恋 煩い 2








3.
その日、青島は世界の破滅を見たような顔でデスクで唸っていた。
両手で頭を抱え、光を溜める瞳に陰を射し、俯く表情は硬く悶々としたオーラが陰気な影を縁どり、刑事課の奥を陣取っている。
いっそこのまま怨念でも発しそうな男を、刑事課を訪れる面々が遠巻きに眺め、噂していた。

「なにあれ」
「さあ?」
「知ってる?」
「朝からずっとあんなかんじ」
「声かけた方がいいの?」
「めんどくさそう」

義理どころか人情もない部下の勝手な噂話も、今の青島の耳には届かない。
微動だにしない丸めた指先が栗色の髪に挿し込まれ、両肘を付いた中央を指す視線はデスクを見ているようで何も映し出してはいなそうだった。
時折漏れる重たい溜息は気さくな面とのギャップで妙なフェロモンを発しているのだが、本人は気付かない。
険しく寄せられた眉が悩まし気に寄せられ、周囲から気安さを奪う。
普段明るく挨拶を返し、職場では仕事に専念する青島にしては確かにかなり珍しい事態だった。
難しい事件だったら青島は必ず部下に口添えをしたし、上からの何らかの圧力があったとしても、あまり表には出さず皆が仕事に専念できるよう気を配ってくれ ていた。

どうしたもんかと無秩序にざわつく喧騒が、不意に空気を切り裂く活気を発生する。
人々の視線がそちらに逸らされれば、そこには黒のショルダーバッグを引っ提げ、威勢良く戻ってくる恩田すみれがいた。

「ねぇ!誰か手の空いている人いる?ちょっと手伝ってほしいんだけど――」

人垣を押し分け、その視線が署内を彷徨い、中央に鎮座するこんもりとした奇妙な物体で止まる。

「なんだ青島くん、いるんじゃない、ねぇ、ちょっと来て手伝ってよ」

カツカツとヒールを鳴らしてすみれが無警戒に近づく様子に周囲が固唾を呑んだ。
ジャケットを脱いで椅子に掛けると、すみれはそのままくるりと回って振り返る。
異様な刑事課の空気の中、周りの視線もすみれの挙動へと注目された。
自分に向かう沢山の視線にすみれは小さく首を傾げ怪訝な顔をする。
冷気を発する根源、つまりはすみれの目の前のその存在に目を留め、ようやくすみれも事の異様さに小さく顔を顰めた。

「青島くん?急ぎなんだけどな。なにぼぉっとしてんの、ボケちゃった?」
「・・あれ?すみれさん?」
「他に誰に見えるの」
「・・・・お疲れ」
「お疲れ様。みんな避けてるよ、青島くんを」
「うぅ、う~ん・・・」

唸るような声が上がり、デスクの一点を見つめたまま、青島はまた眉を寄せてフリーズしてしまった。

なにこれ?
軽く腰に手を宛がうと、使い物にならなそうな男にすみれは悲観するでもなく、息を整える時間に当て、エアコンの涼しさを肌で感じ取った。
白いブラウス越しに戦ぐ風が、火照った身体に心地好さを満喫させる。
続けてデスクに寄りかかり、買ってきたペットボトルの蓋を開けて冷えたミネラルウォーターを流し込む。
梅雨に入って半月ほど過ぎたこの時期、ようやく晴れた外界は湿度も高く気温も高かった。
確実に夏が近づいていた。
そろそろジャケットは要らないかなと思うすみれの開襟シャツの隙間から、光る汗が流れ落ちる。

「なにがあったか、今聞くべき?」

ごくんと喉を鳴らして冷たい水を流し込むと、すみれが再び目の前の物体に目を戻す。
何やら呪文に近いもので唸り、頭をぐしゃぐしゃにする青島の様子は、子供みたいだ。
周囲の視線も注がれたままだった。

人には気を使い、陽気な面に徹する彼からしたら、かなり珍しい感情的な姿も、すみれにとってはどこか懐かしい。
随分と昔には、叱られたり失敗したり傷ついたりするたびに、もがいたり苦しんだり、一緒に葛藤したり、たまには登校拒否にもなって
でもすぐに復活する逞しさに目を奪われたりして、共に社会に揉まれていた。
若く、多感だったあの時代はそこそこすみれにとっても、色々と学べた遅咲きの青春だ。

