雨夜の月 4







―falsify fantasia―

「あれ?タイピンはそっち?」
「いや待て・・・・確認しよう・・・・ああ、そっちだ」
「チーフは七分だよね」
「そうだな・・・」

衣擦れの乾いた音だけが室内に響く。


都内屈指の外資系ホテルは、その独特のデザインフォルムをパステルに染まる朝靄の中にそびえさせていた。
目覚めたばかりの新鮮な空気が、街を目覚めさせていく。
春めいた柔らかい陽射しの中、カナリアに染まる室内で、男二人が、準備に追われていた。
上空ならではの張り詰めた静けさが、これから行うことの異質ささえ下界から隔離させる。


軽く視線を絡ませ、同時にインテリアミラーを振り返る。

このホテルには各部屋に等身大を映せる姿鏡が取り付けられており、細かい衣装チェックを行える。
都心幹線近隣という立地条件、主要幹線道路とのバイパス、プライベートへの寛大な理解とセキュリティの高さが評価され
主に、披露宴やパーティなどに利用されているこのホテルは
部屋の内装も一流であり、顧客のグレードも高い。
一泊だけでも、相当な金額である。
だからこそ、顧客選別が行われ、利用価値が上がる。


鏡の中に、男が二人並ぶ。

顔の造りはまるで違うのに
全く同種のスーツを着込み、同じ装飾品を施した二人は
一見すると、双子のようだった。
同身長、同世代であり、体格や肉付きもほぼ似通っている相似な特徴が、見る者にそう錯覚させる。


この計画の開始が告げられてから
青島は髪の色を変え、少し髪を切った。
短めのふわふわした淡く細い髪は、耳元で輝く特徴的な深いクリスタルブルーのピアスを印象付け
同じく、短髪を伸ばし、同じピアスを付ける野上と
髪質や顔立ちこそ違えど、パーソナルアイディンティティを同一化させている。
二人共、それほど、濃くアクの強い顔立ちでなかったことも、幸いしていた。
並べば別人だと分かっても、単独で遭遇した者には、同じ人という認識だろう。
人間の記憶とは、そんな曖昧なものである。
正に、野上の狙い通りである。


「おおぅ~・・・・」

シルバーブルーに光る、太めのリング。鮮やかなタイピン。ローズグレイのストライプシャツと、鮮色で 揃えられたチーフ、ネクタイ。
グレーにも見える透き通ったグリーンのカラコンは、瞳の色と混ざって独特の発色をしていた。
若さよりも渋さを見せるクールカラーで統一された洋装は、シックでノーブルな雰囲気に仕上げられている。
全て、野上のコンセプトによる受注だ。
特徴的なアイテムにカムフラージュされた二人は、口調や表情・仕草などを揃えなくとも、最早同一人物だった。




青島が感嘆の声を漏らし、鏡の前で回転していると、隣で野上が柔らかく笑った。

「いい加減慣れろ」

軽く耳元を愛撫する仕草で手の平を這わせた後、頭をくしゃりと撫でられる。
青島はそれを、振り払うこともせずに、悪戯を仕掛ける子供の様な瞳を覗かせた。

その瞳に釣られるように、野上もまた共犯者のソレを浮かべる。
仲睦まじ気なその雰囲気は、まるで長年連れ添った相棒のようでもある。


「ブルー系は、青島が着ると、まるで成人式だな。次回はもう少しカラーも吟味しよう」
黙って不本意そうな顔をして上目遣いで見上げてくる青島に、野上はまた満足したように、眼を細めて破顔した。



こうして、変装紛いのことをして、現地に出るのも、今回で4度目となる。
極秘の商談とやらは順調に進んでいるらしく、細部の打合せに入った。
・・・・と言っても、青島自身に何か特別な、有体に言えば、犯罪的な役目が与えられている訳ではない。
野上が最初に言った言葉に嘘はなく、青島は、会議に参加さえさせて貰えず、一緒にお伴しているだけだった。

ただ、近くのカフェなどで珈琲を頂く。
今日なら、恐らくこのホテルに付いているオープンテラスだろう。
指定された場所で、外国新聞を広げ、気取ってリーマンを演じていれば、それで良いと言われている。
勿論、その間、野上が何をしているのかを知っているのだから
これは、教唆、或いは共犯の域に価しているだろうと、青島の心中が全く痛まない訳ではない。



あの日、野上を挑発してプライドと引き換えに聞きだしたディスクの存在は、確かに有用なものであり
それを手にした警察は、このグループごと追い詰めるだけの、最大の根拠を手に出来た。

そこから関係者を芋蔓式に判別することが出来たが、何分、不法な情報入手のため
そのまま逮捕という訳にはいかなかった。
なので、今、捜査本部は確かな証拠探しに躍起になっている。
闇雲に捜索していたこれまでとは異なり、いわば辻褄合わせのような現状では
詰めるのも時間の問題かと思われた。

新城からも、もう降りても良いぞと言われてはいるが、このままいきなり青島が消えることで不審や警戒を生じさせるのも避けたかったので
引き続き、本部の準備が整うまで、という期限付きで
今も青島は内偵を続けている。




野上からスッと離れ、青島はソファにぽすんと沈み込んだ。
それだけで、青島の柔らかい髪は、ふわりと風に舞う。

「何時に出るんですか?」
「15分以内には迎えが来る」
「ふーん」


しかし、青島の本音は、もっと別の所に在る。
事件のことは、いわば建前だ。

まだ湾岸署に、戻りたくない。
今はまだ、少しでも記憶を呼び覚ます場所には、居たくなかった。
野上を挑発し、本音を晒させた代償に、青島は野上のカムフラージュ用人形として、プライベートまで支配下に置かれる生活を強いられている。
その横暴な異質さも、今は有り難かった。
現実を見なくて済む。

心の整理を付けるには、もう少し、時間が欲しい。そんな青島にとって、この異空間は願ってもない申し出だった。
別に、このままいつまでも逃げ回ろうとか思っている訳ではない。
この関係が期限付きなら、尚のことだ。
これは、都合の良いバカンスだ。


「またその顔だ」
「・・・え?」

思考の闇に埋もれていると、ふいに野上が声質を変えた。
ソファの肘掛けに軽く腰かけ、そっと青島の顎を掴んで持ち上げる。

「一ヶ月程前は、よくそんな顔をしてた。最近はそうでもなかったけど・・・・。何を考えている?」
「・・・・何も」
「隠し事はなしだぜ」
「よく言う・・・・」

お前こそ、という言葉を嘲笑の裏に含ませ、青島は顔を背ける。
柔らかい細髪が空気に舞い、ふわりと目元を隠した。

すると、思いの外、力を込められ、顎を引き戻される。
そのまま、野上が顔を寄せてきた。

「や、め・・・・、・・・・・っ」

退けようとした左手を取られ、ソファ上部で捕えられたまま、苦情を零しかけた口を、厚い口唇で塞がれる。


「ぅ・・・・・ふ・・・ん・・っ」

好き勝手に貪る舌が、口唇を割り、捻じ込まれていく。
甘い吐息が隙間から洩れると、それに勢い付けられるように、野上 が青島を抱えるように覆い被さった。

「ゃ・・・・め、スーツ、皺に・・・・」
「大人しくしろ・・・」
「放せ・・・よ・・・っ・・・ぅん・・・っ」

乗り上げるように口唇を塞ぎ、思い切り顔を上向かせられる。
喉の奥まで押し込まれた分厚い男の舌が口内を圧迫し、息もままならない。
顔を左右に振って、嫌嫌をするように抗議するが効果はなく、野上の猛攻は止まらなかった。


