雨夜の月 5
―ring
down―
1
コツ・・・、と、靴底が奏でる音が、透き通るように堤防に響く。
その干渉に、人影がゆっくりと顔だけ振り返った。
「なんでいんの・・・・・」
呟く声を、少しイエローがかった錆色の短髪が、バサバサと隠す。
パチンとケータイを閉じ、室井は静かに青島の登っている防波堤の下まで近寄った。
黙ったまま、海に視線を投げる。
防波堤は室井の胸元程の高さがあり、海岸線に沿って、まだずっと果てまで傾斜堤が続いていた。
立ち入り禁止区域の手前・・・その防波堤の台座に、青島はただ立ち尽くす。
目の前には、広大な海がミルク色に染まり、広がっていた。
磯の香りが強い。
青島は暫く室井を見下ろしていたが、やがて興味が尽きたかのように、ゆっくりと視線を海へと戻した。
「あんなラストで良かったのか」
「・・・・・」
打ちつける波音に混じり、風がパタパタとコートをはためかせる音が重なる。
辛抱強く待っていると、小さな返事が返ってきた。
「ええ・・・いんです」
「・・・・・そうか」
無言になる。
波の音が、気まずさもぎこちなさも、今は掻き消していく。
「探した」
「・・・・・」
リアクションがないことに構わず、視線も向けず、室井は勝手に言葉を続けた。
「どうせ居るなら、この間の浜辺だろう。なんで此処なんだ」
「・・・・・」
「ほんとに、手間の掛かる」
「・・・・・」
「ケータイも切りやがって」
「・・・・俺、もう探すなって言いましたよ・・・・」
「そんなにこの公園が気に入ったか」
「・・・・・・・」
立て続けに言葉を並べていると、青島が小さな反応を返す。
それにもワザと意識を向けずに、はぐらかし、拗ねたように散文した言葉を続ける。
「高いところが好きなのか」
「・・・・・」
「それにしてもすごい夕陽だ。あの日以上だな」
「俺、今、あんたと議論する気分じゃないんですけどね・・・」
「あの辺が都心部か。こうして見ると都会はごちゃごちゃだ」
頭上で、小さく笑う吐息が柔らかく溶ける。
寂寞の、優しい空間だった。
そのまま黙って、夕陽が水平線に近づくのを眺める。
蜂蜜色の世界に、波の音が幾度も幾度も打ち寄せた。
遠くに見える都会のビル群が、無機質な灯りを点滅させていく。
夕闇に浮かぶ都心の灯火は、そこに人の活脈があることを誇示し、同時に、そこに属さない存在を、逸れ者だと知らしめる。
ここは、誰もいない忘れられた場所だった。
これもまた、まるで、あの日の再現なのか。
リアリティの欠けた隔離された空間で、意識が夢と現実の境目を混濁させてくる。
あの日とは違って、今は遠くなってしまった存在が、ひどく心許ない。
全てが幻のような錯覚を帯びる。
柔らかな海風が舞って、青島が着ているカシミアのアッシュグレイのコート
をふわりと持ち上げた。
光を纏い、明度を上げて、軽やかに舞い上がる。
それを眼の縁に入れる。
潮のせいだろうか、そういえば、いつもの煙草の匂いもない。
今更ながらに注視してみれば
新城から聞かされた通り、青島は、数刻前に見た野上と全く同じ服装のようだった。
野上のスーツはボロボロだったが、元はこれだろう。
夕陽の紅色に縁取られた総身は、ブルー系で揃えられた高貴なスタイリングで、何処か野上を思わせた。
相似のストライプスーツが、時折、前を寛げられたコートの隙間から覗く。
滑らかなウエストラインと、遊び心を覗かせるタイピンが、印象的に夕陽を跳ね、視界を奪った。
そこに、深い海色をしたピアスが、差し色を加える。
ブルーにもグリーンにも光る、グレイがかった透明な瞳。
光を乗せ、沖を映せば
それはまるで青島を、別人のようにも、知らない人のようにも見せ掛けた。
「俺・・・サラリーマンだったんですよ」
「・・・・・・ああ」
青島まで
空気に溶けてしまいそうな不安に襲われ、全てが室井の都合の良い夢の続きのような曖昧さを齎し始め
確かめたくて、室井が言葉を選び何か発しようと思い始めた頃
遥か頭上から、小さな声が降り始めた。
今更なことを言い出す青島に、とりあえず肯定の相槌を返し
室井は消えないように、青島をじっと打ち守る。
「会
社辞めた後・・・・ビルの屋上から東京を見渡していてね・・・こんなに世界は広いんだ、だったらどこかに俺が入れる場所だってきっとあるって・・・そ
う思っ
た」
「・・・・・」
「刑事になれたのはその後だった・・・」
「そうか・・・」
袖口から、きゅっと握られた指先が僅かに覗く。
見慣れた筈の横顔は、金茶色に染め上げられ、陰影に伴い堀が深まり、整った顔をより秀麗に見せていた。
一瞬、本当に、誰だか分からなくなる。
「でも・・・・・」
独り言のような口調でそこまで言って、青島は、口を閉ざした。
室井が促しの視線を送ると、それに気付き、頼りなく透明な瞳を肩越しに室井へと向ける。
「あんたは・・・・。何しに、来たんですか」
青島の声はか細く、語尾は潮風に掻き消された。
感情も、明るさも乗せない、淡いグレイッシュグリーンが、黙って
室井を見つめてくる。
僅か半年ほど前、秋の終わりに再会した夜も、青島は似たような言葉を室井へ投げかけた。
あの時は、語る言葉も想いも定かではなく、酷く戸惑ったことを思い出す。
今、無垢で剥き出しの、あの日と同じ瞳と同じ言葉が、室井を咎める。
今度は視線を逸らさなかった。
「ここは海風が強い。・・・一緒に、帰るぞ」
「・・・・・明日には戻ります」
「みんな心配している」
「・・・・・」
びゅうっと、突風が音を立てて吹き抜けた。
それは、青島を背中から煽り上げ、室井を駆け抜けていく。
バサバ
サと、短い黒髪が風に舞い、室井の髪も乱した。
夕陽に照らされ、野上と同色の錆色の短髪が風に踊る。
以前より短くなっている髪は、やはり彼を彷彿とさせるが、童顔の青島は、より幼く見えた。
恐らくこれも、彼と同じ色、カットなのだろう。
そして、深い海色のピアス。
明らかに、野上の強烈で独占的な意志と意図を感じる。
室井の心は大きくざわめき、落ち着かない心を見透かすように、震える吐息が、夕闇に散った。
ここまで、青島にさせる意味・・・そして監禁行為。
恐らく、強いられていたのはスケープゴートなのだろう。
青島はどこまでそれを了承し、この数カ月を過ごしたのか。
区別なく誰でも救いたいと願う青島にとって、何も出来ずただ堕落する日々に従うだけの毎日は、過酷だったろうと、室井は同情にも似た気持ちを抱く。
