あの日の、雨音が、聞こえた
東京スヰート
あれから、一週間経った。
あのひとから、連絡はない。
東京は、あの日と同じに泣きだしそうな曇り空。
雨が降るたび思い出すなんて嫌だな。
だから、早く思い出になればいいと思った。
あの夜の、一度きりのキス。
綺麗な思い出じゃなくていい、笑い話になったっていいから…早く、曖昧になってしまって欲しかった。
そう思いながら、電話が鳴るたびどきりとした。
もしかして。あのひとが。
…そんなことを考えてしまう俺は、きっと未練がましい男なんだろう。
煙草の量ばかりが増えていって、すみれさんが「吸いすぎ!」と言いながら俺の後ろをすり抜けていった。
「青島君、暇?」
俺は、ぎろりと課長をにらみつけてやった。相手は怯む様子もない。っていうか、怯む気ないんだよね。俺の迫力不足もあるんだろうが。身に染みついた営業
魂は、人当たりのいいぺらっとした笑顔を張り付かせている。
「報告書、五枚」
「え?」
「提出するまで椅子から立つなって言ったの、誰でしたっけ?」
「…僕?」
課長が自分の鼻を指さすのに合わせて、俺も課長の鼻を指さしてやった。
「そう、僕」
暇なわけないだろ、まったく。
…でも、ここでめげないのが課長なんだった。
「じゃあ、暇だよね」
「…なんですかぁ?」
いつもここで俺が折れちまうから、めげないんだよな。…ほんの少しだけ反省しつつ、俺は仕方なく椅子を回転させて課長を正面から見上げた。
つまんねぇことだったら、ごねてやるぞ。
「室井さん、本庁まで送ってさしあげて」
「…え?」
あのひとが、来てるのか?…まさか!
「忙しいところ申し訳ないが、宜しく頼む」
背後から、声が聞こえた。
…俺の好きな、深い声。古い弦楽器が、時間を積み重ねることで得る豊かな響きに、よく似ている。
俺はすぐに振り返るのが怖くて、そっと後ろを見た。
…デスクの上に綺麗な手が乗っていて、報告書を押さえていた。
「じゃ、青島君ヨロシクー!」
課長の薄っぺらい声がようやく耳に届いた。
…見上げた室井さんの目は、俺を見据えて離さなかった。
車の中の空気は、いままでになく重たかった。
室井さんはいつだって無口だから、話をするのはいつも俺の方だった。そして、俺に話す気がない限り、会話は成立しない。
だから、室井さんが資料を繰る音だけが、ぱらりぱらりと響いていた。
沈黙は重たかったけど、このまま室井さんが黙っていてくれたらいいと、そればかりを願っていた。また、あの日みたいなことを言われたら、今度は嘘を通し
抜く自信がない。…嘘は、嫌いだから。
虹の橋を渡って、あの日別れた新橋から銀座。そして、この国の中心近くの、三角の建物まで。
俺の願いを叶えようと思ったわけでもないだろうが、室井さんは沈黙を守ったまま車は桜田門の駐車場に着いた。
「…つきました」
「ああ、ありがとう」
室井さんはいつもきちんと礼を言えるひとだ。…そんなところも、好きだった。
ばたん、と音がして、室井さんが車を降りたのを確認した。
ああ、気を張った…。
俺は深く息をついて、クッションに身を預けた。
「降りろ」
「…え!?」
息をついたのもつかの間、俺は驚いて身を起こした。
室井さんが、運転席の扉を開けたのだ。
「なっ…」
「いいから降りろ」
室井さんは有無を言わさず俺の腕を取り、車から引きずり出した。
「ちょ、っと室井さんっ」
「車は本庁に置いていけばいい。袴田課長には、きみは直帰だと言ってある。なにも不都合はない。つきあえ」
「えっ、だって…室井さん!」
「俺の話は終わってないんだ!」
「…!」
腕を引き寄せられ、いつかみたいに顔を間近に突き合わせて、室井さんは低い声で言った。
…やばい。
逆らえない…。
俺は観念して、身体の力を抜いた。
「…こっちだ」
「はい」
室井さんに腕を引っ張られたまま、黒塗りの公用車に乗せられる。
ハンドルは室井さんが握り、俺たちは夕闇のせまる東京に滑り出した。
「あの…どこ行くんですか」
俺の話は終わってない、なんて言いながら、室井さんは黙ったままだった。
日比谷の交差点を抜けて、今は有楽町。…今来た道、戻ってる。
どこに行くかわからないでいるのは、けっこう不安だ。
俺は、室井さんの顔色を伺いながら聞いてみた。
「君の家まで送っていく。…それまでに、答えを出してくれ」
「答え…?」
室井さんは、前を見たまま言った。
答えって、いったいなんの。…いや、答えはとうに出ている。室井さんと、これ以上近づいちゃいけない。このひとのために。
ぐらぐらしだした気持ちを悟られないように、俺は車窓の外を見る。
暗くなりはじめた東京に、ネオンが輝きだした。
「…外見てないで、まずは私の話を聞いて欲しい」
なんだ、ばれてんの。
…だけど俺は、室井さんの言葉を無視することに決めていた。
室井さんはそんな俺の様子に一つ溜息をついて、話し出した。
「この間…いや、その前。君と…その、キスをしてから」
言いにくそうだ。…そうだよな、お堅いひとだもん。しかも一回こっぴどくはねつけられてる。プライド高いひとだから、そりゃあ言いにくいだろう。
「私はいろいろ考えた。すぐに思い浮かんだのは…私は君が好きだということだ」
まだ言ってるのか。いい加減にしてくれ。
「その話だったら、ここで降ろして下さい」
「最後まで聞け」
…その言葉に逆らえなかったのは…俺の心が震えてたからか、室井さんの口調が静かだったのにきっぱりとしていて、とても逆らえない迫力があったからなの
か。…きっと、後者だ。
「私は、君が好きなんだ」
繰り返される言葉が、身体に染み込んできそうだ。俺はぎゅっと目を瞑った。…流されるな…流されるな!
