どんなときも、忘れないで
僕がいつでも、そばにいるから
東京スヰート
「…じゃあ、また」
そう言いながら、もう二度と二人きりで会うことはないだろう、と思っていた。
室井さんは、ああ、と小さく答えた。
すごく好きだと、思った。
この声。強い瞳。まっすぐな姿勢。
…今日の僅かな時間、この人を独占できたこの時間を、絶対に忘れないようにしようと思って、背を向けた。
この人は、汚れのないひと。俺なんかが、近づいてはいけないひと。
さようなら。
未練を断ち切って、歩き出した。
…そうしたら、腕を捕まれた。バランスを崩して転びそうになった。抱き留められた。引き上げられて顎を捕まれて…なんで?
すぐ目の前に、室井さんの顔がある。まっすぐに俺をみつめて…
唇に、柔らかな感触。
ああ…俺、室井さんに、キス、されてんだ…。
ぼんやりと、沸き上がる陶酔感に酔って目を閉じた。
これが、夢だったらいいのに…そうしたら、何度も何度もリピートして、ずっとずっと忘れない。
室井さんが俺の中に入って、甘く俺を酔わせていく。室井さんの手が、俺の髪をかきませて引き寄せて、より深く合わさった唇に、室井さんがいっぱいに広
がっていく…。
俺は、夢中で室井さんの舌に自分の舌を絡めた。…今まで押さえてた浅ましい感情が解き放たれて…室井さんとひとつになりたいと、キスの合間に忍ばせた。
ようやく室井さんが俺を離して見つめ合って…はっとした。
なにしたんだ、俺。
だめじゃないか!
…突然戻ってきた街の喧噪が、急速に俺たちを現実に引き戻した。
室井さんは、しまった、って顔をしていた。
俺はなにも言えなくて…そのまま、走って逃げた。
逃げるしか、なかった。
絶対に知られちゃいけない思いを、室井さんに暴かれる前に。
…逃げ出すしか、なかった。
ぽやん、と浮かんだ煙を見つめていて…俺ははっとした。
…だめじゃないか…。
あのキスの合間に思った。夢だったらいいのにと。
あれが夢なんかじゃなく現実で、忘れなきゃいけないんだと、息を切らして部屋に戻ったときに思ったはずだったのに、気づけばもう、リピートしてる。
今日が、非番でよかったと心から思う。もし出勤してたら、勘のいいすみれさんあたりに、なにかがあったことを気づかれてしまう。
俺は煙草をもみ消して、ささやかなベランダに出た。
ここから見る東京の景色は、お世辞にも綺麗とは言えない。愛想のない倉庫の壁と、強い浜風。地鳴りのように聞こえてくる高速道路の音と…灰色にけぶる高
層ビル群が遠くに見えて。…こんな汚らしい光景でも、俺の心を癒すには十分だった。
前だけ見て。遠くにある約束の日を見つめて。今あるすべては、きっとあの人が美しく変えてくれるから。…そう、思うことができる。
こんなにも、あのひとに囚われてしまったのは、いつからだっただろう。
考えても、答えなんかでない。あのひとの気高い理想が、呼吸をするように自然に俺の中に取り込まれて、同じ夢を見たいと願うようになってしまった。あの
人の理想と俺の理想の境目が、とても曖昧になってしまったことに気づいた頃には、妄想…そうだ、こんな妄想が同じようにとても自然に俺を捉えるようになっ
てしまっていたから。
あの人と一緒に歩きたい。手に触れてみたい。抱き寄せられたい。キスして欲しい。そしてできるなら、ひとつになってしまいたい。…ばかな、妄想だ…。
俺は男で、あのひとも男で、こんな汚れた妄想を抱くことすら、俺にとっては罪深いことだった。
それでも…消せやしないから、妄想なわけで…。
あのひとの力で湾岸署に戻してもらってからは、そんな妄想が俺の中で熾火のようにくすぶり続け…ついに昨日、あのひとを待ち伏せて、呑みに誘ってしまっ
た。ほんの数時間、一緒にいられたらそれでいい。他の誰も知らないあのひとの顔を見たい。そして、少しだけ、少しだけでいいから、独占させて欲しかった。
それだけだった。それ以上を望むことなど…許されない、はずだった。
なのに…
最後の店のカウンターで、あのひとの綺麗な手を、つい見るともなしに見つめていた。
…本当に、綺麗だった。雪国生まれのひとだからだろうか、俺の浅黒い肌とは違って、とても白くて…指、長いんだ。いつも、眉間をさすってるのしかちゃん
と見たことなかった。とても綺麗にグラスを持つ。なにげない仕草にどきどきするなんて、中学生みたいな恋愛だ。だけど…どきどき、した。だから…無意識
に。本当に無意識に、触れてしまった。その、綺麗な手に…。
あのひとは、はっとして俺を見た。俺は、ぱっと手を離して…途端に、恥ずかしくなった。
なにやったんだ、俺。これじゃ馬鹿だ。男の手に見惚れて触っちゃうなんて…馬鹿どころか変態だ。
…嫌われる。
それだけは、嫌だ。
すぐに別れなきゃ、それでなんにもなかったことにして、忘れてもらおう。嫌われるくらいなら…忘れられた、方がずっといい。
胸を切り裂く決意は、瞬時にできた。
「帰りましょうか、遅くなっちゃったし…酒ものみすぎたし」
ああ、俺は笑えているか?
