恋
煩い 4.5
8.
ホテル最上階の屋上庭園は閑散としていて、風音が時折かしがましく耳を騒めかす。
電飾の付いた樹木が人の背丈よりも高く覆い隠し、人口池の水面が細波だっていた。
逆さまに映るイルミネーションや電飾灯がゆらゆらとカナリア色の船を揺らしている。
「よく来てくれた」
「バックレるとでも思ってました?」
「逃げられる可能性はゼロじゃないと思っていた」
「もうこういうの、終わりにしたくて」
「終わりにしたいという意味ではこちらも同じだ」
七月七日の夜は瑞々しい大気に包まれていた。
東京で七夕の夜が晴れることはほとんどなく、朝降っていた霧雨が止んだことで空気が澄み、雲間から天が藍色に抜けている。
夜空は果てしなく透明に澄み渡っていた。
「今夜呼び出した理由はもう分かっていると思う」
案内された庭園の片隅で、室井が東京夜景をバックに荘厳と向き合って立つ。
黒々とした空が厳かなオーラさえ生み出し、近くもないが遠くもない距離を残す室井を恬然と引き立てていた。
やばいくらい、荘厳だ。
厳かで、洗練された大人の気配は、数多の穢れを拒んでいる。
室井が何故この場所を選んだのか。
ネックレスに連なるレインボーブリッジ、初めて出会った台場ビル、毎朝通うテレポート。
室井とかつて出会い駆けずり回ったあの海の街が、青島の眼に一望できた。
潮風に乗って流れる海の匂いが、青島に懐古を呼び起こす。
ここは、昔と今が交錯する街だ。
叙情ごと微かに届けられるここは、室井なりの勝負所なのかもしれなかった。
「気を悪くしたか」
「何について?」
「・・・言っていいのか?」
今更まどろっこしい言い方を好む男に、青島が浅い息を吐き捨てる。
近づかない距離は、室井の垣根なのか、青島への配慮なのかは判然としない。
バサバサとワイシャツを煽るビル風が心の奥底まで入り込み、青島の焦燥を促した。
「嫌だって言ったら誤魔化してくれるんなら助かります」
「それは・・出来ない相談だな」
「だったら聞くだけ無駄でしょ。・・・相変わらず」
「どうかな」
「?」
コテンと無邪気にも見える仕草で首を傾げる青島に、室井も暗闇に紛れるように苦笑した。
「君は・・・。気付いていないのか。こうして目の前で会っても話していても、穏やかに事を済まそうとしているだろ」
「そりゃ上司だかんね」
「凡そそれは私に向けられる類のものではないな。私が欲しいものでもない」
室井が言わんとしていることを正確に理解した青島が、舌打ちしたい気分で顔を背けた。
秘めてきたものをもう今更隠す気もないのだろう、堂々とした男の立ち振る舞いに恨みのような憤りさえ湧き上がる。
追い詰められているのがこちらであることにも理不尽さを覚えた。
意図せず尖った物言いになりそうな口調を、青島は深く息を吸うことで宥め下ろす。
「何年経ったと思ってんですか。いつまでもガキのままじゃいられないでしょ」
「オトナになったもんだ」
他愛ないつもりで言い返した青島の言葉に、室井が僅か、哀愁を含めた目尻を深めた。
包み込むような慈悲深い言葉に、見てはならぬ禁忌が襲う。
警戒心を剥き出しにして身構える心境すら、室井には見透かされている気がした。
惘然ともとれる青島の仕草にも、室井は怖じ気づく様子もない。
「言いたいことがあるなら聞こう」
「あるのはあんたでしょ」
「先に、言え」
「・・・ないですよ」
「本当に?小言の一つもないか?」
「今度は苦情処理係にでもなったんですかね。あんたには向かないと思うけど」
駄々を捏ねるような誘い文句に重ねるように、室井が穏やかに青島と名を呼んだ。
それだけで、身体が竦んだ。
足元に視線を落とし、噛み締めた奥歯を動かして、青島は降ろした両手の拳をしかと握った。
室井が緩慢な動作の中でも青島から何かを引き出そうとしているのは感じ取れたが
それに乗ってよいのかどうかすら、今の青島には分からなかった。
低く静かに夜空に揺蕩う室井の声は、穏やかで抑揚もなく、毅然と夜に溶けていく。
初めて聞いた時から青島の耳に何の雑音も混ざらず清澄に響くその音は、聞く者に恭順と支配を与え、見初めた要素の一つだった。
今はそれが酷く嫌いだと思わずにはいられない。
顔に出たその仏頂面を夜風の戦ぎが誤魔化してくれた。
置いていかれたこと、本当は今も尊敬してること、そんなものは表面的な言葉でしかない。
口を開けばもっと別の確かなものを吐き出してしまいそうで、それは室井への傲慢になりそうで、容易く暴露できるものには咀嚼できなかった。
青島と室井の間で通暁するものは、もっと違ったもののように記憶していた。
困り果て、最終的に青島もまたらしくなく賢明な無言を選択する。
沈黙を作り出したせいで室井も会話を止め、視線を落とした青島の眼には屋上庭園の石畳が無意味に目に入っていた。
ふと、室井が、思いついたように口を開く。
「ひとつ、頼みがある」
「なに」
「一杯付き合わないか」
「・・・」
「せめて終電まで居て欲しい」
意図が掴めず黙りこくる青島に、重ねるように少し口早に室井が付け足した。
分かっている答えを告げるのも癪で、黙って上目遣いで見上げれば、これ以上ないくらい顰め面した室井が少し顎を上げて返答を待っていた。