隅々まで堪能された後、吸い込む勢いで強く舌を吸われ、ようやく解放される。

「信用ないね・・・」

青島の濡れて紅づく口唇を、ペロリと舐めながら野上が言う。
青島は、小間切れ息を吐きながら、少し潤んだ瞳で野上を睨み上げた。

「これ以上はしないよ」
「・・・・・」
「ここではね」

そう言って、再びキツく口唇を合わされた。



――何でこの人は俺にキスするんだろう。オトコなのに・・・。

もう抵抗する気も薄れ、青島は野上の口唇に導かれていく。
右手で掴み直され、再び押さえ付けられた手は解放されないまま、口内を慣れた仕草で開かれ奪われていく。


野上のキスは、いつも乱暴で労わりの欠片もなく、ただ獰猛に全てを浚う。
この、枠から超えた異常な行為は、青島をリアルから遠ざけると同時に、底知れない闇を与えた。
自我から溺れていくように与えられる中
何もかもが曖昧に溶けていく。
もう戻れないのだと、繰り返し烙印を押されているような執心に、無意識に身が凍る。
事実、そういう意味もあるのだろう。


流されていく覚束なさに、眉を寄せ、身を捩る。
逃げようとする青島を諫めるように、舌に歯を立てられた。
続けて、弱弱しい抵抗しか見せない青島の細い腰が、グッと引き寄せられ、腕の中に閉じ込められる。
怖さなど、既に切り捨てたと思っていた心とは裏腹に、何故か身体は縋る者を探す弱さを炙り出す。

ソファと野上の身体に挟まれ、完全に動きを封じられた。
見た目の体型は同じな上、野上の身体は筋肉質で鋼のようであるため、どちらかというとスレンダーな青島は、力強く捕り込まれてしまう。

「ぁ・・・・・ぅ・・ん・・・っ、ちょ・・・・っ」

自分を留めたくて、力を込めてソファを掴んだ。
意地でも、野上自身に縋りたくはなかった。


このキスに、何の意味があるのだろう。
必死に、反射的に漏れる呻きを堪える。
それこそ、この距離間になってから、幾度となく繰り返され、その度に考えてきたことだった。
しかし、答えは分からない。
野上も、特に何も言わなかった。

・・・・・最近は、分からないことだらけだ。
そもそも、俺に、人の感情を理解する素質なんか、ないのかもしれない。
何より今は、突き詰めて考えることも、答えを出すことも、億劫だ。



「は・・・・っ、・・ぁ・・っ・・・」

野上のキスは角度を変え、より深く青島を貪っていく。
熱を孕み始めた息と濡れた音が、耳を掠める。
逃がさないという意志を、はっきりと感じた。
思わず眉を潜め、瞳を堅く閉じる。


キスは、何かの契約の証なのかもしれない。
それこそ、あのひとも――

あのひとも、何で俺なんかにキスしたんだろうか。
こうして身を落として、どんどん穢れていく自分はもう、室井を騙していくしか出来なかった。
同様に、野上に対しても、騙していることになる。
それは、自分自身さえも。


「・・・ッ・・・・・ぅう・・・・んっ」

思わず噛み締めそうになった震える口唇も、赦されずに口付けで解かれる。
圧し掛かられた身体で、促されるままに両脚を開かされ、仰け反りながら、嵐のような責め苦に耐えていく。

それこそ、これは何かの儀式のようだと青島は思った。

全てが嘘で塗り固められていく。曖昧な輪郭は、自分自身さえも容赦なく手放し巻き込まれていく。
でもそんなことはどってことない。
それで何かが護れるなら、尚更だ。



ゆっくりと野上の口唇が離れ、至近距離で青島を見下ろした。

荒い息を吐いたまま、お互いを見透かすように見つめ合う。
艶めく青島の瞳は、濡れて宝石のように煌めきながら、野上を映した。
そこに、魔力のような引力さえ感じ、野上は魅入られるように恍惚とした表情を浮かべる。

「後悔してる?」
「してない・・・・」
「そう。・・・・過去は都合の良いところだけをピックアップすればいいんだよ」
「それ・・・あんたの持論?」
「俺なら、過去なんか見るもんか」


ふざけた戯言に、思わず力が抜ける。
それを、受け容れと解釈したのか、野上が視線を合わせたまま柔らかく青島の下唇に歯を立てる。
押さえ付けていた手が外れ、後頭部に回る。


