恋 煩い 5








9.
「待って、青島くんっ」
「なに、すみれさん、俺今――」
「あの、あのね・・・、えっと・・・」
「?」

朝から署内を走り回っている青島をようやく捕まえたはいいが、自分が掛ける言葉を用意していなかったことに気付き
すみれは口籠った。
困惑の色を引き留めたすみれが浮かべる逆さまに、青島がくすりと小さく笑み、足を戻してくれる。
親密的なニュアンスの配慮に彼の優しさを見て、我を取り戻したすみれが顎を引き、口先を尖らせた。

「大丈夫なの」
「ぇ、どれ?・・・俺今いっぱい案件抱えてて」
「青島くんのことよ」
「課長も俺を頼りすぎだよね~、期待されてんのかな」
「その発想もどうかと思うけど」
「事務仕事も割と才能隠れてた」
「仕事の話はいいから」

合いの手を入れるようで遮るすみれに、青島もまた付き合いの良い応答を見せた。

「変なすみれさん、何がだよ」
「ずっと動き回ってるよね、休んでないよね」
「ああ・・、雨降ってても暑いしね。熱中症には気を付けないと。水飲んでる?」
「そうじゃなくて!」
「ん?」

不思議そうに小首を傾げた青島の深い栗色の瞳を、すみれはひたすらに見つめ上げた。
意味ありげな視線に、敏い青島が気付くのを期待した。そのくらいしないと、青島は自分のことはとことん無頓着だ。
案の定、ややして青島の顔色が変わった。
まいったなという嘆息が零れ、乱暴に汗で束となった前髪を掻き揚げる仕草にかったるさが残る。

「へーきだよ、心配しないで」
「クマ、酷いよ。寝てないんじゃない」
「それは忙しいってのもあって」
「食べてもいないように見えたわ」
「食欲もなくってさ。でも大丈夫、倒れない程度には栄養補給してるから」

そういう問題じゃないのに。
すみれが剣呑の表情に変えると、青島は肩を竦めてお道化て見せた。
気遣わせないように無理しているのが余計に伝わり、すみれの言葉を失わせる。

「あと、飲みすぎかな?」
「お酒、飲んだの?」
「気付けってやつ。こう、晩酌にね、ちょこっとだけだよ。自炊するより安あがりだからさ」

グラスを傾ける手付きをしてみせる青島のその顔は、すみれも知っている。
強がりの一歩手前。

「・・・つらいなら、話くらい、あたしでも聞けるんだよ」
「でも対価取るんでしょ」
「内容によるわね」

すみれが冗談に合わせ腰に手を当てて胸を張ると、青島はただ朗らかに笑んで見せた。
そこに高い壁を感じ取る。
照れ臭そうに頬を掻き、本音を隠す仕草も、少し身を屈め寄せて話してくれる気遣いも、みんな見知っているものなのに。

「ってか、俺、そんなに分かりやすい?けっこ隠すの上手い方だったんだけど」
「うん、それは認める」
「みんなにもバレてんの」
「そこはあたし次第かな」
「すみれさんにジョーカーがあるのね」
「女の勘を侮ってると痛い目みるわよ」
「覚えときます」

青島が資料を抱えたまま、諸手を上げて見せた。
確かな仲間意識と長い時間だけが作れる空間の裏に、それでも残る歪さが鋭い欠片となって隠しきれずに嘆息に混じる。

すみれではこれ以上踏み込ませてはくれないのだ。
愚痴程度なら、その性分から気安く幾らでも甘えてくれるけど、その先は拒絶されている。
こんな顔して、こんなに泣きそうな顔をしていても、すみれに目を向けてはくれない。

それが悔しいというよりは悲しく思え、すみれは言い方を変えた。

「じゃ、さ、今晩夕ごはん、一緒に食べにいかない?」
「珍しいね。でも今月俺、時計買っちゃったから金欠」
「そこまでガメつくないわよ」
「えぇ~?」

背の高い青島が茶化すようにすみれを覗き込み、軽い笑みと共に長い足で優雅にステップを踏んだ。
霞のように、消えてしまいそうだ。
風を包む白いシャツに、焦りの混じる声ですみれが追う。

