恋
煩い 3
5.
その日、青島は世界の破滅を見たような顔でデスクで唸っていた。
両手で頭を抱え、光を溜める瞳は陰を受け、俯く表情は硬く悶々としたオーラは陰気な影を縁どり、大気を澱ませる。
いっそこのまま怨念に捕り込まれそうな男を、刑事課を訪れる面々が遠巻きに眺め、噂していた。
「今度は何?」
「ってか前回は何だったの?」
「聞けるわけないじゃん」
「振られた、とか」
「係長にカノジョっていたの?」
「何ショック受けてんだよ」
「失恋とは限らなくね?」
「他にありますかね?」
「声かけた方がいいの?」
「誰か行けよ」
「正直めんどくさい?」
義理どころか人情もない部下の勝手な憶測話も、やっぱり青島の耳には届かない。
力尽きたようにデスクに額を押し付け、沈み込み、
悶々とした気配を放つ物体に、辺りは異様な警戒感が充満する。
「おはよう、どうしたの?」
「おはようございます。あれですよあれ」
篠原夏美がファイルを小脇に抱え、丁度出勤してきた恩田すみれに小さく肩を寄せた。
夏美の肩越しの、その向こうの陰気な物体が禍々しく妖気を放ち、デスクに沈んでいる。
あちゃあ、と肩を竦めたすみれに向かって、その反応を目敏く見つけた夏美が興味深げに顔を覗き込んだ。
「あ!すみれさん、もしかして、理由、聞いたんですか?」
「聞いたような、聞けなかったようなってところかしら?」
「それって――もしかして、恋愛絡み?」
夏美の悪戯気な瞳がくるくると弾む。
聞きたい聞きたいと、飛び跳ねる乙女心が透けているようだった。
無造作に束ねた髪が背後で心を表すように揺れている。
恋バナに浮き立つ女心を可愛いなと思いつつ、すみれには昔から遠い話だ。否、遠い話にしてしまったから、小さく痛む心に叱咤する。
くすりと微苦笑でかわすと、すみれはツカツカと輪の中心へ向かった。
あまり騒ぎ立てても青島が可哀そうである。
デスクに荷物を乗せ、青島の椅子を行儀悪くヒールの先で小突いた。
「景気悪いゾ」
「んん」
「おはよ」
「・・はよ」
ギィと椅子を鳴らして、青島が身を起こした。
何故か皆がこちらを向いているのを不思議に思ったのか、呑気に首を傾げる。
「もうそんな時間?」
「休憩室行かない?珈琲を奢らせてあげるわ」
「なんか日本語変だよ?」
「そんな眉間に皺寄せてちゃ、どっかの誰かさんみたいになっちゃうよ」
「・・・誰だろ」
「こわいお巡りさんにはなりたくないでしょ」
「出勤してすぐ休憩って、一番ダメなパターンじゃない?」
「それは一般企業のルールよ」
「・・・確かにね」
二人で席を立てば、遠巻きに輪となっていた人垣が、サアッと避けた。
不思議そうに首を傾げる青島の腕を引いて、ご丁寧に開けられた隙間を抜ける。
愛想を今更ながらに振りまく青島に、周りからはぎこちない笑みが返った。
「ね、みんな何してんのかな?」
「放っておけば」
「だってびっくりしたかおしてるよ」
「さあね、幽霊でもいたんじゃない」
「昼間から!?」
****
青島に奢らせたカップ式自販機のドリップコーヒーを二人で口に含む。
「飽きてても朝はホットね」
「最近朝はあったかいものじゃないと。歳かね」
「朝ごはん食べるようになっただけマシじゃない」
「体力持たなくて」
「あたし昔朝ごはんにかき氷食べたな~」
「朝ごはん??」
透明ガラスで仕切られた一畳ほどのそこは、音も幾分遮断され、奇妙に静かだった。
まだ引越しが完全に完了していない署内は雑然としていて、物が溢れている。
この休憩室など後回しにされているため段ボールが積み上げられ、ブルーシートがガムテープで張り付けられたままだ。
新築の独特の匂いが何かのはじまりをあからさまに訴えるが、変わらぬ面子が馴染みの空間を凌駕していた。
しんしんと降る雨音が、幾分気温も下がった室内を足元から冷やし、灰色の空気がどんよりをくすむ。
