―falsify fantasia 2―

室井は街中を駆けずり回った。
思い当たる所は、全部探したが、青島の姿はどこにもない。
小一時間も走り回ると、全身から汗が吹き出ていた。

足を止め、額の汗を甲で拭いとる。

どうしてこんなことに・・・!どうしてこんなことになるまで・・・!


茜色に変わりつつある冬空は、透明で、穏やかだった。




~~~~~~


いつも眉間に皺を寄せ険呑な表情を浮かべる室井だが、今日その表情は他者に痛みさせ感じさせる程、強張っているよ うに見えた。
堅苦しい表情のみを纏う室井にとってすれば、負の感情とはいえ、それを表に出していること自体、異常事態を匂わせる。
一倉はその変貌を、味わうように見つめながら、自らの表情も故意に消えさせる。

二人はゆっくりと向き合った。


「・・・話って何だよ、改まって」
「野上は青島に何をした。知っているんだろう」
「それを聞いてどうする」
「知ってるんだな、全部話せ」
「・・・・・・」
「一倉・・っ」

室井の詰るような声は、滾る火花を身体から迸らせる。

――本気か・・・
一倉は、生唾を飲み込む様に、ゴクリと喉元を鳴らし
室井の、毒がなく見えて、その実、鋭い意図を持つ潔い視線を、逃げることなく受け止めた。

吹き抜けになっているロビーから、隣接しているバルコニーの緑が 風に柔らかく揺れる。


「そうやって、悪戯に事を荒立てることが、一番アイツを追い詰めることだと思わないか。特に・・・お前に」
「何故」
「野上と青島の間に何があろうと、お前には関係ないだろって話だ」
「なら質問を変えてやる。一倉、お前は青島に何をした・・・!」
「――!!」
「答えろ!」

一倉の瞳にも、すぅっと真剣味が帯びる。

「それも、お前に話す義理はないと思うが?」
「だったらこちらから言ってやる。お前ももう青島に近づくな。指一本触れるんじゃない・・・っ」
「・・・・」
「青島に何をした・・・!」

およそ、室井らしくない横柄な文句を、迷いなく断定して言い放つ姿を、一倉は片手をポケットに入れたまま瞠目する。
「・・・・・」


室井の毅然たる視線は、燃える気迫と威圧感を持って、一倉にゾクゾクするような鋭さを与えた。
「成程ね・・・」
どうやらこの件についてのこちら側の事情を、色々と察してしまったらしい。或いは吹き込まれたか。
その上で、自らの意志で関わることを正式に覚悟させる何かがあったと考えるのが妥当だろう。
先程の野上との会話も、多いに大勢を悟せるに充分な情報になったに違いない。


どうして青島に関わると、こうも純粋に室井の高潔たる剥き出しの 感情が生々しくも露わに解き放たれるのか。
最早、安易な言葉で誤魔化されてはくれそうにはなかった。



頭を掻き、鼻から大きく溜息を吐く。

「お前にそう責められる筋合いも、ないね。お前には怒る権利もない筈だ。俺は一番初めに言った。アイツに手を出しても構わないか。お前は――勝手にしろっ て答えたんだ」
「手を出したのか」
「さあ?」
「あいつは男だぞ!何をしてもいいなんて言っていない!」
「勝手にしろと言ったのはお前だ。今更何を言っても説得力なんかないぜ」
「男相手に、女性にするような危惧を本気で抱く訳ないだろう!」
「そりゃ不幸な解釈の違いさ」
「だったら前言は撤回する・・・!」
「へえ、撤回するんだ・・・!」

一倉の口の端が面白そうに歪む。
その仕草が、馬鹿にされ軽んじられているようにでも見えたのか、合わせて、室井の眉間にも深く皺が寄った。



「茶化すな・・・。答えろ、一倉・・・青島に何をした」
「そうやってお前が本気で青島に関わる気なら、アイツが傷つくぞ」
「そんなことにはさせない」
「もうそろそろ青島のことなんか忘れろ。解放してやれよ。それがお互いのためだ。良い時期じゃないか」
「・・・・・」
「強情だねぇ・・・。そもそもどうしたって住む世界が違うのは事実だろうに」
「同じ言葉を返してやる。それこそお前には関係のないことだ」


一倉は、キッと睨みつけてくる室井をじっと見据えた。

既に馴染みとなっている、焦燥と嫉妬が入り混じったような覚えのある感情が、久しぶりにふつふつと沸き起こる。
腹に据えた何かが出来たのか、開き直った室井は、もう一歩も引く素振りを見せない。
どうしてこうも直向きなのか。
どうしてこうも頑固なのか。
どうしてこうまで・・・・青島なのか。

必要以上に請うその理由は、以前よりは、分かる気がした。
青島と直接触れ合ったことで、一倉の中の何かが組み換えられたのは、確かだ。
あの男に、他人をこんな風に捕り込ませるだけの力は、確かにあるだろう。