「食事が無理そうなら、映画でも良くない?気分転換になると思うよ」
「サンキュ。・・でもコレ、結構な量あって、多分今日は残業になるから、また今度ね」
「そんなに働き詰めは駄目よ。きっと和久さんだって怒るよ」
「疲れるほど働いてないよ」

廊下で立ち話をする青島とすみれの横を、勇み足で人が通り抜けていく。
邪魔かな、とすみれの視線が傾いたのと同時に、スマートな仕草で青島の腕が伸び、そっとすみれの腕を取って脇に守ってくれた。
こういうところ、さりげなく手慣れていて、無意識な分、フォーマルさを与え、性質が悪い。
若い頃は浮名を流していたタイプかもしれない。
人気があるのも頷ける。

腕に囲われたまま、すみれがそっと青島の横顔を盗み見た。
端正な横顔はシャープなラインを描き、首筋から肩にかけ長く優美なラインが小麦色に艶を帯びる。
よれよれのシャツとは対照的に清潔そうな肌は精悍な印象ですみれを呪縛した。

モテるんだろうなとすみれの中の女が査定する。
それだけではなく、相思相愛っぽかったのに相手の迷惑になるからという理由で、今回身を引いて見せた。
別れ話の翌日は目が腫れていて、冷タオルで目元を冷やしていた。
ぶつけちゃってとみんなには誤魔化していたけど、すみれにだけは舌を出していた。
今はそのベビーフェイスに濃いクマが記され、顔色も悪く見える。
直向きな姿勢や、純粋な情愛、深い誠意と献身を傍で聞き、見てきたすみれには、潔すぎて、女泣かせな紳士っぷりにいっそ腹すら立つ。

「心配させてごめん、でも大丈夫だから俺」
「嘘」
「本当だって」

あれから一週間、日増しに青島がやつれていくように見えるのは錯覚じゃない。
勿論演技派な青島のことだ、周りを騙すことは朝飯前だった。今はまだ誰も気づいてはいないだろう。
でもこの状態が長く続くことはすみれの我慢が限界だった。
時折虚空を見つめている瞳が潤っているように見える時だってあった。
そんな顔をさせた相手にも腹が立つし、その顔を晴らせない自分の無力さにもイライラする。

「あたしにも言いたくない?」
「言ってどうなることでもないから」
「どうにかしてほしくて話すものでもないでしょう?」
「相変わらずテゴワイね」

片手で青島が前髪を掻き揚げる仕草は、何度も見てきたのに、妙に色気を伴いすみれの眼に映り込む。
天井に逸らされた視線は遠く、どこまでも澄んだ瞳が美麗に見えた。
僅か、下にずらしたその視線が憂いを含み、伏せられた瞼に聞かされる予感を感じ取ったすみれの肌が、夏なのに少しだけ冷気を感じ取った。

丁度通りかかった篠原夏美が、空気を破るように興味津々な瞳を輝かせて二人を目に留めた。

「あらぁ?内緒話?」
「ま、ね」
「もしかしてヤバイ話、とか?」
「「風邪をこじらせたって話!」」

青島とすみれの声が重なる。
二人して目を合わせ、肩を竦め合った。
息が合いますね~と笑いながら去る夏美の背中に、白いブラウスが透けて夏を思わせる。
始まっていくものを、止めることなんて誰にも出来やしないのだ。
それでも、欲しいと願う心に嘘を吐くことは、そんなに必要なことなのだろうか。

「・・・忘れられないんだ」
「今だけよ」
「スイッチ切るみたいにさ、切り替えらんないんだもんな・・・」
「後悔、した?」
「それはないよ」

吐き捨てるように、でも凪ぐ海のように穏やかに白状した青島の言葉の痛みにすみれの顔も歪む。
干乾びた喉を必死に蠢かした。

「やっぱり復縁したら?迷惑でも必要な人っているものよ?」
「いいんだよ、これで」
「した方がいいよ。だって相手も青島くんが好きなんだよ?こんな都合いい物件、ないわよ」
「これで良かったんだって」
「意地張ってる時じゃないよ?」
「すみれさんだって」
「だからよ!・・だから言いたいの!」
「・・、納得してやったことだから」
「そうは見えないから言ってるのに!」

届かない想いはまるで天と地のようだ。
なんだか悲しくなって、すみれは口唇を噛む。青島の視線も心も、その人が未だ独り占めしている。
そんなすみれに一瞬だけ視線を流した青島が、助け船を出した。

