-crash night 2-

カランという氷がグラスを打つ音が耳元で鳴り、青島の意識が現実に浮上する。
ぼんやりとした視界の中に、グラスの中の氷塊がカラリと傾いた。
微かなジャズのリズムと、喧騒が戻ってくる。

カウンターに突っ伏したままゆっくりと頭を傾け、クロスに反射するカットグラスの光をぼんやりと見つめる。
薄い琥珀色の液体が強めのアルコールを漂わせていた。



酔ってなどいなかった。
幾らアルコールを入れても、ふとした瞬間に蘇る幾重もの記憶は、嫌味な程に鮮明で
その都度、青島を苛ます。
緩く、何度も頭を振っては、記憶を撒き散らす。
そんなことでは到底消えてくれない執拗な過去は、重たく広がり、今夜も逃がしてくれそうにはなかった。

一人バーカウンターで沈む男になど、誰も気に止めない武骨さの残る薄暗い店内は
街の喧騒がそのままの形で通り過ぎる。
こうしている間だけ、世間のリアルに紛れ込み、現実の中で現実を忘れられた。
ここは、忘れ去られた都市のようで、束の間の忘却を青島に齎してくれる。

今は一人になりたくない。
少しでも気を紛らわせるものなら、何でもいい。
だが、誰も、頼る者などいない。こんなになって――こんなになっているからこそ――。
色んなことがありすぎて、今は誰とも逢いたくなかった。




曲調が変わった。
バブルの最中に流行っていたディスコソングだ。
誰でも簡単に口ずさめる、サビの有名なフレーズは、懐かしさよりも今は、遠き若き青春を思い起こさせ、心を締め上げる。

寝そべったまま、少しだけ眉を潜ませた。
あれから沢山の時間が流れて、でもまさか、流れ着く先がこんなところだなんて、想定なんか、していない。・・・するもんか。


「もう、限界なのかな・・・・」

のそりと身を起こし、漫然とした表情でグラスを手に取る。
口を付ければ、冷たい液体が苛烈に喉を灼いて落ちていく。
痛みが一瞬、記憶から現実へと自分を戻してくれる。

グラスを持ち上げ、視線でオーダー追加を促した。
カラカラと硝子に氷がぶつかる音がして、バーテンダーが滑らかな動作で、コースターに乗せられたブランデーグラスを滑らせて置く。


何でこんなことになったのか、自分自身でも良く分かっていなかった。
パズルのピースが合わないように、螺子巻きの歯車が一つズレてしまったかのように、小さなことが少しずつ少しずつ、遠くから詰まれていく。
何か大きなうねりのようなものと共に、時代が閉ざされていこうとしているのを
肌で感じた。
何もかもが悪い方向へ進んでいる訳ではない。
一番の目的の事件に関しても、青島の送ったデータから、同時に殺人事件の容疑者や関係者を特定できる筈だった。
・・・・・新城には、あれから連絡を取っていない。

自分は刑事だから、事件解決が第一である。
自分を投じて、全力で駆け抜けたい。
それで、困っている人が少しでも救われるのなら、本望だ。
そういう生き方を、俺自身が選んだ。
そこに、矛盾も後悔も感じていない。

つつ、と雫が硝子を辿り、キラキラと光る。


――なーんか昔っから俺、肝心なとこでタイミング悪いんだよなぁ

ここで独り、こんな酒を呑むために走ってきたのか。
戻りたい。でも何処へ戻れば良いのか、分からない。
先へ進むしか、道はないことも、知っていた。
これをまた、人は逃げていると言うのだろうか。

弱さを見せるのも、今夜だけだ。
朝になれば、振り返らずに走りだす。自信も覚悟も出来ている。
ただ・・・・・今回はちょっと、貧乏くじが多かっただけだ。
ほんの少しの・・・・・・、息継ぎをしたいだけだ。


油断すると音もなく再び蘇る苦い記憶に、またしても顔を顰め
青島は、ふるふると頭を振る。
それで記憶ごと消えてくれりゃー楽なんだけど。




何杯目かのグラスに、口を付けようとして掲げた手が、突如、背後から伸びてきた手に柔らかく止められた。

「こんなところに居たのか」

続けて放たれた言葉に、ビクリと反応する以前に
目の前で揺れていたグラスを、壊れ物を扱うような手付きで奪い取られる。
長く端正な指が美しい。
事態に付いていけず、呆然としていた顔を、ハッと上向かせると
持たれたグラスはそのままに、背後の人影が横に回ってきて、漆黒の艶めく深い瞳がじっとこちらを見据えた。


