JUNE BRIDE








 ふう、と小さくため息をついて、夏美はつけっぱなしだったテレビを消した。
 バラエティ番組だったようだが、よく覚えていない。
 ただぼうっと、画面を眺めてはため息をついていた。
 目の前のテーブルには、何時間も前に調理し終わった料理がすっかり冷めて、なかなか帰宅しないこの部屋の主の帰りを待っている。
「まぁだ、かなー…」
 返事をする者もいないのに、夏美はぽつりと言ってみた。
 広すぎるリビングに、夏美の独り言が意外に大きく響いた気がして、またため息をつく。
 …気分を変えよう。
 そう思って、リビングの掃き出し窓を開けて、ベランダに出てみた。
 6月の東京は、湿気を含んだ風がよけいに気分をブルーにしていくようだ。
 手すりの上に置いた腕に顎を乗せて、眼下に広がる夜景をぼんやり眺める。
 もうすぐ、ここで、暮らすんだ…。
 なんだか実感がわかない、けれども確実にやってくる現実に、なにやら涙が出そうになった。
 来週の、日曜日。
 夏美は新城と結婚する。
 もう3年も前から、望み続けてきたことだった。
 いつもしかめっつらのあの人の、意外な暖かさを感じて、惹かれて、目が逸らせなくなって。
 もっと近くでこの人を見ていたい、と望んだら、彼はNY長期出張。
 離れたくなくて、でもあの人の気持ちが測れなくて、そして夏美から、勢いだけのプロポーズをしてしまった。
 あのとき、新城はとても驚いた顔をしていた。
 思い出して、ぷっと小さな笑いが漏れる。
 目を丸くして、しばらく口が開いたまんまだった。
 最初は断られてしまったけれど、でも新城は夏美の思いをちゃんと受け止めてくれた。
 …うれしかった。
 だから、1年半の遠距離恋愛も、我慢することができた。
 帰ってきたら、ずっと、そばにいられる。
 そう思ったから。
 …新城がNYから帰ってきてからも、いろいろとあった。
 「刑事になりたい」という夏美の希望と、新城の信念とがぶつかりあって、はじめて喧嘩してしまった。
 でも最終的には新城は夏美の気持ちをちゃんとわかってくれた。
 新城から、ずっと願い続けてきた言葉をもらった。
 あの日のことは、きっと生涯忘れない、大切な思い出。
 あのあと、父がとても怒って、なかなか結婚にOKを出してくれなくて、新城は苦労したと思う。
 父一人、子一人の家庭だから、父はなかなか夏美を手放そうとしなかった。
 でも、真剣な新城の姿を、ちゃんと見ていてくれた。
 去年の秋、やっと父が新城を認めてくれたときは、やっぱり嬉しくて、涙が出てしまった。
 それから、ずっと慌ただしい日々が続いて…
 そして、来週の日曜日。
 夏美は、6月の花嫁になる。
 もう新居には新城が引っ越しを済ませていて、夏美の荷物もほとんど運び込んである。
 あとは、結婚式を済ませて、それからハネムーンに行って、新城との生活をスタートさせるだけ。
 …しあわせ。
 大好きで、ずっとそばにいたいと願った人と、結婚できて。
 愛し合ってるという確かな証を、もうすぐ二人で手に入れる。
 とっても、しあわせ。
 …しあわせなはず、なのに…。
 なんでこんなふうに、自分で何度も確認しなければならないくらい、不安があるんだろう…。
 これが、マリッジブルーというやつなのだろうか。
 結婚前の女の子が、必ずなるんだって、青島さんが言ってた。
 『夏美ちゃんは、大丈夫そうだね』って、笑ってた。
 そのときは、『はい』って笑えた。
 でも…式を一週間後に控えて、こんなふうに新居に足を運んで、支度をして…どうしてこんなにしあわせな作業を積み重ねているのに、泣きたくなるような気 持ちになっちゃうんだろ…。
 じわりと夜景がにじんだ。
 あわてて目をこする。
 理由はわかってる。
 もうすぐ結婚式なのに、新城と顔を合わせていない。
 なにやら忙しいらしく、ここ2週間ほどすれ違い生活なのだ。
 もちろん、毎日電話をくれる。声は聞ける。
 でも、でもね。
 顔を見たいの。
 大丈夫だよって、背中をさすってほしいの。
 これからずっと一緒だから、安心していいんだって、ちゃんと顔を見て、聞きたい…。
 新城が忙しいのは、仕方がない。
 それはわかってる。
 忙しい人だって、その分誇りと責任を持って仕事してる人だって、わかってる。
 そんなところも大好きなのだから、夏美が不満を口に出せるはずもない。
 だけど…
 結婚しても、こんなふうに毎日新城の帰りをぼんやりと待つのだろうか。
 まだかな、まだかなって、時計を見上げるのだろうか。
 大好きな気持ちの分だけ、切ない気持ちが、募っていくのだろうか…。
 自信がない。
 我慢なんか、きっとできない。
 どうしよう…こんなに、情けない子だったかな、私…。
 再び目をこすって涙を拭って、部屋の時計を見た。
 もう11時。
 これ以上、この部屋にはいられない。父にしかられてしまう。
 部屋に戻って、窓を閉めて。
 メモ帳に新城へのメッセージを残していく。
 バックを持って、部屋の明かりを消して。
 いっそう切なくなってくる気持ちをこらえて、扉を閉めた…。






