バーボンはふたつ
以前は、口実を見つけては湾岸署に通った。
危険はいつでも身の内にある。そうわかっていても…青島を視界の端に捉える瞬間が、いつでも欲しかった。
マンションに帰れば、青島がいる。署では見せない姿も、すべて見せてくれる。…でもやはり、一番彼が彼らしいのは、刑事として走っている姿なのだと、い
つも思っていた。それが青島で…それを愛し、焦がれているのだと。
なくしてみてわかる。
ただ、いてくれるだけでいい。
どんな君でも、いてくれるだけで…他に、目に映るものなど、なにも必要なかった。
君がいてくれたら…こんな思いはしない。
心変わりなど絶対にないと、死んでもないと、思っていたのに…。
君のいない日々に、君の残したにおいを探しながら生きていくのだと、思っていたのに…。
この生の果てにあるのは、こんなものなのだろうか。
青島に似ている男を見つめるために、室井は立ち上がり、崇龍会に行く、と中野に告げた。
突然姿を表した四課の主席参事に、崇龍会は目に見えて慌てていた。
生憎、会長は不在とのこと。
これは僥倖。喰えない相手との陰険漫才は、正直疲れる。
室井は書類の不備を言い渡し、1時間以内に再度寄越すように告げ、ソファに座った。
座り心地のいいソファではない。周囲を人相の悪い男たちに囲まれ、待たされる時間は苦痛以外のなにものでもない。それでも待つのは…たった一瞬でいい、
あの男を見られたら、それだけで。…そんな、浅はかな思いゆえだった。
室井の願望を聞き届けてくれる、心の広い神さまがいたようだった。
書類を持って現れたのは、優司だった。
…これで、声が聞ける。
室井は、心の中を覗かれないように緊張しながら、優司から封筒を受け取った。
「…これでいいですかね?」
ぞんざいな態度と口調だった。…が、室井が落胆したのは、そんなものではなかった。…優司の声は、青島とは似ていなかった。考えてみれば当たり前だ。似
ているのは背格好。青島は、死んだのだ…。
「…確認させてもらう」
心持ち声が低くなったのをどう取ったのか、優司は斜に構えて腕を組んだ。
封筒から書類を出す。…不備はない。もともと、大して意味のある書類ではなかった。ある意味、嫌がらせのようなもので。
「結構だ。…失礼させてもらう」
「はいどーぞ。もうこれっきりにしてもらいたいもんですね」
「こちらもそう願っている。…市民の安全のために」
「俺たちも市民ですよ」
「そうか、知らなかった」
…こんなことを、話したいのではなかった。室井はうつむいて小さく舌打ちした。
それを、優司が怪訝そうに見ている。
…意を決して、口を開いた。
「君は、どうしてこの稼業を?」
最初にも思った。身なりはどう見てもやくざだが、どうもそぐわない。…浮いているのだ。どこか陽気な、ステップを踏むような足取りだとか、殺気の感じら
れない雰囲気だとか。
優司は一瞬なにを言われたのかわからなかったようで…首を小さく傾げた。
「さぁね。…忘れちまいました」
それから両手を上げた。
「さあ、もう用事は済んだんでしょう?さっさと帰ってくださいよ、商売の邪魔だ」
そうか、と小さく言って室井は立ち上がった。
嘘を吐いている、と思った。
今日も、バーボンは二つカウンターに置かれた。
マスターは相変わらずの無愛想。
ゆうべ割ってしまったグラスの詫びを短く言うと、ぎょろりと目を剥いてからグラスを磨き始めた。
今夜もこの店に来たのは…青島のにおいを探すためではなかった。それに気づいて、この店で青島が見せた表情をいくつも思い出し始める。
照明を落としたこの店では、普段目にする青島とは違った表情が多かったように思う。
太陽の下で走り回って、溢れるばかりの笑顔を向けて、時折憤りを隠さずに室井にぶつかる…まっすぐな彼が、きっと誰もが思い浮かべる“青島俊作”だろ
う。…が、それだけではない彼を、室井は知っている。
青島には、どこか暗い陰があった。両親に愛されて育ったのだろうと思われるまっすぐなまぶしさの裏側に、それはあった。人の感情の暗部を、どうしてそん
なにも見たがるのかと…えぐるように、誘うようにそれは時折訪れた。その片鱗を見て…驚くのと同時にまた、惹かれる自分がいた。
本当は。男はあんたが初めてじゃない。
…そう聞かされたのも、この店で、だった。
そう言われても、不思議と嫌悪感はわかなかった。誰と、どこで、どうして。そう問いつめることも、なかった。
この恋が運命だったり必然だったりする必要はないと思っていた。今ここに、君がいてくれたら。そうしたら、歩いていける。…そのために、彼がこれまで経
験してきた恋愛があるなら、別にそれはそれでいい。そう思ったから…そう言った。
青島は、少し驚いたように笑って…カウンターの木目を指でなぞった。
映画でね、ターミネーター2。核の悪夢にうなされるサラが、テーブルに刻みつけるんです。「No
Fate」。…運命なんかじゃない。運命なんかに、自分の人生を決めさせない。…俺、あのシーン、好きなんですよ。
青島がなにを言いたいのか、実はよくわからなかった。
ただ…綺麗に笑う彼が、ここにいてくれたらいいと、そう思った。
ぼんやりと考えていて、不意に室井は苦笑した。
なぜこんなにも青島のことを考える?