「あったのね。で、心配するべき?へーきよっていうべき?」
「あったっていうか・・・や、何もないんだけど・・・・」
「歯切れ悪いわね、男のくせに」
「性別、関係ある・・・?」

ようやく顔を上げた青島の片眉が反応する。
相変わらず童顔でハニーフェイスな男の無防備な表情に、すみれは肩を竦めて見せた。

この春、青島は係長になった。
一緒に昇進試験受けに行ったときは冗談で笑い合っていたものだが、まさか本当にこういう現実がやって来るとは、世の中挑戦してみるものである。
とはいえ湾岸署の場合、万年人材不足で、ただ長く居続けた人間が他にいないかったという裏事情があっただけではある。
新人が入ってきたことで、必然的に青島を上げざるを得なかった。
きっと、袴田課長も魚住係長も、胃が痛かったことだろうとすみれは思っている。
でも、お祭り好きで世話好きの彼のことだ、割とあっているかもしれないなどとも思っているのは、すみれだけの秘密である。

「課長にお小言でも言われたの?」
「んん~・・・」
「久しぶりに登校拒否したくなっちゃった?」
「そうかも」

あらら。
こんな青島は久しぶりだ。
いつしか青島は大人になり、無暗に感情をぶちまけなくなったし、感情を悟らせるようなこともしなくなった。

ぐぅ~んと背伸びをするように伸ばした両手は、頭上で重ねられ、目に有り余るほどのその長く端正な造形美を晒した。

元々演出型の演技派な男である。
それでも必要以上に背負い、一人で直向きに戦おうとする姿は、眩しくもやるせない。
必死に大人になろうとしているかのような、そんな我武者羅な挺身すら垣間見れた。
あれはなんだったのか、今も聞きそびれている。

「助けてほしいの?それとも放っておいてほしいの?」
「うぅう~ん・・・」
「わかった。事情聴取に付き合ってくれたら、話きいてあげる」
「交換条件かよ」
「若い女の子ヨ」
「そう言えば俺が動くと思ってるデショ」
「動くでしょ?」
「・・・・」

反応も乏しい青島を不思議にも思わず、すみれが腕を取った。
椅子から半分腰を上げた状態で、重苦しそうな青島の視線がすみれに諾否を伺わせる。
くしゃくしゃに乱れた髪から覗く瞳が困惑の色を湛えていて、それはどこか寝起きのようですらあった。
縋るようであり戸惑う振れ幅を湛えた瞳に、すみれは妖艶に微笑んだ。

「ほら、行くわよ」

いつまでもここに座らせておかない方がいいだろう。
動物園の檻みたいに注目されるだけ見世物にさせるには、さすがに不憫だ。
二人して退散していく様子を、刑事課の面々が声も挟めず見送っていた。


****

「はい、次の人~」
「投げやりに言わないで」
「だって、あっちが」
「だってもヘチマもない」

ひそひそ話の応酬も、やはり歯切れ悪く青島がしゅんとなる。
五人の二十代女性を順番に呼び出しているところだった。
すみれの隣で青島が足を投げ出すように座り、手元のボードを覗き込む。

「ちょっとはヤル気を見せてね、形だけでいいから」
「今俺そんな気分じゃないんだよ」
「事件に気分は関係ない」
「どーだろ。いっそ俺のテンションに合わせてくれたら未解決事件も減ると思う」
「はいはい、目の前の女の子たちも同じこと思ってるわよ」

最後の一人を呼びに行っている間、取り残された取調室はしんとなる。

「同情するね」
「青島くんのテンションも結構乱降下だと思うけど」
「・・・・」
「今ならちょっと、聞いてもいいわよ」

少しだけ水を差し向けてやると、背中を向けたまま青島が黙り込んだ。
後頭部のつむじが寝癖らしき髪を逆立て、隙を覗かせる。
カリカリとペンをボードに走らせる音だけが緊張を入り込ませない。
それが青島の作り出した虚像であることは、長い付き合いだからこそすみれには分かっていた。

「言っちゃってスッキリしたら?」
「・・・俺、変?」
「地獄を見てきたってカオしてた」
「・・・近いかも」

つむじは小動ぎもせず、青島のいつもより頼りない背中が緩慢に収まり、頑なな意地と切ないまでの想いを色濃く滲ませる。
こうして後ろ姿だけみていると、別人のようだった。
それが少し心許なくさせ、すみれに自分にだけは打ち明けて欲しいという傲慢さを抱かせる。