ましてや、恐らく、野上は青島にとって大切な存在であると・・・。
一体どんな気持ちで。
グッと、拳を握りしめる。
「帰ろう」
奪われた存在の、余りの変貌した様相は、室井の心を苛立たせも、息苦しくもさせていく。
手を伸ばし確かめたい衝動を、必死に抑え、目に映る青島を表情をつぶさに観察した。
「色々聞いたんでしょ」
青島もまた、漫然とした瞳で室井を眺め、微かに首を振る。
ふっと、身体の緊張を解き、室井は一度だけ瞼を閉じた。
それを答えと解釈した青島が、眼を伏せる。
「俺、もう放っておいていいって言いましたよ」
「言いたいことがあるんだ」
「もう、いいですから」
「良くない」
いつになく強い威厳と風格を乗せた高圧的な口調に、青島が押し黙る。
じっと、二人は見つめ合った。
やがて、ゆっくりと、物憂げに青島が視線を遠くの海へと投げる。
「・・・・・・話。・・・って?」
***
室井はグッと拳を握り締め、腹に力を入れた。
覚悟を決める。
賽は投げられた。躊躇いも羞恥も脅えも呑み込んで、今、口を開く。
「君の、返事を聞きに」
「返事?」
「言ったろう?俺にとっておまえは要らなくないと。・・・・・その、返事だ」
顔を強張らせたまま、君の言葉が聞きたい、と室井は告げた。
馬鹿みたいに、手が震えている。
「別に・・・・不必要なもんじゃないですよ」
「分かっている・・・。でも俺が聞きたいのはそういうことじゃない」
「・・・・」
「俺は君の傍にいることを選びたい。君の、一番近くに居る人間であるために」
「何言ってンの・・・・」
海を見たまま、青島が柔らかい息を吐いた。
室井の眼は、青島から一時たりとも逸らされない。
「連絡しろと言っても、君は俺に遠慮するだけだ。・・・・多分、何より
俺のために。だから、俺が傍に居たい」
「関わると、ろくなことにならないの・・・とっくに学んだと思ってましたけど」
「離れている方が、もう嫌だ」
「一緒に居る方が嫌気差しますよ」
「そんなことはまずないだろう」
「俺を知らないだけだ」
「なら、言ってくれ」
少し焦れたように、青島が顔を少しだけ歪め
また肩越しに、疲れを漂わせた物憂げな眼差しを寄越した。
向けられた色素の薄い異色の瞳は、寂しそうで、本当に光に溶けてしまいそうで、ドキリとする。
こんな彼を見たのは、初めてだ。
思わず足を一歩踏み出すと、青島が先に口を開いた。
「あのさ・・・色々・・・。事情聞いたなら、もう分かるでしょ」
その瞳に、声色に。
それが、狙ったタイミングだったことを知る。
やるせない色に、数多を悟る。
唇を噛み、室井は拳を更に強く握った。
やっぱりだ、と思った。思った以上にきっと青島は苦しみ、責めては傷ついている。
なんてことだ。
どうして今まで気付かなかったのだろう。
恐らく室井が気付かない所でも、今までだって多分、ずっとそうだったのだ。
その笑顔の裏側で、感受性豊かに誰にでも共感し、誰にでも身を晒す。
柔軟性と適応力の高さ・・・・人の心を鋭敏に感じ取ってしまう分だけ、その機微に振り回される。だけど、決して、自己を優先させたりはしないのだ。・・・
こんな風に。
そして今、一人消そうとしている。
そうさせたのは野上だけではない。俺たちも同罪だ。
助けてが言えずに抱え込む寛容さに、皆が甘え、限界にまで彼を利用した。
いつだってそうだ。
だが、同時に言えるのは、ここまで身を捧げるのは、青島がそういう人への接し方をするからにも、他ならない。
そういう博愛の愛し方をする人間だからでもあるのだ。
そして今――その愛情は、俺へではなく・・・・。
こんなにボロボロになるまで・・・。
こんなにボロボロにしやがって。
行き場のない苛立ちが、室井の視界を塞ぐ。
「君がそうやって俺の知らない内に一人傷ついて苦しむのを、黙って見過ごすことが、もう出来ない」
「傷ついてなんかいないですよ」
「なら、何でそんな顔してるんだ」
「――。そんな人の良さ、要らないです。っていうか、俺が嫌ですよ・・・。第一、」
「離れていくな」
思わず被せるように告げると、青島が息を呑んで振り返った。
黙ったまま、見つめ合う。
「記憶の中だけじゃ、満たされない。もう・・・どうしようもない」
グリーンに瞬く瞳を真っ直ぐに見つめながら、懇願するように、室井が告げた。
「君は違うのか・・・・」
***
青島の顔が、哀しそうに歪む。
「それは――俺が一生、口にすることのない言葉です」
肩越しに室井を振り返ったまま、恨めしそうに陰りを帯びた瞳を揺らした。苦しそうに。痛そうに。
だけど、言葉は鋼の如く。
直後に風が背後から吹き付け、青島の髪がその顔を隠す。
「っ」
はっきりと告げられる意思に、室井は唇を震わせて噛み締めた。
青島の、強い離別と拒絶が、室井の身を貫く。
予想はしていたが、今の青島に取り付く島もない。覚悟を決めてしまった男に、縋る隙はない。
だが・・・・それは同時に、何かに脅えているようにも見えた。
「君の眼に、俺はそんなに頼りないか」
「そういうわけじゃ、ないですよ」
「傷ついているのは、君もかもしれないが、俺の方だ・・・」
「・・・・?」
一倉にあそこまで言われて、察せない程、室井も鈍くはない。
これまで、青島の見せる二人の距離に、どこか掴みきれない不確かさや曖昧さを漂わせていたのは
室井に対する感情の温度が低いからだと思っていた。興味が薄いのだと・・・。
だが違う。
その裏に隠された脆弱さを、もう、嗅ぎ付けてしまった。
青島が室井を拒絶するほどに、それは、室井への情の深さだ。・・・少なくとも、口付けたあの瞬間までは。
バカだなぁ、と思う一方で、その不器用な生き方が、この上なくいじらしい。そして愛おしい。また、そっくりだとも思う。
その愛情を求められるのが、今、何故、俺ではないのだろう。
言い変えれば、つまりは、そうやって、青島にとって絶ち切れる程度の存在なのだ。自分は。
例え、その決断が身を切られるようなものだとしても。
室井自身が、断ち切れぬ執着を抱いているだけに、この僅かな違いが重たく圧し掛かった。
「ご勝手に」
興味が失せたような青島の声が突き刺さる。
もう、瞳も向けられない。
いつまでこんな平行線を続けるのだろう、俺たちは。
観客のいない綱渡りを、ずっと二人で必死に続けている。
