Atlas 地






  こんな夜には、地図が欲しい。
 この道の果てになにがあるのかを知りたい。
 目の前には厚い雲がかかっていて、道が見えない。
 一歩踏み出したその先に、地面があるのかどうかさえも。
 ただ見えるのは…あの夏。
 とても暑かった、あの日。
 あの日私が道を間違えたということだけ。
 あのとき…別の道を選択していれば。
 君を失うことなど、なかったのに。
 こんな、胸を切るような痛みを感じることも。
 一歩も踏み出せない恐怖を感じることも。
 きっと、なかったのに…。
 失ったのは、君と、君がいる未来。
 幸福に違いなかった、別の今…。








一睡もすることなく、私は登庁した。
 ただの、習慣だった。
 着替えて、髪を整えて、なんの味もしないコーヒーを流し込んで鞄を持って。いつも通りの時間に電車に乗り、いつも通りの道順をたどって本庁にたどり着 き、鞄をおいて席に着く。書類をめくりながら、なんだ、できるものだなとうっすら思ったが…思考はただ私の胸にときおり羽のように降ってくるだけで、なに を動かすものでもなかった。
 こうして生きていくのだろうか。
 大切なものを失った私は、こうしてただ息を吸って吐いて、ただ生きていく…。
 仕方がない、と思った。
 さようなら。
 青島は、そう言った。
 ただの別れの言葉ではなく…2年前から築いてきたすべてのものに対する訣別の言葉だったのだろうと思う。
 それがいいのだろう。理性はそう告げる。
 あのとき理性の声に従って私は青島の思いを拒み…それが、正しいのだと思っていた。
 間違っていたとわかった今、もうなにをすることもできない。
 青島は、新しい道に一歩を踏み出した。
 それを止めることなど、できるはずもない。
 2年間、いたずらに青島を苦しめ続けた男が…気持ちを知っていながら応えようとしなかった私が、今更…。
 この気持ちは、生涯抱えて生きていくしかないと思った。これは、青島を苦しめた罰だ。この罪を、生涯抱えて生きていく…。
 今日何度めかのため息をつくと、目の前にどん、と拳が現れた。
 なにごとか、と視線を上げると…これ以上はないほど苦い顔をした、一倉が立っていた。
 無言で廊下をあごでしゃくってみせる。
 やれやれ。
 仕事は傷心の男を待っていてはくれない。
 私はため息をついて一倉の背を追って廊下に出た。
 廊下の隅の休憩室に入るなり、一倉は低い声で言った。
「おい、いいのか」
「…なにが?」
 一倉は、いらいらしているようだった。
「なにが、じゃねえだろう。そんな真っ白い顔して」
 白い…だろうか。私は自分の頬を撫でてみた。撫でたところで、白いかどうかなどはわかりもしないというのに。
 何が言いたいのかさっぱりわからず、私は一倉を見上げた。
 一倉は煙草を口にした。出世に響くんじゃなかったのかと言おうと思ったが、言ったところで人の言うことを聞く男ではなかった。
「昨日、青島から電話があった。ひどく酔っぱらってた」
「そうか」
 足取りが、怪しかったからなあと、他人事のように思った。
 ぼんやりと言う私の腕を乱暴に掴んで、一倉がおい、と言った。
「俺をなめるなよ?」
「ああ?」
 なにを言われたのかわからず聞き返すと、一倉は、吐き出すように言った。
「お前らのこと、気づいてないとでも思ってるのか?」
 びくり、と身体が震えるのを、悟られたと思う。
 気がついていたのか…。
 思えば、気づかれても仕方がなかったのかもしれない。四課の主席参事官になり、薬対と一緒に仕事をする機会も増えていた。青島を伴って一倉と一緒に呑む こともあった。なにかと連んでいる私たちに、いい加減にしろよとさりげなく釘を刺されたこともあった。キャリアと所轄の小僧。一緒にいるだけで噂になる と。自分は青島を可愛がって使っているくせに、俺はいいんだと妙に尊大に言っていた。
「自覚がなかったとはお笑いだな」
 一倉は呆れたように肩をすくめて私の腕を離した。
 窓に背中を預け、煙草をぷかりと吹かす。
「はたで見てる俺だって、お前が青島に惚れてるってわかっちまうのに、青島にわからないわけねえ。ありゃあ青島が可哀想だ。いくらお前が青島のことを思って無視してるんだろうっていってもな」
 青島も…気づいて、いたのか…。
 私はため息をついて窓の外を見た。
 一倉はにやりと笑った。
「どうせ、お前の賢いココは、今もカチカチ計算してるんだろうさ」
 そう言って、私の頭を指す。
「どうやって誤魔化そうか、ってな」
「もう…誤魔化す気はない…」
 一倉に隠したところで、どうなるものでもない。
「青島は…お前に話したのか?その…」
「ああ、こっぴどく振られたんだってな。お前より青島の方がよっぽどかわいい。ちょっとカマかけりゃすぐ落ちる」
