公文書Code3-2-8 5
13.
事後に添い寝をする趣味はない。
室井はベッドから起き上がり、縁に腰掛けた。
一糸纏わぬその裸体に、先程までの情痕はない。
最後まで青島には縋らせなかった。
その代わり、背後に横たわる甘い肌には哀願させるほど、味わわせてもらった。
じっと自分の指を見る。
室井は青島の左手を取り上げた。
結ばれたままだったネクタイを解き、痣を認めた後、青島の指先を手の平に添える。
やはり、これは指輪痕か。
自分の左手薬指にある少しの窪みもまた、青島の指輪痕とほぼ同じ位置、形だった。
最初は気に留めもしなかった。
指の形ひとつ、流石にどうでも良い。
情事の最中、縛り上げた指先が目に入り、添えた自分の指先が、危険な快楽の間で脳裏に不透明な事実を刻んでいた。
こうして改めて並べてみると、丸っこい青島の指根にはしっかりと残るそれは、室井の指にあるものと良く似ている。
室井の指は青島ほどふっくらとしてないから分かりにくいが、確かに、ある。
以前、こんな痕はあっただろうか。
何故か記憶が曖昧だ。
青島の指輪痕を見なければ、気付かなかったものだ。
室井はベッドから立ち、バスルームへと向かう。
その足が、ふと止まる。
室井は誰かと結婚したこともなければ、指輪を交わしたこともない。上から政略結婚を打診されてきたがどれも成就には至らず、現在婚約者もいない。
気のせいだろう。
ただ一つ、心当たりがあった。
ホームに突き落とされ、病院に搬送されたその翌朝だ。
看護師から所持品を確認された。
傍に落ちていた全てというものを並べられ、警察官立ち合いの元、事実確認を求められた。
盗まれたものはなかった。
その中に、見覚えのない指輪が、あった。
そうだ、あの時のだ。
室井は引き返し、この部屋のサイドボードの一番上の引き出しを開ける。
そこにはまだ、以前見つけた青島の指輪が無造作に放り込まれていた。
指にとって朝陽に翳す。
キラリと白銀の光沢を放ち、ひんやりと冬の朝に透き通った。
そうだ、こんな感じで、指輪の確認を求められた。
こういうものはデザインなどどれも似たり寄ったりだろう。見せられたリングととてもよく似ている。
青島には忘れられない相手がいる。
まさか、という酷い悪寒が室井の腹の底から滲み出た。
室井にも将来を誓った相手がいたのか?
病院でみたリングはやはり室井のものだったとして、だとしたら、何故その相手は名乗り出ない?
指輪痕の消失は、早くて六カ月――
ゾクリと悪寒がした。
「――」
何かが喉まで出かかったが、言葉には出ない。
室井は熱めのシャワーを浴びると身支度をし、そのままアパートを後にした。
青島を部屋に残して出ていくことは、何故か、激しい後ろめたさがあった。
14.
夜になって、室井がアパートに帰宅すると、青島の姿はなかった。
カレンダーに目を走らせる。
癖の強い読みにくい字で、夜勤のマークが付いていた。
いつもなら揃えられている夕食は、ない。
部屋も、室井が襲った昨夜のまま、散らかっていた。
空になった一升瓶、食べ残した皿。精液を残すチリ紙。冷え切った部屋。
破いたシャツがごみ箱に捨てられていた。
どうせ帰ったら片付けるだろうと思い、室井は疲れた体を横にした。
翌朝になっても、青島はいなかった。
不規則な現場警察官の勤務状態を、あれこれ詮索はしない。
今日は室井が本庁へ行く日だ。
中野が迎えに来る時間になっても、青島は帰ってこなかった。
「またこうしてお世話させて頂くことになります。今度はもう少し警戒いたします」
迎えに来た中野は、丁寧な言葉と合わせ、深く頭を下げた。
これまでだったら、一言で終わらせていた処、青島の言葉が室井の脳裏を過ぎった。
足を止め、室井は中野を見上げる。
「・・・すまなかった」
「え?」
酷く驚いた顔をされた。
気まずい思いで室井は眉間を寄せる。
「心配した。私の第一部下は、君でなくては困る」
「・・!」
更に中野を驚かせてしまったようだった。
「あの・・・えと、室井さんの方は、大丈夫なんですか・・・?」
「?・・・ホームに落ちたことか?」
「え?ああ、はい」
なんか会話が変だ。
とは思ったが、即座に中野が顔を作り直したので、今度は室井が固まった。
「お気遣い、ありがとうございます。嬉しいです」
うむ、と小さく頷き、室井もこの変な空気が居心地悪く、そそくさと車に乗り込んだ。
中野がドアを閉め、運転席に回る。
「暫くの間は細川の時と同じように二人きりで、という新城さんのご指示により、運転は私が行います」
「やはり、内部犯に的を絞ったか」
「そのようですね」
室井は背後からバックミラー越しに中野に視線を送る。
同意と共闘の意志を認め、それから口を開いた。
「本庁に行く前に、寄って欲しいところがある」
「かしこまりました」
流れる景色を見ながら、室井はあんなにも難しかった人との関わりのスムーズさに、世知辛い浮世を苦み潰した。
何故今、あんなにもすんなりと謝罪の言葉が口から出せたのだろう。
キャリアは弱みを見せてはいけない。それは別に相手を見下しているだけではない。
隙を見せないことで、強硬な精神と器、気位を保ち、部下に安心と鎮静を与えるのだ。
“苦しくも辛くも無かったら、中野さん、残念がるよ”
青島の言葉が、耳に木霊した。
15.