「君が望む未来を受け止めてやれないことは申し訳なく思
う。だけど、一緒にいる未来も考えてみる気はないか?俺と・・・」
「何のために・・・。そんなの、無駄な努力ですよ・・・・」
「無駄なことしていこうって、昔言わなかったか」
「・・・っ」
「青島。こっちへ降りて来い」
俺だって、もう、引き下がれない。
他人に全身で挑む彼の情が、欲しいと、真摯に乞う自身をハッキリと自覚する。
彼にこんな顔をさせた人物が、妬ましい。そして、憎らしい。
彼にこんな決断をさせた全ての世界を、恨みたい。
この腕で、思い切り抱き締めたい衝動が、抑えきれない程に膨らんだ。
「なんか・・・変ですよ言葉が。俺、普通に居ますけど・・・?刑事辞める訳じゃ・・」
「はぐらかすな。・・・もう分かっているんだろ」
哀しい恋の終幕の足音が聞こえる。
青島から室井に渡されるものなど、何もない。鮮やかな記憶だけを刻んで、消えていく。
室井から残すものなど砂粒もなく。
「分かりません・・・・」
「――・・・」
「も、帰ってくださいよ・・・っ」
「帰れるわけないだろう」
「・・・・っ、放っておけって・・・っ」
「・・・・嫌だ。君を残してなんて」
室井の臆しもせずようやく晒された感情は、多分、青島を更に追い込んでいる。
そうまでして欲しい浅ましさも、今は眼を瞑る。
呑気に出方を待つ余裕など、端からなくなった。
俺たちの未来は、最初から決まっていた。
この想いが、哀しい恋しか連れてこないなら、せめて、その結末を自分で齎したい。
強く視線が絡み合う。
お互い視線も逸らせずにいると、ややして、青島の方が先に顔を背けた。
パサリと前髪が流れ、目元が覆われる。
「俺と関わるとあんたまで不幸になる・・・。そう言ってるだろ・・・あんたまで狂わすの、見たくないんだよ・・・」
飢えるような野性味さえ覗かせ、いつもの臆病で慎重な姿勢からは想像も付かない室井の強引さに
青島の方が、何をどう反撃すれば良いのか分からなくなったのか、少しだけ息を乱し
本音らしきものを零す。
「何でそう言い切れる」
「みんな、俺と関わって失敗してるってことですよ・・・」
「俺はまだないぞ」
「自覚ないんですか・・・!」
「ない。それは、無いのと同じことだ」
「いつかきっとそうなる!」
「なら、その時まででいい。傍にいてくれ」
「・・・っ」
必死に自分を遠のけようとする姿は痛々しく、切ない。
哀しい恋が、迸る。
お互いの報われない想いだけを支えに、背中を預け合うことは、本当に愚かな弱さだろうか。
こんなに傷ついた目をしながら意地を張るのなら、せめて隣にいる存在を、自分にしてほしかった。
自分では、青島にとって事足らずであると分かっていても、そんなのはまやかしに過ぎないのだとしても
そうすることで、共に傷つく羽目になり、哀しい結末を呼ぶのだとしても。
それこそ本望だ。
今、他の誰にも、この役目を渡したくない。
「青島・・・降りてこい」
「いやです・・・」
「おまえが傷ついたことも、二人で受け止めないか」
「別に傷ついてません・・・」
「こんな仕打ちは早々起こることじゃない」
「違うって・・・」
「気に病むことじゃないから・・・」
「違・・うよ・・・っ、野上さんは!優しかったよ・・・!なのに、あんな別れにしたのは・・・っ!」
最早、一歩も引かない室井に脅えるように、或いは、愛しい者を護る愛の懺悔ように
青島が堰き切って叫んだ。
それは、青島が初めて見せた動揺だった。
***
突然の暴露に、室井が目を丸くして青島を見つめる。
青島もまた、期せず漏らした言葉だったのか、息を呑み、もう一度顔を逸らす。
袖口から僅かに覗く指先で、くしゃりと髪を掴み、悔しそうに口唇を噛み締めている。
「くそ・・・っ」
チロリと室井を見て、もう一度視線を逸らし、大きく息を吐いた。
恐らく、室井には聞かせるつもりのない失言だったのだろう。
感情を整えて直してから、青島は静かな声でもう一度語り出す。
「普段は・・・・・とても、優しかったです。直向きに向き合ってくれる人でした。何でもしてくれたし、何でもくれた」
「・・・・」
「俺を少しでも大事にしようと頑張ってた」
―彼、俺には素直だったよ
ふと、野上の言葉が過ぎり、室井の奥歯に力が入る。
「あんたらの・・・・上の判断を責めるつもりはないんだ・・・・。ただ、優しい人だったのに、傷つける別れにしかしてやれなくて・・・・っ」
恐らく、非合意の行為をされたのは事実だろうに
それでも尚、人を優しいと言える強さを、好ましく、愛しいと思えた。
彼の人を見る視点はいつも慈悲深く寛大だ。
だが、そこに込められた別の感情も、こんな時に限って過敏に嗅ぎ取り、僅かに室井の身体を震わせる。
「・・・・この・・・・数カ月、自宅に帰っていないと」
負け惜しみのように絞り出した言葉は、救いを求める弱さを映し出す。
二人の特別な間柄を、青島自身の口から直接告白され、室井の喉が異様に乾き、ヒリついた。
それに気付いているのかいないのか、青島は曖昧な笑みを浮かべただけに留まる。
「ずっと一緒だった・・・・。色んな話をしてくれて、夜は俺に尽くしてくれました・・・」
何より、この邂逅に於いて、これが、初めて青島が見せた動揺なのだ。
彼の感情を乱せたということは、それだけ青島にとって存在が大きいということだ。
やはり“野上”なのか・・・・。
身を切られるような痛みが走り抜ける。
「同じ服装をしている・・・」
「彼の趣味。見栄っ張りだよね~・・・。この間の服もそうだけど、結構拘りがあるらしくて」
「・・・・」
「そっくりでしょ。俺も驚いちゃった」
髪を持ち上げ、首を傾げてみせる。
その指に光るリングが、夕陽を走らせた。
嫉妬で煮え滾る思考の奥で、ふと、そのあどけなさに違和感を覚える。
野上との行為に罪悪感が見えない。
ということは・・・・。
「スケープゴート、じゃないのか?」
「う・・・ん、まあ・・・。ちょっと違った・・・」
そう言って、つい今朝方の事であるにも関わらず、青島は懐かしむ様な愛おしむような瞳をする。
――分かっている・・・悔しいのだ。
青島の中に、知らない間に隙間を縫うように入り込んだ存在が。
それが、自分でなかったことが。
室井の中に、微かな迷いが生じ、それが葛藤を生む。
本当は、青島の口から他の人間への想いなど、聞きたくもない。