「酒も、過ぎると毒だぞ」
「何で・・・・・あんたが・・・・・」

それには答えず、コトリとグラスがテーブルに戻される。


「今夜はもう、このくらいにした方が良い」
「平気ですよ」

その返答もまた返さずに、カウンター内のバー・スタッフに声を掛けた。

「チェックを頼む」

「ちょっと!」
「出るぞ。コートと荷物を取って来い」
「あのですねぇ、俺まだ・・・・」

青島の抵抗は、あっさりと去なされる。


「こちらがお会計になります」
タイミング良く割って入ったスタッフと息を合わせるように、無言で差し出された焦げ茶の革財布に、気勢を削がれた。

「え・・・、ぁ・・・、おっ・・・・俺、払いますよ・・・っ」
「いい」
「よくない!・・・あ、あれ・・・財布どこだったかな・・・」
「これで頼む」

「かしこまりました」

礼儀正しくスタッフが一礼し、席を外す。

「「・・・・・・」」

宙で行き場を失くす青島の手はそのままに
ジト目で憮然と睨む青島に、半眼で室井が、視線を交わした。




コートを肩に乗せられ、二の腕を担ぐように掴まれ、半ば引き摺られるようにして、店を後にする。

「ちょっ・・・!あの、ねぇ!あ・・・っ、いた・・・っ、ね、あの、何処行くんですか・・・っ」
「時間はあるか」
「ないですっ」
「・・・・ならちょっと付き合え」
「何でだよ!」


通りに出た後も、しっかりとした足取りで、室井がどんどんと先へ行く。
腕は離してくれない。
青島は千鳥足をもたつかせながらも、必死に付いていく。

「なんであんたが此処にいんですか・・・っ」
「・・・・・」
「ねぇ・・・ってば!」

青島の声を全て無視し
室井が自販機の前で、おもむろに立ち止まった。

「何か飲むか」
「酒」
「コーヒーか。ああ、紅茶にしろ。今夜はミルク入りにした方がいい・・・」
「・・・聞く気ないでしょ・・・っ」

まるで、子供みたいな扱いで、ホットのミルクティを買ってもらう。
再び腕を掴まれ、歩き出す。


「あ・・・ちょっと・・・!」

踏み止まろうとしている足は縺れ、室井のされるがままに身体を引き摺られる。

「あの・・・・・っ、いてっ、歩き辛いったら・・・・っ。歩けます・・・っ、一人で歩けますから・・・っ」
「――」


じっと、深い闇を宿した艶めきが振り返った。
青島の奥底を見透かすかのように、強い光で見つめてくる。
青島は戸惑った視線を向けた。

そっと、腕が解かれる。

「・・・・・」
「・・・・・」

それでも室井は視線を離さず、じっと青島を見つめた。
大きく息を吸って、青島も覚悟を見せる。

「逃げません、から」

「――」
ややして、納得したように、室井が踵を返し、再び歩き出した。
ワン・テンポ遅れて、青島もその背中を追い始める。




冬の夜の冷たさは、乱暴に火照らせた身体も脳味噌も、凍らせるように沈静化した。
次第に青島の逆立った感情も穏やかになっていく。

――なんでこのひとが、こんな時間に、ここに居るんだろう。

ようやく、不自然な状況を気遣う余裕も出てくる。
青島は、後ろからじっと室井を見つめた。

いつもと変わらないブラックのロングコートに身を包まれた姿は、凛としていて、威厳がある。
それは、一朝一夕で物に出来るといった小手先の貫録ではなく
およそ、天性の資質のような、揺るぎない品位と威容を合わせもっていた。

整髪料で丁寧に撫で上げられた頭髪は、一部の隙もなく
青島とは、まるで別世界の住人であることを、強く主張されているようだった。
青島の知っている室井は、もっと熱を帯びた人間味のある人物だが
こんな風に出会わなければ、きっと、一生縁のない、雲の上の人として、気高さだけを目の当たりにしていたのだろうと思う。

それが今、青島を引き連れて、こんな夜更けに、こんな治安の都会の街を彷徨っている。
何かが不思議だった。


夜も更け、人通りの疎らになってきた歩道を、てくてく歩く。


一倉と物別れした経緯から、彼の線でここに室井が来る理由には思い当たらなかった。
となると、新城にでも突っつかれたのだろうか・・・?
いずれにしても、また、何かこの人を煩わせることになってしまっていることには、変わりない。