「あれ?おかしいですね・・、ちょっと湾岸署に確認してみましょうか」
捜査本部を終え、夕刻に帰宅すると、そこはまだ施錠されたままだった。
朝のチラシが投函ボックスで北風に靡いている。
送迎をし、青島にも復帰の挨拶をしたいからという中野とアパートの前まで連れ立ち、未だ不在なことに顔を見合わせた。
室井が合鍵で扉を開けている間、中野はスマホを取り出す。
そこまですることはないと言おうとして、室井は口を賢明に閉ざした。
中野が代弁者となるのなら便利だなという計算があった。
部屋の中はやはり、朝、室井が出た時のままだった。
煙草と海の匂いがしていた部屋は、冬のかさついた大気に冷え切り、開かれたままの青いカーテンが扉を開けたことで小さく揺れる。
散らかしたままの二日前の皿が干からびて西陽に退色していた。
そのちゃぶ台の奥で――彼を犯した。
玄関から見えそうで見えないその場所は、何か大切なものを取り零している切迫感を室井に伝えてくる。
結局、室井は青島のベッドに移動し、明け方まで行為を続けた。
その彼は数度にわたる絶頂に耐え兼ね、気を飛ばしそのままベッドで深く眠ってしまっていた。
室井が見た彼は、それが最後だ。
あれ以来、彼と個人的な会話もしていない。
何かどす黒いものが室井の胸を圧迫した。
動いている彼が目に入らない。
それだけのことが妙に室井を落ち着かなくさせる。
まだ三日。もう三日?
そう思ってしまうほど、この一カ月は青島が室井の時間のすべてだった事実に愕然とした。
「はい、はい・・・そうですよね、・・・ええ、・・あ、それならこちらでなんとか。・・はい、失礼いたします」
中野が通話を切りつつ、説明する。
「昨日が夜勤で、今朝はそのまま休憩室で仮眠に入り、夕方ごろ帰宅したそうです。ただ、一倉さんの方に行ったのかもと」
「一倉?何の用があるんだ?」
「聞いていないのですか?」
何故アイツに、と思う一方で、そう言えば青島は初めから一倉と行動を共にし、親しくしていた記憶がある。
そんなことも聞くことすらしていない事態に、室井は眉を顰めた。
自分の知らない青島の一面が醜悪な色をして顔を覗かせている。
振り返れば室井は青島のことを疑うだけで、何も知ろうとはしなかった。
「何故彼はこの六本木で一倉と?君まで事情を知っている理由は何だ?」
お互いに目を合わせ、黙り込む。
単独行動ではない。
それが室井に不信感を募らせる。
「私の口から申し上げるわけには・・・、てっきりご本人から伺っているものだと」
中野も自身の失言にしどろもどろとなって、戸惑いを隠せないでいた。
確かにここで中野を責めるのは、違う。
「君の、言える範囲でいい」
室井の助け舟に室井の気遣いを感じ、中野は少し考えた後、こういう事態ですしね、と前置きした。
「室井さんの――貴方の護衛でした」
「護衛?私の?」
「当初から一倉さんと新城さんは貴方個人が狙われたと考えていました。そこでキャリアではない人物をこの辺に張らせて情報収集を」
「!」
だから彼はあの時も六本木にいたのだ。
「身辺警護というより、不審者を炙り出す狙いかと。詳しくは一倉さんに聞くと良いでしょう」
これから行くんでしょう?と指先を振り、中野に促された室井は大きく頷いた。
16.