だがしかし、そうは言っても――そうだからこそ、今となっては、より複雑な感情が交差し、一倉を苛んでいく。
割り切れない感情が、胸の中で細波を立てる。


「いい加減、青島に夢を見るのはやめた方が良い。そろそろ良い潮時だろう。結果的に裏切られて損益を被るのは俺たちキャリアなんだ」
「何故そう言い切れる」
「お前の方が良く知っていると思うが」
「今更・・・」

散々、これまで長年揄われた事案だからだろう、室井は視線を逸らすことで、嘲笑の意を表わした。


一倉の脳裏に、あの寒夜にこの手から離れていった淡い温もりが、ふいに蘇る。
柔らかく、綿菓子のように冬の雨に消えた存在は
確かに、手に入れ損なった現実味の伴わない果実だ。
それを、子供みたいに綺麗な記憶として閉じ込めているのは
果たして一倉なのか室井なのか。
その差も、今となっては些細なことでしかない。
あの喪失感を、ここでもう一度味わいたくはない。味わわせたくもない。


「まあな。でも俺も青島と話をして気が変わってね」
「お前たちがどんな会話をしたかは知らないが――俺たちが幾ら理想を共有していたって、別に実質的な仕事まで逐一共に居る訳じゃない」
「どうだか。どうせ、それぞれの場所で自立という名の身勝手の元に、ご都合主義で言い訳していくんだろが」
「――」
「そんなの、我儘と変わらねぇよ。子供騙しだ。傍にいなきゃ心は必ず離れていく。この先までそんな都合の良い未来が用意されていると思うな」
「なら傍に居ればいいだけの話だ」
「そうすることで、アイツの甘さに、お前の足元も掬われるんだぞ」
「・・・どういう意味だ」
「――」


幼くも他愛ない愛情ひとつで、本気で青島を救えると心底思っているのが、腹立たしい。
目元に険しさを乗せながら、一倉は苛立ちを募らせた。

室井に備わる健全な直向きさは、いつだって色褪せることなく眼の奥に潜ませる。
堅苦しいスーツの中に包まれ、決して開放されず
花開くように主張するのは、いつだって青島にだけで。
傷つくことすら知らない無垢の罪深さを惜しげもなく晒す。

そんな簡単に、傍に居るとか護るとか・・・・なんの衒いも見せないで言って欲しくない。
そんな夢想を根拠にしているだけの理屈で、咎められる謂われもない。
純潔の誇大妄想を、木っ端微塵に砕いてやりたくなる。

馬鹿な衝動だと百も承知で、一倉は己の焦燥を制御出来ない。


「お前はもっと結果を重視するリアリストだと思っていたんだがな」
「今だって、そのつもりだ。邪念を躊躇いなく断ち切るだけの覚悟は持っている」
「どうだか。以前のお前はリスクを冒さない徹底した実学主義者だったよ。言い訳は立派だが、リスクを抱き込んだ時点でお前の負けだ」
「欲張りになっただけだと言っただろう。失うことで弱くなることだってある・・・!」
「それを相手も望んでいるという根拠は、例のポジションだろ。とっくに化石になっているとも知らずに・・・」
「一倉・・・?」

ようやく不穏な予感でも察知したのか、首を傾げ訝しげな視線を向ける室井に、一倉は少し意地の悪い笑みを浮かべ、一歩にじり寄る。


「青島だって、お前がいなくなったらなったで、よろしくやるさ」
「そんな奴じゃない」
「お前よりは世渡り上手だよ」
「誰にでも優しいだけだ」
「その優しさが、時に身を滅ぼしているんだろ」
「・・・・?」

一倉が、更に一歩近づく。
片手を室井の背後の大理石に付き、吐息さえ掛かる距離で一倉が室井の耳に口を寄せ、声色を落として囁いた。

「お前もアイツの身体に残ってる痕、見たんじゃないのか?」

室井が眼を見開き口籠った。

――何故その話題がここで。
・・いや、本当はさっきの野上との会話から、薄々感じ始めていた。
敢えて考えない様にしていただけで――・・・




「・・・・・まさか、あの痕の相手というのは」
「野上さ。強引に押し倒したらしい」
「・・っ!!何でそれが分かってて潜入を続けさせた!」

咄嗟に室井は両手で一倉のスーツを絞り上げるように掴む。
その怒りが迸る。

「その権利を持つのは本部だろ」
「傍に居たろう!」
「だったらどうだって言うんだよ室井。無様にここで焼きもちでも 焼くのか」
「お前も知ってて見逃したのか・・・!」
「仮にそれが無理強いだったとして!それを選んだのは青島 だ!」
「だったら尚更だ!放っておけるか!」


その怒りに煽られたのは、むしろ一倉の方だった。
純粋に驚きだけを讃える室井の眼差しに、一倉の心もこの上な く逆立つ。
――そんなリスクも覚悟も運命も知らないで!よくものうのうと人を詰れるもんだ・・・。