チロリと上目遣いで室井の様子を窺うが、その後頭部は何も語らない。
そっと視線を外し、地面を見ながら、後ろを付いていく。



左手に公園が目に入り、そこに来て、ようやく室井が目線を合わせてくる。
青島も黙視することで返事にした。





~~~~~


園内は然程広くはなく、誰もいない遊具が風に無造作に揺れる。
ギィという機械的な音は、余計に、目に映る世界の侘びしさを謳った。
泣き出しそうな雲行きが、重く心に圧し掛かる。


青島がブランコに座ると、向かい合わせで、目の前のガードレールに室井が腰掛けた。
街灯がひっそりと、砂地を青白く照らしていた。
コートに入れていた缶が尻に当たり、もぞもぞと取り出す。
取り出したからには、始末に戸惑い
結局、封を切ることにする。

カシュッという音が、ふたつ、閑寂な外気に響いた。

え、と思い、チロリと視線を持ちあげれば、室井もまた、丁度プルトップを引っ張っている。
視線に気付いたのか、室井もチラリと青島を見た。

じいぃっと上目遣いでそのまま視線を逸らさずにいると、何やら罰の悪そうな顔をする。
困っているのはこっちなのにな、と思い、青島はようやく心が凪いだ。


「良く俺があそこに居るの、分かりましたね・・・・」
「・・・・・こう見えて、私は刑事なんだ」

ふ、と、青島の口から笑みが漏れ、思ったより次の言葉は楽に出る。

「それは知りませんでした」
「君も同じ職業だと思ったが?」
「俺の職業は、困っている人を助ける任務です。いきなり店から客を連れ出す無粋な真似はしません」
「状況に応じて、強硬手段を取ることもあるんだ。悪いな」
「暇なんですねぇ」
「そうでもない」
「明日の仕事に差し支えますよ」
「同じ台詞を返してやる」

今度はちゃんと室井を真っ直ぐに見る。

「何しに・・・・・来たんですか?」
「――」

この期に及んで少しだけ躊躇いを覗かせる室井に、何だか素のままの着飾らない室井が見えた気がして
青島は僅かに口の端を上げた。

ワザとちょっと的外れな、意地悪をしてみる。

「事件の話?」
「え?」
「もう聞いているんでしょ」

しばらく沈黙を保ったまま、室井は何か言葉を選んでいるようだったが
やがて、ゆっくりとその重たい口を開いた。

「いや・・・聞いていない」
「隠さなくて、いいです。事情は大体、俺も聞きました」
「――・・・」
「もう終わりましたから・・・全部」


そう言って、視線を伏せた。

月も星もひとつも見えない真っ暗な夜空に、冷たい風が吹き上げる。
肌を刺す様な冬の風がそよそよと吹き抜け、室井の短髪を揺らした。
きちんと固められている昼間とは違い、少しだけ崩れた髪を逆立てる。
自分を探し回るのに、少しだけ苦労したことを、伺わせた。



「大丈夫ですよ。任務、終了です」

少しだけ、ほんの少しだけ――このひとに気を使わせないよう祈りを込め、おどけたように言う。

この人もまた、仕事でここに来たのかと思うと、うんざりだった。
今はまだ、普通じゃいられない。
今夜だけ見逃してくれれば、また、いつもの俺に戻れるのに。


そんな青島の口ぶりを、どこか感情の乗らない瞳を深め、強くもなく弱くもない、逸らさない眼差しで見ていた室井は
やはり微動だにせず、缶を持ったまま両手を膝の上で組んだ。


「でも君は・・・・終わらせるつもりはないんだろう?」
「え?」
「そんな顔をしている・・・」
「・・・・・」

室井が、開けたまま、一口、口を付けただけの缶を手の内で弄び、背中を丸めて青島を覗きこむ。

「君が何を耳にしたかは知らないが――・・・・、私は君の事件にそれ程関わっていない。まだ・・・、とまで言えば、信憑性はあるか?」
「・・・・・・」
「少なくとも、今年に入ってから、今、どうなっているのかは、知らない」
「そうなん・・・・ですか?」
「一倉と・・・・会ってないからな・・・」
「――・・・」

「何か あったのか」


さわさわと、風が常緑樹を揺らす音が遠くから近付き、やがて二人の間を擦り抜けた。
カサ、という水分が蒸発しきった枯葉が転がる音が続く。


「なら・・・・なら、今日は何をしに・・・・・来たんですか」


言ってから、しまったと思った。

話題を変えるために思わず出た言葉だったが、失言だった。
そっちこそ何しに来たんだよ、とか、やっぱり一倉さんとは逢うのが前提なんだな、とか
自分でも良く分からない感情が渦巻いたが
それも全部、割り切った筈の過去だ。
そのことは、最早、青島にとって、どうでも良いことだ。

でも、今は室井の口から具体的な言葉は何も聞きたくはなかった。

事件の話じゃないなら、このひとがここに来た理由なんて、一つだ。
それこそ、聞いてはいけないことのような気がして、酷くうろたえる。


慌てて、言葉を重ねる。

「あ~・・・っと!そっか。俺のみっともない姿、警察の恥ですもんね。回収に来たのか。すいません、また手を煩わすようなこと――」
「そうじゃない」
「・・・事件の進展なら、俺より新城さんに聞いた方が早いですよ。あ、でも室井さんの一件も、もう問題なくなると思いますけど・・・」
「・・・そうじゃない」
「・・・・、――なら、」

