雨夜の月 3







-crash night-

シュッと音がして、手元に小さな温もりが伝わった。
二人で身を寄せ合うようにして、ジッポから煙草に火を点ける。



「それで?」

カチンとジッポの蓋を閉じた金属音が辺りに細く反響する。
周囲に人影はなく、夜になって益々凍てつき始めた空気の中、街路灯が陽光には程遠い弱光をおぼろげに地面に注いでいた。
青島の促しにチラリと視線だけ送り、一倉は旨そうに煙を吐き出しながら、続きを口にする。


「詳しいこと知りたきゃ新城に聞けよ。俺は所詮、部外者だ」
「新城さんねぇ・・・・、あのひと、いーっつも、お前は黙って大人しくしてろ~の一点張りで、あんま教えてくんないんですよね~。電話も、すんごく素気な いし」
「お前に可愛げが無いからだろ」
「・・・・・そんなことないですもん」

肩を竦めて青島が飄々と言い切る。
片手をポケットに突っ込みながら、一倉が楽しげに口から笑みを零した。


「俺が知っているのは、本格的にお前んとこに捜査のメスが入るぞってことだ」
「ようやく時代が俺に追い付いてくれました」
「だが長年の勘から言えば、まだ任意で引っ張れるだけの状況には持っていけてないとみるね」
「これだけ状況揃ってんのに?」
「頭使えよ。年末に出た遺体が最初の殺人の犯人って分かっただけだぞ」
「う」
「それだけで警察が裏取引まで介入すると思うか?」
「あれ?じゃ、野上さんはまだ、ただの参考人・・・?」
「そういうことだ。今回の事情聴取は、怪しい金の出所ではなく、殺人事件の司令塔探しだ。野上を直接叩くことすら出来やしねぇよ、ばぁか」
「ええぇえぇぇぇ~~~~~」

青島が、思いっきり気の抜けた顔をする。
思いっきり声を出して笑うと、一倉は煙草を挟んだ人差し指を青島に突き出した。


「要はただの痴話喧嘩が連続殺人になっただけの話だ」
「先が長いぃぃ~・・・・」

青島がむくれるのを、一倉は煙を吐き出しながら、面白そうに眺めた。



いつもの店の裏手で、青島と示し合わせ、軽く情報を共有するのも、もうこれで三回を数える。
お互い、この店を個別に利用する身なので、落ち合うことは憂慮するほど、不自然でもなく、難しいことでもなかった。
青島側の予定に合わせ、一倉がこの店で食事を取り、青島の中座するタイミングでコンタクトを取る。
万が一、一倉の姿を見られたとしても、充分偶然性は装えたし
顔馴染みだと紹介済みなので、危惧する所もあまりない。

ただ、会話を聞かれることだけは避けたいので、店からワンブロックだけ移動したこの路地裏で、今夜も軽い世間話を繰り広げる。


「好きなんだろ?そういうの」
「三ヶ月も経っちゃうと、話も変わってくるんです」
「おかげで特捜も立ったし、良いことづくしじゃねぇか。ここからはお前も晴れて名実共に、立派な捜査員に昇格だ」
「最初からそうですよ!」
「そうだったか?」


去年の年の瀬、東京湾に浮かんだ遺体は、全ての発端となった第一の事件の犯人であることがほぼ確定した。
彼氏だと名乗り出ていたダミーの人物と同じアパートの住人だった。
依然、消えた事務員・緋森の行方は分かっていない。失踪から、そろそろ2ヶ月が経とうとしている。
しかし、遺体が一つ増えたことで、その男が、青島を先行潜入させていた参考人・野上の所属する企業と、度々接触を見せていたこと
更には、口座を通じた交流もあっ たことが判明。
事件は一つの繋がりを見せてきていた。




しんしんと足元から冷気が身体を侵していく。
吐く息が白く後方に溶けた。

「今夜は結構冷え込むなぁ」
「オヤジ発言。・・・そう言えば今年雪降ってませんね」
「冷え込むって言っただけだろ。・・・今度の低気圧デカいらしいぞ。進路次第じゃ東京も積もるだろうよ。お子様は思う存分期待しろ」
「そーですね、俺は楽しみにしときます」


正月の浮かれた気分も遠に過ぎ去った二月上旬、平日の日常を取り戻したオフィス街は、この時間にもなると、閑散とした。
人の気配がなくなった夜の都会は、確かに居るだろう人の温もりさえ覆い隠す。
遠くのビル街に、まだ残業をしていると思われる灯りが窓を照らしてはいるが
街は既に眠りについているような静けさだった。

冷たい冬の乾いた木枯らしが、ビルの隙間を鳴声を上げて吹き抜けていく。


「何かそっちで動きはないのか」
「ないですねぇ。ワザと大人しくしているのか、或いは別ルートがあるのか・・・・パソコンのチェックはしてるんですけど」
「それ、お前が疑われている可能性は?」
「ええぇぇ?――ないですよぅ~。交友関係から営業先までの連絡役、全部俺ですもん」
「まるで秘書だな、お前」
「そうなんだよな~。俺、どんどん営業部に染まってますよ~。どうしよう、このまままた営業成績叩き出しちゃったら」
「才能あるんじゃないか」
「やめてくださいよ」
「警察じゃ才能開花しないのにな」
「ちょっと!」
「だったらさっさと尻尾を掴め」
「・・・・実際、仕事も順調ですし、傍からみたら、何の問題もない感じなんですよね~」
「事実、師走の遺体さえでなきゃ、完全にシロって所か」
「まあ、こんくらい手強い相手じゃないとね」


