Heaven





  最後に青島がこの部屋に来たのは、いつだっただろう…。
 カチ、カチ、カチ…と、時計の音だけが響く部屋で、ぼんやりと室井は考えていた。
 ゆっくりと記憶をたどる。
 暑がりの青島は、部屋に入るなりエアコンをつけろと騒いでいた。まだそんなに暑くないし、今から冷房なんて使ってどうする、と言ったら…エアコンは精神 修行のためにあるんじゃない、と言って、誇らしげにようやく探し当てたリモコンのスイッチを入れた。そうだあれは…初夏の出来事だ…。
 あれからもう、2ヶ月もたったのか…。
 締め切ったカーテンも、真夏の陽射しを遮ることはできなかったようで、フローリングの床にうっすらと陰影をつけている。それをぼんやりと眺めながら、室井はグラスに半分ほど残った酒を飲み干した。
 がちゃり、と遠くでドアが開く音がした気がした。
 来るはずのない男の名を呼びかけて、室井は苦笑してグラスを置いた。
「よお、くさってるな」
「なにしにきた…」
「どうせ飲んだくれてると思ってさ」
 へらりと笑って、一倉は酒の瓶をテーブルにおいた。
「ヤツ流に言うなら、ビンゴってとこだな」
 どかり、と室井の向かいに座る。
「どうだい気分は」
「…遺憾だね」
「遺憾!」
 おもしろそうに、肩を揺すって笑う。
「らしいお答えで、俺は大満足だよ」
 顔の前で掌を逢わせ、一倉は室井を刺して見せた。
「…で、どうする気だ?」
 どうするもなにも…ため息を盛大についてやった。
 登庁するなり、監察に呼ばれていると聞かされ、心当たりが見つからなかった時点で己の気のゆるみに気づくべきだったのだ。…数ヶ月前から身辺を押さえら れていたなどとは、まったくもって気づかなかった。目の前の幸福を大切にすることしか頭になかった愚かな男には、当然の報いなのだろう。
「とりあえず、とぼけてはきた」
 一倉がもってきた酒瓶を取り上げ、封を切る。…たしか、青島が好きだと言っていた銘柄だ。
「しらを切りきれる相手じゃないぞ」
 一倉の声が、真剣みを帯びている。酒にもやがかかった頭でも理解できるほどに。
「きるさ」
 グラスになみなみと注いで、室井は一倉に掲げて見せた。
「強がるな」
 さらりと言われて、火がついた。
「じゃあどうしろと?」
「認めろ」
 一倉の声は、冷水だった。室井の火を、あっさりと消してしまう。
 …その選択肢を、考えないわけではなかった。得るものはあるだろう、プライドだ。青島への気持ちを恥じることは一切ない。見たこともない神さまの前に引き出されたって、堂々と言ってやる。俺は青島を愛している。それがどうした、文句あるか。
 …しかし冷静に、天秤にかける自分がいるのだ。失ってしまうもの…キャリアの地位が約束した堅実なポスト、それに見合った責任と権力。なにより大切な、青島と約束した未来…。
 ここで嘘を吐いても、なんてことはない。嘘を塗り固めるために嘘を付き続けることぐらい、朝飯前だ。それくらいできないで、ここまで上り詰められるわけがない。
 室井の瞳の色に、一倉が苦笑した。
「…そんなに深刻になるな、たいしたことじゃない。後ろ暗いところがあるヤツなんか、掃いて捨てるほどいる。俺だって叩かれれば埃の出る身さ」
 叩かせるつもりもないくせに、一倉は肩をすくめた。
「いいか、今お前が追ってる事件が問題なんだ」
 人差し指を額の横に刺して見せながら一倉は言う。頭を使え、ということなのだろう。
「…叩けば埃が出るのはお前だけじゃない」
 室井は、今手がけている事件のファイルを頭の中で繰った。…今、そうしたフィルターをかけて見れば、思い当たる人物の顔がいくつか浮かんでくる。
 真面目な室井警視正。上に馬鹿がつくほどの。…触れてはならないものに触れるのであれば、それ相応の報いがあるということか…。
「手を引けということか…」
「ま、そんなところだろうな、条件としちゃあ。査問会の前に、接触があるだろうよ」
 室井は一倉をぎろりと睨み付けた。
 数ヶ月に渡る捜査。捜査員たち一人一人の顔が目に浮かぶ。不正がただされることを信じて疑わない顔だった。時間をかけて培ってきた、信頼関係だった。…それを、裏切れと?
 しかし一倉は、視線を逸らして言った。
「…まだ俺たちは弱い」
 弱い声だった。完璧なポーカーフェイスを保ってはいても、それは、弱音だった。
「でも、ここで折れておけば、時間はかせげる。俺たちが力を持つまでの時間が」
 今、こんなところで躓くわけにはいかないんだ。
 …空気にのせない、確かな言葉が…伝わってきた。
「…でも…」
 それでも、記憶の中の青島のまっすぐな瞳が、室井を責める。捜査員たちと同じ瞳だった。
 指を弄ぶ室井に、一倉は冷たい声音で言った。
「そんなことがわからない男と、お前は一緒に歩いていくのか」
 …そして、室井の視線を受け止めずに、顔を背けた。
「…そんな顔するな。お前の気持ちはわかるつもりだ」
 ここで室井が退けば、青島がどうなるかは二人ともに予想がついた。青島には『前科』がある。
 転職組で、あの年で、巡査部長。決して無能な男ではない。組織の中で栄達する術さえ身につければ、室井の心を支えるなんていうあやふやなものではない、 確実な戦力になる。それでも表舞台に立てないのは…その前科のせいだ。室井との単独行動を、全部かぶって交番勤務に出戻った。どんな組織でも、二度目の間 違いを許すことはない。この後青島が刑事に戻ることはないだろう。警部補への昇進試験も、何度受けても受かることはない。そんな未来が見えるのに…「わ かってくれ」などとは言えない…。
 室井の苦悩を正しく理解して、それでも一倉は言った。
「それでも室井。俺たちは立ち止まるわけにはいかないんだ」
 ノンキャリアを踏み台にして?
 偽悪めいた言葉を唇に載せることは、室井にはできなかった。
 …それが、真実だったから。






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