 だから、と一倉は背を起こして言った。
「お前が悪いんだよ。お前がそんなだから、青島が勝負に出る。俺はやめとけって言ったのにな」
「…どういうことだ?」
 一倉はさらりと言った。
「青島に女を紹介したのは俺だ」
「…真下警部の紹介じゃなかったのか?」
「あいつなりに意地張ってみたんだろうさ。その様子じゃちゃんと招待状を見てないな?相手は第三方面本部長の娘だぞ。いつまでも馬鹿な男にひっかかってる可哀想な青島巡査部長に、出世の道を開いてやったのさ」
 ふーっ、と長く息を吐く。白い煙がまっすぐに上っていく。
「青島からは断れない話だ。青島は断られるのを期待して女に会った。青島の期待ははずれて女は青島を気に入った。どうもその気にならない青島に焦って、女 は話をどんどん進める。ああだこうだ言ってる間に結納だ。もう後戻りできないところまできてる。…だから、お前に賭けたんだ」
「…どういう、ことだ…?」
 ぎろり、と私を睨む瞳に真剣な光が宿る。
「ゆうべあいつ、泣いてたぞ、いい年して。室井さんはなんにも言ってくれませんでしたー、ってな」
 どん、と一倉が私の胸を突いた。
「ばーか。もう知らねえぞ、お前のことなんか。お前になんか、女は絶対紹介してやらない。あんなに一途に思ってくれる奴に答えない大馬鹿野郎は、一生一人でいろ」
 言葉の調子とは裏腹な、腕の力だった。私はよろめき壁に背中をついた。
 一倉の瞳は、真剣なままだった。
「いつまで誤魔化すつもりだ。どうして青島に応えてやらない。わけを言え」
「…わかってるだろう…」
 私は視線を逸らして、ようやく言った。突かれた胸が、痛くて仕方がなかった。
 対する一倉は、冷ややかだった。
「青島にもそう言ったってな。…なにがわかってると思うんだ馬鹿」
 その言葉に私はかっとした。青島が一倉になにもかも話すということへの、嫉妬だったかもしれない。
「俺は青島を不幸にする…!いつか別れなければならなくなる、わかりきってることだろう!」
「だから馬鹿だってんだお前は!」
 一倉が私の胸ぐらを掴んだ。
「青島はそんなの承知の上だ!それでもお前に賭けた、そういう奴だろうが!」
 息が詰まる。くそ馬鹿力め…!
「先のことなんかどうでもいいんだよあいつは。お前のそばにいて、おんなじ夢を追いかけたいだけだ…!」
 思い切り私を締め上げる一倉は…真剣だった。
 同じ瞳をしていると、思った。あいつと…青島と…。
 なにが一倉をそうしたのだろう、とうっすらと思う。
 ああ…そうだった。私も、そうだった…。
 青島は、変えてしまう。頑なな心を。キャリアの傲慢も、組織の矛盾も、すべてあの熱い…燃えるような魂で。いつだって…そうだった…。この瞳のそばにいたいのだと、ずっとみつめていたいのだと…そう、思ったんだった…。
 唇を噛みしめた私を見て、一倉はぱっと手を離した。
「あー、やめやめ。馬鹿らしい。お前みたいな根性なしを相手にしてる暇はないんだ、俺は」
 やっと気道に空気が入り、私は肩で息をした。
 そんな私を一倉は一睨みした。
「午後から俺は休みなんだ。仲人だからな、結納に立ち会うのさ」
「…どこだ」
「ああ?お前になんか教えてやらねえよ」
「どこだ、言え…!」
 一倉に詰め寄ると、おもしろいものを見るような目で私を見た。
「知ってどうする」
「お前になんか、絶対言うもんか」
 これじゃ子供の喧嘩だ。
 …でも、どうでもよかった。なにもかも。
 大切なことは、たったひとつだけだった。
「ふふん」
 一倉は満足げに笑って、ホテルの場所を言った。
「言えよ、行ってどうする?」
 踵を返した私の背中に、一倉がしつこく問うた。
 私は一度だけ振り返った。
「土下座するんだ」
 一倉は、ひらひら、と手を振って見せた。
 私は足を早めた。
 なにかに追い立てられているような感覚だった。急がなければ。とにかく急いで捕まえないと。
 もう間に合わない、と理性は囁く。
 青島はさようならと言った。
 かまわない、と思った。
 土下座でも何でもして、振り向いてくれと頼む。
 理性はさらに言う。
 捕まえてどうする?上にばれたら?二人して辞職するのか?夢もなにも放り出して?
 ああ、そんな先のことなんか知るものか。
 理性はまだ囁いた。
 第三方面本部長の娘だぞ?青島はどうなる。私はどうなる?
 青島がそばにいるなら、すべてを捨てても惜しくない。いっそ二人で逃げてもいい。
 どうにかなる。…どうにかする!
 うるさく囁く理性を押し殺し、私は本庁を出た。
 じわり、と肌にまとわりつく夏の空気。
 …暑いのは結構。この暑さが、あの夏を思い出させてくれる。あの夏に、私を戻す。そして今度こそ…青島の手を取るんだ。
 もう間違えない。絶対に。