「しんじらんね~・・・」
楽しそうに笑みを乗せ伏せる青島の横顔を、すみれは目に焼き付けた。
他愛ない話は、昔から変わらぬ二人の関係を今も実感としてすみれに伝える。
彼がそこにいることで落ち着きを覚えるようになったのはいつからだったろう。
お互い目を見て話すわけじゃない。
背中合わせだったり、ながら話だったり。
だけどそこが楽で好き。そういうのがすごく、似合ってる。
「女の子って甘いもの好きって先入観あるよね」
「あたしにもある?」
「あるある。ソフトクリームとかどう?」
「食べに行きたいわ」
「ん、そこの信号曲がった角の公園にさ・・・」
「そう!アイスクリーム屋台!」
「見た?今どき売れるのって」
「思った思った」
食べ物の話はすみれの特権だが、愛想の良い青島が乗ってくることは計算済みだ。
そのせいか少し表情も柔らかくなったように見えた。
でも、目の下に少しクマがある。寝ていないのかもしれない。
ちょっとシャツが撚れてる。それはいつものこと。
だけどどこかやつれて見えるのは、俯きがちな睫毛のせいだ。
そこから続く洗練されたラインが長い首筋を描き、少し日焼けし始めた肌は、こんがりと美味しそうな色で艶を出す。
刑事の眼でついつい観察してしまう自分に、分かりすぎるのも厄介だわと諫め、すみれは改めて口を開いた。
「――で?」
「うん?」
「進展でもあった?」
ああ、と口籠ったっきり、青島が黙って珈琲を啜る。
本題を先延ばしにしていたジャブだったことは、彼だって分かっていた筈だった。
ミルクも砂糖も要れない珈琲を、青島は静かに、何かを飲み下すように口に入れていく。
思いつめたような顔は、かなり彼が追い詰められていることを物語っていた。
そんなに辛い恋なのだろうか。
しんどいだけは嫌だと以前青島は言った。
少し、あの日嗾けてしまった責任を感じ、すみれも黙って珈琲を一口啜る。
今日は朝から小雨だった。
じめじめとした空気がすみれの黒髪を肌に貼り付かせる。
それを指で掻き揚げ、視線を落とせば、泥の跳ねたヒールが目に入った。
梅雨らしい不快な大気も、いつしか淡々とやりすごせるようなって、濡れてしまうヒールは馴染めなくても、それすら流していく大人になる。
「好きなとこから話して?」
「聴取すんの?」
「強制ではないわ」
「じゃ、世間話でい?」
「あたしの珈琲が、終わるまで」
了解、と小さく笑う青島は妙に気怠いニュアンスを持ち、無防備なくせに妍冶な男くささを滴らせる。
それは同時に、すみれに自分が女であったことを想起する。
柔らかく細い青島の髪は、梳いてもすぐに柔腰で、だからこそ思わず触れたくなる誘惑があり
それが、伏せた瞼が醸す拒絶に加算され、強引に奪いたくなる隙を与えさせた。
青島くんって、どこか隙だらけなんだよなぁ。
強かで、時に大胆なことやってのけるくせに、自分のことにはとことん無頓着なのだ。
出会った頃から、自己犠牲的な生き方は変わらない。
だから信頼も出来るし、その分、危なっかしくて目が離せなくさせられ、夢中になるまま傍に居て同じ未来を見てみたくなる。
やがてすみれとは反対側のガラスに背を預け、青島は遠い瞳を廊下に指し向けた。
「ねぇ・・・あのさ、例えばの話なんだけどね」
「知ってるわ」
「キスって・・・、どんなときしたい?」
「どんな時って」
「男がキスしたくなるってどういう時かな」
「それを女のあたしに聞くのっておかしくない?」
「・・・・たしかに」
空になってしまった紙コップを長く投げ出した足に添え、無暗に指先で弄び、青島が困惑のままに微苦笑する。
やや口籠り、言葉を選んでいる風はあどけなささえ同居させていた。
「なによ、勢い余ってヤっちゃったとか言わないでよ」
「ぃ、言うかよ・・!たとえ話だって!」
