公文書Code3-2-8 4










10.
生活が一変した。
仕事もない。友人もいない。
何でこんな生活をしないといけないのかと嘆くたび、それが室井自身を切り刻む。
狭い一室で一日中ダラダラ時間を過ごしていると突然、自分がズブズブと床の下に沈んでいく恐ろしい感覚にとらわれた。

老眼鏡を外し、室井は眉間に手を充てた。
長時間パソコンに向き合っていて、かなり疲れが出ている。

捜査本部の肩書は室井のままだった。
正月が明けてもそれは変わらなかった。
完全に仕事を失っているわけではない。だが出席はせず、こうして報告を受けた後に指示だけを伝えるのが、今の室井の唯一の役目だった。
肌で現場を感じない捜査方針は、室井の中に疎外感というより違和感を生み出していく。
事件が起きているのは現場だと言ったのは、はて、誰だったか。
虚しさを補うように、室井は過去のデータサンプルを集めては、ノートパソコンに打ち込んでいた。

少し休憩を入れようと、腰を上げた時、解錠の音がして横で玄関が開いた。

どさどさどさ。

「よっ、しょっと!おっも!指!指が痺れた・・!」
「大量の荷物だな」

スーパーのレジ袋に食材が溢れんばかりに詰め込まれている。
合計何袋あるのか。
ネギだの大根だのがはみ出し、かぼちゃが室井の足元まで転がって来た。

「それ、そこに置いといて・・・、あ~疲れた」
「買い出しか」
「二人分ですからね。買う日も限られてっし、特売の日も限られてっし」
「今日が特売なのか」
「えぇえぇ、庶民のスーパーなんか利用しない人はチラシなんかも見ませんもんね」
「チラシか・・」

呟き、室井はパソコンの前に戻っていく。
その様子を青島が目で追った。

「室井さん、お仕事?今何かしようとしていたんじゃないの?」
「少し休憩しようと思っただけだ。もう少しかかる」
「じゃあ何か温かいものでも淹れましょうか」
「・・・そうだな」

もう意識を変えた室井は生返事で済ました。
了解と室井には聞かせるつもりもないのであろう小さな呟きが零れ、青島がコートをその場に放り投げる。
やかんを火にかける音、カップを用意する音。やがて、湯が沸く音に続き
ティポッドとカップが持ち出され、室井の前に並べられた。

「ん?」

室井の顔色を窺った青島が目敏く小首を傾げた。

「あれ?嫌だった?珈琲ばかりじゃ飽きちゃうでしょ?」
「・・・」
「こう、ね、右京さんみたいに上から淹れてくださいね」
「ウキョーさん?」
「知らないかぁ・・・」

確かに今日もこうして珈琲ばかりを何杯飲んだことだろう。
煮詰まるたび、珈琲で気分を入れ替えた。
帰宅したばかりの青島が、何故それを言い当てたのか、室井の腹に決まりの悪さを残した。

「そんなに豆の減りが早かったか・・?」

口の中でぼんやりと呟く室井の独り言は、お茶菓子なかったかなと流しの下を漁る青島の背中には届かない。
二人暮らしの生活に、室井が手を出すことはなかった。
室井はパソコン画面から目を反らすことなく、データを打ち込んでいく。

「何か気付いたことでもありましたか?」

先程、チラシというワードに室井が反応したことを、青島は見過ごさなかったのだろう。
この辺の勘の良さは、室井を甚く満足させていた。
所轄に話したってしょうがない。くだらない。
でも今は、彼になら探ってみたくなる。
何かとんでもない解答を持っているのではないかと、試してみたくなる。
隙がなく、官僚にも物怖じせず、多趣味の青島は、室井にとって異次元の世界を持っていた。
単なる興味だ。

青島が腕時計で時間を見計らい、ティポッドから紅茶を注ぐ。
ダージリンの華やかな香りが湯気に乗る。
気分を変えたいと言った室井の主張を反映しているのだということは、室井の五感が享受した。
多くの言葉で室井の仕事を遮らず、青島が黙ってソーサーを差し出す。
勿論、一人分だ。

