雨夜の月 6
―overture
in the under world―
1
そのまま気を失ってしまったようだった。
気付けば辺りは薄暗く、まだ宵残しであることが伺える。
隣を見れば、青島を、その程良い筋肉の腕に包み込み、寝入っている室井の規則正しい寝息が頬に掛かる。
いつの間に持ち込んだのか掛け布団を二人で仲良く分け合っていた。
「・・・ッ」
身体を浮かそうと力んだら、アチコチに痛みが走った。
反射的に呻き、突っ伏してしまう。
肘で身体を支えながら、なんとかもう一度身体を起こし上げる。
室井の腕から抜け出し、ソファの隅っこに崩れるように座った。
そこで、自分が未だに真っ裸であることも気が付く。
思わず額に手を当てる。
深い溜息が洩れた。
昨夜の・・・・恐らくついさっきまでの、熱い交接を忘れた訳ではなかったが、そして、忘れられるような類のものでもないが
それでも、無かったことに出来ないかなと、都合の良いことを考えた。
昨夜はああするしかなかったけど
あんなに哀しい夜は、抱えるには重すぎる。
俺にも・・・・もしかしたら、このひとにだって。
いつもは上がっている室井の黒髪が額に落ち、掛けられた布団から覗く引き締まった肩が、しっとりと艶めいているのを
横目でじぃっと見た。
逃がさぬとばかりに抱きしめてきた熱い腕や、奪い尽くすような口唇の柔らかさが
まだ鮮烈に身体中に残っていて
そのあまりの残渣に視界が滲む。
一夜限りで手放す筈の温もりは、余りに慈悲深く、情に満ちていた。
こんなの
赦されて良い筈がない。
今までの自分たちの関係は、熱くせめぎ合ってはいたけれど、こういう熱を持たせたようなものではなかった。
いつの間に、こういう感情が芽生えたのか。
いつの間に、こういう関係が二人の間に横たわるようになっていたのか。
何処かで繋がりを意識しながら、それでも見て見ぬふりをし均衡してきたのに。今になって。
しまった。
近付きすぎた。
そう思った。
ソファの下でぐちゃぐちゃになっているシャツを取り上げ、額に押し付ける。
もう一度深く重い溜息が漏れた。
もう捕らわれてしまった。
無かったことには、潔癖なこのひとには出来ない相談だろう。
もっと、別の出会いをしていたら、別の答えも導きだせたのだろうか。
手放すことで、このひとをまた傷つける。
朝靄の薄明には何の答えも浮かんではおらず
心細さだけを纏わせる。
明度の低い静まり返った室内外の沈黙が、余計寂寞を募らせた。
女々しく泣くことでも出来たら、少しはマシなのかもしれないけど。
身体を起こして、立ち上がろうとソファヘッドに片手を付く。
足に力を入れた。
身体に鈍い痛みがツンと走り、ソファに崩れ込む。
その想像し難い場所の痛みは同時に、自分の晒した余りに猥雑な醜態にも通じ、汗顔した。
あんな・・・・あんなことされるなんて。・・・このひとに。
思わず克明に蘇った記憶をふるふると振り払いながら、もう一度身体を起こす。
溶けあってしまうまでに熱く抱かれ、一度も離しては貰えなかった室井の腕は
語らぬ室井の想いが籠もり、必死で伝えようとする哀願が痛いほどだった。
狂暴なまでの室井の想いが重い。
小さく呻きながら、くしゃくしゃのシャツに袖を通そうとして広げれば
シャツはすっかり乾いていたが、海の匂いがした。
そう言えば、と、まるで、昨日の騒動が酷く遠い過去の出来事のように思い起こされる。
なんか最近溜息ばかり吐いている気がする。
唇を噛み締め、這い上がろうとした時、後ろからグッと二の腕を掴まれた。
ハッとして身体に緊張が走る。
黙って腕を掴むだけの相手を、振り返る勇気は、ない。
