Heaven







 青島は約束を守った。
 はじめの数日は、不安に駆られて何度も青島の家を訪ねたが、青島は戸惑いながらもつくりものではない笑顔を見せて、逃げたりしませんよ、と繰り返した。
 休日ごとに、青島に会った。
 北海道にいるなら蟹を送れ、というすみれの伝言を伝えたときには、声を立てて笑っていた。一倉の計らいで、青島の辞職願いが受理されないまま袴田の机の 抽出に眠り、休職扱いになっていることも伝えたが、それには困ったように笑うだけでなにも答えなかった。
 一倉が室井に送ったデータのことは、黙っていた。以前、室井が追っていた事件の証拠となる資料だった。それを使えば、二人を追い詰めた上層部の何人かが 逆に追い込まれることになる。青島が東京に戻ることを…刑事に戻ることを決意し、二人の関係もまたやり直すことに頷いてくれたら、それを使うつもりだっ た。でもそれは、青島に伝える必要のないことだ。立ち止まるわけにはいかない。そのためには取り引きだって、政治だってする。しかしそれを青島が知ってい る必要はないのだ。
 幾度も逢瀬を重ねても、青島は室井を部屋に泊めることはなかったし、青島が室井を訪ねることもなかった。だから、週末ごとに出かける室井を、副署長夫人 は、なにかを含んだような笑みで見送り、相変わらず女のにおいのしない部屋に呆れながら、がんばりなさいよ、と室井の肩を叩いた。
 …季節はゆっくりと巡っていった。
 雪が降る日が少なくなり、空気が少しずつ緩んで、緑が柔らかい色に生まれ変わる。風がからりと爽やかに青島の髪を揺らし、室井がその髪に触れても、青島 がそれを払うことがなくなった。
 …愛の言葉が紡がれることがなくても、戻ってきたなにかがあることを感じ始めた頃。
 室井に辞令が届いた。
 東京への復帰を命じる辞令だった。





 その週末、青島と連れだって、港の居酒屋で酒を飲んだ。最近では、港の男たちも室井に気を許し、顔を出すと笑顔を見せて、慎ちゃん、と呼ぶのだ。彼らに 誘われて、馴染みの居酒屋に顔を出した。
 帰り道、室井のためにタクシーを止めようとする青島を制した。
「話があるんだ。部屋に上げてくれないか」
 ぬるい空気が二人の間を過ぎていった。
 青島は戸惑ったように笑顔を固まらせた後、穏やかさを装った室井の固い決意を感じ取って、黙って頷いた。
 幾度か上がっていたが、青島の部屋は、東京の頃とはまるで違っていた。
 大事にしていたアーミーグッズもない。毎月買っていた雑誌もない。ただ、生活するのに必要最低限なものだけが乱雑に置かれている、簡素な…空虚な部屋 だった。
 小さなテーブルを挟み、青島は冷蔵庫から出してきたビールの缶に水滴がついていくのを見つめていた。
「…青島」
「はい」
 固い返事が返ってきたのに苦笑してから、室井はポケットから封筒を出し、テーブルの上に置いた。
「異動することになった。来月には東京に戻る」
「…はい」
 一瞬体を強ばらせてから、青島が同じ返事を返した。
「…丁度、一年だな」
「…そうですね…」
 一年前は、疑いもしなかった。幸福な今日が、明日に続いていること。哀しみの色を載せずに互いを見つめること…。
「答えを聞かせてくれないか」
 唐突に切り出した言葉は、青島の中では予測済みだったにもかかわらず、それでもずきりと胸を刺した。先延ばしにしていたことだった。
 東京に戻る。刑事に戻る。…それは同時に、二人の関係も、元に戻す…いや、最初から、やり直す…。
 できるのだろうか、そんなことが。
 …いいや。していいのだろうか、そんなことを…。
 そんな迷いが、青島の中に生まれていることを、室井は理解していた。
 できるのか。していいのか。…そう思ってくれているだけでも、ありがたかった。以前のような、デッドオアアライブではない。第三の道があるかもしれない と思い始めている。
 室井は封筒の中身を出し、青島に示した。
「電車の切符だ。…もし、俺と一緒に東京に戻るのなら、使ってくれ」
 青島は、それを受け取らなかった。
 室井は切符を封筒にしまい、テーブルの上に再び置いた。
「来週からは引っ越しの支度をしなければならないから、もうここには来られないと思う」
 室井がそれだけ言って腰を上げると、青島はびくりとしたように室井を見上げた。不安に揺れる表情に、室井は苦笑する。
「…帰る。お前をどうこうしようと思って家に上げてくれって言ったわけじゃない」
 青島は、ばつが悪そうに顔を背け…ぽつり、と言った。
「東京に帰ることと、俺が室井さんとやり直すことは…イコール、なんですか…?」
 拗ねた子供のような声だった。
 室井はうっすらと笑って、当たり前だ、と答えた。
「俺が室井さんのこと、まだ愛してる…って、思ってるんですか?」
 見上げた瞳が揺れていた。
 愛してる。
 その言葉を聞いたのは、おそらく別れてから初めてだっただろうと思う。それは、青島にとっては禁句だっただろうから。…室井にとっては、それ以上の意味 はなかった。言葉ではない。行為ではないと、わかっていた。だから室井は、それも当たり前だ、と答えた。
 青島が目を背けた。
 室井は、それに背を向けて立ち上がった。
「…帰る」
「…はい」
 緊張が解けた声が、後ろからついてくる。
 敢えて顔を見ずに靴を履き、扉を開け…背中越しにドアが閉まる前に、室井は言った。
「たとえお前が一緒に来なくても、俺はお前を愛してるのに変わりはない」
 青島が息を呑むのが聞こえた。
「お前がどこにいても、なにをしていても…俺は必ずお前を見つけるし、愛し続ける。俺は逃げずに、東京で闘う。…お前が戻って、一緒に闘ってくれたら嬉し い。…それだけなんだ」
 細く息を吐きながらの言葉が終わるのと同時に、背後で扉が閉まった。