二人分淹れてこないのは、飲みたくないのではなく一緒には飲まないという青島の意思表示である。
尤も傍に座られて仕事の邪魔をされても室井は迷惑だった。

「随分とコレに興味があるようだな。情報か。それとも私を陥れる罠か?」
「朝からずっとにらめっこでしょ?」

馬鹿にするわけでもない青島の反応に、室井はひっそりとその顔を観察する。
今どき、いっそ純潔なだけの方が、訝しい。

「捜査情報は盗めないぞ。残念だったな。このパソコンはパスワード制だ」
「そう来たか」

予想外に、まるで悪巧みの共犯者であるかのような瞳に、室井はしばし目を奪われた。
歳より幼い人懐こい顔が、室井の憶測を越え、ゾクリをさせる。
夕飯にしなくちゃねと話題を切り替え、腰を上げた青島の見映えの良い背中を何となく追った。
なんでこんなにスタイルが良いのに、あんなボロボロのコートを愛用しているのだろう。
今夜は酒の匂いがした。

「君、恋人とか、妻は?」
「・・・」

コートを掛けていた青島の手から、それがぱさりと落ちた。
弾けた空気に、室井こそたじろいでしまう。
こちらを振り向き、余りに絶句した青島に、室井も口を閉ざし、何となく見つめ合ってしまった。

「どして」
「左の薬指。指輪痕がある。日焼けが消えるのに約2ヶ月、使用痕なら半年。長いものだと1年やそこらでは元に戻らない」
「すっげ」
「刑事だろう?そこの引き出しに指輪が転がっていた」
「ああ・・・」

ぼんやり呟く様子に、室井は若干の違和感を覚えた。

「聞かれたくないことだったようだな」

言葉を咀嚼するように、青島は何度か口を開きかけ、閉じては髪を掻き混ぜ、最後にその指輪の仕舞ってある引き出しに、目を止めた。
何とも遠く透けるような目に、こんな顔もするのかと室井は驚く。

「いた・・・・・・んですけどね」

くしゃりと無理に笑む様子は、見る者の心を苦しめた。
何だろう。
何となく聞いただけなのに、室井はその質問の仕舞い処を失う。
妙な沈黙に、耳鳴りがした。

「別れたのか?」
「まあ、そんなとこ」

言葉尻を濁し、頷きながら肯定する様子は、かつて室井も愛しい女を海で失ったことを重ねた。
人は、生きていれば誰でも辛い経験を重ねていく。
こんな軽そうな男でも、モテそうであるからこそ、豊富な恋愛経験が酸いも甘いも描いただろう。

「事情を詮索するつもりはなかった。踏み入ったこと聞き出したかったわけじゃない」
「いえ」
「一人暮らしにしては食器が揃っていること、ペアのバスタオルもそうだ。もしかしたら今回の件で別居させているのではと思ってな」
「家宅捜索したんですね」
「不審な家にいきなり放り込まれたんだ、当然だ。それに、盗聴器なども調べる必要がある」
「ありました?」
「――いや。何もなかった」

でしょう?と何故か得意気な顔をする青島の、少し解れた空気に室井はホッとする。
信頼しろと、全身が訴える生意気な姿に、こんな慕われ方は初めてだなと思った。
初めて会った時の一倉の眼差しが室井の脳裏を掠めた。

「未練を残した男の意地か?」

落ちたコートをハンガーにかける背中に、室井は問いかける。
多少揶揄した表現だったが、彼なら茶化していることくらい察せると思った。
このくらいの意趣返しはキャリアでは当たり前のことであり、頭脳ゲームだ。
だが、思ったより悲しそうな横顔に、室井は首を捻る。

「忘れてただけ」
「どんな相手だったんだ?」

昨日今日知り合った男のハートを射止める相手になど、興味はない。
ないが、思わず室井の口から零れていた。
背中を向けたまま立ち止まった青島が作った、奇妙な間が、妙に居たたまれなくさせ、長かった。

「サイテーなひと、ですよ」

一言だけ、返って来た。青島が振り返ることは一度もなかった。
細身の背中だけ見つめ、台所に消えていく後ろ姿を見送る。
襟足が跳ねているなと、妙に的外れなことを室井の脳は認識していた。