黙って固まっていると、室井も口を開かなかった。
ただ、昨夜の熱を呼びもどすような手の平の温度が、素肌に分け与えるように沁み入ってくる。
それさえ、今の青島には息苦しさを齎し、沈痛な思いで俯いたまま、小さく口を開いた。
「放して、ください」
「どこへ行く」
「着替えて・・・帰ります」
「服も靴もないのにか」
「・・・・あれ?」
言われてから、昨日の惨事の詳細を思い出し、青島は更に頭を抱えた。
スーツもコートも海に浸かってしまったし、手に取ったこのワイシャツだって釦が引き千切れてほとんどない。しかもちょっと破けてる。
そういえば靴なんかとっくに何処かへ消えていた。
余りの情けなさに、観念して後ろを振り返る。
室井はソファに片肘を付き、半身を起していた。
腰から下だけを布団で隠した格好の室井もまた、全裸のようで、無駄な肉の無い引き締まった上半身を無防備に晒している姿は
男の情事の残像を容易に想像させた。
室井から滲み出る、雄の色気が、普段の彼とはあまりに異なり、直視できない。
さり気なく視線を俯かせた。
「あのぅ・・・・。出来れば、服と履く物、借して貰っても――・・・いいですかね?」
ゆっくりとした間を取ってから、室井が静かに答える。
「貸してやってもいい」
「じゃあ・・・・」
話は付いたとばかりに視線を伏せたまま、青島は腕を捻って室井の手を振り解こうとする。
しかし、益々室井は掴む力を込め、青島を引き寄せた。
酷使した身体に踏ん張りは効かず、思ったよりも容易に、青島の身体は傾ぎ、室井の胸へと崩れ込む。
「ぁ・・・っ」
「逃げる気か」
「そういう、わけじゃ・・・」
「だったら、まだ身体を休めていた方が良い。外は朝にもなっていない」
「いえ――俺・・・・」
言い淀む青島を、室井は上半身を起き上がらせ、しっとりと拘束する。
素肌に強く押し当てられた。
その腕の強さに、上辺だけで取り繕っている会話など、とうに見透かされていることを感じる。
「――・・・」
自分を拘束している腕を、今度はちゃんと意味を以って振り払い、青島は室井に背を向ける。
昨日のことは、一夜限りのまやかしだ。
そして、今はもう、朝がやってくる。
大きな溜息をワザと吐いて、ソファの下に身を沈めた。
「恋愛ごっこがしたいなら、他を当たってよ」
「昨夜のことが本気で遊びだと思っているのか」
「・・・・」
そうじゃないことは、熱の記憶だけを残しているこの身体が、何より真実を知っている。
だけど、バレていると分かっていても嘘を吐く。
「よくあることでしょ」
「俺はおまえと壮大な暇つぶしをしたい訳じゃない」
「どう、違うんですか」
「言っただろ、一生を掛けて恋をするぞと」
「男同士なのに?」
「そこは重要ではない」
「だったら尚更、重たいよ・・・」
「そうして知り尽くして境目も無くなって、共に生きていくってことなんだ。重いか。重くて当然だ。この先の全部を引き受けるんだから」
切々と語った室井の言葉は、それはまるで厳かな儀式の宣誓のようで
意味も価値もないと思っている青島の心に、避けても避けても隙間を捜して沁み込んでくる。
振り払うように、青島は頭を振った。
「わざわざ踏み込む価値が見えないよ・・・」
「そういう議論は、踏み込んでから言うんだな」
これは贖罪だ。
踏み込めない自分には。
「色気もないし・・・・」
「色気が必要か」
「必要でしょ、これが恋なら」
敢えて、そういう雰囲気作りは苦手そうなことを知ってて、それを口にした。
こんな反抗で、室井が諦めてくれるとは思っていないが
本音を暴かれるよりはマシだ。
「俺は、おまえ以外の人間と、寝たりしない」