 式当日は、晴天。
 夏美は朝早くから起き出して、支度に取りかかった。
 バックに二次会用の服を詰めて、式場へと急ぐ。
 父への挨拶は、夕べのうちに済ませたのだが、お互いなんだか照れくさくなってしまって、今朝はほとんど口をきいていない。
 それがなんだか、無性に寂しかった。
 タクシーの中で父の横顔を見ながら、また切なさが募ってくる。
 …どうしよう。どうしよう…。
 意味もなく、それだけを心の中でつぶやいているうちに、式場についてしまった。
 そこからは、戦争であった。
 なにかを考える間もなく、ひたすら付添人にせかされて着付けやら化粧やらと動き回される。
「おきれいですよ」
「ほんっと、このドレス、お似合い!」
「お婿さま、しあわせですわねー!」
 …そんな言葉が、ただ耳を通り抜けていく。
 鏡に映った自分が、なんだか別の人のように見えてくる。
 頭に乗せられた、小さなティアラ。
 足下に広がっていくレース。
 ドレスは、自分でつくったのだ。
 小さい頃からの夢だった。自分の作ったドレスで、お嫁さんになる。
 ブーケは、小さな白い薔薇で作ってもらった。
 これに似合う小さなブローチを、たくさん作った。
 お色直しのときに、みんなにつけてもらうの。キャンドルサービスしながら。
 そしたら、もう一度前に立ったとき、全然イメージ変わるのよ、きっと。
 赤や、黄色や、ピンクの小さい薔薇で、とってもかわいいドレスになるの。
 ステキでしょ?
 そうきいたら、似合いそうだ、と新城は短く答えた。
 新城の耳が真っ赤になっていたことに気づいたのは、きっと夏美だけ。
 …そのときのことを思い出して、小さく笑った、そのとき。
 鏡に映った自分を見て、夏美は驚愕に目を開いた。
「…ない…っ」
「え?」
 レースの広がり具合を確かめていた付添人の女性が、夏美の小さな叫びに顔を上げた。「どうかなさいました?」
「ない…ないの!ピアス…!」
 耳に手を当てても、あるはずがない。
 だって鏡の中の自分が、つけていないのだから。
「ピアスですか…?たしか、お嫁さまがご自分で持ってらっしゃるって、きいてますけど?」
「持ってきたはずなんです!バックの中…!」
「じゃ、ちょっと見て参りますね」
 そう言って、付添人が夏美のバックを探る。
「…見あたりませんけど、ねえ…」
 そして気の毒そうに夏美を見る。
「なんでしたら、こちらでそろえましょうか?」
「ダメ!あれじゃないと、ダメなんだから…!」
 だってあれは、新城が買ってくれたのだ。
 結婚式には、これがいいなって、夏美と一緒に選んだ。
 もうすてきな指輪ももらったんだからいいよって言ったのに、新城は買ってやりたいんだといって、選んでくれた。
 ドレスに似合うようになって、小さい薔薇の、透明なピアス。
 ときどき光を反射して、きらって光った。
 とっても気に入って、早く結婚式が来るといいのにねって、笑い合った…。
「あれがないと、ダメ…!」
 瞳に涙があふれてくる。
 突然の夏美の涙に、付添人があわて始めた。
「あ、あらあら。大丈夫ですよ、こちらにもすてきなもの、そろえてますからね」
「だって…!」
 夏美は付添人を見上げて叫んだ。
「…あれがないと、お嫁にいけないっ!」
 そして立ち上がり、付添人の背中を押して外へと追いやる。
「でてって…っ!」
「ちょ、ちょっと、落ち着いてくださいなっ」
「うっ…およめに、なんか、行かないもん~っ!」
 強引に付添人を追い出して、夏美は控え室の扉に、鍵をかけた。
 やっぱり、ダメ!
 結婚なんか、できない…!
 扉に背中を預けたまま、夏美は声を上げて泣き始めた。