・・・あの夜は、傷つけることでしか、青島に手を差し伸べる方法が見つからなかった。
引き止めることも出来ず、腕の中の温もりが消えていくのを、ただただ呆然と見送る。
手放すことで癒やす不甲斐なさは
それが男の人生だと割り切るにはやるせなく、あの日の霧雨のように、一倉の身の内にまで冷たく浸み渡った。
そんな、どうにもならない現実を噛み締める辛さも痛みも知らない癖に
実直に想いを寄せるだけの室井に
俺の想いに気付きもしない室井に
ただひたすら怒りが湧いた。

皮肉なもので、その純潔なる怒りもまた、矢張り澱みなく、他の感情と同じように、一倉の場合は室井に向かう。
まるで、室井が青島を請うように。


一倉は、自嘲を乗せて口元を歪めた。

全部壊してやりたい。
全部めちゃめちゃにしたい。
何もかもをぶち壊して、思い切り傷つけてやりたい。



一倉が片手で、スーツを鷲掴みにしている室井の両手を力任せに振り切り、逆にその手をキツく握り返す。
そのままその片手を、後ろの壁へと縫い付けた。

「いいか、自ら堕ちていく人間は!周りが救うにも限界があるんだ よ。そんなの、お前だって散々見てきただろう!」

瞳にやるせない色が滲む。
虚勢だと分かってて、一倉は室井を征服する勢いが止まらない。

「救われるのもまた、一部の選ばれた人間だけなんだよ・・・っ」
「青島はそんな奴じゃない・・・!」
「どうして言い切れる!お前は何も知らないだけだ!本当の青島も!奴の本音も!」

室井が掴まれた腕を押し返そうと力を込める。

「その影で!傷つかない人間なんていないだろう!」
「幼稚な無防備さに足を引っ張られてこっちまで落ちたら、お互い共倒れになるんだよ!キャリアだという自覚を持て!」
「あいつだけ残して行けるかっ」
「そんな綺麗事、言っている内は、約束とやらなんか永遠に果たせないぞ。二重に青島を裏切る気か!」
「なんだとっ!お前だって裏切ったも同然だろう・・・っ」

見失いそうな距離間で、強い視線が絡み合い、低い怒声が空気をざわめかせる。

「青島は、自ら汚れ役をすることで、お前との約束を果たす義理を通している!」
「そんなの分かってる・・っ」
「何故それに応えてやらない!お前にとって出世ってその程度か!」
「職務上のことは、俺だって青島の独断に任せる・・・っ」
「その青臭くて中途半端な正義感が、アイツを追い詰めてくんだよ!」
「だからお前は傷つけて絶ち切ったとでも言うつもりか!自己欺瞞も甚だしいぞ!」
「お前は臆病なだけだ・・・っ」
「悪戯に傷つけることが利口だとは言えない・・・!」

掴まれていない方の手で、グイッと室井が一倉のスーツを鷲掴みにした。
それを滾る視線で返す。


「知らないってのは、時に罪だよな・・・。在り難くその恩恵を受け取ることが、真の礼儀だと思うがね・・・」
「その身を傷つけた見返りの、何処が恩恵なんだ・・!」
「それが、システムってものの醍醐味だろ。甘い汁は吸ってやるのが礼儀だ」
「これは明らかに度を越えている!」




一気に捲し立てた言葉が途切れると、二人の間には緊迫した沈黙だけが残った。
少し乱れた息遣いが、午後のまどろみに、不釣り合いに響く。
嘘のように凪いだ空から、春めいた風が何処からか香った。


室井がそっと顔を横に逸らす。

「俺たちには有り得ない。お前には分からないだろうが・・・・」
「どうしてそう言える」

室井が凪いだ空に視線を送りながら小さく呟くのを、一倉は静かに打ちのめされた気持ちで見つめた。
声を荒らげることも時たまあったが、ここまで感情を露わにされたのは、見たことがない。
能面のように貼り付けられた貌が歪み、咲き誇らんばかりの生々しい感情を、こんな形で見せられるなんて。


室井が緩慢な動作で、一倉のスーツから片手を話す。
一倉もまた、激昂した感情を、一息吐くことで抑えこんだ。


「・・・・で、口説き落とす算段でも付けてきたのか」
「――・・・」

ここら辺が室井だなと一倉は思う。
ここまで情熱を迸らせているのにも関わらず、その根源に、自分だけが気付いていない。
恐らく、その心の勢いのままに、求めているのだろう。

涼しい貌の裏側を、知らないのは本人だ。
だがそれは、故に不完全で、まだ形を留めていない。
室井が青島に求めるものは、完全で潔癖なものだ。
恐らく、青島に過ぎ去った栄光と夢を求め重ね、幻を見ているのだと思えた。

だったら、、この見当違いの盲者を、砕く最後の手段はただひとつ――


「なら・・・・それを誘発したのが俺だと言ったら、どうする?」