「・・・・・」
言わせたかったのは、そういう台詞ではなかった。
そんな風に、真っ直ぐに気持ちを投げられれば、今の青島には何も伝える言葉など持たない。
青島は開けた口を、吐息だけ漏らして閉じた。
返答もせ
ずに、シャツを羽織って立ちあがる。
シャツは一晩ですっかりと渇き、海の香りだけを残していた。
その腕を、また掴まれる。
「そうやって、身体も心も与えて、そのまま自分は消えるつもりか」
「・・・・!」
意識したつもりはなかったが、身体に走った僅かな緊張を、たぶん、見透かされた。
室井が昨夜、剥き出しにぶつけてきた全ての感情に、このひとも、俺と同じ痛みと世界を抱えていたのかと思ったら、たまらないと思った。
同じであるなら、この先もきっと逃れられない。俺から。そして俺もこのひとから。
ならば、一度だけ。一度だけだからと、分け与えたかった。
一欠片の契約を。
そうすれば断ち切れるだろうと、一縷の望みを掛けたのだ。
甘かな期待をした。
・・・・そんなのは建前かもしれない。
ボロボロになって崩れそうなこの心に、一夜だけでもこのひとに甘えたかった。満たしたかった。
きっとそれが本音だ。
破裂しそうな心が限界で、水を吸い込む様に求めたのだ。そしてそれを、室井にもきっと見透かされていた。
「図星だな」
厳かに室井が断定する。
「俺が気付かないとでも思ったか」
「・・・っ」
「残念だか、その計画は諦めてくれ」
「室井さん・・・・!」
「抱いてしまっては、もう、行儀良く忘れてやることなんか出来ない」
室井もまた、怒りと憤りが混在したような灼熱し煮え滾る想いを、喉の奥で呑み込んでいた。
青島が傍にいない状況こそが正しいとされる世界が、物凄い不条理に象られている気がする。
その世界の歪みを、当の青島さえ気付いていないような態度が、輪を掛ける。
――こうやって、俺は青島に傷を付けることでしか、繋ぎとめられない。
でもそれが、唯一の方法だというのなら
俺は何だってやれる。
その分、俺は強くなってやる。
ぐいっと引き倒され、室井の下に組み敷かれる。
「ゃ・・・・っ、何、言ってんですか・・・っ。そんなことしてあんた、ただで済む訳・・・」
「別にいい」
「何言ってんだよ!本当に分からないのかよ!」
「わからなくていい・・・!」
怒声が低く掠れたように発せられた。
室井こそが、怖かった。
そんなことは、分からなくていい。分かってほしいのは、そこじゃない。
確かにここに青島がいるということを、実感し、己を満たしたかった。
消えてしまうと、一度でも思った、あのとてつもない足元崩れる不安は、今も尚、室井の胸で燻り続ける。
それを、払拭したかった。
それを抱えたまま、一生を潰すなんて御免だった。
一人では立てないなどと、幼稚な甘えを押し付けている訳ではない。
ただ、救いたいとか救われたいとか、そういう相互作用ではなく、共にあることだけで有益になれるという確信が
今の室井の背中を、柔らかく押している。
両肘を青島の顔の横に付き、室井が覆い被さってくる。
「また逃げるのか」
「どけよ・・・っ」
「おまえらしくないじゃないか」
「俺だって慎重になるときぐらいあるんです・・・っ」
きゅっと口唇を一文字に引き結び、青島は室井の胸をそっと手の甲で退かしてソファから起き上がる。
室井も無理に押し留めようとはしない。
素直に身体を離し、起き上がる。
「好きだと乞うても、抱い
ても駄目なら、どうやったらおまえは覚悟を決めてくれる・・・・」
室井の言っていることは、一見、無い物ねだりをしているような子供の、他愛ない我儘のような音色をしていた。