「ありがとう」

かなりびっくりしたように青島が振り返り、目を丸くしている。
室井は自分が初めて礼を言ったことに気が付いた。
紅茶に視線をチラリと流すと、彼には通じたようだった。
そのまま台所へ消えていく。

そういえば、まだ、彼の本当に笑った顔を見たことがない。









11.
“中野です。本日退院出来まして、明後日から復帰させていただくことになりました”
“そうか”
“ご迷惑ご心配おかけしました”
“私の元にはいつ来れる”
“一応明日細川の方から引き継ぎを行わせてもらう予定でして、明後日の本部から。また私がご担当させていただければと”
“引継ぎに一日もかかるのか?”
“いえ・・えと、何かお急ぎの用件でも?”

「なんか、あった?」

食後の皿を下げながら、青島が珍しく問いかけてくる言葉に、室井は意識を戻した。
キーボードを打つ手が止まり、ぼんやりとしていたらしい。
回想を中断した脳は、ただ疲労を訴え、褪せた蛍光灯がちゃぶ台をどんよりと照らしていた。
まだ、青島の視線が室井に向いている。

「顔色を読むな」
「ビンゴ?」

応えるのも億劫で、室井は無視をする。
そのまま作業モニタを見るが、頭には入りそうになかった。

ここに住み始めて一カ月が経とうとしている。
大凡の時間を室井はこのアパートで過ごしていた。
年が変わったことも、自分の誕生日を迎えたことも、正月ムードが過ぎ去っていくのも、室井はこの部屋でテレビやネットで感じた。
数回の出勤も、細川からの伝達事項に明け暮れる。でもそんなのは以前だってそうだった。
ちなみに誕生日には青島が妙に凝った料理を並べていた。
その青島も、日中のほとんどは仕事でいない。
夜勤の日は夜もいない。
明後日の登庁は久しぶりの遠出だ。

「捜査のことならいいですけど・・。本当に頭が痛むとか熱があるとか、そういうのではないですか?」
「・・・」
「いちお、まだ二カ月なんですから無茶はしないでくださいね。腕だってつらいんじゃない?」

何故こんなにもひたむきに人を心配できるのか、室井には不可解な心理だった。
新城や上層部に何か言われているのだろうか。彼には不透明な上との接点が見える。
だが今はそれを追及するのも鬱陶しい。
鼻息だけで不機嫌を伝える室井に、青島はちょっと困ったように顔を傾け、布巾でちゃぶ台を拭っていく。

室井は資料の幾つかを取り上げた。
暫く見て、手元に纏めていく。
そんな室井をまだ時折青島の視線が背中に向けられているのを、室井は感じ取ってはいたが
話を続ける気はなかった。

「少し、飲みますか」

うんざりとした気持ちは八つ当たりだと認識している。
視線だけ向ければ、見かねたような青島の目が、まだ室井を見ていた。

「なにがある」
「何でも。言って」
「コンビニに走るのか?」
「そーです」
「・・・あるのでいい」

言われてみれば、室井は東京へ来てから一度も飲んでいない。
どうしてこの同居人はこうも室井の扱いが上手いのだろう。
今夜はとことん酔いたい気分だった。
室井はようやく、日課のパソコンを閉じた。

「何か、あったんですか?」

もう一度聞かれた質問に、室井はただ苛立ちを口にする。

「悪いが、明け方に帰る時はもう少し静かにしてくれないか。煩くて眠れない」
「・・気を付けます」

手狭な台所のどこに仕舞ってあったんだかというくらい、大きな一升瓶が目の前に置かれた。
室井の好きな酒だ。
チロリと青島に視線を投げれば、素知らぬ顔で得意気な顔をする。
それよりも、誰がこの青年に室井の情報をペラペラと喋ったのかが気になった。

「あんまり眠れてないんですか・・?」
「病院には月一で行っている」
「・・・」
「無礼だな、官僚は生活リズムを崩すことはない」
「でもなんか・・・根詰めすぎなんじゃ」
「余計なお世話だ」