「・・・?何だと・・・?どういうことだ・・・?」

室井が怪訝な顔を向ける。
彼の脆弱さはここだと、一倉の中の本能的な部分が告げる。

「世の中、持ちつ持たれつなんだよ」
「・・・?」
「のし上がるためだ。そのためには何だって有り難く利用できるだけの度量を持つべきだお前も」
「――。状況がそうさせるならな。俺だってそこまで夢想家じゃない。だが、そんなのは稀だ」
「だから、自ら造るんだろ」
「あ・・・?」


一倉が何を言わんとしているのか、掴めないのだろう。室井の眼が、見様によっては頼りなく不安そうに揺らめいた。
実際それを、こんなに近くで見つめたのは、長い付き合いといえど、初めてだ。

吸い込まれそうな深い漆黒の艶めきは、およそ穢れを知らない高貴な光を持って瞬いた。
だが、その真の光は、闇すら呑み込む広大な慈悲を湛えていて
何者にも染まらない。染まることがない。
それを、最初に濁らせてみたい嗜虐心と、永遠に崇拝したい信仰心みたいなものが、いつだって一倉を苛ませてきた。
だが、今は、いっそ曇らせてしまいたい。この手で。


一倉は、じっくりとその色までを堪能するように視線を捕える。
身体を近付け、湧きあがる感情に逆らわず、ゆっくりと口を開いた。

「そこまで言うなら、起爆剤は何だったか、教えてやるよ。あの夜――今年の初め、野上が隠れているのを知ってて、見せ付けるように、俺が、青島にキスをし た」
「!!」
「怒るなよ。その時は合意だ。事後承諾ではあるが」

「そんなのは合意とは言わない!」
その時は?
どういう意味だ?

室井が訝しげな視線を送ると、一倉はその意図を読み、薄っすらと笑った。
室井の顔の横に片肘を付き、覆い被さるように覗きこむ。


「お前、青島に振られたんだろ」
「っ!!」


驚愕した顔に冷笑を向け、そのまま室井の肩を捕えると、トン・・・と、一倉は室井の身体を壁に押し付ける。
退けようと上げた両手首を掴み上げ、顔の横に縫い付けた。
手首の痛みに眉間を寄せる室井に顔を寄せ、何かを晒してもいるような眼光で強く射抜く。


「さっき、取り逃がす前、青島が言っていた。もう逢わないってちゃんと宣言したって」
「何故その話をお前が知っている・・・・!」
「知りたいか」
「――。・・・お前、青島に何を言った・・・?」


それには答えず、一倉は口の端を持ち上げる。
抵抗を封じられたまま、何とか逃れようと身を捩る室井は、それでも一倉から視線を外さない。
こういう気の強いところが、また一倉の中の強欲さを再確認させてくる。


身動きが取れず、キッと睨みつける室井を、一倉は満足気に見下ろした。

「室井、アイツから離れろ」
「それは自分で決める・・・」
「お前の意志なんか、とうに何処にもない。これは青島の意志でもある」
「どういうことだ」
「アイツ、俺に向かって頭下げたぜ。室井さんをお願いしますって」
「・・・・・っ」

抵抗を止め、ついに室井が驚きを持って眼を見開いた。


「2ヶ月程前か・・・。新城に、様子が可笑しかったから見に行っ てくれと頼まれてね。青島が証拠のディスクを送った日だ」
「・・・・・」
「そこで、身体に残る痕を見つけてな。野上に襲われたことを問いただした。お前には絶対言うなと言うから――」
「・・・?」


一倉が、スッと室井に顔を寄せる。
口唇が重なる直前で動きを止め、真っ直ぐに室井の漆黒の瞳を覗きこんだ。
驚いた室井が、両手を縫い付けられたまま、顔を僅かに背け、身を捩る。


口唇が触れるギリギリの距離のまま、一倉がその瞳を面白そうに眺め、薄く笑う。

「これで、室井のことを忘れろと言った。アイツ、もう二度と逢わな いって誓ったよ。アイツもそれを望んでいた」
「まさか・・・・っ」
「胸に抱きこんで、無理矢理口付けた。何度も何度も。押さえ付けて。強 引に舌突っ込んで。喘いで可愛かったぜ?・・・そうして、その確約を引き出した」
「そんなものは無効だ・・・!」


姑息な手段であることは、承知の上だ。
それでも、長年堰き止めていた防波堤は脆くも決壊し、流され、呑み込まれていく。


「なあ、青島のことなんか、忘れちまえ」
「青島にもそう言ったのかっ」
「女・子供じゃあるまいし、キスの一つや二つでうろたえるなよ」

恐らく、青島に関しては、潔癖なまでに完璧を求めていることを半ば確信し、敢えて一倉はその言葉を使う。

「青島は恐らく、性的行為の代償に野上から情報を引き出した。俺はそれを真似たまでさ」
「なんてことを・・・!」
「住む世界が違えば思想も理想も変わるのは世の常だ。そういう世界だろう」
「無理矢理言わせた言葉なんか信用出来るか!」