喉が、潰れそうな程、掠れた。

言ってから、青島は小さく、チッと舌打ちをする。
聞いちゃいけないと、分かっているのに、操られたように勝手に動く口が、疎ましい。
強張ったままブランコの鎖を掴んでいる手が、小刻みに震えていることを、意識した。


「怒っているか?」
「何、を?」
「・・・・・・」

室井の視線が怖くて、直視出来ない。
下を見る。

長い沈黙が流れた後、ゆっくりと室井が告げた。

「あのまま、終わらせるのは嫌だった」
「・・・・・」
「軽蔑したか?あの日、私がしたことを」
「・・・・別に、そういうことは・・・・」



去年の暮れ、室井に誘われ出向いた海辺で、ふいをつかれてキスをされてしまったことが
今、ここに、急速に色を付けて蘇る。

あれは、一体どういう意味だったのだろう。


室井の貫くように輝く黒水晶の瞳に逃げ場を絶たれ、強く絡め取られたまま、誘い込まれるように奪われた。
決して、強引でも乱暴でもなかったが、意識の隅で、逃げる隙は封じられていた。・・・気がする。
震える身体は、気付かれていただろうか。
漏れる吐息を抑えるのに、必死だった。

何故、逃げなかったのか。
そもそも、何故、室井はこんなことをしてくるのか。

鋼鉄で気高い瞳が間近で瞬き、鮮明な思考ごと奪われて、室井の与えてくる、甘い刺激に、溺れた。
そのまま、救いを求めるように、瞳を閉じた。
吐息ごと浚うように、幾重にも重ねられてくる、熱く濡れた口唇。
避けても追いかけるように口唇を塞がれ、頼りなく抗う手を握り締められる。
後頭部から掻き抱かれ、飢えるように重なる口唇は熱く
激しくはなくとも淫猥に動いて、青島に眩暈のような感覚を与え、奪っていった。

身体中を駆け巡る慣れない感覚に、身を震わせ、呆気なく崩れ去りそうな自分が
何より怖く、流される自分が心許なく
現実を繋ぎ止めたくて、必死に堪えた。
縋ることすら出来ずに、震える指先には、気付かれていただろうか。


普段の冷静沈着で、厳格な室井からは想像も付かない、熱を孕んだ甘く淫蕩なキスは
青島から、全てを奪うようで、全てを与えられた。
冷たい冬風の中、唯一つの確かな証であるように、その温度を主張し、強く、強く、青島に刻み付けた。
こんなに、精錬で、情愛だけを持つキスなんか、初めてだった。

理由なんか、何も分からない。
でも、あのキスだけが、禁じ手だと分かっていても、その後の歯車の狂い始めた青島の状況を、底辺で支えていた。
一瞬の幻のような時間でありながら、ただひとつの、青島の“現実”だった。


「嫌だったか」
「そんなこと・・・・」
「いきなり、悪かった」
「別に・・・気にして、ませんから・・・その・・・」
「なら、何で電話に出ない。メールもだ」
「・・・忙しかったんですよ」
「それだけか」
「・・・勿論」


あれから、ロクに口も聞かず、日没の街を本庁まで送り届けた。
車中でも、ほとんど言葉はなかった。
言葉少なに、顔を見ることすらせずに、別れたように思う。

一体、どういうつもりだったのだろう。
何のつもりであんなこと――。
青島を哀れんで、口付けたのだろうか。興味本位で触れてみたくなったのだろうか。それとも――・・・・
そして、俺は、何故避けなかったんだろうか。


少しだけ頬が熱くなった気がして、青島は意識して顔を俯かせた。
妙に意識している自分が、気恥ずかしい。
室井から、あんな風に原始的な、或いは野性的な側面を見せられるとは思わなかった。
同時に、その淡さと、今の自分のあまりのかけ離れた場所に、遣り切れなさが募る。


年が明けると、話があると何度か室井から連絡を貰った。
全部放置した。
何を言っていいのか、分からなかった。
何を言われるのかも、分からなかった。
室井の真意は確かに計りかねていた。この曖昧な関係に決着を付けられることを、恐れた。
変わってしまうこと、失ってしまうことが、兎角怖かった。
しかし、それ以上に怖かったのは、逢って、何を口走るか分からない自分自身だ。

そうして煮え切らない日々を送っている内に――
こちらの事情が大きく変えられてしまった。



「もう――私の顔も見たくないか」
「忙しかっただけですよ、ホントに」


・・・・・そう、本当に色んな事があり過ぎた。

あの年の瀬の淡い思い出は、既に遠い過去の残骸だ。
他の望まぬ人間との度重なるキスが、室井との淡いキスさえ穢して覆い隠す。
たかがキスとは、割り切れない。
それはまるで、ここから、こんな風に少しずつ、でも確実に、自分は穢れていくのだという、決別の合図のようにも感じた。
それを望んだのは自分で、そこに後悔はなくても
二人の道はとうに別れ道を越えていて、この先もどんどん広がっていく。
その事実が、刃のように、青島を切り刻む。

目の前の室井を見る。

なんて遠くなってしまったんだろう。


室井には、もう近付けない。
一倉にも、そう宣誓させられてしまった。
・・・いや、それはそれで良かったとは思っている。
自分で決めかねていたことを、後押ししてもらったようなものだ。
この先も、このひとの気高さを、密やかに、俺の支えにさせてくれれば、もうそれで良い。

