「そう区別を付けるほどのことじゃない」
「・・・」
「・・今度、招待してくれるか」
「掃除した後でならね」
その時、室井の目尻が薄っすらと笑みに滲み、びっくりして青島が固まる。
そんな青島を置き去りに、室井はスタスタとスーパーの袋を抱え台所へと消えていった。
ずっるいなぁ・・・なんでそんなカオすんだろう。
なんであんな男が俺を選んだんだろう。
キスすらしないのは恋人じゃなくて、じゃこれはなんなんだろう。
良く分からないまま、詰めてきた息を吐き、青島はやるせなく汗ばんだ前髪を梳き上げた。
自分ばっかりが取り乱されている。
****
「これだ」
ドスンと重量感ある音を立てて青島の背後からテーブルに置かれたのは、秋田の文字がプリントされたラベルの一升瓶だった。
音からして、未開封か、ほぼ満杯に入っている。
「勝負、するんだろう?」
――ぇ、そっち?
一気に生気を削がれ、正座してテーブルに着いていた青島の顔が一気に崩壊する。
驚くままに見上げれば、そこにはもう片手に皿を持った室井が、どうだと自慢気な顔をして立っていた。
返す言葉もなく青島の開いた口がそのままマヌケ面を作る。
どっかズレてんだよなぁ、このひと。
確かに勝負とは言ったけど。でも本気で飲み比べする気だったとは。
そういえば室井には昔から子供みたいな意地を張るところがあった。
そんなムキになるところが、今となっては愛嬌にも思える。
男の恋愛事情について悶々と考え込んでいた自分が可笑しくなり、青島は一気に気が抜けて、後ろ手に腰を崩した。
「なんだその顔は」
「ぇ、だって・・・っ」
笑いながら、室井が青島の背後から鯛やマグロの刺身を丁寧に並べた皿をテーブルに置くのをじっと見あげる。
「な~ぁんだよもぉぉ」
「なんだとはなんだ」
「いいからいいから。んじゃ勝負してあげますから、早くそっち座ってっ」
「してやるとは言い草だな。後悔するなよ」
「介抱すんのも任せてください」
「そうか」
「だから、早く来て」
気が緩み、少し強請ってみれば、案の定室井は柔らかい目をして頷いてくれた。
警戒の解けた青島の顔もへにゃっと崩れる。
その青島の髪を上から柔らかく掴み、宥めるように絡めてから、残りのつまみを取りに室井はもう一度台所へと消えた。
室井が触った残り香が、頭部で熱を持つ。
男の手で乱された後頭部で、くしゃくしゃと自分の髪の毛を整え治す青島の頬は、少し赤い。
「ビールも付けるか?」
「はい、どーもっ」
半ば、やけくそだ。
*****
缶ビールを一本だけ空けた後は、室井ご推薦の酒が二人の間を陣取った。
「室井さんてさぁ・・、なぁーんかヨユーですよねぇ」
「何がだ」
「俺といて、緊張とかはしない?」
もごもごと口籠りながら、青島が肘を付いてグラスを傾ける。
電灯を映す透明の液体はキラキラと濁りなく美しい香りを放ち、部屋を微睡ませ、肌を包む。
「今更どう緊張する」
「だからさぁ、その、す、好きなひとが目の前にいるのにっていう・・・」
言いかけ、自分でも恥ずかしくなった青島の眉がへの字に曲がる。
グラスを戻し、胡坐を掻いた足首を掴んで明後日の方角を見た。
たまたま反らした窓には白いカーテンが閉められ、窓の外は覗けない。
「二人きりだぜ?もっと、こう、どぎまぎしたり、何話そうかとか・・・ぁ、元々話さないねあんた・・・」
「・・・」
「今更ってかんじ、ですかね?キンチョー、してもしょうがないか」
「確かにそういう意味では緊張はしていない。だが、冷静とは言い難いな」
どうだか、と零す青島に、室井は静かに酒を舐めるだけだ。
グラスを持つ室井の指先は細く長い。
ベストは脱がず、丁寧に撫でつけられた髪もそのまま、ワイシャツの一番上だけ一つ外した姿が青島に向き合い、青島を招いて、青島に同じ時間を共有してくれる。
それが不可思議で中途半端な、現実を忘れきれない印象を青島に残す。
アルコールの混じる吐息を落とせば、グラスの中の透明な液体が不自然にさざめいた。
夏前の特有の湿度は日本固有の季節感があって、晴れた日でもじっとりとした重さを持つ大気は、まるで心まで沁み込むようだった。
