恋 煩い 5.5








11.
気楽に扉をノックする音が聞こえ、室井は書類を頼んでいた部下の手が埋まっているのだろうと
扉を開けに行ってやった。
残業に付き合わせ、時刻は8時を回っていた。
定時などと言った概念は警察には最早存在しないも同義ではあるが、いつまでもこの部屋を使用していることについては、良い顔をされないかもしれない。
そろそろ退出宣告を受けてもおかしくはなかった。
そんなことを考えながら、室井は手元のファイルを搔き集めてから、すっかりとひと気の掃けたコミュニティルームに靴音を響かせた。

東京に帰還してから、缶詰のような業務量が続く。
キャリアのトップに立つことを若いころから目標としてきた室井にとって、それでも望んだ形であり、今は一番充実していると言えた。
帰宅が深夜を回ることはあっても、そこに不満はなかった。
終着駅はまだ先だが、遠回りしたと思っていた未来の気配がすぐそこに感じ取れる。
現在トップを牛耳る上層部と渡り合うには、まだ足りないものや課題が山ほど残されていた。
身体は一つなので、何もかも、というわけにはいかないらしい。

鼻から大きく吐いた息は、重たいまま錆びた床に消えた。
築年数の高い本庁の電灯は、昭和の味をありありと覗かせ、埃臭い室内を朽葉色に染め上げる。

忘れ物がないか、一度だけ振り返り、きちんと使用した椅子まで元の位置に戻されていることを確認した室井は
ドアノブに手を伸ばした。
扉を引き、途端、そこに立っていた男に目を丸くした。

「・・ぁ・・」

ノブを握ったままの態勢で、二人同時に息を詰め、立ち竦む。
パチクリと開かれた目が愛くるしい色相に衝撃を乗せ、完全に装うことを忘れた無防備さで、幻か幽霊でも見たかのようにフリーズする。
時を止め、鏡像のように、同じくドアノブを握り締めたまま、室井もまた身体を硬直させていた。
瞬きを忘れた視界には、あの夜勝手に消えていった男が立っていた。

「君は、いつも突然だな」
「知っ、らね・・っ、俺っ、この部屋にこれ持ってけって頼まれただけで・・・っ、まさかあんただなんて」
「そうやってこちらの意表を突くんだ」
「ぐーぜんですよ・・っ」

人聞きの悪いと苦情を漏らす青島の肩を押して、室井は先に我に返り、楚々とした動作で部屋の電気を消す。

「いいから出ろ、ここは見ての通り接見室だ」
「あぁ、ここでいいですっ。お使い頼まれただけなんで。・・はいこれっ、渡しましたからね、俺、帰りますんでっ」
「私の手は塞がっている。部屋に戻っても扉は開けられない。・・・君が持て」
「そんくらい出来ますよね・・っ!?」

青島の持参した封書は幅10cmほどもある茶封筒で、捜査資料と報告書が入っているもののはずだった。
記憶が正しければ、確か今日届くとメールが来ていたような気がする。
室井は既にA4ファイルを数冊抱えている。
今は逢いたくなかったというのが青島の本音だろう。
しかし、不本意だと顔に書いてあるまま、無下にしてこない辺りが青島の甘さである。
憮然としたまま室井に視線を走らせ、屁理屈も付けられないと踏んだのか、或いはここが本庁だからなのか
青島は黙って、差し出していた茶封筒を小脇に戻した。

部屋まで案内しろと言う風に、一歩下がって目線で室井を促す。
片手で持つ茶封筒を肩に掲げ、とんとんとリズムを刻みつつ、上目遣いで室井の様子を伺ってくる。
その口唇が、不貞腐れるままむすっとしているのが妙に可愛く見え、室井は眉間を深めた。

「・・・こっちだ」

暗がりで聡明な眼光を光らせ、乱れなく撫でつけた頭髪を光らせた室井が、娟秀な顔で肩越しに指示をする。
青島は心情を悟らせず、ただ黙って後ろを付いてきた。


****

「ここへは何しに来た」
「元々はいつものお使いだった筈でしたけど」
「まだ運転手か」
「ええ、おかげさまでね。・・なんか、すみれさんが妙に俺を推すから。今日だけ、ね」
「・・・・」

その名前に、室井は内心余裕を見せた笑みを浮かべた。
今朝の電話からの流れなのだろうことは容易に推測された。待てと言ったのに待たない辺りが、彼ららしい。

事実、途中まではすみれが策略したことであった。
たまたま湾岸署に訪れていた本庁要員を誰に送らせようかと刑事課でじゃんけんをしていた時、無理矢理すみれが青島に決定させた。
理由は何だって良かった。
すみれにしてみれば、室井と青島を近づける口実が欲しかっただけで、近づけさえすれば必ず何かが起きる予感がした。
二人の絆の奇跡に懸けたと言っていい。この二人を同じ空間に置けば、何かが共鳴する。
室井は三日待てと言ったが、三日など待てる余裕はすみれにはない。
青島が本店へ出向き、本日室井が霞が関近辺にいると分かっているのであれば
会わずにすれ違って帰ってくるという方が、すみれには不自然であった。
そのすみれの予想を裏切らず、本庁へと送り届けた青島にたまたま通りがかった人間が青島の顔を覚えていて、悪戯心で郵便配達を依頼した。


「ここだ。鍵は掛かっていない」
「開けますよ」

言うより早く、青島の手はドアノブに伸びていた。
常に人の一歩先を読む。
営業マン育ちらしい青島のスキルは、相変わらず質が高いと室井を感心させる。

既にとっぷりと陽の落ちた室内は、中がどうなっているのかすら分からないほど真っ暗だった。
きょとんと辺りを探り器用にスイッチを見つけると、青島がそれを点ける。
ぼんやりと青白い蛍光灯が室内を浸した中を、物も言わず、室井がすたすたと進んだ。
青島はそれを扉から動かず黙って見ていた。

