その事件のあとの交通課は、まるで針のむしろだった。
署員が夏美をじろじろとあからさまに見ていく。
なぜか本庁の捜査員が、わざわざ交通課の前を通る。
後ろの方から、ひそひそと声が聞こえてくる・・・。
5時になったと同時に椅子から立ち上がると、またもやざわっと声がする。
・・・いいもん、こうなるのわかってて、言ったんだから。
そう思って、わざとゆっくり周囲を見渡してから、
「・・・お先に、失礼します」
とだけ言って、更衣室に向かった。
5時をすぎたら、プライベート。どこに行こうと、だれとどんな話をしようと、夏美の自由なはずだった。
もう一回、大会議室に行ってやる。
そう決意して更衣室を出ると、壁により掛かって青島がたばこを吹かしているのに気がついた。
「よ。なんか、大胆なことしたんだって?」
いつもと変わらない調子で話しかけてくる青島に、夏美の緊張の糸が切れた。
「わ。わわ、どうしたの、夏美ちゃん。泣かないでよ」
「・・・青島さぁん・・・」
青島はすっかり困惑しきった様子で、泣き出した夏美の肩を抱いた。
「ね、夏美ちゃん。ここじゃなんだからさ、えっと、休憩室いこっか、ね」
夏美をなだめながら、青島はなんとか夏美を休憩室の長椅子に座らせ、コーヒーの缶を握らせた。
そのまましばらく黙って夏美が落ち着くのを待ち、青島のたばこが2本灰になってから、青島は夏美の顔をのぞき込むようにしてたずねた。
「新城さんに、プロポーズ、したんだって?」
「・・・はい」
「ちょっと、失礼なこと聞くけど。・・・新城さんに、手、出されちゃった?」
青島の言葉に、夏美は頭を横に振る。
「手を出すどころか・・・」
「だよねえ。二人とも、そんなそぶりちっともなかったからさ、俺も驚いた」
「ごめんなさい」
「や、謝るようなことじゃないでしょ」
そう言って、青島はぽりぽりと鼻の頭を掻く。
「じゃ、あれか。俺のせいか」
「青島さんのせいなんかじゃ・・・」
「でもそうでしょ。こないだ俺が、あの噂夏美ちゃんに教えたから・・・」
少し考えて、夏美は小さく頷いた。
「・・・今、こんなこと言うのはどうかと思うけど。やっぱり本当らしいよ、新城さんのNY長期研修。今度の事件が片づいたら、すぐらしい。長くて2年、短 くて1年だって。室井さんが、言ってた・・・」
「そうですか・・・」
また、夏美の瞳に涙があふれ出した。
そう、もうすぐ新城は、夏美の前から姿を消してしまう。会いたくても会えない、遠い場所へ、行ってしまうのだ。
今までだって、なかなか会えなくて、たまに青島が食事に誘ってくれるからついていくと、室井が新城を連れてきていて、やっと話が出きる程度で。でも、そ れでもうれしくて。
署にいたのでは決して見せてくれない笑顔とか、優しい言葉や、紳士的な仕草とか。駅まで送ってもらったとき、初めてふたりっきりになって、ものすごくど きどきしたこととか。一回だけ、新城から連絡をもらって、食事をしたこととか、みんな夏美にとっては大切な積み重ねで。
もしかしたら、新城が言ってくれるかもしれない。ずっと二人でいられるかもしれない、そんな重いが夏美の中で育ってきた、その時に、青島から新城のNY 行きの話を聞かされたのだった。
「・・・新城さんは、なんて?」
「なんにも、言って、くれなくって・・・っ」
「・・・なかないでよ・・・」
青島が、ハンカチを夏美の膝の上に乗せる。
「夏美ちゃんが、新城さんのこと気にしてたの知ってたからさ、ほら、夏美ちゃん、俺と室井さんのことも知ってるし、室井さんも夏美ちゃんの力になってや れって言っててさ。それで俺たちセッティングしたんだけど。・・・・そんなに、好きだったんだね」
「・・・はい」
「離れたくなかったんだ」
「それも、ありますけど・・・」
「・・・約束が、欲しかった・・・?」
「はい・・・」
「不安だったんだ」
「今だって、新城さんの気持ちわかんないけど、でも、離れちゃったりしたら・・・っ」
「・・・そうだね・・・・」
青島の静かな口調に、夏美がこれまでこらえていた想いがあふれ出す。
青島は、夏美の背中をなぜながら、優しく言った。
「きっとさ、新城さんも今はびっくりしてると思うから。俺と室井さんで、新城さんの気持ち聞き出してあげるよ。新城さんが、夏美ちゃんのこと嫌いなわけな いじゃない。今だから言っちゃうけど、始めに夏美ちゃんを紹介しろって言ってきたの、新城さんなんだから。・・・それに俺、夏美ちゃんの気持ち、よくわか るよ、たぶん」
ほんと、キャリアのひとって、やっかいだよね。
苦笑して言う青島に、夏美は小さくほほえんだ。
「・・・というわけなんすよ、室井さん」
家に帰り着くなり、本日の最優先事項とばかりに室井の携帯電話の番号を押した青島である。
「どうにかして」
「どうにかしてってお前・・・どうしろと言うんだ」
苦笑を含んで返す室井は、未だ仕事中だ。息抜きもいいだろうと、恋人に強引に押し切られて、仕事を中断して廊下に出て来ている。