「たとえ話にする意味、分かってなくない?」
「ぇ、・・あぁ、うぅん」
「もしかして、キス、されちゃったとか?」
サッと頬を強張らせ、青島が横を向く。
「あ~らら、大胆なカノジョね!」
「ちがっ」
「大方逆上せてぽうっとしてるから奪われるのよ」
「ささ、されてないよ!口には!」
「じゃ、どこにされたのよ?」
「どこ・・」
「やだまさかもっとやーらしぃところ?」
「違うって!」
すみれのあざとい瞳が下から覗き込めば、小さく唸った青島が背を反らす。
そのまま顔を近づけ白状を迫ると、顔を少し赤らめた青島が更に仰け反る。
少し憂いを残し潤みかけた瞳がゆらゆらと揺らめき、繊細な戸惑いを映し出した。
ままならぬ攻防戦はすぐに決着し、参りましたとばかりに青島が両手を手前に掲げる。
「分かったってっっ」
「答えなさい」
「だからっ、‥髪?とゆーか、おでこっていうか、ここらへん・・・。触れたかどうかも、一瞬過ぎてあんま、わかんなかった。カンチガイかも」
「勘違いで、その至近距離にある態勢をどう説明する気」
「・・・・」
きっぱり言い切ってやると、ぴきっと亀裂が走ったように青島が固まり、指差した額の辺りで片手も硬直する。
そのままじぃっと見つめてやれば、青島も狼狽えた視線で見返し、二人が静止する。
「「はぁぁ~・・・・」」
同時に意味の異なる溜息を落とし、お互い左右に顔をそむけた。
なんか、腹立たしい。
気安く青島くんに触れちゃうその女も、それを許しちゃう青島くんも。
青島くんは誰のもの?でも軽々しく触らないでほしい。
あたしのものじゃないのに。でもそう心が尖って威嚇する。
「で?何よ、結局キスされちゃったことと、そのショックはどう繋がるの」
「すみれさんはさ、どんな時キスしたい?」
「シてって言ったら、青島くん、シてくれるの?」
「場合による」
「そんなこと言ってるから」
「俺のせいって言わせたい?」
「ま、隙あらばって思われてたのかもね」
「キスってどういう意味かな・・、ジョークにしておくべきだよな・・・」
「その歳でキスくらいで狼狽える男の方が気持ち悪いけど」
テキビシイ、と、苦笑いし、青島が手の中の空の紙コップをリサイクルボックスに放り込んだ。
指先を二本立て、煙草吸ってもいい?と聞いてくる。
すみれが小さくそれに頷けば、慣れた手つきで青島は胸ポケットから煙草を取り出し、指先で箱からとんっと一本器用に跳ね上げた。
伏せ目で火を点ける仕草は壮年の男のもので、先程の初心なリアクションとのギャップを意識する。
この肌に、この髪に、触れた人間がいることを改めて思わせ
なんとなくすみれは目を背けた。
何度も見てきた仕草なのに、その指先一つにフェロモンが薫る。
恋が人を成熟させるのかしら。それとも、恋をしている人間がそう変わりたいと願うのだろうか。
他人の情熱が、自分の熱を共鳴させてしまう。
手元の冷めた珈琲は黒々しく波打ち、底を見せない。
溜息のように一つ紫煙を換気扇に向けて吐き出した青島が、長く整った足を組んだ音で、すみれは我に返った。
「俺だってさ、色々あんだよ。そこそこ遊んではきたけど、割と純情だったんだなって、改めて思ったよ」
「ま、コドモみたいなまま大きくなっちゃったよね」
「俺だって、こう、スキンシップしちゃうし、ノリで抱き締めちゃったりするよ、するけどさ、キスはしないもん」
「口には、でしょ」
「そこはやっぱ大事にしときたいじゃない」
煙草が半分になった頃、眉間を悩まし気に寄せながら灰皿に押し付け、青島が低く吐露する。
「こわくなった」
「好きだったんでしょ?」
「マズイ、って思ってる」
「本気になられることが?」
「そうじゃなくて、本気の恋に足を踏み入れさせることが、かな。今更全部、受け止められない」
「好きな人、捕られちゃうよ」
「向こうが本気じゃないだろ」