「このどうしようもない部分もさ、含めて大事にしとくかって」
「男ってどうしてそう無駄な意地張りたがるのかしら。自己過信はかっこつけでもなんでもない」
「そこはピュアって言ってよ」
「純愛だって言いたいの」
「情けないでしょ、恋でも勝てないなんて」
「それでカラダ壊して周りに同情買ってたら、みっともないの一言よ。青島くん、幾つ?」
「多少の計算違いにびっくり」
「びっくりはこっちよっ」

負けじと勝ち気なのはすみれも同じで、しつこく食い下がっていると、不意に青島の瞳が煌めいた。
目尻を妖しく眇め、音もなくすみれに身を寄せる。
すみれの背後に片手を付いて、耳元に青島の口唇が掠めた。

「そんなに言うならすみれさんが慰めてよ」
「!」

突然で。近すぎて。

「オトコの悦ばせ方、分かってない」

掠れるような吐息で囁かれたそれは、思う以上に艶めいて、すみれの足元を不安定にした。
青島の吐息がすみれの髪をたなびかせ、噎せ返るままに急に酸素が薄くなる。
全部が、熱い。
思わずたじろいだすみれの足が後退ると、そのまま背後は壁であったことを背中が感じ取った。
どきりとした心臓を知られたくなくて、威嚇するようにすみれは視線を上げる。
目の前には男の瞳をした青島の顔が迫ってて、所謂これが壁ドンだということにすみれが気付いた時には
青島の瞳が柔らかく細まった。

「・・・揶揄ったわね」
「だってかーわいい」
「そんな風にその人も誑かしたんでしょ」
「テクニシャンと言ってよ」

見掛けは無害で人好きのするハンサムなくせに、虫も殺さぬ顔をして、とんだ食わせ者である。
こういうギャップが女を堕とすのか。

「覚悟はできてるんでしょうね」
「俺の告白は断ったくせに」
「二股男は嫌よ」
「はは、そりゃそうね」

だが、それすら青島によって作られた虚構であることはすぐに勘付いた。
汗すら感じ取ってしまう距離にいた身体をすっと放し、青島が片手を上げて背を向ける。
話を反らされた挙句、勝手に終いにさせられた。

「青島くん!」
「オトコを宥めるには百年早いよ~」
「うっさい!」

青島の白いシャツが妙に眩しい。
遠ざかっていく姿を追いながら、すみれの心は嘆いていた。

どうしてあたしじゃ駄目なんだろう。どうしてもう話してくれないんだろう。誰だったら彼を救えるの。
今は自分の気持ちより、青島のために何かをしたかった。

ああ、もしかしたら、青島くんもこんな気持ちで別れてきたのかしら。
それはなんて切なく、甘い。

紅いルージュの乗った口唇が、強く引き結ばれる。
いっそ相手の女を呼び出して、小一時間膝詰めて説き伏せてやりたい気分だった。
もう少し強気に出れば落とせるものを。一体どこのお嬢様なのよ。
でも青島くん、警戒心が強いのか、名前一つ教えてくれなかった。
こういう時、警察官同志というのは面倒臭い。

その時、すみれの片隅に一人の堅物な背中が思い浮かんだ。
似たような陰鬱と謹厳を背負い、そこから逃げずに戦い続ける男。もしかして、あの男なら。

すみれの黒々とした瞳が生気に艶めいた。

















10.
室井に割り当てられた警視庁の私室は小さめではあったが、陽当たりも良く、見晴らしも良い。
ブラインドが少し上げてあり、梅雨空が広がる都会を眼下に広げていた。

「どうかなさいましたか」
「どうか、とは」
「随分と今日は朗らかな顔をしてらっしゃるようなので」
「気のせいでは」
「ここ一週間ほどでしょうか。気負いがなくなり、良い傾向だと思っておりました」
「・・・・そう見えるか」
「はい」

どうぞと小さく添えて、中野が緑茶を注いだ湯飲みを室井の前に置いた。

他人に感情が悟られてしまうような失態は現職警察官としては失格だが、中野とは長い付き合いとなり、有能な秘書的補佐をしてくれる反面
こうしてふとした瞬間に気取られてしまうことは、これまでにも稀にあった。
しまったなと思う反省もまた、顔に出たのだろうか。
軽く一礼をする間際、中野は穏やかな笑みに了承の意思を確かに乗せた。