「何も気にせず、言うことを聞いていたら、今夜、御褒美をあげるよ」
「褒美?」
「俺にとっても、ね」

再びキツく、口唇を奪われた。
野上の手が、スラックスの上から半勃ちの形を確かめるようになぞっていく。


全てが遠くなっていく。

ありがとう。ありがとう。大好きだ――
終わってしまった時代に告げる言葉は、一欠片だけでいい。
他に無粋な飾りなど、必要ない。


ただ――そう。
曖昧な気持ちは胸の奥に潜み
時の流れは残酷だから
沢山の嘘で凝り固まっていく行く末は、何が真実か分からなくなるだけだ。





~~~~~~~



「どうしろっちゅーの・・・」

小さく独り言を呟いて、頬杖を付いたまま青島は、重ねられた新聞紙をパラパラと流した。


春めいた眩しい陽射しが降り注ぐ。平日の閑散さが心地良い。
ホテルのオープンテラスの中央に一人腰掛け、言われた通りに時間を潰していた青島は
手を止めて、顔を上げた。

優雅な動きで長い脚を組み換える。
ワザとらしい程のコテコテのエレガントでインテリジェンスに作り上げられた出で立ち は
顔立ちの良さも合って、確かにそこに居るだけで、充分な注目の的となっていた。
―特に何もしなくていい-
野上からそう言われている理由も、そこにある。

大衆の目には、この日は野上らしき人物がテラスで珈琲を飲んでいたと記憶され、そのような証言が多数得られるだろう。

小道具として、いつも海外新聞を持たされた。
それらを読むふりをしては、街並みや行き交う人を観察して時間を潰す。
最初は新聞内容に何らかの意図があるのかと訝しみ、色々推理を企てたものだが
小道具だといつか笑われて、見栄を張り過ぎだと軽口をたたき合った。

今日は、いつもの米国大手新聞ウォールストリートジャーナルの他 に、ル・モンド紙と、仏フリーペーパーが重ねられている。
確かに仏はフリーペーパーの方が主流と聞いたことがあるが
そんなことは問題ではない。
これらは、いつも野上が事前に用意してくれるラインナップではない。
ましてや仏新聞である。

やっぱり、何か意味があるんだろうか。でもフランスで天然資源と言われても、そうピンとくる物がない。
あそこは原発の国じゃなかったっけ・・・。
気だるそうにパラパラと確認していくと、一番下にはコリエレ・デラ・セラ紙があった。イタリア大手だ。


「どうしろっちゅーの・・・・」

再び同じ言葉が口から出る。
青島は首を捻りながら珈琲を啜った。

「支社とかあったかな・・・・」

冷め始めた珈琲は、ホテルで丁寧に入れられたもののためか、香りが時間経過と共により濃厚になり、最後まで楽しませてくる。
青島は、ほぉぅと吐息を浮かばせ、早々に考えることを放棄した。
空を仰ぐ。
真っ青に晴れ渡った空が、見える。
春めいた陽射しが降り注ぐテラスは、空気も季節の変わり目の匂いがし、時の移り変わりを感じさせた。



――世界はどんなに美しくとも、それは俺のためではないんだ――

「まったくだよ、室井さん・・・・」

以前、室井が漏らしていた言葉を思い出す。
何となく、あの時室井が言わんとしていたことが、今になって分かる気がした。


こんなに晴れ渡る春空も、それを見て喜ぶ誰かの想いも、全部憶測のようなものだ。
自分の都合とは無関係に、高気圧が来ただけで、喜ぶべき現象ではない。
別に、これまでだって、天気が良ければ気分が高揚するなどと言った子供染みた感傷を抱えていたつもりはない。
だが、天気が良いほど、腹立たしいというか、苦しくなることもあるのだと、初めて知った。
抱えるものは重たすぎて、もう、風景如きに縋れる気分にはなれなかった。

置き去りにされた気持ちが、世界に溶け込めず、行き場を失っている。
何だか自分だけが、異常に逸れている気がする。
今、自分は物凄く他所者だ。湾岸署からも、本店からも。そして、この会社でも。
その疎外感が世界と自分を隔て、そうなって初めて、何故だか室井がとても近く感じた。


あのひとは、孤独な人だ。そして、その分、情の深い人なんだ。
人に容易く頼ることを由としないだろうし、それを嫌悪する方だろう。
そんな人が、戦いの中で俺を見つけた。
きっと、そういうことなんだ。


視線を戻し、珈琲の残りを一気にをぐいっと飲み干す。

ふと、気を緩めれば、こうしてすぐに室井のことを思い出してしまう自分が情けない。
それだけ、室井は鮮烈な刻印を青島の中に残していった。



――君は要らなくない――
室井は、そう言った。

その意味を、あの時よりも強く意識する。
こんな逸れた気持ちの中で、求める下世話さも見せず、それでもそんな風に告げられる強さを、美しいと思えた。

皮肉なもので、こんな捩じれた状況になって初めて、あのひとの偉大さに気付く。
憧れや尊敬もあるけど、人として、本気で、気持ちが淡い想いに変わっていたことを知る。
変わった、という言い方は不完全かもしれない。
以前のような敬愛や理想も、今も胸の中にちゃんとある。しかし、それが深まる感じで、静かに隙間を満たすのだ。

――気付いたと同時に破局だ。・・・・ま、オトコ相手に別れもなにもないんだろうけど。


あれから、室井から連絡はない。
当然だ、あれだけ見事に突っぱねたのだ。
プライド云々よりも、人として連絡は取りづらいだろう。
俺だって、子供みたいに欲しいものに駄々を捏ねる程、モラルは失っていない。

ちゃんと、したい。
あのひととのことだから、ちゃんと在りたい。
何より、同等能力を持つ自分として、評価されたかった。

――尤もそれも、失敗に終わっちゃったんだけど。


ちょっと、最後が哀しい終わりになってしまったことだけが、悔やまれる。
どうしていつも、人に優しく在れないのか。
ただ、室井とのことは、全体としては、甘く儚い思い出だ。
同じ世界を見ながら、並んでそこを目指して行けたことが、今、誇りに変わる。
あのひとの中に、ほんの少しでも、俺を残せたのなら。

青島の脳裏に、これまでの鮮やかな軌跡が蘇る。

俺は、その小さな繋がりで充分だ。あの時もあの時も、あのひとの隣に立っていたのが俺で良かった。
胸の、痛みも疼きも、時の流れがいずれ埋もれさせていく。
多くのことを時の狭間に流しておきながら、この件だけを残すなんて、神様もそんな意地悪は、もうしないだろう。

だから今は、全てを忘れて、そっとしておいて欲しい。
湾岸署に戻る頃には、きっと、いつもの俺に戻る。
じゃないと、俺は一生、室井さんに心を捕らわれたままだ。
きっと大丈夫。きっとなんとかなっていく。こんなことはどってことない。



ケータイのバイブが振動する。

ハッと我に返り、青島は尻ポケットからケータイを気だるそうに取り出した。
メールだ。
開くと野上からで、『E/R』の文字。
これは無事商談は終わったということと、部屋へ戻れという合図だ。

「りょ~かいっ」

パチンと画面を指で弾いて、仕舞い込む。
新聞の束を無造作に重ね直し、席を立った。
アッシュグレイのロングコートをふわりと纏い、袖を通す。束ねた新聞を片手に、テラスを後にする。
そのまま真っ直ぐにエレベーターホールへと靴音を響かせた。








エレベーターの昇降音が微かに響く。他に誰も乗っていない。
シースルーエレベーターは、春の陽光を燦々とボックス内に注ぎ込む。
そこへ、またバイブが振動した。
青島は訝しげに、ゴソゴソを取り出すと、それは再び野上からで、件名も本文も書かれていない空メールだった。

「・・・?」

真っ白な画面が、窓枠から差し込む光を反射し、光の奇跡を描く。

空白の意図を探ろうとして、じっとケータイを見つめた。
しかし、それが答えてくれる筈もなく。
そうこうしている内に、ポンと高い音が鳴り、目的階へと到着した。

ドアが開く。

すると、世界が一変していた。



~~~~~~


「な・・・何・・・これ・・・」

フロアは、黒々とした人の群れでごった返す。
さっきまでの優雅で物静かな雰囲気はどこにもなく、埃臭さと薬品の匂い。粉塵の舞う視界の濁りとランダムに響く太い足音。
遠くから聞こえる、破壊音や怒声が、ただ事でないことを告げている。


――何があったんだ?

目の前を黒系スーツを着込んだ複数の男たちが、何やら叫びながら行き交っていく。
青島は、近くにいる人の肩を叩いて引き止めた。

「あのっ」
「関係者か!」
「え?」

青島が一瞬面食らった隙に、その男が青島の腕を捻じあげる。

「ぃ・・っ!」

壁に叩きつけられるように押さえ付けられた。
片手で抱えていた外国新聞が零れ落ち、フロアに無尽に散らばっていく。
それを、数名の男たちが踏みつけ、紙が破れるのが目の端に入った。


「痛いっての!何すんだよ!」

それには答えず、その男は青島の腕を背中へ捩じり上げ、押さえ込む。
後方へ向かって大声で叫ぶ。

「一名確保!」
「!!」

確保・・・?
「え・・・確保って・・・!ちょっと待っ・・・あんたら、警・・・」


慌てて振り向こうとするが、反対側からも別の男が肩を抑え込んできて、身動きが取れない。

「ちょ・・・っ、あのっ、放し・・・っ」
「無駄な抵抗は止めろ!」
「じゃなくてですね・・・!」

聞く耳を持たない彼らに、青島の頭は焦る。
しかも二人がかりで押さえこまれては、どうにもできない。
くっそ・・・どうしたら・・・っ!



「放してやれ」

青島が事態の展開に戸惑っている内に、答えは予想外の方角から振ってきた。
聞き覚えのある低い声に、頭だけ振り向けば、想像通りに見知った顔がある。

「い・・・ち、くらさん・・・」


この場に一人、そぐわない落ち着いた顔つきで、スーツの前を寛げたまま、面白そうにこっちを見て立っている。
一倉は青島と軽く視線を合わせると、口の端にほくそ笑むような笑みを滲ませ、顎を反らせた。

「全く・・・お前はホント、トラブルメーカーだな」

それから、青島を押さえ付けている男らに視線を戻す。

「おい、放してやれって言ってんだろ」
「しかし・・・・」
「そいつが青島だ」
「え!」


男達が、慌てたように青島から離れる。
しかし、今度は逆に青島が動かない。
身体の向きも変えないまま、じっと壁の一点を見つめている。
訝しげな視線が、輪の中の青島に注がれた。