 時間ぎりぎりに式場に滑り込んだ新城は、ようやく身支度を整えて、式に参加してくれる客人たちに挨拶を始めたところだった。
 夏美のたっての希望での、警察の礼装は、夏美の友人たちに異様な人気があった。
 女性たちに囲まれて、すっかり弱り切っていた新城は、あわてて駆けてきた義父の呼び声に、これ幸いと飛びついた。
「どうかされたんですか、お義父さん」
「…どうもこうもないよっ!新城くん、君ね、なにやったんだ!?」
「え?…なに、って…」
 息を整える間もなくわめきだした義父に、つい聞き返してしまう。
 なにやったもなにも、まだ挨拶を始めたばかりでなにもしてはいない。
 …聞き間違えたのだろうか。
「なにか、あったんですか?」
「なにかってねっ!…夏美が!結婚をやめるって言い出したんだよ!!」
 義父の場違いな大声に、客たちが振り返った。
 一瞬静まり返り、そしてざわりとどよめきが走る。
 新城は、呆然と立ちつくすだけだった…。





 なんとか衝撃から立ち直った新城が、花嫁の控え室に行くと、そこは人だかりができていた。
 義父の大声で、新郎新婦の友人たちが駆けつけたのだ。
 中には、青島の姿もある。
 ぴったりと閉ざされた扉に向かって、必死に語りかけているようだ。
「な~つみちゃ~ん…機嫌なおして、出てこようよ、ね!?」
 しかし、部屋からの応答はない。
 やがて、青島が新城に気づいた。
「新城さん!…なにやってたんですか!」
「なにって…」
 さっきからこればっかりだ。
 夏美がなんで結婚をやめるなんて言い出したのか、理由もわからないのに、なぜ私ばかりが責められる…?
 いささか理不尽な怒りがこみ上げてきて、新城は青島をぎろ、と睨み付けた。
「夏美は」
「…中、です」
 青島が親指で閉ざされた扉を示す。
「いったいなんだってこんなことを」
「俺たちが聞きたいですよ、そんなこと」
 青島が呆れ顔で一人の女性を隣に呼び寄せた。
「付添人さんです」
 女性はぺこりと頭を下げた。
「夏美はどうして」
 新城が詰め寄ると、女性も訳がわからない、というように頬に手を当てた。
「なんだかね、ピアスがないって言い出して、そしたら泣き出しちゃいましてね…私どもも、なにがなんだか…」
「ピアス?…って、あれか!」
「新城さん、なんか知ってるんですか?」
 青島も、それからそこにいた人々が新城に注目したので、新城はちょっとのけぞってしまう。
「あ、ああ…。ドレスに似合うように、二人で選んだんだが…それが、ないのか?」
「ええ、お嫁さまが持ってらっしゃるはずになってたんですけどね、どうも忘れてきてしまったようで…ときどき、いらっしゃるんですけどね、こんなふうにお 式の直前に不安定になる方って…でも、ここまでする方は…ねえ…」
 ぶつぶつと愚痴り始める付添人の横をすり抜けて、新城は扉の前に立った。
「夏美ッ!」
 しばらくして、小さな返答があった。
「…賢ちゃん…?」
「そうだ、私だ!…ここを開けなさい、夏美!」
「ダメーッ!」
 涙混じりの叫びが聞こえてくる。
「なんでダメなんだ、夏美…!」
 新城の背後では、野次馬たちが声にならない声援を送り続けている。
「早くここを開けなさい!」
「だって…ピアスがないんだもん…っ」
「ピアスなんかいいから!」
「それだけじゃ、ないんだもんっ」
「…まだなにか、忘れちゃったのか?」
「そうじゃないもん…っ」
 新城は、いらついて扉をどん、と叩いた。
「…夏美。顔が見えないんじゃ、話にならない。…ここを開けてくれないか」
 やがて、かちゃりと音がした。
「賢ちゃん、だけ…?」
 新城は、後ろを振り返って頷いて見せた。
「ああ、私だけだ。私だけが入る。…それなら、いいだろう?」
 そして、ドアノブに手をかけ、そっと扉を開けた。
 中を覗くと、夏美が背を向けてうなだれている。
「せっかくのドレスが、泣いたらもったいないだろう…?」
 なるべく優しく言葉をかけても、夏美は振り返ってはくれない。
 そっと近寄って、夏美の肩に手を載せた。
「夏美…?」
「私、ダメなの」
「だから、なにがダメなんだ。ピアスくらいなくたって、私は気にしない」
「ピアスだけじゃないんだってば」
「じゃあなにが…!」
 いらつきを隠せない新城に、夏美は泣きながら訴えた。
「だってっ!賢ちゃんになかなか会えないし!帰りも遅いし!寂しくって、なんだか不安で!…だけどこんなの、私のワガママだし…っ!」
「夏美…」
「…不安なの…!」
 そして、新城に抱きついた。
「こんなに私、ワガママなのに、賢ちゃんのお嫁さんになんか、なれないよ…!」
「夏美…」
 新城は、夏美の背をそっと撫でた。
「賢ちゃ~んっ!」
「大丈夫、大丈夫だから…」
「だってっ」
 新城が言っても、夏美はなかなか泣きやまない。
 …今朝の夢見の悪さは、これだったのか…。
 新城は天を仰いだ。
 ひどい夢を見たのだ。
 こうしてドレスを着て、笑っている夏美がいた。
 とても綺麗で、言葉に詰まった。
 そしたら、夏美が「サムシングブルーだ」と言って、ドレスをまくり上げたのだ。
 そして中から、こともあろうに、青島が出てきた。
 …とんでもない夢だった。
 新城は、深くため息をついた。
「夏美。私はそんなに信用がないか…?」
 その言葉に、夏美がぱっと顔を上げた。
「そんなこと…!」
「私は、君を幸せにするだけの力がない、そういう意味なのか…?」
「…!そうじゃない!そうじゃないの!…ただ、不安で…ちゃんと賢ちゃん奥さんやれる、自信がなくって…!」
「だったら私だって自信がない。ちゃんと君に幸せをあげられるか、いつだって不安だ。…だけど、君となら、がんばれる気がする。…そうじゃないか?」
 新城は、そっと夏美の体を離した。
 そして、ポケットから小さな箱を取り出した。
 目を丸くする夏美の目の前で、箱を開けてみせる。
「…ネックレス…?」
「見ろ、青い石が入ってるだろ?」
「…サファイア…?」
「そんな名前だったかな」
「なんで…」
 涙が乾ききらない瞳で見つめる夏美に、新城は笑って見せた。
「今日、君が夢の中に出てきた。青いものを身につけると、幸せになるんだと言って、笑ってた。…だから、今日式場に来る途中で、買ってきた。ピアスなんか なくたって、これがあれば、きっと幸せになる。それから…会えないときだって、私はずっと君のことを想ってる」
「賢ちゃ…」
「これじゃだめか」
 答える代わりに、夏美は新城に抱きついた。
「なあ、夏美。二人でいれば、きっとそれだけで幸せになれると思わないか?…少なくとも私は…君がいれば幸せなんだが」
 背中に回された手に、ぎゅっと力がこもった。
 胸の中で、夏美が小さくごめんなさい、とつぶやいたのを聞いて、新城もまた、夏美を抱きしめる腕に力を込めたのだった。