だがそこには、必死に伝えようとしている室井の意志と信頼が、切ない程に真摯に響く。
「それほど俺のこと、気にも留めていないくせに・・・・」
「・・・・いっそ、嫌いだと軽蔑してくれた方が、余程楽だ」
青島は笑って顔を背ける。
嘲笑した、つもりだった。
「おまえに一生捕らわれるのは構わない。恋だの愛だの唱える前に、一緒に生きていきたい。それだけなんだ」
あまりにシンプルで飾り気のない言葉は、単純な法則を告げている。
それ以下でもそれ以上でもない、最初のスターターは
確かにここに在り
そして、その先にどの道を選ぶかは、その後で決めればいいのだと。
ここが間違っているのだとしても、それを決めるのも、二人で。
一見無計画に聞こえるその言葉の本質は、同じ情を持つ青島だからこそ
正確に伝わってしまう。
「こんなことに、何の意味があるんだ・・・」
「おまえがそれを聞くのか」
独り言のように吐き捨てる青島に、室井は深い眼差しを投げる。
「俺を余り買い被るな。おまえが一番知っているだろう。俺がそれほど造詣深い男じゃないことを」
俯いたまま、吐息だけで青島が微笑する。
「じゃ、二人揃って転落人生ですか」
「そうしようって言っている」
そんなことは露ほども思っていないくせに、室井は青島の軽口に相乗りする。
「これまでが水の泡ですよ」
「バブルは崩壊するもんだ。経済もそうだったろ」
「弾けた後は?」
「それでも社会は続いている。それに。・・・・俺が求めているのはそんな不確実な幻じゃない」
一緒にと言っている癖に、室井はとっくに青島を置き去りにその覚悟を決めてしまっている。
ズルイよなぁと思う。もう、とっくに見透かされているのだ。心の更に奥底まで。
青島が独り、同じ場所で燻っている間に。
失くした後のことを、恐れるのは臆病なのだろうか。憂慮しないことは勇気なんだろうか。
賭け値が青島である室井と
この、表沙汰に高貴である室井を賭けることになる青島では、最初から戦うフィールドが全然違う。
不確定要素へ投じるには、あまりに大きな代償なのだ。
「なかったことには」
「もう、出来ない」
溺れているかのように息を震わせ、口唇を噛む青島の手首を、室井がそっと取る。
「俺たちオトコ同士ですよ・・・踏み外す道のレベルまで規格外な気がします・・・」
「怖いか」
「うん・・・・あたりまえだろ」
「後悔はさせない」
「・・・・・」
青島が睫毛を物憂げに伏せた。
「いつか、そのときが来たら・・・」
「惑うことなく、捨ててやる」
返す言葉も奪われて、しっとりと黙り込むと
室井が頭上から、冷たく優しい最後の言葉を降らせた。
「俺に、任せてくれないか」
頼りないだろうが、と付け加えられ、室井も口を噤む。
俯いたまま、思わず微かな笑みが青島の口の端に浮かんだ。
「キャリアってみんな我儘だよな」
室井の片眉が上がる。
室井の心臓は表情とは真逆に、早鐘を打っていた。
言うだけは言った。
これで、決定打を下されてしまうかもしれない。
もし、青島が決めてしまっていたら、これ以上自分に引き止める術はなかった。次は何を言ったら繋ぎ止められるだろうか。
キンと静まりかえった室内に、時を刻む秒針の機械音だけが支配する。
強く握り締めている手の平に、酷い汗を掻いていることだけが分かった。
ゆっくりと、青島が顔を上げた。
薄明るくなってきた室内に艶めく瞳が少し琥珀色に彩度を上げ、透明に浮かぶ。
それに魅入られたまま、言葉も身動きも取れなくなった室井は
ただ、息を呑んでいた。
衣擦れの音を立てて、青島がソファに片膝を付き、室井へ身体を寄せてくる。