新城がその扉を開けた時、そこには厳めしい顔の一倉が立っていた。
背後に佇む男の顔を見て、新城は全ての状況を察する。
「最悪の状況ですか」
悲愴な顔で一倉が頷くと同時に、青島の目から涙が零れ落ちる。
幾つも幾つも落ちていく。
「悪かった、悪かったから、青島」
新城が青島の後頭部を抑え、その肩に額を押し付けさせる。
弊衣のコートは頼りなく揺らいだ。
歯を食いしばった。
「も。むりです・・・」
青島の微かな呟きが新城のうなじを掠める。
新城が掻き抱く指先に、白くなるほど力が籠もった。
悲しくて仕方なかった。誰か、この際、誰でもいい、彼の心を救ってやってくれ。
我々に出来ることは、まだ何か残っているか?
「いつから」
「昼頃だ。コイツから直接」
新城が呻くように呟いた言葉に、一倉が低く答える。
その言葉に、青島が自ら助けを我々に求めてくれたことに、新城は少しだけホッとした。
青島のような利他的な人間は、自分が傷ついた時こそ他者を頼れず一人で消えていく者が多い。
こうならないように、複数の予防線を張っていたのに・・!
「何があったか、聞けましたか」
「・・・いや。話せる状況になくて、すぐに此処へ連れてきた。判断を仰ぐにしてもお前の目もある方がいいと思ってな」
「・・・」
「この状態を・・・口で説明なんか、できっかよ・・・」
参ったというように一倉が額に手を充て、珍しく弱音を零す。
一倉は昔から面倒見の良い男で、恐らく今回のことも弟か子分のように可愛がり護って来たつもりだったのだろう。
それを、見知らぬところで勝手に痛めつけられた。
一倉の想いを鑑みる時、最悪のシナリオへと進んだ事態は、早すぎるこの冬の冷たさよりも辛辣に圧し掛かった。
新城は抱き締めるように青島を囲い、その背中を擦りながら、耳元に慎重に言葉を選ぶ。
「話せるか、青島」
返答はない。
「室井さんに、何かあったのか」
小さく一度横に首を振ってきた。
新城は慎重に様子を探る。
室井の名前を出しても然程動揺しなかったことには安心した。
だが、黒幕であることには違いないのだ。
「誰か、接触してきたか?」
いつか、青島の方に限界がくることまでは予想していた。それが、こんな形であったことが想定外で、対処の仕方が分からない。
新城より少し背が高い青島が縋りつく様に額を肩に押し付ける。
その体勢のせいで崩れたシャツの隙間が、丁度新城の目に入った。
そこに浮かぶ無数の情痕に、歯ぎしりをする。
「そういうことか」
鋭い目を向ける一倉に、新城は少しうなじのシャツを指先で開けて見せ、一倉にも状況を理解させた。
一倉も新城の視線で察したようだった。
「・・たく、何やってんだ室井は・・!」
同感だった。
この場合、合意だったかどうかは問題ではない。
何故記憶のない室井が青島を抱こうと思ったかだ。
「青島、言い辛いだろうが、答えろ。・・・抱かれたのか?」
ややして、青島はこくんと頷いた。
「無理矢理か?」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・あのひと、記憶ない癖にさ・・乱暴だったけど、抱き方おんなじなんだよ・・・」
「!」
青島の声はか細く震えていた。
「少しでも・・救われるんならって・・・・、でも・・っ、でもさ・・っ、あんな、抱き方・・っ、」
「分かった、もういい・・!」
「おれのこと・・っ、他人の目で見て・・っ、抱いたって、寂しいだけじゃん・・っ」
「いいから・・!」
青島の肩を掴み、身を起こさせ、新城は顔を覗き込む。
ぐしゃぐしゃの顔は歪み、まだ幾筋も涙が零れていった。
その痛々しい姿に、新城も一倉も言葉を失う。
「あのひと・・っ、おれんこと、信じてないって・・っ!」
「!」
「用ないみたい、ですよ・・っ、おれ、じゃなくて、他の・・他のひと・・っ、呼んで・・っ」
「もういいから喋るなッ」
喚く青島の両腕を掴み、新城が宥め、押さえ付け、その拍子に青島の両手首に残る痣が目に入る。
なんてことを・・!