ひょいと肩を竦め、青島はそれ以上の追及を止め、お猪口を二つ並べた。
ペアグラスだ。
この酒に、それでも付き合ってくれるらしい。
不思議なことに、それはもう不満ではなかった。

老眼鏡を外し、眉間を揉み、室井も首元を少しだけ緩める。
出勤しないとはいえ、室井は毎日スリーピースを着用していた。いつ何時呼び出されるか分からないからだ。
メールだけチェックをし、スマホも閉じて、室井はネクタイを引き抜いた。

「つまみ、どうしましょっか」
「冷蔵庫にチーズだのサラミだのがあっただろう」
「まだ家宅捜索してるんですね・・」

皺になるのを避けるため、ジャケットも脱ぎ捨てる。
ベスト姿で胡坐を掻き、室井は台所に立つスリムな背中を見た。

なんでこの青年は、室井にここまで邪険にされて、こんなにも捌け口にされて、それでもめげずに室井に付き合ってくれるのだろう。
キャリアにおべっかを使うノンキャリは多いが、大概がその経歴が目当てで、崩れた時に去っていく。
今の室井に期待を寄せるだけの価値など、何処にもない。
上層部も、本部も、努力より結果だ。

「どうして何かあったと思った」
「ん~、カオ、暗いから」

室井は窓ガラスに映る自分の顰め面を見る。

「いつもと変わらない」

このリアクションにはさすがに青島もフリーズし、しばし見つめ合った。

「機嫌伺いも、誰かの指示か」
「・・・」
「何処に報告している?そんなに官僚に媚び売っても、所詮ノンキャリは切られるぞ」
「そんなつもりじゃないですよ」
「なら、何故怒らない。何故逃げ出さない。ここまで言われてそれでも私に構うメリットは、君のどこにある」
「今度は俺の心配?」

だから。
この、簡単にあしらう感じが、室井は気に喰わない。
クソ、と口の中で吐き捨てるそれすら、無視された。
だからつい、こちらも横暴になる。
こうやって青島を自ら傷つけることで、心の何処か歪んだサディスティックな部分が、確かに歓び満足している仄暗い感情がある。
傷つけてしまう痛みさえ、毒となって傲慢に膨れ上がった。
青島に付けられる痕なら、痣でさえ、室井の溜飲を下げた。
想像しただけで、ゾクリとくる。

「損得で動いてないですよ・・・それに、新城さんに頼まれちゃったしね」
「新城とはどこで知り合った」
「・・・うちの署に、特捜の指揮官として派遣されてきまして・・・随分前ですけど」
「その割には親しそうだ」
「その後も、色々ありまして」

まるで、用意されたような返答だった。
室井は冷然とした目を向け、考える。
改めて、不思議な男だった。
何故こうもすんなりと室井の隣に座り、深夜遅くの室井の酒にまで付き合うのか。
突き放しても罵倒しても、彼は、そこにいる。
今、室井の世界は、青島だけで回っていた。

「とりあえずこれで」

台所から皿を片手に青島が戻って来た。
チーズ、サラミ、千切ったレタスとトマトが添えられている。

「好きなだけ、飲んで。食べて。この酒、俺には強くて処分に困っていたんですよ」

開封済みだったらしい一升瓶を抱え、青島が尤もらしい理屈を付けて、室井のお猪口に注いでくれる。
久方ぶりの、酒の香。
透明の液体はなみなみと揺れ、古びた電灯を月のように浮かばせた。

表情は変えず、室井は軽く匂いを嗅いでから、口を付ける。
その様子を柔らかい目で見ていた青島が、また台所に消えた。
きっと、もう一品、何か出すつもりなのだろう。
当然だと思った。でも今は、気分が悪い。

「中野くんが復帰する。電話をもらった」
「え!ほんと!うわぁ、そうですか。あ~よかったですねぇ」

明らかに息が抜けたほっとする声が室井の耳に罪を突きつけた。
感情の起伏の多くを見せない大人にしては珍しいくらいの大袈裟なリアクションに、青島が中野をどれくらい心配していたかを知る。
トントントンと、まな板を叩く包丁の音がする。
室井は酒を煽った。
もう一杯、手酌する。
また煽った。