手放し、送り出すのが、優しさか。
ただ、受け止めたい。
だから室井は黙って耳を傾ける。
「気も合ったし、色んなこと教えてくれました・・・」
青島の口調からは、やはり野上への恨み事や憎しみなどは微塵も感じられず
穏やかな時間を過ごせていたことが伺えた。
一倉は無理強いされたと言ったが、とてもそうは思えない睦まじさだ。
こんな風に、青島は誰にでも、優しく、ほんの少しの救済を残してくれる。
野上も、そういう青島に癒され氷解していったのだろうと、容易に想像が付いた。
一倉だって、ふてぶてしくも、そうだった。
同時に、そうなるまでの野上と青島の、濃密な時間が現実のものとして室井の眼前に重く横たわる。
どうやらスケープゴートで
はなさそうなので、少し安堵したが、それでも正義感の強い青島が、野上の提供した状況に甘んじなければならない運命に
室井も人知れず心を痛めた。同情もしていた。
幇助罪・現場助勢罪を問えるかどうかも微妙な所だが、ここまでした野上がそんなミスをするとも考えにくい。
だが、本当の所はどうだったのだろう。
具体的に何があったかまで
は想像したくもないが
二人っきりで過ごし、紡がれた時の濃密さは、また事実だ。
そこに、お互い友情以上のものが芽生えてもいたのは、確かなのだろう。
それは、野上からは切々と感じられた。
放さまいとする意志と、支配する独占欲。露骨なまでの執着。
そして今、青島にも――。
始まりは無理強いでも、その後、融解したのだろう。そして、もしかしたら、もっとその先も――。
男相手に何を考えているんだ、と思う。
しかし、あんなキスマークを付けるのは、やはり、そういうことなのだろう、とも思う。
得も知れないふつふつとした煮え切らない想いが身の内から湧き出た。
この痛みは・・・・知っている。
ふと、そんな自分に、心の中で室井は少しだけ自嘲した。
こんな些細なことにまで青島を独占したい、その飢えの深さが果てもない。
叶わぬ想いだと、ここまで見せ付けられ
想いが消えないのも、記憶が褪せないのも、どれもがみすぼらしいほど欲に従順なくせに、今や室井の確立の全てを成しているくせに
こうして、友達顔をして絆を紡ぎたがっている。
青島が別の人間と同じ時を過ごし、今も変わらず寄り添えるだけの記憶を持つことに
はっきりと嫉ましさを覚えてもいるくせに。
姑息だなと、室井の中の理性的な部分が、自身を嘲笑する。
「俺に逢わなけりゃ、こんな計画も――」
そういう青島の眼は、まだ何処か遠くを見ていた。見ているこちらが痛みを覚える程切なげに。
何かを慕うような瞳の色に、陰りが浮かぶ。
「悪いこと、しちゃった・・・」
「野上が殺害を教唆したのは事実だ。計画的犯行なら、君のせいじゃない」
「あんたは何も知らないだけだ」
ふっと、皮肉めいた、バカにもしたような、悟った笑みが青島の口元に浮かぶ。
「全部、知ってた・・・・だけど、だから、それは俺のせいだ。俺でなきゃ、こんな計画立てなかったさ・・・」
「・・・・」
「一倉さん・・・もだ。俺が・・・・巻き込んじゃって・・・・」
「一倉は自業自得だろ」
「でも、、色々心配してくれて・・・・」
「アイツの場合は――」
おまえへの愛情の裏返しだ、とまでは言いたくなく、口を閉ざす。
「それだけじゃない・・・緋森さんだって・・・・!彼女・・・・俺のために、資源調達部のパソコンにアクセスしちゃって・・・」
「遺体で見つかった女性か」
「・・・失踪する一週間くらい前かな。告白された。好きだって。可愛かったけど、こんな出会いじゃね」
「・・・・・」
「付き合えないって言ったら、諦めきれないって言われて。俺が応えられないのは、野上さんの圧力下にあって・・・パワハラ受けているからだって勘違いし
ちゃって」
「それで、無茶な真似をしたと?」
「たぶん、ね。野上さん、露骨だから・・・。俺のために何とかしてあげるってメールが来てた。・・・チェックしたの、失踪した後だったけど」
「・・・・でも・・・それだって君のせいじゃない・・・」
青島の眼が、切なく歪められた。
今までで一番、苦しそうな表情に、息を呑む。
青島もまた、孤独なのだと、今なら分かる。
切々と、だが、淡々と語られる昔話は、どれもが痛みに満ち溢れている。
望む愛情を得られず、満たされないままに、どこにも溶け込めず。
今の俺と同じだ。
多くの人に好かれ、多くの人に慕われ、囲まれている姿からは、室井とは対象的な幸せを得ているような青島だが
その実、抱えるものは、とても近しいものな気がする。
一番必要なものが、いつも遠い。
皮肉にも、こんな場面になって漸く、熱く共鳴してきた時代よりもずっと、青島そのものが身近に感じた。
心が掻き毟られる。
「野上を、待つつもりか・・・?」
「――・・・」
夕刻に入り、冷えはじめた浜辺の空気が、二人を取り巻いた。
野上の罪状決定はこれからの長い道のりだが、実刑は免れない。
それは遠く、孤独な旅になる。
青島は、何も答えず口元に小さな笑みを浮かべただけで、俯いた。
室井はまた、言葉を奪われる。
しばらくして青島が、小さな小さな声で、ポツリと口を開いた。
「再会した日のこと、覚えてますか」
「去年の秋の、か」
「あの葬儀・・・・・」
「――」
「大学のサークルから、ずっと一緒だった・・・・。数年前の夏、アイツの彼女、破局する時、言い訳に俺の名前使ったらしくて・・・。あと
は
泥沼。
修羅
場って俺、初めてみたよ」
「・・・・・」
「そのまま、喧嘩別れしちゃったままだった・・・・・。交通事故で死んだって聞いた時はびっくりしたなぁ・・・・」
「・・・・・」
「ごめんもさよならも言ってない・・・・ありがとうも・・・」
「それだって、君のせいでは・・・」
「人って簡単に死んじゃうんですよ、室井さん」
そっと耳元で囁くような言葉は、恐ろしくぞっとするものなのに、どこか倒錯的な甘さを含み
室井の深部から、痺れさせる。
動揺が、誤魔化し切れずに表に出た。
「青島・・・?」
空気の重さを和らげようとして、詰めていた息を吐けば、思う以上に震えた。
漆黒の瞳が艶を増し、じっと青島を映す。
「一生は一度しかないのに、思う様にはいかないんだ。それを受け容れていくしかなくて」
「・・・・」
「それでもみんなは幸せでいれるようにって願ってただけだったのに・・・」
それだけだったのに。