これで合意だなんていったところで、青島の心は確実に均衡を失っている。
なのに今青島が泣いているのは、室井への憐みだ。
今青島が絶望しているのは、室井に同調しているからだ。自分の痛みじゃない。
「や・・、やく、そくも・・・っ、な、なくな・・っちゃって、おれのことも、なく・・なってっ、・・も、やだ、・・も、むりだよ・・っ」
「分かったから青島ッ、悪かった、俺が悪かったから・・!」
もう一度抱き締め、その頭を掻き寄せた。
背後では、扉を力任せに叩きつけ、一倉もまた汚い言葉で罵った。
こんな状況を、池神は望んだのか?
狸共の高笑いが聞こえてきそうだった。
一番大切だったであろうものを傷つけて、一番大切だった人に傷つけられて、青島の痛みが新城の胸を痞えさせる。
室井の、無自覚とはいえこの仕打ちはあんまりだ。
記憶がなくなること言うことは、本人も地獄だろうが、人格を越えてしまう鎖の消失が残虐だった。
鎖とは、感情であり人情であり理性なのかもしれない。
「何で帰ってこない?」
突然突き付けられた現実に、重なるように降ってきた言葉にハッとして、新城と一倉は緊張を走らせた。
そういえば扉を開け放したまま、会話をしていた。
動揺していたとはいえ、迂闊だった。
見れば、通路の入口で、室井と中野が立ち尽くしていた。
17.
「これはどういうことだ」
室井の声には静かな中にも怒りが込められていた。
裏切り・孤独・憤懣・見せしめ。全ての強烈な感情の矛先がこちらに向いているようで、その視線は唯一人の男、青島に向けられていた。
だが青島の視線は床に落とされ、袖口で乱暴に濡れた目元を擦った。
嫌がられている?むしろ、避けられているのか?
会っても、目すら合わせない光景に、室井は地団太を踏む。
その拒絶に、青島の意識は室井を向いていて当然という不気味で異様な思い込みがあったことに、室井は拳を握り締めた。
青島を中心に、次々と明るみに出る見知らぬ怪異は、室井に鬱陶しささえ覚えさせた。
「こんなところで何の密談だ?」
室井の厳格な靴音が、一つ、刻を鳴らす。
やけに響くそれは、日没の宵闇に半端に削げた。
「皆で私を嵌めたのか・・!」
「おい!」
「いいって!今のあの人には、何を云っても分からない・・!」
一倉が声を荒らげるのを、青島の震え声が止めた。
青島は、声もなく泣いていた。
顔は決して室井には向けぬまま、次々に落ちる雫が夜光に粒を連なりにする。
その青島の頭を、沈痛な面持ちで一倉が引き寄せ、慰めるように掻き回した。
それは何という光景なのだろう、室井の下腹が熱くなるような感情だった。
濡れた目で、たった一夜、室井の背中に縋ったその身体で、他の男の胸に顔を埋める。
それでいて、古びたコートの奥で、上質なラインはこんな場所でも耽美に傾いだ。
意味の分からない激しい苛立ちが室井の腹の底から恐ろしいほどの威力で湧き上がった。
でもそれが何なのかが分からない。
「私には分からないとは、どういう意味だ」
真実を問い質す言葉に、誰もが沈黙を貫いた。
室井は眦を決し、背筋を立てた。
ほんの数日前まで、室井は青島へ密告者としての嫌疑をかけていた。
だが青島が繋がっていたのは上層部キャリアでなく、室井の側近たる信頼を寄せた同僚たちだ。
となると話は随分と変わってくる。
青島を室井に向けてきたのは新城だ。つまり、彼らこそが室井を陥れようとしていた張本人・首謀者ということになってしまう。
「室井さん、今日は、何故ここへ」
それまで黙っていた新城が腕を組み、話の矛先を変えてきた。
事実、一倉は4年前、室井を裏切った。
だが、新城までか。
ジロリと睨みつけ、また視線を青島へ戻し、室井が口を開く。
「中野くんとそこの彼を探していた。二日は帰っていないようだった。一倉も応答がない。だから此処へ。そしたらこの有様だ」
「二日不在の理由に、心当たりは?」
新城の追及に、室井の目が少しだけ動揺を乗せる。
「――朧気ながら、ある。だがそれはプライベートなことだ」
「夜の?」
「喋ったのか・・」
既に一倉と新城が、あの一夜のことを知っている。それは室井に、己よりも繋がりの濃い関係性を示唆した。
身体を暴いたことで、すっかりと手中に収めた気になっていたことが、一層室井の怒りを膨れ上がらせる。
