恋
煩い 6
12.
その日、青島は浮かれていた。
ぴょんぴょんと軽快に階段を一段飛ばし、てっぺんに両足で着地すると、勇み足に刑事課へと潜っていく。
くるんと回した椅子にぱっふんと座れば、壁時計は丁度定時を指した。
「おっつかれでしたぁ~!」
ショルダーバッグを肩に掛け、未開封の煙草を片手に背を向けた。
こんなタイミングで入電なんかあったらたまったもんじゃない。
もちろん仕事は大好きだけど今日だけは見逃してくれと、あからさまに書いてある顔で刑事課を擦り抜ける。
丁度通りかかった袴田が大きな腹を避け、不思議そうに覗き込んだ。
「なに、青島くん今日はもう帰っちゃうの」
「ええ、なんかあったら入れてください」
ちょんと尻ポケットに突っ込んでいるケータイを指差せば、袴田も納得したように頷いた。
その尻目に揶揄うような口調ですみれの声が追いかける。
「駄目ですよ副署長、青島くん、今日はデートだもんねぇ?」
「すみれさんっ、なんでそれ・・っ」
「あっ、やっぱそうなんだぁ」
「あっちゃぁ・・・」
額に手を翳して青島は天井を仰いだ。
目を剥いた袴田が興味津々な顔に変わり、腕を組む。
「へぇ、君に付き合える女がいるとは思わなかったねぇ」
「ちょっと副署長、それは」
あまりな感想にそんな風に思われていたのかと、青島が眉尻を下げれば、すみれの声が追い打ちをかけた。
「世の中には物好きというものがいるんですよ」
「そうみたいだね。世も末だ」
すみれさんっと苦情を乗せて青島が拳を振る。
飄々とした顔ですみれは猫のようにそっぽを向いた。
勝手に今日の予定を入れたことも、先に上がることも、彼女には不満らしい。
振られないようにねとしたり顔で告げ、ついでに結婚式には呼んでねと付け足して、袴田が小走りで去っていくのを苦みを潰した顔で見送った青島は
足を戻し、すみれに耳打ちした。
「今度奢るから」
「そのくらいであたしが懐柔されると思われているのかしら」
「大体それは内緒だって言ったじゃないっ」
「壁に耳あり」
んもぉ~と小首を曲げた青島の優しく見つめる瞳が細められる。
後ろ手に指を組み、尻を突き出して誘惑するご機嫌斜めのすみれに、甘えさせるように付き合ってくれるのが青島だ。
柔らかい栗色の瞳はくりくりとしていて、黒曜石のようなすみれには少し、羨ましい。
愛くるしく人懐っこい小顔は人好きのする食わせ者で、その顔にすみれもまた甘えてしまうのだから、どっちもどっちである。
物柔らかい笑みを乗せ、青島が指で指し示せば、すみれも承諾の眼差しを送った。
すみれが一階に足を向けると、二人並んで廊下に出る。
「やっぱりすごく情熱的な相手だったね」
「どうしてそう思うの」
「その左手」
「外すなって」
「魔除けか、虫除けか」
「どうだろ」
青島の左手の薬指には、あの日から銀色に光るものが嵌められるようになった。
妙にしっくりとくるそれを、夕暮れの光に翳して持ち上げしげしげと眺める顔は、それでも満足そうだ。
「どっちにしても、そのくらい積極的な相手の方が優柔不断な青島くんにはあってるんじゃない?」
「俺、優柔不断?」
「優柔不断っていうか・・・魔性?」
「言い方」
「八方美人でしょ。年上の姐後肌相手なら調教してくれそうで、安心だわ」
「すみれさんの中の俺ってどうなってんだろう」
「意外と一途っていうのは、誤算だったわ」
「惚れるなよ~」
茶化した青島に小さく蹴りを入れ、長い廊下の角を曲がる。
エントランスから吹き抜ける夕暮れの潮風がすみれの黒髪を巻き上げた。
「誰がそんなねちっこい相手、敵に回しますか」
「ねちっこいかなぁ?」
「古風で職人気質だけど肝っ玉太い。恐らくベタぼれ、そして独占欲強い」
「・・・当たってる」
「ど?すみれさんの推理力は」