「何故だ?強引に本心を引きだした可能性だってある。刑事だろ」
「お前がやったことは――!」
「口付けることで引導を渡した。それをアイツは承諾した。それが全てじゃないか?」
「何でそんなことをした・・・っ」
「俺なりの餞別ってやつだ」

余りの非道な言葉にカッとなった室井が、再び手を振り解こうともがくが、一倉は容易に解放はさせない。
揉み合うとは言っても、背後を大理石で阻まれた室井に、ろくな抵抗手段は残されていなかった。


「なあ・・・・他の男の下で喘いでいるような男を追うのなんか、止めておけ」

悔しそうに下唇を噛む室井に、ひっそりと口唇だけで笑ってみせる。

「初めは興味無い振りしておきながら、よくもぬけぬけとここまで 言えたもんだ。抜け駆けでもしたか?・・・まあいいさ。これでお前も割り切れるだろ」
「青島に惚れている訳でもないくせに!」
「――。何でそう思う。・・・惚れてると言ったら?」
「だったらもっと大事にしてやれ・・・っ」
「お前には出来るとでも言うつもりか」
「ああ・・・!」
「へえ・・・!」

一倉は、心底冷笑を帯びた細い目線で、ねめつけた。

「青島の心に、本当は誰がいるかも知らないくせに・・・」
「・・・ッ、どういうことだ・・・」
「さてね・・・・」
「まさかお前は知っているのか」
「知ってたって教えてやる気はないね」

「だとしてもだ・・・!」
グッと呑み込んだ室井が、強く宣言する。

「――」
「もう、青島を手放しておく気はない・・・」
「青島は、戻らねぇぞ・・・!去らしてやれ。それが男だ」
「・・・・だとしても、だ」

室井が力なく、俯き、呟く。
まさか、そう来るとは思わなかった一倉が、逆に言葉を失い瞠目する。



「惚れたヤツに迷惑掛けるのが、お前の愛情か」
「・・・・だが」
「もうお前のことなんか過去にしたかもしれない。それなのにモラルすら越えて、気持ちを押し付けるのか」
「・・・・・」

室井が力なく俯き、声とか感情とか、全てを堪えるような表情をする。
恋する男の苦悩と潔さは、それだけで妖艶なものだった。


「失恋すら受け止められないなんて、みっともないぞ」
「俺なんかが行った所で邪魔になるだけなのは、突っぱねられた夜に痛感している。未練たらしいのも自覚済みだ・・・。ただ、これは俺のケジメでもある」
「それが青島を更に追い込むことになってもか」
「・・・・・」
「身勝手なのは、どっちだ。それよりもっと、手軽にアイツが望む未来を歩いてやれ」
「手軽・・・?」
「察しの悪い男だな。青島じゃなくて、俺と一緒にいてくれって 言ってんだよ」
「!?」
「分からないのなら、お前にも思い知らせてやろうか」


そう言って、一倉は室井を抑え込んだまま、片手で頤を持ち上げた。

「なに、を・・・!」

まさかの展開に、室井が硬直する。
触れる直前、一倉の熱い息が室井の口唇に掛かり、辛うじて室井は正気に返った。

「やめ、ろ・・・っ、一倉っ」
「忘れられないのなら、俺が忘れさせてやる」
「やめろ・・・っ!やめるんだ一倉・・・っ」

身体ごと抱え込み、室井の頤を指で強く固定した。

「い・・・・ちくら・・・っ」



ペロリと舌を出し、一倉が乾いた下唇を舐める。
室井はもう、抵抗も拒絶もしてこなかった。
熱い息が吹きかかり、一倉は昂然とした気持ちで、その怒りだけを 湛えている眩い瞳を見つめた。
抵抗を止め、透明に光る頼りない瞳に、一倉が映る。


「ついでにもう一つ教えておいてやるよ。お前が見たのは、多分――」

俺が付けた痕だ――
顔を寄せ、室井の耳元に吹き込むように、一倉は囁いた。


室井の身体から、ふっと力が抜ける。

今度こそ本気で口唇を奪おうとした一倉の腕の中で、室井の鋼の様な身体が力尽きたようにスルリと沈んだ。
腕と襟首に、室井の手がたどたどしくも縋るように回され
拘束していた手からも、力が抜け落ちる。
圧し掛からんばかりの体制だった一倉が、更に覆い被さるように傾いた。


――かと思った瞬間には、もう、一倉の身体は宙を舞っていた。



バターン!と大きな叩き付ける音がフロアに木霊する。

一本背負いを掛けられたのだと気が付いた時には
一倉の身体は、無様にも大理石の床に大の字で寝そべっていた。


「そ・・う、やって!青島にも強引なことをしたのか・・・っ!」
「――そうだと言ったら?」
逆さまの視界で、それでもニヒルな笑みを浮かべて見上げる。

「ふざけるな。青島は初めっから俺のものだ。誰にも渡さない!!」


そのまま、転がっている一倉を見捨て、室井は颯爽とその場を駆け出した。





