公文書Code3-2-8 3
8.
数日が過ぎ、室井と青島を奇妙な共同生活に持ち込ませた警視庁は、室井の姿を隠すことで暴行騒ぎを無きものにしようとしていた。
メディアにも圧力をかけ、今、霞が関の殺人未遂を報じるテレビはほとんどない。
ネットニュースで時々見かけるそれも、ホームの安全性を指摘するものだった。
また、捜査一課にトリカブトが持ち込まれたことも、箝口令が敷かれた。
世論の動きは、室井にとっても好都合である。
あとは――
この舐め腐った同居人だけが、目下のところ室井の一番の問題であった。
室井は眉間を盛大に寄せて皺のよる目尻を強め、不満を訴え、目の前のこけにする能天気な優男を睨みつけた。
ここでの生活は意外にも順調だった。
同居人は室井の扱いに長け、室井が多少ストレスの捌け口にしても、素知らぬ顔で室井をあしらってしまう。
今もだ。
「はいはい、じゃあ、こっちにします?」
室井がごねると、代替案を出してきて、それがまた実に的確なのだ。
「別に、おさがりじゃないんだからいいでしょ。新品ですよ」
「結構だ!今から洗って乾かす」
今日は雨で下着が乾かなかった。
彼が夜勤で、洗濯のタイミングがずれたことも要因だ。
「フルチンでいるつもりですか」
「君が買うような安物が嫌だと言ったんだ」
「履いちゃえは一緒なのに。ってかこれ・・、あ、なんでもない」
雨で濡れた髪が妙に艶めき、彼の肌の香しさをこちらまで引き立てた。
大丈夫だからと、青年がもう一度ボクサーパンツを差し出してくる。
洗ってはあるようだが、確かに使い古しではなく新品のような布地だ。
色も黒。
渋々受け取ると、それは愛用していたブランドのものだった。
「誰かに聞いたのか?」
「気が済みました?じゃ、さっさと風呂入っちゃってください」
詰まってるんですよと、指先を振って室井をバスルーム、もとい、風呂場へと促す。
巧みで、艶冶な、計算されたような仕草が、また妙に様になり、室井の癪に障る。
「食事の用意をしておけ」
「今日は食べるんだ?」
ムッとして、風呂場に通じる扉を乱暴にバタンと室井が閉ざした。
絶対向こうで嗤っているに決まっている。
官僚に対してその態度はどうなんだと突っ込む隙も与えない。
不思議な男だった。
突然現れた見知らぬ男との同居を、怒ってはいなさそうだった。
出会い頭、辛辣に攻撃的な意見を交わしたことも根に持っていない。
いつの間にか室井の空間に居座り、そこにちょこんと座っている。(自分の方が居座っている認識は室井にはない)
ただ、嘘はなさそうだ。
計算高い策略に陥れる強かさは見てとれる。だからこそ、歯向かってみたい。
彼の作る食事くらいは、食べてみてもいいだろう。
この一週間で、そんな気にさせられた。
室井を取り巻くエリート顔した官僚たちに比べたら、毒一つ、仕込むようなダサい真似はしなさそうな誠実さは見えた。
手元のボクサーパンツをじっと見る。
このブランドは好きで長らく愛用している。突然の緊急避難で、此処へは持ってこれなかった。
誰に聞いたのだろう。
こんなもので点数を稼ぐつもりか。だが、室井の世話を焼くことに前向きなのだということは伝わった。
「派閥がない。認めさせるには上に行くしかない。この身で証明する。そういうプレッシャーは君には分からないだろう」
「プレッシャー?それ、なんか意味あんですか」
「なんだと?」
「自分のことばっかりじゃん」
向かい合ってちゃぶ台で食事をしても、視線は合わない。
口端に付いた米粒を、朱い舌でぺろりと舐め取った。
妙に男をゾクリとさせる色欲を持つ男だ。
長い手足や、スタイルの良さ、愛嬌のある人好きのする顔。
そういうパーツの高さもあるが、それだけではなくて、動きや仕草が計算されている。
一つ一つの仕草が妙に残像として室井の脳裏に残る。
「東北大ってだけで色眼鏡で見やがって!」
言いつつ、以前もどこかで、こんな風に愚痴を零したことがある。こうやって、室井の弱音を受け止めてくれた人がいた。
誰だったかと回想する室井の意識は、目の前の、くっだんねぇと流す男の顔に、塗り潰される。
「君だって男なら出世したいと思うだろう!」