人差し指を室井の口唇に当て、そっと脅えるようなたどたどしさで、口唇の輪郭を辿られる。
シャツの袖から僅かに覗く丸っこい指は震え、指先は冷たい。
そのまま身じろぎも抗いもせず、室井はじっと青島から視線を外さず、見つめ返す。
そっと顔が近付き、青島から口唇を重ねてくる。
どちらも無言だった。
青島が輪郭を確かめるように、室井の口唇を恐る恐る口唇で辿る。
柔らかい膨らみが、脅えるように重ねられた。
何かの聖なる儀式のようだった。
眼前に、伏せられた青島の睫毛が微かに震えているのを視界に捕えた時
それに煽られ、一歩遅れて、一気に鋼のように室井が動く。
青島の後頭部に片手を回して強く引き寄せ、しっかりとふくよかな口唇を塞いだ。
吸い付くように、身を投じる。
青島の指がたどたどしく室井の髪に差し込まれ、愛しげに引き寄せる。
その仕草に、室井の胸は強く締めつけられ
堪らなくなり、肩も引き寄せ、容易に崩れてきた柔らかい身体を胸に抱きとめると、首を傾けて口唇を深く塞ぎ直す。
角度を変えて塞ぎながら、何度も口唇を重ねた。
「おまえが誰を好きでもいい。誰を見ていてもいい。だが」
髪を掴み、頭部を掴み、祈るように囁いた。
「俺を連れていけ」
声もなく青島が瞳を瞬かせ、表情を歪ませた。
「まいったな忘れられないよ・・・」
泣き笑いの表情で、青島が室井の細く長い指に、自身の指を絡ませる。
青島がそっと額を室井の額に押し付け、目を瞑り、祈りの言葉のように、呟いた。
「うん・・・いる・・・ずっと居ます。居てやるよ、あんたがそれを望んでくれるなら」
「!!」
感極まる感情のままに、室井は青島を思い切り抱き締める。
青島の首筋に顔を埋め、息を殺して、喜びを深く感受する。
やっと聞けた承諾に、今は何の言葉も出てきやしない。
「もうどこにもいかないよ」
室井が少しだけ顔を上げる。
その瞳を真っ直ぐに捕えて、青島も室井を見つめ返した。
「あんたの傍で、あんたと一緒に笑っていたいです」
純真な瞳に言葉も忘れ魅入られていた室井は、緊張で凝り固まっていた頬を震わせ、ふっと眼差しを強めた。
片手を頬に滑らせる。
「勘違いしてしまいそうだ・・・・」
「え・・・?」
「まるで惚れてくれているような気になってしまう・・・」
キョトンとした青島の髪を優しく梳き、その頬に口付けを落とす。
「野上に義理立てしておけ・・・。俺は傍に居てくれるだけでいいんだ・・・おまえを護るのは俺だ。でも気持ちは・・・」
「勝負は帰ってきてからだ」
抱いておいて言う台詞ではないが、まあ、そのくらいの報酬は貰ってもいいだろう。
今回は痛み分けだ。
青島がふっと瞳に悪戯な色を乗せる。
「勘違い、ね。そうですね。あんた、ひとつだけ勘違いしてる」
「・・・なんだ?」
「・・・・じゃないです」
「え?」
「だから・・・・」
青島を覗きこむと、真っ赤な顔を伏せ、視線だけで室井を見上げる。
「青島・・・?」
「俺、別に野上さんに惚れてないです・・・よ」
室井の眼がまんまるになる。
「なんでそういう誤解が出来るかなぁ?相手、男ですよ?」
「それは・・・・まあ・・・・そうなんだが」
「俺、そんな節操無しに思われてる?」
「あ、いや、そういうつもりでは・・・・」
「彼とキスしたから?」
「・・・・・」
急激な展開に、室井は思考が追い付かず、フリーズする。
――惚れてない?なら、青島の心に居るのは誰なんだ?
一倉は確信を持った口ぶりだったし、室井もまた、青島から誰かを一途に想っているような直向きさを感じていた。
俺の、知らない人間か。
じゃあ、そいつは今まで何していたんだ?
青島が庇って隠しているってことか?