文句を言いつつ、青島が何だかんだ楽しんでいることが伺える。
一倉の目的は別にあったが、それでもこうして、青島と個人的に語らう時間は、思いの外、一倉をも楽しませていた。


室井の傍で纏わりついているコイツを見た時は、青臭いだけのつまらない男だと、鼻にもかけなかったが
こうして、個人的に口を交わすようになってくると、実に面白い男だと興味が尽きない。
室井のように、思考に造詣が深くなく、短絡的ではあるが、話題は豊富で、視野が広いことでそれをカバーしている。話の進め方もスマートだ。
場と言うものを造り上げる社会的能力に長けている。
室井から、元トップ営業マンだったと聞いたが、成程、これは中々に洗練された能力だ。
スタンドプレーとも言えるこれまでの暴走の数々も、この劇場型演出効果に因るものか。

目の前でくるくる変わる表情は、華やかで見ていて飽きることがない。
それでいて、何物にも染まらぬこの鮮麗な魂。
素直に、好感の持てる人間だと思えた。
室井が気に入ったのは別の理由からだろうが、強運であることは確かのようだ。



「野上には相変わらず可愛がられているのか」

さらりと流れる胡桃色の髪の隙間から、悪戯っぽい瞳をウインクさせて、青島が自慢げな顔を覗かせる。
こうしていると、本当に少年の様な無邪気さだ。


一倉は、今日の青島の格好を、さり気なく鑑定した。
ダブルストライプのスーツ。今日は三つ揃えだ。
セルリアンブルーの生地に瑠璃紺色のタイが、大人っぽく清潔感ある精悍な印象である。
その上にふわりと羽織ったスチールグレイのカシミアコート。
襟元から少しだけ覗き見える、ベージュに近い薄いピーチピンクのシャツが、青島らしいチャーミングさを演出していた。
・・・・これもまた、随分と金の掛かった貢物だ。
全くよくやるよ、と思う反面、背筋の凍るような異常さも、やはり、静かに不気味さを放つ。


青島に気付かれない程度に、一倉は少しだけ顔を顰めた。


一倉自身がそうであるように、恐らく野上も、青島と触れ合うにつれ、その魅力・素質に好感を持ち始めたことは、想像に難くない。
しかしその態度は、やはり少々常識を逸脱しているように感じる。
造り上げたこの肖像が、青島に似合いすぎていることも、金に糸目を付けていないことも、その教育に際限が見えないことも、だ。
そこには、主権を越えた、生々しい感情が見えるようだった。

その異常性が、事件の肝でないことを、遠く祈る。


「その服・・・・何着目だ」
「え・・・と。5着目、かな・・・」
「気前が良いな」
「あ~・・・・なんか、デザインは古いらしいですよ。だから、捨てるくらいなら貰ってくれって。そう言われちゃうとね・・・」
素人の俺には良く分からないですけどね、と付け足して、青島は、微かに顔を綻ばせて、俯く。


それなりに羽振りの良い所を見せないと、一流企業の営業など務まらない。
ましてや、そこは外資系だ。
ファッションセンス一つも、男のスキルの内とカウントされるのだろう。
更には、連れ回す部下のセンスすら、上司の器であると、評価の対象とされるのかもしれない。
その意味で、青島はこの短期間に、実に手際良く仕込まれ、育て上げられている。
教え方が良いのか、覚えが良いのか。或いは・・・・・素材か。


そこまで考えて、一倉の中に憶えのある苦味が持ち上がり、憮然とした顔で青島を見下ろした。


自分の同胞とも言える同期の友人の素質を、長い時間共に居た筈の自分の目の前で、一分の隙もなく開花させてみせ
それを引き出せなかった自分を、嘲笑うようにその心まで虜にさせてみせた一件。
見る目のない無能者だと突きつけられた、あの屈辱は、未だ、脳裏にまざまざと焼き付いている。
そう遠い昔の話ではない。
大事にしていたものを、目の前でかっ攫われたような、あの口惜しさは面恥にも匹敵した。
侮辱は、今尚色褪せない。
・・・・・尤も、それを成し遂げたのが、目の前のこの男なのだが。


状況はまるで違うが、どこか、その時と似たような既視感と辛辣さが胸を過ぎる。

一倉の中には、青島に対し、未だ滾る想いを募らせている裏側で、確かに親和的な感情も芽生え始めている。
二つの相反する複雑な感情が、確実に一倉の中で同居している。
それを、また今、こうして目の前で変えられていく様を見せつけられた挙句、こうも所有権を主張されて奪い取られては
随分と軽視されている気分にもなる。
全く癪に障る。


気味が悪いから止めてしまえと言ってしまいたかったが、恐らく、仕事上だけでなくプライベートな懐にまで入り込むことが、新城からの指示なのだろう。
だからこそ青島自身も、通常なら断る所を強く出られないのだと推測された。
確かに、この捜査なら、これ以上の適役はいない。

一倉は複雑に割り切れない感情を抱いたまま、辛酸な思いを胸の奥に仕舞い込んだ。




「野上自身は最近どうしてるんだ?」
「特に。仕事上は割といつも通りって感じですし、至って健全な日常ですよ」

青島の、“健全”と言う比喩に、思わず青島らしさを感じ取り、一倉は軽く吹き出す。
ニコニコと笑いながら、野上の横に張り付き茶番を演じている青島の情景が目に浮かんだ。