「復帰は明後日からになる。そのタイミングで私も本部にも顔を出す」
「ああ、細川さんからバトンタッチか。室井さんも気が楽じゃない?」

香ばしい匂いがしてきて、また一皿、室井の前に置かれた。
椎茸のチーズ焼きと、ブロッコリーのアヒージョだ。

「あんま、こってりしてっと、年寄りはキツイかなって」
「舐めくさりやがって」
「オリーブならもたれないよ。ほら、飲んで」

また適当にあしらわれ、だが室井の意識もスムーズに食卓へ向かわされる。

「いちいち腹立つ奴だな」
「え、なんで?」
「君はこういうの、実に簡単に作る。慣れている手付きだ」
「・・・、そりゃあ、まあ、一人暮らし歴何年だと思ってんの」
「何年なんだ?」
「え、マジに聞くの?」

箸を渡され、小皿を置かれ、着々と準備を整えられ、青島が正面ではなく横に両膝を付く。
お猪口は二つ用意されたが、小皿は一つだ。
そう言えばつまみの量も一人分だ。
それに気付いた時、室井は何故だか胸の奥に灼け付く痛みを感じた。
怒りとは違う、強い、慨嘆。

「飲まないのか」
「一杯だけ、付き合いますよ」
「――・・」

黙って睨み上げれば、多分、青島には意図が通じる。そう確信していた。
微かな期待―というには余りに稚拙な宿意―を以って言葉を挟まないでいると、沈黙が長く続く。
帰宅してコートやジャケットだけ脱いだ、寛いだシャツ。
ネクタイは解かれていて、腕まくりをした姿は無防備で、冴えた清潔さを放っていた。

案の定、青島は何も言わなかった。
そこを退くこともなかった。
いつまでとか、どこまでとか、何も聞かず、青島は無言で時を止める。

口を閉ざしたまま一升瓶を取り、室井が青島にグラスを差し出した。
おずおずと、青島が躊躇う指先を延ばす。
緊張しているのか。
縁までたぷたぷと酒を注ぐと、室井は青島をじっと見た。
飲めという命令であることは、察せるだろう。

「・・・」

ゆっくりと青島が瞼を伏目がちにし、グラスに紅い口唇を付ける。
こくん・・と液体が口腔に流され、喉仏がうねり、飲み干す様子を、室井は最後まで瞬き一つせずに、視姦した。

「毒を盛られていては、たまらないからな」

青島が無言でもう一度差し出すグラスに、室井がまた注ぐ。
この勝ち気で純潔な態度が、より一層の香を纏って、青島の雰囲気を演出した。

暫くの間はどちらも喋らない。
隣家のテレビの音声が、途切れ途切れに聞こえていた。
室井は用意してくれたつまみを口に付けることなく、また酒を煽った。

「キャリアを一人、死傷させるところだった」

隣に腰を下ろし、襖に寄りかかった青島は、室井の話を黙って聞いていた。
長い足を折り曲げ、肘を付き、手首をだらんと下げたそこにはいつもの時計。
それが彼の腕をスリムに見せ、芸術的なフォルムを完成させる。
聞き役としての才能も、格別だ。

「ホームから突き落とされた時、何故自分が、と思った。誰かがそうなればいいとさえ、思った。犠牲になるべきは私じゃないと」
「中野さん、無事でよかったですね」

何故彼は、室井が中野に心許していることを言い当てるのだろう。
青島の澄み切っていて静かな語り口は、室井の口を阻まない。

「替えは幾らでもいる。だからといって、捜査員の命を軽んじているわけじゃない。君には分からないだろうが」
「事件を早く解決したいって気持ちは、おんなじでしょ」
「空回っている気がする」

でも、こんなことは、今までだってあった筈だ。
そんな時、何かを支えにして、耐え抜いてきた。
秋田の古い田舎町。深い雪の音。派手な東京への憧れ。

「何故、細川より中野の方が気が楽だと、君が思う」
「・・気を許しているように見えました」
「気分で部下を査定するような真似はしない」
「そうじゃなくて・・」

凛と音がしそうな山の空気。凍えた小川。雪解けと共に真っ先に咲くフクジュソウ。
泥塗れとなった盟友たちの都会神話は、高いプライドと卑賤意識の裏で確かに室井を支えていた。
遥か昔の旅物語。

