Atlas 地







 会議を終えて、携帯電話の着信を見た。
 履歴には、見慣れた番号と名前。
 留守電メッセージには、飲みに行かないかと、いつもの誘いが残されていた。
 彼の誘いは、いつでも突然だ。
 私は手帳でスケジュールを確かめた。
 …小さくため息をついて、私は彼の携帯電話の番号を押した。
「私だ」
 明るい返事が返ってきた。
 私は苦笑を漏らしながら言った。
「7時には体が空く。いつものとこでいいか」
 …彼の返事に、私は一瞬言葉を失い…じゃあ7時に、と動揺を抑えて言った。
 なにをしているんだ、といつも思う。
 いったい私は、なにをやってるんだ…。
 青島の顔を見ないで約束を忘れずにいられるほど強くはあれない私は、折をみては以前の関係を取り戻そうとしていた。青島もそう思っているようで、誘えばつきあってくれたし、青島からの誘いがあれば私もつきあった。
 …今あるのは、立場を越えた穏やかな友情。それだけだ。それだけで、あるべきなのだ。
 ため息をついて、深く椅子に腰掛けた。
 2年前のあの日から、私に与えられる椅子はどんどん座り心地のよいものになっていく。なのに…違和感だけが、増していく。
 私は間違っていない。
 何度そう言い聞かせても…腹の中の、本当にいいのかと囁く声が、日増しに大きくなってくる。
 青島の手を取らなくて、よかったのか?
 お前が望んでいたのは…本当に、これなのか?
 聞き分けの良い捜査員。問題を起こさないよう息を詰めて、上からの睨みをかわして…階段を上っていく。そうやって私は、青島との約束の日に近づいて行くんだ…。
 私は間違っていない。間違っていない…。
 間違っては、いないよな…?
 私たちが望んだ関係は、穏やかな友情になっているはずだった。互いを見つめるまなざしには、尊敬と信頼だけが満たされているはずだった。
 なのに…。
「俺、室井さんとならどこだっていいです」
 青島は、そう言った。
 まだ…君の胸には、あの日の熱が宿っているのだろうか。
 私の胸と、同じ…?
 私は机に肘をついて眉間をさすった。
 馬鹿な夢だ。
 人懐っこく、周囲との関係をなにより大切にする。それが青島という男だ。彼には彼にふさわしい女性が…きっといるはず。彼を不幸にしかできない男より、ずっといい。
 こだわっているのは、私だけなのだ。彼を忘れたくない私だけ…。
 何度も言い聞かせてきた呪文をもう一度胸の内で唱えて…私は書類に手を伸ばした。
 7時には体が空くと言ってしまった。約束は、果たさなければならない。
 そんな小さな言い訳すら、私だけのこだわりであることに気づかない振りをして。





 7時きっかりに店に入るのはなんとなくためらわれて、私は10分遅れで待ち合わせの店に入った。
 青島の薦めで一度来てから、ここが定番になってしまった、小さな居酒屋だ。小汚く、親父の愛想もないが、酒も料理も旨かった。一言旨い、とだけ言うと、 仏頂面の親父がにやりと笑った。…それから、どうやら親父は私たちを常連だと決めたようだった。なにも言わずとも同じ酒と同じ料理が並ぶようになった。
 のれんをくぐると、いつもの場所に青島が座っていた。無愛想な親父のわりに、店は繁盛しているようだった。青島の隣以外に座る場所はない。
 私は青島、と声をかけた。
 振り返り私を認めて、青島はまぶしいほどに笑った。
「遅いっすよ室井さーん!」
「すまない」
「はいはいすわってすわって。鞄おいて。親父さーん」
 親父は、私の顔をちらりと見ると、腕を伸ばしてとん!と一升瓶を置いた。
「おいおい…こんなに呑めってことか?」
 私は椅子に腰掛けながら呆れて一升瓶を眺めた。まだ開けていない、純米大吟醸。
「…こんなの高いだろう。どうした、ボーナスよけいに出たか」
「んーなことあるわけないじゃないっすか」
 青島は苦笑してビールのジョッキを傾けた。
「万年安月給!…室井さんと違ってね」
「そういう言い方するな」
 私は青島を軽くこづいてから、じゃあ、と言った。
「これは?」
「これは、親父さんから」
 …なんだなんだ。こんなサービスをしてもらえるほど気に入られているのか?表情にはまったく出さないくせに。
 私は自分のことを棚に上げて親父を見た。
「なにか祝い事でも?」
「ああ」
 小さく答えて、親父は青島をぎろりと睨み付けた。
 …青島が言うには、笑っているらしかった。私にはさっぱりわからなかったが。
「へへ、俺の祝いなんす」
「…昇進か?まさかな」
「自分で言って自分ですぐに取り消さないでくださいよー」
 情けない顔をしながら青島が酒を開け、私のコップについだ。
 ざわりと嫌な予感がした。
「親父さん、俺にもコップ」
 親父が無言でコップを突き出すのを受け取って、青島は私にコップを差し出した。
「ついでください」
「あ、ああ…」
 言われるままに透明の甘露をコップについでやる。
 どくどくと、腹に黒いものが渦巻き始めるのを感じながら、ゆっくりと杯が満たされるのを見つめていた。
 青島はぎりぎりまで注がれたコップを私に掲げて見せた。
「じゃ、乾杯」
「…なにに?」
 聞くな…!
 心の叫びに反して、私の言葉は喉を滑り出た。
 …青島が、綺麗に笑った。
「俺の、結婚に」
 その瞬間、世界中の音が、一切消えた。




back   next