「具体的に言って」
「すみれさん、俺、三途の川見たことあんだよ」
「はぁ・・っ?」

突飛な言葉が聞こえて思わずすみれは口を開けた。

「世の中、無いって思ったことがあると、思考止まる」
「何言ってるか良くわかんないんだけど」
「・・・・」

また黙んまりか。
これは重傷だわ。

すみれは細く尖った顎に片手を充て、横目で青島を盗み見た。
昨日は普通だった。ということは昨日から今朝に掛けて何かあったのだ。
すみれは一つ思い当たることを口にする。

「昨日、なんか楽しそうに予定あるって帰ってったよね」
「そうね」
「流れちゃった?」
「いや?」
「久々の相手みたいな言い方だったけど」
「・・・・うん」
「楽しくなかったの?」

ゆっくりとした間を取った後、青島が俯き、手を止めた。

「楽しかったよ」
「ならいいんじゃない?」
「そうだね」
「・・・・」

今度はすみれが黙る。
言いたいのか言いたくないのか、あまり判然とさせなかった。
どこか酷く傷ついているようにさえ感じ取れた。
このまま軽口で、こんな場所で、冗談のように追及を続けても良いのか分からなくなり、すみれは仕切り直そうと考え直す。
曖昧で惰性な仲であっても、譲れない情愛というものはすみれにもあった。

その時、理性と感情に折り合いをつけるかのように、少し低めの落ち着いた声で、青島が話しだした。

「ねぇ、例えばの話なんだけど」
「うん」
「例えばだからね?たとえ話であって、例えるならっていう・・・」
「例えばはいいから」
「・・・・」
「で?」
「しょ、生涯君といたいってどういう意味だと思う?」
「なにそれ。プロポーズでもされたの?」

ぅと小さく唸った音が聞こえ、青島が固まった。
シャツだけの無防備な肩が一瞬びくついたのをすみれは見逃さない。

「コクハクされたわけ」
「んなわけ」
「じゃ何?」
「だからこっちが聞きたいんだよ・・っ」

ようやく顔をしっかりと上げて振り返った青島の顔がすみれの顔と付き合わされる。
額を合わせるようにしてすみれも挑み合えば、揺れる感情を隠すことも出来ない飴色の瞳はただ縋る者を探し、すみれを映し出していた。

「それ、付き合いましょうって話?」
「違うだろ普通に」
「じゃ、オトモダチ?」
「そこも微妙」
「青島くん、フリーだと思ってたけど」
「フリーだよ」

素直にぺらぺらと答えてくる辺り、彼が本当に困っていることをすみれに悟らせてくる。
こんな仕事の合間に、とも思ったが、こんな雑談を装うからこそ、青島も暴露できたのかもしれない。
ここが理由かとすみれも理解する。

「いんじゃない?今どき希薄になっていく人間関係で、そう言ってくれるって、有り難くない?」
「それはそうなんだけど」
「こういう仕事してると特に、やってらんなくなるし、いつ永遠に別れなきゃならないかも分からないし、悪いことじゃないじゃない」
「そこに委ねてしまっていいんだろうか・・・」
「何哲学的なこと言ってんの、珍しいわね、誰彼構わず懐く青島くんが」
「節操がないみたいに言うなよ」
「ごめん、誤解なの?」
「疑問形・・・」

情けなく項垂れ口を噤んだ青島を他所に、すみれは一旦態勢を戻し、足元に置いていたペットボトルを煽る。
隣では腕時計にちらりと視線を落とした青島がガタガタと音を鳴らして椅子を正面に向かせ、姿勢を正した。
そろそろ最後の一人がやってくる。

「結局青島くん的には何が問題なの?」
「こっちの下心を棚に上げているようで収まりが悪い」
「あ~、つまり片思い」
「そうとは言ってません」
「下心には期待がいっぱい」
「ぅ・・・」
「あら図星」
「どこまで楽しんでいいのかっていうね」
「試されてんじゃない。乗ってあげれば」
「難易度高すぎ」
「まどろっこしいわね」

正面の扉を向いた状態の二人の頭上を、テンポのよい言葉が横断する。

「好きな相手だったんだ?」
「向こうにその気がないのってミジメでしょ」
「久しぶりってことは、長年恋焦がれた相手から復縁の連絡が来たってことか。まあ、ご大層なご身分ね」
「だから違うって」
「恋、はじめちゃえばー」
「他人事だと思って」
「そりゃそうよ」
「しんどいだけって辛いじゃない」
「身を引いたわけ」
「そんな大層なことでもなかった」
「恋愛マスターのすみれさんからすると、その程度の恋煩いで仕事も手に付かなくなるなんて、青島くんもコドモね」
「うるさいよ」
「恋は浮き沈みもエッセンスよね~」
「言いましたね?大体いつ恋愛マスターになったんだよ?」
「将来?」