~~~~~

足音が聞こえなくなっても、一倉は転がされたまま、春霞の藍白の空をぼうっと見上げていた。
ほうっと大きな息を吐く。
随分と、身体は強張っていたらしい。

崩れた前髪を、片手で掻き上げた。

「なんちゅー捨て台詞だ・・・・・」


天窓から注ぐ陽光に風が光る。
のどかな平日の午後だった。








どうしてこんなことに・・・!どうしてこんなことになるまで・・・!
焦る心とは裏腹に、時間だけが無情に過ぎていく。
室井はスクランブル交差点の真ん中で立ち竦んだ。

手がかりすらない。
そもそも、プライベートの青島が雲隠れしそうな場所などを、室井が知る由もなかった。


このまま見つからなかったら。

背筋に走る悪寒が、室井の足を強張らせる。
心臓が鷲掴みされたような気がした。
何より大切な人間が、この手から煙のように消えていくのを分かっているのに、時だけが過ぎ、止められない。
また肝心なところで自分はミスをするのか。
一番大事なところで、間に合わない。
青島がいないと思うだけで、心許なくなる自分を、誤魔化すことはもう不可能だった。


「くっそ・・・・っ」

形振り構わずに悪態を吐き、信号の点滅を後押しに、駆け出していく。


俺が護ってきたものは、一体何だったのだろう。
壊すことを恐れ、変わることを避け、大事に扱い、大切に尊重し、敬って接してきたつもりだった。
それが、この結末か。
他の、よく知りもしない人物に穢され、奪われ、踏み躙られ!
どいつもこいつも好き勝手に、俺の大切なものに傷を付けやがって!

どうしてこんな大事な時に、俺は傍に居られないんだ・・・!

こんな風にある日突然、身勝手に奪われるくらいなら。
こんな風に誰かに、理不尽に捕られるくらいなら!


・・・・一倉の最後の言葉がふいに蘇る。
――青島の心に、本当は誰がいるかも知らないくせに・・・


奥歯を強く、噛み締める。





突如ケータイが振動した。
突っかかるようにして立ち止まり、乱雑に胸から取り出した。
人波から外れ、道端へと寄る。

『室井です・・・!』
『新城です。状況は』
『――。・・・いや』
『そうですか・・・・さっき、探させていた部下からの連絡でも・・・成果はなしとのことでした』
『・・・・っ』


淡々と事務的なことだけを報告する新城に、感情を晒すのも憚られ、荒い息だけを返す。
言葉もなく佇んだ。


押し黙る二人の、気まずい沈黙を吐息で破り、やるせない声で新城が喋り始める。

『聴取自体はそれほど重要なものではありません。所詮形式上のものです。いなくても支障はない。・・・どうしますか、本格的に動かしますか』
『――。そうだな・・・いや・・・まだ失踪して数時間だろう・・・。騒ぎを大きくするのは・・・・』


現時点では、連絡が取れないというだけで、事件性が匂う訳でもない。
そもそも姿を消したと言う確証もない。
そんなことは妄言だと分かっていても、刑事としては客観視した視点が組織の要基本だ。


『なら、湾岸署にだけでも事情を話してみますか』
『それも待ってくれ。彼を追い詰めたくない。元々はこちらの不祥事だ』
『――。まあ、確かに』
『本部に報告は』
『――いえ』
『そうか・・・』
『室井さん、本当に心当たりはないんですか』
『・・・・残念だが・・・・』

『意外と脆いもんですね、男の友情なんて』
『――』

嘲るような口調だが、そのトーンが、かなり沈んでいるのを感じ取り、新城も本気じゃないことを察する。
新城以上に、多分、酷い声をしているであろう室井に、ハッパを掛けているつもりなのだろう。
今はその些細な気遣いすら、有り難かった。

沈黙を保ったまま、室井は背後のビルへと背中を凭れさせる。


『遊び半分で友情ごっこをしているんだったら、今後、捜査を振り回すのは止めて頂きたいですよ・・・』
『・・・・』
『貴方がラストカードなんだと思いますが?青島だって、貴方以外に見つけられるのも気が引けるでしょうし』

黙って新城の言葉に耳を傾ける。
近くをトラックの方向指示器が音声を鳴らして通り過ぎていく。


『少し時間をくれ』
『貴方が見つけられないのなら、それこそ無駄足です』
『分かっている・・・』
『指示は貴方が出すべきでは』
『しかし・・・』
『まあ、いいですけどね・・・。ただ――』
『ん?』
『貴方、一体今まで青島の何を見てきたんですか』
『――・・・!』