「なら・・・・おまえ・・・・」
上擦って、呟くように口唇を動かす室井を、上目遣いでじぃっと見てから、青島はふっと視線を下げた。
「そうでもないか」
「え?」
「だって俺・・・。俺も・・・・・」
「・・・青島?」
青島が視線だけ、室井に戻す。
琥珀色の瞳はあまりに頼りなく室井を映し、その儚さに思わず差し伸べようとした室井の手がピクリと制される。
「なら、あの時の返事・・・・。今するよ。俺・・・・俺も――あんたを要らなくない。あんただけだ」
「・・・ッ!」
「大好き・・・だった。ほんとは俺・・・・あなたのことが大好きです」
室井が目を剥いた。
震える手で青島の腕をぎこちなく引き寄せる。
「本当か」
「好き、です」
「本気にするぞ・・・っ。いいのか・・・っ」
室井の手に力が籠もる。
頬を包む室井の手に、己の手を重ねて青島が、軽く首を傾げる仕草で応える。
「――。俺が抱いたからそう言うのか」
「初めて会った時から、ずっとあんだだけを見てた。一緒にいるだけで幸せだった。遠くから見ているだけで、よかった、のに・・・・」
紡ぎだされる言葉は、切なさに彩られ、青島のこれまでの孤独感と虚無感を匂わせる。
室井はそれを呆然とした面持ちで見続けた。
「一度でいいから、言ってみたかったんだ。あんたに・・・好きだって」
確か青島は、あの海辺で、一生言うことのない言葉だと言っていた。
「あんたのことが・・・ずっと好きだった・・護りたかった。大切なんだ・・・一番好・・・っ」
堰き切ったように愛の言葉が溢れる口唇を、身体を引き寄せ、迷うことなく口唇で軽く塞ぐことで、言葉を止める。
額を押し付け、室井はじっとその眼を覗きこんだ。
言葉を止められた青島が、驚いたような色で、青島の純な瞳が宝石のように艶めき、揺れている。
あまりに綺麗で無垢な瞳に、室井は高揚感を押さえきれず、吸い込まれるように琥珀色の瞳を堪能した。
至近距離で暫く見つめ合っていると、フッと青島に顔を逸らされる。
顎に手を添えると、嫌がる素振りで身体も背けてしまう。
「何で避けるんだ」
「だって・・・」
「やっぱり嘘なのか?」
「違うって・・・でも・・・」
「ん?」
「あんたとこんなことしてるのが信じられないよ」
既に身体も繋げてしまった後だと言うのに、随分と可愛いことを言って今更照れているらしい青島に
流石に室井も呆れる。
大体今だって、イイ歳した男が二人、ソファの上で、下半身まで露出したほぼ全裸状態である。
そっと抱き寄せた。
自分の止め処ない発言に照れたのか、
腕の中で羞恥に色付くその頬に舌を侍らせると、震えるように目を瞑る。
「室井さん・・・っ」
「もう俺以外の人間に二度と触らせるな・・・・」
頬から耳へと口唇を移動させる。
「・・・ッ、・・・ん・・・っ」
「仕事でもだ・・・。誰にも渡さない・・・」
「ちょ・・・、と、も・・・・っ」
「やっと・・・・手に入れた。もう逃がさない、おまえは俺のもんだ」
「ん・・・っ、・・ゃ・・・くすぐった・・・、やめろって・・・っ」
キスを雨のように降らす室井に、青島が苦笑を洩らし、室井の顎を押し退けようとする。
その手を封じて、口唇も塞いだ。
腰を抱き、強く淡く求めていく口付けに、青島の手が室井の首へと回る。
「もうおまえなしでは生きていけない」
「何もいらない。あんただけでいい」
後ろ髪引かれる思いで別れを告げたあの冬の季節が遠去かる。
目頭が熱くなった。
2
「それで君は仕掛けたのか!」
「ええ、まあ・・・ここしかないって思ったんですよね」
室井から貸して貰ったロングTシャツの上に、藍紺のジーンズシャツの袖を通しながら、遠い目をして青島がぼやく。
簡
単な朝食を二人で一緒に作って、一緒に済ませ、シャワーだけは交互に浴びて(青島が嫌がった)
今、出かける支度をしていた。
本庁へ出向く前に、着替えを取りに青島の自宅へ寄る予定である。
流石にラインを合わせて仕立ててあるワイシャツやスーツは着れなかったので
普段着のフリーサイズのスチールグレイのシャツとジーンズのシャツを借りた。
ボトムスは、一応チノパンが入ったのだが、青島が着ると裾足らずになるので、室井の眉間の皺が深まった。
