Atlas 地






 そうか、おめでとう。
 ようやく出た言葉は、そんなありきたりのものだった。
 おめでとう…。
 そう言うべきだと脳が判断し、筋肉を動かしたにすぎない。
 そんな義理以上のなにものでもない平坦な言葉に、青島は綺麗に笑った。
「ありがとうございます」
 …ゆっくりと、遠ざかっていた店のざわめきが戻ってくる。
「いつ?」
「えーっと…来月なんす」
「急だな」
「まぁいろいろあって」
「相手は?」
「んーとね、真下の同期の嫁さんの妹の友達、だったかな」
「なんだそれは」
「合コンで知り合ったんすよ」
「暇だな、湾岸署は」
「あ、ひっでえ」
 杯を重ねる。料理を口に運ぶ。青島が笑う。私も笑う。
 …でも、それはすべて遠い世界の出来事のようだった。
 ざらざらと、足下から地面がなくなっていく感触というものを、初めて味わっていた。
 青島が…結婚する。
 予想できないことではなかった。むしろ、いつだってそうなるだろうと想像していた。そうしたらどうする?笑って祝福するさ、あたりまえだろう?
 以前重ねたシュミレーションは、こんなにもあっけなく崩れていく。私はこんなにも大根役者だったのかと、今更ながらに思い知る。
「ホント急だもんでね、都合つかなかったらいいんですけど」
 そう言って青島は、私に封筒を差し出した。結婚式の招待状だった。
「つけるさ」
「…ありがとうございます」
 ビールを一口飲んで、青島は言った。
「どうしても、室井さんには来てほしくて…」
 …なぜ?
 理由を聞くほど、私だって馬鹿じゃない。
 以前好きだと言った。相手を困らせた。でもその後、友情をはぐくんできた。こんな自分をきっと心配して。だから、ちゃんと新しい恋に向かって、確かな未来を歩いてると報告しなければ。見届けて、もらわなければ…。
 そうだろう?
 視線で伺うと、青島は綺麗に笑った。
「駆け込みなんで、なかなか式場見つからなくて。一倉さんにお世話になっちゃいました」
「一倉に?」
 ハイ、と青島はこともなげに言った。…ということは、一倉は知っていたということだ。
 ある事件をきっかけに、一倉は青島を可愛がるようになっていた。いずれ本庁に欲しいな、とまで言うほどに。…そうか。プライベートで世話になるほど、親しくなっていたのか…。
 ぼんやりと、封筒の中を探り招待状を見る。
「仲人、一倉か」
「もー、一生モンのお世話ですよね」
 ハハ、と青島は笑う。
「そうか。…いいやつだから、きっとお前の…君の、いい後ろ盾になってくれる」
「そうですね」
 ちらり、と私を見る。…君の、と言い直したその訳をはかっているのだろう。
「それにしても急だな」
「いろいろありまして」
「できちゃったか」
「ちがいますよぅ。まぁ、彼女の方が急いでるっていうか…」
 ぽりぽり、と鼻の頭を掻く。
「やっぱできちゃったんだろ」
「ちがいますって。んー…今度紹介しますよ」
 そうか、と答えながら…会うつもりはなかった。会いたくなどなかった。青島を…この笑顔を、柔らかさを、熱さをこれから独占する女になど。決して私が与えてやれない…幸福を、おしげもなく青島に与えられる女には、絶対に。
 店の親父が祝いにくれた酒は、最上級。口当たりがよく、水のように私の喉を通っていく。
 青島は笑い、私も饒舌になり、親父も珍しく私に笑顔らしきものを向ける。
 でもそれでも…私は酔ってなどいなかった。酔えるはずもなかった。
 やがて客が引き始め、私たちも親父に礼を言って店を後にした。
 駅までの道のりを、肩を並べて歩いた。普段呑みつけない日本酒に、青島の足取りは怪しくなっていたが、私は肩を貸しはしなかった。
「暑いっすねぇ」
「酔っぱらってるんだろ」
「いや、今年は断然暑いっす」
「そうか?毎年こんなもんだろ」
「もー、室井さん空調きいたトコにしかいないからですよ」
「そうか?」
「そうっす」
 街灯がほのかに照らす短い路地で、青島は不意に立ち止まった。
「やっぱ俺たち…住む世界が違うんですよね…」
「今更なに言ってる」
 そういうのを変えていこうって、約束したんじゃないか。そう言って、青島の顔を見ようとした。
「…青島…?」
 青島は、私をじっと見つめていた。
「室井さん…あのとき…」
 あのとき…?
「あの、夏に…」
 あの夏…
「俺、忘れるって、言いましたよね」
 あの、暑かった夏。ふれあう肌が、痛いほど熱かった、あの夏…。青島が一歩を踏み出そうとして、私がそれを留めた…。
「すみません、俺、ずっと忘れてませんでした」
 あのときと同じ真剣さで、青島は私に告白した。
「ずっと、ずっと、好きでした…」
「青島、それは…」
「聞いて」
 有無を言わさぬ響きが、私の言葉を制した。
「絶対忘れてやるもんかって、思ってました。少しでもそばにいられるなら、俺のこと見てくれなくても…それでも室井さんの近くにいたかった。室井さんに会いたかった」
 この2年間、ずっと秘め続けてきた思いは…
「でも、もうおしまいにします。…やっぱ、苦しかった」
 ずっとずっと…苦しかった…。
 吐息を吐き出すように青島は言い…そして、綺麗に笑った。
「さようなら」
 さようなら…。
 ゆっくりと、唇がことばをかたち取る。
 ことばの意味を私が理解する前に、青島は背を向けて歩き出した。きっぱりとしたその背中に、もう私はかけることばを見つけることができなかった。
 やがてその背中が路地から消え雑踏に紛れ消えたとき…そら恐ろしいほどの喪失感が私を襲った。
 胸にぽっかりと穴があく、というのはこういうものなのか、と思った。
 …世界がぐにゃりと曲がって見えた。吐き気がした。立っていられないと思った。
 そして…私の頬を伝うものは涙だった。
 失ったのだ…。
 触れることすら許さなかった綺麗なものを…私は、失ったのだ。
 涙を拭うこともせず、私は立ちつくした。
 ここから一歩も歩けないと思った。
 青島。君がいなければ。




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