Heaven
青島がどこか遠くを見つめているわけが、少しずつわかり始めたのは、追尾の存在を知り、さらに2度居場所を変えた頃だった。
まるで逃げるような…いや、逃げ回る生活に、青島の口数が少なくなっていった。
それでも、互いの手を握る強さが変わるわけではない。
苦いものを飲み下しながら、室井は揺れる車窓の外を見た。
次はどうする。どこへ逃げる…。
そう考えた瞬間、はっと気づいた。
次。これから。
これから、どうするつもりだ…?
青島と離れるのが嫌で、どうしてもこのまま別れられないと、青島だけを破滅へ追い込んで、どうして自分だけが守られて生きていけるのだと、追いつめられ
たような気持ちで青島の後を追った。これまでのこともこれからのこともすべて忘れて、甘く濃密な日々に酔った。
次は、どうする…?
このまま、青島と二人で逃げ続けるのか?
ぼんやりと窓の外を見ている青島の横顔が、急に遠くなる。
これからどうする。仕事もない、行く当てもない。すべてを捨てて、責任もなにも丸投げして、逃げて…逃げ続けるのか…。
改めて、己の心の内を探る。
…生きていけるか。
夢も約束も捨てて、青島と二人でつくる幸福だけを糧にして。
迷う必要はなかった。
…あのとき電車に飛び乗ったのは、一時の感情に流されたのではないと断言できた。
青島がこの手を取ってくれるなら、どこまででも。
室井は、青島の名を呼んだ。
青島は、ゆっくりと振り返った。
「なんですか…?」
ふわりと笑う。この笑顔は、今この瞬間、自分だけのもの。
胸を突くものがあったことを隠して、室井は穏やかに言った。
「次の駅で降りて…そこに住もう」
え、と青島は首をかしげた。
室井は、握った手を上下して青島の膝を叩いた。
「その街じゃなくてもいい。どこかに部屋を借りて、仕事も探して…一緒に」
生きていこう。
その言葉は、最後までは言えなかった。
室井の胸に、青島が顔をこすりつけた。うっすらと、水分を感じる。
肩を抱き、室井は青島の耳に囁いた。
「そうして、落ち着いたら…東京に連絡しよう。もう、ほっといてくれ、って」
青島は、返事をしなかった。ただ、小さく頷くだけだった。
それでも、胸がいっぱいになった。
もう、逃げるのではない。
二人で生きていくのだ。新しい土地で、新しい人生を。
誰にも、口は挟ませない。邪魔はさせない。
室井の決意は固く…そして、青島の涙の意味を正しく理解することは、なかった。
不安から解放された青島は、普段以上に情欲を隠そうとしなかった。
「ん…っ、あ、そこ、あ…っ」
「青島…青島…っ!」
すがりついてくる躯の熱さは、室井の熱をもかき立てた。汗の浮かぶ肌に唇を寄せ、伸ばされる腕を絡み取り、より近くに熱を感じたくて腰を引き寄せしなる
背中に腕を這わせて…。
幾度も果て、快感よりもむしろ苦痛を伴いそうな行為に、それでも青島は求め続けた。
頬を擦り寄せて、室井の名を何度も呼んだ。
ずっと一緒だ。絶対離さない。
何度も繰り返す言葉に、青島はただ頷いた。
半ば気を失うように眠りについた青島の目尻から、涙が一筋零れた。
それをそっと拭って頬に口づけを落とした。
愛している。愛されている。
満たされた心地よさが、柔らかく室井を眠りの淵に誘い…青島の肩を抱き寄せ、その淵に落ちていった。
頬を撫でる感触に、室井はうっすらと目を開けた。
安いホテルの薄いカーテンの隙間から、朝のものではない光が差し込んでいる。その光を背に、愛しい男の輪郭が浮かび上がる。
驚くほど美しく笑いながら、青島が青島の頬を撫でていた。
「ねぼすけ…」
「ん…」
憎まれ口に応えず、室井は青島の腕を掴んで引き寄せた。
「わ、なにすんの」
室井の上に倒れかかった青島は、抗議の口調で言いながらも、顔は笑っていた。
「腰が痛い」
「俺のセリフです」
くすくす笑う顔を掴んで、口づけを一つ。
「ん…」
微かに漏れる吐息は甘く、昨夜の情交を思い起こさせる。抱き込もうとして、青島の腕に阻まれた。不満げな表情をする室井に、青島が苦笑する。
「だーめ、です。室井さん、今日は部屋を探しに行ってくれるんでしょう?」
「ああ…」
額にかかった髪を、青島がなでつける。
「格好よくしてってください。最初が肝心です」
「…それは、釘を刺されてるのか」
「ですね」
カジュアルな室井をここ何日も見続けてきたから、久しぶりにびしっとした姿を見たいのだ、と言われれば、期待に応えずにはいられないだろう。
室井は渋々と起きあがった。
それでも離しがたい腕を、青島はくすくすと笑いながら引っ張る。
「シャワー浴びて。びしっとして。めし食って」
「ああ。…お前はどうする?」
「…そうですね」
腕を引き抜いて、青島は少し考えてから言った。
「仕事、探してこないとね」
「そうだな…」
室井も、仕事を探さなければ。
なにができるだろう。持っている資格と言えば、運転免許と柔道三段。それだけだ。
「なんだってできますよ」
青島は明るく言った。
「日雇いでも、なんでも。やろうと思えばなんだって」
そう言いながら、ヘルメットをかぶって工事でもしている室井でも想像したのだろうか。青島はぷっと吹き出した。
「…似合うかどうかは別として」
憮然とした室井に、また青島は吹き出した。
…久しぶりの、すがすがしい空気だと思った。いつもどこかにあった、不安という黒い影がなりを潜めたのだろう、と思った。
不安材料なら、まだまだたくさんあるけれど。
逃げることをやめた二人には、乗り越えられるはずだった。
人生なんて、わからない。先のことなど、わからない。
それでも二人は、新しい一歩を踏み出したのだ。
長く息をついて、室井は「シャワー!」と小言を言い出した青島に生返事をした。
青島の注文通りの格好をして、室井はロビーに降りた。
青島と肩を並べてホテルの外に出たところで、青島が急に立ち止まった。
「やっべ」
「ん?」
「忘れ物。昨日駅でもらってきたんです、就職情報誌。部屋に置いてきちゃった」
「ああ…」
そんなの、どこにでもあるだろう。
そう思ったが、青島の足はホテルに向いていた。
「取ってきます。室井さん、先行ってて」
「ああ。気をつけてな」
「室井さんも」
室井は青島に背を向けて歩き出し、青島もホテルの中に入った。
さて、駅からホテルまでの道に、不動産屋があっただろうか。
昨夜の道を思い起こしながら歩く室井は、気づいていなかった。
室井の背を、切なげに見遣る青島の視線に。表情に。
青島は、室井の背が視界から消えるまで見つめ続け…小さくため息をついて、フロントに向かった。鍵を受け取り、エレベーターに乗って、部屋に入り…そし
て、ポケットから、携帯電話を取り出した。
ぴ、と小さく音を立て、着信履歴を確認し…ぎゅっと目をつぶった。
そして、震える指で、ボタンを押した。