なので、裾にラインの入ったチャコールグレイのスウェットで我慢する。
体重を掛けると、まだ幾分あらぬ所に鈍い痛みが発する身体を棚で支えつつ
時折、顔を顰めながらも、なんとか着替え終える。
手串で、風呂上がりでまだ乾き切っていない髪を整え終えると、室井を振り返った。
「いい加減そろそろ突破口作りたかったんですよ。長期戦は覚悟してたけど、埒が明かないなぁって」
「もう一人捜査員を潜入させていたことは?」
「なにそれ。・・・・聞いてないですよっ。もぉぉ新城さぁ~ん・・・」
ボヤキながら、青島がコートの袖を通す。
コートも、室井のネイビーカラーのコートブルゾンを借りた。
ちなみに、無かったことにしたいのだが、ボクサーパンツまで室井のだ。
「少なくともその人物は君と協調を計ろうとしていた筈だぞ」
「・・・あ。あの人かな?なーんか地味なのに良く視線合う人が隣の部署に」
「接触しなかったのか」
「だって俺、イチャモン付けられんのかと思って、避けちゃった」
「・・・・・」
潜入していた時の状況を今、青島の口からポツリポツリと聞かされ、室井は頭痛がする思いがした。
青島の口ぶりから、青島の野上への情は純粋な人情であったことが伺え、安堵もしたが
一方で、身体を差し出すような真似までして仕掛けた罠の意味が、室井には理解出来ない。
援護はないと分かっていたから仕掛けたのか、分からないから仕掛けたのか。
いずれにしても青島らの行動は室井にはリスキーにしか思えなかった。
もう少し、慎重という言葉を叩きこんでやりたい。
そこが青島らしさでもあるが。
「まあ、その人物の邪魔にならなくて良かった」
「邪魔・・・・」
「本部の捜査を正式にしていたのは、彼の方だ。事実、強制捜査に踏み切れただけの証拠を当てたのも彼だ。おまえは裏を取っただけだろが」
「だってディスク手に入れたの俺なのにぃ」
「不法入手だろう」
「うー」
ネクタイを締めながら、ジロリと室井がジト目を投げる。
「大体色仕掛けで誘惑するなんて捜査、聞いたこともない」
「・・・・・」
「一倉の言うことを真に受けるな」
「一理あるとは思ったんだよなぁ。面白そうだったってのもあるし」
何者にも染まらない、清浄な瞳に野性さを乗せて、青島が首を傾げる。
黒のロングコートを羽織り、身支度を整えた室井が、溜息を漏らして、真っ直ぐに青島に向き合った。
「青島、おまえはやっぱりちょっとおかしい」
「え~?そうですかぁ?だってチャンスですよ、チャンスって行くもんですよ」
「だからって思考が短絡的すぎる。そういうときは普通、外堀から攻めるもんだ。イキナリ本人を煽ってどうする」
「だって一倉さんが捨て身の戦法で・・・」
「もし相手にそのカードが効かなかったらどうする気だったんだ。その時点で野
上が首謀者
という根拠は何処だ」
「・・・・あれ?」
一倉は恐らく、野上の素振りを見ていて青島を使えば煽れると踏んだのだろうが
その読みは確かに当たっていた。
だが、恋敵として煽ることと、ボロを出させることは全くの別問題である。
幾ら恋情に火を点けられても、野上が情報を持っていなかったり、組織に対する決定権を持たなかったりした場合は
幾ら野上に取り入っても、事態の好転には持っていけなかった。
ましてや――
野上が、恋心と仕事は別物だと考える冷徹な男だった場合、身体を奪われた挙句、グループから抜けられなくさせられていた可能性が高い。
ゾクリとした悪寒が室井の背筋を走る。
今は平穏な明るさのある室内で、そして室井の隣で、頻りに首を傾げている青島が、この上ない幸福の象徴として
愛しさが溢れる想いに満たされる。
野上が青島に向けていた執着を、少し思い出しながら室井は言った。
「野上が、おまえに対して・・・・会社よりも、確かな気持ちが合ったから成立したんだろ」
「そうなのかな・・・」
何となく野上との数ヶ月を思い出す。
今から思えば、彼は青島に対して色々気を使ってくれていた。
恐らくは本当に、役員クラスにまで育て上げるつもりだったのだろうと思う。
毎回渡された海外新聞。そして、あの日最後にくれた空メール。