「それは、青島を今も愛しているから」。
綺麗な答が自分に返ってきた。
…しかし、そうじゃない。もちろんそうだ、今も彼を愛している。誰よりも。強く深く、愛している。…たとえ彼がこの世界のどこにも、もういなくても。言
い切れる。断言できる。
…けれど今、青島のことを考えていたのは…誤魔化しているのだ。自分を。
青島が死んで…一切の色彩を失った世界に、ぽつんと明かりが灯った。
理由など知らない、ただ目に入った。…青島に、少しだけ似ている男が。
彼を、待っているのだ。この店で。
もしかしたら、会えるかもしれない。
そんな馬鹿げた期待をしている自分を誤魔化すために…青島を、思っているのだ。バーボンが二つ並べられた、このカウンターで。
…帰ろう。
そう思って、マスターにチェックを頼もうとしたとき。
昨夜と同じに、突然に。
扉が開き…優司が、現れた。
優司は肩をすくめた。
「連日ですか」
「君もだな」
「昨日の今日なら、絶対いないと踏んだんですがね」
「嫌われたもんだな」
「当たり前でしょう?」
住む世界が違うんだから。
そう言いながら、しかし優司は室井の隣に座った。図々しいと思う暇も与えず…それが、自然な流れだった。
マスターは、優司を見るなりバーボンを作り始めた。
「…馴染みなのか?」
「まあね」
「今日は、彼は一緒じゃないんだな」
村井の姿は、見えなかった。
「そりゃあ、いつも一緒ってことはないですよ。俺だって一人の時間が欲しい」
「…君たちは、いつでも徒党を組んでいるもんだと思ってた」
「そういうひともいるでしょうけどね。いろいろいるんです、やくざにも」
そう言って、優司はおもしろそうに肩を揺すった。
「やくざの隣で酒をのむおまわりさんがいるみたいにね」
それはそうだ。
苦笑して、室井はグラスに口をつけようとし…空になっているのに気がついた。手を挙げて、マスターにもう一杯つくってもらおうとするのを、優司の手がと
どめた。
「あるじゃないですか、まだ」
優司が示したのは、口が付けられないまま置いてある、もう一杯のバーボン。…青島のための。
「…これは…」
「あ、俺の?」
優司がグラスに手を伸ばすのを、反射的に払う。
「違う」
「あ…そう」
些かどころか、だいぶ無礼なその仕草に、優司はなにも感じなかったようだった。
動揺していたのは、室井だった。
「…すまない」
「?…いーえ」
絞り出すような謝罪の言葉の方に、優司は驚いたようだった。
「なんか、あるんでしょ?別にかまいませんよ、…俺には関係ない」
さらりと言って、マスターが差し出したグラスを手に取った。
そしてそのまま、室井に掲げてみせる。
それを見つめているだけの室井に、青島のためのバーボンを握らせ…
「乾杯」
かちん、とグラスを合わせた。
なにに…?
そう、思う暇も与えずに。
