恋
煩い 4
7.
同日夕方、青島は世界の破滅にいるような顔で唸っていた。
引き締まったスラリとした長い足が投げ出されるように組まれ、椅子の背もたれに全体重を沈み込ませる。
紅に染まり始めた虚空を映す横顔はアンニュイなまま、意志を照らす瞳は何も映し出してはいなかった。
だらしなくまくり上げられたシャツ、無造作に掻き揚げ乱れた髪が爛熟した男の艶めかしさを持ち、散在する報告書が彼の惨状を警告する。
また一つ、重たい吐息が青島の肉厚の口唇から細長く洩れ落ちた。
――考えるのは室井のことばかりだ。
自分でも嫌になるほど、再会してから彼の占める割合は大きい。
会っていなかった頃は一か月や二か月、それこそ年単位を以って平気で忘れていたのに、どうして今になってこんなに思い出させるのだろう。
大体何年会わなかったと思っているのだ。
何年置いていかれた相手だと思っているのか。
室井が何を考えているのか分からなかった。なのに、もう、知っているのだと思う。
考えたこともなかったその答えを、遠い未来でもなく現実の決断として迫られた時、一体自分はどうしたいのだろう。
そして、どうするのだろう。
一人で抱えている間は夢と期待と未来だけで済んだ。
邂逅することで化学反応を起こすように、あの切望、あの渇望、そして焦燥と震撼する鼓動がリアルに蘇る。
その流れの赴くままに享受することで、明日がどう変化するのかまるで読めなかった。
何かが変わるんだろうか。
それとも壊れて、全部が消えるのだろうか。
悶々としたオーラは陰気な影を澱ませ、いっそこのまま怨念に変化しそうな気配に呑み込まれるままに、青島は強張った額に拳を押し付けた。
今夜、室井と会う約束をした。
のこのこと会いに行く約束を取り付ける自分の未練に心底嫌気が差す。
きっとこれが、所謂ラストチャンスだ。
これで、全てが、決まる。
「・・おかえり」
「眉間のシワ、ひどいよ」
「でしょうね」
「なによ、朝、室井さんに会えなかった?」
「言わないでって言ったじゃない」
「そこはほら、お約束っていうの?でも仲良しなんだからいいでしょ」
だから困るんじゃないかと心の中で発奮するが、青島は口を噤む。
外から帰ってきたすみれが世間話がてら気を遣ってくるのは、分かっていた。
長い付き合いとなったこの関係は、率いる立場となった今となっては、唯一心を打ち明けられる相手となった。
有り難いとも思っているし、大事にしたいものの一つだ。
でも駆け出しのころから知り合っているだけに、お互い遠慮も疑問もなく
そのせいか、ついつい委ね甘えてしまう部分がある。
その名前も、よく考えれば知らないものだった。
「すみれさん」
「ん?」
「朝の話だけど」
「うん」
「連絡取れたんで。――決着付けるよ」
「そっか」
多くを語らず、すみれが相槌を打つ。その小さな気遣いが逆に強く青島の心の襞を煽って、本当にその時が来たのだと青島に実感させた。
口に出してしまった自分の声が重苦しく脳裏に波紋し、青島の瞳が揺らぐ。
「覚悟を決めたか」
すみれが隣に座って窓の外に目を向ける。
心まで寄り添ってくれているような仕草に、胸が痛い。
朝降っていた雨は止み、夕焼けが紅く差す室内は閑散としたままオレンジに濁っていた。
それがすみれの肌まで仄かに色付かせる。
「ちがうんだ」
「うん?」
「すみれさん・・・俺、だめだ。別れるよ、付き合ってもいないし、今がベストなんだ」
「どうして?」
「迷惑がかかる。釣り合わない。言い訳をあげればきりがないよ」
「告白されたんだ?」
「・・・・」
沈黙が肯定の返事となり、すみれが軽く俯いた。
そのせいで流れるストレートの黒髪が、まるで肯定のように青島には見える。
唸るように懺悔する青島の言葉に静かに耳を傾けてくれる女に、染み入るものはしょっぱい。
男の一番の理解者は別れた昔の女って言ったのは誰だったっけ。
尤もすみれさんは俺のオンナじゃないんだけど。
「逃げてちゃだめだった。相手にも失礼だ」
「そうね」
やるなら正々堂々とだ。
それが出来るのも室井とだけだった。忘れていた。
だからそれを求めたいし、室井なら応えてくれると信じている。
きっと、放っておくにおけなくて、なのに俺がいっつもあのひとを頼るから、面倒を見てくれていたんだろうと思う。
強面だし、当たりはきついけど、芯は優しいひとだから。
そういう親心のような憐みや気配りと同憂が、いつしかあのひとに大きな勘違いをさせていった。