後で気付いたが、新聞はやはり、支社はないが主要な取引先のある国ばかりだった。裏計画はともかく、いずれ海外にも連れていく腹づもりだったのだろう。
そう考えれば、あの空メールの意味も分かる。
部屋に戻ってくることを知っている野上が、警告を促す信号だったに違いない。
最後に野上が想った相手は、青島の身上だった。
今になって、彼の様々なその心遣いの、意味が分かる。(スーツは、やっぱり俺で遊んでいたとしか思えなかったけど)
彼なりに、青島を愛し、大切にし、護ろうとしていてくれたのだ。
それに、俺は少しでも応えてあげられたんだろうか。
「何を・・・考えている・・・?」
室井の声に、現実に引き戻された。
見れば、口調は穏やかだが、何処か憂心な色を乗せた漆黒の瞳が、青島を見つめている。
「いえ・・・」
「野上か?」
バレバレだったらしい。
「そんな分かり易いですか俺?」
「あの子が好きだって顔に書いてある」
眉間の皺を深ませ、子供みたいな言い草で、室井が青島をそっと引き寄せる。
ちょっと可笑しくなりながら、青島も抱き寄せられるままに室井の肩にくしゃりと顔を埋める。
「やだな・・・もう全部終わったんですよ・・・全部。本当も嘘も、何もかも」
いつかまた、会いに行ってみようと思う。
~~~~~~
二人で玄関へと向かう。
扉の隙間からは、眩しい朝日がレモンイエローの射光を覗かせていて
眩しい一日が扉の向こうで始まっていた。
玄関にらしくもなく放り投げられた室井の革靴。
昨夜の惨劇の残骸だ。
そう言えば靴もなかった。どうしようかと青島が思案していると、背後から呼ばれる。
「ところで青島」
はい?と青島が振り返るのとほぼ同時に、室井の手がスッと伸ばされ、高潔そうな長い指が青島の頬を掠めた。
・・・と、思った矢先、青島の脚に室井の脚が前から艶かしく絡まされ、袖を引かれる。
ドキッとした次の瞬間には、身体は崩され空転し、ふわりと宙に浮いていた。
「・・・ッ!」
咄嗟に状況を呑み込めず、背中から叩きつけられる、と思って目をきつく瞑ると、温かく引き締まった腕が青島をふわりと受け止める。
「・・・・・」
「・・・・・」
呆然として、自分を胸に抱える男を見上げる。
ニヤリと口元が少し持ち上げられたのを認めてから、カッと頬を赤らめた。
「な・・・にするんですか!いきなり!」
「こんなんじゃ、確かに不意討ちで襲われたら一溜まりもないな」
「な・・・っ」
その時になって、大外刈りを掛けられたことを認識する。
「受け身は習っただろう?今度、背後から抑え込まれた時の対処法を教えてやる」
「・・・・っ」
室井が口角を上げるだけの、性質の悪い微笑を滲ませる。
「もしかして、室井さん、結構怒ってた・・・・?」
「警察官として最低限の防御を教えてやると言ってる」
「う・・・・」
「二度と他の野郎なんかに押し倒されるな。男なんて論外だ。襲われても抜け出せるだけの技術を身に付けろ」
「はい、すいません・・・」
しょぼんとした青島とは裏腹に、室井は笑いを口の端に閃かせたまま、青島の耳元に顔を近付ける。
「まずは俺に勝ってからだな。特訓してやる。じっくりと・・・ベッドの中ででも」
「ぃ・・・・」
口調は横暴だが、その瞳に室井の沈痛と憂いが隠しきれずに浮かんでいる。
それに気付き、青島の口の端にも笑みが滲む。
きっと、こうやって、室井から教わることは、これからの青島の強力な戦力になる。
それはまた、室井も同じなのだ。
補完し合う要素が、きっと俺たちを無敵のコンビに造り上げる。
堕ちていく要素が、必ずしも破滅の未来を持ってくるとは限らない。
「おまえを護るのは俺だ」
「喧嘩売ってんの?」
む、と青島が眉間を寄せ、頬を膨らませる。
空いた手で室井が青島の髪に指を差し入れた。
顎を持ち上げられ、何をする気なのか察した青島は、室井の口唇へ先に噛み付いてやった。
happy end

これにて完結です。あと後日談をちょろっと追加。
海の中でのちゅーを描きたかっただけなのに、またしてもこんな長ったらしい話に。今度はスパッと短編書きたいです短編。どうすれば短編が書けるんだろ
う・・・
ここまでお付き合い下さりありがとうございました!
20150412