それはいわば、聖域だ。
少しばかり温もりの薄い、清浄な結界に潜む、ただひとつの道標だった。

ずっと先を行く、和久のような理想ではなく
目的を具現化した中枢でもなく
これからを共に成長していける、迷わないための指針だった。青島だけの。俺だけの・・・・。

気高く誇り高いその魂を放ち、地図も持たなかった青島に、核心を与えてくれた、唯一つの拠り所である。
そこに、物理的な距離は、関係ない。
もっと偶像的で、もっと不確かなものでありながら、何より確固な要で
常に、傍にあったのだ。


だが、そうやって、初心に想うことすら、もう赦されない。
気持ちすら、無価値で・・・むしろ穢れなのだと、切り捨てられてしまった。


逢う度に、癒され浄化されていた時間は、もうやってこない。
再会した時は、酷く驚いた。
このまま遠くで想っていくものだと思っていた。慣れ合ってしまうのは、何か違うと思っていた。
ただ、その時間があまりにも優しかったから、つい
甘えてしまった。

結局、俺の決心とか、覚悟なんて、その程度のものなのだ。

――だから、こんな風に、周りに浸食されてしまうんだろうな・・・・。



思わず、溜息を洩らすと、室井はそれを何か別な理由と誤解したようだった。
目の片隅に、拳を強く握り締めるのが映る。

室井にそんな顔をさせているのは、嫌だった。
別にこのひとは何も悪くないのに。
このひとは、清廉なままなのに。
でも、そんな顔しかさせられないのは――。・・・俺自身だ。

だったら、同じことか・・・・。


訂正しようとした気勢も削がれ、青島はブランコに沈みこむ。
ギイィ、と鉄錆が軋んだ。


「なら、質問を変える。・・・・何があった?」
「それこそ、あんたには関係のない――」
「あったんだろう?」
「別に・・・」
「何かあったら私に連絡しろと言った筈だが?」
「出来るわけないっしょ。これ、仕事ですから」

ゆっくりと息を吐き、室井が言う。

「だったら何でそんな顔してる」
「・・ぇ・・」


室井がゆっくりとガードレールから腰を上げた。
ブランコに座ったままの青島に、殊更ゆっくりと近付く。
青島の心臓がドキリと高鳴った。
脅えるような眼で青島は室井を見上げる。

スローモーションのように世界が音を失くし、室井の手がそっと青島の頬に触れる。

「冷たい・・・・」
「何・・・・」
「とても・・・・泣きそうな顔をしている」
「気のせい・・・ですよ」
「何故、今日あそこで酒を呑んでいた・・・?たった一人で」
「別に、理由なんて」

「初め、私のせいかと思った。嫌がらせをしてしまったのかと。傷つけてしまったのかと」
「・・・・」
「でも、そうでないと言うなら、何がおまえをそんな顔にさせている・・・?何があった」
「・・・・っ」


――室井さん。室井さん。室井さんっ。

何て優しいんだろう。
この人は、他人の心の機敏には疎いけど、頭の良い人だ。何が一番相手が欲しているかを察知できる。
そして、真摯に優しいひとだ。


室井の気遣いに、疲弊していた心が、脆くも崩れ去りそうになる。
青島は、ぎゅっと眼を瞑り、弱った心を奮い立たせた。

駄目だ。このひとを巻き込む訳にはいかない。
でも、生半可な嘘では、きっと誤魔化されてくれない。


すぅっと息を吸い、前を見据える。
踏ん張れ。踏ん張れ。踏ん張れ!



俺がこのひとのために、今、出来ること――




一陣の風が吹き抜けたことを合図に、青島が口を開いた。

「室井さんの手、温かく感じる・・・」

そっと、室井の手の上に自分の手を重ね、握る振りをして、自分から引き剥がす。
柔らかく穏やかな笑みを造り、室井をじっと見上げた。

凍えるような冬の夜は、身を引き裂くように体温を奪った。
寒さよりも、痛みを齎すこの空気が、二人の温度も冷やしていく。


「今夜、あの店にいたのは、前祝いです。・・・・言ったでしょ、事件、終わりそうなんです」
「そうか」
「それも、俺の活躍でね」
「何をした」
「んもぅ~室井さんまで・・・・。普通に仕事しただけですっ・・・・あ、むしろ褒めてくれても良い所ですよ」
「・・・・そうか」
「そうかって、あんた・・・。それだけ?」

眉間の皺が深まるのを確認してから、青島は微苦笑を浮かべる。

「だから、もう、気にする所は何もありません、残念ながら」
「・・・・・」
「ちょっと呑みすぎちゃったことだけ、反省しておきます」


それだけを、言い切った。
ぽん、っとブランコから跳び下り、室井に背を向ける。


「迎えに来させるような真似させて、すみませんでした」
「青島?」
「室井さんまで担ぎ出してくるなんて思わなくて・・・・」
「別に私は仕事で来た訳じゃない」
「俺とセットにされてるばっかりに、こんな雑用やらされて・・・・・室井さんも大変だ」


辺りは静まり返り、青島の声だけがやけに透き通る。
ホッと、空に息を吐く。

「とりあえず、俺の仕事は一段落付きましたから」
「なら、どうしてそんな顔をしているんだ」
「変?ですか?ま、室井さんの言う通り、ちょっと呑みすぎましたけど。吐きそうで」
「・・・・何故、逃げる?」


室井の声が少しだけ鋭さを増した。
