恋
煩い 1
1.
光る窓ガラスから燦々と初夏の陽射しが降り注いでいた。
指紋一つ見えない透明ガラスの遥か奥、正面ゲートの手前で、隙の無い手つきで開けられたバックドアの中にエレガントな男が優雅に滑り込む。
ホテルのドアマンさながらに扉は閉ざされ、若い男は運転席へと回り込んだ。
バタンという音と同時に車は滑るように発車する。
「サマになってんなぁ・・・」
一連の所作をたまたま訪れていた本庁の渡り廊下からぼんやりと見送っていた青島は、思わず呟いた言葉を自分で呑み込んだ。
いつ東京へ戻ってきていたかも知らない男は、相変わらず荘厳な顔をしていて
凛とした背中でその価値を見せつけ、他者を寄せ付けないオーラを纏う。
気難しい性質はエリートキャリアそのもので、強かに今も戦い続けていることを青島にも伝えていた。
小気味良く青島の口端が小さく持ち上がる。
仕事となれば、こっちだって戦わなきゃならない。
一人でも誰かを護れるようになりたかった。それは今でも変わらぬ心の支柱だ。
その同じ目線を持つ場所で、初めて出会い、真心と意志に見惚れた時から、青島のもう一つの確かなものとして根付き
忘れようとしても消えない痣となっている。
それでも、こうして遠くで眺める男は青島にとって変わらず雲の上の存在だ。
あっちが室井の居場所だ。
ようやくここまで来た奮闘をかっこいいと讃嘆する思いに重ね、永遠に交わることを閉ざされた自分に疎外感がないと言ったら嘘になるが
それでもそれは決まってしまっている掟のようなもので、青島にとって改めて吟味するものではない。
「こっちも頑張んなきゃね」
過去を懐かしむのは、好きじゃない。
複雑な感傷を苦いと思うのかも分からないまま、青島は視線を戻してショルダーバッグを担ぎ治した。
その昔、仕事繋がりで聞いた連絡先を無暗に使うほど、子供染みたことはしないし、する意味もなかった。
きっと、番号だって変わっているに違いない。
室井だって、美幌に行くときも広島へ行くときも、青島には断り一つ与えなかった。
それが、室井が作り出した青島との、上司と部下と言う腐れ縁の答えなのだろう。そこに満足していた。
それを大事にしてやる義理すらあるのかないのかも青島にとっては曖昧だが、後生大事に仕舞い込んでいる靖国神社の御守りのように
殉教していく。
あの番号は、一度も使われぬまま、だがひっそりと登録されている。
「テレポート駅でなんかあったみたいですよ。電車も止まってるようで」
「はいはい~っと」
今日は今から署に戻って和久くんと聞き込みだ。
空き地署で、足を使って這いつくばって、しがみ付くのがこっちのやり方だ。
追いつけなくても、置いて行かれたくはない。
夏を思わせる鋭い陽射しがアスファルトを銀色に照らし返していた。
やるせない思いを眦に乗せた瞼の奥が眩む強さで世界は足早に消されていく。
瞼を一度瞑り、景気よく返事を残すと、青島は長い足で階段を二段飛ばしで駆け下りた。
2.
