朝靄に溶けた未来
「500万?」
九嶋の口から出た数字は、優司の声を跳ね上げさせるのに十分だった。
「…張り込みましたね」
村井はいたって冷静だ。
とん、とグラスをおいて、脚を組み直す。
「向こうはずいぶん強気なようだ」
サングラスの奥の瞳が、厳しく光っている。
仲買の通常の価格は1キロ200万から300万。およそ二倍の値を付けてくるには、それなりのわけがあるのだろう。事実、九嶋の余裕の態度は変わってい
ない。
九嶋は吸っていた煙草を半分残して灰皿に押しつけた。唇の端に笑みを載せたまま、優司を見遣る。
「一億だ」
「…りょー…かい…」
だらしなくソファに沈み込んで答える優司をとがめる様子もみせず、九嶋は苦笑を漏らした。
この男は意外に使えた。猛獣のような村井を手なずけ、横浜とのつながりを確かなものにした。多少気まぐれで意のままに動かないときもあるが、こういう男
がひとりくらいいてもいい。そういう度量も、自分の名をあげていくだろう。
…そんな計算をしながら、優司に言った。
「不満そうだな」
優司は目を逸らした。
「…気味が悪い」
「なにが」
「ひとを狂わせる粉に大金投げ出すのも、そんなもん買うばか野郎たちも…気味が悪い」
吐き出すように言って、優司はソファから立ち上がった。
村井が肩をすくめた。
「そんなだから、らしくないって言われる」
追いかけた言葉に、優司はひらひら、と手を振って部屋から出ていった。
残された村井に、笑みを消して九嶋は言った。
「来週の取り引きは、おまえに任せる」
「はい」
村井はさらりと返事をして立ち上がった。
「…どうした?」
「聞き分けのない猫をしつけにね」
「はじめが肝心だ」
「まったく」
ドアを半分開けてから、村井は九島を振り返った。九嶋は窓辺に立ち、品のないネオンを見下ろしていた。
「ひとつ聴いてもいいですかね?」
「なんだ?」
村井にしては珍しい口調だった。
九嶋は表情の読みとれない顔を見返した。
「商売になるんですか?東京でさばききれる量でも価格でもない」
「そのへんの計算は、お前の仕事じゃないな」
「確かにね。…でも俺はここに命預けてる。わけをきかせてもらってもいいんじゃあ?それなりの働きはしてるつもりですがね」
野心を隠そうともしない危険な響きは、赤信号をちらつかせるが…嫌いではなかった。まずいことに。
九嶋は喉の奥で笑いながら、ぼそりと言った。
「…じき、値はさらに倍になる」
「……………」
「もう行け」
村井はなにも答えずに、長身を厚いドアの外に滑らせた。
「…聞いてたか?」
「どういう意味?」
優司は壁に背中を預け、村井を見上げた。
「さてね。ムズカシイ話は部屋に帰ってからだ」
腕を取ろうとするのを、優司は邪険に払った。
「なんだ?」
「来るなって言ったのはあんただ」
「ガキ」
村井は乱暴に優司の首根っこを掴んで歩き出した。
「離せよ」
口答えをしながらも、村井の力には敵わないのは、身をもって知っている。渋々ついてくる気配を感じて、村井は苦笑して手を離した。
「チェックメイトまであと一手だ。ウラが読めたぞ」
目を見張る優司に、村井は不敵に笑ってみせた。
村井の部屋に入るのは久しぶりだった。
村井は氷水を飲んで酒を払っている。…それと一緒に、艶のある空気を洗い流そうとしているようだった。
ほんの少しだけ緊張を解きながら、優司は窓辺でそれを見ていた。
「ウラって?」
ぼそりと言うと、村井はニヤリと笑った。
「簡単さ。需要と供給の関係を考えたらいい」
そして、優司の隣に立った。
「見ろ」
サングラスの奥の瞳に見据えられ、言われるままに空を見上げた。東京のネオンに負けそうな、頼りない三日月。
「九島がねらってるのはあいつさ」
なにが言いたいのかわからずに、優司は眼をすがめた。
「…なに?」
「わからないか?」
ゆっくりと唇が近づいてきた。
戸惑ったのは一瞬で…優司はそれを受け止めた。
銀の糸を引いて唇が離れ、優司は村井の頬にそっと触れた。
「マナー違反だ」
「なにが」
腕が腰に回る。
「キスしてるときくらい、眼は閉じて」
「…お前もな」
ぐっ、と引き寄せられて、優司は村井の胸に手をついた。
「銀星会は、タイに強い」
それは、村井の傷をえぐったようだった。
殺気が村井の身を包み…しかしそれは一瞬で消し去って、村井は苦笑で真意を隠した。
「お前には情緒ってもんがないね」
「…もうそんなのは、必要ないんだ」
村井は両手を上げて優司を解放した。
「あんたは崇龍会をつぶすために来たんじゃない、そうだろ?」
詰め寄る優司から、村井は目を逸らした。
「“横浜”のシナリオに銀星会なんか出てきてない。銀星会が出てくるなら…あんたがここにいるはずないんだ」
村井はくっ、と小さく嗤って優司を見遣った。
「人生なんかアドリブさ。シナリオどおりに物事が進んだためしがない」
ひら、と手を振って村井は優司に背中を向けた。
「…と、これは昔の相棒の口癖」
ポケットをまさぐり、携帯電話を取り出す。
「そいつにつきあって俺はさんざん痛い目を見た。…けど、やっぱり人生はアドリブなのさ」
ぽい、と携帯電話を優司に放り投げた。
優司がそれを受け止めると、村井は振り返って優司を見据えた。
「…“東京”に伝えろ。ウラがとれた、“横浜”を動かせ。そして…」
「…そして…?」
村井がはっきりと口調を変えた。
「崇龍会も銀星会も、息の根を止めるんだ。アフガンからの供給が止まってる今、タイの線をつぶせばしばらく世の中平和になるぜ」
優司は肩をすくめた。
「そしたら俺たちは失業だ」
「…望むところだろう?」
「たしかにね」
優司は携帯のボタンを押そうとして、思い出したように村井を見た。
「…昔の相棒は、今は?」
「さあね。…今頃いい女と南の島じゃねえかな」
めんどくさそうに答えて、村井は酒の瓶を取った。
優司はそれに背を向けて、黄金の三日月を見上げながら携帯のボタンを押した。
