ただ、忘れないだけ






 青島と一緒に暮らせたのは、1年にも満たなかった。
 なのに、どうしてこんなにも、この部屋は青島のにおいで満たされているのだろう…。
 青島が少しずつ増やしていったあれこれは、見れば胸の痛みを引き起こすだけなのに、どうしても片づけることができなかった。
 仕事をしていれば、まだよかった。気の抜けたような参事官でも、こなせる仕事はあるものだ。登庁して書類をさばいて会議をこなして。…それくらいなら、できた。情熱を持たなくても、ただ日々を過ごすだけなら、できた…。
 室井はのろのろと起きあがった。
 幸福な思い出の後の現実は、ひどく気怠く、気が重い。どうしようもなく、青島の不在を思いしらされる…。
 ぼさぼさになった髪をかき混ぜながら寝室を出ると、リビングのソファに、いるはずのない人間が座ってこちらを見ていた。
「おはよ」
「…お、はよう…」
「鍵開いてた。不用心」
「あ…ああ…」
「はやく顔洗って、着替えて。朝ご飯、用意してあるから」
「あ、ああ…」
 恩田すみれだった。
 ダイニングテーブルを見ても、朝食の用意などしていない。
 訝しげに彼女を見る室井に、すみれは「早く」とだけ言った。うむを言わせぬ響きに、室井は洗面所に向かう。
 言われたとおり、顔を洗って着替えると、すみれは大きなバッグの中からたくさんの入れ物を出していた。
「これ、朝ご飯。こっちは夕ご飯だから、冷蔵庫に入れて。…なによその顔。安心しなさいよ、つくったのあたしじゃないわよ。真下くんよ。ぼっちゃんのくせに料理上手いのよ」
「…そうか…」
 室井は椅子に腰掛け、すみれが広げた食卓を見つめた。
「室井さん、和食好きだって、青島くんが言ってたから」
 すみれが、ほんの少しだけ痛みを表情に乗せ…それから、室井を見た。
「お茶碗とお箸くらい、自分で出して」
「あ、ああ…」
 室井は慌てて立ち上がり、キッチンに入った。
 少しだけ考えて、茶碗と箸を二つずつ持ってリビングに戻る。
「…あら」
 すみれは、目を見開いて室井を迎えた。
「君も食べてってくれ」
「…ありがと」
 男の二人住まいだったから、余分なものなどおいていなかった。
「両方…青島のものなんだが…本当はご家族に、返さなければならないものがたくさんあるんだが…」
 二人で暮らし始めたときに、青島の荷物は全部この部屋に持ち込んだ。…今は、遺品となってしまったものが、たくさんある。
「…いいんじゃない?」
 茶碗に、持ってきたご飯をよそって、室井に差し出す。…差し出されたのは、青島の茶碗のほうだった。
「室井さんに持っててもらったほうが。室井さんのこれからのためにはよくないんでしょうけど…あたしは、そうして欲しいわ。…お茶碗、こっちでいいのよね?」
 室井は一瞬目を見開いて…それから、かすかに頷いた。
 箸にご飯を乗せ、口に入れる。
「…よかった。食べられるのね」
「…ああ」
「安心した」
「…ありがとう」
 正直、食欲など感じることはなかったが…すみれの心遣いが、嬉しかった。青島を忘れなくてもいいと言われて…ほっと、していた。
 青島を失っても、もう還らないのだとわかっても…忘れたくなかった。忘れたくなくて…苦しかった。どうしようもなく青島を思い起こさせるものたちに囲まれて暮らして、胸の痛みが癒えることはなかったが…たとえ全身の血を流し尽くしても、忘れずにいたかった。
「大丈夫ね」
「…ああ」
 真下がつくったという料理は、旨かった。どこか温かく…室井を、ほんのりと包んだ。
 大丈夫…なのだろうか。生きて、いけるのだろうか。
「室井さんがしっかりしててくれないと…青島くん困ると思うわ」
「…そうだな」
 青島を囲むものたちに、支えられながら。…生きなくては。青島がいない日々を。
 室井が柔らかく微笑むのを見て、すみれは小さく笑った。





 翌日、久しぶりにしゃきんとした心持ちで登庁すると、室井のデスクの前に見覚えのある男が立っていた。
「中野…君…」
「お久しぶりです、室井参事官」
 にこり、と人当たりのよい笑みを返してくる。
「どうした、警備局からなにか」
 心当たりがまったくないまま、鞄をデスクの上に載せる。
「いえ、今日付けでこちらに配属になりましたので、ご挨拶に」
「…君が?」
 中野は、四課向きではないだろう。むしろ、行政畑で力を発揮するタイプの男だ。目を丸くする室井に、中野は小さく言った。
「…一倉課長からの、要請で」
 一倉の。
「…そうか…」
 室井は、一つため息をついて椅子に深く腰掛けた。
 あれから…青島の、通夜から…一倉とは会っていなかった。会えば、なにをするかわからなかった。
 きっと心配して…気安い中野を、よこしてくれたのだろう。
 室井は、長身の中野を見上げて言った。
「慣れないだろうが、頑張ってくれ」
「…はい」
 中野は室井の表情を見て、ほっとしたように言った。
「一倉課長のお話とは、だいぶ違う様子で…安心、しました」
「…え?」
「まるで抜け殻だ、と」
「…そうか」
 顔を合わせていないつもりでいたのは、こちらだけだったようだ。
 顔に、苦笑らしきものが浮かんだようだ。それだけでも、中野は安心した様子だった。
「笑えるなら、大丈夫ですね」
「…ああ」
 似たようなことを、恩田すみれにも言われた。
 自分を取り巻くものたちの温かさに…今更ながらに、ようやく気づく。
 少しずつ、少しずつ…日常に表情が戻り…痛みが和らいで…いくのだろうか。ぽっかりと空いた違和感は、いずれ消えていくのだろうか。…それが嫌だと、泣きわめく子供には、もうなれないのだから。
 今、目の前に積まれた仕事を、片づけていくしかない。一つずつ。痛みが少しでも、和らぐように。
 ただ…忘れないだけ、愛し続けるだけ。
 許してもらう必要などないけれど…どこかにいる神様に許してもらって。
 そうしてなら、生きていけるかもしれない。
 室井は、表情をビジネスモードに切り替えて、中野に言った。
「では中野君。あちらで、説明を受けてきてくれ。現在の情勢だけは、今日中に頭に入れてもらいたい」
「はい」
 中野の淡々とした返事が、どこか心強く感じられて…今日あたり、一倉に電話をしてみようと、室井は思った。




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