――ここに一倉が居るということ。その命令が伝わるということ。

ドクリと心臓が鳴る。
つまりは、ここにいる人達はみな、捜査員・・・・・本店の刑事たちなのだ。

「!!」
バネに弾かれたように、青島が走り出した。
その二の腕を、ギリギリの所で一倉が掴む。

「放してくださいっ、一倉さん!」
「行っても無駄だ」
「でも・・・っ」
「さっき、本社の方にも強制捜査が入った。もう片が付いたんだ」
「!!・・・でも、野上さん・・・っ」
「だから、それももう終わったんだ!」


一倉が、力強い握力で、青島の二の腕を掴む。
一瞬顔を顰め、青島は腕を上げてその拘束を解いた。

グッと拳を握り締め、真正面に向き合い、口を引き結び一倉を真っ直ぐに睨みつけてくる。


「落ち付け。事件は全て片が付いた。さっき、別の関係者宅から遺体が一つ、見つかった。女性だそうだ」
「・・・・新城さんは?」

唇を噛み締め、青島が横を向く。
この喧騒の中でも、僅かな光を集め青島の耳でピアスがキラリと反射する。


「向こうにいる。今、野上と話しているだろう」

再び青島が走りだそうとする。
それをまた、間一髪で一倉が力任せに引き止めた。

「・・・っと!ホントに油断も隙もないな・・・」
「行かせてくれ!」
「落ち付けって!青島!!」
「・・・っ!一倉さん、今日、逮捕に入るって知ってたんですか?!」
「・・・ああ」
「っ!」

キッと青島が一倉を睨み上げる。

「だったら!何で教えてくれなかったんですか!」
「俺は担当者じゃない」
「だったら何でここにいるんだよ!」

怒声というよりは、悲鳴に近い青島の声が悲壮感を帯びてフロアに響き渡った。



「相変わらず、何処でも騒がしい男だな」

第三者の静かな声が割り込み、一倉と青島が振り返る。

「新城さん!」

「喧しい。少し静かにしろ。階下の客にまで迷惑かけるつもりはない」
「何で言ってくれなかったんですか」
「言ったからってどうにかなるのか?」
「でも俺だって・・・・!」
「お前はもう用済みだ。・・・・部屋に私物でもあるなら、今のうちに取りに行け。許可は取ってある」
「新城さん!!」

背中を向けて半ば立ち去っていた新城が、足を止める。

「上からの指示だ。・・・・その意味は――私よりお前の方が身に浸みているんじゃないのか」


青島が何も言い返せずに押し黙ると、新城はゆっくりと肩越しに振り返った。

「お前にも事情聴取を一応行うからそのつもりで」
「分かってますよ・・・っ」

不貞腐れた物言いをする青島に、新城はただじっと青島を見つめる。

「他の捜査員や担当者に余計なことは喋るな。取り調べは俺がする」
「新城さん!俺は・・・!」



青島が何か言いかけたその時、青島の視界に一際大きな動きが映る。
ざわめく人混みに視線を向ければ、その中から、手錠を嵌められ今正に連行されようとしている野上が
呆然とした面持ちで、こちらを見ていた。

野上がゆっくりと口を開く。

「青島・・・・お前・・・・」
「野上・・・さん」

言葉が続かず、そのまま黙って、見つめ合う。
気まずい沈黙が流れた。

相当抵抗をしたのだろう、野上の服は所々破れ、撚れていた。
唇にも血が滲んでおり、髪もボサボサに乱れ切っている。

しかし、見る者が見れば、今、青島が身に付けている全ての物が野上と同種であることは、判別が付く。
甘いマスクの野上と、少々童顔の青島。二人並んだことで初めて浮き上がる、その意図された目的は
例え片側がボロ雑巾のようであっても、一目瞭然だ。

同じ色をした暗いブルーのピアスが双角の光を放つ。

それをいち早く察知した新城と一倉の目に鋭さが走った。



野上の視線が一瞬青島から逸れ、背後の一倉へと向けられる。

「お前もか・・・」

青島に視線を戻した時には、その瞳に、燃えるような強い怒りが浮かんでいた。

「警察だったのか・・・っ」
「――・・・っ」
「ハッ、最初から見張られていたって訳か」
「それは違う!」
「俺を・・・・俺たちを騙していたんだな」
「でも俺・・・っ」
「この逮捕もお前が仕組んだことか!」
「違うって!」
「つまり、名前も素性もでたらめか・・・。なんて奴だ・・・全く、すっかり騙されたよ・・・っ」
「そんなことは・・・!」
「言い訳を聞く気はないね。とんだ喰わせ者だ、お前は!」


完全に青島を拒絶し、怒りを露わにする野上に、取り付く島はない。
くしゃりと掻き毟った指に同型のリングが凄然と光る。
青島はグッと唇を噛んだ。


どうしてこうなっちゃうんだろう?

いつも、自分の存在が、相手を狂わせ傷つけていく。
確かに、身分を偽り捜査のために近付いたのは事実だが、こんな卑怯で騙し討ちみたいな真似で逮捕するつもりはなかった。
こんな所で、そんな綺麗事言ったって仕方ないのも分かる。
でも、こんな・・・・・・こんな形の別れなんて。


青島は、両手でぎゅっとコートの裾を握り締めた。
視線を下げた青島の目に、手錠を掛けられた野上の両手が見える。
もう終わりなのだ。何もかも。
夢の時間も、青島の逃避行も。
時間はいつだって残酷で、待ってはくれない。


グッと目を瞑り、全てを呑み込んだ。

次の瞬間、顔を上げた青島の眼には、閃光を宿した英知が漲る。


「・・・・それで?俺に恨み辛み残して過去に捕らわれるツマンナイ男に成る訳だ、アンタも」
「お前が仕組んだことだろう・・・!」
「騙される方が悪いって言ってなかった?」
違う?と、妖艶な笑みを浮かべて、青島が首を傾げる。
さらさらと栗色の細い髪がなびいた。

野上がじっと青島を睨みつける。
逸らさず、青島も同じ瞳で見返した。
今は、逸らしちゃいけない。
それが、この人への、最後の餞になる。


「とんだタヌキだったな」
「知っていたと思っていたけど」
「自分がしでかしたこと、分かっているんだろうな」
「同じ言葉を返すよ」
「散々面倒見てやって、これか」
「結構楽しい学芸会でしたよ」
「この期に及んでも、口の減らない餓鬼か」
「憎まれ口しか出て来ないんじゃ、アンタも思った程、大したことないね」


擦り切れるんじゃないかと言う程、強い視線が絡み合う。
その迫力に、周りの誰も口を挟めない。
賽が落とされれば、掴みかからんばかりの気迫に、野上を支える捜査員の手も、自然と力が籠もる。


ピンと、辺りの空気が張り詰めた。


「過去は、捨てるんだろ?」
「受けた借りを返すまでが、現在だ」

にんまりと、青島が笑う。

「だったら恨めよ。俺をずっと憎んで呪えばいい。そしていつか、俺んとこへ直接借りを返しに来い。・・・・・出て来れるならな」
「・・・その言葉、後悔するなよ。どこに居ても必ず見つけ出してやる・・・っ」
「上等・・!」









本庁の自室で、ポケットに片手を突っ込み、室井は窓枠に凭れたまま外に映る都会の街並みを見下ろしていた。
今日は天気が良く、碧落の空に、何処までも都会のビル群が見渡せる。

室井が担当していた特捜は、年末には解散され、年明けから裏付け捜査が行われ、後処理も先月終了した。
後は、こちらの残務処理を残すのみである。
幾つか関与している他の特捜が立てられている事件も、そのどれもがほぼ解決を迎えつつあった。
いつもなら、寝る間も惜しむ繁忙さも、今週は偶然にも(室井的には嫌味にも)エアスポットのように暇が湧いている。