ビルの角部屋に位置し、人払いされたような室内は、エアコンも点けておらず、音もない。
夏前のムシムシとした熱気が部屋奥まで籠もり、耳鳴りさえ聞こえそうなほど圧迫感を持つ大気が沈黙する。
ブラインドの上がった窓は閉ざされ、黒々とした世界が外には広がっていた。
それでも幾分と涼しくなった室内は夏の気怠さを重ね、二人を無言にさせた。

着いてこないことを感じてた室井は、テーブルにファイルを置くと、何気ない様子でデスクスタンドを点ける。
そしてもう一度入り口へと戻った。
部屋と廊下の境目に結界でもあるかのような青島が、棒立ちのまま茶封筒を差し出す様子を見せるが、室井は一瞥しただけで顔を上げた。
無視し、そして室井は扉を大きく開いた。
入れという意味だと察した青島が困ったように眉尻を下げ、茶封筒をぶっきらぼうに突き出してくる。

「話がある」
「・・・いいよ、もう用は済んだでしょ」
「いいから」
「でも」

じっと黒目勝ちの深い瞳が反抗は赦さない強さで青島を足止めする。
たじろぐ青島が視線を外し、一歩下がった。

「青島」
「んだって・・・」

少し照れたような目元が滲み、青島が口許を拳で覆う。
こんな所を誰かに見られる方が室井は面倒だった。
焦れる焔を乗せるまま、表情は硬く、室井は毅然としたまま引かず、青島の判断を待つ。
白いワイシャツに、ジャケットの前もきちんと止めた身形の良さが、室井の凛とした芯の強さと支配を暗示し
その少し気配を変えた、高圧的な意志に軽く怯えを覗かせた青島の長い足が、何かを察し、また一歩、後退ろうと身動いだ。
刹那、その一瞬の油断を突く様に影が動き、焦れた手つきで青島の腕を取った室井が、驚いたように顔を上げる青島をその力のまま引き寄せる。

「ぅあ・・っ、ちょ、待ッ」

反射的に青島も我に返ってドアを掴む。
室井がこんな乱暴な力技に出るとは思わなかった青島が、あっさりと室井の方へとバランスを崩した。
それを胸で受け止めるようにして、室井は扉も閉ざすため膝で押した。

「なっ、ちょっ・・っ、しま・・っ、」

一歩反応の遅れた青島は分が悪い。
片手でドアを掴む指先に力を込め、それを阻害する。

青島にしてみても、少し普段と雰囲気の異なる室井が何か仕掛けてくる警戒はしていたが
こういう荒業に出られるとは反則であり、不意を突かれた。
室井らしからぬ強引な手段に、気負っていた何かも剥げ落ちる。

閉ざされかけた扉は、青島の指先が掠めた隙に無情にも本来の位置へと戻り
もう一度こじ開けようと青島の手が宙に伸ばされた。
それを阻止する室井の腕が、身を捩る青島の腰を抑え込む。

「・・ぁっ、くそ、これ・・っ、、どかせよ・・ッ」

重みのある茶封筒を持ったままだと敵いようもなく、青島が近くのソファに茶封筒を投げ捨て攻撃態勢に入った。
反応の遅れた自分を悔やみつつ、侵入を必死に妨害しようと足を踏ん張り、それを背後から室井が捻り込む。

「あぁ・・っ、もぉっ、しつっこい・・っ」

ドタドタと大の大人の足音が床を鳴らす。
衣擦れの音と、扉にぶつかる音が合わさり、そこに荒い息遣いが交じった。
深夜に差し掛かる本庁内で、二人の中年男が入り口付近で格闘する姿は、異様な光景だが二人は気付かない。

動作一つ優雅で隙の無い室井とは対照的に、青島は形振り構わず、渾身の力で抵抗する。
足癖悪く、青島が室井の靴を踏んだり蹴ったりして、ノブを両手で何度も引き、必死に踠くが
扉まで届かない。

「は~な~せぇぇ・・・」

罵り合いこそ発しないが、息切らす攻防戦が無駄に続く。
力の差なんて早々なさそうなのに、むしろ背が少し高い分有利な気さえするのに
技術的な面で圧倒的な差を見せつけられた室井の動きは精鋭に富み、とても太刀打ちできず、青島の息が先に上がった。
だらしなく開けていたシャツが着崩れ、肩が半分露出し、裾がスラックスからはみ出ている。
手の位置、足と腰の位置、手首を取らせない攻防、反撃のタイミングを読まれる勘。
全てにおいて追跡者を捕獲する刑事の動きで、格上であることを示され、悔しさ半分、妬ましさ半分、青島は後手に回る。

「帰らせろ・・っ、ってか、もっ、・・っ、何がしたいんですか・・っっ」

勝敗は見えているが、青島が室井の腕から抜け出そうと足掻く横で、息一つ荒げず室井の手が青島の身体を引き留める。
こんな場面においても玲瓏な雰囲気を維持する室井は、大した力も込めず涼し気だ。

「・・ん・・っ、ふわ・・っ」

必死で踏ん張る青島の身体が扉の中へと引き込まれた。
片手で青島を食い止め、ロックまでしてしまう室井に青島の恨めし気な声が呻き、その髪が咲く様に揺れ、その存在を表すように見る者を獣へと変える。