 かちゃりと音がして、扉が開き、新城が出てきた。
「新城さん、どうだったんですか!?」
 青島が新城に詰め寄った。
 それには答えずに、新城は付添人の女性を目で捜して言った。
「ああ、すみません。支度の続きを」
 新城の言葉に、野次馬たちが歓声を上げた。
 だれもが、美しい花嫁の登場を待ちわびていたのだ。
 喜ぶ野次馬たちを後目に、新城は青島の肩に手をおいた。
「青島」
「な、なんすか」
 新城の意外な行動に、青島が怯える。
「君のおかげだ。ありがとう」
「へっ?」
 それだけ言って、新城は今も会場で花嫁の到着を待つ客人たちに式が遅れている理由を説明するため、控え室を後にした。
 残された青島は、ただ呆然とその後ろ姿を見送った。
「俺…なんか、した?」
 答えてくれる者は、だれもいなかった。





 ワーグナーの結婚行進曲が盛大に流れ、披露宴式場の扉が大きく開かれた。
 新郎は、警察の礼服に身を包み、胸を張って新婦の腕を取った。
 純白のハンドメイドのドレスをまとった新婦は、晴れやかに笑っていた。
 ちょっと目が赤いのは、きっと感動の涙で濡れたためだろう。
 誰もが祝福の拍手を送る中、夏美は願い続けた六月の花嫁になった。 







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