帰れない場所
いい天気だ。
優司はサングラス越しに冬の空を見上げた。
雲一つない、薄い水色の空がビルの谷間に広がっている。
視線を地表に降ろせば、コートの襟を立てたサラリーマンが背中を丸めて歩いていく。
…この稼業をやっている唯一と言っていい特権だろうか。あくせく働くことなく、昼間からぼんやりと空を見上げながら街を歩くことができる。
なにも考えなくても許される時間は限られているけれど…そんな時間が今、優司にとっては貴重だった。考えなくてはならないことが、あまりに多すぎた。
村井と関係を持ってしまった。
そう「誤解」されることは結構なことだった。九嶋の目を欺いて村井と連む格好の理由だった。…けれど、事実になるのは予定外だった。
関係を持ったからといって、村井が優司を自分のものとして扱うようになったかといえば、そうではない。組では自分の弟分として優司に接し、部屋に帰れば
相棒として、九嶋を切り崩す策を話し合う。今まで通りのスタンスを保って…時折、ふと思い出したかのように腕を伸ばしてくる。まずいのは、それが心地いい
と思ってしまう自分自身だった。
義理立てする恋人がいるわけではない。今は、九島の息の根を止めることだけ考えればいい。村井とは、その延長線でのこと。…そう、思い切れればいいと思
う。村井がそう思い切っているように。
肌を幾度重ねようと、村井の心が優司にないことなどわかりきっていた。村井はほかの誰かを心の奥深くに住まわせている。決して優司などには触れさせな
い、大事なところに。
…そんな男を、もう一人知っている…。
感傷に浸るほど、村井にのめり込んでいるつもりはないのに…やけにもどかしさを感じるのは、あの男のせいだと思った。
あの男…室井とは、気が向いたときに足を向けるバーで、肩を並べて酒を呑む、それだけの関係だった。室井がなにかを求めるような瞳をしたこともあった
が、それは優司を求めているのではないと、直感以外のなにかで感じていた。
この男は、自分を見てはいない。
空回りしたような、空虚な気持ちのままで、村井に抱かれた。疼く身体が、癒されると期待して。
けれど…それはただの誤魔化し以外のなにものでもなく…この身を真から欲してくれる腕を見失ったようで、たまらなかった。
早くこの仕事を片づけてしまいたい。そうすれば…すべてが解決する。なにもかも忘れて、安穏な生活に、戻るのだ。
“東京”とは、そういう約束だったはずだった。妙なことを考えていなければいいが、優司はこの種の仕事に携わるのはこれっきりだとなんども言ってあっ
た。“東京”はやんわりとした口調で、今の仕事のことだけ考えろと言った。その裏が読めずに…いらだちばかりが募っていった。
考えることが多すぎる。考えれば考えるほど…帰りたいとばかり思う。なのに、こんな自分でも必ず受け止めてくれる腕は…もうどこにも、ない気がした。
…しっかりしろ。
優司は頭を振って重たくなる気持ちを追い払おうとした。
まだ仕事は中盤。これを投げ出して帰るわけにはいかない。
忘れるんだ。些細な感情の揺れが、命を落とす。…そう身体にたたき込まれてここに来た。忘れろ…。
…そんなことは許さないと、神さまは思っているのだろうか。
優司のほんの一瞬の気のゆるみを遮るように、突然声をかけられた。
「あんたがユージ?」
目の前に仁王立ちに立った女を見て、優司は目を丸くした。
じろじろと、不躾なまでの視線を送って寄越す女を無視して通り過ぎるのは…無理らしい。女にその気がないのだ。
「なんですか?」
染みついた愛想笑いを浮かべて、この場をやり過ごそうとするが、そんなところがやくざ向きじゃないと“ホーク”に言われたことを思い出す。
「ユージってどんなヤツなのか、見に来たのよ」
…いい女だ。スレンダーな肢体に赤いシャツ。まっすぐなロングヘアが際立つ白い肌に、誘うように紅い唇。…知っていてやっているのだろう。挑発的に顎を
上げて話す。
「ふぅん…」
挑戦的な視線は変わらない。優司を上から下までじろじろと値踏みするように見ると、急ににっこりと笑った。
「村井のとこ行くの?」
「え、はあ…まあ」
答えてはっとした。この女はなんだ。今更ながら警戒心が沸いてくる。
優司と村井の名前を知っている。組関係でこんな女は見たことがない。…何者だ?
