失うものなどなにもないとは言えない。





東京スヰート






 きらびやかなネオンに縁取られた緑のコートが、曖昧に溶けていく。
 腕を伸ばしたのは、きっと本能だった。
 このまま黙っていたら、きっと失う。なにか、たいせつなものを。
 だから。
 腕をつかんで、引き寄せて。
 突然の事に見開く瞳を見つめたまま、口づけた。
 初めて触れた唇は、乾いていた。
 歯を割って忍ばせた舌は、拒絶されることなく吸い込まれ、微かな煙草の薫りを伝えた。
 瞳が閉じて、無骨な手が私の髪に触れ、引き寄せた。
 舌が絡み合い、貪るように、奪い合うように。
 いつしか、強く強く抱きしめ合って、ひとつになりたいと願う心が、独りよがりなんかじゃないと確信を抱いた。
 …甘やかな余韻を残して、唇を離し…青島が、はっとしたように身体を離した。
 その瞳に浮かんだ表情が、なんだったのかも確かめる間も与えずに、青島は背を向けて走り去った。
 どうして、とつぶやく声が、冬の乾いた風にかき消されていった。





 明け方に見る夢は、本当になるという。
 でも、その朝見た夢は、夢なんかじゃなかった。
 生々しい感触の残る唇に触れ、手をぱたりと落とす。
 この手が…彼に触れた。柔らかな髪をかき乱し、引き寄せて…
 シーツの上に力無く投げ出された自分の手をぼんやり見つめ、確信した。
 あれは、夢などではない。昨夜の出来事だ。
 青島を湾岸署に戻してから…私は、なにかに憑かれたように、仕事をしていた。
 ぬいぐるみを着ていたけれど、久しぶりに青島の顔を見た。
 電話越しだったけれど、お互いの胸にある理想はたしかに同じものだと、確かめた。
 …大丈夫、まだ、同じものを見て、歩いていける。今はお互い、少しだけ寄り道をしているけれど…大丈夫、ちゃんと、歩いている。
 そう思って、どんなにつまらないと思える仕事でも一つずつやっていくことが、背中を伸ばしてまた青島に会える日を迎えるために大切なのだと思って…浅ま しい、青島に会いたい、ただ会いたいのだという心の叫びを無視して、仕事をしていた。
 自分でも押し殺した声を、青島は聞いたのだろうか。
 警察庁を出たところで、青島が立っていた。
 にこ、と笑って、まだお礼をちゃんとしてなかったから、と…私を呑みに誘った。
 私が、それを断れるはずはなかった。会いたい会いたいと叫び続ける心の声は、殺し続けるにはもう大きくなりすぎていていて…私は彼と肩を並べて、歩き出 した。
 そして、二人とも、沈黙を嫌うように呑んで、話をした。とはいえ、話をするのは青島の方が断然多かった。私はただ、青島の話に相づちを打っていただけ だったが…それでも、久しぶりに楽しい時間を過ごした、と思った。
 何軒めかの店で、カウンターの隣同士に座り…触れた肩が、熱い、ような気がしたのは…酔いだと思った。
 でも…なにかの拍子に手が触れたとき、弾かれたように私を見た青島の表情が、胸の中の何かに響いた。
 真っ先に浮かんだ単語をすぐに否定する程度には、理性は残っていたはずだった。
 なのに、急にばたばたと帰ると言い始めた青島との別れ際…「じゃあ、また」と言った青島の後ろ姿を見たとき、「また」はない、と思った。青島はこの先決 して私と二人で会うつもりはないのだと、なぜかそう、確信していた。
 嫌だ。それは、絶対に。
 …理性を、感情がねじ伏せた瞬間、だった。
 のろのろと、手を挙げ…髪をかきむしった。
 …なんてことをしたんだ…。
 あいつは男で、もちろん私も男で…いきなり抱きしめられてあまつさえキスまでされて…きっと青島は、驚いたことだろう。…軽蔑だって、されたかもしれな い。上司で、階級は遙かに上の私にそんなことをされて、もしかしたら階級を笠に着たセクハラだとでも、思っているのかもしれない。
 確かにあれは、衝動だった。なにかに突き動かされての行動だった。
 …でも。でも…あれが、ただの衝動なんかじゃないと、胸の裡を覗いてみれば、私にはわかっている。
 私は、彼が好きなのだ。
 熱い理想も、胸を打ち抜く言葉も、なにもかも越えたところで…青島が、好きだとわかっていた。ずっと前から。…だけど、それを認めるには私はこの社会の からくりも常識もわかりすぎていて…殺すしかなかった。殺せないならいっそ、墓場まで持って行くつもりだった。
 …でも、もう後戻りはできない。知ってしまったから。彼の唇の感触も、胸に抱きしめた柔らかさも。もう…知らなかったことには、絶対にできない。
 考えろ、室井慎次。
 私は手をぎゅっと握りしめた。
 この恋を、必ず手に入れる。
 青島も約束も、両方とも、きっと。
 どうしたらいい…?
 私は、国家公務員試験のときよりも真剣に、この難しい命題を解き始めた。






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