ハイチェアの足掛けにヒールを引っ掛け、両膝を曲げたそこに肘を付き、すみれが珈琲を手前に持つ。
やるせなく残響した外国産煙草の紫煙が煙い。
視線は反らしたまま、上擦った声を隠した。
「キスまでしておいて?」
「その場の雰囲気とかあるじゃない」
「どんな空気作ったのよ」
しまったなと、青島が照れくさそうに笑う。
煙が目沁みる、なんて、映画みたいなケイケン、させられるとは思わなかった。
きっと、デートとなればサービスに徹して相手をとことん楽しませてあげたんだろうなと思う。そうして誇らしさを与えるようなエスコートをして演出してあげたんだ。
すみれの瞼には見も知らぬ女の勝ち誇った笑みが浮かんだ。
それは、嫉妬と同時に歓喜と同情をすみれに共感させる。
青島くんが一生懸命誰かを想ったら、きっとその人は世界中で一番幸福を手に入れる。
馬鹿な女だわ。でもカンチガイだって、しちゃうよね。
「キスされて、こっちが本気に火が点いちゃったってこと?」
「まさか」
「向こうも、いつの間にか本気にさせちゃったわけでしょ」
「どうかな」
「あのね、青島くん。ここはアメリカでもフランスでもないの。ご挨拶にハグしてほっぺにちゅ、なんて習慣なんかないのよ。だったら考える余地もないわよ
ね」
「やっぱり、そうなる?」
「ノリで挨拶だって言い張るにも、職業的にまずいって分かってる?」
「だよな」
まいった、と、独り言のように言い捨て、青島が腕を頭の後ろで組んで伸びをした。
ぐぅんと伸びた長い姿態がスレンダーなラインを布越しに悟らせる。
整った小ぶりの顔立ちや、性格を表したような柔らかくうねった髪、愛らしい指先も、すべてのパーツが見る者に容赦しない。
けっこう、イイ男だったんだ。
気付かなかったあたしも馬鹿だわ。
「なんかさぁ・・・思ってる以上に仲良くなっちゃってくんだよ。もう終わったことだったのに、こんな親密になっちゃってどーすんの的な」
「波長が合っちゃう人っているわね」
「それに振り回されてる自分が嫌だ。こんなはずじゃない、こうじゃない、なんて、使い古した台詞、今更言えない」
「妄想ではそうなりたかったわけだしね」
「前にも後にも進めなくなっちゃった」
あまりに心細そうに響いた青島の声に、すみれは顔を上げた。
「俺の全部だったんだよ。だからここ失ったら俺」
「だらしないわね、そういうのを性質が悪い男っていうのよ」
「しまったなぁ・・・」
「示しがつかないじゃない、もぉ」
不貞腐れ、手慣れた女を演じながら、すみれの胸の中に溜まる澱が、濁り澱んでいく。
恋は人を身勝手にする。
青島の幸せを願いながら、同時に傷つけばいいとも思ってる自分をすみれは否定できない。
「ナイショだかんね」
「情けなくて言えないわよ」
「そんなに俺、ダメ?」
「青島くんって意外と奥手なんだね。女の子の生足みて喜んでいるくせに、そんな初心だなんて反則よ」
「相手によるって」
「ああ、まだ告白もしてない相手だったっけ」
「う、そ、そうなんだけど、でもそこは、」
そうやって狼狽えてみせたって駄目なんだから。
すみれはぷくっと頬を膨らませると、冷めた珈琲を全部飲み干した。
こんな惚気話、聞くだけ損だ。
「他人の恋に関わっちゃ馬鹿を見るってほんとね。聞くんじゃなかったわ」
「すみれさーん、投げ出さないでよ」
「だって馬鹿馬鹿しい。今度のは随分と積極的なお相手みたいね」
「そうなのかな」
「そうでしょ。離れたくないって、大人になって早々言える言葉じゃないわよ」
「けどさぁ、大人になると白黒つけたがらないじゃない」
「相手にもよるか。でもわざわざそれを言うために呼び出されたんでしょ。かなりの覚悟を持って戻ってきたって感じ」
「それも困るんだよな」
「いんじゃない?遊び人の青島くんには合っていると思うけど」
「でも俺は未だ」