エアコンのモーターが微かに室内に響く。
扉の向こう側の廊下にもひと気はなく、菜の花色に染められたまどろみが、部屋全体をソーダのように包み込む。
すっかり春めいた陽気に、ぽかぽかとした穏やかさが、此処が神経を尖らす本庁であることを忘れさせた。

虚ろな瞳に映るものは、何もない。
ぼんやりと思考を泳がせれば、ここの所、行き着く先はいつも同じである。

室井は深い溜息を吐いた。

何故あんなことをしてしまったのか。
青島が、自分の意志で離れて行こうとしていることを目の当たりにして、身を切られるような痛みを覚えた。




―大嫌いだ―
室井に最後に残された言葉は、そんな冷たい音色だった。
その言霊を残し、青島は室井の前から消え去った。
それを室井は絶望的な気持ちで見送った。

本気で、青島に嫌われたなどとは、浅はかにも思っていない。
もし、嫌悪感を露わすのなら、こんな、未練を燻らせている男へではなく、口付けたあの時に、拒絶した筈だ。
直感として、青島は何かを隠していると思った。
だから、それを暴こうと強引な行動に出たら、それが裏目に出た。
返って彼を追い詰めてしまったらしい。

・・・・・おこがましいことだった。
自分が青島のために何らかの有益な存在であれるだなどと。
青島は、室井の救済など、求めていないことは、百も承知だったのに。
だが、口唇を赦されたら、もうどうにも、自分を彼の特別にして欲しくて止まらなくなってしまった。



室井は片手に持っていた読みもしていないレポートの束を、バサリとデスクに放り投げる。
少々疲れた頭には、形式ばった情報など何も入ってきやしない。
午後二時。
ブレイクタイムということにしてしまう。



――なんで、あんな眼で・・・・・。

縋るような、崩れそうな、哀しみを宿した瞳で、青島は室井を拒絶する台詞を吐いていた。
それを、青島自身は気付いているのか?

だが、そんな顔をさせたい訳ではなかった。
でも、そんな顔をさせているのが、自分の存在なのだということだけは、伝わった。

それに――そう、それだけではない。
室井がもう一つ心に引っ掛かっているのが、青島の身体に残された紅痕だ。
あれは、どう見ても情痕だった。
そういう相手がいるのなら、尚更、自分の出番はない。

室井は、拳を額に当て、堅く瞳を閉じる。



あの日、告白するつもりで、夜の街を探し回った。
告白というと、聞こえはいいが、正確には懺悔だ。
思わず口唇を重ねてしまってから、ずっと、その理由を捜しあぐねていた。
あらゆる自己の不具合を呑み込むのに、時間が掛かった。
男が男に口付けてしまう感情。
自分の過去や性格を振り返ってみても、あんなに衝動的に動いたのは、かつてない。
自分は、性的なことに関しては、奥手であり厳格であり、淡泊だ。
それが何故。

あの時の、あの現実離れした空間が、理性を欠いていたのだとしても、考え難い行動だった。
そして、その衝動のままに、今、その気持ちをそのまま押し付けてしまうことが、躊躇われた。

その間に、二人の距離は、遠く擦れ違ってしまったらしい。
いや、重なったと思えたのすら、気のせいだったのかもしれない。今となっては幻のようだ。あの、濡れて熟れたような口唇以外は。
狂おしい想いだけが溢れ、明確な思考が閉ざされ、ただあのふっくらとした色付く口唇だけが、今もリアルに残る。


―あ・・・の、室井さ・・・?
そっと両手を解放すると、戸惑った様な、脅えたような瞳で、室井の胸に両手を付き、青島は室井を見上げていた。
小さく呟くように自分の名前を呼ぶ青島の、その濡れた口唇が、冬風に揺れた。
その眼差しに、その懐かしい煙草の匂いに、ひたすら愛おしさが溢れ、もう一度そっと口唇を重ねた。
頬に手を滑らせれば、冷え切ってしまった肌の感触が切なく、温もりを二人で造りだすように頬に手を重ねる。
―手・・・冷たい・・・
―おまえもだ
―帰らなきゃ・・・ね・・・・
―・・・・そうだな・・・・


青島は室井をリアルじゃないと言ったが
室井にとって青島は、この世界でただ一つの現実だ。


大事で大事で特別で、誰にも取られたくない。
その情念たるや、今だって胸の奥にふつふつと滾っている。
出来ることなら、自分だけのものであって欲しかった。
強引にでも自分のものにしてしまいたかった。
なのに熟れる肌に鮮やかに散る朱色の情痕。嫌いだという言葉。

体裁を取り繕っていた頃には想像もしていなかった、禍々しく獰猛な感情が
今や臆しもせずに、自分を支配する。
その灼ける想いに、膝から崩れそうだ。

彼が幸せであれば、それで良いと思っていたのに、本人を目の当た りにしたら、もう、そんな建前など綺麗さっぱり吹き飛ぶ。
口唇を奪い、重なり合わない筈の二人が交わる甘美を知ってしまったら、己の深部に潜む願望が奔出する。
もう、色々言い訳めいて誤魔化すことなんか、出来ない。


なのに、もう、離れていくことしか出来ない。
触れることはおろか、引くことも追うことも、傍にあることさえ出来なくなってしまった。

――でも、なら、何であんな眼をするんだ・・・。


どさりとデスクチェアに沈み込んだ。
スプリングが効いた反動に身を揺らしながら、額に手を当てる。


普段の青島だったなら、あんな風に、室井なんかに悟らせるようなミスは、しなかっただろう。
明らかにあの夜は、感情が剥き出しだった。・・・・お互いに。

――どうしたらいいんだ・・・・


あの日の、冷たい海風と、口唇を潤す自分より柔らかく熱い温もりが蘇り
室井は無意識に自分の指関節を下唇に押し当てた。
たった一度きりの接吻。
二度と触れられない仄かな甘さが、想像以上に室井を捕え、放さない。
こんなに誰かを強く熱く焦がれたことなど、かつてない。
こんな感情、知らない。きっと一生忘れられない。

「・・・っ」
胸が、これ以上ないというくらい、軋んだ。



青島を想い、この先を生き続ける長い道路は、孤独でも芳しい。
長い想い患いでさえ、甘く痺れた予感をさせた。
自分たちが積み重ねてきた時間は、そんなもので崩れる柔なもので はないし、そんな軽薄ではないから、室井は青島を求める。
ただ、彼が、誰かのものになり、その腕が誰かを抱き締めること が、まだ、割り切れないだけだ。
彼が、自分を避けてまで、無関係を装う結末を選んでいることが――少しだけ、胸が痛いだけだ。