「ああっ、なにす・・っ、・・ちょっ、あんたね・・っ、」
「往生際が悪い」

呆れたような溜息交じりの声でようやく室井が呟く。
その声に、それまで抑えていた青島の感情がチクリと突き刺さった。
無言で反抗的に振り仰いだ青島に、すぐ後ろで羽交い締めしているような態勢の室井の淡如な顔が憎らしく映り込む。
こんなに我慢してるのに。こんなに忘れようとしてるのに。こんなに終わりにしようとしてたのに。
この男は何にも判っていない。

「逃げるのか」

カッとなったその勢いのまま、青島はその腕を鷲掴んだ。
そのまま顎を傾け、室井の後頭部に片手を回し、薄い口唇に小さく口唇を押し当てる。

「ッ!」

目を見開き、身体をグッと強張らせた室井の身体から一瞬の隙が露出する。
形の良い顎を上げ、青島はしっかりと室井の口唇を一度吸い取るように舐め、それが僅か震えていたことは気付かぬふりをした。
そして、軽く触れただけで離した口唇を手の甲で隠しながら、青島の艶ある瞳が前髪の奥へと隠された。
そして、拘束の緩んだ室井の腕からのろりと抜け出した。
足元が崩れたように、一歩、後退る。

煩かった青島の苦情が止まり、辺りはいきなりの静寂に包まれていた。
直視できない視界には、まだ衝撃から立ち直れない室井が、物も言えず、青島を凝視する。

「ざまあみろ」

これで、全部終わりだ。こんなことされたくなかったら、もう俺に構うな。
俺はあんたみたいに理性の効く人間じゃないし、傍にいていい人間でもない。

怒りにも近い感情で、睨みつけるような光る瞳が前髪の奥から室井に威を張る。
一度だけ、その虹彩が陰影に揺れた。
次の瞬間、踵を返し、青島は逃げ去ろうと背を向けた。
ふわりと風を包んだ青島の白シャツが、夜に溶けた、その刹那
室井は二の腕ごと引き寄せ、青島の身体を扉に押し付けると同時に部屋のスイッチを消し、その口唇を手際良く塞いだ。

「・・ッッ」

どこから苦情を言えばいいのか。
いきなりの展開に青島の頭は追い付かない。
動きの止まったその手首を掴み、室井が背後の扉に縫い付け、長い指先を絡めるように握り締める。
静寂と共に訪れた闇に、スタンドライトの淡い光がぼんやりと浮かび、青島の瞳には窓の外の星屑を散りばめたような近隣ビルの窓が散りばめられる。
そんな都会オフィスの背景を背負って、室井の輪郭が玉虫色に縁どられ、青島に覆い被さっていた。

「・・っ、・・」

息苦しさからなのか、胸が詰まったのか、自分でも良く分からず
最早何に怒っていたのかすら分からなくなり、青島は瞬きすら忘れ、呆然と竦んだ。
目の前には端正な顔が焦点の合わない距離で迫り、黒々とした睫毛が伏せられ、体温と少しの整髪料と汗の匂いが交じり合う。

なにこれ。
自分が今、誰に何をされているのか、分からない。
許可なく連れ込まれたことか。それとも許可なく口唇まで奪われていることか。
いきりたっていた思考が一瞬にして霧散し、真っ白になったまま直立する身体に、室井の気配が沁み込んでくる。
そのまま室井は圧し掛かるように身体を密着させ、青島の脚の間に膝頭を絡め、完全に動きを封じた。

「・・っ!」

ようやく事態を理解した青島の脳みそが突如沸騰し、頬を熱らせた。
慌てて顎を引いて口付けを解こうとう暴れる青島を、室井が追いかけ抑え込む。
押さえ込まれた手首をどんどんと振り、力を込めるが、外せない。
先程の青島がした戯れのような哀しいキスとは違う、本格的な大人の男の口付けに、鼓動が跳ねるまま必死に踠く。
身をずらそうとすれば身体で抑え込まれ、払おうとする前に手首を力で縫い付けられ、足の動きも止められる。

「・・おとなしくしろ・・」

扉に当たる青島の靴音と、折り重なる衣擦れの音、何度も離れては合わされる口付けに、荒く息遣いが千切れ
大人しくしろ、と触れ合わせたまま室井に囁かれた音が青島の耳に届いた時には、室井の両手で頬を塞がれていた。

「ぅ・・っ、・・く・・ぅっ、」

意図せず喉から洩れた声は、媚びるような色で途端大気に熱を孕ませた。
って、雰囲気出してるばあいかっ!?俺・・ッ
まずい、まずいよこれ、まずいって・・ッッ!

身動いで、室井の腕から抜け出そうと、まだ力ない抵抗を見せる青島を、室井は大人の余裕で制圧し
すかさず添えられた室井のほっそりとした指先が青島の動きを完全に阻害、固定されたせいでより深い口接へと変化する。
耳を包み込むように添えられた室井の手が、少し青島の顎を持ち上げるように促し
隙間がないほど薄い口唇が合わせられた場所から伝えられる熱が、青島を呼吸ごと奪っていく。

「・・ふ、ぅ・・・っ」

ここが本庁だとか、相手はエリート官僚だとか、先程自分がしでかした失態も、意味ある筈の肩書さえも
閉ざされた空間とこの闇が、曖昧に覆い尽くしていた。
惚れ抜いた相手に、ただ口唇を合わされ、求められる。

