たいせつなものは






 いつの頃からか、室井にバーボンが二つ渡されることはなくなっていた。
 からん、とグラスの中で氷が涼やかな音を立て…室井は、普段以上に重くなっていた口を開いた。
「もう、この店には来ない」
 そう言うと、優司はしばらく反応を返さなかった。やがて、小さく、そうですか、と言って、一口酒を含んだ。それから、思い出したように笑った。
「…なんでそんなこと、俺に断るの?」
 言われてみれば、そうなのだった。
 約束しているわけではなかった。一緒に呑むといっても、それ以上は求めなかったし、求めるつもりもなかった。なにかを断らなければならない関係などでは ない。かわすのは言葉ばかりで…身体はおろか、手に触れたことすらなかった。
 それでも優司と話をすることは、室井にとっては避けて通れないこと、だった。
「…たいせつなひとがいるんだ」
 吐きだした息とともに、青島への想いがかたちになってこぼれ落ちた気がした。
「そのひととは、たいせつな約束をした。生涯かけた約束だ。私たちはそのために生きてきた」
 そう…誤解の秋を…覚悟を決めた夏を越えて確かめ合った…たいせつな…。
「もう会えないけれど…私はその人を、ずっとずっと…愛し続ける…」
 たいせつなものは、いつでもたったひとつだ。それがあれば、男が生きる道は決まってくる。
「そのひとに恥じない自分でいたい。だからきみとはもう会わない」
 室井は優司を見た。
「崇龍会をつぶす」
 優司は、軽く目を見開いた。
「じゃあ、俺とあんたは敵同士だ」
 そして、くすりと笑いを浮かべた。
 おかしな会話だった。
 なぜそんなことを室井が優司に語るのか。
 なぜ優司はそれを静かに聞いているのか。
 そのわけには二人とも決して触れず…触れてはならないものをそっと胸の奥にしまう時間がただ過ぎていった。
 別れ際、優司が言った。
「じゃあ餞別に、あんたにいいものをあげましょう」
 室井のコートの襟を掴み、引き寄せて…耳元に囁いた。
「今週の水曜日。…大きな取引があります。新薬が横浜から届く。…チャンスですよ」
 呆然と、その言葉の意味を呑み込んでいる間に…優司は不思議な笑みを浮かべて室井から離れた。
「さよなら、室井さん」
 冬のどこかぴりりとした風に、その声は柔らかく溶け…優司は雑踏に消えた。










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