不安になりながら、勘定をすませるあのひとを、わからないように観察した。
あのひとは、いつもとまるで変わらないように見えた。よかったと思いながら、じゃあまた、と言った。
「また」はない。もう絶対に。二度と、二人きりでなんか会わない。俺の妄想が自分で止められないうちは、もう絶対に。
そう思って、背中を向けた。
そうしたら…キス、された…。
…どう考えたら、いいんだろう。
無意識のうちに、甘い馬鹿な期待をしようとする。もしかしたら室井さんも俺を…なんて、本当に馬鹿げた妄想だ。
本当に、あのひとのことを思うなら。…あれは、なかったことにするのが、一番いいのだ。酔った末での、一時の気の迷い。
そう思うのが、一番なのだ。
学生時代とか、よくあったでしょ?酔っぱらって、なんだかわけわかんなくなって、もう近くにいるやつ手当たり次第にキスしちゃう、とか。室井さん、そう
は見えなかったけど相当酔っぱらってたんですよ。だって、足とかふらふらしてましたもん。自覚がなかっただけです、酔ってましたよ、絶対。
…そう、言うしかないさ。だってそうだろう、あのひとがまっすぐ上に行くために、こんなのは不祥事以外のなにものでもない。
あのひとがそれで納得しなくても…納得させるさ。どんな手を使ったって。
あのひとが好きだから。あのひとの足を引っ張るようなまねだけは、しちゃいけない。
…だから、許して。
あのキス、忘れないことだけ。
俺は、どんよりとした空を見つめた。
そして、信じて。
あなたを好きなことだけ、信じて。…知らなくて、いいから…。
雲が、滲みはじめたな、と思った瞬間、電話が鳴った。…まるで、そんなことは許さない、と言っているように。
指定されたのは、新橋の駅前だった。
ちょうど室井さんの出先と俺の住まいとで、一番出やすいと考えたのか、サラリーマン風の二人が会うのに目立たないと考えたからなのかはわからない。
改札を抜けると、ぽつぽつ、と雨が降り出していた。
ああ、傘、持ってきたらよかった…。
そうぼんやりと考えたのは、どうしたって高まってくる緊張を紛らわすためだったのかもしれない。
きょろきょろ、と周りを見ている振りをしたけど、でも本当はちゃんと探してなんかいなかった。室井さんが見つからなかったらいい、そしたらわからなかっ
たって言ってすっぽかすこともできる、なんて狡い計算も、実はしてた。
だから、後ろから肩を叩かれたときは、本当に驚いた。…このひとを口で言いくるめるなんてできないんじゃないか、なにもかもお見通しなんじゃないかっ
て…すごくすごく、怖くなった。
「すまなかったな、呼び出して。…どこか、入ろうか」
穏やかな声は、ゆうべのことなんかまるで気にしてないように聞こえた。
俺は、首を横に振った。
「いえ、すみません、話ならここで。…俺、この後用事があって」
…嘘だった。用事なんかない。だけど、どこかでゆっくりなんて話したくなかった。嘘をつくのは好きじゃない。大きな嘘は、つきとおせたためしがない。だ
から。
「立ち話でできる話じゃないんだ」
強く見据えられて、俺はどうしていいかわからなくなった。
こんな瞳のこのひとは見たことがなかったし…嘘をつきとおす自信も、ぐらつきかけてた。
だけど。
…信じて。俺があなたを好きだって事。
寂しい情景が、頭に浮かんだ。あのときの決意が、胸に浮かび上がった。
信じて。知らなくていいから。
「…すみません、どうしても外せないんです。話なら、ここで」
貫き通してみせる。絶対に。
決して譲る気のない俺に、室井さんは小さくため息をついた。
「話は、ゆうべのことだ」
降り出した雨も気にせずに、室井さんは話を切りだした。