言葉に詰まり、顔を顰めた。

『伊達にお遊戯に付き合っていた訳じゃないんでしょう』
『そうは言うが・・・・』
『かくれんぼは、貴方くらいの田舎者は得意分野でしょうに』
『・・・・・。言ってくれる。分かった。部下は引き上げさせろ。私も、もう少し探して・・・・・・もう一度連絡を入れる』
『頼みます』


確かに、闇雲に彷徨ってみても、仕方がないのかもしれない。
こうして、当てもなく時を悪戯に潰すことは、決して効率的とは言えなかった。

握り締めたケータイを額に当て、眼を瞑る。


新城はああ言うが、やはり、自分になど、青島を探すことなど、不可能な気がした。
そもそも、青島は捜されることを望んでいないだろう。
だが、捜さずにはいられない。
自分では青島が想っている誰かにはなれない。
これはもう、自己満足だ。

いらない。何もいらない。青島だけが傍にいてくれたらそれだけで――


茜色に染まり始めた夕空は、雲を桃色に染め、確実に春の訪れを予感させていた。
ライトアップが始まったショーウィンドウでは、布地の軽い春物を纏うマネキンがポーズを取る。
季節は移う。
変わっていくのだ。みんな。
俺も、進まなければならない時が、来たのかもしれない。


無意識に握り締めたケータイがキシリと音を立てる。
それを溜息を零しながら気怠げな動作で胸ポケットに仕舞い、勢いを失った足を、とぼとぼと、とりあえず都市中心繁華街へ向ける。
このまま足を止めたら、何か大事なものが全て滑り落ちてしまう気がした。



平日ののんびりとした街の喧騒は、穏やかに行き交う。
青島不在の事実がまるで異空間の出来事のように思われた。
存在ごと消され、忘れられてしまうかのような恐怖に、身を 固くす る。
穏やかな陽射しが、返って室井の深部を急き立てた。


――この大都会のどこにいるんだ。
今、何を考えている。
俺は、おまえを・・・・捜しても良いのか。


幾ら仕事上で熱く関わっていたとしても、社会では一歩外に出れば、他人同然だということが
割り切っていた筈なのに、改めて痛烈に身に浸みた。

思考の片隅に残る冷静な自分が、己を嘲笑う。

一体、青島にとって、自分は何者のつもりだったのか。
交友関係は勿論、家族、嗜好、趣味、癖、ルーチンワーク・・・何も知らない。
職務経験上、人は傷ついた精神の時、人ごみに紛れたいタイプと避けたいタイプの二種類に分かれると推察されるが
青島がどちらの行動を取るか、それすら見当が付かない。
緊急事態に縋る相手、逃げ込む場所・・・。その手段。
そういう間柄ではなかった。
友人どころか、仲間ですらなかった。それが事実なのだ、自分たちの関係は。
新城の言った通りだった。

願い事は、まず唱えるところから始まる。
唱えないのならば、それは無いのと同じことだ。そんなことも忘れていた。
告げなければ、何もないのだ。

都合の良いオママゴトをしていただけだ、俺たちは。
綺麗事が変わるのを恐れ、絵空事で満足した振りをして、真実を宝石のように閉じ込めた。
仕事で熱く関わるように、人間としても、もっと上辺だけではない付き合いを築くべきだったのだ。
今になって、これほど後悔するぐらいなら。

知っているのは、目の前で動いていた、本物の彼の、あの姿だけ――
なんて儚い。

なんて遠いのか。
あの冬の日はあんなに近くにいたのに――!



「――・・・・」

ふと、室井の足が止まる。
閃きが脳裏をスパークする。
でも。まさか。

予感がする。
仄かな、何かの合図の予感。

顔を上げた。


それは賭けだ。
まだそこは捜していない。
もし、そこに青島がいなかったら、自分の行動も、想いも歴史も二人の時間も、何もかもが本当に意味がなかったのだということになる。
過ぎ去った栄華の風化だ。
諦めも、付くかもしれない。