「・・っ、ゃ、め・・、ろ・・ッ、ンッ、んん・・っ」

反らした顎が蠢くように苦情を訴え、それも頼りなく尻消えとなり、切なげに眉が寄せられる。
なんとか接触を解いた隙に漏らした苦情は、青島の薄く開かれた口唇の奥の紅く滑る舌で、室井を淫乱に誘うだけに終わり
たまらず唸った室井は、そのまま口唇に強く吸い付いた。
濃密で、甘ったるいキスに、青島のスレンダーな身体が壁と室井の間で小刻みに震える。
デスクスタンドを点けておいたのも、わざとだったのか。最初から電気を消すつもりだったのか。
ならばそれは何のために。
どこまで計算だったのかも悟らせない室井の変貌は、深めいた部屋の孕む欲望と融合し、青島を心の裡まで完全制圧し沁み込んだ。
端正な顔が闇の中で目の前に迫り、軽く伏せた睫毛が黒々と影を作っていた。

分厚い舌の先がつつと青島の輪郭を辿る。

「・・・ん・・っ」

思わず鼻にかかった声が青島から微かに漏れ、気恥しさもあって、青島が軽く首を振る。
それを雄の力で押さえ付けたまま、室井はぴったりと塞いだ口唇を放そうとはせず、舌先で何度も青島の肉厚の膨らみを堪能する。
それは紛れもなく雄の情欲の仕草であって、挨拶などといったフレンチ・キスではなく、恋愛やセックスの前戯としての動きだった。

緩い青島の髪が口接の烈しさに身悶える。
擦り合わされる唾液のぬめりと、口唇に確かに感じる灼けるような熱が青島を襲い
酸素不足となった視界が少し揺れた気がする。

惚れた相手にこんなことされて、平気でなんか、いられない。
冷静でなんかいられるか。溢れ迸る想いが行き所を失ったことを知らしめる。
隠した本音を抉られる。

無残に砕かれた虚勢も意地も、狂おしく切ない感情が渦を巻く奥に流され、青島を責める。
閉ざした筈の心が溢れ出し、今も室井唯一人に向かっている。
青島を置き去りにして、それは鮮やかに色が付けられる。

「・・っ、・・っっ、・・・、」

訳が分からぬまま、青島の目尻には光の粒が浮かんでいた。
瞳を照らす星のような輝きを、うっとりとした瞳で見つめる室井の瞼が薄く伏せられる。
思う以上に逞しく頼もしく、凛々しい男の存在に凌駕され、青島の身体から力が抜け落ちた。

どれだけ好きだったかなんて、言葉じゃ言えない。

それはどちらの想いだったのか。
力の失せた身体で抵抗を見せる身動ぎに合わせ、彷徨うまま何処を掴んで良いかも分からず、青島の指先が宙を彷徨う。
その油断と無防備さに先手を打ち、室井が青島の頭部を押さえ込んだ。
髪をくしゃりと絡み込み、後頭部を抱え込み、更に深く口付けるまま上向かせると
青島の手も重く上へと持ち上げられ、抵抗を忘れて宙を彷徨う青島の指先が室井のシャツをきゅっと掴む。
その反応に、室井の口唇がより深く合わせられ、隙間がないほど密着させられた奥で、吐息ごと呑み込むようなキスに変わる。

そして室井がついに舌を注ぎ込み、口腔まで制圧した。
狂おしいまま青島も視界を閉じる。
艶めかしい空気に変わった室内が熱を孕み、躊躇いつつも青島の両手が室井の首に回されたことにより
より濃密な情事へと変貌する。

舌で奥深くまでをしつこく掻き回され、隠微な愛撫に、まるでこのままセックスにでも突入しそうな男のキスは
それまで室井もまた、どれだけ想いを押し殺していたかを伝えていた。
あまり多くを語らない室井の感情は、行動にこそ現れる。

くそ・・っ
心に押され、青島が身を寄せて口付けを返した。
何度も擦り合わせて甘受した。 吐息を染め、乱れながらも苛烈に苛む刺激に青島の目尻が薄く濡れ、一筋の光を放つ。 甘く強く、

何度も何度も逃げる舌を追いかけられ、絡ませられる。
それを補うように、青島も舌を絡ませた。

初めて知る室井の灼け付くような肉感は、それだけで青島の胸を締め付け、翻弄させた。
自ら口を開いて誘い込む男の舌は、息苦しいほどいっぱいとなる。
おずおずと青島から舌を差し出す頃には、二つの影はぴったりと重なり合い、甘美な息遣いと水音が幾度も耳を犯していた。
酸素不足と注ぎ込まれる狂暴なまでの熱に、青島の足元が揺らぎ、翻弄される肉体に思考が千切れる。
初めての長いキスは、何かを暴いてしまうだけの危険がちらついていた。

青島の口唇を塞いだまま、室井はいつまでも離そうとしなかった。



*****

長いキスが解け、熱い息を孕ませながら潤まされた青島の瞳に室井がまっすぐに映り込む。

光る星屑が青島の瞳を流れているのかと錯覚させるほど美しいそれを、室井は恍惚と見入り、もどかしそうに指先で青島の頬を撫ぜた。
暗がりの中、まっすぐに見つめ返すことで、青島の視線を外させない。
哀し気に顔を歪め、青島はそのままずるずると重たい身体を床に沈み込ませた。

「・・・なに、すんですか・・・」
「・・・」

室井は何も答えなかった。
そのことが、すべてを肯定していて、青島を追い詰める。

「勘弁してよ・・・・」

尻もちを付き、泣き声に近いその声に、室井がそっと傍に跪く。
片膝を付いて、青島の乱れた前髪を額から梳くように掻き揚げた。
柔らかいその仕草に照れくささと泣き出したい気分を味わい、青島がそっぽを向き、手を払い除ける。
その手を逃さず、室井は手首をしっかりと握り締めた。
まるで、共犯者となった相手をもう逃がさないと言っているように、青島には感じ取れた。
それを解く元気も気力も、今の青島にはなかった。

まだ、この男にされた熱く濃密なキスの余韻が身体中に残っている。
額すら押し付け合いそうな距離は、心臓の音さえ聞かれそうだ。
ただ顔を背けて唾液の残る口元を、乱暴に袖で拭った。

