Heaven
身体が震えるのがわかった。
もう二度と会えない…声すら聞けない。ただ、心の中で想うだけ。
それしか許されないはずの室井に…こんなところで会えるなんて。
…東京を離れる、この日に。
監察に連れて行かれたあの日から、室井への想いに蓋をすることに決めた。
いつかは来るその日に向けて、覚悟だけは決まっていたはずだった。
室井が他の誰かに心を預ける。青島が、室井以外の誰かを愛しいと思う。
この二つの場合以外で、二人が別れるなら、そのとき取るべき態度は決めておくべきだ。…室井から愛を告げられた日にそう思った。
が、考えるまでもなかった。
守るべきは室井。室井の未来。それだけだ。…たとえ二人の約束を反故にしたとしても。
たとえこの身を汚しても…なんて、犠牲的精神で考えたのではない。それは、呼吸するよりも自然なことだった。
…だけどごめん、室井さん。
視界の端に室井をとらえながら、青島は口の中で言った。
蓋をするだけだよ、俺は。
ずっと想い続けることだけ、赦して…。
もう会えなくなっても、声も聞けなくなっても、どこでどうしているかなんて、わかりようがなくなっても。
俺はあなたを想い続けるだろう。
二人で過ごした幸福な日々をずっとずっと、想い続けるだろう…。
だから最後に少しだけ…あなたのそばに、いたい…。
震える足を踏み出して、青島は一歩ずつ室井の立つ正面に歩き始めた。
近づいてわかった。
室井の周囲に見知った顔がいくつかある。捜一の刑事たちだ。
今から出張だろうか。少しだけ雰囲気が強ばり、青島がもっとも愛した、ぴんと張りつめた表情を浮かべている。
自然と、表情が和らいでしまうのがわかる。
…こんなに幸福でいいのだろうか。
もう二度と東京に戻らないと決めたから、神さまが最後にご褒美をくれたのかもしれない。
ほんの二週間前には、触れることのできた距離が、今や永遠だ。それでも幸福を感じる。
室井の携帯電話に着信があったようだ。室井がポケットから携帯電話を取り出して、耳に当てた。表情が変わる。驚愕。怒り。そんな顔だ。どうしたのかな、
なにか事件でも起こったのかな。
そのときだ。
室井が、青島を見た。
気づかれるとは思っていなかったから、驚いた。
しかし、沸き上がった感情は歓喜だった。
室井さんが、俺を見ている…。
嬉しくてたまらなかった。
最後に言葉を交わしたのが、ひどい言葉だったから…欲張れば、あれが最後だなんて悲しすぎるから、嬉しかった。
ねえ室井さん、俺を焼き付けてね。これが、最後だから…。
そう心の中で囁いたら、自分でも驚くくらいの柔らかな表情が浮かんだ。
室井が携帯電話を取り落とした。
青島の待つ電車が近づき、二人の間に滑り込んでくる。
ああ、もうすぐお別れか…。
それでも、窓の合間にしか見えなくなった室井から、視線ははずせない。
列車のドアが開いた。乗り込んで、正面の窓の前に立つ。…少しだけ、室井に近づいた。
室井がそれに合わせて、青島の正面に立った。視線ははずさない。その瞳に浮かぶ表情は、なぜ。どこへ。どうしてこんなことに。…悲しい色ばかりだ。
室井の視線の先に気づいたのだろう。周囲にいた刑事たちが、青島に気づいた。
…彼らには、悪いことをしたと思う。
室井がよくほめていた。今のスタッフはいい。良く動いてくれる。所轄のことを理解している者が多いんだ。…だからよけいに、青島のことは憎いのだろう。
彼らの敬愛する上司に、またしても傷をつけた。憎まれて当然だ。きつい視線を送ってくる者、どこか哀れむような顔をしている者…しかし、青島の視界から室
井を奪おうとする点では一緒だった。
あの疫病神から室井を守れ。
そう思っているのなら…それを恨むことなどできない…。
なんとかして青島と視線を合わせようとする室井に、届かぬ声の代わりに、大きく口を動かした。
さようなら…。
それ以外に、言葉はなかった。
…発車のベルが、鳴り始めた。
室井が叫んだ。
「青島っ!!」
声を聞くのも最後か…。
あきらめて、背中を向けた。
好きだったな、あの声も。
少しだけ掠れてて、でも響く。じん、とする。心が弱くなってるときは、その声だけで涙が出そうになる…たとえば、今のように。
発車のベルが終わりに近づいている。もうすぐ扉が閉まり、列車は出発し、俺はもう二度と東京にはもどらない。あの人にも会わない。全部捨てて逃げるけれ
ど…心だけは室井さん、あんたのそばに。
…最後に、もう一目だけ。
断ち切れない未練で振り向き、向かいのホームを見た。
…室井はそこに、いなかった。
何故?
かんっぜんに、見限られたかな…。
自嘲したのは、一瞬。
「青島っ!!」
…声が聞こえた。
窓の向こうではない。じかに耳に響く声。
身体の震えを止められぬままに、振り返った。
息を切らし、肩を上下させて…室井が立っていた。
「むろい、さん…」
…発車のベルが終わる。
遠くから、追いかけてきた部下たちの室井の名を呼ぶ声が聞こえる。
閉じようとする扉をすり抜けて、室井が列車に乗り込む。
迷いのない足取りで近づき、腕を伸ばし、青島の服を掴み、抱き寄せた。
歩み寄った室井の勢いで、青島の身体が窓にたたきつけられる。
「青島…っ!」
力任せの抱擁に、息が詰まりそうになる。
愛してる。
声にならない叫びが聞こえた。
蓋をしたはずの心が勢いよく開いて、破裂した。なにもかもがどうでもいい。このひとさえいれば…!
抱き返した腕の向こうで…列車の扉が閉まった。