「そうか、気を付けよう」
「本日のご予定ですが――」

それ以上その話題には振れようとせず、中野が黒い手帳を広げ、仕事に入る。
不躾な話題を引き延ばしてこないきめ細やかさも、食えない男であると室井は評価していた。
淡々と昨日も確認した事務作業に変更点がないことを伝え、中野は用意した会議資料をデスクに置いた。

「では、チェックをお願いいたします」
「君が作業したものなら問題ないだろう」
「買い被られても困ります。お立場上、些細なミスが命取りになる可能性だってあるのですから、細心の注意は払いましたが念のためご確認を」
「やっておこう。いつもありがとう」
「いえ。それと――」

中野が次の説明に入ろうとしたその時、デスクの電話が機械的な呼び出し音を告げた。
ワンコールで室井が取り上げる。

『私だ』
『・・っ、出た!室井さんでしょ?』
『・・・何故この番号を知っている』

聞き慣れた気安い女の声に、室井は思わず合いの手を入れるよう砕けて返した。

『いつだったかな、ひょんな拍子で聞く機会があったのよ』

いつ誰に聞いたのか、それはどんなタイミングなんだとか、ツッコミ所の多い返事を返す女に、室井は口を挟むのも億劫となり、憮然となる。
役に立つ日が来るとは思わなかったけどと付け足された言葉も、物怖じがなく
その遠慮ない口ぶりは、逆に室井の本庁特有の警戒心を薄らいだものにした。
そういえばこの女と――恩田すみれと話すときは、いつもこうやって懐を弄られるようなむず痒さを感じていたようなことも思い出す。

『何の用だ』
『込み入ったような、そうでもないような、話なんだけど』
『今、こちらは所轄を担当できるような役職にない。力添えは保証出来ないぞ』
『あ~、うん、仕事の話じゃないんだ』
『?』
『青島くんのことで。ちょっと』

その名が出たことで、室井の目が鋭く眇められた。
それを目敏く見つけた中野が、長引きそうだと察し、必要事項の書かれたA4のコピー紙に付箋を貼り付け退出する素振りを見せる。

『少し待て』

電話口を片手で押さえるだけの簡易的な保留をし、室井が中野へと労う。

「悪い」
「いえ、ほとんどこちらも昨日と変更点はございませんので、追記された分だけ置いておきますから」
「助かる」

目線で礼を述べ、室井は小さく頷いた。
中野が45度で綺麗に礼を残し、静かに退出する。
扉が閉ざされたことを確認してから、室井はもう一度受話器を耳に当てた。

『それで』
『相変わらず青島くんのことになると目の色変わる男ねぇ』
『無駄口はいい』
『この間はさ、会えなかったの?』
『・・・・それが?』
『首を突っ込むつもりはないんだけど、仕事も絡んでいないし、室井さんの今の立場ってデリケートらしいし?』
『君がそんな配慮をする人間に成長したとは驚きだ』
『失礼ね!でも青島くんの受け売り~』
『・・・・』

電話口から聞こえるすみれの声は遠慮がなく、それはそれで堅苦しい世界に生きる室井にとっては今も新鮮な印象を抱かせる。
ゆったりとした気分を失うには惜しい気にさせられ、室井はデスクに着くことを止め、窓際に立った。
湾岸署から掛けているのだろうか。背後はなにやら騒がしい人の声が時折拾われた。

『結局何が言いたいんだ』
『青島くんってさ、陽気だし人当たりは良いし友達も多そうなんだけど、あたしが知ってる交友関係って室井さんぐらいしか思い当たらないのよ』
『・・・』
『署内でも割と人気者だし、ほら、お祭り男だからみんな面白がっちゃって。・・・でも真に話せるかっていうとそうでもないような・・・』
『・・・君がいる』
『あら。室井さんでもお世辞を言うことが出来るのね。驚きだわ』

先程の室井の言葉を復唱し、揚げ足を取る女に室井の眉間が寄せられた。
すみれの話は昔から要領を得ないくせに、油断すると噛みつかれる。
久しく話していなかったが、変わらぬすみれに親近感と懐古を抱きつつ、室井はポケットに片手を差し入れ、白い壁に背中を預けた。
足を軽く組み、寛いだ態勢に低い灰色の雲と切れ間から地上に降りる光の道が目に入る。
霧に覆われた眼下を漫然と眺め、鈴なりのような声に耳を傾けた。