今口付けた男には弁解すらする気はないようで、泣き声となった青島の声にも、反抗的な態度にも動じず
キスの余韻を味わうように、艶めいた空気に執着し、愛おし気な愛を乗せる長い指先で青島の髪を梳き、耳に微かに触れ、頬を丹念に包み込み
視線を強請る。
困惑の色で青島が眉を寄せ、視線を彷徨わせた。

この男は、どんな思いで青島があの夜別れを告げたのか、分かっているのだろうか。
どんな思いで忘れようと努力しているのか、気付いていないんだろうか。

その下唇の膨らみを押すように、室井が親指で淫靡に唾液を拭う。
カッと赤く染まる頬に、室井さん、と掠れた音を青島が乗せて、それが合図のように室井の目尻がまた雄の情欲に染まった。
それだけで、また黙らされる。

「君を、攫いに来た」
「・・・?」

再び柔らかく室井が顔を近づけ、口唇を重ねてくる。
理由も言葉の意味も分からず、青島は頑是ない子供のように首を振って二度目のキスを嫌がった。
そんな青島の首筋に片手を回し、室井はもう一度深く口唇を奪う。
制圧されるままに、奪われた口唇に、青島は喘いだ。

「ま、・・って、ください。俺、こんなことされたら」
「正確には、三日後の夜、攫いに行くつもりだった」
「・・・イミ、分かりませんけど?」
「おまえ、俺に付いてくる覚悟は、あるな?」

視線を落とし、後ろの扉に背中を預け、青島が片足を投げ出して短く答える。
長い足は芸術的な美しさで、完全に防御も手立ても失い、薄いシャツとスラックスだけという夏の装いは、いつもより彼を幼く脆く見せた。
淡如なまま、室井が口を開く。

「君は、あの夜、俺を好きだと言ったか?」
「なんで、それ、今」
「言ったか?」
「・・・・言ったよ」

不貞腐れたようにも、照れているようにも見える染め上げた顔で、青島が横を向く。
それを満足そうに見下ろして、室井は白状した。

「あの夜のこちらの目的は、君の気持ちを君の口から引き出すことだった。あれが聞ければもう問題はない。迷いもない」
「でももう終わりにしました!」
「生涯懸けられると思えた相手に好きだと言われて、何もしない男がいると思うか」
「・・・、だからって」
「苦情は後で幾らでも聞いてやる」
「脅してるんですか」

室井が片眉を上げる。

「青島」
「・・・・」

室井の手がまだ青島に執着し、拙陋なままに逃げようとする青島の隙を奪い去る。
嫌がるように腕を引こうとする仕草に、室井が目だけ眇めた。
躊躇い乍らも、青島の手がゆるゆると力を抜いていく。

「まったく・・・、よくも俺をここまで本気にさせてくれたな、おまえは」
「・・・知りませんよ」
「ヒドイ顔だ・・・」
「・・・忙しかったんで」

本当は眠れないほど苦しいし、逃げ出したいほど泣きたいことを、青島は気付かぬ意地を張る。
その頬を、室井の指がそっとなぞった。
照れ臭さも混じり、青島がそれを腕で跳ね除けた。

「隠しておくつもりだったんだ。告げるつもりも手に入れるつもりも、この十年、まったくなかった。それでいい筈だった」
「――じゃ、いいじゃん、それで」
「君と盟友を結び、君の幸せを遠くで祈れれば、例え自己満足だろうとそれで一生を捧げられるのなら幸せだった。なのに、どうしてくれる」
「・・・だから知らねぇって」

青島の反抗も幾分小さく響く。
何故なら室井の弁解は青島にも思い当たることばかりだったからだ。
この十年、同じ気持ちで同じ想いを抱いていた。
それを知らされることが、嬉しいのか哀しいのか、今の青島には判然としない。

「そもそも恋だとすら気付かないまま不可思議な関係に委ねた。恋はもう御免だった。恋なんか、もうするつもりはなかったんだ」

室井がかつて大事だった女性を失ったゴシップ記事は湾岸署にも届いていたから、青島も押し黙る。
静寂に溶け込むように懺悔する室井の声は、気負いや意固地などはなく
ただ滑らかに続いていた。

「もう少しおまえに合わせてやってもいいかと思っていたが、そんな悠長に構えていられる状況でもなくなった」
「・・どういうこと?」

廊下からも窓からも、何の音も、今の二人を阻害しなかった。今だけは時も止まる。
足止めされて、取り零した大切なものを、今取り戻せと。

「――青島」
「・・・なに」
「俺と、堕ちてみるか?」
「!」
「かかってくる勇気もないか」
「・・馬鹿にしてんの」

挑発するような室井の口調に、あっさりとそそのかされた青島に、室井はただ眼光を強める。
色濃い妖艶さを最早隠しもしない男は、そのまま薄手のジャケットの内ポケットを探った。

「これを用意していて、遅くなった」

室井の片手が内ポケットから銀色に光るリングを取り出して見せた。
横目でチラッと盗み見た青島の視線がそのまま固まる。

「こ、困るって言ったじゃないですか・・っ」
「受け取って貰えないなら確かに無駄金だったな」
「やっぱり脅してるよ・・・」

口唇まで奪われて、誓いの指輪まで用意されていたら、最早何から抵抗して良いのか分からない。
呆気にとられる青島に細髪に室井の指先がそっと触れ、慈しむように青島を見る。