 出発が近づいていた。
 引っ越しの算段をすべてつけ、当日もエプロンをはためかせて辣腕をふるった副署長夫人は、涙を浮かべて室井を見送った。
 駅までの見送りは、勘弁してもらった。署で簡単な挨拶をすませ、見送るという何人かの署員を、仕事が優先だ、と言いくるめて、そこで別れた。
 小さな町の小さな警察署。起こる事件は、東京とは比べものにならないほど些細なものが多かったけれど、現場に近い空気が嬉しかった。密度の濃い官舎での 生活は、人間らしい感情をもう一度室井に呼び覚ましてくれた。寂しくないと言えば、嘘になる。…けれど、ここが自分の居場所ではないこともまた、理解して いた。
 室井の敬礼姿を、副署長夫人が、純朴な署員たちが、いつまでも覚えていてくれたら嬉しい、と思う。
 爽やかな風が通りすぎる、閑散としたプラットホームに立ち、東京に戻ったらもう暑くなっているだろうな、と思った。
 …青島からの連絡はなかった。
 それでも、不安はなかった。青島が来ると確信しているわけではない。来ないと絶望しているわけでもない。
 大切なことは、やるべきことは一つだけだ。
 上に行く。行って警察を変える。
 青島への思いを捨てることもない。誰に邪魔されようと、敢然と顔を上げて戦い抜いてみせる。…そしていつか、約束を果たす。
 時計を見て、電車の時間まであと数分もないことを確認し、駄目だったか、と小さくため息をついた。…いいさ。何度だって説得する。北海道へも、足を運ぼ う。
 小さな決意を抱え、鞄を持ち替えた。
 反対側のプラットホームに、電車が滑り込んできた。
 …逆方向の電車から人がはき出され、小さな改札へ向かう。それをなんとはなしに見つめ…一人だけ、立ちつくしたままの人間に目がとまった。
「青島…」
 鞄が手から滑り落ちた。
 青島が、まっすぐに室井を見つめていた。
 手には旅行鞄。あの日東京を逃げ出した日と同じ。…違うのは、悲愴感と追いつめられた逼迫感に塗りたくられたのではない表情。なにかを振り切った強い 瞳。まっすぐに室井を射抜く。
 一歩、室井が足を踏み出した。
 それに合わせて、青島もまた一歩、室井に近づいた。
「俺を見つける、って言いましたね」
「…ああ…」
「ちゃんと、見つけてくれた」
「ああ」
「室井さん」
 言葉のたびに、一歩ずつ距離が縮まり…青島が室井の名を呼んで、室井の胸に飛び込んだ。
 忘れかけていた感触。暖かな存在感。取り戻した。もう二度と、離さない…!
 知らず、腕に力がこもり、青島が苦笑して室井の背中をぽんぽん、と叩いた。
「…もう、逃げません…」
「ああ」
 それでも室井は、腕の力を緩めなかった。
 逃げずに、闘おう。
 二人で。
 信じた道を行こう。
 約束が果たされるまで。
 今二人が信じているのは、互いの熱だけではなく、現実が遠のいていく甘やかさではない。
 抱き合う二人の後ろに…約束の地へ向かう電車が、ゆっくりと近づいてきた。






END


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