青島の小さな声は細波のように打ち寄せ、それに黙って耳を傾けていると、室井さん、と小さく呼ばれた。
視線だけ、チロリと青島に向ける。
「もう分かっただろ。みんな、俺と関わらなきゃ、生きてたし、幸せになっていた。惑わされることはなかった。・・・・・そして、あんたもだ」
「・・・・・」
「いや、違うか・・・。俺が、狂っていくのを見せ付けられるのが、もう嫌なだけか・・・」
手を伸ばせば届く距離なのに、青島が酷く遠い。
ゴォォと吹き荒ぶ強い潮風を背に、青島が一歩下がる。
「臆病なだけだ・・・」
かなり傾いた夕陽は紅く暗く、桜色の光線を藍色の空に放射状に伸ばす。
それを背に、金色に輪郭を浮き上がらせた青島が、もう一歩、下がった。
「帰ってください」
夕闇に溶けるように、青島が、また一歩下がる。
声に乗せる音は切なく、そのくせ、向けられる瞳はこの上なく弱さを乗せていて
室井はこのまま青島が本当に溶けて消えてしまう気がした。
「お願いだから」
地鳴りのように低く唸る海が、恐怖さえ煽る。
夕暮れが深まり、強くなってきた潮風に二人のコートが音を立てて羽ためいた。
「野上を・・・・待つのか」
「あんたに、関係ない」
「不安だと言うのなら、いつかその時が来たら、惑うことなくおまえを切り捨ててやる。俺の手で。だから・・・・今は来い・・・!」
「俺に構っている余裕なんかないでしょう。あんたには戻る場所がある」
「ないさ」
「待っている人がいますよ」
「君がいい」
「お断りです。俺にだって選ぶ権利がある」
きっとそれは、野上のことなのだろう。
だけど、青島をそんな哀しい過去に縛り付けておくことなど、出来る筈もなかった。
そんな風に、独りで、そんな哀しい決意を、させるわけにはいかない。
もし、そうすると言い張るのなら、俺も共に居る。
「だが、俺もどうせもう逃げられない」
逆光になり、影に消えた青島の表情が良く見えない。
何かに押しつぶされそうな、圧迫感と不安感が押し寄せ、室井の張り付いた前髪を蹴散らせる。
「君が誰を想っていてもいい。俺が全部受け止めてやる」
「~っ!だからっ!あんたの人生の中で、俺はそれほど重要なファクターじゃないでしょが!人が良いのも度が
過ぎると罪です
よ」
「それはおまえだろう?いや、そうじゃなくて――」
青島の声が震え、その感情の揺らめきが、そのまま室井へとぶつけられる。
向けられる感情の全てが、痛みに満ちる。
それは、室井を護るためなのか、それとも心の中の大切な人が消えないからか。
共鳴するように、室井の心もざわめきだった。
「君を一人で泣かせなくない」
「あんたが!・・・あんたがそうやって甘やかすから俺は・・・っ。俺はどうしていいか、分か
らなくなるんだよ・・・っ」
「あおし・・・?」
「俺は、あんたと対等でいたかった。――いや、そうしなかったのは、俺の方か・・・」
「・・・・・」
「俺が、あんたを護りたかった。あんたを大切にしたかった。あんたが、俺の唯一の聖域だったから・・・っ!」
「!!」
―聖域―
それは、室井が常に青島に思っていたことだ。
そのために、こんなにも惹かれ、こんなにも焦がれ、こんなにも欲す――
「・・・っ!」
室井は目を剥いて青島を凝視した。
息が止まるかと思った。
やっぱり、自分たちはどこかが似ているのだ。
無意識にいつも、どこかがシンクロしている。
何処にも確かなものがない・・・・不確定要素で埋め尽くされた日常に、窒息しそうなほど息苦しさを感じる時がある。
そんな中でただひとつ確かな存在だった。
もうそれを、易々と手放すほど、自分は賢者にはなれない。
弱いのは、むしろ、必要なのは、自分の方だ。
堪らなかった。
こんな風に混じり合える人間など、人生に於いて出会ったことがない。この先も出会えるか分からない希少性に、目が眩む。
青島にそんなことを言われては、もう我慢など出来ない。
青島がその心で、今、誰を想っているかなど、最早関係なかった。
誰を想っていても、誰に揺らいでも、その心の奥に仕舞いこまれているのは。
変わらず同じ気持ちを持ち続けているのは。
他の誰もでもない。この自分だ。
室井の中の押さえていた感情が、爆発的に膨れ上がる。
この気持ちに気付いてほしい。その気持ちを向けて欲しい。
もう、止められない。
「俺が支えられるとまでは思っていない。でもせめて、一緒に居ることは出来る筈だ!」
「迷惑です」
「俺がそうしたいんだ。俺は――!」
「聞きたくない!何度も言わせんな!」
「青島、聞いてくれ、俺は!」
そのまま、キッと艶めく瞳を光らせ、青島が初めて室井への生々しい感情を露わにする。
それにさえ、室井の背筋は電流が走った。
深い海色のピアスが射光を発し、まるで拭えぬ烙印のように、主張した。
青島は室井を一瞥した後、コートを翻し、背を向ける。
「そうやって、俺とのこともなかったことにするつもりか!」
去る気だと分かり、畳み掛ける様に低い声で背中に問うと、一瞬足を止める。
が、青島はそのまま防波堤の上を走りだした。
「青島!待て!」
「来るな!」
「行くな!」
防波堤の端まで走り抜けた時、一度だけ、青島が振り返った。
すぐ傍まで室井が追い掛けて来ていることに気付くと、そのまま――
迷いなく、躊躇いも見せずに、青島はそのまま海へと足を踏み切る。
「ッ!!」
ひらりと羽根のようにコートが翻った。
ドボーンという大きな音と共に水柱が高く立ちあがる。
呆気に取られた室井が、一拍置いて、我に返る。
「そこまで全力で逃げることないだろう!!」
慌てて、先端まで掛け寄った。
円状に幾重にも広がる水の渦と、シャボンの泡が広がっている。
「・・・っの、バカ!!」
室井が防波堤に片手を付き、ひらりと飛び乗る。
もう一度、下を覗き込む。
海底に黒い塊が見えた。
ホッと息を吐くと同時に、怒りが沸き起こる。
鞄を投げ、靴を脱ぐ。
コートをばさりと脱ぎ捨てた。
グイッとネクタイを緩める。
海面を睨みつけ、そのまま、室井もまた、勢いよく海面へと飛び込んだ。
2
みんな、俺のために狂っていく。
それだけが、苦しかった。
「しょっぱ・・・・」
飛び込んだ際に口に入った海水を、甲で拭う。
こんなのを愛情だと言うのなら、それが疎ましく、それが苦しい自分は、バチ当たりなんだろうか。
贅沢を言っているだけの世間知らずなのだろうか。
涜心行為だとでも?
