Under The Rose






 窓の外の樹が桜だったことに、今気がついた。
 ぼんやりと窓の外を見ていて、白いものに目がとまった。また雪か、と思ってよく見たら…ひとつだけ、ぽつりと咲いた桜だった。…季節の移り変わりに疎く なるほどに…変わってしまったのだと思った。この自分が。
「優司」
 呼ばれて振り返った。
 村井がじっと見つめていた。
「なんですか?」
 柔らかく答え、彼のそばの椅子を引いて座った。
 …村井は重体だった。海から引き上げ、救急車に運び込まれ…冬の海に冷え切った掌を握りしめて何度も名を呼んだ。このまま彼を死なせるわけにはいかない と思った。
 しかし驚異的な体力で、村井は回復していった。今ではベッドに起きあがることもできるようになっていた。…優司は…青島は、ずっと付き添い、彼の回復を 見守った。
 この先どうなるのか、見通しはたっていない。ただ…もう室井のもとに戻ることだけはできないと、そう思っていた。
 村井はいくらか鋭さの抜けた視線で、優司を見つめた。
「…まだ、かえる気にならないのか?」
「だから。あんたがちゃんと治るの見てからね」
 何度も繰り返された言葉だった。
 村井は傷が癒え次第、神奈川県警に戻ることが決まっていた。いろいろと問題はあっても、彼の力を手放す気はないのだという。
「神奈川に戻ったら…またアンダーカバー?」
「さてね。しばらく休暇がもらえるはずなんだが、うちの狸どもは入院まで休暇にカウントしてやがる。南の島はお預けだな…」
 南の島なんかあんたには似合わない、と笑うと、村井は苦笑して言った。
「相棒が行きたがるんだよ、水着のお姉ちゃんが大好きでね」
 相棒…。
 その言葉が、ちくりと胸を刺した。
 村井には村井の…帰る場所があるということだ…。
「お前は?続けるのか?」
「似合わないのわかったからねえ」
 わざと軽い口調で言うと、村井はにやりと笑った。
「確かにな」
「ひでえな」
「…似合わねえよ、お前には。…俺たちの商売は裏道だ。お前はそんなとこ歩く人間じゃない」
 不意に真面目な顔をして、村井は言った。
「お前を、待ってる奴がいるんだろう…?」
 村井が腕を伸ばし、青島の頬に触れた。…こんなに優しい口調でものを言う村井は、初めてだった。
 青島はその手をそっと払って言った。
「もう待ってないよ…」
 村井をどうしても放っておけなかった。別の人間に抱かれた自分を、室井が許さないとも思った。一緒に約束を果たす日を迎える資格など…もうないと、思っ た…。
「…言っただろう?人生は、アドリブなんだぜ?」
 払われたはずの手が、再び頬を撫でた。そこに…別の感触がした。
「…素直になれよ。泣くほど後悔してるんだろう?」
「村井さん…」
 青島は唇を噛みしめた。
 後悔なら、ずっとしていた。一度知ってしまった幸福は、ずっと胸を締め付けてきた。特別なことではなくて…ただ室井と一緒に過ごした毎日が、幾度も胸を よぎってはかえりたいと願い続けてきた。すべては自分の弱さが招いたことなのに…。
 ぽたぽた、と涙を流す青島を、村井がそっと抱き寄せて、胸に押しつけた。
「…悪いのは俺だ。お前を巻き込んだ。お前はなにも気にすることはないんだ」
「そんなこと…」
「そうなんだ」
 いやにきっぱりとした口調に、青島は顔を上げた。
「…俺の相棒とお前は、おんなじ名前なんだよ。俺はお前を呼ぶたびに…あいつを見てた…。もう忘れるんだって決めてたのにな」
 村井は青島の髪に顔を埋めた。
「…抱きしめるのはこれが最後だ。お前は、お前の場所に帰れ。俺は…」
 村井はその先は言わなかった。ただ、青島をぎゅっと抱きしめ…なにかを断ち切るように長く息をついたあとで、青島の身体を離した。
 そして、初めて見る柔らかい笑顔で青島に言った。
「もう来るな」






 まだ涙が残っている気がして、目元を拭いながら病室を出た。
 ゆっくりと歩きながら…村井を心の奥に封印していた。
 病院のロビーで、見覚えのある女とすれ違った。髪の長い、たしかカオルとかいった…。彼女は青島には気づかずに、隣を歩く、どこか踊るような軽快な足取 りの男の腕を引っ張っていた。
 それを見送って…病院の外に出た。
 これからどうしようか、ひとつずつ考えなければならない。
 一倉の要請通り、薬対付きのアンダーカバーを続けるのか、湾岸署に帰るのか、それとも…警察を辞めるのか。そして…室井には…。
 病室を出るときに、村井が青島の背中にもう一度言った。人生は、アドリブなんだぜ…。
 そんなに簡単に、考えられたらいいんだけどさ…。
 外はまだ身を切るような空気だった。春を感じることはできなかった。







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