それをじっと見る。
これが最後なんだからという声が聞こえた気がした。
きっと、室井もこれが終わりを告げる夜だと分かっている。
呼べば答えてくれた奇跡はもう来ないのだと思うと、青島の口から細い息が零れ落ちた。
男の情欲に任せて身体だけでも奪おうとか、そのような不埒な行動には出そうもない男の些細な願いに、青島はただ見つめ返すしか出来ないでいると
室井がすっと長い指を立て、親指で屋上フロアへ続くホテル内で営業している店を指した。
青島の視線もそれに促される。
そこには、店頭販売も行うコーナーがあり、サラリーマン風の男が生ビールを注文している様子があった。
空気を綻ばすように青島が小さく頷き、室井へと目線を戻す。
奇しくも珍しく晴れた七夕の夜に二人で一杯。そのくらいの我儘は赦してくれるだろう。
誰にともなく罪を救済される夢を見て、青島と室井の視線が重なった。
「今夜くらい、いいだろう」
「じゃ、奢らせてくださいよ」
「割り勘だ」
どこまでも律義な男に、ようやく青島が少しだけ微笑んだ。
****
二人で頼んだ生ビールジョッキは、暑さに堪えていた喉を潤し、躍動感に満ちて汗を滴らせた喉仏を唸らせる。
二杯目、三杯目と続き、夜は静かに更けた。
ただ長引かせたかった。
終わりを怖れた。
カップルや仕事帰りの女性客らが至る所で夜景を楽しんでいたが、やがてそれらも消えていった。
二人で独占した庭園は、イルミネーションの瞬きが歓迎し、贅沢なほど尊い空間を潔く演出してくる。
何を語るでもなく、無言で隣り合わせて存在を感じ、時折、こうして仕事の話とか、価値観の違いとか、くだらない愚痴とかを確認し合う時間は、ただ楽しかっ
た。
遠くで清掃員らしき人物が客の残した食器を片付け始めているのが見え始め
夜空を飾るのは、深い色の空だった。
室井は抱く情愛については触れなかったし、青島もまた避けた。
出会った頃と同じ、何も変わらぬ絆がそこにはあった。
それはきっと勘違いじゃない。
そうして終わりの時間は無常にやってくる。
****
ホテルの閉館を告げるチャイムが鳴りだし、時計の針が11時を回る。
最後のビールを飲み干した勢いで、グラスを室井の手からも取り上げ、片付ける振りを装って青島が先に立ち上がる。
何も言わず、帰ることを背中で促し、ホテルの非常口へと続く石畳を、青島が爪先で三つほど飛ぶ。
ここで後ろ髪引かれる引力に負けたら終わりだ。
男とは、つくづく不器用な生き物に出来ている。
「――青島」
やけに遠くから室井の声が聞こえ、思うまま青島が振り返った。
室井はまだそのベンチから一歩も動かずにいた。
だらしなく開けたままの青島のジャケットが風をふわりと包み、夜に揺らめく。
「・・帰んないの」
「本当に、何も聞かずに帰る気か」
「――」
今更聞くことなんて何もないと、青島の多弁な瞳が語るが、それに臆せず、室井が更に重ねた。
「呼び出した理由がこれだけではないと、最初に言った筈だ」
一度も触れなかった話題に、躊躇いもなく室井は火蓋を切った。
恨みがましい男にうんざりした気持ちにも似た苛立ちよりも、壊そうとする室井の直情的な硬骨さに
見るのはやはり、彼の一本気な性格だ。
「もういいんです。最後まで楽しかった。それで充分でしょ」
「人は、そんな綺麗なものじゃないぞ」
「ここでお開きにしませんか。・・なんでこんな夜にここまでしといて、水を差すようなことするの」
「それとも君は、こんな外面の関係が俺たちがこれまで築き上げたものだったと、本気で思っていたのか」
「!」
カチンと来て青島も身体ごと振り返る。
夜光が射しこんだ青島の瞳が扇情的に灯り、それに室井が嗜虐的に目を眇めた。
そんなことは分かっている。
分かり過ぎるくらい分かっていて、それでも決めてきた。
折角楽しい時間を作って貰えて、ふたりで築いた大切なものを再確認し合えて、これで終わりに出来そうだったのに、この男はそれを台無しにする。
おあつらえ向きにこんな夜を演出しておきながら、佳境に入って打ち砕いてくる。
本当に楽しかったのに。
思い出に出来そうだったのに。
心底楽しんでいた気持ちさえ無下にする。
「だからなんであんたはそう、情緒ってもんがないの、昔から」
「そんなもの、邪魔なだけだ」
「っ」
自ら浦風を生み出したかのように、室井の発言で青島の淡い髪がざわめき、意識が覚醒していく。
ショルダーバッグの紐を握る拳に力が籠もった。
「あんた、何がしたいんだよ」
「分かり切った友情ごっこなど、こちらの目的ではない」
一人称さえ崩した室井の、エリートキャリアというよりは本能的に格上の雄の才知に、青島が本来の質を取り戻し、鮮烈さを目覚めさせる。
心の均衡が崩れるまま、その奥歯を咬んだ。
そうだったそうだった。こうやって室井は人の気も知らないで、勝手なタイミングで勝手なこと言ってくる。
淡如な容姿に騙されて油断していると、無害な顔をして突如その才覚を見せ付けるのだ。
それが室井という男だった。
「その眼が俺を煽る」
“それは青島くんにとって意味のないことなの?”