『でもね、適材適所ってあるのよ』
『遠慮深い発言だ』
『ものすごく不満よ』
『君たちの友情はそんなものじゃないだろう』
『そう言ってくれるのならお応えしたいんだけどね。・・だって、あたしじゃ駄目みたいなんだもん』
『・・・・』
『聞き出すより先に、気を遣われちゃって。意外と青島くんって回転早くて。察しが良いから攻略難しいのよ』

ゲームか何かに苦戦するような口ぶりに、室井も何となく言わんとしていることを察して足元に視線を落とした。
ブラインドから射しこむ光が黒い革靴に反射し、縞模様を描いている。

『男同士、話を聞いてあげるくらいの甲斐性は、もう室井さんの中にはない?』
『・・・』
『十年の月日は熱い友情さえ鎮火させちゃった?』
『何かあったのか』
『あったっていうか・・・、最近の青島くん、ちょっと見てらんなくて』
『最近?』
『そう。ここ一週間くらいかな。カラ元気なんだよね。他の人は気付いてないけど、ほら、青島くんって隠すの上手いじゃない?』

そうだなと室井も心の中で首肯する。

『仕事すっごくガンバちゃってさ、今日も元気だね~なんて言われてホイホイ他の課手伝いに行っちゃって。課長から大量の書類整理まで引き受けちゃって』
『良いことだ』

意地悪く返してやれば、すみれが憤ったように受話器の向こうで意気込む。

『連日残業なのよ。ただでさえ通報入ったら人手足りなくなるのに。休めるとき休んでおかないと、この夏耐えらんないわよ!』
『警察とはそういう職業だ』
『こっちも生きてる人間なの。オートマティックに再起動なんて出来ないのよ。そんなブラック企業にしたい?』
『・・・様子は』
『食事もしてないみたいで、あんまり食欲ないって言ってるし、寝てもいないみたい。目の下すごいクマが出来てるわ』
『・・・・』
『飲み歩いているみたいな口ぶりだった。毎晩じゃないといいけど』
『酒の一つくらい、許してやれ』
『やつれちゃって、少し痩せたかも。何より泣きそうな顔してるから』

見てられないと続くすみれの涙声に、室井は気付かれないよう嘆息を浮かべた。
すみれの近況報告は、室井にとっては意外だった。
しまったなと思いつつ、無関心を装って室井は話を続けさせた。

『ライバルだと思い合っているんなら、こんなこと、室井さんは知りたくもなかったでしょうけど、敵に塩送るのも武士だと思わない?』
『君の例えは、我々を何だと思っているんだ』
『あら、尊敬の意味を込めたつもりだったんだけど、違ったかしら』
『・・・変わらないな』
『人間そうそう変われるものじゃないわ。変わるとすれば、それは強い意志があることなのよ』

青島が大人ぶり、何かを悟ってしまった達観は、室井からしてみれば少し寂しくさえ思う。
でもそれは室井の追いつこうという強い意志で背伸びをしているようにも見れた。
四つの歳の差を意識しているのか、あるいはキャリアに引け目を感じているのか。必死に同じ目線を追う姿は、愛おしくいじらしかった。
それがどれほど大切で心強かったか。
失くしたくないと、糸を手繰るように星霜に生きた時代が室井の胸に蘇る。

『青島だってもう経験も長い。対処法は弁えている筈だ』
『心当たりはあるわ。室井さんは笑うと思うけど』
『なんだ』
『・・・直接聞いて』
『そういうのは君の方が適役だと』
『違うの。女のあたしじゃ駄目なの。同じ目線で打ち解けあえるような、甘えられるような、そういうのを求めているのよ』
『・・・』
『ねぇ、昔は仲良かったじゃない。今となってはお互い離れちゃったかもしれないけど、昔のよしみで話聞いてあげるくらいの甲斐性持ってても罰は当たらない わよ』