『少し時間が取れないか』
いきなり耳に飛び込んで来た低音ボイスに青島の手からスマホが堕ちそうになった。
のどかな昼下がりのことだ。
慌てて辺りを見回したが、誰も気づいた者はいなかったようだった。
殺伐と誰もが自分のことに夢中になっている。
改めてスマホ画面を見下ろし、通話中であることを確認すると、青島はくるりと椅子を回転させ窓側を向いた。
知らない番号だったため、割と警戒して出たのだが、別の意味で衝撃だった。
ってか、なんでこのひと俺の番号知ってんの。
『・・っと、あの、室井さん・・?ですよね?なんか事件?ですか』
これもその昔。こうやって室井から呼び出されてアドバイスを求められたことがあった。
あの時はヘリで飛んでくんだもんなぁ、器が違うってゆーか世界が違うってゆーか。
こうして前触れもなく気紛れのように突然電話してくるところも、変わっていない気がした。
息を吸い、青島はスマホを握り直して耳に宛がった。
が、その頃の気紛れなノリで茶化して返してみた室井の答えは、更に斜め上だった。
『・・いや、プライベートだ』
『プライベートって・・、その、俺でいいんすか・・・?』
え?ちょっとイミわかんない。
青島の思考が停止する。
個人的な悩み事?なやみごとなんて、このひとにあんの?いや、うん、すっげありそう。あの眉間が語っている。
でもそれ、俺に言うこと?周り友達いないの?・・ぁ、いなそう。でも同期とか、いるじゃんか。ぁ、言えねぇのかも。
あ~・・、そういうひとだったよね~。
それは、懐かしさというよりも、室井はこういう男だったということを、無暗に育てた空想の中ではなく現実のものとして
そのギャップを青島に伝えてきた。
ただ、こんな支店にまで電話して話さなければならない意味が分からず、青島は歯切れの悪い返答で必死に頭を巡らした。
何より驚いたのは、この男にまだ青島にコンタクトを取る気があったのかということだ。
そうそう、昔からこのひとこんな感じで言葉足らずなんだ。だから誤解されんだよ。
室井の真意がまるで読めなかった。
同じく黙ってしまった回線の向こう側の沈黙が怖くて、青島は仕方なく弁解を始めた。
『・・ゃ、だ、だってさ!考えてみてくださいよ、俺なんかに言っちゃマズイこととかあんでしょ・・!内密ならこの電話も不味くないかなとか・・っ』
『・・・・』
『ぁ、だから、その、ヤとかじゃなくってですね、つまり、年上のあんたに助けになれるよーなことなんて俺は・・っ』
『少し会わない間に随分と殊勝なことを言うようになったんだな』
『・・ぁ、や、その、』
『・・・・』
『・・、意地悪いですよ、笑ってンでしょ』
『ようやく砕けたな』
『ぁ、すんません』
『いい。久しぶりで緊張していたのはこっちもだ』
『・・・お元気そうで』
『君もな』
吐息交じりで今更な挨拶に微苦笑しているらしい室井の気配が、ノイズもない音声に交差し、聞き取れてしまう。
『出世したんですってね。こっちまで聞こえてますよウワサ』
『どうせ悪口だろう』
『大丈夫です。俺もホントウのことしか言ってません』
『そこが一番胸やけしそうだ』
投げやりでもない室井の静かな声は、以前より貫禄を備えているように思えた。
乗り越えてきた重さを青島にも共鳴させ、思わず目を瞑る。
青島が知っている室井と言うのは、出世に固守しながらも、堅持した信念に恥じない生き方を選んだ、全身を捧げようとする辛辣な男の背中だった。
だが今は、穏やかなまま全てを悟ってしまったような豊潤を感じる。
静かに耳元に注ぎ込まれる声色に、こちらの雑音すら浄化されていく。
『今更ウワサなんてどうでもいいんでしょ』
『剛腹は君から教わった気がするが』
『そうでしたっけ?』
小さく笑い合う吐息が重なった。
だからこそ、離れていた時間が遠すぎて、青島には息苦しさと切なさを湧かせた。
『時間取れないか。久しぶりに・・・酒でもどうだ』
『なに、結婚でもすんですか。俺スピーチすんのやですよ』
『・・・』
『・・ぁ、これも冗談でぇす・・・』
『君は何の代表でスピーチするつもりだ』
冗談に乗ってきた室井に青島の眉尻も下がる。
こうして二人だけで二人だけの会話をするのは本当に何年ぶりだろう。
あの頃の室井はまだ管理官で、うだつの上がらない上司だった。
北新宿を舞台とした一件で、室井は一旦東京の地を去ることになる。
何も言って貰えなかったし、何を言われることもなかった。