確かに、無駄にこのまま青島に優等生を演じさせていても、時間の無駄になる可能性が高い。
新城も、そこのところは気掛かりの一端だろう。


「埒が明かないな」
「そうなんですよね~。俺の立ち位置だと、持久戦は覚悟してましたけど。やっぱそろそろ何か一手欲しいな~」
「突いてみるか」
「どうやって」
「お前が辞めるとか言ってみるとか。或いは、実は前科者になってみるとか」
「不自然すぎでしょ・・・。一応一流企業なんですよ」
「お前が何か違う一面を見せるってのは、アリだと思うんだがな」
「俺が見せてもしょうがないでしょうが。唯の一新人派遣だっての」


どうやら青島は、自分の価値、つまり野上の中に於ける自分の存在の大きさというものに、まるで気付いてはいないようだった。
青島の顔からは、直向きに向けられる慕情に、どちらかと言えば、戸惑っているかのようにも、見受けられる。
優遇されていることに、こそばゆさを覚えてはいても
自分は所詮、大勢の内の一人という認識でいるのだろう。
そこに自己実現や自己評価の重点を置いてはいないのだろうが
それにしたって、楽しいもの好きの青島なら、もう少し可愛げのあるリアクションをしそうなものなのに。

自意識が低いのか、それとも、何かトラウマでもあるのか。
勘は良さそうなのに、妙に子供っぽい。

そのことは、一倉に急速に一抹の不安を齎した。
妙な危なかしさと、もどかしさを感じさせる。


「・・・・俺的には良い線突いてると思うんだけどな」
「えぇぇ~?もっと他に何か考えてくださいよぅ」
「例えば?」
「もう一人、誰かを送り込むとか、嘘の情報で釣ってみるとか。・・・新城さんにそれとなく頼んでみてくれません?」

適当なことを言いつつ、吸い終えた煙草を揉み消す青島をじっと見る。



一倉は何となく、室井を思い出した。
確かにこんな有り様なら、コイツから目を離せない。

子供っぽい姿を見せたかと思えば、妙に大人ぶった貌をする。
室井が青島を、庇いたくなる気持ちも、放っておけなくなる気持ちも
そして、目を奪われる気持ちも、理解出来る気がした。
一体、どんな想いで、室井はこの危なっかしい存在の隣に立っていたのだろう。
どんな気持ちで、この無邪気に踊る瞳を見つめていたのか。

ましてや、この変装した青島と、室井は再会している。
この変わり様を、アイツはどんな想いで見つめたのだろうか。
他の人間に染められていくコイツを。


一倉は隣で何やら怪しげな発想を繰り返している青島の横顔を静かに見つめながら、煙草を揉み消した。


「或いは~、口座のある銀行の方に圧力かけて、情報出してくれるよう頼み込むとか?どうです?」
「そりゃ法律違反だ」
「やーっぱ、こっちで金の流れ付き止めなきゃ駄目か~」
「当然だ」


・・・こんな有り様じゃ、青島は室井の気持ちに気付いてもいないのだろう。
こんな万華鏡のように一時たりとも同じ顔を見せない存在を、室井はどう捕まえたのだろう。
室井も苦労しそうだな、と思いつつ、一倉は、同時に、妙な安心感も覚えた。





「なぁ、室井と何かあったか」
「・・・・・何」
「連絡先は交換したんだろう」
「・・・・・唐突ですね」
「今、突然思い出したんだ」
「別に・・・・・・何も?」


視線を伏せ、青島がポケットから小銭を取り出した。
直ぐ角にある自販機へ足を向ける。
その小さな仕草は、一倉には、まるで、話題を避けたかのようにも捕えられた。


「何か飲みます?」
「ホット」
「遠慮ないですね、アンタ」
「奢ってやる」
「そうこなくっちゃ」

ガコンという落下音が二つ、やけに大きく発せられ、青島が戻ってくる。


「なぁ、どうなんだ」
「何がですか」
「だから室井だ。最後に会ったのはいつだ」
「・・・・・年末、かな・・・」
「本当か」


受け取った缶のプルトップを引っ張り、微糖焙煎珈琲に口を付けた。
缶の熱が、凍えた指先に伝わり、貪欲に吸い取っていく。
温い液体が、喉元を温めていくのが分かった。
青島は開封もせず、コートの袖口から僅かに覗く手の平で、缶を包み込むように転がし、冷え切った手を温めながら、通りの方に目を向ける。


「・・・・・何でそんなこと?」
「最近・・・・年始挨拶で会った時から、様子が少し、な。・・・・暮れには変わりなかったように思うんだが」
「・・・・ふーん」

「連絡は取っているんだろう?」
「いえ・・・・ここ最近は・・・・・」
「喧嘩でもしたのか」
「・・・・・・・・・・しませんよ」
「・・・・・」
「ってか会えてません」
「何で」
「何でって・・・・別に・・・・理由なんて・・・・。俺だってこっちが忙しいですし・・・・どうだっていいでしょ」