酒の芳香が混ざる室内に、酔わされているのは酒なのか目の前の男なのか、青島には判別すら分からなくなる。
ただきっと、真昼とは違うが隅々まで照らす蛍光灯の灯りの下では、恐らく室井には何もかも明け透けに曝け出されてしまっている。
言うだけあって、確かに室井の方が酒は強そうだった。
潰れてはいけないとセーブする青島の横で、自宅だからなのか、いつもより僅かばかりリラックスしたムードを持つ室井が
また一杯、静かに酒を注ぐ。
仄かに頬が火照りだし、こんがりとした肌が艶めかしく光る青島の襟元は、既に釦三つほど緩められている。
潤んだ瞳で室井が注ぐ長い指先をじっと見つめながら、青島もゆっくりと舐めた。
小さく室井の視線が青島を捕らえる。
「君は」
「室井さんって、女の人の前でもそんな感じ?」
タイミングを見計らったように言葉をかぶせ、指を指し青島が言い当てたとばかりに、ニヤリと口端を持ち上げる。
「・・誰もが君みたいに口達者でいられるわけではない」
はぐらかされたことに気付いているのかいないのか、室井もまた動じず一度眉を上げただけだった。
挑発とも駆け引きとも満たない言葉遊びは、引き金を持たない二人の間の密度を昂らせ、それは逆に青島を追い詰める。
昔からこうして室井の真意は掴み取れないままだ。恋も情熱も、秘めた裡に隠され誰にも晒さない。
そのまま長い時間、与えられた距離を望んだ距離に置き換えて、歩いてきた。
だから誤解も苛立ちも、みんな青島の中だけで消化不良を起こす。
それでも信じられるのは、多分、その眼のせいなんだろう。
ゆっくりと残りの酒を流し込む。
洗練された口当たりも良く、甘さも控えめな日本酒は、室井みたいな素っ気なさの裏で、強烈な喉越しがある。
後からクるやつだ。
気付かないうちに酔わされて、いつの間にか囚われている。
恐らく恋は、先に惚れた方が負けなのだ。
俯き、東洋の模様が入ったラグを指先で弄りながら、青島は意を決して口を開いた。
「あのぅ、ですね、俺、ひとつ、聞きたいこと・・・・・・・・・ある」
言い切って、グラスをテーブルに戻せば、コトンという音がやけに大きく響いた。
「いい?」
「言ってみろ」
「俺と付き合おうって思ったのって、・・・どうしてですか?俺がそうさせちゃった?」
「そうさせたとは?」
「だってほら、あんた、俺の気持ちが分かっちゃったって言ったじゃんか。だったらさ、もし俺がそうじゃなかったら、或いは上手く隠し通せていたら、あんた
は」
重い、溜息のような息が室井の薄い口唇から洩れる。
それが責められているかのように青島の肩に圧し掛かり、視線を上げさせることを恐れさせた。
「俺が、好きになっちゃったから、あんたは俺の気持ちに応えてくれることにして、そして」
「だったら?」
「ワルイことした」
「――」
「同情っていうのかもしんない。あんたは自分が勘違いしてないって言いきれんの?」
室井はただ黙って目の前で酒を舐めていた。
言葉を挟まない沈黙は、青島の声だけを浮き彫りにし、閑静な夜に取り残される。
ついつい自分の言葉に傷ついて、やっぱり言うんじゃなかったと思いながら、青島は内心舌打ちをした。
走り出した心を止めることは恋を覚悟する前なら簡単でも、今はしんどい。
知らないでいる方が幸せなことくらい、幾らでもある。
これまでの長い営業経験から、楽しい酒の席を演出することくらい、青島にだってできた。
でもそれは、室井には違うと何となく思った。
恐らくそれは室井にはもう見抜かれているからこその足掻きだとどこかで納得しているのかもしれない。
その感性に従い、ここまでテレビもラジオも点けず、静かな酒を向き合って、時折会話を重ねた。
でも、こんな気持ちになるのなら、派手な席にしておけばよかったかなと、青島は後悔する。
それこそ、勝負だと言った室井の挑発に乗ってしまったかのような演出をするのだって、可能だったのに。
長い沈黙を作る室井は、困っているのか怒っているのかも判然とさせなかった。
エアコンの空調がまた一つ唸りを上げる。
ただでさえ沈黙の多い男を更に黙らせちゃう俺ってスゴイ?