「おみそれしやした」
青島がペコリと頭を下げる。
それに表情を崩してすみれは風に流れた髪を耳に掻き揚げた。
良かったと素直に思えている自分がいる。
例え自分のものにしなくても、こうして大事な人が傍で和らいだ笑みを見せてくれる幸せは、やはり意味あることなのだ。
この笑顔は、その相手の女が作り出させたものなのかもしれない。
でも、その女だけでは絶対に不可能だった。
ならばすみれの欠片もきっと青島の中に残されている。
もしかしたら青島もまた、こういう未来や幸せの形を知っていて、愛するひとのためにそうなりたいと願って決断していたのかもしれない。
今なら素直に、恋を潰して別れて護ろうとした青島の恋も理解できた。
自己犠牲的な恋愛には、身に覚えもある。けれど、あの時は必死で、傷つく自分を護るのに精いっぱいだった。
こんな多幸感はなかった。
まったく、やんなっちゃうわ。
妙に賑わう受付を通り抜け、ガラスの自動ドアの外へ出る。
今が一番陽が長い季節だろう。
世界はまだ明るく太陽に輝いていた。
関東の梅雨明けも、きっともうすぐだ。
「これさ・・、みんなも気付いてるのかな?」
エントランスを一歩出て、柱を越えたその先で、青島が立ち止まる。
顔を戻せば青島が左手を翳していた。
夕陽を照らすそれは、まだ曇り一つなく清澄な光で永遠の愛を謳う。
「時間の問題」
「やっぱ仕事中は止めとくか・・・」
「怒られるんじゃない?付けててって言われたんでしょ」
「ん・・。けど、こんなので測る意味ないでしょ」
「どうして?」
指輪は女の憧れというタイプは多い。
男の理屈かなと思ってすみれは単純に聞き返したのだが、返ってきた答えは更に斜め上だった。
「こーんな指輪ごときで愛を繋ぎ止めておこうって下心が甘いんだよ。こんなもんで測れるかっての」
え、そっち?
「こんなの付けてたって別れる時は別れるしね。終わりにしたいならしてみろって感じ。意味ないね」
「・・ごめん、想像以上の惚気に眩暈がしたわ」
「惚気てません。セツジツなの」
「青島くんにはそろそろ自覚と言う言葉を覚えさせたい」
「他の人には言っちゃ駄目だかんね」
「相手の名前を出してないんだから、あたしはセーフよ」
「そもそも誰と会うとも言ってないでしょ」
友人かもしんないじゃんと、どの顔して言ってんのとツッコミすら放棄させるような顔で青島が言うのを、すみれは大きな敗北感と共に聞き納めた。
感じる憔悴は、顔も名前すら知らぬどこぞの女へではない。目の前の無邪気に腑抜けている青島にだ。
今朝から陽気な気分を、長い付き合いであってもなくても、すみれには見抜けたと思っている。
今夜出掛ける予定があることは白状していた。
元より青島だってそこまでは隠すつもりもないのだろう。
横から覗き込むすみれにむくれた顔を近づけ、軽くメッと冗談めかしてくるので、すみれもまた得たり顔を近づけた。
「明日非番っていうのも計算のうちなんでしょ」
「とーぜん」
「どっちの提案なんだか。やらしいわ」
「そこは妬くなよ」
「だれが青島くんに」
「休暇には?」
「ぁ、すっごく妬いてる!」
機嫌が治ったすみれの笑顔に、要は青島に慰められてしまったことだけを気付かせる。
ほんと、こういうの、上手いオトコである。
笑い合い、軽く手を振って青島は話を切り上げた。
翻す青島の白い背中を、小さく手を振るすみれの声が追う。
「飲みすぎないようにね!」
「わーってます!」
***
だーれが酒になんか溺れるか。勿体ない。
すみれの見送りに青島は背を向けてから、ぺろっと舌を出した。
それでも今夜酒を呑むことまで聡明な彼女にはお見通しだったらしい。
摩訶不思議な女の勘に、気を引き締めなきゃと思いながら青島は待ち合わせ場所へと向かった。
13.