浅く吐息を残した青島が、ボードをデスクに投げ置く。
あちこち視線を彷徨わせ、またくしゃっと髪を掴んで、それからすみれの方を向いた。

「あのねすみれさん」
「一生独身でいたい?」
「だからそういう相手じゃ」
「最後のチャンスかもよ?相手のガードが緩いならそこを突きなさいよオトコでしょ」
「だから性別関係ないよね!?」
「大体それって脈ありって言うんじゃない?」

リズミカルな会話がここにきて狼狽え始めた青島の動揺で崩れた。
どうやら本音の部分にすみれが言及できたらしい。

「あ、あるわけ・・・」
「じゃ、青島くんはどういうつもりで会ったのよ?期待あったんでしょー?」
「あるわけないだろ・・!」
「一緒にいて、青島くんは楽しくなかったの?」
「う゛・・・・・・・・・・・そこは――め、めちゃめちゃ楽しん・・・・・じゃった」
「じゃ、何が問題?」
「・・・・・だよね」

すみれが黒髪を掻き揚げ耳に掛け直した。
何か言おうと開いた青島の口唇が空気だけを漏らし、大きな溜息の後に頼りなく閉ざされ結ばれる。
何を呑み込んだのかすみれに悟らせないまま、正面の扉がノックされ、開かれた。

「お連れしました」
「じゃ、そこに座ってください」

最後の事情聴取が始まった。

青島の恋愛観は初めて聞いた気がした。
これだけ長い付き合いでありながら、相手を異性として意識していなかったというのはないが
お互い何処かで一線を引き、避け合ってきた話題だった。
思ったより真面目に向き合うんだなという感想は、そのままチクりとすみれの胸に突き刺さる。
今、触れそうで触れない隣の肩が、窓からの朝日で白映えしていた。


***
五人の聴取を終え、メモ書きを無造作にまとめた青島が上に掲げてひらひらと振った。

「これ調書にまとめとくね」
「ありがと」
「出来たらメールで送っとくから」

先に退出しようとドアノブに手を掛けた青島の背中に、すみれの声が追う。

「ねぇ・・!」
「うん?」

肩越しに青島が振り返った。

「育ちも性格も違う赤の他人だった人間同士がさ、一緒に居て楽しんでくれて、知りたいって思ってくれて、生涯一緒にいたいって思ってくれてるのよ、贅沢な ことよ」
「・・・」
「気難しく考えないで、遊んであげたら?下心満点でもそういう人にはわかりゃしないわよ」
「あのね」
「付き合いたくないの?」
「・・どうかな」
「男女の友情なんて、脆いものよ」

一旦去りかけた足を戻し、青島が肩で書類をとんとんと揃えながら、にやりと口端を持ち上げる。

「すみれさん・・・友達いないでしょ?」
「失礼ね!」

両手を腰に当ててむくれたすみれの後ろで、夏の陽射しが注がれすみれのブラウスを透けさせた。

知っていた。きっと青島ならそうやって恋をするんだと、そういう恋を見せてくれると、期待していた。
その期待のままの姿を見せる青島の幻影が、すみれを苛んでくる。

下心なんて、あたしの方があふれてるわ。

裏切らないありのままの眼差しが、濃密に交わることさえ許されなかったこの距離で確かなものとしてすみれに痣を刻印する。
期待というものが加速させる熱情は、恐れを知らない。
なんとなく、青島が怯えているものの正体を知った気がした。











4.
待ち合わせ場所に選んだ新橋改札口に、まだ想い人は見当たらない。
ほっとしながら青島は人波を避け、モニュメントの横に立ち、煙草を取り出した。

「・・ぁ、禁煙か」

手持無沙汰となった両手をにぎにぎして口寂しさを紛らわす。
こうしてあのひとを待つって時間は、この先どれだけ降り積もっていくのだろう。
これが最後かもしれないと思いながら、自分はこうして待ち続けるんだろうか。
こそばゆい想いにはにかんで、青島は夜空を見た。