「ぜーんぜん。コレがあったら人を護れないってんだったら、こんなのいらないです」
べ。
紅い舌を見せて青島が扉から出ていった。
もう食べ終わったのか。
キッチン、もとい、台所で湯を沸かす音がする。
今夜のメニューは和食だった。
鮭の塩焼き、出汁巻き卵、なめこの味噌汁、蛸ときゅうりの酢の物、カリフラワーの辛し和え。
大根の煮物は三日目くらい。
別に洋食好きというわけではないようだ。
数分後、淹れてきたのは珈琲ではなく緑茶だった。
「ずっとパソコンと向き合っているようですけど」
「捜査の基本は情報にある」
「もしかして、今まで関わった事件全部、入ってるとか?そこに?」
「入庁当時からだ」
「うへぇ~・・・」
わざわざ食後に会話を楽しむ仲ではないので、室井は時間を惜しみ、パソコンに向かう。
目の前で興味津々な栗色の瞳がこちらを向いているのを無視した。
洗い晒しのシャツ、手櫛で梳かしただけの畝った髪。そこから覗く丸い輪郭と、小さな顔。
ったく、妙に色気だけはむんむんとさせる男だ。
室井の一番嫌いなタイプだ。
「そういえば君、名前は」
「そこから知らなかったの」
ざわざわとした怒りが室井の下腹に積もっていった。
認めさせてやりたい。
上ではなく、目の前のこの男を。
どのくらい官僚という役職が、目指すに貴く、敬愛されるに相応しく、国民の崇高すべき存在なのかを。
室井の目的が、少し、ずれた。
9.
待ち合わせのバーは照明がなく、各テーブルに添えられたロウソクが梔子色に揺れていた。
先に到着していた新城と一倉のグラスを認め、青島がスタッフに同じものをオーダーする。
椅子に腰かけるのを待ち、新城は口を開いた。
「どうだ?何か掴めそうか?」
「んん、ガード硬くて」
「だからお前が適役なんだろうが」
新城のあからさまに落胆する様子に、青島も申し訳なさそうに眉尻を下げる。
見慣れたモスグリーンのコートを脱ぎもせず、刑事らしく店内に視線を走らせた。
無論、盗聴器を含む不審者が此処にはいないことは、確認済みである。
ぼそぼそと地を這うような客の話声に、控えめなピアノのジャズが不協和音に混じっていく。
「折角朝も昼も夜も一緒にいさせてやったのに、使えないな」
「そうは言っても、今は――他人だし」
新しいグラスに褐色の液体が入ったロックが届けられ、青島が会釈をしてバーテンを見送り、一口舐める。
軽く椅子に腰かけ、長い足を組む仕草は、それだけで絵になった。
憂いを帯びた視線を下げれば、アンニュイな表情と炎に揺れる睫毛が溜息に落ちる。
「色っぽいな。そこそこ参っているのが丸分かりだ」
「揶揄わないでくださいよ・・・まいんち、大変なの。・・ってか、これ、濃くない?」
グラスを舐めながら、青島が赤い舌を覗かせ、眉を寄せる。
「この程度、営業マン時代に嗜むくらいはしただろう?」
「したけど・・。あんたらの下戸に付き合ってたら俺、持たなそう」
実際、アルコール度数は高めだった。
一倉と新城、そこに室井も交えて酒を呑んだことはあるが、青島のこの反応から、室井は青島と呑むときはそこそこ控えていたことを感じ取る。
「ならば室井さんを潰して隙を作るという手も駄目だな」
「無理ですよっ、そもそも一度も勝てたことありませんでしたけど!?」
手を振って抗議する青島に、一倉も企みを乗せた顔をグイっと青島に寄せた。
「いい案を思いついた」
「・・聞きたくない気がしますけど」
「色仕掛けでもしてみたらどうだ」
「一倉さん、楽しんでる?」
「楽しまなきゃこんな事態やってられないだろう」
一倉の手が伸び、青島の髪を指でくしゃりと混ぜ、通り過ぎた。
その優しい指先に、青島は応えることなく、ただ瞼を落とし、大人しくなる。
泣きそうだ、と新城は視線を一度だけ走らせ、話題を戻す。
「とにかく、室井さんが持っているパソコンデータを一度は確認するべきだ」
「室井さん個人を狙ってきたなら、過去に関わった事件関係者という線が一番強いから」
「そうだ。室井さんの性格からして、個人的な見解や報告書には記載しない事件情報等も入力している可能性が高い」
一倉が新城の洩らした感想に、破顔した。
「マメだもんなぁ、アイツ」
どこか遠い目なのは、やはり皆が今抱えている感傷が、同じものだからだろう。