 タクシーを止め、ホテルの場所を言う。
 運転手は私の必死の形相にただならぬものを感じたのか、制限速度を大幅にオーバーして車を走らせた。
 ホテルにつき、適当な札を放り投げてタクシーを転がり出る。
 どこだ…どこだ、青島…!
 ちょうどなにかの集まりが終わるところだったのか、ロビーは人でごった返している。きらびやかな人の波をかきわけ青島を捜す。…いない…どこだ…どこだ…!
 見つけた。
 ガラス張りのティールームの向こう、美しく整えられた庭のベンチに、所在なげに座っている。暑いだろうに、スーツのボタンをきちんと止めて、ネクタイを緩めることもせずに。
 私はまたティールームを横切って庭へ走った。慇懃なホテルマンはマナー違反の私を睨み付けたが気にしている暇はなかった。
 大きくドアを開けて、庭に出る。
「青島!」
 穏やかな空気のホテルに似合わぬ大声に、青島がびくりと立ち上がる。
「…室井さん…?」
「そこ動くな!」
「へっ…?」
 私はつかつかと青島に歩み寄った。視線は青島に据えたまま。一時でも目を離したら逃げられる、と思いこんでいた。
 驚愕に彩られた瞳がだんだんと緩んで、柔らかく光る。
 肩で息をしながら近づいてくる私に苦笑して、すとん、とまたベンチに座った。
「…どうしたんですか?」
 太陽を背に立つ私をまぶしそうに見つめて、そう言った。
「どうもこうもない。まず謝る」
「…は?」
 青島はぽかんと私を見上げた。
「すまない。君の結婚をつぶす」
「…今なんて言いました?」
 青島は、ぽかんと私を見て行った。私はそれに答えず一息に言った。
「それから、君を苦しめた。すまなかった」
「…室井さん?」
 青島は、首を傾げて笑ってみせた。
 張り付いた笑顔は、いつもなにかを隠している。君の心の奥底にしまい込まれた私への思いを。
 …私も隠していた。隠しきれず、溢れ出していた。
「もう間に合わないかもしれない。でも…」
 私は、手を差し出した。
「私と一緒に、逃げてくれ」
「…え?」
「…逃げるのはまずいか。じゃあ、彼女に土下座しにいく」
「え、ええっ!?む、室井さんちょっとっ…!」
 青島は慌てて立ち上がった。
「どうしたんですか室井さん!なに言って…」
「聞け!」
 昨夜とは逆に、私が青島の言葉を遮った。
 熱い陽射しが私たちを灼く。
「君が好きだ。ずっと好きだった。君が誰かと結婚するなんて我慢できない」
「むろい、さん…」
「頼む。私と一緒に来てくれ」
 もう一度、手を差しのばした。
 青島は、信じられないものを見るかのように私を見つめた。
「嘘でしょ…」
「嘘じゃない」
 私は慌てて言った。
 青島は首を横に振った。
「じゃあ夢だ」
「夢じゃない!」
「だってこんなこと、現実のわけない…!」
 そう言って手を振り払う。まるで子供だ。
 私は青島の胸ぐらを掴んで引き寄せ、無理矢理唇を奪った。
「んん…っ!」
 ゆっくりと抵抗が止み、私の腕をはがそうとしていた腕が落ちる。
「ん…、んん…」
 青島の唇は、しっとりと私を包んだ。あの日と同じ熱さで。
 ゆっくりと顔を離し、唇を親指で拭ってやる。
「現実だろ?」
 青島が小さく頷いた。
 そして私の腕を抱き寄せた。
「本当に…?」
「本当だ」
 本当なんだ、と口の中でぽつりと言って、青島は綺麗に笑った。
 その笑顔を見て私は思った。
 先が見えなくたっていい。青島が横にいるなら。一緒に歩いていけるなら。
 この道が正しいのだと信じて…歩いていける。
 あの夏と同じ陽射しが私たちを固く結びつけた。





 結局私は土下座をせずにすんだ。
 私は一倉にだまされたのだった。あの日は結納ではなかった。青島は、あのホテルで張り込み捜査をしていたのだ。当然ホテルに彼女はいなく、私たちは逃げ る必要もなく…手に手を取って「愛と青春の旅立ち」とはいかなかったのだ。すべて捨てる覚悟で臨んだのに、だ。報復は、当然その日の内にすませた。
 そして今…青島と一緒に、暮らしている。
 きっとどうにかなる。どうにかする。
 幸福は、青島と歩くこの道の果てにある。








 人は、愚かな生き物だ。
 後ろを振り返っては、あのとき別の道を選んでいればと悔やみ、今にため息をつく。
 きっと別の今が。別の未来が。そうつぶやいて。
 でも人は、今を否定しては生きてはいけない。
 この道を選んだから…今がある。
 得難い友情と、大切な人に囲まれた、幸福な今が。
 もう地図はいらない。
 罪も悔いもすべて背負い、今を生きる。
 遙かな道を、君と。未来永劫。
 伝説の巨人、アトラスのように、永遠に。



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