青島が顔も合わせずに背を向ける。
去っていこうとするのが分かった。室井はその背中に咄嗟に声を荒げた。
「何故一倉に縋る。男になら誰にでも股を開くのか!」
「っ」
「君は一体何人に取り入った」
「貴方には、関係ない」
「君には忘れられない相手がいたんじゃなかったのか!その程度か!」
その台詞に、青島がその場から駆け出した。
向けられた背中がどんどん小さくなって、それを目で追い、追う間もなく、追いかける。
スローモーションのように見えるそれが、やけに、怖い。
消えていく姿に、強烈な虚しさを感じていた。
置いて行かれた。
置き去りにされたような、そんな不可解な思いが胸に押し寄せる。
「室井!」
その想いがどこから来たのか判然とせぬまま、追いかけようとした室井の二の腕を、擦れ違いざま一倉が強引に引き戻した。
「追って、どうする!連れ戻してまた手酷く抱くのか!」
「手酷くなんて抱いていない!」
「手首縛って輪姦してるってだけで充分胸糞悪ぃよ!」
室井が一倉の手を振りほどこうと捻り、力を込める。
そう簡単には一倉だって外させない。
「何なんだ一倉!お前くらいは俺の味方であってくれても良かった!なのに4年前お前は俺を売った!今度は何だ!」
「そのことは関係ない!」
「それを信じろと?!」
「少なくとも、青島には関係ないだろう・・!」
それは確かにそうだった。
じっと睨み合い、息詰まる緊迫が数十秒続き、やがて室井は力を抜き、腕を振り払った。
今度は拍子抜けするほど、それはあっけなく外れた。
真横で成り行きを静観していた新城に、室井が視線を一度送る。
「君もか。最初から私をハメるつもりであの男を送り込んだのか?」
「だとしても、泣かせていい理由にはなりませんが」
周りの誰も彼もが敵に見えた。そして、誰も彼もが色褪せて見えた。
東京はこんなにも冷たく味気ないところだっただろうか。
こんな地を目指して、自分は広島で数年耐え抜いてきたというのか。
何かが違う。だがどこから狂い始めたのか分からない。
何が狂っているのかも、判らない。
自分が東京にいない間に、ここが随分と様変わりしてしまったことだけが、凍えた北風が告げていった。
「君たちは何だ・・!アイツの協働者か?それともまさか情人か?」
グッと新城の気配が殺気立ったのが分かった。
先に、一倉が室井の胸倉を掴み上げる。
ギリリと締め上げるその力に、室井の青白かった顔が一気に血色ばんだ。
「室井さん・・ッ」
ここまでどうにも口を出せなかった中野が室井の肩を掴み、寄り添い、一倉に許しを請う。
一倉の手は緩まない。
だが中野も引かなかった。
チッと吐き捨て、一倉が室井を投げ出した。
室井の首筋は切れ、血が滲んでいた。
「いいよ中野、んな奴、一二発殴ったところで罰は当たらねぇよ・・!」
「ですが一倉さん!」
食いしばる勢いで切ったのか、血の混じる唾を吐き捨て、室井が一倉を睨み上げた。
崩れた前髪から凄む形相に、一倉もまた、怯まない。
「一倉、お前がそこまで彼に肩入れするのか」
「知りたいか」
「知ったところでどうなる!自分の敵だということがハッキリするだけだ」
「怖いのかよ?ああッ?!」
室井が目を瞑り、下唇を咬み、失くしていくものを思い知る。
指先から零れ落ちていくものは、あまりに儚く、あまりに無残だ。
息を殺し、今度は一倉の胸倉を室井が縛り上げた。
「お前に分かるか!こんな形で裏切られて!見放されて!何のために戦っているのかもわからない!!」
だが、縛り上げているようで、それは一倉に縋っているようでもあった。
項垂れた室井の白い首筋が夜気に映える。
「欲しいものが手に入るお前に分かってたまるか・・!最後にようやく掴んだものにさえ!・・・捨てられる」
知らないことで戸惑い、分からぬ世界に脅え、捕り込まれた罠も見えず、藻掻く男の姿は、歪み軋み、狂い咲く秋の花のように堕ちていく。
変わり果てた背中にかける言葉は、誰にもない。
もうたくさんだ――室井の奥底から声がする。
「だったらッ、捨ててやるッ!踏みつけて、壊して、お前たちの企みもだ!共倒れにされた気分はどうだ、それが最後の意地だ!」