成程、カウンセラーを委託したくてプライドを折って電話してきたか。
室井はすみれの心遣いに同じ情を見る。
すみれ自身がそれに気付いているかは室井には定かでないが、傍にいる青島が勘付くかは問いかけるまでもない気がした。
ただ、すみれの意図は伝わったが、その元凶となった男がその相手だとは気付いていないらしい。

まったく、世話の焼ける。
小さく口端を綻ばせ、室井は瞼を閉じた。

『三日だ』
『え?』
『事情は理解した。青島には言わなくていい。君も仕事に戻れ』
『ぇ、だって』
『仕事中だ。切るぞ』

そう言い放ち、本当に素っ気なく電話を切ると室井は中野が置いていった緑茶を一口含んだ。
片手で緑茶を啜りながら、室井は窓辺に立つ。
ポケットに挿し込んだもう片手の拳がきつくきつく、握られる。

たった一度、一度だけ抱き締めた熱を、この手はまだ覚えている。
手触りも、少し高めの体温も、汗の匂いに混じる石鹸の香りも、髪の揺らぎも、全部、消えない。

思った以上にスレンダーで細身の長身は、数年前と同じで、見映えだけでなく均整の取れた柔らかい肉付きであったことを服の上から伝えた。
女のように華奢ではないが、室井の腕にすっぽりと収まった温かくしっかりとした躰は室井の奥底を搔き乱し
一瞬にして室井の我を忘れさせた。
想像通り蕩けそうな細髪も、小ぶりの整った顔も、夜に艶めく肌も、少し甘い声音も、一たび巻き起これば室井を襲い、息を殺させる。
知ってしまった感触は、当分忘れられそうになかった。

室井の目的はもうほぼ達している。
さっさとけじめを付けるだけのことなのに、それを簡単には赦さないのがこの職業であり、あの男だ。
すみれの言う通り、片手間で攻略できるものではない。

飲み干した湯飲みをデスクに戻し、室井は手元の資料を広げた。
さっさと片付けなければならなくなった。

会うかどうか、あれほど悩んだのに、会ってしまえばこんなにも満足している。
会ってしまったことで、どれだけ心が欲しているかを目の当たりにし、飢えていた心を思い知らされた。

いつのことだったか。東京に戻ってきた室井は何度か彼を見掛けた。そんなある日偶然彼の声を聞いた。本庁の廊下でのことだった。
そこでしていた立ち話は大した内容ではなかったが、その若者が去っていった後も、青島はそこを動かなかった。
やがて、一つだけ、小さく室井の名を呟き、窓の外に目を移す。
気怠い溜息と共に乗せられた名前には明らかに意図したものが含まれ、切なく眉を寄せる顔にはあの頃の無邪気さはなく、何よりその目が。
室井の知る強く鮮烈なそれではなく、見たこともないような婀娜と、哀愁と情に揺れていた。
驚いて、室井は声を掛けそびれた。

まさか、君は。

冗談だろう?何年だと思っているんだ。
その横顔が、室井の中に色濃い波紋を焼き付けた。

全てが欲しいだなんて、恐ろしくて言えない。
自分は性に対しても、淡泊な方だと思っていたし、事実、そういう交友関係ばかりだった。
こんなにも欲しいと思える人間がこの世にいるということが不思議ですらあった。
だが、長年降り積もった欲望は際限を失い、身も心も何もかも、自分のものにしてしまいたくて、自分だけの色に染め上げてしまいたくて
他の人間に触れさせたくすらない。
消し去ろうと願う度、細胞が湧きたって抵抗する。
どうしてあいつには、あんなに安心を覚えてしまうのだろう。あんなにも搔き乱されてしまうのか。
決壊しそうな感覚は、かつて何かが始まるとわくわくした躍動感と同じ原罪を孕み、最早長くはもたないだろうことを自覚している。

デスクに着き、室井は眼鏡を掛けた。

ずっと離れていたからこそ、室井には見えてしまった。
傍に居たら恐らく青島の一挙一動に振り回され、真実など見ることは出来なかっただろう。
青島が何を願い、誰を想い、どう出るのか。
なにも言わずに、大事なことはすべて一人で抱え込む。青島はそういう男だ。格好つけて、ヒーローを気取って
殉じることに至高の極みを覚える。

所轄が上を気遣う。全く変な話だ。
軽く苦笑を浮かべた室井の笑みは資料に落とされた視線と共に失せた。











back      next           menu