近づくほど交錯して過敏なまでの化学反応を起こす視線は、お互い要らぬものまで解釈させてしまう。
離れて薄れるものであるならそれに越したことはないし
離れても変わらぬものならば、他人同士のままでいい。
継続性を願う上で、必要なものはきっと、ごく僅かだ。
「そんな深刻なことかな?一緒にいて楽しい、一緒にいて倖せ、それは青島くんにとって意味のないことなの?」
「それで良かったうちはね」
「強がってたら、大事なものも失くすのよ」
「いいんだよ」
だから失くさないように戦いたいし、大事にしたい。
室井に、俺が護ってやると言われるのも、何かが違った。俺たちのこれまでを馬鹿にしている気がした。
実現不可能な願いを掲げているようで、取り留めない思考は青島を弄ぶ。
自嘲するように青島の瞼が重たく落とされ影が作られた。
「オトナになっちゃって」
「揶揄うなよ、これでもいっぱいいっぱいなんだ」
「へぇ」
「やっぱりオトコなんだよ俺も。一緒に溺れるわけにはいかない」
「でもきっと、向こうは一緒に溺れてくれることを願ってる」
「・・・・」
「それも図星か」
こんな署内でする自分の発言にバツが悪くなったままに、青島が不貞腐れた表情でそっぽを向いた。
そこに苦笑を残し、気安さを繕うように、すみれが背を向けデスクに寄りかかる態勢で寛いでみせる。
身を縮めて寒さを凌ぐ野生動物のように気を張っていたことに、すみれの視界から外れた世界で改めて気付かされた。
同じく椅子を回転させて背を合わせ、気負いすぎていた力を少し抜いた。
どうして室井に関しては、いつだってこう強がり対抗意識を向けてしまうんだろう。
それはいっそ背伸びしたがる子供と同じだ。
「怖いんだ。俺が変えてしまうことが。どこまで変えちゃうのか」
「そんなの承知の上じゃないと、青島くんとは付き合えないよね」
「必死になって追いつこうって頑張ってる間はそれで良かったけど、そうやって俺が関わることで違うとこまで変えちゃうのはヤだ」
「人間関係なんてみんなそういうものでしょ。そこは自己責任でいいんじゃない?」
「その変化が相手にとっても周りにとっても良くないものだったら?」
「コワイ、ね」
「うん。自分が相手にとってどれだけの奴になれるかなんて、自信ない」
「・・・」
「どうして――どうしてさ、こんな俺を見てくれんのかなぁ・・・どうして俺だったんだろう。どんどん中へ入り込まれて、俺が俺じゃなくなる」
俺はあのひとを知りたかった。
初めは沖天の勢いだった。
でも今は、俺を置き去りにして、時が流れていく。
失くしたものを数えることも、超えることもできなくて、手放されたら途方に暮れる。
無秩序で、無知な、俺は子供のままだ。
あの頃の煌めきが大事になりすぎて、ここから身動きが取れなくなってしまった。それは一体誰のせいなんだなんて、考えたくもない。
いきなり奪われるなんて、運命ってあんまりだ。だけど、人生はいつだって身勝手で冷酷だ。
「弱気すぎない?青島くんらしくなくない?先のことなんて分からないじゃない」
「俺らしいって何?」
「駄目元でも欲しいものは手に入れに行こうよ、諦めるなんて後ろ向きよ」
「だってもし相手の人生壊したら・・!」
「そんな大層な口実作ったって、恋なんて奪うか捨てるかの二択じゃないの」
「じゃあどうしろって!?口説き落として、その後は・・!?破滅させて、後ろ指差されて?失点付けさせるって分かってたのに落ちたそっちが悪いって言うのかよ?んなの無責任すぎだ
よ・・」
叫ぶように、少し乱暴な口調で早口にまくし立てた青島に、すみれが押し黙る。
その沈黙に、青島の方が傷ついた顔をした。
「――ごめん」
「いいよ。なんか、分かるから・・」
すみれに当たったって仕方がない。
頼りなく指の隙間から零れ落ちていくものは、水の如く受け止める器がなければ大地に吸い取られる宿命で
それは他愛のない同僚との関係性についても言えることだ。
ふとした油断から失ってしまう。
いつもいつも、大切なものから消えていく。護れるうちが、傲慢で儚い幸せを甘受できる。
忙しくしている間は忘れていられても、こうして時折ふとした弾みに、灼け付いたような拘泥が青島を侵食し
それは甘く重い痛みを疼かせて、忘れ得ぬものを青島に苛めた。
「今夜、決着付けてくる。もう、終わりにした方がいい」
いつまでも縋るわけにはいかない。
彼はやがて枢要な地位に推される人材なのだ。
「大事にされて、その人も幸せね」