身勝手に口唇を奪うまで、想いの熱に気付かぬ愚か者には、相応しい結末だろう。


ただ、護りたかっただけなのに。
ただ、大切だと伝えたかっただけなのに。
それも、叶わない。
真実は何も告げられないまま。





~~~~~~


無気力に気鬱な室井の耳に、遠くから呼び出し音が聞こえている。
それが、自分の胸ポケットからだと気付くのにさえ、少し時間がかかった。

「・・・・・」

はっとして、胸を押さえる。
ケータイが振動している。

しまったと思いつつ眉間に皺を寄せ、怠惰な動作を残す指先ででまさぐり、ケータイを取り出した。


『室井です』

途端、切羽詰まったような新城の声が飛び込んできた。

『室井さん、青島の居所を知りませんか』
『新城か?』
『ご存じではない?』
『知らないが・・・・何でだ?』
『いなくなりました』
『いなくなったって、どういうことだ』

事態が急には呑み込めず、とりあえずゆっくりとチェアから身を起こす。

『あ~・・・正確には、連絡が取れなくなったんですが・・・そちらに何かありませんか』
『いや・・・・』
『そうですか・・・。なら、連絡があったら私の方へ入れるよう、伝えて貰えますか』
『それは構わないが・・・・』
自分の所に掛かってくるとは思えないぞ、とは流石に口に出来なかった。
思わず口を噤み、逆に質問を投げてみる。

『なにか、あったのか』
『ええ・・・まあ』
『なんだ』
『実は・・・・事情聴取をすると言ってあるのに、気付いたら姿が見えなくなっていたらしく。私物もホテルに置きっぱなしのままで、捜査員が処 遇に困ってま す』
『近くにいるんじゃないのか?』
『それが・・・・・・実は一倉さんもここに居たんですがね。彼の姿も見えません』
『連絡は』
『取れません』


室井は頭を抑えた。
頭痛がする。また、何かやらかしたのか。

『どうすればそういう事態になるんだ』
『私が聞きたい位です』

電話口から、苛立ちとも唖然とも取れない、新城のやるせない溜息が聞こえる。


青島から室井に連絡が入ることは、まずないだろうが
一倉も関わっているとなると、心中穏やかではない。
確実に何かがあったのだろうと確信する。
加えて、別の嫉妬心も湧き上がった。

一倉は自分よりも青島の近くにいる――
自分の気持ちを自覚していなかった頃なら挑発も避けられたが、今となっては、そんな演技ももう無理だ。
正々堂々と立ち向かいたい。
その場にいるのが、自分でないことが、こんなにも悔しいなんて。
ただ、そんな私情をあからさまに挟むのは、気が引けた。


室井は、少し思案するように軽く首を傾げる。

これが、青島の仕事であれば、やはり介入は出来ない。彼の迷惑になるし、男の沽券を潰すことにもなりかねない。
もし、彼の手で負えない事態になっていて、且つ、室井の立場や存在が救済の役に立つのなら
手を貸せる範囲で協力を申し出る。
一番最初に、そう得心していたことを、思い出す。

だが、事態は変わった。
恐らく、どんな理屈もさておき、今の青島は、室井の参入を好意的に受け止めるとは思えない。
迷惑というよりも、嫌われるだけの厄介になるかもしれない。
それでも・・・・。
これは青島のためなんかじゃない。ただ、室井が、助けたいだけなのだ。

もう一度、彼を救えるのか――?


室井は堅く眼を瞑る。

真実を、知る必要がある。
そうでなければ、先へは進めない。


気持ちを切り替え、腹を据えた。
知る真実が、例えどんなものでも、青島となら俺は。

カッと目を見開く。
『新城。状況を説明しろ』

鋭く告げると、致し方ないと思ったのか、大きな溜息と共に、お時間ありますかという言葉が聞こえてきた。




『先月の警察官の不祥事を覚えていますか』
『接触事故のか』
『そうです。その面子丸潰れの不始末を一掃するため、私の担当している事件に圧力が掛かりました』
『要求は』
『証拠不十分のまま、強制家宅捜索に入れと』
『――』
『掘り当てた事件の規模もインパクトも申し分ないということで、目を付けられたようです』
『マスコミ対策か・・・』
『ええ。そのまま逮捕も可との指示でした』
『突っぱねられなかったのか』
『一応、無理だとは告げましたけどね。裏では抑えてある事件でしたし、限界が』

『それに青島が反対したのか』
『・・・・・いえ。話すら、出来る状況ではありませんでした』
『何も知らされなかったということか』
『はい』
『――・・・・・』

『気になるのは、それだけじゃありません』
『まだあるのか』
『青島と逮捕された男の一人は、恐らく青島を軟禁していた男ですが、全く同じ格好をさせられていました。酷く乱れていたので、気付いたのは私と一倉さ んくらいでしょうが・・・』
『ちょっと待て。軟禁って何だ』
『ここ1.2カ月、青島は自宅へは戻っていません』
『!!』
『その上でのあの様相は、推測するに、男の監視下に置かれ言いなりにされていたのではないかと』


室井の胸がギシリと沈む。
努めて感情を抑え、冷静に言葉を紡ぐ。


『拘束や監禁の疑いは』
『それは我々も憂慮したんですがね、幸いなさそうです。ケータイでの連絡には応じていましたし』
『だからと言って――!』
『だから、こちらにも“事を急ぐ理由”があったんですよ。室井さん』
『・・・・っ』
“だから”を強調し、新城は苛立ちを隠し切れない風に水を向けた。


『本日見た限りでは、本人も至って普通でした。拘束痕や暴行痕なども一見では見当たりません。自由にホテル内も動きまわれ ていたようです』
煩いくらいに元気有り余っていましたよ、という新城の皮肉が、シニカルな笑い声と共に流れる。

しかし室井は逆に、ギュッとケータイを握り締める手に無意識に力を込める。
既に手の平は汗ばんでいる。


『恐らく、青島自身の意志もあったと考えています』
『なら何故消えた・・・!』
『分かりません・・・・。だから困っているんです』

掠れたような室井の怒声に、新城も困惑した様子を見せる。

『事件に直接関与させられていなかったか、暴行されていないのか、その辺の確認も含めて、本人から事情聴取を早急に行う必要があったんですが』
『分かった。なら・・・・私物は全部湾岸署へ送れ。本人と所轄の承諾は私が取る』
『分かりました』
『居所はこちらでも探す』
『では何かありましたら、本部へ入れるようにも言ってください』
『この件を知っている者は』
『――まだ。数名の捜査員と私くらいです』
『私が連絡入れるまで、情報は出来る限り伏せろ』
『了解しました』



切れたケータイを、室井は愕然とした衝撃のままに見つめた。
確実に青島の身に何かが起こっている。
次々と一気に溢れた聞き慣れない情報に、脳の処理が追い付かない。

姿を消した?どこへ消えた?
いや、それよりも・・・。

〝軟禁・・・?〟
軟禁ってなんだ。一体何をされていたんだ。いつから?どこで?
どうしてそんなことも俺には知らされないんだ・・・!


―恐らく青島自身の意志もあったと―
新城の言葉が蘇る。

自分の意志で・・・?
――なら、それは、いつ、決心したものだ・・・?
新城は、ここ1、2カ月帰宅の気配がないと言った。

あの雪の夜はどれくらい前だった?
あの夜の彼は、既に決意した後だったのか?
あの宵闇の彼・・・・酔い潰れた姿・・・・何かを憂う表情・・・・乱れた胸元・・・舞う白い雪・・・・闇に浮かぶ紅い痕・・・

「・・・っ」

ゾクリとした冷たいものが、室井の背筋を走り抜ける。
ドクドクと、心臓が早鐘を打っていた。
昼下がりの菜の花色に染まる室内が、急に陰りを増す。
何か良く分かりはしないが、散りばめられたピースが、少しずつ絡み合いそうな予感がする。
それも、想像以上に最悪な方向で。


ケータイを見つめていた室井は、意を決したように、おもむろにボタンを押し始める。

数十コール程鳴らすと、留守電に切り替わる。
軽く舌打ちをして、リダイヤルボタンを押す。
その間に片手でデスクの書類を片付けた。
ケータイを耳に宛がったまま、固定電話の呼び出しボタンを押す。

『はい』
『すまないがちょっと出かける』
『承知しました。お帰りは』
『分からない。帰らないかもしれない。後を頼む』
『了解しました』
『それからタクシーを』
『すぐ手配します』


ケータイがまた留守電に切り替わる。
リダイヤルを忙しなく操作する。
再び呼び出し音が鳴りだした。

コートを片手だけ通し、鞄を掴む。
片足を踏み出した所で、ようやく、数回繰り返し粘っていたケータイの呼び出し音が、ついに通話に変わった。
喧騒のざわめきが、そこが外部であることを告げている。


『――おう、室井。久しぶりだな』
『そこに、青島がいるな?』
『挨拶もなしに、なんだ』
『いるんだな?』
『何でそうなる』
『今からそこへ行く。引き止めておけ』


室井は、叩き付けるようにケータイを閉じ、駆け出した。







室井が到着した時、ホテル周辺にはまだ警察車両や野次馬がごった 返していた。
規制線を潜り、ホテル正面玄関へと小走りに向かう。
メインロビーに入れば、流石にそこは別空間であり、騒動があったことすら忘れさせる優美な空間が広がっていた。

中央に活けられている無駄にデカい生け花が、やけに華やかで目を引く。
うやうやしくお辞儀をするベルボーイの挨拶を目礼で断ると、ぐるりと周囲を見渡した。
フロント奥にあるエレベーターホール付近で、一倉が腕を組んで立っているのが見える。
