星が見えない
見せられたのは、焼けこげがついた警察手帳だった。
「これが…?」
「遺品。現場で見つかった」
泣きはらした瞳は、今はもう涙を浮かべてはいなかった。
気丈な女性だ。
他人事のように、室井は思いながら…ビニール袋に入った警察手帳を手に取った。
それには…見慣れた靖国神社のお守りがつけられていた。
否応なしに、その持ち主が誰なのか、という現実が突きつけられる。
「では、やはり…」
「あの死体は、青島くん、て…こと」
唇を噛んで、恩田すみれは瞳を閉じた。沸き上がりそうなものを、噛みしめているのだろう。
「でも…まだ確認はとれていないんだろう?」
「血液型、一致した」
「顔は」
「…ないわよ、そんなの!」
噛みしめ損ねたのだろう。
恩田すみれは、殺しそうな勢いで室井を睨み付けた。
「家族にだって見せられないわ!あんな…あんなむごい…!」
では、彼女は見たということか。
室井はコートの裾を翻した。
「どこ行くの」
「遺体を確認する」
「やめて」
「…信じろと言うのか!遺体も見ないで、あいつが死んだだなんて!」
声を荒げた室井に、負けない勢いですみれも叫んだ。
「顔なんてめちゃくちゃよ!ぜんぶビルと一緒に吹き飛んで…それ見てどうするっていうのよ!」
身体を強ばらせた室井に、すみれが無造作にポケットから出したものを握らせた。
「これはあなたにあげる!…青島くんの手が握ってた!」
のろのろと、掌を開く。
…そこには、シルバーの指輪があった。
M to A。
内側に彫られたアルファベットは…間違いなく、彼に贈ったものだった。
「鑑識にもってかれる前に…あなたに…っ」
そこまで言って、すみれは耐えきれず泣き崩れた。
…彼女を慰める言葉さえ、みつからなかった。
愛してる。忘れないで、俺のこと…。
あの声は、今も鮮やかによみがえるのに。
信じられない。信じたくない。
なのに…。
霊安室の前の電灯が、昏くシルバーを照り返した。
通夜は、青島の実家で行われた。
初めてみる彼の家族は、だれもうちひしがれていた。
母親だけが気丈に弔問客に応対し、きりっとした表情で式を取り仕切っていた。
室井が棺の前に座ると、じっと室井を見つめ…深く、頭を下げた。
どう言葉をかけていいのかわからなかった。
室井もまた頭を下げ、香を上げてから…遺影を見上げた。
殉職扱いになっている青島の遺影は、しかつめらしい表情をした制服姿だった。
似合わないからねぇ、嫌なんですよね。
制服を着るたびに、彼はそう言って頭を掻いた。
似合わないな、相変わらず…。
胸に去来するのは、そんなものばかりだった。
信じられなかった。信じたくなかった。もう彼がいないだなんて。
遺族に頭をもう一度下げ、青島家の外に出た。
冬の空って、澄んでるでしょ?新木場からなら、まあまあ見えるんですよ。
わけもなく空を見上げる癖のあった青島が、いつかそう言っていた。
…ここからじゃねえ。やっぱ六本木はダメっすね。ね、夜中のドライブ行きましょう。星を見に。たまにはデートっぽく。ね?
…星は見えなかった。
冬なのに、見えないじゃないか…。
青島が死んだと言われても、捜査中になんらかのトラブルにあい、ビルの爆破に巻き込まれたのだと説明されても…室井の胸は静かなままだった。
遺体を見ていない。彼が死んだという現実が、どうしても腑に落ちない。
彼が死んだなら…自分が生きているわけがない。
根拠もないそんな思いが自分を締め付けるばかりで…泣くことさえ、なかった。
しかし、不意に嵐がおこった。
「室井」
一倉が、青島の家の前に立っていた。
「一倉…!」
身体が勝手に動いた。
右手を繰り出し、嫌な音がした。
不意打ちに、一倉が道路に手をついた。
「お前のせいで…!」
ふつふつと沸いてくる、黒く渦巻くものを…制することが、できなかった。
「お前を信じて預けたんだ!なんでツーマンセルでやらせなかった!そうすれば青島は…!」
一倉の胸ぐらを掴んで、無理矢理起こさせる。体格が全く違うのにこんなことができるのは…怒りが支配しているからと…一倉に、やり返す気がないからだ。
「……………」
一倉は答えず、視線を逸らした。
「なんとか言え!一倉!」
今もどこかで、冷静に自分が言っている。
ツーマンセルなんて、青島が従うはずがない。不測の事態が起こるのは当たり前のことで…一倉の要請に応えたのは青島自身。一倉を責めることに、なんの意味があるはずもない。
「青島を、かえせ…!」
そう叫んで…ようやく、青島の死が自分の胸の中にすとんと落ちてきたことを室井は理解した。
青島が死んだなんて、信じられない。信じたくない。今もそこから顔を出して、室井さん、と自分の名を呼ぶ気がした。
でも…
彼は、死んだのだ。どんなに一倉を責めても…還っては、こないのだ…。
一倉の胸ぐらを掴む手を離した。
一倉は、道路に座り込んだまま室井を見上げ、一言だけ、すまない、と言った。
室井は答えず、コートの裾を翻して背を向けた。
この広い空の下のもうどこにも…青島は、いないのだ…。
二人で語った理想も夢も…砂のように、崩れていく。
寒い寒いと、二人抱き合ってベッドに潜り込んだときに、室井にだきついて青島が言った。春になったら、桜を見に行きましょうね…。
そんな小さな約束さえも。
もう、果たすことができない。
つん、と鼻の奥が痛くなった。
空を見上げて、それをごまかそうとした。
星は、見えなかった。
