Under The Rose






 ふわり、と柔らかな風を感じて、顔を上げた。
 …今年は春が早いようだ。咲き初めた桜が、風に身を揺らしていた。
 もうじき大きく広がった枝が春色に染まる。いつかの小さな約束がまたちくりと胸を刺す。
 室井さん、春になったら花見に行きましょうね…。
 …春になったぞ、青島…。
 彼が死んだと告げられたのは、冬の入り口だった。
 冷たく凍てつく季節を越えて、柔らかな風が強ばった身体をほぐしていくのに…相変わらず愛しいひとの面影は室井を締め付け離さない。
 一つため息をついて、室井は歩き出した。約束の時間が、近づいていた。





 よく晴れた、水色の空を見上げて彼は立っていた。
 ぼんやりと空を見上げる癖があったが、それは今も変わっていないようだった。
 声をかけるのはためらわれたが…ここまで来て、黙って見つめて去るわけにも行かないだろう。
「…青島」
 その声に、彼ははじかれたように振り返った。
「室井さん…」
 目を見開いて信じられないものを見たような顔をしてから…表情を固めた。
 遠すぎる二人の距離の間を…風に吹かれた桜が、舞っていった。





 一倉から、青島が実家に帰った、と聞いた。村井が使っていたマンションにいつまでもいたらしかったが、先日すべて引き上げて、実家に戻ると連絡が入った のだという。
 …季節がようやく動いたのを感じて、室井はすぐに休暇を取った。青島の実家を尋ねると、いつか見た母親が出てきて、申し訳なさそうな顔をした。
 墓地に行っている、というのだ。
 場所を聞き、頭を下げて去ろうとした背中を、呼び止められた。
「室井さん、て方ですよね?」
 言われて、名も告げずにいたことに思い至り、再び頭を下げた。
 母親は柔らかく笑った。
「うちの馬鹿息子をよろしくお願いします」
 室井は内心冷や汗をかきながら、こちらこそ、とよくわからない返事をした。…青島は、自分のことを話しているのだろうか。
 室井の様子を見て取って、青島の母はじっと室井を見た。
「うちのは小さい頃からつかみどころのない子で、親でもなにを考えてるのかわからないときがあったんですけど…あなたのことは、嬉しそうに…本当に嬉しそ うに、話してたんですよ」
「…そうですか」
 じっと見つめられて、居心地が悪い思いをするものなのに…なぜだか不快感を持たなかった。時折見たあの瞳に、よく似ていた。すべてを見透かそうとする、 茶色く光る、あの瞳に。
 真剣な面もちで見返す室井に、青島の母はふわりと笑い、もう一度言った。
「うちの馬鹿息子、よろしくおねがいしますね」
 室井は答えずに、深く頭を下げた。





「…お久しぶり、です…」
 見慣れた“青島俊作”が、そこにいた。
 あのとき背を向けた“優司”は、もういなかった。申し訳なさそうに目を伏せて、室井の言葉を待っている。
「…怪我は、もういいのか…?」
「は、い…」
「彼は」
 名前を出すことは憚られた。あのとき背を向けられたことが、事実として胸に残っていた。
 青島は一瞬口ごもった後で言った。
「…そろそろ、退院する頃だと思います」
「会ってないのか」
「はい」
「…そうか」
 居心地悪げな青島に、室井は話題を変えた。
「ここへは、どうして…?」
 彼岸をとうにすぎて、閑散とした墓地に…青島家、と彫られた石の前の花は色鮮やか多だ。
「…俺の代わりになくなったひと…ここに入ってもらってるんです」
「そっか…」
「無縁仏、なんですって。ここで居心地悪くないですか、って聞きに来てるんす。…うちのじいちゃん、口悪いからさ…」
「…そっか」
 …会えたらなにを話そうか、ずっと考えてきたのに…肩を並べて立てば、ひとつの季節を会えないままに過ごしてきたことなどなにも感じさせない自然さが 戻ってきた。
 どこかほっとして、室井は空を見上げてポケットに手をつっこんだ。
 指の先にあたったものを確かめて、室井は青島の目を見ないまま言った。
「少し、話をしないか?」
 青島が息を呑む気配がした。
 ゆっくりと青島に顔を向けると、青島は困った顔をしていた。
「…なにか、用事あるか?」
「…ない、です、けど…」
 なら、と室井はポケットから手を出して、青島の腕を取った。
「行こう」
 青島は困った顔をしたまま、小さくどこへ、と言った。
「海に行こう」
 少しの逡巡の後で、青島はひとつ息をついた。
「…はい」