新橋の駅前は仕事上がりのサラリーマンがひっきりなしに行き交っていく。
圧迫感を齎すようなビルが聳える谷間で、夜空が梅雨の薄昏にぼやけていた。
誰も知らない。誰も振り返らない。それが青島に安堵と不安を綯交ぜに急き立てる。

まさかエリートキャリアを待たせるわけにはいかない。
早めに着いた新橋は、陽も長くなった夕暮れをバックに黄昏る。

どうして突然室井は自分なんかを思い出し、何故今になって誘うのだろう。
切れた繋がりは確かに表向きの時間だけで、青島の中では色褪せていない。
それが独り善がりでもないんだろうことは、なんとなく感じ取れていたが、それは期待ではなくてそこに存在し、
けれどもこうして二人でわざわざ顔を合わせる意味まで未だ、青島の思考は追い付いていなかった。

惑う瞳に嫌気がさし、青島は視線を足元に映す。
ひび割れたコンクリートの割れ目を、無意味に爪先で蹴飛ばした。

随分と遠回りしたけれど、自分たちは間違ってないと言いたい。
ようやくここまで来た。勝負はこれからであり、室井にとって今は一番大事な時期だ。
軽はずみに何かを差し向けるようなことは出来なかった。
もう絶対重ならないと思った奇縁が、室井の気紛れでまた蘇ったように見せ掛ける。そこに下らぬ因果関係すら因循させた。
それは青島にとって、安息であり、驚喜であり、恐怖だ。

ふるふると、水滴を払う小動物のように青島が頭を振る。
俺が不安がってちゃ、あのひとが傷つく。

電車がまたひとつ到着したらしい。
発車を告げる山手線のメロディと共に黒だかりの人混みが喧騒を連れて溢れ出てきた。
なんとなく見流していると、見知った顔をあっさり見つけてしまう。
なんで見つけちゃうんだろう。そんな自分の眼力に、青島は手の甲で口元を抑えて視線を反らした。

「すまない、待たせた」
「いえいえ、俺も今さっき着いたばかりですよ」

ぴょんと弾んで室井の前に着地すると、室井は眩しそうに目を細めた。
滅多に感情を表に出さない屈指の男は、直立不動で上質な闇色のジャケットと、ボディラインを際立たせるベストに身を包み、なのに夏でも涼し気だ。
クールビズ・シーズンに入り、シャツ一枚となって街中を駆け回る青島とは対照的である。

「来てくれてありがとう」
「こちらこそ再びお誘いいただきましてっ」
「よしてくれ。君に丁寧に出られると調子が狂う」
「どっか、入ります?」
「予約してある。こっちだ」
「ええぇっ?そっちの方が調子狂いますよ・・っ」

室井が素っ気なく足先を変える後ろを、青島は慌てて追いつき、ひょこひょこ跳ねて付いていく。
美麗な後ろ姿は遠目で見つけた時よりも更に高貴で、自分たちを直接結び付けるものなど今更何一つ存在しないことを改めて戒めた。
毅然とし、凛冽なその後姿だけでも、その高潔なエリート色は埋もれず、小柄ながら頑強な存在感を放つ。
少し薄着となったことで、スレンダーなくせに厚い胸板や、美しく鍛えられた肩幅のラインが端正に浮き上がっていた。
日本社会のサラリーマンが群れる界隈で見るからこそ、それは強靭な摂理だった。

「すぐそこだから歩いていくが、いいな?」
「はぁい」

室井の半歩後ろ、道路側を青島が遠慮がちに付いていく。
前回もこうして室井は和風料亭へと青島を誘った。
何故青島なんかと食事をしたがるのか、そこのところは今もって良く分からない。
その足ぶりに感情一つ悟らせない男は、やっぱり何を考えているか伝える努力を放棄し、黙々と先へ行く。

東京へ帰ってきてから一度、室井が女性をエスコートするところを見たことがあった。
優雅な動作でふたりでタクシーに乗り込んでいた。
誰かに捕られるとか、誰を選ぶだとか、そんなこと以前に、いよいよ室井も誰かのものになるのだと思った。
動き出している針を確かに感じる。
電気が走るように衝突し共鳴しあった遥か昔は、やっぱり過去の産物で、まるで童話の中の出来事のように遠い。
この気紛れが今更何を生み出すのか、先行きも分からないまま、青島は室井の背中を追いかける。

