月は欠け…






 ふわり、と白い煙が空気に溶けていった。
「優司、お前英語のほかになに話せる?」
「…村井さんは?」
 長身を上目で伺うと、村井はサングラスの下からじろりと優司を睨んだ。
「青学のくせに話せねぇのか?」
「あんただって横浜出身なんだから」
「話せないんだな?」
「あんたもね?」
 村井はちっ、と舌打ちをして、吸っていた煙草を投げ捨てた。
 暗い海に落ちていったそれを見ながら、優司はぽつりと呟いた。
「あと、1時間…」
 それで、この仕事が終わる…。
 不安定な月が、水面に映っていた。






「参事官、時間です」
「…ああ」
 ぼんやりと窓の外を見つめていた室井に、中野が声をかけた。
 手渡されたのは、防弾チョッキと拳銃。
 見慣れているはずのそれを手にすると、室井はぐっ、と顎を引いた。
 …手はすべて打った。
 後は…信じるだけだ。彼の言葉を。
 室井は立ち上がり、ぴんと張った空気に声を響かせた。
「では、でかけようか」
 これで終わらせる。必ず。
 胸の奥に殺意を隠して…室井は捜査員を引き連れて警視庁を後にした。





 九嶋が取り引きの現場に現れるのは、珍しかった。
 心なしか、村井の背中にも緊張が漂っている気がした。
 優司はサングラスの暗い視界で、距離を置いて立つ男たちの様子をうかがった。
 見た目には、自分たちと変わりのない男たちに見えたが…数人は、聞き慣れない言葉を話しているように見える。
 九嶋に眼で促され、優司は用意したアタッシュケースを手渡した。こんな仕事でも市内限り、眼にすることも少ない大金だ。
 九嶋は村井を従えて、銀星会の男たちの方に歩き出した。
 そっと、時間を確認する。…あと数分。
 銀星会の男も、重たげな鞄を手に歩き出した。…あの中に、崇龍会の金庫を潤す粉が詰まっている。
 丁度真ん中で、三人が対峙した。
「ご苦労さんで」
 銀星会の男が低く言って鞄を差し出した。
「中身を確認しますか?」
 金も確かめずに言うのは、自分たちが優位に立っているという自信からだ。九嶋は鷹揚にそれに首を振った。
「そちらさんのことは信頼してますよ」
 銀星会の男が唇の端に小さく笑みを浮かべ…そして視線を動かし、表情を固めた。
「…そっちの方は?」
 来た。
 村井がにやりと笑って、サングラスを取った。
「いよう。久しぶりだな」
「お前…!」
 男の眼が驚愕に開かれた。
「忘れちまったのか?こんな男前、忘れられねえだろう?」
 二人の異様なやりとりに、九嶋が眼をすがめた。
「村井…」
「ゲームオーバーだ」
 九島の言葉を遮り、村井がサングラスを投げ捨てた。
 その瞬間、街頭もない暗い埠頭が、かっ、と白く光った。
 周囲を無数の車が取り囲み、一斉にライトを点灯させたのだ。
 拡声器からの声が響く。
「警視庁だ!全員両手を上げろ!」
 …一瞬の空白があとに、銃声が響いた。
 銀星会の男たちが色めき立つ。その場が混乱し、現れた警察官と銀星会の男たちが入り交じった。
 九嶋は動揺から瞬時に立ち直り、金の入ったアタッシュケースを持って走り出した。
 村井が一瞬優司を見遣り、九島を追う。
「待て!」
 懐に入った重い感触を確かめてから、優司も走り出した。あたりでは男たちの怒号が飛び交い、乱闘が始まっている。巻き込まれたら終わりだ。
 混乱の夜は、始まったばかりだった。