勢いで飛び込んでしまったため、スーツもコートも着たままだった。
重量を加速度的に増していく身体は、歩き辛く、信じられない程の負荷が掛かり、ままならない。
服を着たまま水中に入れば、大の大人でも、死の危険が迫る。
幸い近辺はインリーフであるらしく、足はギリギリ届いた。
直ぐには溺死の心配はなさそうだが、それでもどこにリーフエッジがあるかも分からない。
荒い息を小刻みに吐きながら、手で海水を掻き、歩をゆったりと進める。
爪先から急速に凍え始める四肢を、食い縛って動かす。
青島はとりあえず、一番近い東側の防波堤を目指した。
胸まで浸かる海は一面ミルク色に染まり、鏡のように煌めいていた。
ひたすら、眩しい。
――あんたと同じでありたくて
気付いてくれなくていい。
どんなことがあっても思い続ける・・・
あのひとに捧げる想いは、どれもシンプルだ。
室井の言葉が耳から離れない。
――傍にいたい――
あのひとも大概、勝手なことばかり言う。
バシャリと音を立てて、水面を叩き、頭を振った。
削除したい記憶ってのは、あるもんだ。
後ろで物体が水面に衝突する派手な破裂音が聞こえた。
「え・・・・?」
驚いて振り向けば、室井が飛び込んだのが、見えた。
うそだろ・・・っ。
青島は慌てて前のめりになり、東の防波堤を目指す。
「・・・っ、は・・・っ」
重い。
本当に動きづらい。
冬物の厚地コートは、どんどん水分を吸い込み、重量を増していく。
なかなか前に進めない。うねる様に身を惑わし、まるで闇の底に引き摺り込まれるようだ。
足も手も、思うように動かない。
急速に体温が奪われていく。
救いを求めるように、天を仰げば、蜂蜜色の空が見下ろしていた。
何故だか、泣きたくなった。
世界はこんなにも綺麗なのに。
切り裂くような痛みが、意識を朦朧とさせる。
当然だ。今日は小春日和だったとは言え、まだ海水浴には程遠い季節なのだ。
すぐ背後で水音がした。
室井が追い付いてきたのだと分かる。
振り向きもせず、必死に重い足を引き摺った。
靴が片方、海底の沼に持って行かれる。
それでも構わずに、身体を進めた。
痛覚がガンガンと刺激され、手足の感覚も思考も麻痺していく。
とにかく遠くへ。どこか遠くに。
このひとの視界から・・・このひとの世界から、俺を消せることが出来るなら、何でもいい。どうでもいい。
今は、室井から消えることが出来れば――!
あぁ、なんだかいつも、このひとにはそんなこと思っている気がする。
急に足を海中から引っ張られるような感覚がする。
見れば、室井が青島のコートを掴んでいた。
服が邪魔して思う様に泳げない。逃げれない。
もがく。
逃げる。
暴れる。
水音が高らかに飛散した。
夕日に照らされた海面が珊瑚色に揺れ、幾つもの光を散らす。
無言で身体を逸らして逃げていると、凍えた足がふらりと海水と砂を巻き上げ、アウトリーフに足先が掛かり
そこで足場を失った。
ガクリと水中に身体が巻き込まれていく。
強張った身体が竦んだのは、一瞬。
これで――このひとから、逃れられる。
青島は力を抜く。
身体は、服をヴェールのように纏い、海中へと誘われた。
一面ミルク色の世界。
海の中はとても静かで、海面から幾筋もの光柱が桃色に差し込んでいるのが
見える。
ゴボゴボと、幾筋もの水泡が光の柱となって海面に向かって立ち登っていく。
なんて静かで、厳かな幻想風景なのか。
そんなことをぼんやりと思った。
波の揺らぎの中で、背後からグッと力強く引き寄せられる。
温もりのある両手で頬を引き寄せられ、口が熱いもので塞がれた。
熱く口唇を重ねられ、飛ばしていた意識が朦朧と戻る。
驚いて抵抗を忘れれば、後頭部に手が回り、口付けが深まった。
キツく目を瞑り、我に返ってその腕を外そうと、もがく。
ごぼごぼという水音が耳鳴りのように響き、服が身体の自由を奪う。
浮遊感に揉まれながら、手で逃れようと抵抗するが、凍え、浮力に揉まれる状態では、思う様に抵抗できない。
悴んだ指先は縋るような仕草にしかならず、上下も分からず、揺蕩たった。
弧を描くように手で海水を掻けば
雲間に光が消えていくように、ビーズのような粒が、キラキラと反射し、辺りを埋め尽くし――。
一面ミルク色の海水がカーテンのように二人を包み込む。
光に揺れる身体が、平衡感覚を奪い、髪が舞い、足が縺れ、絡み合うまま、重ねられた熱が離れない。
室井の手が肩と腰に回り、その腕に強く抱き寄せられる。
何度も逃れようと手を動かすが、室井の熱い手の平は力強く、口唇を離さなかった。
息苦しいのは海の中だからか、突き刺すような海温のせいか。或いはこの刹那的な封印のせいか。
緩く首を振り拒絶の意志を示すが聞き入れては貰えず、腕と手と足で抵抗を封じられる。
力強い腕に抱きこまれたまま、口唇を角度を変えて塞がれた。
月白に染まる、無音の世界だった。
退けるために室井を掴んだ手は、いつしか縋るように重なり、二つの影はひとつだった。
冷たい海水の中にあって、口唇だ
けに灼熱があるように温もりを灯す。
室井の口唇は決して離れようとはせず
両腕の中に抱きこまれたまま、強く口唇を重ね、促されるままに、揺蕩った。
3
ザバリと音を立て、室井は水面から先に上がる。
直ぐに手を伸ばし、水分を吸って大分重たくなってしまい、登れない青島を、両手で引き上げる。
コンクリートの上に、どさりと投げ出した。
そのまま室井も腰を付く。
濡れて額に貼り付いた前髪を掻き上げ、大きく息を吐きながら、青島を見た。
四つん這いのまま、荒い息を肩で繰り返し、青島もチラリと室井を見る。
束になった髪から、水滴がぽたぽたと筋を描き、顎から滴り落ちていた。
その軌跡を室井の視線が無意識に追う。
無造作に開かれたワイシャツの襟から無防備に晒された喉元が、