意味なくはないが、青島が一番願うことはもっと別な所にある。
ビールを飲んでいる間、すみれの言葉が幾度も過ぎり、青島の心を針のようにチクリチクリと突き刺していたが、それすら飲み下した。
室井の将来を想うほど大事にしたいものも確かにあるが、それ以上に青島自身が大事にしたかったのは
こうして二人で柵のない立場で話し合えて気持ちを通わせ、少年のような明日を夢見ていられることだ。
他の男になら、こんな子供染みた願いごとはしない。
なのに、同じだと思っていた室井に、その欠片がない。
そう思った時、これが初めてじゃないことに青島は気が付いた。
出会った頃から、期待させては落としてくる。
こちらの厚情を切り裂くのに躊躇いがない。
所轄やノンキャリなど末端組織に理解を示してくれるのかと匂わせて、掌返しで高圧的な物言いをされ、切り捨てられてきた。
この間だってそうだ。いきなりあんなことしてきて。
「あーあー忘れてましたよ、あんたってそーゆー男でしたよね、いっつもそう・・!」
「いつも?」
「気紛れに誘ってきちゃー、俺の気持ちなんておかまいなし。どうせ大方他に味方がいなくて俺に縋ってきたんでしょっ」
「安い誘いだと思われたわけか」
拳をぎゅっと握って青島が夜に吠えると、合わせて髪が夜光に光った。
怒りを表しているかのような変化に、室井の目が僅か眇められる。
「分かるはずないでしょ・・っ、この前だって!今だって!俺楽しかったのにっ」
「鯛の刺身を一人で食べ尽くしたくらいだからな」
今そこ・・っ!?
ロマンティックに酔った気分さえ台無しにされた苛立ちも合わさり、青島の顔面がわなわなと崩れた。
「おっ、俺、食べてイイ?ってちゃんと確認したじゃんっ、お詫びに俺の茶碗蒸しあげたじゃんっ」
「それでチャラになると思うな」
「食事は吸い物からなんて形式ばってっから喰いっぱぐれんですよっ」
「漬物まで二人分平らげたのも見ていた」
「お新香なんてどーでもいいでしょーっ?!」
「添え物にもちゃんと意味はある」
「だ、大体何でそれ今っ、・・しょ、食事時まできっちりかっちりしやがってっっ」
「食い意地が張っているのをこちらのせいにするな。君のやり方はいつも意表を突く」
「腹減ってたの!」
「礼儀作法は大人の品格だ」
「ってか、そこじゃなくってっっ!」
そして、ふたりで金目鯛の煮つけをお替りしたのだ。
夏だけど、秋田の地酒だという銘酒を教えてもらって。熱燗がいいっていうから――
「‥・なんで・・っ」
室井の達観した顔と制止した空間が、染め上げながら胸を締め付ける澱みに息詰まり、救う手立ても分からず
青島の中で目の前の男に縋りついて、泣き出したい気分を作り出した。
楽しかった時間が哀愁の色に変わる。
同じものが見えて、同じ世界でシンクロできるのに、もう叶わなくなる。
変わらないのに、重ならない遠い男の大人の成熟さを今も見せつけられているようで、何かがたまらなくなる。
「・・ッんでっ!・・ぁ、あんなこと、したんですかっ」
小刻みに震える口唇が浅く息を吸い上げた途端、どこか子供のような言葉が青島の口から溢れ出た。
キャリアである室井とは異なり、そんなにメンタル出来上がってない。
肉体さえ、あまり緻密に鍛え上げた身体ではない青島の華奢にすら見えるスレンダーな姿態が夜の帳に隠れるように揺らめき、戦慄いた。
そんな青島の動揺とも衝動とも取れない嘆きを、室井が静かに見治める。
あんな、一瞬の風が撫でるような、柔らかい口付けが髪に落とされなければ、青島が自分の気持ちと向き合う必要もなかったし
こうして未来を直視することもなかった。
こんな決断をすることもなかった。
ギリギリだった均衡が、崩れて腐って、ああもう俺、結構限界だったんだ――
破裂しそうな恋に、今更ながらに抑え込もうとしたって、積年の重みはそうカンタンじゃない。
下らない遊びだと分かりつつ、まだ好きな夢見ていられたのに。
あんな風に、楽しく過ごしていけたのに。
憤る感情をひたすら飲み下し、青島がうねる前髪の奥から煌めく瞳で室井をねめつけた。
「君は、きっと、逃げないと思った」
「ッ」
喚きたい衝動に支配されたまま、口唇を真一文字に引き結び、青島は最後の力で睨みつけた。
その胸に埋もれさせたものが、身の裡で震撼している。
「分かってんの!?あんた、自分がどうなるかとか!こんなことして・・!俺にどうしろってんの・・!俺に何させたいの・・!」
「・・・」
「なんで黙って・・っ、いっつも置いてっ・・くせに・・っ、なんで今になって・・・っ」
室井は黙って聞いていた。
荒くれる激情も、こうして室井の瞳を見つめていると、彼の波長と同化していくのを感じる。
「・・くそ・・・っ」
口元に拳を充て悪態を吐いた青島の目元が朱に染まる。
