Heaven







 耳元を、鋭い風が吹き抜ける。
 痛みすら伴うその風が、もう少しだけ肩を押してくれれば、楽になる…。
 足下に広がる断崖絶壁。そこに堕ちてしまえば…
 くらりと陶酔感に漂って、そのまま吸い込まれるように一歩を踏み出す…。
 落下していくのに、なぜだか浮遊感を感じた。
 これで、らくになる…。
 囂々と耳元で鳴る風に、そう呟いた。
 だんだんと近づいてくる海面で、視界がいっぱいになった…。



 …そんな夢を、何度も見ていた。あの日から。





 査問委員会が、翌日に迫っていた。
 人のプライベートを査問にかけるのか、と何度か食いついてみたが、侮蔑の眼差しを返されるだけで、相手にもされなかった。…未だ、なぜ室井が査問委員会 にかけられるのか、その理由は漏れてはいないようで、課内の室井を見る目はおおむね同情的だった。むしろ、捜査員たちは室井が捜査の指示を出せずにいるこ とに対して憤りを感じているようで、そちらを押さえる方に苦心しているくらいだった。
 …明日の態度は、決めかねていた。
 一倉の言葉は、室井を動揺させた。真実を射抜いていた。だからといって、青島を、捜査員たちを裏切る決断はできなかった。
 せめて、青島の声が聞きたかった。
 何度か青島に電話をかけたが、自宅も携帯電話も繋がらなかった。居場所さえ、つかめていない。一倉なら知っているかと思ったが、やんわりとはぐらかされた。
 …なあ青島、俺はどうしたらいい?
 そう尋ねたら、青島はなんと答えるだろう。
 そこまで考えて、どう言って欲しいのだ、と自問し、自嘲した。
 決断を青島に押しつける気か。「室井さん、俺のことはいいです」とでも言ってもらえば、俺は満足したのか。「そうか、すまない。俺は自分の身がかわいい」、と?
 こんな日がくることを、想像したことがないわけではなかった。…ただそれは、遠い未来のことだと勝手に思っていた。運が良ければ一生遭うことのない事故のようなものだと。
 出口の見えない迷路に入り込んだまま、室井は定時になったことを告げられて、鞄を持って立ち上がった。捜査の指示を出すことは監察から一切禁じられている。いっそ自宅謹慎とでもしてくれた方がやることがあるのだが、仕方がない。
 ため息を一つついて、課員に声をかけて廊下に出て、エレベーターに向かう。
 ぼんやりとエレベーターのランプを目で追っていると、隣に人の気配がした。
 何気なしに、振り返った。見知った小柄な女性が立っていた。
「…恩田くん」
「だまって乗って」
 恩田すみれは、室井を見ずに、丁度開いたエレベーターの扉を見ていた。
 言われるままに、エレベーターに乗り込む。
 扉が閉まるのを確認してから、ようやくすみれは室井を見た。
「青島くんと連絡とれないでしょ?」
「あ、ああ…」
「あたしたちも、室井さんに連絡とりたかったんだけど」
 考えていたことは同じだったようだ。湾岸署から連絡を入れてもらおうかと一度考えたが、彼らにかかる迷惑を思って、手が止まった。
 すみれは、ため息混じりに言った。
「青島くんが今どこにいるのか、あたしたちにもわかんないの。署の方には、休暇取るって言ってあるみたいなんだけど」
「そうか」
 室井が青島の所在を知り得なくても、彼らなら知っていると思っていた。
「すまない、私にも彼がどこにいるのかわからない」
 ええ、とすみれは頷いた。
「わかってる。あたし、今日は室井さんに青島くんからの伝言、伝えに来たの。表向きは課長のお使いだからそういうことでよろしく」
「…青島から連絡があったのか?」
 声が心持ち低くなり、すみれは困ったように笑った。
「どこにいるとは聞かなかった。ただ、室井さんに伝えてくれって、それだけ」
 伝言。
 不意によみがえる、苦い思い。俺は、青島になんと言って欲しいのだ…?
 知らず手が震えるのを自覚しながら、室井は努めて冷静に言った。
「青島は、なんと…?」
 その様子を見て取って、すみれは、すぅっ、と息を吸った。
「あんたは、なにも言わないでくれ」
 …なにも、言うな…?
 どういう意味だ。
 すみれの短い言葉の意味をはかりかねて、室井はすみれを強く見た。
「それから?」
 すみれはまた、困ったように笑う。
「それだけ」
「それだけ?」
「ごめんなさいね」
 素直に謝られてしまって、室井は慌てた。
「いや、その」
 …迷惑をかけている。二人のことが湾岸署では露わになっているだろうに、こうして本庁まで出向いてくれる。なりふり構わない監察の目を盗んで、危険を冒して。湾岸署の人間は、どうしてこうまで…温かいのだろう。
「勘違いしないでね。あなたのためじゃないのよ。青島くんが好きなのよ、みんな」
 そう言って、すみれはエレベーターのボタンを押した。すぐにエレベーターが止まる。
「…じゃ。伝言は、伝えたから」
「ああ…ありがとう」
 すみれは振り返らずに、ひらひら、と手を振って見せ、小さな背中が扉の向こうに消えた。
 軽い振動とともに、エレベーターが再び動き出す。
 あんたは、なにも言わないでくれ。
 その言葉が、頭の中で響いていた。
 それが、お前の答えか…?
 記憶の中の青島は、困ったように笑うばかりで、室井の問いかけには答えてくれなかった。






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