適当に語尾を濁らせて、青島が面倒くさそうに会話を終わらせる。
本当に興味無いかのような表情に、返って一倉は違和感を抱いた。


室井がそうであるように、青島もまた、室井に関してだけは、特別枠がその胸中にあると一倉は考える。
にも関わらず、青島は一切、一倉の前で、室井に関する感情を開いたことなどなかった。
そう言えば、室井の話題を青島から振ってきたことすらない。
徹底したその頑なな姿勢は、今となっては逆に不自然に映る。

そういう視点で改めて考察し直してみれば、野上と青島の関係は、室井と青島の関係に、少し似ている。
青島は、周囲に自分を評価してもらえることに対し、妙に冷めた反応だ。
となると、室井に対しても、上司の内の一人という括り程度にしか、見ていない可能性もある。
室井が自分を特別視してくれるのは、単に利害関係が一致したからだとか結論付けていそうだ。
今一歩、強引に慣れ合わないのは、そのためか。


・・・・いや、それはないだろう。
一倉は俯いて緩く首を捻る。

室井と青島、二人が同じ空間に在る時の特別感は、確かにそこに、独特のヴェールがあった。
そこにはやはり、相互作用が必要不可欠であり
その意味では、結論として、青島もまた、室井にだけは特別な意識があったということになる。



「一倉さんの、気のせいなんじゃないですかー?」
遠くを見る目付きで、青島が黄昏たように言葉を風に流す。


と、ここで、一倉はこれにはもう一つの仮説を浮かび上がらせることに気付いた。
もし――青島の気持ちがそうなのだとしたら、青島が室井を切れないように、もしかしたら野上も切れない・・・?


「まさかな」
空恐ろしい想像に、思わず否定の言葉が一倉の口を出る。

「何がですか?」
「いや・・・・」

青島だって、そこのところは流石に割り切っているだろう。そこまで甘チャンだとは考えすぎだ。
だが、何となくしっくりこないズレを感じて、首を捻る。


・・・だが、その理由が色々不明瞭だ。
だったら何故、こうも室井に淡泊なんだ?
室井の迷惑になるから?
室井から離れようとしてんのか?それとも、もう言葉通り、どうでも良いのか?
飽きた、とまでは言わなくとも、所詮、大人の仕事の付き合いだったというスタンスなのか?

本音を隠すことに関しては、ある意味、室井より上手だと思えた。



「そうでもないんだ。室井の機嫌が悪い。お前と何かあったとしか思えない」
「何、その方程式」

ようやく、背けていた顔を戻し、青島が屈託なく笑う。

「室井さんだって、そんなに暇じゃないでしょ。俺なんかのことにいつまでも構ってなんかいられないですよ」
「そうかな」
「そうですよ。本店の連中はみんな、そんなゴシップ好きなんですか」
「室井がご機嫌斜めだと、俺への風当たりがキツイ」
「・・・・あんたが、なんかしたんじゃないの」
「するか」

愚にもつかないことを言い合って、二人小さく笑う。





その時、ふいに一倉の視界の片隅に人影が入った。

スッと鋭い意識を走らせ、暫し、闇の向こうを注視する。

「――・・・」

影がゆらりと動く。・・・・誰かいる・・・!


一瞬だったが、確かに網膜が察知した。
一倉の本能的な部分が危険を告げる。こういう時の勘は、大抵外れない。

チラリと青島を見下ろす。
青島からは死角になっているため、まだ気付いた様子はない。

お互い警戒していたとは言え、本庁の話をしてしまった。
青島が“本店”、と言ったのが不幸中の幸いか。
他に不味い単語は使わなかっただろうか。


空かさず、一倉はぐいっと青島の腕を引き寄せる。

「うわ・・っ、突然なん・・・・っ」
「合わせろ」
青島の耳元に鋭く告げる。

それだけで、青島が身に警戒を走らせた。

勘の良い奴だ。
多分、一瞬にして悟った。


ピンと張りつめた空気が、冬の凍てついた空気と同調し、緊張を高めていく。
ふいの行動に青島の手から零れ落ちた缶が、カラカラと乾いた音を立てて道の隅へと転がっていく。

一倉はそのまま、青島の肩を抱き寄せ、腕の中へ引き込んだ。





――さて、どう出るか。

このまま、逢い引きと分かって引き下がるようなら、そもそも用はない。
だが、恐らく――


案の定、ワンブロック先のその影は、こちらを窺うように、そこから動こうとはしなかった。

単純な野郎だ。
・・・・恐らく、野上だ。本人でなくとも、野上の指示だ。
聞き耳を立てつつ、こちらの出方も確かめるつもりなのだろう。
しかし、この距離なら、会話はおぼろげながらにしか届いていない筈だ。


同時に、一倉は自分の勘が正しいことを理解する。

俺を監視しているのか、青島を監視しているのか。どちらでも同じことだが
こういう形を取るからには、その目的は明白だった。
青島から話を聞く限り、野上が青島を警戒しているとは思えなかった。
ということは、思っている以上に、青島個人に執着しているのだ、これは。

警察や、事件絡みとして監視しているのではなく、青島に近付く人間全てを動向監視している。

だとするなら、脈ありだ。
こうして隠れて会っていることだけでも、充分、奴の自尊心を煽ってきた筈だった。


一倉は思わずにんまりと口に笑みを浮かばせる。

胸の梳く思いだ。
一倉の目的は正にコレだった。年末からずっと、こうして通い続けた甲斐が合ったというもの。
牽制や警戒、或いは青島のガード。様々な思惑が絡み合ってはいたが、最終目的は野上の企み阻止である。
ざまあみろ。―― 一倉の心境としては、正にそんな感じだった。
出会いから先手を取られていた対極にも、青島を奪いきったかのような横柄な態度にも、その自意識過剰な鼻っ柱にも
全てに一矢報いたような、爽快感が一倉の身体を満たす。