青島を上手にコントロールする男に、盛大な敗北感を覚えたのは、今に限ったことではない。
出会った頃から、言葉を挟まない時間と空間は室井と青島の何より絶大で確実な意思疎通ツールであった。
愚かにも、今もまたたった一言、波乱の兆しを見せた青島の感情と見つめ合う沈黙は、室井によってゆるりと制圧されていく。
夜に溶け込むように数メートルの距離を保ち見つめる視線が、最早すべてを暴き、蹂躙していた。
青島の瞳に夜が溶け込むと、室井の漆黒が、深い危険な原罪を芳す色に変化する。
時を見計らったように、室井が口を薄っすらと開いた。
「ようやく、言ったな」
「・・・・不可抗力ですよ」
ぷいっと青島が他所を向く。
風に溶けるようにただ一言落とした室井は、青島の挑発的な眼光さえ愛おしそうに、何を気負うでもなくただ静かに揺るぎなくそこにいた。
逃げないと思われた、つまりそれは、青島の気持ちを見透かした行為だったということだった。
確かに反論も存在していないんだろうことは、青島の戦意すら奪った。
鮮やかな激昂を浮かべた青島の変化とは対照的に、玲瓏で抑制的だ。
少し歳を重ねた室井は、組織の革新を求め足掻く奮戦する英傑のまま、その経験から何をも耐え、受け止められる器を兼ね備える、かつての青島が思い描いた理想の有力者の片鱗を持っていた。
だからこそ、敗北感が青島の甘えたな気分を加速する。
「君こそ隙を見せるのも問題だ。あれで、調子が狂う」
「・・・隙、ありました・・?」
「今も、だ」
自覚があるのかないのか、曖昧な目測で誤魔化し、青島が困り果てたようにようやく小さな微笑を口端に滲ませた。
夜の清澄さのままに静かな気配が夜に、青島に、染み込んでいく。
「バレバレだ」
「・・わっかんねーよ・・・」
「君が真っすぐ見てくる。見たこともない笑みを見せる。俺だけを慕い、俺だけにそうやって感情を見せる。無防備に信じて私を選んでくれたとなれば、独り占めもしたくなる」
「あんたが俺を信じるからっしょ」
「一体おまえこそ、私なんかの何がいいんだろうな・・」
「・・・・」
「こんな偏屈で、気の利いたことひとつもかけてやれない」
「今から寝返りしますんで」
「君を理解できるのも分かってやれるのも、他の人間では手を焼く」
「っ」
「君をコントロールできるのは、俺だけだ」
「・・しょ、しょうがないでしょ。最初に会ったのがあんただったんだから。インプリティングですよ」
「そりゃ偶然に感謝しないとな」
黒鞄を足元に置き、スラックスのポケットに両手を入れ、いささか砕けた様子で室井が視線を外した。
背筋を伸ばし正立した姿しか知らないからこそ、その気取らない姿に、本音と親密さがある。
自分だけに見せるその素の姿に、確かに、苛立ちと悔しさが綯交ぜとなった。
「もう何年になるんだったか」
「腐れ縁もここまでくるとうっとおしいですね」
「ずっと、分からなかった。答えの出せないものが身体の奥にあって、苦しいんだが手放したくもない」
「・・・・」
「逢ったところで、理解できるものでもなかった。――君が、隙を見せるまでは」
「・・いつ・・」
梅雨の晴れ間に相応しい、むわっとした湿度の空気が肌を撫で上げる度、汗ばんだ肌が涼を求め
着崩れた青島のシャツを纏わりつかせ、不快なのが気温なのか今の室井なのかを曖昧にする。
そのくらい、自分にとって室井が雲の上の存在だった。
「お、俺?・・・・俺のせい・・?」
「要らぬことに気付かせやがって。いつもそうだ」
青島の言葉尻を真似、この歪んだ関係の暴露の起因がこちらにあるような口ぶりに、思わず青島が狼狽える。
今更思い返してみたところで、ふたりで食事した幾つかの夜に、自分が具体的に何をしたかなんて思い出せるものでもなかった。
青島にとってはやはり、酒のせいもあり、少し饒舌となっていつもよりたくさん喋り、酷く幸せな時間を過ごした程度の感覚でしかない。
「君は少し無防備すぎる。勘違いさせたくないのなら、もう少し行動は考えた方がいい。周りが迷惑だ」
「あっ、あんただって人のこと言えないじゃんか・・っ」
少し顎を反らし、室井が眉間を深める。
思う所はないとは言わせない青島の責める視線に、その視線が天に向かった。
これはやっぱりロマンスなのだろうか。こんな夜に、中年の男二人で恋を患っている。
青島にとってはサスペンスに近い奇妙で数奇な光景は、けれども恋に悩み迷い苦しむ感覚は、平等に与えられた特権のようなものだ。
キャリアの鎧を脱いだ室井は、確かに青島の知っている室井ではなかったが、知ったところで不快なものではないことも、青島を絶望させていた。
「いきなりしたことは、謝らせてくれないか」
「男の屁理屈ですよね」
軽く口唇を尖らせた青島に、室井が視線を戻し、漆黒の瞳でじっと見つめ返してくる。
暴かれた思いを隠すことも奪われた青島は、ぼんやりと室井をその瞳に映した。