「だからって・・、だって・・馬鹿なの?天然なの?これもぉストーカーですよね!?」
「俺を危険人物に仕立て上げるか、男の晴れ舞台をぶち壊すか、それは君次第だ」
「ずっるいですよ!何もかも勝手に!・・ぉ、俺だってそういうのやってみたかった・・!」
「ほう」
「・・ぁっ、あんたに、じゃなくって・・・ぃ一般論として、ですけどっ」

ごにょごにょとこの期に及んで言い訳を零す青島の横に、指輪を握り締めたままの室井も無造作に尻もちを付く。
並んで扉に寄りかかり、正面の窓を見た。
らしくなく破天荒な素振りに、そういえばこの男は理知的で高貴な反面、一緒に捜査を抜け出してしまうようなやんちゃな面もあったのだと思い出す。

「手を出すつもりだって、当初はなかった」
「んじゃそこで終わりにしてくださいよ!」
「それが出来るんならとっくにそうしている!」

男の決意の固さは、男だからこそ解かる。
なんてことするんだと、青島が緩く首を振って髪を掻き毟った。

「っんとに、律義ですよね~・・・、オトコに指輪とか、フツー考えます?」
「形振り構わないと決めたんだ」
「良くそんな台詞、んな冷静に言えますね」
「どうせ君しか聞いていない」
「・・・オトコですよ」
「知っている」
「馬鹿だし、突っ走っちゃうし、あんたより仕事優先しちゃうし」
「知ってる」
「よく、キ、キスとかできんね」
「厭だったか?」

おまえが先にしてきたんだと開き直る室井の視線に、横を向いて見合わせた青島の顔が固まる。
暫しじっと見つめ合って、また同時に逸らした。

「はぁぁ~・・、やっぱ、失敗したぁ。人生後悔だらけですよ。こと、あんたに関しては」
「お互い様だ」

ちろりと青島が視線を向ければ、室井も同じく闇色の目を向けてくる。
反らすのも、同時だ。

「他に質問があるなら言え」
「強引なんですね」
「君が戸惑う理由が他の原因だったら考えた」
「・・・何がほんとか、分かってんの」
「引き際を持てないくらいなら、気持ちを簡単に相手に悟らせるな」
「・・はっ、好きだって言われたら惚れちゃうんなんて、あんたこそ随分とお手軽と言うか。・・・簡単なオトコ」
「・・・簡単だと、思うか?」
「興味もないですよ」

室井が小さく笑んだ息を零す。それにムッとした青島がまた噛みつく。

「今まで気づきもしなかったくせに・・!」
「自分の気持ちも分かっていなかったんだ。仕方ない」
「開き直るんだ」
「君こそ、俺を忘れられるか?」
「やってやりますよ」
「意地張るか」
「張りますよ~」

チラッと室井が視線を投げれば、青島も一度だけ視線を確認した。
室井がフッと笑む。

「黙って俺に付いて来い」
「亭主関白なんて今どき流行りません」
「辛くなったからって逃げ出そうとしても、もう手を放してやれる自信はないんでな」
「もっかい飛ばされても知らないから」
「今度は連れていく」
「行きませんよ俺は・・っ!」

右の片膝を立て、その上に腕を投げ出すように置いた室井の掌に、握られたままの指輪が夜光に照らされる。
対照的に左の片膝を立ててそこに乗せた腕をだらんと垂らす青島もまた、正面の窓を見ていた。
残業をしているのだろう都会のビルの明かりも、煌々と並んだままだった。
まるでここは透明ガラスに閉じ込められた、ハーバリウムのようだ。
昼も夜も、色鮮やかな光の煌めきと日本防衛の中枢に心からさんざめくグランドノイズが
今は沈黙する。
デスクに付けられたままのスタンドライトが、ぼんやりとこの空間を保守的に守らせているように思わせ
静かな本庁の夜は時間が止まったように与えられ、二人きりの世界を演出し、あの夜を再現する。

「――あんたさぁ、あの夜が七夕って気付いてました?」
「・・・」
「やっぱ無自覚か」
「この歳になると暦は忘れがちだ」
「で。雰囲気に一人流されて俺はのこのこ告白までさせられたわけか」
「特別な夜だとは感じていた。でもそれは暦なんかではなく、君だからだ」
「・・・っ」

だからどうしてそんな台詞が吐けるのか。
半眼となって青島が閉口する。

「あんた、タラシですよね、天然の」
「君には負ける」
「そんな台詞吐いといて?」
「どれだ?」

笑顔を重ねてきた時間が、熱く交錯した星霜が、流れ星の如く燃え尽きて、降り注いでいた。
どれだけこの男に付いて行きたかったか。どれだけ好きだったか。それを、どれだけの想いで断ち切ってきたか。
まだ残る貴方への想いと、共にと願う心はまだ癒えず、悲鳴を上げままだ。
同じ時間を繰り返してきた筈なのに、この男はとぼけたことを言う。

「なら――来世でもまた会おうか」
「だからッ、そーゆーとこですよ‥ッ」

小さく笑いを落とす室井の声は男染みて闇に浮かび、青島の視線を反らさせる。

「友としての交際も、拒むか?」
「そんなの用意する友達は嫌ですね」
「はめてやろうか」
「やめといたほうがいいですよ。痛くもない腹を探られますよ。どうすんの」
「君が考えろ」
「なんでっ!」

むかつく、と青島がむくれれば、室井が隣で首を傾けて笑む。

「君は意外と往生際が悪い」
「あんたが潔すぎるんですよっ」

まったく、とぼやいた青島も頬杖を付いて嘆息を落とした。
それでも、二人の息は嫌になるほどあっていて、二人きりの空間は、嫌味なほど居心地が良い。
こうして肩が触れ合いそうで触れ合わない距離を、詰められずにここまで来た長い星霜は、俺たちの戦いの備忘録でもある。
それは、都合の良い、傲慢で排他的な、夢の欠片だ。

