Heaven






 彼を見つけたら、こう言おうと決めていた言葉があったはずだった。
 彼が愛してくれた、ぴしっとしたスーツ姿で、ぴんと背筋を伸ばして。
 …なのに、現実なんてこんなものだ。
 古い長いすに腰掛けて、缶コーヒーなんか飲んでる。コートは相変わらずの黒いやつで、面倒くさくてクリーニングに出しそびれて、ちょっとよれっとしてい るし、なにより今、頭が真っ白だ。会いたかった、夜毎夢に見た、伝えたい言葉がたくさんありすぎて、どこから伝えて良いのかもわからない…!
 かけるべき言葉を失い、二人はただ黙って見つめ合った。
 …少し痩せた。もとから浅黒かった肌がまた少し黒くなったようだ。でも変わらない瞳。まっすぐに相手を見据え、真実を射抜く…。その瞳に、いつかつかみ 損ねたものを見つけた気がして、室井がふらり、と一歩を踏み出した。
 そのときになって、青島は我に返ったようだった。突然声をかけてきたエライさんと、タオル鉢巻きの青島を見比べて唖然とする周囲を見遣り、困ったような 顔をする。
 その表情に、室井ははっとした。
 とっさに、男たちの間に割って入る。
「失礼。彼に用があるので、来てもらってもいいでしょうか」
 有無を言わせぬ口調で、その場の責任者らしい、頬にかすり傷をつけた男に言う。その男はなかなかの体格だったが、迫力負けだろう。目を白黒させながら、 こくこく頷いた。
 室井は、戸惑った様子の青島の腕を取った。
 びくり、と強ばった青島の表情に痛みを感じながら、室井は強引に腕を引っ張り歩き出した。
「うちの署の者には、先に帰ってもらってください」
「おい、あんた…俊ちゃん!」
 かすり傷の男が声をかける。青島が立ち止まった。
「…わけありなのかい?」
 強面が、温かい響きを含ませて言うと、青島は室井をちらり、と見てから頷いた。
「そうか。…じゃ、俺たちいつものとこで待ってるからさ。早く帰っといで」
「はい…。すんません」
 ぺこり、と頭を下げた青島は、やんわりと室井の腕を払った。
「…逃げたり、しませんから」
「わかった」
 短く答え、室井は先に立って歩き出した。
 署の外を出て、外気の冷たさに首を竦める。…そのときになって、青島が一度も室井の名を呼ばなかったことに気づいた。
 半年。探し続けた日々の長さを今更ながらに実感し、唇を噛んだ。
 急に恐ろしくなって、振り返り青島を見た。
 青島はじっと室井を見返した後、視線を逸らした。その先に、古びた喫茶店があった。
「…あそこで話しましょう」
 …話すことは、言いたいことは…伝えたいことが、あったはずだ。
 室井はぎゅっと眉間に力を入れて、頷いた。