無防備なその姿に、室井がふと諦めたような困惑したような、複雑な顔を覗かせた。
不意に、それが微かに名の付かぬ悪寒を青島の背筋を走らせる。
室井が一歩だけ、近づいた。
ざわりと青島の肌が泡立つ。
その漆黒の宝石が真剣な色に宿したものを、夜に隠し切れなくなっていることに、今青島が気付く。
「青島、そろそろ口説かせてもらってもいいか」
「っ、・・ゃ、・・あの・・っ」
室井の顔はいつのまにか獲物を捕獲する雄の顔に変わっていて、鋭い眼光に灯る焔が青島の足を竦ませ、言葉を奪う。
「待って・・、その、俺」
「ただひとつ、この十年、変わらなかったことがある」
また一歩。音もたてずに室井の端正な足が青島へと距離を滅する。
声色が変わり、艶のある低い声が、荘厳に這う。
「待てって・・」
「今も昔も、私の中は君で埋まっている」
一歩ごとに躰の裡まで踏み込まれる。
この男はこんなに威圧的だっただろうか。こんなに人を凌駕する器を備えていただろうか。
無意識に青島の拳がスラックスを握った。
「それを君に知ってほしかった」
「・・やめろ・・」
「でも、気付いてしまったら、心は揺らぐものだな。・・・それだけでは足りなくなってくる」
誠実な告白は室井そのもので、何の偽りもないことを青島に知らしめた。
それが悔しさなのかもどかしさなのか、もう良く分からない。
息詰まる距離の中で、僅か気温が下がり始めた夜気がまた一つ熱を孕ませる。
「・・っ・・」
動きも視線も、言葉まで奪われた青島の紅い口唇が濡れたまま半開きの状態で、行く手を失った。
俺は言い出せなかったのに、何故このひとはこうも堂々と言えるんだろう。
こうも恥ずかしげもなく、優雅に、堂々と、億尾もなく口に出来るのだろう。
懺悔するのは、紛れもなく愛の白状だ。
こんなにも真っすぐ言われて、思われて、青島の心が震え、鷲掴みにされる。
「言わせてくれ」
七夕の、藍の風景を背負って、室井が銀色に縁どられた娟秀な肢体を、傲慢な意志のまま引け目に感じることもなく優美な声を持って
今青島のすぐ目の前に立った。
「青島」
ゆるりと、青島が首を横に振った。
こっちの下心が溶けだしそうで、暴かれてしまいそうで、危険を感じた青島の足が一歩下がる。
庭園に誰もいない静かに、気付かぬ強さで流れていた音楽もいつしか絶え、風音だけが聞こえていた。
「・・ぁ・・、俺、応えなきゃだめなんですかね?」
こうなっても青島が最後に頼れるのはやはり室井の矜持を護りたいという事実で、青島のなけなしプライドすら粉々にしてしまう。
自分の発言に気恥しくなり、青島が視線を落とし、わしゃっと髪に指を差し込んだ。
「いいのか、と聞くほど野暮でもない。ただ、このまま曖昧な関係に委ねることは、しない方がいいんだろうな」
「曖昧の美学って言葉もありますよ」
「だとして、こちらも心はとうに決まっているんだと思う。今の君のように」
どうしようもないな、と低く呟いた室井は、さほど困った風でもなく、受け入れてしまったように、大人びた顔で瞼を伏せた。
浅く吐き出される息が、青島に重く圧し掛かる。
思った通りだった。
室井はこの茶番に未練なんか元より、断ち切っても厭わない冷酷さを秘めている。
きっと、青島が何を言っても室井の中では答えは出てしまっていて、それは他人によって今更他の色に変えられる類のものではない。
気付かせてしまった熱が、室井を本気にさせ、必要のない覚悟までを発動させた。
悟り、諦めて受け入れてしまった中年男の姿は、異常なほど色香を持ち、成熟した男の器量を醸し出していた。
やっぱり、敵わない。
器が違う。
何もかもが、格上で、届かない。
顔を上げた青島の瞳が何かを訴えるように一瞬仄かに熱った。
だがすぐに、それは意志の力で消滅する。
「少しは、君の中の決意を崩せたか?」
「困ってますよ」
「だろうな」
半ば、やけになって青島は正直に吐き出した。
その子供みたいな答えに、室井が浅く苦笑を滲ませる。
幾度目なんだろうか。この男の人生をまた狂わせてしまったような気がして、青島は奥歯を強く咬んだ。
言われずとも青島の気持ちもまた、最初っから室井に始まり、室井で埋まってる。
室井が何故青島を選ぼうとするのかは分からなかったが、選んでくれようとしているのは分かった。
そのことが、どれだけそれを嬉しいと思っているかなんて、目の前の本人こそが、きっと知らない。
だからこそ、答えられない性がある。
「そんな顔を、している」
「・・・っ」
「要望がないのなら、こちらから指定するぞ。・・返事は、そうだな、ゆっくりでいい。焦らせるつもりはないから、いつか、出してくれ」
「困るよ。そうやって引き延ばされている間、俺はまた、ずっとあんたのこと考えなきゃならない」
また室井が小さく笑う。