週に一度は三人で会い、定期報告を兼ねて今後の作戦会議を開いている。
正直、今はこれ以上のことは出来ないし、これ以上の人材は見込めなかった。
室井の記憶が奪われてから、もう二カ月近く経つ。
一向に取り戻せないそれは、追い縋る者の方に焦りだけを生ませていた。
「室井さん・・・、どう、ですか?」
「どうとは?」
優雅にグラスを傾けた新城が、アバウトな質問をしてくる青島に鋭い視線を一度だけ送る。
青島はただグラスを見つめていた。
その瞳にろうそくを反射した光が幾重にも混じる。
「なんか、元気ないから」
「――本部は確かにどん詰まりだからな」
「どん詰まり・・」
「今室井さんが担当している特捜は、言ってみれば、嫌がらせ人事だ」
本庁の内部事情を透かした新城の発言は、この場への信頼であり潔白の証明だ。
室井の件に関して、新城は元々そこまで関わっていない。
室井がホームで襲われてから、初めて池神に呼び出され、あらましを伝えられ、そして思いついたように、裁きを命じてきた。
つまり、所轄刑事へ世話係を指定した。
室井と青島の繋がりは、確かに池神の耳にも入っているだろうが、同情を隠れ蓑にした薄ら笑いが気持ち悪い。
だからこそ、新城は青島にこれ以上の負荷を与えたくはなかった。
胸の内を見せることで、そこに嘘はないことを悟らせる。
その意図はまた同じ一倉も、グラスを舐めながら同意する。
「階級飛び越えて、いきなり地方からトップを横取りされたんじゃ、反感を買うに決まっている」
「・・・まるでそれを狙っていたかのようにな」
新城が合いの手を加えたが、青島はグラスの氷をカラカラと鳴らし、水面を見つめていた。
「そんなの今に始まったことじゃないだろ」
「お?もっと室井さんがかわいそーとか言うかと思ったら」
「言わない」
一倉が揶揄う言葉に、青島はむくれた顔で口唇を尖らせた。
こういうところが、新城が青島を信頼する部分だ。
盲目的に室井を心酔し、甘やかそうとはしてこない。だからこそ、室井は青島を信頼する。
それは、記憶があろうとなかろうと、変わらないと思うのだ。
もっと正面からぶつかればいいのに、それが出来ないのが、青島なのだろう。
「それで潰れるならただの男ということだ」
新城が代弁してやれば、青島は炯々とした瞳を交わしてきた。
「でも心配か」
「なんか、追い詰められちゃってるから」
それはお前だろうという言葉は新城が口にすることはなかった。
誰も信じていない。誰も評価していないから、誰を頼るつもりもない。
そういう室井の意固地な生き方が、より一層の孤立を招く。
どうにもならない。奪われた室井の記憶にある青島との共鳴、そして信念を思い出さない限り、室井の苦戦は続く。
新城は内心大きな溜息を落とした。
青島と出会い、室井は変われた筈だった。なんでこんなことに。
「実はその線も少し考えている」
「その線って、つまり、室井さんが帰ってくることで出世が消えちゃった本店のキャリアってこと?」
呆れたような眼差しで、心底うんざりとした顔をした青島の横で、一倉も身を乗り出した。
「お前のことだ。もうそこまで調べ付いているんじゃないのか」
「ええ。当然。当初誰が官途に就く筈だったか。トリカブトの件で幸運にも代理が回ってきたのは誰か」
一倉と新城の額が寄せられる。
「ですが、そのどの人物にも霞が関の事件にアリバイがありまして」
「実行犯がいるかもしれないだろ」
「だとして、どれだけの容疑者が本庁内にいると思っているんですか」
「だよなぁ。仮に室井を栄転させたくて、果たして中野が誰かを殺すかと考えると、疑問だよな」
「忠誠心では測れない」
「んだよ、結局パソコンに逆戻りじゃねーか」
大手を広げて一倉が顎を天井に持ち上げた。
一倉と新城の敏捷な推理を黙って聞いていた青島が、ここにきて、ふと口にする。
「中野さん、どんな具合です?俺の姿もやばいかと思って見舞いにも行けてなくて」
「彼の方は問題ない。近日中には復帰する」
「そですか・・よかった・・」
この夜初めて見た青島の和らいだ顔に、新城と一倉は一瞬だけ視線を交錯させた。
すぐに何気ない振りを装う。