「出るぞ」
「・・うぅん?」
言い捨て、楚々と帰り支度を始める室井に、青島は口に放り込んでいた焼き鳥を留めた。
本気で出ようと伝票を店員に掲げ合図する仕草に、慌ててお猪口に半分ほど残っていた日本酒と共に一気に流し込む。
いきなりお開きにされた理由も分からず、とりあえず置いていかれないよう、わたわたと荷物をまとめ
出しっぱなしのスマホを掴み、ショルダーバッグを抱えると、紐がテーブルに引っかかり、空グラスをひっくり返した。
派手に蹴飛ばした椅子が音を立て、客の注目を浴びる。
愛想笑いを周囲に振りまき、軽く頭を下げる隙に、連れの男はとうにその場にいない。
さっさと会計に向かってしまった室井の後を、青島は椅子を戻して追いかけた。
「待っ、まって、くださいよ・・っ、早・・、ぇと、あの、どうした・・、ぁ、すいませんっ」
「・・・・」
今度は通りがかりのOLにぶつかり、営業スマイルで片手を立てれば、ウィンクも付く。
人好きのされる所以の青島に、花が咲いたように笑って許してくれる女性は二十代の清楚系だ。
女の子ってかぁいぃ~と思いながら、身体は室井の後を追う。
返事すらなく、夏というのにスーツをきっちり着こなした男は背筋も正しく重そうな黒鞄を床に置いて財布を出した。
「・・ぁっ、俺・・っ、俺もっ」
内ポケットに手を入れ、ごそごそ探るが見当たらない。
よく分からないコンビニのレシートだの、道端で配っていたラブホやローンのポケットティッシュだのがごろごろ出てきて
探る場所を間違えたことを知った。そうだ、確か財布はさっきここから出して。
手の中の一つが床に落ちる。
あれ、どこ入れたっけなな、手際の悪い青島の横で室井はスマートにカードで会計を終わらせてしまった。
「行くぞ」
「・・・・」
突然退席を命じた真意も伝えぬまま、なんだかもうお手上げ状態で青島は眉尻を下げ、スタスタと先へ行く男を目で追った。
俺、ださい・・・。
開いた口を塞げず、自己嫌悪する間も与えて貰えない華麗なキャッシュシーンは、洗練されたグレードの高い男のステイタスを誇示し
青島の精気を削ぐ。
なんだかなぁ、もぉ。
青島だって女の子をエスコートする機会は多分平均より多く、また営業として接待の機会にも恵まれ、そこそこ経験値は積んで来た。
ここぞという時に限ってのミスも、愛嬌という名の茶目っ気で皆が包括する。
抜けた隙も含めての歳を重ねたスキルだと、計算であることは青島自身理解しているつもりだった。
それなりに上出来だったつもりなのだが、室井の何処か突飛で異世界の行動に、つい振り回されている自分がいる。
放っておくとそのまま店からも出て行ってしまいそうな男を、青島は溜息と共にショルダーバッグを担ぎなおして、走り寄っていく。
存外、本気の相手の前だとうまくいかないものである。
あの時、もうこれで終わりだと覚悟を決めたのだが、一週間後の夜、室井は青島を呼び出した。
本店の暗闇の中で翳された手には小さなリングが光っていた。こんなのすぐに用意できるもんじゃないだろう。
それは今、青島の左手に収まっている。
どんな手を使ったんだか、いつから準備してたんだか、魔法を見せた室井はあのあと、正式に青島にプロポーズをしてきた。
ぶっとびすぎだろ。
カラカラと引き戸を閉じると、藍色の暖簾の向こう側、道路を挟んだ街路樹の横で、室井は待っていた。
漆黒の瞳は相変わらず冷徹で、何を考えているのかも分からないが、まっすぐに青島を見つめこちらを向いている。
青島は一旦足元に視線を落とし、笑いを噛み殺すと小走りに近寄った。
交際を申し込まれ、それを受け入れたことに今も100%納得していた訳ではない。
この一カ月、新橋の駅前で一人佇みながら感じていたあの寂寥感は今もチリチリと青島の胸の奥で疼く。
一人ぼっちで置き去りにされたような、迫害されて追放されたような、そんな未来をこの先も感じていくんだろうか。
誰かに常に責められているような、追手から逃げ続けているような、落ち着きのない感覚が青島を下から支配するのだ。
それと同時に、これ以上ないほどのワクワクとドキドキもある。
室井と始めていくのは、そんな未来だ。
駆け寄った青島が室井の前に着地し、背を丸めて顔を近づける。
「まったく、あんた俺を振り回しすぎ」
「まだ食い足りなかったのか」
「ち・が・い・ま・すぅ!そこじゃないっ」
無表情で言葉足らずではある室井の感情は闇と同じ瞳に現れている。
薄っすら楽しんでいることを伝える眉間は、相変わらず深い。
「だ・か・ら!事情を説明しろって言ってんですよ」