 車の中で、ぽつぽつと、青島はこれまでのことを話した。…というよりは、室井がひとつずつ聞き出していた。
「ご家族は驚かなかったか。死んだ息子が生き返ってきて」
「…母さんには、一倉さんから話を通してもらってて。すごく叱られましたけど」
「とてもしっかりした方だな」
「手のつけられない乱暴者ですけどね」
「…そうか」
 時折、柔らかい表情が戻ってきはするが、すぐにまた堅さが戻ってくる。二人の間に、ともにすごさなかった時間以外のなにかが横たわっているのを感じなが ら、室井はハンドルを切った。
 車を止めると、見覚えのある風景に青島が室井の顔を見た。
 室井はつとめて柔らかい表情をつくり、行こう、と青島を促した。
 …浜へ出ると、いつかすみれを伴ってきた頃のような冷たさはないにしても、強い風が薄手のコートの裾を揺らした。
 すう、と大きく息を吸う。
 潮の香りが胸一杯に入って、ひとつずつ思い出がよみがえる。いつかの決意と一緒に。
 ゆっくりと振り返ると、潮風に髪を揺らして青島が所在なげに見つめていた。
「…青島」
「はい」
「…あの約束、覚えてるか」
「…約束?」
 彼とは、いくつもの約束をした。
 一緒に警察を変えると、いつ果たされるともわからない重たい約束から…春になったら、夏になったらと…他愛もない甘い約束まで、彼と語った「いつか」は いつまでたっても「いつか」のままであることが多かったけれど、そのどれもが重く、大切だった。
 なにかを思い出そうとする青島に、室井は言った。
「いつか、ここで言ってた。…俺が警視総監になったら、ごちそうつくってくれる、ってお前が言った」
 軽く目を見開いて、青島は小さく頷いた。
「…あれは、もういい」
 静かに言ったその言葉に、青島はびくりと身体を強ばらせた。そして大きく息をついて足下を見つめた。
「そう…ですか…」
 引導を渡されるときが来たのだと、青島は静かな気持ちでそれを受け止めた。どこか居心地のよかった村井のマンションを出て、実家に帰っても気持ちが平穏 になることはなかった。…やがてやってくるこの日を恐れて。
 言われてみれば、案外冷静に受け止めることができる。室井を裏切ったこれは罰。見限られても…仕方がない。
 なのに、なぜだか鼻の奥がつん、とした。なにかしゃべったらそれは堰を切りそうだったから、どうにかして返事をした後は、もうなにもしゃべるまいと思っ た。
 眼からあふれ出しそうな水分が重力でひっこまないかな、と思って、空を見上げた。
 さくさく、と砂を踏む音が聞こえて、室井が静かに言った。
「ごちそうなんかいらないから…戻ってきてくれないか」
「…え?」
 意外な言葉に、室井を見た。
 室井はまっすぐに青島を見ていた。腕を伸ばせば届く距離で。
「…お前がいない間、ずっとお前のことを考えてた。お前を殺したやつを殺してやろうとか、さっさと約束果たして死んでやろうとか、いろいろ考えた。で も…」
 室井は眼を瞑った。
「お前が生きてるなら、どうでもいい。いつか警視総監になったら、なんて未来はどうでもよくて、ただお前がいた毎日が一番大切だったって、何度も何度も 思ったんだ…」
 眠りに就く前も、夢の中でも、眼をさました後も…思い出しては、涙を堪えた。
 室井は眼を開いた。そこには、引き裂かれた魂の半分が立っていた。腕を上げ、頬に触れれば、確かな生命の温かさがある。
「鷹山との間になにがあったのかは、聞かない」
 その名を聞いて眼を逸らした青島に、はっきりと告げる。
「お前の過去は気にしないと、前に言った。…今もその気持ちは変わらない。ただ…お前がいてくれないと…」
「室井さん…」
 顔を歪めて室井を見る青島を抱き寄せた。
「俺は、死んだも同じなんだ…」
 なにもかもが色あせて見えて、空虚な穴がいつまでも胸の中にあって…以前にも感じた、とてつもない喪失感をこのまま一生抱えていくのはご免だった。
 強ばる身体を抱きしめて、もう一度言った。
「戻ってきてくれ」
 強い力に抱きすくめられながら、青島は目を閉じた。
 こんな都合のいいことが許されるはずがない。以前、昔の男の話をしたときに室井が気にしない、と言ってくれたのとは状況が違う。自分はたしかに、室井を 裏切ったのだ。
 …なのに、抱きしめられたら、欠けていた何かが戻ってきたような感覚が全身を満たしていく。…ずっと、戻りたかった場所…。
「ほんとに…いいの…?」
 室井は答えず、腕の力をさらに強めた。
「室井さん…」
 不意に、村井の言葉がよみがえる。人生は、アドリブなんだぜ?…軽い調子で言ってのけたあの男は、そうやっていくつの秘密を隠してこれから生きていくの だろう。…なぜだか惹かれたその強さが、自分にも持てるのだろうか…。
 強ばったままの身体から力が抜けて、室井の肩に青島の頭がこつん、と載せられた。そっと腕が背中に回り、室井の身体を抱きしめ返す。
 室井は、青島の耳元に囁いた。
「お前に、返すものがあるんだ…」
 そっと腕を解いて、青島の腕を取り、自分のポケットに入れる。
 青島が指にあたったものを握り、泣き笑いのような顔をして、室井に抱きついた。
 すっかり汚れてくたびれたお守りと銀の指輪は、本来の持ち主にぎゅっと握られ…その上から室井が青島の手を握った。
「どこにいても…いつでも、ぜったい、愛してる…」
 小さく囁かれた言葉に、ぽろりと涙がこぼれる。
 …その言葉のために。室井のために。…たくさんの秘密を、胸の奥にしまって…歩いていこう。悲しませた日々を償って、室井の望む日常を重ねていけば、そ こにはきっと…いくつもの約束がかなえられる日がやってくる。
 ごめんなさい、と呟く嗚咽を遮って、室井が青島の唇を塞いだ。
 薄い雲を裂いて射した陽射しが、季節を越えてようやく触れ合えた恋人たちを照らしていた。











back    next