「幸せにしてやれるのは、俺じゃない」
「自分がどれだけ大事にされたかなんて、相手には届かないんだね」
「それで、いい」
すみれがくるんと振り向いて、高らかな声色を弾ませた。
拍子に細髪がたなびき遊ぶ。
「ね、今夜何の日か、気付いてる?」
「?」
「願い事、したら叶うのかな~」
「願いごと・・・」
肩越しに振り返ったすみれの黒目がちの瞳に、似ても似つかぬ室井を見る。
俺が、願うこと、なんて。
すみれの些細な提案に、青島の粋がっていただけの強がりが見透かされ、破裂しそうに煌めきを宿した。
心の奥底で、今願う心が叫んでいた。
一度でいい、もう一度、傍にいたかった。
俺たちはまだ何も始まっていない。なのにこんな中途半端で閉ざされる。
熱く絡み合った、かつての衝動のように、きつく強く引き寄せ合う心が片割れを探して存在を確かめたがり、咆哮する。
自分だけのものにしたいなんて、言わない。
でもやっぱり、失くしたくない。遠くで見つめるだけでもいいから終わりになんてできない。できてない。
できるなら、一度くらい、自分だけを映してもらって、その確かな実体と熱の感触を知らしめてやりたかった。
こんなにいっぱいにさせやがって、全部を持っていきやがって。
それは、恨みのような諦観を含み、青島の中で蜜やかに溶け、堕ちる。
室井には何ひとつ、その肝心なことは伝えてない気がした。
「竹はね、冬の寒さにも負けず、真っ直ぐ育つ生命力が備わっていることから、昔から神聖な力が宿ってるって言われているんですって」
「ふ・・・ぅん」
聞きながら、どこか室井みたいだと思った。
昔の人は天に何を願っただろう。室井は何を願うだろう。
星の数ほど届けられた願いが、恋が、満天の星となって天の川になり、時を超えて今の俺たちの上で流れゆく。
「恋を取られたって、人の価値は落ちたりしないわ」
「でも、俺からこの存在を取ったら、もう何も残らない」
「じゃあさ、あたしが刑事じゃなくなってもいいっていう?」
「言うよ」
泣きそうな顔に変わる青島の変化をじっと傍で見つめていたすみれは、共感するままに痛みをその面持ちに映し、顔を近づけた。
両手で青島の頬を掴み、俯く顔を持ち上げる。
上を向けと暗に言われている気がした。
「恋は、残るのよきっと」
願い事をかけば、叶えてもらえる。
叶えてくれる相手は、もう遠い。
「半分だけ。それが自分の一部となって、これからの青島くんになっていくの。良くも悪くもね」
「経験談?」
「そうよ」
「それ、つらくね?」
妖しく微笑んだすみれからは、とてもいい匂いがした。
青島の琥珀色を射す瞳が憂いに彩られ、すみれが魅入るように額を押し付けてくる。
「今の青島くんなら、あたし、好きだよ」
「すぐそうやって俺をおちょくるんだから」
「そんなカオ、似合わない」
すみれの手を外し、握り返しながら青島も淡い色の瞳を瞬かせる。
「慰めてくれてんの?」
「青島くんはさ、もう少し自分の魅力に自覚を持った方がいいわね」
「調子に乗るなっていつも言うくせに」
「それは別問題」
「人のこと言えないでしょ」
反らさぬすみれの瞳は、同じく歳を重ねた女の強さと脆さを備えて青島を淡く取り巻いた。
過去は違っても、何処か手酷い痛みを保有している同胞が、穏やかに落ち着きを与えてくれるものは、貴く気高い。
人から受ける痛みは、大人になるほど誰もが抱える片道切符のようなものなのかもしれない。
「男の慰め方、違うと思うけど」
「ふぅん?」
「男って、すみれさんが気にするようなこと、気にしないよ。それよりもっと気にするとこあるしね」
「ほぉ、言ってみて?」
「胸の触感。尻の高さ。それと、どんだけ今自分でいっぱいか。男なんてその程度の見栄で生きてるもん」
「つまり、嫉妬ってこと」
「そ。それだけ」
「青島くんはそんな単純なのに、その単細胞をここまで悩ませるなんてあたしも嫉妬するわ」
「ぁ、ベッドでも相性も大事」
「悪かったの?」
「寝てないよっ!」
「あら、意外」
すみれがいてくれて、良かったと思った。
一緒なら前へ進める。怖くない。あの頃のはじまりの気持ちが後押ししてくる。
進まなきゃ。室井のためにも。今はわくわくするキモチだけ感じていたい。
もう一度、同じ毎日がここで巡り、始まっていくために。
「今の青島くん、割とイイ男だと思うけど」
「じゃ、貰ってよ」
恋愛ごっこでも、満たされるものはあるのだ。
「大きくでたわね」
「俺んとこ来る?今なら先着一名様、空いておりますが」