「知ってます?織姫と彦星は仲良すぎたから離れ離れにされちゃったんですって」
「ヤキモチか」
「世の中には馬に蹴られたい奴がいるんですよ」
「俺たちだって何度か離された」
「一年に一度も会えませんでしたね」
「天命に逆らうのはもう慣れた」

乾いた笑いを零し、青島が苦い顔になった。
懐かしくて、共鳴した熱さと眩しさが、胸に蘇る。
そういうとこが好きだった。
負けん気が強くて、しつこくて、それでいてその実、戦うことを厭わない。
思い出させるのは、わざとなんだろう。

忘れられるわけがない。他の人間で満たせるわけがない。
狂おしく思い起こさせる恋情は、捨てようとして捨てきれないものだとは青島もまた身をもって知ってしまった。
俺は本当にこのひとを卒業できるんだろうか。
こんなにも染み込まされて、忘れて他の人間を愛するなんて、できるのかな。

このひとの、こういうとこが、好きだった。今も。
やっぱり、俺、大好きなんだ。
その終着点がここだなんて、あんまりだ。

どうしようもなくなり、こんな恋に振り回されることに青島の吐息が少し震えを乗せる。
腕に額を押し付けて、目を閉じた。
まだ残る漁火が燻って、煙が目に染みるように視界が白じんで、息を殺す。
室井には気付かれたくなくて、それを溜息で誤魔化した。

「じゃ、お互い結婚して、運悪く相手に生き別れて、将来一人になっていたら、老後、一緒にいてあげますよ」
「そんなんで満足できるか」
「懲りないひとわね、火傷するんです」
「やってみろ。――だがな、青島」

室井の手が伸び、青島の膝に垂れ下がっていた手を取り、しっかりと握り締める。
男の手だ。
はっきりと繋いできたその意思表示に、青島が思わず室井を仰ぐ。
室井は正面を向いたままだった。
だが、その手からは揺るぎない意志が伝わってくる。
こんな場所に乱暴に座り込んでも姿勢の良い室井の影が、熱い体温と息遣いと共に青島の隣に確かに存在した。

「君と再会して、君の想いを知った。同じであるなら、これは捕まえないと駄目だと、悟った」
「そんなの・・・」

怖くなる。虚勢を張っていても擦り抜けてくる室井の透徹性が、いつも絶妙のタイミングを見計らい炯眼し、青島の脆弱性に忍び込んてくる。
ハッタリでは勝てても、理詰めで室井に勝てるわけがない。
だからこそ、青島の中で強がる虚勢が暴かれる。

そんなの、俺だって一緒だった。
だから。

「俺はこんな俺、きらいですよ」
「それでも俺は、君がいい」

焦れた青島が髪を掻き混ぜ、空気を危うく揺るがせる。
急に闇が襲い掛かり、青島は目を硬く瞑った。室井の手が、妙に熱く感じる。
これ以上の愛の言葉は、もう、要らないと思った。

「青島」
「‥・言うな」

室井が闇に光る眼を向け、そっと顔を傾けた。
暗がりの中で自分に近づく影を、青島はじっと見る。

「言うなって」
「俺は」
「マジなの・・?」

触れる直前で、室井は動作を留め、フッと微笑を洩らした。

「今更それか?」
「・・っ、もぅ、」
「離れている時間が俺を冷静にさせた。だからこそ、本当の君が見えた。そこに、秘めているものも、分かってしまった」
「・・室井さんっ」
「同じだと思った。近いと思った」
「もういい、って・・!」

繋がれた手を振りほどこうと、これまで大人しく雑談の振りを装っていた青島が、動揺を隠せず、腕を振る。
だが室井はそれを、同じ力で縫い留める。

「俺の傍に居ろ。今の俺なら勝ち上がれる。もう二度と離れるな。・・・離れていかないでくれ。俺を、置いていくな」
「置いてったのは・・っ」
「行かないでくれ」
「無茶言うなよ・・!」
「だから・・っ、そんな簡単に諦めるなんて言うな・・・!」

怒鳴る青島に合いの手を打つように言い返した室井の気迫に、時が止まる。

「君が!君が俺から闘うことを奪わないでくれ・・!」

呆気にとられるまま、青島の口が開いたまま止まった。
珍しく感情を乗せた声色の室井の目は、適当なことを言っている割には真剣で
いつかと同じ、漆黒の魂に焔を宿した出会ったばかりのあの瞳だった。
俺だけが知る、本当のこのひとだ。
ずるい、今そんな目をするなんて。

くしゃりと髪を乱雑に混ぜ、青島が歯を食いしばる。
その頬は暗闇でも判るほど、真っ赤に染まっていた。

「んだよそれ・・っ、・・んなの俺の台詞じゃん・・・」

そこまで言われたら、身を引こうとしている俺が負け犬みたいだ。
別れを選び、どれだけ泣いたか。
涙など、もうこの先一生出なくなると思ったくらい、泣き明かした。
後悔などないからこそ、行き場を失った情熱が胸を焦がし、荒廃させ、息を詰まらせた。

「んで、そこまで・・・・」
「プロポーズしにきた男が取る行動なんか、万国共通だ。盛って盛って、アピールする。多少の脚色は許容範囲と決まってる」

あ~もぉぉ、このひとってほんっと―に。

苦く笑いを乗せて、それに失敗した青島が次の言葉も見つけられず黙り込む。
触れたら溶けて消えてしまう雪でも扱うような仕草で、室井が握っていた手を放し、指先を伸ばした。
それを許し、青島が口唇を引き結ぶ。
青島の頬を撫ぜ、慈しむ指先にその柔髪を通して通り過ぎる。
離れた温もりが寂しく思い、青島が促されるように下から目線を室井に向けた。