足を駅の方へと向け、誘導しながら室井は前を向いた。
返事がないのは聞いていないからじゃないし、関心がないからでもないことは、長い付き合いだからこそ青島は知っている。
見掛けよりずっと根性も太く強かであることも、最近分かってきた気がしている。
とっぷりと陽の落ちた繁華街へ向けた国道は、テールランプが連なり夜空を紫色に染めていた。
高貴な背中は逞しく、その後を青島も続く。
「君の。左一つ斜め後ろに座っていた男を見たか」
「はい?」
「イタリア製のシングルスーツにセンスの悪い水玉のネクタイを締めていた」
「・・・俺の角度から見えるわけないでしょ」
「恐らく週刊誌記者だ。荒手な取材で知られている」
「マジ」
「この仕事をしていると小さなマスコミまで顔見知りになるからな。記憶にある顔だった」
飄々と室井は言って退けるが、何を警戒しているのか、青島にも察せられた。
偶然だったかもしれないが、向こうだって室井の顔は把握している。この先要職に就く候補生として既にマークはしている可能性は高い。
そんなエリート官僚がこんな居酒屋で部下と食事するくらいなら気にも留められないだろうが
その会話の内容、その相手を一度記憶されると、後々厄介となるだろう。
ましてや青島は無警戒に室井に懐いていた。
こんな公衆の場では迂闊な発言は慎んではいたが、関係を匂わすような何かをしでかさなかったとも限らない。
へぇと感心して青島も一度振り返る。
追ってくる影はなさそうだった。
その髪が街灯を反射する夜風にふわりと浮いて流れる。
室井にそういう類の警戒をさせなければならない責任が、青島にないとは言えなかった。
また一つ重荷を背負わせたようで、青島には良心の呵責は残る。
自分に抱えきれるんだろうか。きっと俺には抱えきれない。政治の世界なんて遠い国の物語だった。
身に余る重量感が恋のハイカラな鮮やかさの裏で確かに青島を圧迫するように蝕んでくる。
相変わらず隙の無い男である室井に、青島は感心の嘆息を見えないように小さく零した。
出会った頃から変わらない。
ステレオタイプの頭をしているだけに、室井は常識的なルールの範疇ではその才気を発揮する。
脊髄反射で空気を読む青島とは、真逆のタイプだ。
こんなにも世界が違うのに、何故惹かれ合ったのか、未だに青島には不思議でならない。正反対だからこそ惹かれ合うのだろうか。
ぼんやりとそんなことを考えながら、何気なくそのまま足を進めていると、何かにどんとぶつかる。
びっくりして振り向けば、いきなり道の真ん中で立ち止まった室井だった。
「・・・ぁ、ごめん」
「これからどうする」
「ぇ、ぁ、ああ、そうですね」
今度はデートの続きの話らしい。
唐突な話の転換にも動じず、青島は気安く会話を合わせるため、時計を見た。
「中途半端な時間か・・」
「今夜は君の采配でいいと言った。何か提案はあるか」
「室井さんは飲み足りました?」
「秋田の男を甘く見るなよ」
これは誘っていいのかな?
探るような青島の瞳が夜露に煌めき、悪戯気な気紛れに彩られる。
「それは勝負しようってこと?それとも楽しませてくれるってこと?」
「君の好きなように取っていい」
「じゃあ・・・まだ離れたくないんだなってことにしちゃっても?」
「いい」
「明日、休みにしてくれたの?」
「・・・勿論だ」
上擦るような声で室井が答えた。
覗き込む青島の瞳が艶めいて、本当に?と問う。
室井は思い出の中に生きていた俺を、未来へと連れ出してくれた。
俺たちは完璧な人間ではない。冒険とか危険が特別好きなわけじゃないし、ギリギリを攻めたいわけでもない。
不条理な恋だけど、そこには自由度がある。
「うちに来い」
駆け引きを楽しみ室井を見つめる青島が、へにゃっと頬を緩ませた。
嬉しいと、顔に書いてある。
その顔に、室井の瞳がじっと見据えた。
「ぁ、またその顔だ。・・何?」
「いずれ、分かる」
「教えてくださいよぅ」
ぷくぅとむくれた顔をしてみせながらも、笑みを湛えた瞳で青島は室井の黒目がちの瞳を覗き込んだ。
大した感情も乗せずじっと見据え、そして室井は淡如に視線を反らす。
「行くぞ」
「・・はいっ」
恋人デートとしてはまだ数少ない。
必要以上に親しくなることを避け、これまで食事ぐらいしかお互いしなかった。
「俺、一度官舎に潜入したかったんですよね~」
「何をするつもりだ」
室井らしい薄い感想に、青島が半歩後ろを追いかけながら苦笑する吐息が夏風に霞んだ。

袴田さんって、副署長であってます?