Heaven
室井は、早々に現実の壁に突き当たった。
男二人で暮らす、というのは、存外に難しいらしかった。
元々、家族ではない二人が同居する、というだけで、大家はいい顔をしないらしい。仲の良い友人同士でも、一緒に暮らすうちにトラブルが起こり、同居を解
消する、というパターンが多いのだそうだ。短期契約は大家も不動産屋も敬遠する。女性同士ならまだしも、男性同士では…と、愛想笑いをされた。断られた本
当の理由は、そこではないことを気づいていたが、室井は平静を装って店を出た。
…暑いな。
久しぶりのスーツは、着慣れているとはいえ、やはり堅苦しい。少しだけネクタイを緩め、室井は空を見上げた。
すっきりと晴れ上がった空とは、裏腹な気分だ。
…まあいいさ。まだ一件目。そうそうすんなりいくものじゃない…。
青島は、うまく行っているだろうか。
アスファルトを焼く強い陽射し。抜けるように青い空に、遠く入道雲が浮かぶ。うるさいほどの蝉の声。その中を、同じように汗をかきながら歩いているだろ
う。
…目指すのは、同じものだ。対象が変わっても、一緒に歩いていくことに変わりはない…。
室井は、緩めたネクタイを締め直し、歩調を変えて歩き出した。
結局日が暮れても、収穫はなかった。
明日は職探しをしようかな、などと思いながら、フロントに寄ると、受付の女性が声をかけた。
「お連れ様はチェックアウトなさいましたが、お部屋をシングルに替えましょうか」
「…え?」
どういうことだ?
「なにか、伝言は?」
「いただいておりませんが」
じわり、と不安が胸に広がる。
とにかく鍵を受け取り、部屋に戻る。
鍵を開けて、部屋に戻ると、ベッドメイクされたベッドの脇に、鞄が一つ。東京を飛び出してから買った、着替えだけが詰め込まれている小さな鞄…。
青島の痕跡は、綺麗に消されていた。
「青島…!」
狭いユニットバスを開けてみても、そこに青島はいなかった。
たちの悪い冗談だろう…!
混乱と苛立ちで頭を抱え、ベッドに座る。
ふと、視界に白いものが移った。
ささやかなライティングテーブルの上に、ホテルの便箋。
手を伸ばし、それを取る。
…見間違えようのない、右上がりのくせ字。
書いてあったのは、シンプルな言葉が二つだけ。
さようなら。
ごめんなさい。
「青島…!!」
膝をついていた。
なぜ。どうして。
膝をついた先の深淵に、頭から呑み込まれる。
そんな感覚だけが、室井を支配していた。
ごう、と耳元で風の音がした。
今度こそきれいに去ろうとしたのに、どうしてこうも神さまは意地悪なんだろう、と思う。
昼間、天気のよいうちにこの街を去れば、近づく嵐のおかげで在来線が不通になるなんてことには巻き込まれなかっただろうに。
青島は苦笑をかみ殺して、煙草に火をつけた。
雨が降り出したら、どこですごそうか…。
強い風になぶられながら、海を見下ろす崖に腰掛けて、青島はぼんやりと煙草を吹かした。
手間取ったのは、最後に、と書き出した手紙のせいだった。
せめて伝言くらい残さなくちゃ、室井さんが気の毒すぎる。
そんな言い訳で書き始めたら、収集が着かなくなった。何枚も書いて破り捨てて、結局二言だけ。ごめんなさいと、さようなら。
…だって、本当に嬉しかったんだ。一緒に電車に乗ってくれて。
もう、絶対に離れたくない。他のことはなにもかもどうだっていい。
そんな感情に流されて、二人で逃げ出した。
…でも、それでいいわけがない…。自分がやっているのは、一番してはいけないことだとわかっていたはずなのに、ずるずると、室井にすがってしまった。
これが最後だ、今日こそ最後だと、毎日呪文のように繰り返しながら、伸ばされる腕を離せなかった。
携帯電話には、数時間おきに着信があった。
切迫した一倉の声が幾度も吹き込まれていた。
まだ間に合うんだ。室井を帰してくれ。今ならまだ言い訳が立つ。俺がどうにでもするから、青島。室井を帰してくれ、頼む…。
どう責められても仕方がないと思っていたのに、一倉は青島を責める言葉を一度も言わなかった。それだけ、室井を理解しているということだ。わかってくれ
ている、のではない。ああいう男だと、決めたら引く気がない男だと、理解しているのだ。青島を責めたところで、室井がその気にならなければ絶対に帰らな
い、と…。
一倉に居場所を告げて、もうすぐ6時間経つ。じきに一倉が室井を迎えに来るだろう。それを見ずに、今度こそ消えるつもりだった。二度と、室井には会わな
い。会えばまた同じことを繰り返してしまうだろう…。
ねえ室井さん。
あんたが一緒に逃げてくれてるうちはよかったんだ。一時だと思えばいい。そのうち一倉さんが見つけてくれるだろう、そうしたら俺は一倉さんを悪者にし
て、あんたの前から消えることができたんだ。
だけどあんたが…あんたが、一緒に住もうとか仕事探そうとか言うからさ。これ以上はダメだって思ったんだよ…。
捨てられるわけがない。室井の将来を。約束を。
あんたがそれを、あっさり捨てようとするからさ…。
そこまで考えて、青島は苦く笑った。
悪いのは、室井さんだ、って…そういうことにしたいのか、俺は…。
悪いのは俺だ。
一倉が責めなくても、室井が青島に手をさしのべても、神さまが目こぼししてくれたってダメだ。俺が知ってる。悪いのは俺だと。
決してやってはいけないこと。室井の将来に傷を付けること。
もう二度とすまいと決めたのに。これは決定打だ。
これ以上は、つきあわせるわけには、いかないだろう…?
また回り道をさせてしまったけれど、室井なら乗り越えてくれるはずだ。俺がいなくても、約束は守って。俺がいない警察でも、変えてくれ。
信じてるから。祈ってるから。
もう二度と会えなくても…どこにいても、どんな姿をしていても。
確かな光を放つあんたを、俺は必ず見つけるから…。
また風が、びゅう、と吹いた。
いつか見た夢のつづきのようだと思った。
この風が、背中を押してくれたら楽になるのに。
今すぐ立ち上がり走って室井の胸に飛び込みたがるこの弱い自分を、海に突き落として欲しかった。
楽に、なるかな…。
覗き込んだ海面は暗く、近づく嵐に荒々しく泡立つ波は、すべてを呑み込んでくれる気がした。
すべてを。
室井への愛も、背を向けた後悔も、すべてを…。
ひときわ強い風が、青島の背中に吹き付けた。