「まだ遊び足りないとか、恋じゃないなんて言う気じゃないでしょうね」
「う゛」
「ここまできてそれ、通用しないわよ」
「すみれさ~ん」
「ま、ダラダラ引き延ばしているうちに、なかったことに、なんてしてくれなさそう。ご愁傷様」
立ち上がり、紙コップをリサイクルボックスに入れれば、雑談終了の合図だ。
一縷の望みを託したかのように、青島の声が追い縋った。
「俺さ、どうすりゃいいと思う?」
「さっさとコクっちゃいなさいよ。じれったいわね、男のくせに」
「すみれさん、俺のこと、きらい?」
「ガツンと行けない男は嫌い」
「そもそも俺、好きになったって言ってないよね?」
「丸見え。青島くん、自分で気付いてないの」
「ぇ」
「本当は嬉しいんでしょ。そのひとに口説かれて。大事にしたいんでしょ。見てれば分かるわ」
音もなく立ち止まり際、目を見ず素早くすみれが口走る。
敢えてカマをかけてみた。
青島は本音を隠すのがかなり達者な方だ。
演技派というべきか、仕事でも劇場型の演出をして見せる分、その本音は誰にも悟らせないし、言い換えるなら、出し難い性格なのだろう。
分かりやすそうな男なのに、その実本当に判りにくい。
もしかしたら自身すら意識できない様々な細かい感情を、心の奥底に完璧に仕舞い込んでしまっているのかもしれない。
すみれの嘘に、青島が一瞬驚愕したのが分かった。
透明な瞳が見開かれ息を呑んでいる。
やっぱり無意識なのだ。
本当に性質が悪い。
それにしてもと、半ば親心のような気持となって、すみれは腰に手を当て振り返った。
青島の本音に触れられる人間なんて、この世にいるんだろうか。
きっと、相手の女も青島の本音が見えなくて、色々モーションを掛けているんだろうと推察される。
それはそれで、酷く悲しい世界だとすみれは思った。
理解されない、共感されない。交われない生き方は人を孤独に導いてしまう。
もう一人、そういう生き方を好む男を知っている気がした。
ただ、すみれの知るその男と青島の最大の違いは、自覚の有無にある。
青島の無償の優しさの由来は、もしかしたらそこにあるのかもしれなかった。
それは他人では助けられないことだ。
自分がそこに気付けなければ、こちらは手を差し出せない。
困っている、それこそが愛情の証だと本気で気付いていないのだろうか。
困らない相手など、人は考えもしない。気掛かりとなる原因が、青島の中にないからだ。
何を躊躇っているのかは分からないが、交際することで生じる付加価値に、何らかの疑念を抱き、慮っている。
青島の脳も心も支配しているのは、その女だ。
「青島くん、年貢の納め時って言葉、知ってる?」
意地悪だと言いたげな瞳が下からすみれをねめつけてきた。
きっと、相手にもまた青島の本音など透けてしまっているんだろう。
少しは振り回される周りの身にもなって、これ以上被害者が出ない前に痛い目をみればいいのだ。
ざまあみろと鼻を鳴らして見せたすみれの視界に、たった今脳裏を薄く過ぎっていた珍しい影が入ってきた。
「あら?・・・まあ偶然。何かあったのかしら」
「・・なにが?」
「丁度いいわ、青島くん、あっちに相談したら?あたしより打算的な答えをくれるかもしれないわよ」
「何その言い方。ってか、誰」
立ち上がり、一緒になってガラス越しに覗き込んだ青島が瞠目する。
ぐりんと顔をそむけたその顔は、小学生が悪戯を見つけられたようだった。
6.
廊下の角で、新署長となった真下に見送られていく室井が恭しく礼をしていた。
それに合わせ、真下がぺこぺこと何度も頭を下げる。
なにやら長々とした社交辞令を並べている声が途切れ途切れにここにも届いた。
室井が丁度視線を上げた、そのタイミングで室井の視線が真下の肩越しから青島とすみれへと注がれる。
何で今まで縁がなかったのに、こんなときばっかり来ンの?