「ああ…すみませんでした、つきあわせちゃって」
ぽつぽつ、足下で雨が鳴ってる。
「それを言うなら私のほうだ。…だいぶ、酒がすぎたな」
「そうですね」
ずきりと、胸が痛んだ。あなたからそう言ってもらえれば、俺は助かるはずだった。
「室井さん、のんべえなんだもんなぁ。やっぱ北国のひとにのんべえが多いって本当だったんすねえ」
俺は…笑えているか?…大丈夫、今更ぐらつくな。
「今日一日、考えたんだ」
「…はい?」
…さあ、言ってくれ。あれはなかったことにしよう。酒がすぎてのことだから、きみも気にしないでくれ。ええ、勿論。それを望んでいるのは俺の方。心の準
備は、万端ですから。
「どうしたらいいか、いろいろと考えた。どうしたら…きみと、いられるか」
忘れるのが、一番いいんですよ。忘れて、なかったことにして、そうすれば今まで通りの、同じ理想を共有するキャリアと所轄でいられる。
「なにが一番大切なのかも、考えた」
一番大切なものは、あなただよ…。
切なさが急にこみ上げてきて…俺は、自分で引導を渡すことにした。
「忘れてください」
「大切なのはきみだ」
…言葉がかぶって、よく聞き取れなかった。
だから俺は、相当間抜けな顔をしていたと思う。
「室井さん、今、なんて…?」
「私にとって、一番大切なのはきみだと思ってる。他のものは、なにもいらない。きみがいればいい」
「なに言ってんすか、室井さん!」
かっときた。
なにを言ってるんだ、このひとは。
大切なものは俺だって!?馬鹿な!
「あのね、わかってないみたいだから教えてあげますけど!」
大切なものは俺じゃない、あんただ!
「あれはね、酒に酔ってついうっかりっていうたぐいのものでしょ!」
あんたが上に行って、その綺麗な手で理想を現実にする。それが一番大切なもののはずだろう!?
「それをなに勘違いしてんだか…もう、いい加減にしてくださいよ、あれは事故!」
だから…信じて。
「自惚れんのも、いい加減にしてくださいね!?」
信じて。俺はあなたを愛してる。
「自惚れ…?」
「そうですよ!たかがキスひとつ!」
信じて…俺はいつでもあなたを思ってる。
「忘れてください。何度も言わせないでくださいね」
顔色が変わった室井さんに、俺は冷たく言った。
…そうだ、なんども言わせないでくれ。
「俺は、あんたのことは尊敬してる。…だけど、色恋沙汰とは違うんです」
尊敬とか友情とか、…色恋沙汰とか。そんなもの全部、越えたところで、愛してる。
「青島」
室井さんが伸ばしてきた手を払って、俺は言った。
「あんたのことは、なんとも思っちゃいない。…ゆうべのことは、忘れてください」
背を向けて、改札に向けて走り出した。
…室井さんは、追ってこなかった。
改札を抜けるとき、一度だけ振り返った。
ネオンに光る雨の中、黒いコートが立ちつくしていた。
たまらなくなって、ホームまで走った。すぐに来た電車の行き先も確かめずに飛び乗って、閉じた扉に背をもたれさせて…そこで、涙がこらえきれなくなっ
た。
…嘘だった。忘れてください、なんて。
忘れてなんて欲しくない。忘れたくなんか、なかった。
俺たち、名コンビになりそうですね。
きみと一緒に仕事がしたかった。
大丈夫、このひとはわかるよ。そうでしょう、室井さん。
この事件はおれがやると言っただろう。
あんたは上にいろ。
俺は、わかろうとした…。
忘れられない、いくつものあなたの表情。
忘れてなんか、欲しくない。
…だけど、たいせつなものは…俺だけの、あなたではない。あの一度だけのキスの間確かに俺だけのものだった、あなたじゃない…。
電車の窓越しの東京が、滲んできた。
雨は、やみそうになかった。