「どうしても君といたい。一緒にいたい。…だったらどうしたらいいか、考えた」
そんな道が、あるはずがない。
「でも、君に振られた」
声に苦笑が混じる。まるで、あんなのなんにも気にしてない、とでも言いたげに。
「君に振られてから、二日間考えた。なぜ君に振られたのか」
目を開けた。車は銀座の渋滞に入り込んでいる。
「他人の気持ちになるのは難しいな。なかなかわからなかった」
室井さん、時間稼ぎするつもりで銀座に入ったのだろうか。車はいらいらするほど進まない。
なんか言ってやろうと思って、室井さんを見て、俺は固まってしまった。
「…きっと君は、私が約束を守れなくなると思ったんだろう。男の恋人なんて不祥事だとでも。…二日かかったんだ、それに気づくのに」
室井さんは、柔らかい表情で笑っていた。…このひとが笑うの見るのは、二回目だ。あの、階段の下で見て、から…。
「考えてみれば、君がそう思うのは当たり前だった。…それに気づかないくらい、私は君に惚れてる」
どうしよう。目が離せない。
「それから、さらに二日考えた。君がそんなことを気にしなくなるにはどうしたらいいか。…これも難しかった。でも、クリアできないことじゃない」
室井さんが、俺を見た。前方には、きらびやかな銀座のネオンと、赤いテールランプ。晴海通りから中央通りへの右折は渋滞中だ。
とっさに目をそらした俺の頬に、室井さんの手が触れた。こっちを向け、と…。
「私とした約束を、覚えているか」
忘れるはずがない。あんたは上に行く。俺は現場で頑張る。そして、正しいことができる警察に…する…。
「必ず上に行く。上に行って、警察を変える。他の者にはなにも言わせない」
決して強い力じゃないのに、室井さんの手に逆らえない。
室井さんは、俺の目を見つめて言った。
室井さんの目が、優しく光る…。
「君のことにも、口なんか出させない。隠れなきゃならないことなんかない。やましいことはひとつもない。…私を信じてくれ。必ず君を守る。いつでも、君を
思って、守る。約束も、君も、両方必ず守る」
…信じて。俺は、いつでも、あなたを、思ってる…。
心の中で叫んでた言葉が甦る。
不意に、室井さんが手を離した。…車が進んだのだ。
銀座の真ん中。四丁目の交差点。車は、上品で気取った街を目前にまた止まる。
「…で、最後に考えた」
照れ隠しみたいに、室井さんは声を改めた。…もう俺は、室井さんから目を離せなかった。
「君が、本心から俺を振ったのかどうか」
けっこうきつかったぞ、これも。
そう、ちらりと俺を見て言った。
…本心じゃ、ない。ぽろんと、本音が転がり出てくる。
「あのときのは、とてもそうは思えないキスだった。君は私を求めてる。君も私を好きだと思ってくれてる。そう、信じて…」
室井さんが、俺の肩に手を回す。至近距離に引き寄せられて、もう俺は逆らうことなんかできなかった。もう、嘘を突き通す意気地が残っていなかった。
「今日は、湾岸署に行ったんだ。一週間もかかった。こんなにいろいろ考えたことはない。…ぜんぶ、君のためだ」
同じ想いを抱いてる、このひとに…嘘をつくなんて、もうできない…。
「…青島。君が好きだ。ずっと一緒にいたい」
廻された腕に、身を任せて。だんだん近寄ってくる男らしい顔に、目を伏せる。
…二度目のキスは、優しく、柔らかくて…このまま、どうにかなってしまいそうに、甘かった。
そっと、唇が離れて…うっすらと目を開けると、室井さんが言った。
「…いいか?」
生真面目なセリフが、あまりに室井さんらしくて…俺は、観念した。
もうだめだ。捕まった。
「…俺、嘘突き通せたためしがないんです」
小さく言った言葉に、室井さんが目を見開いた。
とたんに、クラクションが響いた。
「あ」
信号が変わっていたのだ。
なのにラブシーンなんか演じてる俺たちに、後続車が盛大にクラクションを鳴らしている。
室井さんは慌てて車を発進させた。
「しまった」
「…え?」
気まずくて身体を離した俺に、室井さんがぼそりと言った。
「こんなことなら、指輪を用意すればよかった」
「…は?」
指輪?…って、言ったか、今?
「今日は記念日だ。君が私を好きだとわかった。なにか形の残るものを用意したらよかった」
「いりませんよ、そんなの」
即答した俺に、室井さんはぎょっとして俺を見た。
「いらない!?」
「わっ、室井さん、前見て前!」
「…それは、その…やっぱりだめだってことか?」
室井さんは、ちらちらと前を見ながら運転している。
…室井さんて、けっこう危ないひとだったんだな。
なんて思いながら、でも俺の胸の中はあったかいもので一杯になっていた。
「そうじゃなくて。…かたちの残るものなんて、いりませんから」
「…それは、どういう意味だ?」
…室井さんて。けっこう日本語、通じない…。
だけどいいや、なんて思ってしまった。…そんなにも、俺は室井さんに惚れてる。室井さんが思う以上に。
「かたちのないものの方が、俺には大事です」
そう言って、俺は室井さんの肩に頭を乗せた。
室井さんは、しばらく戸惑っている様子だったけど、腕を廻して俺の肩をそっと抱いた。
…どんよりとした雲が、東京を覆っている。
だけど、雨は降らない。少なくとも、あの日みたいな悲しい雨は、もう絶対に。