「っかやろう!!捨てたのはお前じゃねぇか!!お前なんだよ、青島の恋人は!アイツが今も忘れずにいる相手ってのは!」
室井の言葉に被せるように一倉が吼え、室井の背中を力任せに壁に叩きつけた。
足元をふらつかせ、室井がその拳を剥がそうと力を込める。
「そんっなに肝っ玉小せぇのかお前は!たった一人も許せないほど器がないのか!」
「なんだと!?」
「だったら出世なんて出来っこない、お前なんか上には行けない!」
一倉の声が大きくなる。
「約束も忘れたお前なんか、何の価値もねぇよ!!」
肩でハァハァと荒く息を吐き、一倉が舌打ちして背を向ける。
壁を足でガンと蹴飛ばす後ろ姿からは、一倉にとっても失言だったことを伝えた。
室井は目を見開いて、唖然とした顔で立ち尽くした。
一気に静寂が戻ってくる。
「お前が全部忘れたからじゃねーか・・!お前が捨てたから、あいつは崩れて、泣いて、泣いて、消えそうだったんだぞ!」
「・・何を言っている・・?」
「今のお前に青島は相応しくない!勿体ねーよ!!」
口で言いつつ、だが掴めそうで掴めなかった最後の鍵穴が、目の前でズルリと異形を表したのを、室井は背筋で感じ取っていた。
室井に隠された、不自然な真実を、彼らは知っているのだ。
「今のお前の立場も全部一人で成し遂げた顔しやがって!お前個人なんか何の力もねぇよ!みんな青島じゃねーか!アイツのお陰でここまでこれたんじゃねーか!」
脳味噌の片隅に、こびり付いて離れない、感覚が、振盪する。
ずっと、誰かが味方をしてくれて、誰かが共に戦ってくれていた気がしていた。自分は一人ではなかった気がしていた。
だが現実には誰も隣にいなかった。
それが、青島だった?
青島が、ずっと前から室井のことを好いていてくれた?
嘘だろう・・?!
「・・・・・・・」
ぎょろりと室井の目だけが周りを見渡す。
隣では新城が額を押さえ、黙したままだった。
背後の中野は顔面蒼白となり、項垂れている。
誰もが、その表情に、突飛で俄かには信じがたい一倉の発言の、強かな信憑性を裏付けしていた。
シンと静まり返った古色蒼然のコンクリートは冷え込みを強め、見計らったように埃を被った電灯がジジと導線を鳴らし、端から自動点灯していく。
「・・何が・・起きている・・・?」
ぼんやりと独り言のように呟いた室井の台詞に、気怠そうに一倉が振り返り、最悪な顔だなと言って、室井の崩れたスーツを手直しした。
悪かったと言い、泥を払い、曲がったネクタイを戻し、壁に凭れたままだった室井の腕を引っ張った。
口調を変え、一倉は吐息のような言葉で回想する。
「現実知って幻滅するのと、知らないまま夢見続けるのと、どっちが幸せなんだろうな・・」
「・・・」
「お前が辛いことは、ここにいる皆が知っている。それだけは――疑うな」
澱んだ気持ちを叫び吐き出したからだろうか。
室井の中であれだけ苛立ちを募らせ、拗れていた気持ちも、今は収まっていた。
信用性を持たないと思った彼らの言葉よりも、異常に震える手の震えが、事の深刻さを直感で室井に感じ取らせてくる。
「お前がホームに突き落とされたあの日、お前は腕の負傷と共に、頭を打ち、記憶も失っていた。事実を伝えることを、俺たちでも上でもなく、止めたのは医者だ」
「それは・・・今の・・・主治医のことでいいんだよな・・?」
室井の声は途方もない告白に微かに震え掠れる。
喉は異常に乾いていた。
「そこは心配ない。急激に過激な情報を一気に与えることは脳にストレスとなり、逆に症状が進む可能性があると言われた」
だから全身CTだのMRIだの検査を行っていたのだと、室井は今思い至る。
腕の打撲だけにしては大袈裟だと思っていた。
落ちた場所が線路であり、直後に列車が横を通過したしたことから、室井本人の証言を信じきれなかったのだとばかり、勘違いしていた。
「お前の正式な診断は、解離性健忘症。・・っんと、言葉にすると随分と軽い冗談だよな・・」
一倉の声音が、その冗談を、冗談ではないと伝えていた。
健忘症は、認知症や高次脳機能障害の主要症状で、患者の生活の質を下げ社会生活を困難にする大きな要因である。
「驚いたよ・・・そして、狼狽えた。今のお前のように」
自分が記憶喪失?失った記憶はどうしてしまった?