脈打ち、早春の風に震える。
ぐっしょりと濡れたコートが、たちまち水たまりを作った。
垂れた前髪の奥で瞳が揺れ、視線が逸らされた。
瞬間、まだ逃げる気だと直感する。
案の定、動いたのは二人同時だった。
もそりと動き出した青島と同時に、追う様に手を伸ばした室井の手が、青島の腕を掴む。
嫌がって逃れようとする青島を押さえ付けようと、引き寄せるが、青島が腕を振り払った。
無言で、容赦ない征服する
ような捕縛に反抗し、顰め面をして青島が後ずさる。
立ち上がろうとする青島を両手で抱え込んで、抵抗を封じ、こちらを向かせた。
身を捩る動きに合わせ、二人揃ってバランスを崩し
そのままもつれるような取っ組み合いになる。
荒い息が交差する。
「青島っ」
「放せよ・・・っ」
「話を聞けっ」
揉み合う衣擦れと水音、喘ぎが空に重複する。
濡れた身体が冬の海風に晒され、水しぶきが風に散った。
急速に体温を奪われ、吐く息が微かに霞み上がっていく。
「あ・・・あんた、何考えてんだよ・・・!」
「おまえが逃げるからだろ!」
「追い掛けてくる方がどうかしてるよ!」
手を幾度も振り払われながらも、その逃げる身体を引き寄せる。
「あ・・・っ」
「逃げるなっ」
依然、拉致の開かない態度に、室井は半ば抱き抱えるかのように圧し掛かり、その勢いのまま、青島をコンクリートに押し倒した。
暴れる両手を払い除け、台座に抑え込むと馬乗りになる。
青島は尚も、室井を退けようと両手足で抵抗する。
「青島っ」
「やだ・・・っ、放せよ・・・っ」
「・・・っ」
「やめ・・・っ」
頬を両手で掴む。
「やっと言える。やっと告げられる」
青島は脅えたような瞳をし、足を蹴り上げながら、頭を左右に振った。
構わず、室井は身体で抑え込み、口を開く。
「好きだ。おまえが好きだ」
「・・・・っ」
前髪を掻き上げ、額を押さえ付け、その瞳を覗きこむ。
海に潜り、暴れた時に外れたのか、カラコンは取れ、本来の青島の茶褐色の瞳が濡れていた。
その懐かしく、愛おしい瞳を、間近に見つめながら、ああ、いつもの青島だと室井は思った。
「俺はおまえが、好きだ――」
青島の瞳が痛ましく揺らぎ、顔が泣きそうに歪む。
顔を背け、組み敷いた下から、足を蹴って逃げようとする。
それも抑え込む。
「や・・・だ・・・っ」
そのまま、口唇で口を塞いだ。
頬を抑え込んだまま、熱く、直向きに、何度も何度も重ねる。
膝で両脚を割り、間に身体を滑り込ませた。
「・・・ぅ・・・・や、め・・・っ」
退けようとする邪魔な手首を捕え、コンクリートに縫い付ける。
上から体重で押さえ込み、舌で口唇を割った。
「んぅ・・・ッ、ぅん・・・・っ・・・・」
初めて侵入した青島の口内は、熱く濡れ、眩暈がするほど柔らかい。
理性を吹き飛ばす様な味覚と触覚に、室井は我を忘れてのめり込んだ。
隅々まで丹念に舐めまわしていく。
懐かしい煙草の味がした。
室井は口付けながら、ようやく出会えた本物の青島の感触に、泣きそうな想いが込み上げる。
「ずっと、想っていた・・・」
「嘘、だ・・・っ、放せよ・・・!あんたは・・・っ、俺なんかにそうやって関わってていい相手じゃない・・・っ」
「一倉に言われたからか」
「!・・・なんで・・・それ・・・っ」
「投げ飛ばしてきた」
「は・・・?」
「野上にも宣戦布告してきた」
「へ・・・?」
室井の口の端に、不敵な笑みが浮かぶ。
「!!・・・あ・・・あんた、何して・・・」
「もう誰にも君を触らせない。誰にも渡さない」
押さえ付けていた手首から両手を滑らし、指を絡めて強く握り締める。
室井の濡れた短髪からも雫が滴り落ち、青島の頬へと流れていく。
至近距離で、青島の艶やかな瞳を思うままに見つめる幸福に、室井の身体も震えた。
「もう誰にも渡さない。君を――」
黒でも茶でもない、独特の柔らかい色をした瞳が惑う。
「好きなんだ」
「・・・・・っ」
輪郭さえ曖昧に揺らぐ夕闇が迫る。
突き刺す様な潮風に、風が光る。
日没間近な海はやがて、覆い包むように、辺りを閉じ込めるだろう。
薄浅色に明度を落とした海辺は、しんと静まり返り、波音だけが行き渡っていた。
薄暗さを増した藍色の空間で、二人はただ見つめ合った。
いつのまにか、青島の抵抗は止まっていた。
ただ、静かな時が流れる。
ややして、残光に瞳を艶めかせながら、青島が視線を逸らし唇を噛む。
避けられたその頬に、室井はそっと接吻を落とした。
「おまえしかいない。ずっと好きだ。大好きだ。だから・・・・やりなおせないか。ここから始められないか、俺たちを」
「そんなこと、俺が許すとでも・・・」
「この先おまえに何かあったとして、俺には心配することも、悲しむ権利すらないなんて、もう耐えられない」
「・・・っ」
「ここから始まる俺の人生に、おまえがほしいんだ」
「ば・・・か、じゃないの、あんた・・・」
何も告げないことで想いを貫くことを選んだ青島にとって、室井が告げることは、酷な仕打ちになるのだろう。
青島の優しさは、痛いほど直向きだ。
だが、それに応える答えが、放任ではもう、状況が許さない。気持ちが追い付かない。
それほどまでに、想いは膨れ上がってしまった。
さっきの一言で、室井にはもう分かってしまった。
青島が恐れているのは、野上ではない。
室井なのだ。そうすることで、室井を護りきれないことに対してだ。
こんな愛情を向けられて放っておけるほど、室井の愛情は不甲斐なくも利口でもない。
利己的と言われようとも、偽善であっても
行儀の良い建前で、大事なものを失う愚かな大人には、なれなかった。
「嫌だって言った、のに・・・!」
「強がっても、もう遅い」
「それだけであんたはあんたの人生を諦めるのかよ・・・っ」
「ここは始まりだって、今言っただろ」