そういう仲なのだと妙に納得する理性の後ろで、爛れた熱が腐っていくのを感じていた。
言うことは出来ないと思った。
言うべき類のものじゃない。
あの背中を追いかけながら、見合う男になりたいと短冊に願いを込めて遠い空を仰ぐことが、罪深い俺には難しい。
引き裂かれたこの地で青島に出来ることなど、そして室井の残り香があるものなど、何も残されていなかった。
残してはいけない。
少女染みた御守りのように繋ぐ胸の奥の約束が、ただ一つの贖罪だ。
『キャリアの結婚式ってすっげぇ堅苦しそうっすね』
『まあ、正装だしな』
ずっと想う。誰が何を言っても、貴方を誰がどんな目で見ていても、俺はずっと貴方を想い続ける。
その室井の歳をとうに越え、青島もまた一つだけ出世し、当時の湾岸署も存在しない。
あの頃の破滅的な熱も穏やかとなり、息苦しさも消え、同じこの湾岸の街で同じ毎日が巡っていく。
懐かしさと郷愁と、あの頃の噎せ返ような強い匂いに酩酊すら起きて、青島は席を立つと廊下に出た。
『あっちで出世、したんでしたよね。子供までいるって言ったら叫びますけど』
『結婚するとしても君には頼まないから安心しろ』
『そりゃ賢明』
『・・・君は?』
寂しさの向こう側で、幾分室井の声が堅いものに変わったのが伝わる。
短い問いかけだったが、何を聞かれているのかは察せられた。
なんでそんなこと知りたがるんだか。律義なひとだ。
自販機に寄りかかり、青島はその長い足を組んでポケットに片手を入れた。
『一人の女を選べなくてね』
『言ってみたい台詞だ』
『・・独りもんですよこっちもね。忙しくて口説く時間すら削られてますよ』
『恩田くんとはどうなっている』
『なんですみれさん?そういう目で見てたんですか』
『・・・仲は良かった』
『すみれさんを娶るには俺の安月給じゃ無理かな』
『そこまで彼女だって求めないだろう』
『男の意地?』
『・・なるほどな』
耳に届く室井の吐息交じりの微笑が妙に妖艶な響きを持ち、青島を倒錯的な感覚に包み込んだ。
早くこの電話を終わらせたいような、もっと続けていたいような。
俺の全てがこのひとにあったあの時代が、噎せ返るような波で襲い掛かる。
『青島』
『・・・はい?』
『東京に戻れた』
『・・・ええ』
『驚かないんだな』
『知ってました。たまたま見掛けたことあって』
『そうか』
短い言葉で終わらせた室井は、その沈黙に意味を与えない。
一瞬の微睡は仕切り直すように、低さに変えた意思ある室井の息遣いで、青島の鼓膜を震わせた。
『待っていてくれたと思っていいのか』
『あんたが裏切ってなきゃね』
『礼を言うべきか?』
『俺に?』
変か、と、どこかすっとぼけたような言葉を含むと、室井は今度の甘ったるい沈黙を破ろうとはしなかった。
初めに室井を意識したのは、こういう他愛ない“間”だったと青島は思う。
二人の視線と意志が交錯し、空間が針を刺すような洗練された一瞬の邂逅が崇高なものである反面、そのあまりの気高さとは真逆にある、どこまでも艶冶に歪んでいく禁猟区が
確かにそこにはあった。
やっぱり、このひとと向き合う時間は危険な香りがある。
『・・で、結局俺は時間を空ければいいんですか?』
『できそうか』
『今なら何とか取れそうですけど』
『急で悪いが今夜は』
『大丈夫ですよ。入電あってもよっぽどのことがなきゃ俺を外してくれるように頼んどきます』
『偉くなったもんだな』
『そんなこというひとには合わせてあげません』
『8時に新橋の改札だ』
『なんかあったらこの番号で?』
『今の番号だ。控えておいてくれ』
『りょーかいでっす』
素っ気なく切れたスマホを見下ろし、青島は自分の手が汗ばんでいたことに気付く。
酷く重たいものを持った後のように、指先が痺れていた。
話す仕事のはずなのに、喉も干乾びている気がする。
「すぅ・・っげ」
意識して思いっきり息を吐いた。
室井さん相手にどんだけ緊張してたんだよ俺。
こんなに話したのは久しぶりだった。
室井はやっぱりあまり変わっていないように思えた。それが少し青島の心をほわんと温かくさせ、同時に心の奥にちくりと刺さる。
特別な意味で大切なんだと気付いた相手と話すのは、ひどく、やるせない。
割り切った筈だった。だけど何がこんなに胸をざわつかせるのか。
その意味を、青島はまだ知らない。
気付いては、いけない気がした。
「はあ~あ。話ってなんだろ」