「あ、の。一倉さん・・・」

腕の中の塊が不審がって小さく声を上げる。
――ああ、コイツの存在を忘れていた。

一倉は自分の策略の旨さに悦に入り、すっかり忘れていた腕の中の存在の後頭部を見下ろした。
場の流れを一倉に委ねるように、胡桃色の髪が腕の中で、次の一手を待つ体制のまま、じっとしている。
最近嗅ぎ慣れたオーデパルファムの香りが、いつもより少しだけ強く薫った。

青島の耳元に口唇を寄せる。

「ワン・ブロック先に野上がいる」
「・・・!」
「じっとしてろ。奴がどうでるか、様子を確かめたい」


小さくそう告げて、一倉は青島を更にしっかりと抱き寄せた。
後頭部を掴み、自分の胸に押し当てる。



確かめる、と言った所で、二人でいるのを見られている以上、どうにも言い訳が出来ないことも確かだった。
素直に一倉の推測通り、青島を巡る争いなら、事は簡単だが
この背後には複数の事件が絡んでいるのも、事実だ。
捜査の足を引っ張ったり、今後、仕事上の青島の立場を悪くする事態は、避けたかった。
今、この場で色々問い詰められたら、こちらもボロが出る可能性がある。
だが、こんな急に、準備もなしに仕掛けてくる程、相手も短絡的思考だとも思えない。
それこそ好都合だ。
この程度の煽りで噛み付いてくる単純な敵なら、話はもっと簡単だった。


「確かめるったって・・・・どうにもなりませんよ・・・」
「・・・・」
「とりあえず、放してくださいよ・・・・」
「青島、ちょっとじっとしてろ」

この場は、お互いに引いた方が、後のためだ。
なら、どうするか・・・。
そろそろ腕の中で大人しくしてくれなくなった青島を一向に気にせず、一倉は思考を巡らす。


――どうせなら、この窮地を利用して、もっと奴を追い込めないだろうか。

言い逃れ出来ない状況を見られてしまった以上、このカードを確実に手持ち駒にしておきたい。
出来るなら、仕掛けられる前に仕掛けておくべきだ。
野上の本日の狙いは分からないが、挑発出来るのであれば、ギリギリまで詰めておきたかった。
追い込まれ、感情的になった人間ほど、扱いやすい。
何かしらのアクションを起こし、こちらの土俵に踏み込んでくれるなら、これほど有利な条件はなかった。
これは、ある意味チャンスだ。

煽る方法は幾つかあるが、一番効果的なのは何だろう。

「・・・・・」
一倉は、腕の中の存在を見下ろした。
逡巡は一瞬だった。
自分の推理が間違っていないことに賭ける。



青島の後頭部を片手で上向かせ、一倉はそのまま己の口唇を重ねた。
仰向かされ、目を見開いたままの青島の口唇を、角度を変え見せ付けるように塞ぐ。


「・・・っ!・・・ぅ・・・ん・・・っ」

ぎゅっと目を瞑り、衝撃に耐えている青島の顔を伏せ目がちに見下ろす。
閉じられた瞼から長い睫毛が震え、頬に影が揺れる。
胡桃色の細い髪が、さらさらと後ろに流れて、街灯の光を受けた。

コート越しとは言え、微かに強張っているような細い身体は、一倉の腕にも伝わる。
真冬の寒い夜のせいだろうか。
冷たい風の中にあって、抱きしめた仄かな温もりは、想像以上に愛おしく
一倉を倒錯の世界へと誘った。
上向かせた、そのぷっくりとした口唇を、口唇で確かめるように辿りつつ、上から覆い被さるように押し付ける。

息苦しくなったのか、少しだけ青島が身体を堅くするが、一倉に合わせてくれるつもりなのだろう、明確な拒絶はない。
演技中だと分かってはいても、それが余計、一倉の気分を加速させ、遠慮を奪っていく。
口付けの余韻に耐えるように、その眉が顰められるのを見た時
衝動的に青島の腰を強く引き寄せ、口唇を強く擦り合わせると、肩から抱き込んだ。

「むぅ・・・っ・・・・ぅ・・・っ・・」

青島の手が、無意識に縋るように一倉のスーツを強く掴む。





目の端に映っていた影が動いた。
スッと気配が消える。

引き下がったようだ。
・・・・・やはり、頭の良い奴だ。


そのまま一定時間置いてから、ようやく一倉は青島を口付けから解放した。

腕の中で仰け反るようにして一倉を見上げる青島を、至近距離で見下ろす。
喘ぐように軽く開かれ、濡れて紅づく唇から苦しそうに息が漏れ、恨めしそうな瞳を見せる青島に、思わず苦笑が漏れる。


「な・・・・に、笑ってん・・・すか」
「去ってったようだぞ」

深呼吸し、体制を戻しながら、青島の顔がくしゃりと歪む。
袖口で口元を拭いながら、横を向いてしまった。

「な・・・・に、すんだよ・・・、も・・っ」
「野上を追っ払いたかったもんでな」
「だからって・・・こんなの・・・っ!」
「効果的だったみたいだぞ」
「・・・・っ」