室井はグラスを口に運ぶこともせず、じっと一点を見据えていた。
他人に感情を読み取らせない技術は流石キャリアだわと、青島も口を引き結び、ゴムのたるんだ靴下を引き上げた。
今はそれが、しんどい。
「・・・ごめん、ルール違反でしたね。忘れて」
すると、頭の向こう側で大きな溜息が零れた。
「そんなの、時間の問題だ」
「ぇ?」
「君はそうやっていつも先に一人で結論を出す」
「だって」
「どうして突然そんなことを聞いた」
「・・・どうしてって・・・」
「始まりなんか関係ない。名前は付けられなくても君への執着は周囲の知るところだ。いずれ君を――、君への気持ちを殺しきれなくなっていただろう」
「どうかな・・・」
「どれほど長患いしてきたと思っている」
ゆっくりと、青島が視線だけを持ち上げた。
汗で畝る前髪の奥から、室井の真意を探るように色素の薄い瞳が瞬きをする。
視線を合わせてはこない室井に、戸惑いと仄かな恐怖が入り混じった。
「勿論君に身勝手に気持ちを押し付ける真似はしたくなかった。だから俺にとっては好都合だっただけだ」
端的に結論だけを室井は口にした。
恐らく室井は青島の緊張や不安を感じ取り、余計な邪念を削いだ上で、茶化したつもりでそう言ったのだろう。
その気遣いが分かるから、青島の口端が情けなく歪む。
そうは言ってくれても、きっと、室井は青島が気付かせた気持ちに従順に生きることは、選ばなかったと青島は思う。
当初室井は、恋だとも気付かなかったと言っていた。
気付かずに済ませてやれれば、室井は道を間違えることはなかった。
感情に先走り、殺しきれなくなるなんて、室井にあるだろうか。
青島の気持ちを知ったから、情けを懸けてくれたと考えた方が余程自然だ。
その重荷や責任を青島に感じさせないために、室井は自分が背負う方法を選択した。
それは、青島の左手に光るものが、物語る。
視線を落とし、指先に光る硬いものを、青島はそっと指でなぞった。
「俺・・・・分かりやすかったですか?」
「昔はな、君の気紛れに、結構これでも騙された」
「そ?」
「でも、広島から戻って来た時、久しぶりに君を見かけて、・・・色々と違和感に気付いた」
「違和感」
「もしかして、と思い至るまでにそう時間はかからなかったな。だから罠を張ろうと思った」
「カゲキだなぁ」
「言うな、これでも恋は二十代以来だ。慎重にもなる」
「そしたら」
「あまりに予想通りで笑ってしまった」
「そんなに?!」
「こちらの計画にかかった時、違和感は確信に変わった。そこからは君の知っている通りだ」
堂々と言って退ける室井から感じ取れるのは、この決断に後悔がないということだ。
気負いもない態度から、この恋に負い目も感じていないのかもしれない。
いいの?と不安そうに青島の瞳が揺らぐ。
「あんた、それでどんだけのもん、なくしたとか――」
首を竦め、室井が素っ気なく話を終える。
得るものの方が多いと言っている気がするのは、流石に都合よすぎだろうか。
この先キャリアとして戦っていくからには、それはどうしても邪魔なものの筈だった。
どんな綺麗ごとで言い訳をしても、そこだけは変えられない。
けれど、室井は戦いたいと言った。
戦うことを奪わないでくれと言う言葉の裏には、この恋を奪わないでくれという室井の願いが透けている。
室井が室井であるためにこの恋が必要であることを告げていた。
むしろ、その願いが青島を決断させた。
最終的に青島が折れたのは、何だか面倒になってきたのと、そこまで熱心に伺いを立てる男に別の興味が湧いたことだ。
そこまで言うならやってみろと、懸けてもいい気がした。
それも計算の内だったというのなら、やっぱり室井の粘り勝ちなのかもしれない。
営業で粘り負けたことなんかなかったのに。