青島は背を向けたまま、僅かに微笑む。
すると、背後でも吐息が聞こえた。

「言いたく、ないのか」

冬の夜の冷たさが、どんどん足元から身体を凍えさせてくる。
何が痛いのか、あまり、分からない。


「――あ。室井さん、ちゃんと約束果たしてくれましたね」
「約束?」
「任務終わったら、何かくれるって」
「まだ、何も・・・」

ひらひらと、青島が背を向けたまま空き缶を持ち上げ、軽く振る。

「得しちゃった。ありがとうございます」
「もっとちゃんと――」

公園内の屑入れに向け足を一歩踏み出すことで室井を制止し、その先の言葉を奪う。

「俺にはこれで充分です。これがいいです。」
「・・・・・」

ひょいっと屑入れに缶を放り込むと、ようやく肩越しに顔だけ振り返って室井を見た。

「甘~いご褒美、ごちそーさまでした!」


ブランコ付近で立ち尽くしたままの室井が、黙って青島を見る。
青島の瞳は、言葉よりも雄弁だ。
話は終いだと、意志強く語っている。

二人の距離は、今、約5mくらいに遠ざかっていた。
しかし、室井が、もう一度肩で大きく息を吐いたのが分かる。


「君はそうやって――、また、いつだって何でも勝手に決めてしまうんだな」
「また、振り回しちゃいましたね」
「じゃなくて・・・っ、ちょっとは私を頼れ」
「・・ぇ・・・」
「言いたくないなら言わなくてもいい。でも、もうちょっとは、私を頼れ!」
「言ってる意味が分かりませんけど・・・?」

室井が珍しく理路整然としない言葉を繰り返すのを、青島は呆然と見る。


「君が苦しそうなのを、私が黙って見過ごすにも限度がある。頼ってくれなければ私の方が惨めだ」
「いつも頼っているでしょ・・・っ」
「そういう意味じゃない」

室井が一歩近付く。

「頼って欲しいんだ。君に。そんなに私は、君にとって価値がないのか・・・・?」


そんな風に思わせるつもりはなかった。
室井の存在や言葉に、どれだけ支えられてきたか分からない。
その努力や厚意を全て無にし、尊厳を否定させてしまうつもりはなかった。

思わず言葉を失って、室井をじっと見る。


「あの日、言った筈だ。私にとって君は要らなくないと」

室井の低く太い声は、絡め取るように青島を取り巻く。
自分には、室井ほどの人間に、そんな風に言って貰える価値なんか、ない。
もう、傍にいることさえ、赦されなくなって――。

どうしてこんなことになっちゃったんだろう。
どうして俺には、このひとの傍にいる力が、与えられなかったんだろう。



辛うじて支えていた最後の細い糸が千切れそうになり、青島は、視線を逸らした。
やばい。泣きそうだ。


一瞬激昂した感情を、見事に内面に隠し、口調を和らげて室井が口を開く。

「言いたくないのなら、今は何も言わなくていい。苦しめるのなら、理由も聞かない」
「・・・っ」

言いながら、ゆっくりと近付いてくるのを、気配だけで察する。

「私たちが出会い、一緒に戦った日々まで、意味がないとは思いたくないんだ」


視界に、室井の黒い革靴が入った。
同時に、チラチラと、白いものも視界に入り、青島は天を仰ぐ。
粉雪が音もなく舞い落ちてくる。


「追い詰めるような言い方をして、悪かった」
「・・・・・・」
「君が心配だった」
「・・・・・俺こそ、誤解させるようなことして、すみません」

声が、小さく震えた。

「誤解?」
「別に、室井さんを頼っていない訳でもないです。役立たずだなんて・・・・思う訳がない。俺にとっても一緒に気張った時間は宝物です」
「・・・・そうか」
「・・・ただ、迷惑はかけたくないですけ ど」
「迷惑だの煩わしいだのなんて思ったことは、一度もないから」

二人の間に、小さな粉雪が、散れ散れに舞う。
青島が、小さく笑う。

「ありがとうございます。今度は、こんな真似、しませんから。もう、探させるようなこと、させません から・・・・」
「・・・・・・」


胸が張り裂けそうな想いで、嘘を吐いた。
これで、俺たちは終わりになれる。

こんなの、再会しなければ、知らずに済む感情だった。
出会わなければ、こんな柔らかい気持ちを抱くこともなかった。
他人に対し、そういう情緒的な感情を抱けるだけで、人生は彩りだ。

でも今は、温もりを与えてくれたことも、心配してくれる気遣いも、有り難くない。
人の親切や労いを、そんな風に捉えてしまう自分が
酷く低俗な廃れたものに思えた。


「・・・分かった」

室井が小さく呟いた。



二人向き合ったまま無言になる。
場を持て余し、青島は、鞄を担ぎ直した。

「それじゃあ、俺、今日は帰りますね」
「青島・・・」
「話、それだけなら、もう帰りましょ。・・・俺、駅まで送りますから」

踵を返そうとした青島を、室井が低い声で引き止める。
振り向いた青島の二の腕を、室井が後ろから掴んだ。
ビクッとして、その手を青島が見下ろす。
室井の手は、思ったよりしっかりとしていて、重たかった。


「理由を聞かないのか」
「・・え?」
「あの日、何故、俺があんなことをしたのか」
「!!」


冷たい風が、粉雪を舞い上げる。

「・・・・・」
「・・・・・」