 コーヒーを注文した後で、二人の間には沈黙が訪れた。
 海辺を彷徨っていたころの甘さはなく、とまどいと気まずさが漂っていた。…そんな沈黙は、今まで二人の間にはなかったはずだった。
 ため息をつきたくなるのを堪えて、室井は青島の様子を観察していた。別れた頃との変化を一つでも見逃すまいと…別れた後も変わらないなにかを見つけよう と。
 髪が伸びた。色が黒くなった。トレードマークだった緑のコートではない、実用一点張りの薄汚れた防寒着。頭に巻いていたタオルを慌ててはずして、持て余 し気味にいじっている…。
「…探した」
 ようやく出た言葉に、青島がぴくりと動き、室井を見た。
 そして、一度窓の外を見て、すぅ、と息を吸い、もう一度室井を見た。
 …表情が変わった。以前見慣れていた、青島俊作だった。
「驚きました、こんなとこで室井さんと会うなんて。こっち来てたなんて知らなかった」
「そうなのか?」
 青島の言葉が意外で、室井は青島の表情が突然変わったことを意識の外に追い遣った。
「いつこっちに?」
「年末」
「…え?」
 どうやら青島は、室井が出張で北海道に来ているのだと思っていたようだ。表情に翳りが浮かぶ。
「じゃあ…あのとき、の…」
「ああ」
 意識して短く答え、室井は話題を変えた。
「今まで、どこにいたんだ」
「ええと…あちこち、転々としてて。涼しいところがいいなあ、なんて思ってこっちに来たんですけど、いつのまにか涼しいどころか寒くなってきちゃって、つ いでに懐も」
 はは、と笑って、青島は続ける。
「そろそろ真面目に働くとこ探さなきゃなあって思って、このへん、鮭の加工にバイト集めてるんですよね、そこで働きだして。漁にもね、連れてってもらうん すよ、なかなかおもしろいんですよ。住むとこもね、安いアパート紹介してもらって…まあ、なんとかやってます」
「そうか…」
 明るく話す青島に、ほんの少しだけの寂しさを感じる。元気そうにしている、それはいいのだ。明るく、周囲に悟られずに気を配り、溶け込んでいく。刑事 だった頃の青島と、そこはなにも変わらない。きっとここでも可愛がられているのだろう。署で出会った男たちが青島を見る目は温かかった。…でも、彼らは知 らないのだ。以前の青島が持っていた熱さを。理想を掲げて生きていた頃の青島の瞳を…。
「なあ青島」
「室井さん」
 言葉がかぶり、室井は言葉を止める。…が、それが計算されたタイミングだったことに、後から気づいた。
「俺はここで、うまくやってるんです。大丈夫です。どこででも生きていけるんです、だから」
 だから…?
 青島は、困ったように瞳を揺らした。
「俺とここで会ったこと、忘れてください…」
「断る」
 即答だった。
「室井さん…!」
「お前を捜し続けた。気が狂うかと思った。どうしても会って、伝えたいことがあったんだ…!」
 低い、しかし激しい口調に青島が唇を噛む。
 …そこへ、ウェイトレスがコーヒーを運んできた。
 室井が一つため息をついて窓の外を見て、青島はウェイトレスに軽い笑みを返し、コーヒーが置かれるのを待つ。
 コーヒーの湯気が立ち上るのを二人で黙って見つめ、ぽつりと青島が言った。
「…すみませんでした…」
「…どういう意味だ?」
 顔を上げ、青島の表情を伺う。どこか遠くを見るような、ガラスを一枚通したような視線が、室井を見ていた。
「俺、もし室井さんに会うようなことがあったら、謝りたいって、思ってたんです…」
 もし。
 会うようなことがあったら。
 …それは、会うつもりはなかった、という意味なのだろう。そんな日は来ないと…自分から会うつもりはないと…。
「あの日、なんにも言わないで別れちゃったことだとか、一緒に逃げさせちゃったことだとか…ほかにも、いっぱい…」
「やめてくれ」
 室井の言葉など耳に入らないかのように、青島は続けた。
「俺は室井さんに迷惑ばっかりかけてる。室井さんはきっと、そんなのはいいとか言うんだろうけど、でも俺はもう嫌なんです。室井さん困らせるの、本当に嫌 なんです。室井さんに上に行って欲しいんです。室井さんと一緒にいられた間は、俺すごく幸せだった。ずっと二人でいられたらそれでいいとか、そんなことも 思ってた。…だけど、そんなのはもう、許されない。そう思って…一倉さんに、頼んだんです。室井さんのこと、迎えに来てくださいって」
 室井は、静かに息を吐いた。
 予想した通りの言葉だった。
 青島が一人室井を残して去ったその理由。どうせそんなことだろうと思っていた。あのとき…室井を騙された哀れな男に仕立てて、泥を一人でかぶった、あの ときと同じ理屈だ。どこまでいってもこの男は、室井を守ることしか考えていないのだ。これまでの幸福な時間の代償として…。
「お前の言いたいことはわかった」
 目を閉じて言った室井の言葉に、青島が肩の力を抜き…そして、微かな痛みを表情に載せた。
「じゃあ、室井さん…」
「…お前、今の仕事してて楽しいか」
「…え?」
 急に方向違いのことを問われ、青島は虚を突かれた。
 室井が、ゆっくりと目を開けた。
「刑事やってた頃と同じように、理想があって、走り回ってくたくたになって、でもそれでも胸張って、やってるのか?」
 先ほどまでの激情がゆっくりと去り…室井の瞳は穏やかだった。あのころ、東京から逃げ出して、甘い日々に見つめた穏やかさとは違う…何かを乗り越えた、 静かな海のような瞳だった。
「あれから俺も、いろいろ考えた。なんでお前が俺に何も言うなって言ったのか、なんでお前が俺だけ東京に戻そうとしたのか…お前が見つめてたものを探そう としてた。…だいたい、俺の予想は当たってたな」
 くすりと漏れる苦笑さえ柔らかい。
 室井の変化に、青島の胸がどきりと音を立てた。
「お前においてかれて、東京に戻って、まあ、苦労した。こうして左遷もされてる。でもここは現場と近いんだ。東京でできなかったことができる。ちょっと得 してると思う。次の夏には東京に戻るだろう。そしたらまた上を目指す。お前との約束を果たす。多少遠回りしてるんだろうが、でも諦めたりしない。俺がやら なきゃいけないことは、何一つ変わってない」
 淡々とした口調だが、腹の底に秘めた熱さがある。…青島が惚れた、室井慎次という男だった。それに気づいて、青島は意識して視線を逸らした。が、次の室 井の言葉に、ぎくりとした。
「…じゃあ、お前は?」
「…俺…?」
「お前は、ここで、楽しいか?」
 核心を突かれ、青島は押し黙った。
 雪に閉ざされた海。朝の光が射す前に起きだして、凍るような空気の中を港に向かう。荒々しい男たちの声に追い立てられながら、毎日を過ごす。体の辛さに はすぐ慣れた。慣れなかったのは…胸を熱くするなにかがなにもないこと。それから、夜毎思い出す、暖かな腕の不在…。
「ここでお前がやりたいことがあるって言うなら、俺にはなにも言う権利はない。…だけど、お前がいなくちゃ意味のないものが、俺にはたくさんあるんだ。二 人で果たしたいことがたくさんあるんだ…」
 室井が腕を伸ばし、青島の手を握った。
「青島。あのとき俺たちが逃げたのは、間違いだったな。何が起こっても、俺たちは闘わなきゃいけなかった。俺たちは逃げるべきじゃなかった。…やりなおし たい。二人で」
 二人で…。
 青島の瞳が揺れた。
 それを確かめて、室井は一度、青島の手をぎゅっと握り…そして、離した。
「すぐに結論を出さなくてもいい。ゆっくり答えを出してくれ。ただ…もう何も言わないで消えたりしないって、それだけ約束してくれ」
 青島が無言で頷くのを見てから、室井は冷めかけたコーヒーに口を付けた。
 窓の外には、相変わらず雪が舞い落ちていた。でも、数時間前に感じていた疲れはゆっくりと消えていった。








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