向こうも室井に気付いたのだろう、軽く片手を挙げる。

大理石のロビーを横切るように、音を響かせ駆け寄った。


「青島は!」
「お前、開口一番がそれか」
「お前と無駄話をするつもりはない。青島はどうした」
「・・・・確かにさっきまではいたんだが」
「何があった」
「逃げられた」
「捕まえておけと言ったろう!」
「無茶言うなよ。俺ぁ、嫌われてんだから」
「・・・・?」

胸倉を掴まんばかりの気迫に、一倉は諸手を挙げて苦笑する。


まだ何か言いたげな室井を遮って
丁度タイミング良く、荒立つ二人の頭上にエレベーターが到着したことを告げる和やかな音が割って入った。
反射的にそちらに目を向けると
一番奥のボックスから、両脇を抱えられた男が連行されてくる。

ゆっくりと近付いてくる黒い集団。

一目で、これが野上だと分かる。
室井はじっと睨みつけるような眼差しを送った。

数mの所まで来て、余りの鋭い室井の眼光に気付いたのか、野上がふっと顔を上げる。
お互いの視線が初めて絡み合う。

「・・・・?」
「・・・・・」


野上の腕は前で括られ、コートも掛けられていない。
初めて見た野上は、同性の室井から見ても、良い男だと思えた。
青島と同じくらいの年齢。すっきりとした肉付きと適度な身長。・・・・成程、この男のスーツなら、青島にも良く似合うのも納得だ。
引き千切られた服装でも損なわれないエレガントな風情は、それだけで人目を引く。
開いた胸元から覗く、厚みある胸板はビロードのようであり、美しい弧を描く精悍なフェイスライン。
自分とは真逆の、女に艶かしい声を掛けられ、また甘い声を掛けるタイプの典型だ。

捕獲の際に出来たと思われる、至る所に見える痣が、蒼く内出血していた。
口元には白いテーピングが貼られている。
恐らく、今まで別室で簡易な尋問が行われていた筈だ。



沈黙を先に破ったのは、横に突っ立っていた一倉だった。
群衆の末尾にいる新城に視線を投げる。

「終わったのか」
「ええ。・・・貴方こそ、勝手に付いてきておきながら何処へ行かれてたんですか」
「ちょっとな。青島を追ったんだが」

“あおしま”という言葉に反応し、野上が視線を一倉にチラリと向けた。
それを見た一倉が、グッと顎を逸らし、シニカルな笑みを滲ませる。


「お前、青島に救われたな」
「・・・・・・なんのことだ」
「傍で見ている俺にも分かったぞ。奴の最後のラブコールは届いてねぇのか」
「知らないね。・・・・それより、アイツ、本当に青島って言うんだ?」
「偽名かと思ったか?」
「ああ」
「アイツはそこまで器用じゃねぇよ。お前らを騙し弱点を攫うのが目的の潜入は他の奴にやらせていた。・・・聞いたろ」
「――・・・。・・・・なら、お前の役目は?」
「残念。俺も唯の客だ」
「あの店のか」
「ああ」
「・・・・・・」


「お前に信じて貰えなくて、寂しそうだったぜ、アイツ。随分可愛がったんだろう?」

野上が一瞬、虚を突かれたような目をする。
すぐに合点がいった様で、今度は野上がニヒルな笑みを浮かべた。

「・・・・成程、それであの夜、あんな真似を?」
「ああ、失敗したよ。まさかあそこまで強行手段に出るとは思わなかった」
「それも見たんだ?」
「まあな」
「アイツが?」
「いや・・・俺が」
「へえ」

野上と一倉のやり取りを黙ったまま聞いている室井の眼光が、静かに細波を立てる。


野上が勝ち誇ったような顔で、歯を見せた。

「残念だったな。アレは俺を選んだよ」
「違うだろ。アイツの中にはもっと別の影がある。気付いていなかったとは言わせないぜ」
「だとしても、最後に選んだのは俺だ。アンタじゃない。見てたろ」
「そうせざるを得なかっただけだ」
「イイ歳した男の悪あがきは見苦しいぜ」
「だったら分かるだろ。最後にアイツがお前に託したものが」
「え?」
「お前が信じてやらないから、自分を恨むように仕向けて、お前の方からの決別を誘導してやったんだろが」
「・・・・・」
「いじらしいと思うが?自分を悪者に仕立て上げて、お前に決着を付けさせてやるなんて。お前は恨むだけで良い。そんなことも伝わっていないのか」
「――・・・」


暫くの間、一倉と野上は、何も言わなかった。

静かに時が流れる。


やがて、野上が視線を外し、ゆっくりと前を向く。

「惚れこまれたもんだな・・・」

ヒュウと一倉が口笛を吹く。

「だったら、青島に伝えておけ。それこそ地の果てまで追って愛してやるよ、望み通りに」
手放してなんかやらないでいてやるから安心しろ、と言い捨て、歩きだす。



数歩進んだ所で、野上は再び、立ち尽くしたままの室井に気が付き、不思議そうに片眉を上げた。
未だ睨みつけたままだった室井を訝しみながらも、そのまま黙って通り過ぎようとする。
野上が室井の真横に差し掛かった瞬間
前を見据えたままの室井が、口火を切った。


「今後、私の許可なく青島と会うな」
「え・・・?」
「指一本、触れるんじゃない」
「アンタ・・・・?」

野上が呆然と室井を見つめる。
周囲も唖然とした様子で、室井の動向を息を呑んで見つめた。


室井が前を向かせたままだった顔を、野上へと向ける。

「君だって罪状を増やしたくないだろう」
「・・・・ああ、アンタ、最初に一倉と一緒にあの店にいた・・・」
「二度と青島に近付くな」
「何言・・・、・・・っ」


余りの傲慢な口ぶりに、野上が嘲笑を浮かべようとするが、室井の激しい光を宿した瞳に、言葉を呑まれ、表情が強張る。
傍にいた捜査員らも、急激に張り詰めていく空気に誰も口を挟めず佇んだ。


「何で、アンタがそんなことを言うんだ?」
「説明する義務はない。お前が少しでも青島の想いに応える気があるのなら――そのまま黙って身を消せ・・・!」

室井の声は滾り、掠れ、最後の怒声は擦り切れるように発せられた。
低くロビーに響き渡る。
今にも暴走しそうな位に堅く握り締められた拳が、小刻みに震えているのが、唯一の人間味だった。


只ならぬ気迫に押され、困惑していた野上は、やがて、何かを得心したように、眼光を強める。

「そうか、そういうことか。あんた、か・・・・!アンタの方か・・・!」
「・・・・?」


野上が身体の向きを戻し、真っ直ぐに室井と向き合う。

「アンタ、名前は?」
「関係ないだろう」
「・・・それもそうか。んじゃ、精々頑張ってみたら?」
「言われなくとも」
「ただ、青島くんが大人しく従うとも思えないけど?そういうタイプじゃないの、知ってんでしょ」
「残念だったな。青島のことならお前より詳しい」
「言うね。俺も結構隅々まで知ったつもりだったけど」
「必ず護れる」
「アンタにそんなこと言える権利、ないんじゃないの。どうせ――アンタも逃げられたクチだろ」

心底、冷笑した口ぶりに、室井の眉間の皺が深まった。
反対に、口の端をグイッと持ち上げ、野上の眦が細まる。


「ご愁傷さま。どう転んでも青島は俺に美味しく頂かれる運命のようだな」
「!」

無表情のまま眼差しだけを険しくした室井に、野上はスッと身を寄せ、その耳元に優しく吹き込むように囁く。

「彼、俺には素直だったぜ」

熱い息も掛かる距離で、焼け付くような視線が絡み合う。
馬鹿にしたように指し示す指にある太めのリングが、キラリと射光を反射させた。


クッと肩で笑って頬を緩め、野上は背を向ける。
そのまま野上はもう、振り返りもしなかった。
背後に足音が遠ざかっていく。

捜査員たちも続く。
その後ろ姿を、室井は歯を食いしばったまま振り返り、激しく睨みつけた。



最後に新城が立ち止まる。

「室井さん、青島の行方は」
「・・・・未だだ」

野上の背中から目を逸らさずに答えてから、室井は新城へと向き直った。

「ただ、コイツはこの通りだ」

そう言って一倉を顎で指す。
新城も合わせて一倉に視線を合わせ、溜息を大袈裟に吐いた。


「一倉さん、電話くらい出てください。現場が混乱します」
「そうか」
「そうか、じゃありませんよ・・・・。それと――」


一旦言葉を区切り、やや躊躇いの表情を覗かせる。
混乱の表情をして、言葉を選びつつ、新城は慎重に口を開き始めた。

「今の話・・・どこまでが本当ですか」
「ほぼ本当だ」
「・・・・・」
「・・・何だ、新城、今更罪悪感でも新鮮に湧いたか」
「――」

余りに率直な物言いに、新城があからさまに苦みを潰したような顔をする。


「今回の潜入が非公式なものである以上、青島だって最初から援護なんざ、期待してないさ」
「しかし、正式捜査へ移行してからは、内偵しているメンバーだけには伝達してありますよ・・・・」
「でも青島はそれも知らないんだろう?」
「ええ・・・」
「どっちみち、上層部には報告出来ないだろ」
「まあ・・・」


新城は口を噤み、暫し何かを考える素振りを見せていたが、やがて顔を上げた。

「私はこのまま本庁へ向かいます。貴方がたはとにかく青島の行方を」
「分かってる」

軽く一礼をし、足早に去っていく。
それを室井と一倉は黙って見送った。




辺りに静けさが戻る。



「――さて。んじゃ、俺も少しこの近辺を回ってみるか」
「待て一倉。その前に・・・・話がある」
「後にしてくれよ」
「今だ」
「・・・・・」

室井が静かに制す。
行きかけた足をそのまま、一倉は振り返った。
室井の漆黒の様な瞳が、広大な暗黒すら呑み込む様に、じっと一倉を見据えていた。
只ならぬその気配に、一倉も息を呑む。

一倉は歩みを止め、しげしげと室井を見下ろした。




