こんな夜には







 彼の思い出ばかりが浮かぶ夜には、どうせ寝られやしない。
 そんな夜は、呑みに出ることにしていた。だれを誘うわけでもなく一人、馴染みのカウンターバーに立ち寄って…杯を重ねる。眠れるだけの量を。
 照明を低く抑えて、手元だけをキャンドルが照らし…隣の会話を柔らかくかき消す程度のジャズが流れるこの店は、青島が気に入って、よく連れだってやって きた…。
 無口なマスターは、ここのところ室井が一人だけでやってくるその理由を知っているのか知らないのか、決して青島はどうした、などとは聞かなかった。…た だ、やってくるたびに、バーボンを二つつくって寄越した。室井がもうひとつのグラスに手をつけないとわかっていながら…それでもいつも、もう一人のための バーボンを、作り続けた。 
 ぼんやりと、カウンターに落ちた琥珀の影を眺めていると、隣に誰か座る気配がした。
 のろのろと顔を見上げると…旧友が、苦虫をかみつぶしたような顔をして、室井を見ていた。
「飲み過ぎだ」
「そんなことない」
 室井は面倒くさげに答えると、残っていたバーボンを一気にあおった。マスターが嫌な顔をしながらも、新しいグラスをつくる。
「つかまらないと思ったら、こんなとこにいやがって。携帯の電源切るなって、いつも言ってるだろ」
「切れてたか?」
「かわいくねえな…いつからそういうものの言い方するようになった?」
 一倉が室井をこづくと、室井はじろりと一倉を睨んだ。
「青島が、死んでからだ」
 そう言えば、一倉が黙ると知っているからだ。…別にとりたてて、嫌みを言うつもりではなかった。ただ、うるさかった。それだけだ。
 しかし一倉は、痛々しい表情をつくり…絞り出すような声で、言った。
「お前には…話しておく」
「…なに…?」
 聞かされることは、ないと覚悟していた。
 青島はなぜ死んだ。だれが殺した。なにに、関わっていたんだ。
 …知りたかった。しかし、聞いてはいけないことだと、この組織に関わっている以上、聞いてはいけないことがあるのだと、あきらめていた…わかってい た。…つもりに、なっていた…。
「青島は、俺の下に入ってた」
 一倉が、ストールに座り直した。正面の酒が並ぶ棚を見ながら、しかしなにも見ていなかった。
「最近、新薬が出回ってる。ハマの方から流れてくることだけは、うちのが突き止めた。そこからが、どうにも進まなかった。用心深い奴らで…しっぽがつかめ なかった。こっちの顔が割れて…どうしようもなかった。だから…」
「ただ青島を使ったんじゃあ、ないな…?」
 張り込み。尾行。それくらいだったら、室井の耳には入れるななどとは言わないはずだ。
「…内偵をさせるつもりだった」
 アンダーカバー。…それで…。
「訓練に二週間。潜入までの段取りに二週間。訓練は順調に終わった。あいつ、意外に素質がある。まあそれを見込んで話を持っていったんだが…内偵を始めて すぐに、壁にぶつかった」
「…なんだ」
 一倉が、室井を見た。
「手強い野郎が、青島が張ってるのに気づいた。新参者で、信頼を得ようとやっきになってたんだろう。気づかれたらしいと電話が入って…俺はすぐに引けと 言った。しかしあいつは…」
 聞くわけがない、制止など…。
 一倉が、深いため息をついた。
「青島が抜けた穴は大きい。今やっと、後釜が来た所だ。…必ず、敵は討つ」
 ぐっ、と拳を握って…一倉は、室井を見た。
 室井はその視線を受け止めず…顔を逸らして、酒をあおった。
 熱い固まりを飲み下しながら、室井は考えた。
 青島を殺した人間を見つけだして…殺してやりたい。
 しかしそれは、胸の奥に封印していた思いだった。
 日本の法律は、復讐を認めてはいない。自分は警察官で…そんなことが、できるはずがない。そんなことをしても、青島は戻ってくるわけでは、ない…。
 しかしそんな綺麗事以上に、青島を殺した人間に、自分が向き合えることは決してないのだろうと、諦めていた。…一倉が…組織がそれを、許さないだろう と。
 しかし一倉は、室井に話した。
 これは、言葉通りに受け取ってもいいのだろうか。
 敵は討つ。だから許してくれ。
 …ただそれだけのために、室井に事件の全容を話すような男ではない。いくら友情が深くても…仕事と混同するような男ではないはずだった。
 敵は討つ。…だから、余計なことはするな…?
 一倉の性格上、裏はあるに決まっている。決して明かされることのないはずの『真実』の片鱗をちらつかせ…それで満足しろと、だからこれ以上は深入りして くれるな、ということだろうか。青島と関わり、柔軟になった一倉だからこそ、考えられることだった。
 いやそれとも…情報を流し…暗に室井に動けと…いうことなのだろうか…。
 酒に濁った目を一倉に向け、口を開こうとしたとき…思いがけない人物が、店に入ってきた。