全てが計算の上で、その掌で室井の思うように操られている感覚だった。
「もし――俺が、こ、断ったら?」
「君はそうするんじゃないかと思っている。ただ、それが君の本意かどうかは・・・測りかねるな」
「なんでも分かってる――って口ぶりですね」
「期待するのは、もう愚かじゃないんだろう」
なんでそう思ったのかとか、そう思わせたのはきっと自分なんだろうと思う。
迂闊だったと後悔してもやはり時は既に遅かった。
甘やかな情動に焦らされた心は、戦慄きを訴え、震えていた。
雁字搦めとしている手綱を解いたら、自分が何をしでかすか、分からない。
悔しさと勝ち気な性格が、青島の最後の足掻きを僅かに繋いでいるだけで、もう持たない。
やっぱりだめだ俺、全然だめだ。
室井は分かって欲しかったと潔く言い放ったが、それでも青島は暴かれたくはなかった。
出来ればそっとひそやかに秘めやかに、消えゆくまで閉ざしておいてほしかった。
思い返すのは、一年に一度でいい。
「どれだけ離れていたと思っている。君だって、離れたところで変わらないものがあったんじゃないか」
「だったら別に、いいじゃんか・・このままで」
「もう、嫌だ」
「放っておいたくせに何今更都合の良いこと・・、勝手だ・・」
「ああ。何の連絡もしなかった。何の便りもなかった。一度だって声を聞いていない。なのに今、君はここにいる。何故だか考えたことあるか?」
「・・知るかっ」
青島が投げやりに顔を背けた。
反動で乱れた髪が頬に掛かり、その妖冶な輪郭を象る様に、その不意に崩れる、その隙に、室井は表情を硬くしたまま威圧的ににじり寄った。
ハッと青島が顔を上げた時にはもう、室井に詰められていた。
「な、なん・・・っ」
室井が無言のまま手を伸ばす。
格式高い面差しと麗容は今まで見た中で一番青島を穿ち、その黒い影に飲まれそうで、青島の怯えた足が僅か後退る。
身長は然程変わりはないのに、酷く室井が強直な男に見える。
伸びてきた室井の手が青島の手首を掴み取った。振り払おうとしたそれを力でねじ伏せられた。
「は、離してください、よ・・っ」
「青島」
びくりとした手首を知られたくなくて、憎まれ口が飛び出た。だがそれも制圧される。
射抜かれた心が軋み、室井の指先から感じる室井の熱が、妙に熱く感じる。
たかが指先だけなのに、それは青島の鼓動を逸らせた。
「はな、せ」
「青島」
「もう構うなよ俺に・・っ」
「無理だ」
言い放った途端、室井がその手を強く引いて引き寄せる。
アッと小さく叫んだ言葉が漏れ、次の瞬間には青島は室井の腕の中に抱きすくめられていた。
室井の清潔ながらも精悍な腕が背中に回され、力を込めて拘束される。
一気に視界を覆う影と、噎せ返るような室井の熱。
覆い被さるような室井の身体に、青島の呼吸は止まった。
厚い胸板と、火照るような熱、そしてこの距離じゃないと分からない汗の匂いが青島の鼻腔を吐き、一瞬のうちに酩酊感すら起こした。
今、室井に抱き締められている。どれだけこうされたかったか、このくらい近づきたかったとか。
親密さを乗せる腕に、寄り添いたかった青島の本音が共鳴し、勘違いをさせられるまま、心が叫んでいた。
同じく、どれだけ強く室井が青島を求めているかはその腕の強さが語っていた。
「む・・ろぃ、さん・・っ」
「――青島」
掠れた男の吐息が丁度青島の首筋にそよぎ、身じろげばより一層の力で押さえ付けられた。
しっとり汗ばんだ青島の肌が夜気に触れ、銀色に熱り、妖しく艶めくままに押し付けられる室井の身体に震え、媚びる。
栗だった艶肌に汗が滴り、濡れたように芳しく薫った。
抵抗さえ忘れて抱かれるままに身体を預け仰け反る青島に、室井の理知な顔が傲慢に歪む。
小さく息を途切らせた青島の後頭部に片手を回し、消えゆくことを恐れるかのように、力加減を忘れた男の独善のまま室井は寸暇、感情を解放した。
息を殺し、想い人にきつく思いの丈を注ぎ込む。
縋るように抱きすくめる男の背中に手を回すことも出来ず、淫らな反応さえ想定外で、青島はくらりとした世界を閉じるように目を瞑った。
室井の硬めの短髪が頬を擽り、その額が青島の肩に押し付けられる。
「・・室ぃ・・っ、さ・・俺・・っ」
「もう少しだけ」
掠れた吐息で願われ、青島の目頭が熱くなる。
抵抗する気力から奪われた青島の強張った全身から力が抜けた。
薄っすらと瞼を開けた青島に、噎せ返るような夏の匂いと潮の匂い、そして満天の星空が包み込んだ。
イルミネーションが消され、黒々とした樹木が天へと上る。
そこには気が遠くなるほど煌めく夜空が果て無く広がり、ふたりだけが世界に取り残されたように錯覚させた。
重なり合った一つの影が、藍色の大気に融合する。
街灯だけとなった白々とした公園は、まるで宇宙にいるようだった。