でも、もし、居たら――。


室井は弾かれたように踵を返し、反対方向へと走りだした。






~~~~~~~


室井が公園に辿り着いた時、冬の陽射しはやや傾きを強め、辺りはオレンジの光煙に包まれ始めていた。
それはまるで、あの日の再現のように室井を取り巻く。


靴音を響かせ、最初から園内の最奥を目指していく。
あの日と同じように、何組かのカップルと擦れ違うが、やはり奥に進む程にひと気は無くなった。
あの時咲いていた花も、煌びやかなイルミネーションも、今はない。
末枯れた朽葉色の世界が、室井を最奥端へと導いていく。

――頼む・・っ、居てくれ・・・っ


数分で海岸線まで辿り着く。
パッと突然開けた広場を視界に、海を捉え、迷わず鋳物フェンスまで駆け寄った。

そこは、まるで去年の暮れから時が止まっているかのように、寸分変わらぬ姿をして佇んでいた。
走ってきた勢いのままに手を付き、あの日の青島が乗り越えた途切れたフェンスから、眼下のテトラポッドを覗く。

誰もいない。

息を切らして周囲も見回す。
人影一つない。
身を乗り出すように奥まった部分まで探したが、やはり、誰も見当たらなかった。
偶然にも、この世の中から人が全て消えてしまったかのように
辺りは生き物の気配がまるでなかった。


「・・・っ」

陰影を強め始めた壮絶な夕陽が辺りの粒子を七色に反射させ、朽葉色の草影を長くたなびかせる。
さわさわと草が鳴く音と波の音が、耳を掠めていた。


――やっぱり、無駄足だったか・・・。

室井は息を整えながら、絶望的な気分でたたらを踏み、360度彼方まで目を凝らした。


そんな、夢のような話が、早々手軽に起こる訳がなかった。
第一、あの日のたった一度のキスを忘れられないのは、室井の方なのである。
未練がましく、思い出に縋る様な発想を、青島がする訳がない・・・。


「・・・・は・・ぁ・・・」

室井は額の汗を拭い、両膝に手を当て、俯き、息を整える。
打ちのめされた気分だった。
自分の荒い息がやけに大きく耳に届く。
風に促され、海へと視線を向ければ、眼下には、薄紅色に染められ始めた海が、悠然と広がっていた。


じっと、海の彼方を見つめた。

なんて穏やかで、途方もない。
絶望的な広さだった。
自分と青島の道も、こんな風に、遠の昔に、遥か離れていた。
追ってはいけないということだろう。
未練がましいだけ、青島の負担になる。
引き際は、分かっているつもりだった。


「くそ・・・・っ」

ただ、苦しかった。
それよりも、悔しかった。
こんなになる前に、もっと何か出来た気がした。

今になってこんな形でこんなに後悔するなんて。


結果がどうであれ、想いを確かなものにしておけていたら。
この手に今も残る柔らかい温もり。
一度だけ触れた熱い口唇。
こんなに鮮烈に過去の青島に捕らわれたままで、自分は次に歩きだせるだろうか。
・・・・・・・いや、出来る。未来にも、青島の影はあるのだから。
俺たちの道は続いていく。
でも、酷く、心細かった。

きっと、こんな風に心細くなることを、自分は何処かで知っていた。
だから、綺麗事に治まることで永遠に続く楽園を、拠り所にしていたのだ。
依存・・・とは、少し違う。
だが、そこへいけば、必ず迷い、戸惑い、穢れていく自分を、浄化し導いてくれると、訳もなく思えた。
そこは、室井の聖域だった。
実際に直接逢いにいったことなどなかったが、そう思うだけで、支えられてきた。
そういう夢を、これからも見ていたかった。

こんな現実を目の当たりにされては、もう都合の良い解釈で夢を抱くことすら、出来ない。


それは、ずっと変わらないと思っていた。
こんな風に、突然消えてしまうとは、想像もしていなかった。


「・・・・っ」

声なき叫びが、海へと消える。

現実が、何か変わった訳ではない。
本当の真実を知っただけだ。
気持ちはずっと変わらない。
だが、還る場所が永遠に存在しないことだけは、分かる。この不確定要素に埋もれた日常に、出口なんかなかったのだと。


走ったために乱れた前髪が、風に揺れ額に掛かる。
室井はそれを鬱陶しそうに、片手で掻き上げた。


「負け惜しみだな――」
今、差し出す想いは、もう何もなかった。

空を見上げ、目を閉じ、力を込める。
未練がましい程の生々しい想いを絶ち切り、今、その地を後にする。





~~~~~

意識せず、来た道ではなく、海岸線に沿ってゲートへ戻る。
室井の半ば絶望に捕らわれた足は重く、引き摺るように歩を進め た。

暫く歩くと、遊歩道の先――防波堤の末端に、黒い物が動くのが視界に入る。

清掃員か管理者か。場所柄、客ではなさそうだ。
無意識に足を向ける。
もし、人なら、何か情報が聞けるかもしれない。

己の未練を差し引いても、青島の行方を捜す義務は残っていた。
単純に、心配でもある。



世界は、ひたすら、煌びやかだった。
季節柄、フェンスの向こうの草木も今はまだ唐茶に枯れ果て、花壇も土や枝ばかりの質素さだ。
ただ、黄金に染められた世界は、美しかった。
梅の香りが、微かに海の匂いに混じって届けられる。
何処かに早春を告げる足音も、来ているのかもしれない。
季節は確実に移ろっていく。



室井の足が止まった。

黒い塊はロングコートの男性だと分かった。
見慣れないアッシュグレイのコートが、時折風に煽られる。
何をする訳でもなく、ただ、海を眺めているようだった。

ドクリと心臓が軋む。


その後ろ姿に、見覚えがあった。










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