そこには同じく昔、一緒に冒険した男が口許を尖らせて青島を見ていた。
青島はもう露骨な不機嫌さを押し隠そうともしなかった。
俺がノッてくると分かっているような、見透かされているような、俺ならこんなギャンブルを一緒に出来ると信じて疑ってないその感じが、癪に障る。

「なんかもぉ、よくわからないです」
「いつまで待たせる」
「俺だって・・・ちょっとはあんたの役に立ってみたかったんだ」
「充分だ」
「あんたの人生の重要なひとになりたかった」
「君はそうすると思っていた。でも君にはもっと重要な、君にしか頼めない役割がある」
「・・・いやだよ」
「本当に?」

室井の性格がここまで頑固で融通が利かないことは分かっていたつもりだった青島でも、喪失の予感と恐怖に埋もれた青島には
室井の不屈の魂は、圧倒だった。
勝てっこないことは分かってた。でも、こんなにも差をつけられるなんて。
この男はいつその覚悟を決めたのだろう。恋も仕事も何もかもに誠実となる、その覚悟を。
すっげぇひとだ。やっぱり。
こんなひとだから俺はまた憧れる。
こんなひとがただひたすらに、俺を求めてくるなんて有り得ないことだと、ずっと思っていた。

「・・どんな思いで俺があんたの告白断ったと思ってんの・・・」
「そんなの、丸見えだ」

ぶっきらぼうに言い放った室井に、青島の減らず口が完全に止まる。

この高潔な存在の傍で、ずっと行き先を見つめていたかった本音を思い出す。
認められて、同じ想いを通わせて、誰よりも近くで、独り占めしたかった。
これは、俺んだって。
そんなことが赦される日が来るとは思いもしないまま。

「こっちにも余裕なんかない。もう意地を張るのはお互いやめにしないか」
「・・・けど」
「俺の立場が気になるか?」
「するでしょふっつーに。・・あんた、要職に就く人間なんだよ」
「君に心配されるほど柔な男だと思われているのか」
「ちっ、ちがいますよ・・!余計な気苦労はかけたくないってゆーか、足手まといはごめんってゆーか」
「なら、その度におまえが俺を奮い立たせろ。何度でも立ち上がってやる」
「!」

堂々と宣言する室井の高潔さと気高さに魅入られ、青島は室井を見つめ返した。
室井もまた、顔だけを向けてくる。

「俺をまっすぐ見て、俺に後ろめたさを与えるな」

ややして根負けした嘆息の後、青島は小さく口端を上げた。

「あんた、やっぱりわかってないよ。俺、こー見えて一途なの」

暗闇にあって、近いのか遠いのかも測れない距離感が曖昧に揺らぐ中、室井もまた小さく笑んだようだった。

「おまえがあの時階段の下で、俺に約束と命を与えてくれた時から、俺には君しか見えていない」

ああやっぱり。
青島は泣きそうに歪んだ顔で奥歯を噛み締めた。
そこからだった。
同じなのだ。あの日あそこで約束してから、契りを交わしたように運命共同体となって、心も鎖で繋がり、同じ星霜を航海してきた。
同じ時に恋をして、同じ痛みと熱に支えられてきた。
きっとここからも、そうなのだ。

ここが暗闇で良かった。
少し目頭が熱くなった視界を閉じるように、青島が瞼を落とした。
些細な二つの呼吸が耳に届き、それが妙に安心させる。
小さな沈黙は室井にも同じ熱さを伝え、あの日のはじまりの物語を室井も感じ取った。

「・・・離れていたくない。もう、二度と。どうしたら俺を選んでくれる」
「・・・分からせてよ」

青島の囁く声が、熱を孕んで掠れ、夏の淡雪のように溶けて消えた。

「本当に大丈夫だって。間違ってなんかいなかったんだって。そのくらい、欲しかったんだって」
「ああ、欲しい」

被せるように室井が遮る。

「君しか、いらない」
「もっと」
「何度だって言ってやる。望んでくれるならば」
「口下手は治ったの」
「相手を選んでるだけだ」
「・・・じゃ、もっかい」

室井が身体を一度傾け、青島の耳元に口唇を寄せ、囁いた。
熱い息と少しだけ熱に掠れた声が、青島の耳を擽る。

「俺が先だ。君の気持ちが聞きたい」
「・・・言ったよ」
「もう一度」
「そぉゆぅの、欲張りって言うんですよ」
「なんとでも」
「・・・」
「・・・言ってくれ」

返事の代わりに、青島が顔を上げ、軽く首を傾け、近づける。
合わせるように、吸い寄せられた室井もまた、少し身を寄せた。
ぎこちない仕草で青島が、もう少しだけ近づける。
じわりと熱を高めるように、見つめ合ったまま二人の距離が徐々に近づいて。
室井が顔を傾ければ、青島は目を伏せて顎を持ち上げた。

ゆっくりと、影がまた一つとなる。
触れるだけの熱は同じ温度となって、名残惜しさを伝えた。

「おまえからは、海と、命の匂いがする」

包み込むように腕の中に青島を囲い、室井が青島の首筋に鼻を埋めた。
まるでずぶ濡れの猫が宿を見つけたように、室井の胸に大人しく収まった青島は、黙って身を預け、室井に従う。
やっと手に入れた愛しいものを二度と失くさないように、室井はしっかりと腕に抱き締める。
青島から薫る夏の匂いを大きく吸い込んで、室井は目を閉じた。

「よそ見なんかさせない。もうずっと俺だけ見てろ」

返事は、背中に回ったシャツを握ることで伝えられた。









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