じっと、言葉もなく、二人視線を交わした。


グッと腕を掴む手に力が籠もり、室井が意を決したように口を開く。

「青島、俺は・・・」
「・・っ!あ!どうせ・・・・俺が不甲斐ないからですよね。ハッパかけてくれたんでしょ。元気でました」

本能的な恐怖を感じて、慌てて青島が茶化して室井の言葉を遮った。

「そうじゃない、俺は」
「ちょっと方法にびっくりしましたけど。室井さん、いつもあんなことやってんですか?駄目ですよ」
「そんな訳ないだろう」

横を向き、室井を見ないようにしながら、口を挟ませない。

「夕陽、綺麗でした。あんなの見たの、久しぶりで。晴れてて良かったですねぇ」
「・・・・」
「セクハラ一歩手前っていうのは、室井さんらしくないっていうか俺ら所轄よりな発想ですけど。室井さんもいよいよこっちに染まった?あ~それも俺のせいで すかね?」
「本気で言っているのか」
「本気も何も。・・・室井さんと過ごせて光栄だったし、お陰で事件も解決出来たし、俺としてはこれで・・・」
「青島っ」

強めの口調で遮られ、思わず身体に緊張が走り、軽口を封じられた。


「それは、なかったことにするということか」

肩越しに振り返って青島が答える。

「忘れるのが一番良いよ、室井さん」
「おまえがそうしたいのか」
「・・・・・」
「青島」

後ろから二の腕を引かれ、前を向かされた。

「なかったことになんか、俺は出来ない」
「生真面目だな~室井さんは」
「青島っ」


一人称と口調の変化が、室井の心情の焦燥を、肌を焼き付く程に伝えてくる。

視線を逸らさず真っ直ぐに合わせると、室井の瞳が強い光を宿し、逃げ場を絶つ潔癖さを湛えていた。
その真剣な眼差しに、最早出てくる言葉も封じられる。


静かな沈黙が、二人を支配する。

「・・・・・何を、言うつもり?」

語尾が、か細く溶けた。


大粒になり始めたボタ雪が、視界を所々遮り始める。
しんしんと、辺りを冷やし、二人を世界から孤立させていく。


「いい加減なことはしたくない」
「室井さんが何を言おうと、もうどうにもならないよ」
「どういう意味だ?」
「はっきり言って欲しいですか」
「遠回しに、拒絶されているということか?」
「そこまでは言ってません。・・・・俺の人生に、室井さんが出てくるまでもないってことです」
「俺は必要ないか」
「・・・・・」


身勝手にも、ズルイと、幼い心は思う。

室井には、青島以外にも心配してくれる人がいる。
この先は、一倉が、プライベートまで踏み入る付き合いをして、変わらず歩んでいくのだ。
二人が共に笑い合い、些細なことまで共有し、支え合うのかと思うと、しんどかった。
だが、それが一番良い。
一倉の立ち位置に嫉妬しない訳ではないが、室井の持つ聖域に、自分がこれ以上踏み入ることは
もう、躊躇われた。

最初から、無いもの強請りをしていただけだ。
だから、ここで、青島が室井を傷つけても、拒絶しても、室井の今後は何の心配もない。

哀しいのは――


「迷惑か」
「迷惑じゃないけど・・・・現実じゃ、ないです。とっくに・・・・いや、最初から、かな・・・」
「・・・・・」
「あんたには、用意された場所で、やるべきことも用意されている。そこには、俺の居場所はないです」

室井には、幾通りもの開けた道筋が目の前にある。
その気になれば、ヒエラルキーのトップに君臨できる器で、それを現実の物とするために、お互いに結託した。
青島とは、最初から、何もかもが違っている。


「だが・・・・どうせ俺も、もう逃げられない」
「はい・・・?」


逃げ場さえ奪われる強さで瞳が輝き、得体のしれない予感が背筋を走り抜ける。
思わずまた視線を逸らすと
その隙を付いて、室井が掴んでいた手にグッと力を入れた。

「・・っ」
「青島、俺は――!」
「聞きたくない!」

思わず青島は叫んだ。
腕を振り払おうと動かすが、更に力を込められ、解けない。
片手で押しやりながら、後ずさる。


「聞いてくれ。俺は・・・ッ」
「放せよ・・・!」

顔を背け、腕を引き離そうと振り払う。

「もう、来ないでください・・・っ」
「青島、」
「ここに・・・っ、俺の前に・・・!もう現れるな!」
「・・ッ!」
「ここに来ちゃ・・・・駄目です」
「・・・・」
「もっ、会いたくないです・・・っ」

勝手なことを言っている青島に、室井が焦れたのか、奥歯を噛み締めたのが気配で分かった。



「・・ぁ・・・・っ」

強い力で襟元を引き寄せられる。

「ちょ・・・っ」

そのまま顔を斜めに寄せ、傾いてきた青島の顔に室井の口唇が近付く。
心臓を鷲掴みにされたように青島の身体に電気が走った。

「・・・ゃ・・・・っ、め・・・っ」

慌てて、片手で室井の胸を押し返すと、今度は後頭部に手を回され、抱き寄せられる。
室井の熱、室井の匂い、室井の気配。
室井の存在が青島の五感を通じ、一気に駆け巡る。そのクラリとした酩酊感に崩れそうになる。

同時に、接吻という行為が齎す苦い記憶も、合わせて奔出する。

野上の体重・・・・一倉の腕・・・・・・。コロンの香りとカーエアコンの音。
忘れたい記憶――自分と室井を現実に戻し、終止符をまで追い詰めた根源。