「っと・・、すっげぇ人ですねぇ」
「帰宅ラッシュには日本経済の真髄があるらしい」
「目の当たりにしてると意味が分かりますね~、仕事帰りはタイヘンだ」
「今日も急な呼び出しで悪かった」
「いえ、合わせられる時は俺だって」

へへっと笑って返せば、室井が素っ気なく視線を外す。

それでも久方ぶりに再会した前の酒では、その期間を感じさせないくらいには、話も弾んだ。
一方的に青島が話す他愛ない逸話だったが、室井は酒を舐めながらそのどれもを興味深げに頷いていた。
調子に乗って、いっぱいいっぱい話して、その度に僅か変わる表情に、驚きと面白味を覚えながら
時折均衡を保つように挟まれる室井の精錬された一言に、浮ついた。
信念を交錯させ、軋轢に生じる摩擦熱に火傷しそうな攪乱と亀裂に魂を震わせていたあの頃の、しのぎを削る毎日とは確かに別物となってしまった今の
エピローグの後に続く物語のように、それは無常のままに青島を取り巻いている。

「で、今夜はどこへ?」
「創作料理だ」

あっさりと返され、青島は脱力を隠せない。
薄い笑みの背後に何やら意味深な思惑を張り付け、室井が強かさを見せるから、青島は反抗すら吸い込まれた。
尤もそんな顔されなくても、青島に潜む忠誠心が従順な魂胆を見透かすから、意味もない。

やっぱりまた食事らしい。
夕飯食うだけでいちいち何で俺を付き合わせるのか、それを問い質したつもりだったが、室井には通じないらしい。
いっそ諦めの境地で青島が営業トークに回る。

「外で食事できるくらい出世したんですね~」
「栄養管理に出世は関係ない」
「この街、よく使うんですか」
「接待なら」
「誰かと出くわすなんて」
「あるだろうな」

青島の眉がへの字に曲がる。

「鉢合わせたら?」
「上手く誤魔化せ」
「俺が?」
「得意だろう?」

肩越しに鋭い視線だけ振り仰いだ室井の瞳が悪趣味に瞬いている。
その眼差しから室井も楽しんでいることが伺えた。
ずっるいよなぁ、そんなカオするなんて。

どうせ室井は青島をけしかけるようなことを言って、その実、しっかりと根回しはしているに違いないのだ。
その上で青島が慌てるのを楽しんでいる。
性質が悪い。敵わない。
エリートの気紛れなんてものには、一生縁がないものだと思っていた。
前回の席で、現在の役職と職務内容の説明も簡単に受けたが、青島にはあまりに漠然としすぎている。

「それ、俺が寝返ったらオワリですね?」
「やってみるか?」

笑うでもなく怒るでもなく、室井は飄々と雑談として言ってのけ、視線を前へ戻してしまう。
男らしく精悍な背中はそれ以上何も語らない。
なにこのひと、天然なの?
前回も、似たような流れで、“この先、生涯君といたいと思っている”なんて言ってのけたのだ。

「暇なんですね~」
「・・・」
「ま、信頼されてるって・・・ことにしときますかね」

一度だけ室井が不思議そうに青島を振り返る。
なんだろうと首を傾げた青島に、闇色の瞳は何も浮かべはしなかった。

「ここだ。入るぞ」
「はいはいっと、・・て、えぇえぇぇ・・っっ」
「どうした」
「どした、って。ぁあのっ、こっここ?」
「ああ」
「たた、たっかそーですけど?」
「金の心配はいい」
「そう何度も奢らせるほど図々しくないですけどっ・・?」

夜風の向こうで車が一台クラクションを上げて通り過ぎ、二人をスポットライトのように一瞬の残光に照らす。

「ああ」
「ああ、ってあんた」

思わず店先で立ち竦む足のまま、青島が警戒を乗せる。
その躊躇いに、室井の眼が薄く眇められ、薄明かりに紛れるその笑みに青島は目を奪われた。
黙ったまま視線を交わせ、外させない室井に、急速に青島の息が薄くなる。

古びた藍色の暖簾のかかる小料理屋らしき店内は、歴史を思わせ、それだけで高級感を湛えていた。
そこに嫌になるほどマッチした男が、ゆっくりと片足を引き、優雅に身を開いて青島を中へと促した。
言葉もなく、逃げることも許されず、成熟した大人の男の素振りに、ただ萎縮させられる。
仕組まれた計画性に見事にかかっている自分に舌打ちしながら、青島はもういっそ大胆に大股で敷居を潜った。










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