「おや、まあ…」
 おどけた口調で肩をすくめたのは…長身の、黒ずくめのスーツの男だった。…たしか、村井と言ったか。そしてその後ろについているのは…優司だった。
「君は…」
 思わず立ち上がりかけた室井を一倉が制し、ゆっくりと言った。
「…久しぶりだな、村井」
「会いたくなんてありませんでしたがね」
「知っているのか、一倉」
 小声で問うと、一倉はふん、と鼻を鳴らした。
「横浜の方じゃ大暴れだって聞いてるぞ。いつこっちに河岸を変えた」
「おかげさまであっちじゃ息がしづらくってね。まあこっちも居心地がいいとは言えないが。…あんたがいるんじゃ」
 村井は優司の肩を押して店の扉を再び開けた。
「失礼しますよ。酒は旨く呑みたいんでね」
「ああ、そうしろよ。この店はお前らにゃ来にくいだろうさ。…四課のエライさんの行きつけだからな」
 そう言って、室井の肩をどん、と叩く。
 二度と来ませんよ、と言って村井は扉を閉めた。
「…一倉、今の男は」
「横浜の方で暴れてたやくざだよ。あっちのクスリがらみの事件じゃ必ず名前が出た。…いつの間に東京に来たんだか…」
「先週、崇龍会で見た」
「なんだと」
 一倉が目を剥いた。
「…どうした」
「青島に追わせてたのは、崇龍会だ」
 じゃあ、あいつが。
 胸をよぎったのは…焦げ付いたコートの切れ端。血がこびりついた靖国神社のお守り。光を照り返すシルバーの指輪と…忘れないでと言った、彼の最期の言 葉…。
 室井が立ち上がるのを、一倉が制止しきれずにグラスを倒し…がしゃん、と嫌な音がした。かまわずに室井は店の扉を開けて走り出した。
 あの男が…青島を殺したのか?
 さっきまで頭の中で計算していた駆け引きなど、一瞬で忘れ去った。
 殺してやる…殺してやる…!
 すでに二人の後ろ姿は店の前の道にはなかった。
 どっちだ…右か、左か。
 大通りへ!
 人の流れに紛れながら、室井は左右を見渡す。黒いコート。あの長身なら、すぐにみつかるはず…!
 ふと、小路に入る長身が目に入った。
 あそこか!
 拳を握りしめ、室井は小路に飛び込んだ。
 そこには…村井と、優司がいた。
 二人の姿を見て…室井は、凍り付いたように、立ちつくした。
 ビルの壁に背を預けた村井にすがりつくように優司が立ち…高い位置にある村井の唇を、柔らかく受け止めていた。
 優司の手がゆっくりと村井の髪をかき混ぜ…村井が優司の顔を引き寄せた。その瞬間…優司がつけていたサングラスが、かしゃん、と落ちた。
 似ている、と思った。
 …殺してやると、胸に渦巻いていたどす黒いものを柔らかく押しのけて…似ていると、彼に似ていると、また…そう、思った…。






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