本当に、性質の悪い冗談だと一笑したい気持ちの裏側で、ここ数か月の不透明な現実に、一倉の言葉はパズルが嵌っていくような納得感を室井に与えた。
ただ、その指摘は一部違っていた。
自分が記憶を奪われたという事実よりも、心が無意識に頼っていた誰かが、青島だったことの方が
室井を甚く震わせる。
「結局、そこから三カ月。後は周知のとおりだ。襲った奴が誰であろうと、狙いはまんまと成功した。お前の記憶を奪えたんだからな」
「どのくらい・・・どのくらい、私は失くしたんだ・・?」
「約10年」
「!!」
「お陰でお前は何の脅威でもなくなった。今頃仕掛けた奴らは勝利の美酒に酔ってるだろうさ!」
黙って話の主導を一倉に握らせている新城が、足元に落ちている室井の鞄に気付き、無言で拾った。
新城の目を見、それから、ゆっくりと腕を上げ、室井は鞄を受け取った。
「・・案ずることはありません。何も丸々10年分、全部を盗られたわけじゃない」
「まさか・・!」
「お察しの通りです。貴方はこの10年の、青島の記憶だけ、失った」
室井は目を硬く瞑り、眉間を深め、息を止める。
告げられた真実は、余りに甚大で、余りに残酷だった。
身体の震えが、止まらない。
「そんなことが、起こり得るのか・・?」
誰もその問いの正確な回答を持たなかった。
自分の中に連綿と続く経験や思い出の、違和感のなさが不和となって、素知らぬ顔で都合の良い事実を植え付けていることに空恐ろしさを感じた。
故郷の匂い、東北の山脈、ありありと思い出せるそれは、真実なのか。
その数多の記憶の、どこをどう掘り返しても、あの男の存在がない。
「俺たちは最善の策を練らなければならなかった。お前のためじゃない、分かるか?」
一倉の口調が変わった。
切羽詰まった様子から、まだ伝えきれていない事態の大きさを仄めかす。
「青島はお前を失って、泣いて喚いて、壊れそうで、大変だった。だから俺たちは青島を通常任務から外した。俺たちと共に周辺警備に回したんだ」
「所轄に・・」
「行ったところで使いもんにならないから、他の課をたらい回しさせてる。日常に返したりしたら、それこそアイツは潰れていた。間違いなく」
一倉がジロリと目を据え、硬い口調で断言する。
それは室井に寒気を呼び起こした。
この冷気のせいではない。起こり得たかもしれない事実に、身体が勝手に反応したのだと分かった。
瞠目する室井の前で、新城も視線を合わせない。
彼にとってもこれは苦渋の決断だったことを感じさせた。
室井はガチガチに固まった首を無理に動かし、背後の中野を見る。
「君も――知っていたんだな」
「申し訳ございません」
これこそ、謝る必要はないことだった。
そう言ってやりたかった。だが恐怖で強張った室井の薄い口唇は、戦慄くだけで、動かない。
中野の復帰に、室井が謝罪の言葉を述べた時、中野と少し会話が噛み合わないことがあった。
あれはきっと、室井が元の室井に戻ったのかと、中野が確認した言葉だったのだ。
「この事件にアイツを巻き込んだ。俺たちの責任だ」
「霞が関の事故のことか?」
「少しは頭が回って来たようだな。その通りだ。お前を狙ったのが個人的理由なら、次に狙われるのはアイツの可能性がある。お前を確実に潰すためにだ」
色々と見えてきた現実に、ようやく室井にもこの計画の全貌が見えてきた。
室井が襲われたことで、青島も危険に晒されていて、匿うためにも目の付く形で手を組んだ。
所轄では使い物にならないと言った言葉もまた建前で、彼を表に出すわけにはいかなかったのだと勘付いた。
「それと、お前のことでボロボロになっているアイツにも“名目”が必要だった」
「・・・」
「何か理由があって動いていなきゃ、アイツは潰れていた。そのくらい、お前を失ったことで泣き崩れて、弱って、見ていられなかったんだ。
お前のために出来ることがあると、そう錯覚させることで、なんとか生気を取り戻させていたんだ」
記憶のない室井を通常業務に戻らせ、その姿に誘き寄せられる真の敵を炙り出すつもりだ。
「自分を囮に使えと、言ってきたのは青島だ。最初は断ったさ」
「それで、一倉とツーマンセルで・・?」
「こっちも青島を野放しには出来ない。こっそりお前の近辺を洗うという、お前に関われる役目を与えた。そうしてようやく落ち着いてきていたんだ。それを!」