「中野さんのこと、キライなの・・?」
「付き合いが長いと、不要な柵が出来る」

中野を急かして、早く復帰させて、事件の関係者として話がしたいのか。
ふと、それは違うと思った。
任務は常に室井の肩に乗り、中野はこれまでだってそのスケジュールを巧みに調整してくれていただけで
事件の核心に迫る議論や大胆な推理合戦をしてきたわけではなかった。
以前はもっと仕事に充実感を得て、対等な目線で誰かと火花を散らしていた気がする。
警察に、自分と互角に渡り合える人物がいた気がした。でも、もう、今はいない。
誰と、そんな風に自分は語り合っていた?

「中野くんが怪我した時、私は彼の容態よりも封書が気になった。彼の応急手当よりも通報を優先した」

張り詰めていた分、プシュンと糸が切れて、空気が抜けて。
今の室井は理由がない。

「さっきの電話もだ。もう少し休めとか、安全の配慮とか、気遣う言葉をかけるべきだった。みんな、後になって気付く」

官僚はこうあるべきと唾を飛ばしても、もう誰も見てない。室井を構築する輪郭がぼやけていく。
思い描くための根拠が間違っていた、あるいは不十分だった。
しかしその誤った不十分な根拠が提供された原因は、室井自身の専制君主的な体質のためだ。
ありのままの情報を受け止めず、隠蔽したり加工したりする体制に歯向かう姿勢が、自らのその体質を作り上げた。

「私の身代わりにしてすまないと思うより先に、下は上の犠牲になって当然という気負いがあった」

残酷な願いと矛盾を孕んで、今は抗う気さえ起こさせなかった。
室井の限界を見せ付けた現実は、世知辛く、味もない。
降格人事を受け入れた4年前なら、辞表にはもっと、様々な味がしていた。

「中野に気遣えなかったのは、自分が・・私が他の人間では駄目だからだ。それが何故君に見透かされる」
「・・・」
「誰も付いてこないのは、私に官僚の才能がないからだ。捜査が上手くいかないのは、」
「室井さん、」

それは違うよと、青島が絶妙なタイミングで堰き止めた。
感情を見せない男の、感情を浮かす瞳が、美しい。
室井は感情の襞を乗せない漆黒で、ただ、ねめつけた。

偶然にも共に暮らしたこの青年は、話上手というよりは、こんな風に脆さを隠さず、寄り添う大人しめの男だ。
会話も主導権を握らず、口下手な室井をセンス良い相槌で促し、話を引き出してしまう。
先回りした意図で室井を操り、その都度、固まり、眉間に皺を寄せる室井を、親しげな眼差しで構ってくる。
例え室井が話すどんな貧相な話でも、こうやって全部聞いてくれるのだと思ったら、何だか胸が苦しくなった。

「呆れたか」

小さく首を横に振り、青島がまた酒を注いでくれる。
その動きで、幽かに彼の体温と匂いが室井の鼻腔を擽った。
たぷたぷと揺れる透明の水面は、まるで自分の心を映すようだった。

「でも、ただひとつ、忘れちゃいけないことがあります。そうやって悩むのは、室井さんが中野さんを大切だってことでしょ?」

眉を顰め、室井が顔を上げる。

「苦しくも辛くも無かったら、中野さん、残念がるよ」

青島の優しい言葉は、室井に今まで自分をサポートしてきた中野の姿を脳裏に浮かばせた。
そんな風に人を評価したことが、今までの自分にはない。

「トリカブトの件も、片付いていない」
「中野さんはそんなこと、責める人じゃない」

そんなの、分かっている。

「何でお前はそんな風に人を見れるんだろうな」

愛想笑いでちゃぶ台に一升瓶を戻そうとした青島の手首を室井が徐に掴んだ。
ハッと、びっくりした大きな瞳が室井を映す。
カチャンと、グラスが、鳴った。

呼び水となったかのように、室井は急に人が変わったように思えた新城のことを思いだした。
あの男こそ、東大派閥に護られ、良家の血筋を持つ功利主義のお坊ちゃんだった。
そして一倉の、青島を見つめるあの顔。
室井が広島に飛ばされている間の四年間に、培えた掴みどころのない現実の、そのどの中心にもいて騒めかしているのが、この彼だ。