必死な室井は悪くなかった。
恥晒しも一緒なら悪くないと思えた。
「やっぱり、失敗したな」
室井の片眉が上がる。
「誤算でしたよ、色々とね」
「君は嘘が下手だ」
「・・・あんたは上手?」
「口下手であることと、嘘を吐くことは別物だ」
「覚えときます」
室井が黙って一升瓶を差し出した。
小さく会釈して、青島はグラスを出す。
「いつか俺が勝ちますからねっ」
「・・・・・・楽しみにしてる」
「してないでしょ、その顔は。信じてないって丸わかり」
室井の言う腐れ縁と云う言葉の持つ意味は、永遠に繋がる絆ということだった。
ただひとつ確信していた事は、それを許せばきっと全てが変わってしまう。
それでも俺たちは、先に進むんだ。
いいのかと迷う時も持たず、どうしようもない情動に突き動かされて、烔々とした執着に囚われた意識が見る幻が
お互いがお互いに必要だったという儚い錯誤だけの茨の道になると知りつつ。
「お互い物好きなハナシですよね~。世の中オンナノコはいっぱいいるのにさ」
「なかったことにしたいか?」
「・・・、意地悪いのはキャリアだから?それとも素?」
「さぁな」
軽口に付き合ってくれる室井は、動じることもなく、表情筋は硬いまま瀟洒な手つきで酒を運ぶ。
感じる敗北感は何度目だろう。
「・・・いいの?」
「君こそ」
「あっそ」
「君が俺に勝つには10年早い」
「そーでもないですよきっと」
「?」
「要は俺の魅力にめろめろになっちゃったんでしょ」
「・・・言ってろ」
吐き捨て横を向いて酒を舐める室井は少しだけワイルドで、口数が少なくてもこの時間に満足していることを青島に伝えた。
口じゃ勝てなくても、口では負けたくない。
意味のない意地っ張りは、結果が大事なんじゃない。室井だからこそ湧き出る瑞々しい感性だ。
どうせもう捕まっているのだ。
底がない愛を持て余して、窒息するだけの未来は頼りなく救う指先から零れていくだけの揺蕩う水のようなものだとしても
そこだけは確実で、変えようのない事実だった。
頬杖を付き、顎を上げて青島は目の前の男をしげしげと観察する。
ふと思い出したようにテーブルの下を探る室井に、この時間の尊さを噛み締めた。
室井が何故決断できたかなんて、青島の考えることじゃないし、言われて理解できるものでもないのだろう。
世の中不思議なことなんて、山ほどあるものだ。
こうして二人きりで過ごす時間も、二人の意思がそこにあることも、一生有り得ない筈の未来だったのに
その未来で鮮やかに誘惑し、甘やかな余韻に狂わせる。
青島の視線に気付いていないとも思えない室井は、冷蔵庫から持ち出してきたタッパを開封するのに苦戦する。
なんかフツーのオトコなんだよな。
程なくして開封に成功したそれを、室井はそっとテーブルに添えた。
箸で取り分けてくれる心遣いも、マニュアル本にでも乗っていそうな礼法で、何だか不思議だ。
本店の中では組織の異物として気位の高い氷のような心を持つのに、今取り分けているのはサトイモだ。
「なんですかそれ?」
「里芋だ」
「・・・・」
見りゃ分かるよ。
やっぱりどこか外してくる室井には、もしかしたら一般常識という巷の認識は通じないものなのかもしれないと青島は確信する。
丁寧な箸使いは室井の育ちの良さと高貴な素質を見せ、人参、牛蒡なども高級食材に変化させる。
そっと差し出されたそれに、青島はスラックスで手の平を拭いて、正座をし直してから、両手で受け取った。
ペコリと頭を下げ、上目遣いで伺えば、室井にも畏まった空気が映り、その眉間に皺が寄る。
「君にそう出られると調子が狂う」
「こっちだって」
不器用な顔がふたつ向き合って、お互いのせいにして、語尾が掠れて不鮮明になる初々しさに気付かぬふりをする。