~~~~~~


パトカーの助手席に、新城が滑り込むのとほぼ同時に、滑るように車は発進した。

「なあ、あの人、誰なの」
後部座席で捜査員に挟まれている野上が、そのタイミングを図ったかのように、物怖じしない口調で新城に話しかける。

「あの人?」
「さっき一倉の隣にいた人だよ」
「ああ・・・。個人情報だ」
「そんなこと言って・・・・どうせウチの弁護士に調べさせれば一発だよ。隠す意味ないですよ」
「聞いてどうする」
「――」


返事のない野上を訝しげにバックミラー越しに見遣ってから、新城は軽く視線を後部へと向けた。
それを確認してから、野上がゆっくりと身を起こし、トーンを変えて口を開く。

「ねえ。青島の腰にある傷、その人と関係あったりする?」

新城が目を見開いた。

「何故、貴様が青島の傷痕を知っている」
「見たからだよ」
「――・・・」

今度は新城が黙る番だった。


暫く新城を観察するように、注視していた野上だが、やがて返答はないと諦めたのか
ドサリとシートに凭れかかるように、再び身体を倒した。


「青島は・・・何も言わなかったよ。・・・じゃあ気のせいかな・・・」

窓の外に流れる景色に漫然とした表情を向け、独り言のように呟く。
そんな野上を同じように暫く見ていた新城も、座席に座りなおし、前方を向いた。


「・・・・・室井さんだ」
「え?」
「室井慎次警視正。当時の刑事部参事官だ。その時本部長として担当した事件で青島と捜査をしている。その傷はその時負ったものだ」
「へえ・・・・」
「お前のご自慢の弁護士とやらが調べ上げてくるのも、この位の情報だろう」
「つまり、警察内部では有名ってこと?」
「――ああ。誰もが知っている」

チラリと新城がバックミラーで視線を送る。

「室井さんと青島の仲についてもだ」
「え?」
「あんまりあの二人を甘く見ない方が良い。青島に手を出して、この程度で済んで良かったと思え」
「・・・・・」
「ま、今回、室井さんまで引っ張り出して来れたことについては、大したものだと褒めておいてやる」
「・・・・・そういうこと」


鼻から大きく息を吐き、野上は身体の力を抜く。

窓の外には、都会の夕暮れが、緩いスピードで流れていた。
この数カ月の中で、青島と過ごした時間に、何となく想い馳せる。



青島は、どれだけ近付いても、手に入れた満足感が得られなかった。
優しくしても、煽てても、柔らかく微笑んで人懐っこい顔を見せるだけだった。
責め立てても、声を押し殺すだけで。

・・・・あの眼だ。
何かを、誰かを、必死に護ろうとしている犠牲心が見えた。

その相手は、ずっと一倉なのだと思っていた。
二人はそういう仲なのだと。
確かに、一倉からは、ずっと分かり易い執着が感じられたし、キスシーンまで見せ付けられた。
しかし、青島の方が、それについて気付いてさえいないような、凪いだ表情をしていて
不可思議な温度差が二人の間にはあり
そこに、どうしてもしっくりこない違和感を感じていた。

これはどういうことか。
そもそも、青島からは不思議と、人に対する執着心みたいなものが、まるで感じ取れなかった。
誰の手からも、気付けばスルリと零れ落ちていってしまいそうな。

青島が、その裸の猛々しい感情を露わにしたのは、ただ一度。・・・そう、たった一度。
初めて襲った夜の、腰の傷に触れた時だ。

そこで見せた、鮮烈な熱を帯びたあの眼や感情と、一倉が、どうしても結びつかなかった。


「なるほどね・・・・」

さっき垣間見せた、室井の静かに迸る独占欲。
あれは、青島が見せた唯一の執着と、全く良く、質が似ている。
まるで、一点の曇りすら許せないような、激しい利欲だ。
つまりは、最初から見誤っていた。
青島は、一倉ではなく、最初から室井を見ていた。
それを、最後まで護りきったのだ。


「やられた・・・・」
「何がだ?」
「完敗だと、青島に伝えてくれよ。諦めてはやらないけどさ」


野上は満足そうに眼を瞑る。
妙に清々しい気分だ。










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