怯むことなく、むしろ潔く全てを晒し、拭い去れぬ僅かな後ろめたさも、持て余していた熱も
青島だけに向けて解き放つ。
青島なら、室井の言いたいことも分かる筈だった。
俺たちなら、この愚盲な決断も、やっていけるという確信もあった。
ただ、今まで言いだせなかっただけなのだ。
心許なさに耐えきれなくなることを、何処かで予感しながら。
「時が経てば忘れられると思っていた」
だけどもう、賽は投げられてしまった。
清算する時が来たのだ。
組み敷かれたまま、キッと強い眼差しで、青島が睨み上げてくる。
「・・・っ、みんな俺のせいで傷ついて、狂って、間違えていった・・・っ。
その苦しさを・・・今度はあんたまでも俺に教えるのかよ・・・!寄りに因って、あんたが・・・っ!」
それを聞いた室井の顔が、泣き笑いに歪む。
「それはない」
「・・・?」
「大丈夫なんだ」
「何言って・・・」
ふ、と室井の目元が、ただただ柔らかく甘く、滲む。
「青島。人生かけて、命がけの人生最後の恋をするぞ」
「はい・・・?」
「これが、最後だ。だから――」
過ちの果てに、置き去りにされることはない。なぜなら――
スッと、もどかしい程の緩さで身を寄せ、室井は青島の耳元に口唇を滑らせる。
柔らかく啄ばみ、そっと耳朶に口唇を寄せた。
「一緒に、堕ちないか・・・・?」
ビクッとした青島が、薄く潤んだ瞳で、頼りなく室井を見上げた。
その瞳に、そっと微笑みを返す。
「こんなこと、おまえにしか言わない」
俺たちじゃなきゃ、出来ないことだから。
君に遠すぎて、苦しんだ日々も、泣きそうに歪んだ日々も、これで終わりにする。
もうこれで、全部、終いだ。
「それじゃあ、俺、一体・・・なんのために・・・」
「ああ、そうだな。俺も、おまえに同じことを思った」
「・・・っ」
何の拒絶も否定も映していない瞳が、苦笑したような、泣きそうな色を浮かべて室井を見上げる。
青島の身体が、寒さのせいか、涙のせいか
微かに震えているのが、広げて押さえ付けている手の平から伝わってきた。
濡れた身体は、早春の潮風に晒され、急速に冷えていく。
でも今は、それも気にならない。
凍えるような指先が、確かに掴むお互いの体温を、唯一の証であるかのように、獣のように鋭敏に知らしめる。
確かに痛覚は刺激されているが、最早何が痛いのかも、曖昧となり――。
ふっと、青島の顔が崩れ、歪む。
瞳が頼りなく揺れ、そのまま、逸らされた。
「は、なせよ・・・・」
「・・・・・」
「こんな時に、こんな・・・の・・・。反則だ・・・」
「かもな・・・・」
「・・・っ」
嗚咽のような吐息が漏れ
もう一度室井を見上げた時、青島の瞳は、零れんばかりの涙が浮かんでいた。
「室井、さん・・・・」
瞬きと共に、一粒の涙がポロリと伝い落ちる。
その声は、今までとは全く声色が異なり、柔らかく、消えてしまいそうなほど儚い。
室井は吸い寄せられるように、その闇に光る紅い口唇を、そっと塞いだ。
押さえ付けていた両手を強く握り、角度を変えて、口唇を幾度も擦り合わせる。
徐々に熱を孕みながら、何度も何度も触れるだけの柔らかい交接を続ける。
「ここが終わりだと言うのなら、俺の終わりに俺のために泣いてくれて・・・・・ありがとう・・・」
そんな人が、自分の人生に現れるとは期待もしていなかった。
それは、孤独な中に於いて、何よりの幸福だ。
「詭弁、だよ・・・」
「・・・・・」
真っ直ぐに室井を見上げるその濡れた瞳は、冬の夕暮れを宿していた。
室井は何も答えずに、宝石のように艶めくその瞳を、吸い込まれるように見つめ返す。
「出会わなきゃ・・・良かった・・・・」
「・・・・・」
「そしたら・・・あんたに・・・・こんな決断をさせることも・・・なかった・・・・」
「諦められなくて、すまない。君を、好きになっても、いいか」
影に溶け込む青島の瞳が、哀惜に揺れた。
抱えるように青島に圧し掛かり、吐息ごと奪うように口唇を重ねる。
握り締めていた手を放し、下唇に軽く歯を立てると、顎を掴む手に力を入れ、上向かせた。
ピクリと反射的に逃げようとする口唇を、舌で強引に押し開け、そのまま滑り込ませる。
躊躇いなく奥深くまで押し入れば
自分とは体温の異なる熱く濡れた口内が、室井をゾクリとさせた。
奥に逃げ込んでいた舌を吸い込むように絡め取り、舌で丹念に味わう。
「・・・っ、・・・・・・ぅ・・・ん・・・」
息苦しそうな吐息が合わさった口唇の隙間から漏れ、青島が切なそうに眉を潜めて耐える。
潮の味に混じって、懐かしく、親しみの深い煙草の味が、悠久の時を爆ぜる。
少しキツめに吸い上げれば、指がたどたどしくも縋るように室井へと回され、力が込められた。
応えるように、青島の濡れた身体を抱き込む腕に力を込める。
青島の手が、室井の首に縋り、濡れた二つの身体が密着した。
触れ合った所だけが一瞬の温かさを与え、しかし感じた傍から消えていくその覚束なさに
より貪欲に、留められない一瞬の儚さを、ただ追った。
俺をつなぎ止める腕。
夕闇に混ざる影が同じ色になって、溶け込んで、海風に朽ちた想いが一つになる。
縋るものが唯一これだけだと言うように、室井が甘い吐息で繰り返す。
角度を変え、貪り尽くすように食らいつかんばかりの口付けに、やがて息苦しさに耐えかね、青島が顔を左右に振った。
それを片手で柔らかく封じ、更に奥深くで濃密に交わっていく。
「・・・っ・・・・ふ・・・・っ・・・」
喉奥から微かな声が洩れ、室井を強烈な眩暈が襲った。
もう、なんの戸惑いも遠慮もなかった。
この口唇に触れて良いのも、奪って良いのも、自分だけだ。
これは、俺のものだ。
口内を掻き乱す濡れた音。波の砕ける音。海を渡る凪いだ風。
それ以外は何もなく――
西日がゆっくりと海岸線の向こうへと沈んで行った。