室井の殺した息遣いと、呼吸を止めるような力強い腕と、重なり合う熱だけがリアルに染み込む。
こんなにあからさまな情熱を知ってしまって、そこを綺麗ごとで済ますほど、自分は初心じゃない。
青島は途方に暮れるまま、室井の肩口に顔を埋め、すり寄るように髪を押し付けた。
散り散りになっていく星屑のように、心もまた砕けて流れてしまえばいい。
一緒に生きたかった。一緒に戦いたかった。そして、一緒に喜びを分かち合い、成功を讃え合えるような、そんな相棒になりたかった。俺だって。
綺麗そうな指先に触れて、体温を直に感じて、室井に全身で満たされたら、どれほどの安堵と幸福を覚えるだろう。
きっとそれは、室井も同じなのだ。
どうして自分たちはこんな巡り合わせしか、なかったんだ。
自分が利用されているとわかっていても、この気持ちは抑えきれず、この先もきっと抱き続ける。
恋は残るのだとすみれは言った。
だとしたら、報われない熱は永遠に行き先を失ったまま、欠片が突き刺さったままもう二度と満たされ重なることはないのだ。
やっぱり好きだった。誰より好きだった。このひとに会えてよかったけど、このひとに会わなければこんな苦しみは知らなかった。
自分が思っていた以上に、恋してたみたいだ。
傍にいるだけで沸き立った細胞が渇望していた。足りない何かを知って咆哮していた。
終わらせたくない。傍に居たい。誰にも渡したくない。
心が泣き喚いていた。
恋とはこんなしんどいものだっただろうか。
辛く、苦い感情が青島の中に湧き上がる。
悲しみが妬みが喉の奥から青島を熱く焦がし、引き裂かれそうな胸が酸素すら放棄し、青島を喘がせる。
「俺、ね、・・っ、・・応えたくない・・っ」
「・・・・」
「いろいろ考えたけどね・・無理でした・・・」
「――・・、」
ゆっくりと室井が身体の力を抜く。
顔を上げれば鼻先が触れるほどの所に室井の顔があって、その空と同じ漆黒の宇宙みたいな瞳に吸い込まれそうだった。
それは室井も同じで、天を映す青島の艶めいた瞳に恍惚と魅入られる。
出来ることなら何事もなかった風に装って、偽りの友情劇を続けていきたかった。
それをもう求めない室井が強請る言葉は、青島にとっては弾劾に近い。
噛み合わなくなったのはいつからだったのか。それすら曖昧で、何か心の大事な部分がフィルターがかかったように雲掛かっている。
「ごめん・・っ、」
随分と形は違うが、この焼き切れそうな限界まで熱が達した極限の邂逅こそ、青島もまた求めていたものであり
最初に何かが違うと思った答えなのだと思い至った。
室井が暴こうとしたものが、ようやく青島にも理解できる。
これが、俺たちが望んだ結末だ。
忘れられない。忘れたくない。そのシンプルな願いがただ一つの答えを導いている。
あの台場の街から始まった縁がここで集大成となる。地味だが上出来だと思った。
「おまえはそれでいいのか」
「知りませんでした?俺、すみれさんのこと、すっごく大事なんですよ」
吐息交じりとなった声で、青島は必死に喉を動かした。
身体が裂ける思いで吐いた最初で最後のこのひとへの嘘は、七夕の夜空に、消えた。
いつだったか、小さく想った夜がある。“室井さんも俺のこと、すきになってくれればいいのに”
ちゃんと、好かれてた。
苦しかった。そのくらい、俺だって独り占めしてみたかった。
辛い。もう厭だ。こんな息苦しいのなんて。灼き切れて、潰れてしまうみたいに、胸を圧迫する想いは七夕の夜に召されていく。
きつく拘束していた室井の長い指先が離れ、青島の髪を掻きまぜ、両頬を慈しむようにそっと包み込んでくる。
室井の細長い指先が青島の輪郭を包むように添えられ、顔を固定された。
もどかしい愛情を注ぎ込む指先に、真剣で強い眼差しに、泣き出しそうな感情を堪え、青島もまたなすがまま、室井の瞳の奥まで分けるように見つめ返した。
「――・・・」
何を告げようとしたのか、薄い室井の口唇は開かない。
青島の頬を撫ぜるように触れ、熱く殺した息を吐き、その深い眉間を刻む。
満天の星空とはいかないが、薄く夜の色と同化した雲が流れ、星が幾つも瞬いていた。
それを補うように、遠くまで都会のイルミネーションが黄金色の光を点灯させていく。
名残惜しむように青島の腕をそっと摩り、そして室井の力が抜ける。
だらりと雪崩落ちた手をそのまま、青島も項垂れた。距離は保ち、視線を合わさぬまま、二つの影が向き合ったまま止まる。
「最初で最後だ。一度、言わせてくれ」
「でも」
「いい。ちゃんと、言葉にしたい」
「・・・一度だけ、なら」
「ありがとう」
室井は青島をどうこうしたいわけではないのだろう。ただ、気持ちから逃げたくないだけなのだと感じた。
何を求めるでもなく、それだけで人は前へ進める。
「君が、好きだ」
睫毛が震えるように目を閉じ、青島は短いその言葉を深く深く噛み締める。