中年期に入ってから始めた恋は、やっぱりどこか初心で、やりずらいし甘酸っぱい。
言葉の意味するところに思い至ったのか、室井が瞼を伏せ口端を滲ませた。
「あ。またそのカオだ」
「それ、口に合うといいんだが」
「誤魔化しましたね」
「誤魔化して欲しいんだろう?」
「ずるい」
「俺は君に合わせているだけだ」
「そう来るの?んじゃ愛でも囁きましょーか~?」
「やれるのか」
「できますよ。俺はね」
自慢気に顎を反らす青島に、口説き文句など早々持たない室井は閉口する。
「やったねっ、俺の勝ちっ」
「君の気分屋に、かつての女の気苦労が見える」
無邪気な青島の愛はそれだけで室井を救う手立てになっているが、今はまだそれに気付かぬ青島は
ただ呪縛されたように自分を時折見つめる室井に、揺るぎない愛の欠片を捜すしかない。
でも、恋愛事情など最初はどこもそんなものである。
青島の瞳が電灯を映して幾重にも光った。
「もしあんたがクビになって無一文になっても俺が養ってあげますから」
「ばか、趣味なし友なし仕事人間の官僚の預貯金を舐めるな」
「うぎゃっ」
倖せとはなんだろう。
一律に定められた基準があるわけじゃない。こうせねばならぬルールがあるわけでもない。
俺たちは俺たちの幸せを捜していかなきゃならないんだ。
見つけられる保証もないまま。
「無益な交友関係を好まないことの何が悪い」
「モノは言い様」
「それより君の好みは大体把握したつもりだが・・、食ってみてくれ。これはどうだろうか」
「いつ」
「共に飯を食えばお互いの通など分かるだろう」
「そんな回数こなしましたっけ?」
「数回で充分だ」
「えぇえぇぇ~?」
ぱくりと青島が里芋を口に放り込む。
「うっまッッ!市販の味じゃないっぽい!」
「まあな」
「まさか室井さんの手作りとかいう?」
「手作りと自慢できるほど手は込んでない」
そうはいっても、出汁の味から煮具合まで、長年の経験が伝えるバランスがそこにはあった。
独り暮らし歴が長く、安月給の男としては、カップラーメンと定食屋が馴染みだ。
そんな男にとって煮物は縁遠くなったメニューの一つだ。
感心しながら、もう一つ青島が里芋を口に放り込んだ。
もぐもぐと咀嚼するその頬が幸せそうに桃色に染まる。
「今度俺が一から仕込んでやる」
「マジっすか」
「共働きの原則だ。家事は分担になるからな」
「うぐっ」
共働きって・・・、ってか、そうか、夫婦なつもりなわけ?その前に、一緒に暮らすつもりなのか?
思わず喉に詰まらせそうになった里芋をごくんと飲み干すと、青島は酒まで煽った。
手前では、青島の動揺すら受け流す室井が自分の分を皿に飄々と取り分ける。
「ちょ、ちょっと待ってください。・・ぇ、なに、俺、ここ住むの?」
「いずれ、官舎は出る」
「・・いいの?」
「君こそ、いいのか。本当に」
先程と同じセリフだが、少しだけ硬くなった室井の口調に、青島の返事にも真剣味が走った。
雑談の流れとは言え、タイミングも計らず告げられた要求がどれほど重たいものかはその空気が伝え
正確に伝わったことを室井もまた感じ取っていることは、一度だけ向けられた目で理解させられた。
青島の口許がきゅっと一文字に結ばれる。
恋愛ごっこではなく、本気で室井は青島を伴侶として人生を送るつもりなのだ。
この決断は単なる両想いの確認ではなく、そこまで室井にさせてしまうことなのだ。
リアルな現実となって襲い掛かる重大さに、青島の喉がごくりとなり、次の言葉を失わせる。
「ゆっくり考えろ」
そう言って、室井はタッパを閉じると、空いた皿も幾つか持って腰を上げた。
手放す気はないが、考える時間はくれるらしい。
かっこいいなぁ・・・
キッチンへと下がった男の端正な後ろ姿に青島は詰めていた息を吐いた。
どうしよう、あれが俺の恋人?