「だって。夏美ちゃんがかわいそうじゃないすか。女の子からプロポーズですよ、プロポーズ。俺だってされたことないのに、新城さんにプロポーズ!なのに無 視なんて、ひどすぎると思いませんか?」
「・・・なんだ、プロポーズされたいのか」
「室井さん、まじめに」
「・・・悪かった。でもな、俺から言ったところで、あいつがそう簡単に俺の言うことを聞くとは思えんぞ」
「・・・そりゃ、確かにそうなんすけど」
受話器を肩で押さえて、冷蔵庫から缶ビールを取り出してプルトップをあける。
「じゃ、どうしたらいいと思います?」
「お前が聞けばいいだろう。特捜が立ってるんだろう?お前の方が物理的に近い」
「あ。俺に押しつけるんだ」
「お前の方が適任だと言ってるんだ。俺にそんな繊細なことを手がけられると思ってるのか?」
「ま、確かにね」
「・・・引っかかる言い方だが、よしとしよう。・・・ところで、篠原くんは、なぜ急にそんなことを言い出したんだ?」
「そりゃ、新城さんがNYに行っちゃうから」
「だからって、結婚は飛び過ぎじゃないか?彼女だって若いんだし、仕事もしたいだろうし」
青島は、ふう、と大げさにため息をついてみせた。
これだから、キャリアはやっかいだと言うのだ。
「あのね、室井さん。もし俺が、室井さんになんにも言わないで、警察やめるとか決めちゃって。2年くらい東京戻りませんって、それをほかのだれかから聞い たら、室井さんどう思います?・・・不安になるでしょ?自分のことはどうでもいいのかって、怒るでしょ?ちゃんと自分のこと忘れないで、帰ってくるのかっ て、思わない?」
「帰ってくるだろ?」
「そりゃそうだけど。俺たちは、そういうとこ乗り越えちゃったからさ。・・・でも夏美ちゃんは違う。相手の気持ちもわからない。でも好きで仕方ない。2年 後の自分の気持ちにも自信がないと来たら・・・確かな約束欲しくなるの、当たり前じゃないですか」
「そういうものか」
「・・・あんたにそういう気持ち理解しろってのが無理でした」
青島は再び大げさにため息をついて返してやる。しかし室井は、真剣な声で言った。
「俺なら。お前を行かせないけどな」
「・・・なにそれ」
「まず、警察を辞めさせない。やめることになっても、俺の傍から離さない。2年も帰らんなど、論外だ」
「・・・・それ、自分勝手」
そう言いながらも、青島は顔が笑ってしまうのを止められなかった。
そう、確かに自分たちはこういうところを乗り越えてしまっている。
二人が互いの気持ちを信じあって、生きている。言葉にしなくても確かな約束が二人にはある。一度すれ違ったから、誤解があったから、もう二度と間違えま いと、二人が固く信じ合っている。だから、お互い忙しくて、顔を見ない日々が続いても、不満はあっても不安はないのだ。
・・・でも、夏美は違う。
「でもね、夏美ちゃんはオンナノコなんだよ、室井さん」
「・・・?」
「ま、室井さんにはわかんなくていいけどさ」
「そういうこと言うか、人が仕事に使う時間を割いて話を聞いてるっていうのに。おかげで今日も、今日中には帰れそうにないぞ」
「え。じゃ、今日も会えないってこと?」
「そうなるな」
・・・今日は、早く仕事が終わったら、室井が青島の部屋に来ることになっていたのだ。
「・・・べつにいいけどさ。仕事じゃ仕方ないし。仕事大好きだしね、室井さんは」
そう、不安はなくても、不満なら山ほどあるのだ。
しかし室井は、しれっと答える。
「そうだな、今度の週末はどうしてもあけとけって無茶を言う恋人のために、仕事が好きにならなければならんらしい。・・・だれだっけな、年に一度の横田基 地の開放に、どうしても行きたいとか言ってるミリタリーマニアは・・・」
あ、と思う。
そう言えば、そんなことを言った気がする。たまには週末をあけてデートをさせろと、ずいぶん前に、自分でもわがままだと思いながら、室井に困った顔をさ せたっけ・・・。
とりあえず謝っておこう、と青島は神妙な声で言った。
「・・・室井さんの恋人が複数いるんじゃないなら、誰かわかります。すんません」
受話器から、プライベート以外なら珍しい、くすりという笑いがこぼれてくる。
「わかるならいいんだが。もうきるぞ。本気で帰れなくなる。新城の方は、うまくやってくれ。あの娘に泣かれるのは、私もいやだ。じゃあな」
「はい、わかりました・・・って、それ、どういう意味!」
室井が、あの屈託のない笑みに弱いことは知っていたが、とりあえず受話器に向かって不満げな声だけ残しておいて、青島も通話を切る。
・・・さて、明日は大仕事だ。室井以上に堅物で、恋心に疎く、オンナノコの心理になど思いをはせたこともなさそうなあのトーヘンボクに、夏美の不安を理 解させねばならない。
「こ~りゃ、気合い入れないとな」
残ったビールを一気に流し込んで、青島は作戦を練り始めたのだった。