口唇に熱い吐息が掛かり、触れる直前、渾身の意志で以って、青島は顔を背けた。

「・・・・・っ」

青島の小さな呻きに、逆に誘われるように、室井が青島の頤に手を掛ける。
顎を固定され、逃げ場を完全に失い、青島が身を捩った。

、だ・・・!」


その刹那、何故か一瞬、室井が怯み、そこで思い切り室井の胸をドンと押した。


室井の視線が、シャツの襟元に釘付けになっている。
ああ、そうか、と青島は思った。
まだ、身体には、野上に襲われた時の情痕が残っている。それを見られたのだろう。




胸が潰れそうだった。

このひとを傷つけることしか出来ない自分を消してしまいたい。
何より、こんな結末にしかならない自分たちが哀しい。
それに気付きもしない室井が愛しく、憎い。
俺なんか、放っておけばいいのに・・・!

だったら、とっとと消えちまえ!



視界が少し潤む中、青島は手の甲を口元に当て、室井を睨みつけた。
目の前に苦しそうな瞳をした室井が、顔を歪ませている。


何でも従順に、周りの希望や流れに沿うことだけが、優しさなんかじゃないのだと
理屈でも常識でもなく、ここで、痛烈に理解する。
受け容れることだけが、慈しみじゃない。
大切だからこそ、刃を持った言葉を言わなきゃいけない時もあるんだ。
護りたいからこそ、潰さなきゃいけないことだって。

そういう愛を、こんな場面に於いて、唐突に理解した。理解させられた。
なんて、運命は残酷なのか。


「・・・・っ」

最後のトドメも、俺が刺さなきゃならないなんて。
この俺の手を、まだ穢さなきゃ駄目だなんて。
このひとに。
大好きだった。一番大切だった。二人で過ごした時間が一番、眩しかった。
だから、さよならだ。

そして俺たちは、現実を歩きだす。


「だいっきらいだ・・・・!」


振り返りもせず、青島は駆け出した。

「青島!待ってくれ青島・・・っ!!」

遠く、室井が何かを叫んでいる声が、風に飛ぶ。
青島は、もう振り返らなかった。





哀しいのは――。
俺には、救ってくれる人も、傍に居る人も、こんなになって帰る場所すら、ないってことだ――



粉雪が、強い風に煽られ、千々に青島の身体を纏う。
横殴りに軌跡を散らし、本格的に振り始めた雪は、コートに幾つもの結晶を残した。
行く宛てなど、何も思い浮かばない。
ただ、今は、室井から少しでも離れられれば、それで良い。


毅然とした男らしさの中に見える繊細な優しさが好きだった。
室井の優しさが今頃になって身に沁みる。
だけど、もう、戻れない。
彼の傍にはいられない。
最終通告も、この手でトドメを刺した。ここまですれば満足だろう?

良く分からぬ天に向かって悪態を吐く。



室井と過ごした時間はどれも、鮮やかだ。
キスのことだけではない。捜査した時だって。出会った最初からだって。どれも眩しくこの胸に蘇る。
それは、青島の人生の中でも、一際異彩を放っている。
自分に、ただ熱だけを与えてくれたのは、いつだって室井だった。
前の会社に居た時からだって、比べても、あんなに眩しい時代は、他にない。
それを与えてくれた室井が、特別だったのだと今更ながらに実感する。

しかしその喧騒も今はなく。

深閑として眠る街並みは、鮮やかさの欠片も残さず
ただ、しんしんと舞い続ける雪は、全てが終わった喧騒を、鎮魂させていく。


こんな結末しか用意できなかった自分の不甲斐なさよりも、今は、運命を、恨む。
こんな筈じゃなかったのに。
どうして俺ばっかり。・・・・今は子供みたいな閉塞的な、やり場のない怒りに取り込まれた。
ただ、みんな幸せであればと、それだけで頑張ってきた。
俺はただ、いつだって、みんなが好きなだけだった・・・・!


室井がいなければ、まるで壮大な荒野に一人置き去りにされたように途方に暮れていく。この世は荒野とおんなじだ。
彷徨い続けて、目的を遂げられなければ人知れず朽ちていく。
たった一人で歩きだした筈のこの砂漠は、いつしか道標となる人物を見つけていた。
正確には、漠然とした実体のない場所から俺に価値を与えてくれた人を。
だけど、それももうない。
あとは彷徨うだけになる。


雨の夜に、月なんか見えない。
なんの結果も生み出せない。俺の努力も、覚悟も、何にもならなかった。
俺の想いさえ、なかったのと、おんなじだ。





粉雪が幾つも頬に当たる。
凍るままに、肌の上で結晶を描く。
次第に大粒になっていくこの白く儚い氷の結晶は、それでもこの都会では、朝には消えてしまうだろう。
それこそ、まるで、何にもなかったかのように。

零れる涙は止まりそうになかった。
大人になって、こんなに泣いたのは初めてだった。


今は、他人よりも遠くなってしまったあのひとの、幸せだけを俺は祈る。
もう二度と、触れられないけど、いつの日か、また、隣で笑いあえたら、いい。
それだけで、いい。
そんな日が、訪れるのならば。



都会では珍しく雪の舞ったこの夜は、この冬一番の冷え込みを記録した。











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