いいの、それ?
室井ならもっと良家の淑女とか選べるんだぜ?
これから、俺、ここで、あのひとと暮らすのか?一緒に朝を迎えて一日を始めて、それから?
ってか、恋人ってなにすんの?
一気に酔いが回った気がして、青島の顔が赤らんだ。
一つ屋根の下に何があるのか。今までそんなことまで、考えたことはなかった。
訂正。ヤらしいことなら、考えた。けどそれは、恋人ごっこの範疇であって、夫婦のレベルの話じゃない。
でも室井はもうそこまで日常のひとつとして想定内としている。
感じる温度差は、やっぱり確かにそこに存在していて、恋心の輪郭さえ曖昧に見せてくる。
未来が読めない相手を恋人と呼べるかどうかは、青島にとっては確かに疑問だった。
それでも、嬉しいか嫌だったか、問われれば今感じる答えは。
「青島、チェイサーでもどうかと思ったんだが。そろそろ日本酒だけでは飽きるだろう」
室井が氷を幾つか浮かべたミネラルウォーターを持ってきて、青島の背後から手を伸ばしてテーブルに置く。
近づいてきた体温に青島はそっと顔を上げ、その耳元に口を寄せた。
「ありがとございますっ、ダーリン」
ピキッと空気に電気が走ったのが分かった。
確かめるような危うい瞳で青島が至近距離で視線を向ける。
そして、可笑しくて内心含み笑いを殺しながら、青島は表情を変えず室井を覗き込む。
艶めいた青島の透明な瞳に、室井の目が冗談と本気の狭間で揺らめいた。
と、同時に青島の口端が軽く持ち上がり、室井の眉間に皺が寄る。
「ぷ・・っ、はは・・っ」
照れているのか困っているのか、複雑な表情をさせられたことに満足して、呑気な笑いが青島の口から零れれば
室井は溜息を落として青島の頭を軽く小突いた。
「大人を揶揄うな」
室井がまた青島の髪を上からくしゃりと握り潰し、キッチンへと戻ろうとする。
離れ、消えるその腕を青島はもう遠慮せずにひしっと掴んだ。
「待ってっっ」
「青島?」
「いちゃいちゃしたい」
室井の顔が軽く強張ったのを黙殺し、青島が早口になる。
「そーゆーつもりはなかった?でも俺、そんなに我慢強いオトコじゃないです」
一気に言い切って、中腰となった態勢で引き留めた青島は、そのままその手を放さなかった。
少し震えている気がするが、それも気のせいということにしてほしい。
恋がホンモノだというのなら、室井の中で逸れたようなそれを見せてほしい。本当だって信じさせて欲しい。
室井の中に重なっていない恋を、印したい。
少なくとも今夜は。
エアコンの風調が変わり、青島の髪をふわりと揺らした。
澄ましたままの室井が悔しい。せめぎ合う焦燥に答えは独りじゃ出せない。
有無を言わさぬ強引さで留めるだけで、曖昧なリアルを見せられて、俺ばっかりどぎまぎしてるだけで。
底のない愛しさに囚われて、恋を始めさせたのは室井だって同罪なんだ。
醜いと秘めた心は室井の温度と交じって色付き、今青島の中で確かに輝きだし、合わせそれは青島の面差しを妖なものにする。
暫し青島の顔を見下ろして何やら難しく険しい顔をする室井に、心臓を跳ねさせながら、青島もじっと答えを待つ。
どきどきしていた。
心臓が喉から飛び出しそうだった。
でも、もう止まれない。
もう行かないでほしかった。
俺は、もう置いていかれたくはないんだ。
室井が音もなく身を屈めた。
ドキッとした時には室井に耳元で囁かれる。
「――待ってろ」
見上げ、至近距離で高雅に光る瞳に自分が映り込んでいた。
腰が砕け、へたり込んだ青島は、室井が消えた後も、呆然と見上げたままだった。
~~っっ!!!!やっべー!やっべーッ!めっちゃ男前!!
低いバリトンがまだ耳に残る。
両手は小刻みに震え、ぞわりとした吐息の感触が青島の艶肌を栗立たせ、締め付けられた心臓がまだ早鐘を打っていた。