だが、中野が狙われて、そうも言っていられなくなった。
「このことを知っているのは、まだごく一部だ」
「待て。だとしたら、何故私に彼を近づけた?危険すぎないか?」
室井の素朴な疑問に、ここで新城が口を開く。
「池神ですよ」
「なんだと?」
「貴方を業務に戻す様、初めに提案したのは医者です。以前の生活を取り戻すことが、脳の回復への切欠になるかもしれないと」
「・・・」
「そこから一カ月、何の変化も見られなかった。そんな時、中野が被害にあった」
「・・・焦れたのか」
「直々に呼び出されました。室井さんの容態を知っていて、青島に面倒を見させろと提案してきました。断ったのですが」
新城がある程度抵抗を見せたことは、その顔を見れば容易に想像が出来た。
同時に、新城が逆らうほど、池神が頑として引かなかったことも、想像が付いた。
「まだごく一部しか知らないと言ったな。それは、誰だ・・?」
室井の頭の回転の早さに、新城が満足げに目を光らせた。
「ここにいる面子。それとウチの細川。沖田には仲介役として当初から関わって貰っています。湾岸署には多くを知らせていない。一課の人間にもだ」
「それだけか」
「それ以外で知っている人間は、つまり、貴方の記憶を奪った側ということですよ」
つまり、その中に犯人がいる。
どこから仕掛けられていたのか、途切れた記憶は上手く辿らせてはくれなかった。
無情に息を殺す室井の喉がゴクリと鳴る。
拳を握り締める指先が、まだ、震えている。
まだ、一番肝心なことを、聞いていない。
「一倉、答えてくれ。――あいつは、一体誰なんだ」
一倉が口を開く。
「知ったらお前、地獄を見るぞ」
「――教えてくれ」
上等だと頷いた一倉の目は、承諾と、仲間の目だった。
「処罰も厭わない。左遷しても降格しても、査問委員会にかけられても!それでも信じ続けたアイツがいたから、お前はここまで来れた」
室井の心臓が激しく鼓動を打った。
「アイツはな!青島は、お前の唯一の相棒だよ!!」
「――!!」
それこそ、嘘であって欲しかった。
あの夜、俺は何故青島を引き留めた?
今一人にされたら、喚きだしそうだったからだ。
何故鬱憤をぶつける相手が、彼だった?
彼がずっと受け止めてくれていたからだ。
心はとっくに悲鳴を上げていた。もう限界だった。助けてくれと、叫んでいた。
きっと、それ以上の想いで、ずっと青島は寄り添ってくれていた。
恋人である前に、青島は室井の一番欲しかった、一番の相棒なのだ。
簡単じゃなかった。青島は、全身全霊をかけて、その身を捧げて、室井を護ろうとしてくれたのだ。
それを、俺は。
俺は――!!
「待て!」
「放せ!」
弾けたように再び青島を追いかけようとした室井を、一倉が寸でのところで堰き止める。
怒りに狂ったまま振り払おうとするその腕を、力任せに押さえ付け、一倉は室井をこちらに向かせた。
「今のお前が行ったって、青島を傷つけるだけだ!」
「だが!」
「今のお前じゃ、あいつの居所だって掴めないだろう!」
そうだ、そんな些細な情報すら、今の室井にはない。
「昔の俺なら、彼を見つけられたのか?」
「ああ、恐らくな」
横から新城も心配げに中野と顔を合わせた。
新城の目も厳しくなる。
「ですが一倉さん、青島を探しに行かないと」
「俺がいく」
「お前が?」
一倉の言葉に、ざわりと室井の胸が騒いだ。
それが嫉妬であることは、もう明白だった。
「お前なら場所が分かるって言うのか」
「ああ」
「教えてくれ!」
「言えないね!」
室井の薬指に微かに残る、指輪痕。
時間と共に消えていく。室井の記憶と共に消されていく。
青島が、消えていく。
「何でだ!一倉!頼む!行かせてくれ!」
「約束も忘れて、どれだけアイツが傷ついたと思う、どれだけアイツを泣かせれば気が済むんだ!」
「お前には渡したくない!」
「阿呆。お前の赤い糸なんざ、とっくに切れてんだよ」
室井の言葉にニヤリと嗤う綻びは、残照だ。
これ以上は時間切れだとばかりに、一倉が室井の肩を押し返す。
「新城!後は頼んだぞ!」
「了解です」
追い縋る室井の両腕を、新城と中野に抑えられ、室井は遠ざかっていく一倉の背中を悔し気に見送るしか出来なかった。