乱れてしまった前髪の隙間から覗く、少しグリーンがかった色素の薄い瞳は、街路灯の白色を反射して
濡れたように艶めいた。
それが、とても寂しそうにも哀しそうにも、淫猥にも見えて、一倉は一瞬息を呑む。


「そんな初心な反応をしてくれるとは思わなかった」
「演技にしてはやり過ぎなんだよ!」
「舌は入れなかっただろ」
「そういう問題じゃないですよっ」
「そりゃ悪かったな」
「くそぉ・・・男とキスしちゃったゼ・・・」


赤らんだ頬を隠せずに、青島が口元を腕で拭いながら俯く。
前髪が更にパラパラと舞い落ちて、その表情を隠し、恥じらいを伝えた。

妙に幼いというか、捨てられた子供のような心許ない青島に、一倉は少しだけ戸惑う。
元気一杯に走り回り、権力にも怖気ず立ち向かう見知った彼は、今、成りを潜め
等身大の、年下の、素の青島が、ひっそりとここに剥き出しで置き去りにされたような錯覚を覚えた。
それは、子供の様な脆さでもあり
一方で、その何者にも縋ろうとしない潔癖な瞳は、彼をより美しく気高く見せる。
アンバランスなその融合は、初心でありながら淫猥な、妙に妖艶な色魔の香ばしさで男の劣情を想起させた。

だが、その瞳が映すのは、俺じゃない。


口付けたからという訳ではないが、この素の青島を、一倉は嫌いじゃないと思った。
むしろ、出会えて嬉しいような感情に近い。

思わず、何故か庇護欲が強く掻き立てられ、抱きしめたい手を辛うじて抑える。


「物足りなかったか」
「んなわけあるか」
「そんな顔するなら、抱き締めてやろうか?」
「ふざけんな」
「・・・お前のファーストキスを奪って悪かったが、これで賽は投げられたぞ。もう後には引けない」
「・・・・、・・・分かってますよ」
「恐らく・・・・近日中に何か仕掛けてくるかもしれない」
「仕掛けてこなかったら?」
「お前の価値がそこまでってことだ」
「・・・・なんかどっちに転んでも俺が惨めになるだけな気がしてきた・・・」
「まあ、そうぼやくな。十中八九、さいの目を出してくる」
「だといいけど」

いずれにしても、これで小康状態は解除される。

「気を付けろ」
「何に気を付けりゃいいんですか」
「・・・・背後?」

青島は思い切り一倉の脛を蹴り上げた。








『・・・・新城さん?』
『ああ、私だ。用件は』
『資源開発部です』
『あ?』
『全ての取引はそこが基点でした。営業部じゃない』
『・・・何だと?』
『海外企業との計画書の入ったディスク、新城さん宛に送りましたから』
『・・・・!』
『野上がやろうとしていたのは、海洋資源とかの裏ルート確保。その傘下企業が資金調達のために――』
『ちょっと待て!青島!お前、そんな情報、どうやって・・・!』
『・・・・・ね?俺も、ちょっとは役に立つでしょう?』
『そんなことを聞いているんじゃない!』

『――そのディスクに全て入ってますから、そっちで使ってください』
『青島!お前何をした!』
『・・・・・・何も?俺は、何も』
『今、どこにいる・・・っ』
『俺ね、明日、初めての有休貰ったんですよ。休みなんて、何ヶ月ぶりかな・・・』
『おい・・・っ』
『あーのーねぇ、新城さん、そんなに警戒しなくても大丈夫ですよ。会社のパソコンから抜いただけですから。それとも俺の心配?』
『何故お前にそれが出来る・・・!』
『ん~、昇格?』
『どういうことだ』
『俺も一人前ってことでしょ』

『捜査であることを忘れた訳じゃないだろうな・・・!』
『ははっ、何言ってんの。大丈夫ですよ。もっと俺を信用してくださいよ』

『野上に何か言われたのか』
『――』
『おい、青島?』
『何か新城さん、怒鳴ってばっか。変わらないですねぇ。なんか俺、ちょっと懐かしくなっちゃいました』
『・・・・・』

『どのみち、俺が得た情報なんて、そのまま証拠には使えないでしょ。多少の荒療治はお互い様ですよ』
『・・・・・。承知した。確認しておく』
『じゃあ、伝えましたからね。絶対新城さんが受け取ってくださいね』
『分かってる』
『その後のことは全部、新城さんにお任せしますから』
『殊勝だな。初めからこちらはそのつもりだ』
『ははっ・・・・ここからが新城さんの腕の見せ所ですもんね』
『揄っているつもりか』
『豪快なラストダンス、期待してます。それじゃ・・・・』
『待て青島!・・・・話はまだ・・・青島!!』








通話終えると、青島は詰めていた溜息を大きく吐いた。
ケータイを額に当て、祈るように目を瞑る。
気だるそうな手付きで、ケータイを無造作にポケットに落とそうとして、ふと、手が止まった。
チカチカと、新着メール受信ランプが、新たな点滅を告げていた。

暫くその光源を見つめていたが、そのままポケットへと滑り込ませる。

凍てつく風は痛みさえ引き起こした。
曇天の空は、何の光明など見せない。
青島はそれでも、焦れたようにグイッとネクタイを緩めると、足早に駅へと足を向けた。
もうすることは何もない。
全て、事は順調に行っている。憂慮することはない。