思わず青島がぐりんと顔を背けて視線を反らす。
すると丁度隣にいたすみれと目がばっちりと合って、淫蕩な笑みを覗かせられた。
すみれが意地悪な笑みと顔をするときは、なにやら企んでいるときである。
嫌な予感しかしないことを学んでいる青島は、身を隠すためさっさと退散することにする。
ガラスの向こうで室井が眉間を寄せているのが分かったけど、関係ない。
「さっ、お仕事お仕事!」
「あらぁ?前みたいにしっぽ振らないんだ」
「俺いないって言ってね!」
「やーよぅ」
「すみれさん、やっぱり友達失くすよ」
「強がっちゃって」
ガラスの扉を擦り抜けつつ、人差し指を向ければ、すみれの放埒な笑みが青島をやりこめた。
べっと舌を出し、青島が長い足を踏み出し、疾走態勢に入る。
跳ね馬のような高雅な壮健さに見惚れ、すみれの眦が揺れる。
刑事課へ廊下を小走りに消える青島を見送るすみれの遥か後ろで、室井もまたそれを見咎め、真下に一礼しエントランスへは向かわずすみれの方へ近づいてき
た。
「久しぶりね。ここへ来たの、初めてじゃない?」
「青島は」
「逃げちゃったけど?」
刑事課の方角を指差しすみれがこてんと首を傾ければ、室井は理知な瞼を落とすことで礼を残す。
言葉少なにカツカツと背筋を伸ばし、後を追っていく。
歳を重ね、一層凛とした気配を持った室井は寡黙さに畏怖を持たせる。
「相変わらず青島くんしか見えてない男ね」
すみれのボヤキは幸い誰にも届かなかった。
****
トイレに逃げ込んだ青島を目敏く見つけた室井が追ってくる。
「何故逃げる」
「うぎゃあぁぁっ、つっ付いてきたんですか・・っ!」
飛び上がる青島はここがトイレで逃げ場を失ったことに気付く。
それを理解している室井もまた、敢えて出入口側を塞ぐように立った。
青島が往生際の悪いのは昔からだが、この男からも逃げれはしないのだろう。
仕方なく窓を背に、仁王立ちで向き合った。
「なにか御用ですか」
「無視するな」
「したくもなります」
「意識してるのか」
「~~っ、するでしょ!ふっつーに!」
「・・・それは好都合だ」
あっさりと言ってのけた男に目を丸くした青島が、二の句を失ってわなわなと震える。
「こっちは人並みなんですよ・・!」
あんたみたいに神経太くないんだよと噛みつけば、室井が小さく笑いを噛み殺すから
またその顔に目を奪われた。
なんちゅーカオすんのこのひと。
少し細められた目尻に皺が寄り、厳めしい面持ちでも今穏やかに緩んでいることを匂わせる。
こうして青島を追い詰めながら、それすら楽しむ余裕を持っている。
喜怒哀楽のはっきりとした青島とは違う、僅かに漏れる木漏れ日のような感情に、息を呑む。それに気付けてしまう自分を青島は詰った。
「それで御用件は」
嘘だろ?
これって、これって、やっぱり。
室井が俺を?俺に?本気か?
室井がそこに秘めているものの名前を、あんなに知りたかったのに今は知りたくない。
悪い冗談は夢ン中だけにしてくれ。
何とも言えない気持ちで何度か夜のオカズにしてしまった自分を詰り、百万回、天に謝った。
ただ、それでも室井を傷つけてしまうことは嫌だった。
傷つけるしか出来ないと分かっていても、無駄に時間を引き延ばしたい自分がいる。
苛立つのは自分になのか、それとも、こういう事態を作った室井になのか。
感情を隠すことも苦痛で、青島は素っ気なく横を向いた。
「今夜、時間は取れるか」
「また食事?」
皮肉を込めて投げやりに応えても、室井は何でもないことのように視線を向けた。
「今度は君が決めてくれ」
「俺が?」
「何でもいい」
「ノンキャリの俺が指定できるわけないでしょ。命令すればいいじゃない」
「卑屈な物言いだな」
「あんたと話してるとそうなります」
「こんなところで出来る話じゃない。時間が欲しい」
「・・・行くよ。どこへでも」
ぶっきらぼうに応えさせられ、青島はむくれた顔を室井へと向けた。
静かに見つめ合う二人の間に、廊下の喧騒は遠く換気扇の音に消える。
「品川プリンスのエントランスに。9時だ」
「・・・・了解」