痛みと苦みが交じって、喉奥を熱くする。
「君を、好きになっていた・・・多分、ずっと、変わらない」
この先も、と付け足した室井の言葉が透き通った夜空に消えていく。
走馬灯のように駆け巡った数多の軌跡が、青島の脳裏から解き放たれ、目まぐるしく駆け回っていた。
焦れた夜空を焦がし、誰よりも近くにいた。
心を鳴らす、あの熱い時間を、もう一度共有して、もっと確かなものを知ってみたかった。
見つめているだけで、幸せだった。
触れ合えるだけで、夢を見れた。
あんな灼熱の時間は、なによりかけがえがない。
熱く交錯しあった時間が愛おしく、細胞まで満ち、七日の天へと昇華する。
終っていくんだ。
やっと言ってくれた音は、青島を、とても身体の深部まで震わせた。
「この気持ちは永遠に変わらないだろう。・・・ありがとう」
ゆっくりと瞼を上げれば、室井の宇宙のような瞳に吸い込まれた。
一度も通わせられなかった想い人が、そこにいた。
無重力の宙の中で、辿り着けず抱き合えず、触れ合えない定めに身を焦がす。
年一度の逢瀬を夢見て、夜を待つ。
至近距離で見つめ合うままに告げられた言葉は甘く、哀しみも喜びも綯交ぜとなった感情が色も付かず青島の瞳を潤した。
俺の気持ちもあんたで埋まってる。そこに名前は付けられなかったけど、それを、覚えててね。この時間を忘れないで。
忘れるな。それだけでいい。
風が一つ止んで、青島は乾いた口唇を戦慄かせた。
「また現場で。・・・もうそういうのはないんだろうけど」
「青島、護ろうとすれば辛いだけだぞ」
「・・・・」
「俺は、同じであるなら、ふたりで分かち合いたいと思っただけだ。一緒に生きてみたいと思っただけだ。それが出来るのも、君とだけだと思っている」
「10年後の俺が、身の程知らずって吠えてます」
人差し指を振り、お道化て返答する青島にも、室井は表情を変えなかった。
一度だけ青島だけの雄姿を目に焼き付け、去ろうと背を向けた青島に、室井の声が再び追い縋った。
「まだ君の気持ちを聞いていない」
「言わせる意味ないでしょ」
「命令してもか」
「あんたは恋に命令すんのか」
「・・・言え」
吸い込まれそうなほどに深く熟した瞳が室井を振り返る。
室井の理知的な顔はすっきりとした面持ちに変わり、官僚的で驕傲ですらある光輝あるものになっていた。
それは青島が見知った中で一番惚れ込んだ顔であり、悔しいが、格好いい。
ずるい。そして、敵わない。
こんな存在が手を延ばせば届く距離にいるなんて、運命ってなんて意地が悪い。
同じ痛みと情熱を抱きながら、違う答えに辿りつくには、一体どれだけの時間と経験が必要とするのだろう。
「こんな夜だ。言うだけならタダだろう」
「金かよ」
ポケットに雑に手を入れ、肩越しに振り返ったまま、青島もまた、恨みを込めた瞳を反らすことはもうしなかった。
見透かされた強がりも意地も、見治めて欲しい。
室井の背後の宙をその濃い飴色の瞳が映し出し、夜の色をして煌めきを灯し、台場の街を通り過ぎる。
揺れ動く瞳は数多の星空のようで、青島に煌めきを宿した。
想いなど、散り散りになっていく星屑のように砕けて流れてしまえばいい。
思い返すのは一年に一度でいいことだ。
紺色の大気を吸いこむ青島の瞳から、室井も滑り込むように視線を反らさない。
「・・・・・すきだよ」
年一度、七夕の夜にだけ想いが通う。
「たぶん、世界でいちばん。あんたが思うよりずっと」
一度だけ、言ってはならぬ言葉を口に乗せた。
今夜だけは青島の願いも叶えてくれるだろう。
それは夜の風に溶けて、海の上まで飛んだ。
何も成し得ない想いに申し訳ない気持ちと、それでも抱けた熱に感謝する。
一度くらい、思い出が欲しかったなぁ。
でもいい。言えない言葉が言えたのだ。聞けない言葉が聞けたのだ。
たくさんの夢を分け与えて貰えた。それらはまた恋の残骸と共に残る。
室井に奪われた時間は長くて、消せないけど。
もしも俺の存在があんたを引き摺らせるのなら、この先は、忘れてくれていい。
そんな身勝手な願いを抱くほどに、彼を愛してる。
消えることのない想いを俺は越えて生きていく。だからあんたも先へ進め。
闇を纏う深い色をした室井の漆黒の瞳は、海を映し、静かに青島を受け止めていた。
また誰かをこんな風に愛せる日が俺にも来るんだろうか。
こんなにまで人を愛せることが、また出来るだろうか。
今ならすみれの痛みも分かち合えそうな気がした。
舐めないでとむくれるすみれの顔が海のさざ波になる。
満天のイルミネーションの東京湾に、警告灯を照らす赤いライトがまるで流れ星のように天をなぞった。
誰にも知られることのない決意がひとつ流れて儚く消えていくのを知った。
「また、現場で」
もう一度同じ言葉を残し、青島は背を向けた。
もう振り返らなかった。