春はまだ遠く、燻ったような冬の匂いがする風は、急速に体温を奪った。
こうして陽が落ちてしまえば、太陽の恩恵など微塵も感じさせず、重力のある闇に覆われる。
冬生まれだからだろうか、青島はこの冷たさが好きだった。
吐く息さえ凍て付かせるような空気が、返って身も心も浄化していくような厳格さを思わせる。
コートの前も締めもせず、襟首も緩めたことで、冷気がしんしんと身を刺してきた。
感覚が麻痺し、冷たさよりも、痛みだけが押し寄せる。
それでも、癒しが欲しいとは思わなかった。

空に紛れ てしまいそうな鈍色のコートを掻き寄せ、駅への道を、人波を越えていく。
今はその、人々のざわめきさえ、煩わしい。
青島は両手をポケットに入れ、強張っているのか凍えているのか、冷え切っている指先をきゅっと握り締めた。



どのくらい街を彷徨い歩いていたのか。
鋭いクラクションが後ろから二回響き、ビクリと顔を上げる。

道の端へと避けつつ肩越しに視線を送ると
見知った顔が、運転席から厳つい顔をニヤけさせて手を上げている。

コツ・・・と、革靴を鳴らし、踵を返す。
ドアウィンドウがススッと下がった。


ガードレールに逆に腰掛けるようにしながら、ワザと背中を向け、背後の主に問う。
視線を明後日の方角へと向けた。

「何してんですか。こんなとこで」
「乗れよ」
「答えになっていませんね」
「アッシーは嫌いか?」
「死語ですよ」
「バブルの世界遺産だろ」

視線は背けたまま、ようやく青島の口が緩められる。

「通行人の邪魔になる。早くしろ」

一倉が低い声で促すと、一瞬の躊躇いを見せた後、軽く息を吐き、青島が舞い落ちるように助手席へと滑り込む。
ドアの閉まる音と同時に、車は発進した。



「新城から連絡を貰ってな。行き先に心当たりがないかと」
「・・・・・」
「全くなかったんで、この辺り廻ってればそのうち拾えるだろうと踏んだ」
「暇なんですねぇ、一倉さん」
「何があった」
「何って?」

青島がそっぽを向いたまま、言葉を濁す。
カーエアコンが程良く足元に温もりを与えており、初めて、青島は自分の身体の状態をを知った。


「俺たちは賭けに勝ったんだな?」
「俺たちって・・・。どうして一倉さんと俺が、そう一括りなの」
「どうなんだ」
「新城さんも暇だな~」
「はぐらかすなよ」
「・・・・・・」
「何があったか話せ」
「話すほどのことなんか。・・・・・なんもないですよ」


青島が、およそ彼に似合わない皮肉な笑みを僅かに浮かべると、ドアガラスに肘を付くことで会話を閉じる。
ちょこんとシートに収まる姿が、一倉にはヤケに小さく見えた。

窓の外はとっぷりと陽が落ち、ショッピングモールのイルミネーションが、煌々とネーブルイエローの賑わいを伝えながら後方へと流れていく。
冬色のコートを着込んだ沢山の群れが、有象無象に蠢いていた。
その楽しげなウィークエンドの街並みを、漫然とした瞳で青島が見つめる。
何となく声を掛けるタイミングを失い、そのまま少しの沈黙が流れた。


ややして、幹線道路から外れ、一般道へとハンドルを切る。

「運転手さーん、駅まででお願いしまーす」
「ちょっと付き合えよ」
「どこ」
「新城がお前の様子が少し変だったと」
「・・・・」

今、この件を話したくないことを、どうも一倉は分かってくれない。
いや、分かっているくぜに、はぐらかされてくれるつもりがないのだ。

苛立ちを隠しもせず、青島は憤慨した顔を表情に乗せた。


――実際、仕事は上手く進んだ。
たった数刻前、管理官である新城に直接連絡を入れ、より確実性を図ったところだ。
このまま自分がどうなっても、もう捜査に支障は出ない。
内偵としての自分の職務は完遂した筈だった。
今は、疲弊した身体を早く休ませることしか、考えたくなかった。


その青島の表情から、多くを読み取っているであろうに、青島の葛藤など、まるで気付く様子もない口調で
一倉はめげずに会話を続行させる。

「奴は何をしてきた。それともお前が火蓋を切ったか。・・・新城に情報入れたのと、関係あるんだろう」
「・・・・・・」
「仕掛けてきたんだな」
「だから、あんたはどうしていつも、そう唐突なんですか」


助手席にズルズルと沈みこみ、所在なく袖口から覗く指先を弄び、青島が呟く。

大人しくシートに埋まったままの青島は、まるで叱られている子供のように所在ない。
少年を虐めているような気分になり、一倉は少し口元を和らげた。


「あの夜から、まだ一週間経ってないぞ。流石――・・・、野上は仕事が早いな」
「・・・・褒めるんなら、俺の仕事ぶりの方じゃないの?」
「そりゃ悪かった」


ズルズルと座席に沈みこんだことで、スーツが撚れ、キチンと整えられていた身形が崩れていく。
上質な生地が皺になることさえ気にも留めない青島に、青島らしさを感じ、一倉は今度こそはっきりと口の端に笑みを滲ませた。