「でもあのパソコン、背後から覗き見しても、資料ばっかりで特に気になるようなことないんだよなぁ」
その発言に、新城は少し違和感を覚えた。
「覗き見を許されるほど仲良くなったのか?あの人、警戒心強いだろう」
「ああ・・まあね。逆に舐められてんのかも」
「流石だな天性のタラシ」
「タラシは余計だっつーの。でも、まあ、なんとか会話できるまでには」
今の室井を青島に引き合わせるのは、新城は反対だった理由はここにある。
どうしたって青島が気を遣ってしまう。傷心のまま、その傷心の対象に向き合わなくてはならなくなる。
「少しは・・・昔みたいに近づけているのか?」
「昔?昔ってどこ?」
時間が一人だけ止まってしまった室井に、もう青島は存在しない。
存在しない人間が関わるところに、時空はあるんだろうか。
「もう俺には分かんないよ」
深刻になりかけた空気を敏感に察し、今度は一倉が青島を肩で小突く。
「んじゃお前、今アイツとどんな生活してんだよ?何話すんだ?」
「こないだ、ようやく自己紹介しましたけど」
ブッと二人の男が同時に吹き出した。
一倉は口を大きく開けているし、新城に至っては額に手を充てて目を閉じてしまった。
「なにをやっているんだ、お前たちは」
「しょーがないじゃん、室井さん、俺んこと、まったく興味なしですもん」
「それはどうかな」
「え?」
首を傾げた青島が、あ、という顔をして、もう一個と人差し指を立てる。
「あと、ようやく一緒に食事を摂れるようになりました」
「まるで餌付けする動物だな」
「動物のほうが可愛げあるよ。口を開けば上から目線で文句ばっかり」
苦情を申し立てる青島は、勢いのまま、煽るようにグラスを飲みほした。
形の良い喉仏が生き物のように上下する。
「ただねぇ、扱い方、こっちは心得ているから、笑い堪えるの、けっこータイヘンで」
「室井にしてみれば、お前はエスパー、透視能力者だからな」
「そうなんだよ・・!なんだコイツって顔されんの」
空になったグラスを握る青島の指先が、白くなるまで力んでいた。
幽かに震えていることに、新城は目を眇める。
室井の奪われた記憶はどこにあるのだろう?
彼の中に、今も青島は存在しているんだろうか。
なんでこんな状態の青島を一人にしたんだ。なんでそこまでして掴んだ手をこんなに簡単に離してしまったんだ。
「帰ります」
濡れたような淡い瞳にロウソクが映り、それはただ無言で揺れていた。
「青島、大丈夫か?」
その言葉の意味に、気付いていないのかはぐらかしたいのか、青島はやるせなく笑んだだけで、片手を振った。
***
去っていった青島の背を完全に見送り、新城と一倉は同時に視線を交差させる。
「どう思いました?」
「キてるな、結構」
「同感ですね。明るくしている分、こっちが見ていられない」
「気を張るんだろう、平静を保つのも苦しいだろうから」
こうしてわざわざ顔を合わせて情報交換するのは、メールなどで証拠を残さない基本原則と、後は青島の様子を直に見ることにある。
時は既に年末を迎えていた。年納を目前に控えた世間は足早に人が通り過ぎる。
あまり時間がない。
「食事は摂れているようだったが」
「室井さんの前だけでしょう」
「だろうな」
どうしてこの二人にはこういう運命が与えられたのだろう。
今年の冬は少し到来が早い。
足元を擦り抜ける隙間風は、心にも吹き荒ぶようだった。
「室井が青島に全く無関心って、んなこた、ないだろう」
「邪な部分はともかく、記憶はなくても、職務上一番室井さんの腸を刺激する憎々しい相手の筈だ」
「なんらかの変化は及ぼしているだろうな」
混ぜるな危険と塩素系洗剤に書かれているようなことを、面白半分で池神が遊ばせた。
池神にとって職員すべてはホルマリン漬けされた鑑賞動物なのだ。
どうする。どうなる。
新城の口の中に血の混じった苦みが走る。
「今更な質問なんだがな、新城、お前、室井と青島が、その、付き合っているって、いつ知った?」
「本当に今更なんですか?もう随分前ですよ。室井さんから直接カミングアウトされました」
「なんて応えたんだ?」
「・・忘れました。ただ、馬鹿ですかとは言った気がします」
「そうか・・だよな・・」
ジャズは途切れることなく流れていた。