「君は、誰だ・・?」

不意に渦巻いた室井の中の圧倒的な悪寒は、息を途絶えさせるほどだった。
鼻に付いていた生意気さ、癇に障る苛立ち、嫉視した侮辱。
それら全てがどんよりと腹の奥に溜まり腐臭を放っていたものを、決壊させていく。

「あ、の・・」

グッと、弱弱しい抵抗に、青島の手首を捕まえていた室井の指先に、更に力が籠もった。
ギロリと睨みつける室井の視線に、青島も視線を外せない。
じっと上目遣いで室井の出方を窺っている。

「何のために、私の前に、現れた?」
「――」

恐らく、それが核心なのだ。
不条理ながらも、室井は直感していた。
この不完全で実体のない混迷の、捩れ始めた時間の発端のどれもに、彼がいる。
それはそれだけで、室井の叛意に嫉ませるには充分だった。
室井はゆっくりと手を引き、身体を近づけさせた。

――こんなのは、キャリアの中ではよくあることだ。

何でも良かった。誰でも良かった。
自分のことを簡単にあしらうコイツなら、避けない気がした。
目の前から消えようとしないコイツなら、逃げない気がした。
罵られても、無理矢理でもいい。
思い切り傷つけてみたいとすら、思った。

室井がゆっくりと顔を傾ける。

「・・っ」

息を呑む青島の目が、幾重にもさざめき、室井を背徳の蜜に扇情する。
寸前で止めた角度は、丁寧に撫でつけた室井の額に青島の髪を擦らせ、その殺した息すら感じ取らせた。

「どうせ、こうやって媚びているんだろう?・・・誰にでも」

自分は特別じゃない。それが腹が立った。それが、怖かった。

「しないよ・・」
「それが、君のやり方か」

純情を装って、貴方だけだと思わせる。美味い汁を吸うにはそのくらいの価値はある。
青島が小さく首を振る。

「なら、慰めろ、と言ったらどうする」
「どうって・・」

更に室井が力を込めれば、その身体は思った以上に簡単に傾いできた。
近づけた顔が数ミリの距離で留まったせいで、湿った息が数ミリの距離で交じり合う。
青島の手は、微かに震えていた。

「放してください・・」
「好きだとか、愛してるだとか、くだらん言葉が必要か」

そう言ったら、勝ち気な彼のことだ、あの強気な瞳を煌めかせて、挑んでくると思っていた。
だが、紅い口唇からは何も漏れ出すことはなく、青島は視線を下げてしまった。
あれだけ飄々としていた青島が、押し黙り、動揺を見せている。
逃げようとしたその手を即座に掴み、室井は力で捻じ伏せる。

滔々と溢れ出る澱んだ感情が止まらない。
今は、何を頼りにしていたかも思い出せない。
目の前で、室井を慕う彼だけが、残された。

薄く口唇を開き、室井は焦点がぼやけるほどの距離で、顔を傾ける。
覚悟を問う距離は、細い腕を力づくで押しとどめることで、決壊した。

アルコールの強さが理性を狂わせる。
否、狂わせるのは、彼自身か。
歪んだ顔と戸惑いを乗せた瞳が妖しく濡れ光り、怒りも軽蔑も乗せていない顔に、室井は理知な瞼を伏せ、視線を合わせた。
あまりに儚く脆く、室井を映した視線が揺れた。

「こんなん、俺が避けられるわけ、ないじゃん・・・」

その言葉の意味は分からなかったが、もう止まるつもりはなく、室井は留めていた最後の距離を自ら破り、強引に口付けた。
不確かな池神の指示から始まった、突然回り始めた室井の未来が、どうにも不可解な現実と共に混濁し、爛れていくのを感じていた。













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