不意に剣呑な空気を身にまとった優司に、女はゆったりと笑ってみせた。
「あたしのこと、気になる?」
「てゆーかうさんくさいね」
「あんたも相当うさんくさいわよ」
「それが商売だからね」
今度は鼻で笑われた。
「村井に伝えて。必ずあんたを連れ戻す、って」
「…あんた、村井さんの、なんだ?」
低い声に、女は両手を上げてみせた。
「決まってるでしょ」
そして、にいっと口角を上げた。
「村井の女よ」
「…カオル?」
「ああ。そう言ってた」
村井は、難しい表情を見せた。…どう読んでいいのかわからない、難しい顔だ。
昔の女のことをとやかく言えるような関係ではない。…でもおもしろくなかった。だからカオルの言ったとおりに言ってやった。
村井はカオルという名を聞いた瞬間だけ、表情を固め…そして一瞬で消し去った。
「忘れろ」
「どういうこと?」
「そんな女は知らない」
「…ふーん」
知らないはずがない。村井らしくない反応だった。
しかし優司はそれだけ言って、村井に氷の入ったグラスを渡した。
「もてるんだ」
「当たり前だろ。こんな男前、女がほっとくか」
しらっと言って、グラスを差し出す。それに、見せつけるように酒を注ぐ。
村井はそれをぐいっとあおって、グラスをおいた。
「それより」
「なに?」
ボトルをテーブルに置いた音が、村井にとっては戯れ言の終了の合図だったらしい。
「ウラがつかめそうだ」
「へえ」
「来週の取り引きをまかされた。やっぱり横浜だ」
「…もうヨコハマは動いてる?」
「さてね。一人泳がせてる男がいるってのは聞いてるが」
「いつ動く?」
村井が優司の瞳を見つめた。
「…やるなら一気に、やるんだろう?」
「そりゃあね。さっさと片づけたい」
「そうしておまえは、昔の男のとこにでも戻るのか?」
「いないよそんなの」
言いながら、誘われるままに村井の腕に抱き込まれた。
「本当におまえは嘘吐きだ」
「だから。それはあんただって」
深まる口づけと蠢く腕に酔わされて、村井が起こした嵐に身を任せる。
この嵐の中にいる間だけは本当に…なにも考えなくてもいいことを知っているから。
村井の胸に住む人間のことも。
あの男が自分の向こうに見ている人間のことも。
紅い唇をした女のことも…ほんとうに愛したひとのことも。
切なくあえぎながら、自分以外の名をうっすらと唇にのせた優司に、村井が乱暴に口づけた。
半ば気を失ったように眠りについた優司をベッドに残して、村井は窓に額を押しつけた。
東京の灯りは品がないと思う。煌めきすぎてすべてを隠し、なにもかもが曖昧になっていく。忘れると決めた過去が不意に頭をもたげて、どうしようもない焦
燥感をかき立てる…。
鼻にかかったような吐息が聞こえて振り返ると、優司が気怠げに寝返りを打っていた。
村井は苦笑して一つため息をつき…髪をかき上げた。
…今日は、いつもより執拗に…乱暴に抱いてしまった。
優司はきつさを訴えることなく腕を伸ばした。
カオルが持ち込んだ、濃密な夜だった。それぞれに別の人間を想いながらの。
…誰より愛する女。
なにより大切な男。
どちらも選べず、両方手に入らないなら、いっそなにひとついらないと…こうして離れて想うだけで、ただ幸せを願うだけだと…思い切れたら、楽になるの
に。ほかの誰かを泣かせて砂を噛む思いをすることなど、決してないのに…。
氷が溶けて、カラン、と音がした。
グラスをおいて、ベッドに潜り込む。
優司を抱き込んで、目元に残る涙をぬぐって…別の男の名を呼んだ唇にそっと口づけた。
今だけの関係。
そう思いきって抱いたはずだった。
…やるなら一気にね、一気に。
そんな言葉が聞こえた気がして…村井はぎゅっ、と目を瞑った。
朝になったら…迷路のような夜を消し去って、“仕事”を進める。優司をもとの世界に戻す。足が洗えなくなるのは自分だけで十分だ…。
眠りに落ちる一瞬前に、カオルの唇が思い浮かんだ。呼ばれなくなって久しい、自分の名を呼んでいた。
触れようとしてそれは…かき消えた。
暗闇に。