「銀星会会長を確保しました!」
 部下が叫び、室井は頷いた。今頃横浜の銀星会本部には一倉が駆けつけているはずだ。直前に連絡を入れたのだが、一倉は余裕の表情で準備はできていると告 げていた。食えない男だと、改めて思った。
 あとは九島を確保すれば、横浜と東京を結ぶ麻薬の密売ルートの太いパイプを絶つことができる。あと一歩だ。
 次第に混乱が収まり始めた現場を確認して、室井は背後に立つ中野を見遣った。
「中野」
「はい」
「ここの指揮を頼む」
「…え?」
 大量の逮捕者に、四課も混乱している。ここで室井が立ち去っていいはずがない。
 中野は明らかに困惑して室井を見た。
「しばらくここを離れる。すぐ戻る」
「…はい」
 冷静な室井の口調に、中野は安心したように頷いた。
「だれか一人つけてください。まだ九島を確保していません」
「ああ…」
 誰か、と周囲を見た瞬間だった。
 みぞおちに、衝撃を感じた。
「…っ!」
 思わず膝をつく。見上げた先に、室井が眉間にしわを寄せていた。
「仕返しは一倉にしておいてくれ」
「ま…っ!」
 制止の声が出なかった。室井はライトの届かないコンテナの群れに向けて走り出していた。






 コンテナに身を隠しながら、村井は舌打ちをした。
 まだ銃声が聞こえる。銀星会には村井の…“ホーク”の顔は割れている。九嶋を追いながら、頭に血が上っている銀星会の男たちを振り切るのはなかなかに手 がかかった。
 コンテナが多いのも考えものだ。自分の身を隠してはくれるが、動揺に九嶋の姿をも隠してしまう。九嶋を取り逃がすわけにはいかない。“横浜”との契約 だ。
「ちくしょう…」
 あたりを見回しながら、コンテナの横をすり抜けたときだった。
 背後に殺気を感じた。
 振り返ろうとしたが、遅かった。
「動くな」
 冷たく響く声がした。
 一つ息をついて、両手をあげた。
「撃つなよ…」
 組の連中だったら、声などかけない。警察だったら、まだ話が通じるだろう。“東京”の名前を出せばいい。
 村井はゆっくりと振り返った。
「動くな。こう見えても拳銃の成績はよくないんだ」
 村井に照準を合わせていたのは…室井だった。
「おいおい…待ってくれよ」
 薄笑いを浮かべたのは、計算違いだったようだ。室井の表情はまったく読めず…まっすぐに伸ばした腕の先は、はっきりと村井の胸を指していた。
「こっちにはまだ仕事が残ってるんだよ、警視庁の…」
「うるさい。お前の事情なんか聞く必要はない」
 室井は一歩を踏み出した。微かな狂気が近づいてくる。
「おいおい…」
 村井は拳銃を指の先に引っかけて見せた。
「無抵抗の市民にそんなこと言っちゃあまずいんじゃないのか」
「お前は市民じゃない」
「立派な市民だよ、いいかよく聞け…」
「お前を殺す」
 室井ははっきりと言った。
 村井は耳を疑った。
「なんだと?」
「お前は青島を殺した」
 聞き覚えのない名前だった。
 村井は顔を傾げた。
「知らないな、そんな奴は」
「やくざの決まり文句だ」
 室井がまた一歩を踏み出した。室井の声にははっきりとした憎しみがこもっている。
「待てよ、本当にそんな奴は…」
「室井さん!」
 村井の背後から、声がした。優司だ。一瞬室井の眼が揺れる。
「室井さん…」
 息を乱して、優司が村井の横に立つ。
「なにやってるんですか…銃、降ろして…」
 室井に向けて手をさしのべる。
「来るな」
「室井さん、あんたなにか誤解してる。このひとは…」
「来るな!」
 室井が叫んだ。そのとき、背後に光るものが見えた。とっさに、身体が動いた。
「伏せて!」
 室井に飛びかかり、地面に引き倒す。熱い感触がしたのは、その一瞬あとだった。
 視界のはしに、九嶋の顔が見えた気がした。








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