「何」
「いや・・・・」



信号が赤に変わる。

滑るように停車させ、一倉は青島へと顔を向けた。
その視線に気付き、青島もチラリと視線を寄越す。
直ぐ逸らされる。

目線を伏せ、コートの袖口から僅かに覗く青島の指先に、太いリングが眩く反射していた。
長い脚をはみ出すようにシートに行儀悪く沈み込む姿は、リラックスしているようにも、閉ざしているようにも見え
何ともアンバランスな印象を受ける。
五指で弄ぶ青島に、何と言って口火を切ろうか、一倉が思案していると
ふと、ワイシャツの襟のラインギリギリの所で、くすんだ傷跡が一倉の視界に入る。
最近はきちっと締められていたネクタイが緩められ、スーツが崩れたことで襟元が撚れ、無残にもズレていた。


「その傷、どうした?」
「・・・?・・・・ぁ・・・、・・・っ、別に・・・・ちょっと、ぶつけた」

ビクッと唐突に身体を起こし、青島が慌てたように右手で首元を隠した。
余りの慌てぶりに、ちょっと興味を覚える。

――何だ?このリアクション・・・・。これじゃまるで――・・・。


一倉は青島のその右手首を無理矢理引き離し、反対の手で思い切り襟を開く。

「な、にすんですか・・・っ、や、めてくださいよ・・・っ」


肌蹴られた胸元の、その更に下。
もう2,3個同じ痣がある。
シャツに隠れていた方は、まだ紅く鬱血していて
これなら、何の痕であるかは、大人なら誰にでも分かる痣だ。


「・・・・成程。大人の付き合いに口出しする気はなかった。・・・悪い」

そう言って、両手を解放する。

「ランボーなんだよ、あんたは・・・っ」

俯き、前髪で表情が隠れてしまった青島が、襟元を整え治す。
ぷぅ、と頬を膨らませている顔は、本当に子供の様なリアクションだ。

一倉は何となくその距離感に、くすぐったさと心地良さを感じる。
憤慨した言葉を吐きながらも、何処かそれは本気ではなく、むしろ少しホッとした様子なのが伺えた。
それまでの少しぎこちなかった空気も、霧散する。


「あれだけ好き勝手やる奴が、何を言う」
「あんたには言われたくありませーん」

べぇっと青島が舌を出し、そのままそっぽを向かれた。


信号が青に変わる。
エンジンの音が静かに車内へと伝わった。


「それにしても意外だな。お前、女いたのか」
「・・・・居たら変?」
「変じゃないが・・・・・驚きの方が大きい」
「モテないって言いたい?」
「そうじゃあない。・・・が、特定の女がいるようには見えなかった」
「どういう意味?」
「いや・・・。ま、プライベートを充実させるにはいいことだ」
「あんたも充実してそうだね」
「人生楽しくがモットーだ。・・・長いのか?」
「別に・・・・そんなんじゃ・・・・」

「何だよ、ワン・ナイトか?やるなぁ・・・」

急に口籠る青島に、一倉は顎に片手を当て、瞳を揄いの色に変える。

「しませんよっ」
「身分がバレることだけは気を付けろよ」
「何言ってるんですかっ」
「あと、セーフティは心得ているよな?」
「どんな相手想像してるんですか!してないって言ってるでしょうがっ」
「ゴムもなしかよ」
「あのねぇ・・・!」
「青いなぁ。照れるな照れるな」
「照れてませんっ」
「じゃ、それ、何だ?本気で猫とか言うなよ」
「・・・・。も、どうだっていいでしょ」
「確かにな」


本気で照れてしまっているのだろう、少しだけ頬が紅い青島を、面白そうに眺めながらも、一倉はそれ以上の追及を止めた。
初心な反応が、素直に可愛いなんて言ったら、青島は憤慨するだろうか。
ますます青島をご立腹させるだけだろうと、一倉は口を閉ざす。
それなりに青島が幸せにやってんなら、喜ばしいことだと思った。


「本題に戻るぞ。とにかく新城に送った情報は信用性あるんだな?」
「・・・・ええ」
「危ない橋は渡ってないな?」

先程よりは警戒心の解けた青島が、吐息だけで笑う。

「・・・・何?これ、尋問?俺、疑われてんの?」
「そうじゃない。お前が最後のラインなんだ、新城としても、慎重にもなるさ」
「・・・・・」
「お前が野上に操られ、偽の情報を流された可能性は?」
「ない、と思いますよ・・・」
「言い切れるか」

観念したのか、青島がゆっくりと甘い息を零しながら、窓に肘を突く。

「・・・、俺がアクセスしたのは、俺のパソコンからじゃなくて、野上さんのパソから彼のパスを使って入りましたから、そこまで見越されているとは思い難い、です」
「そう、か」
「野上さん自身が誰かに裏切られてなきゃね」

視線は外を見ているようで、その瞳には何も映っていないように見えた。

「で、野上は何をしてきたんだ?」
「・・・・・・・特に。何も」
「何もしなくてどうして情報を得られた?」
「さあ?気が向いたんじゃないの?」
「狙いはなんだ?」
「――これからは、俺を全てのプロジェクトに参加させるってさ」
「どういうことだ?」
「・・・・・・」

再びの沈黙の後、強張っていた身体を弛緩させ、青島が再びシート にドサリと背中から身を委ねる。

「・・・・さあ?エライ人の考えることは、俺には分かりませんよ」

キャリアもね、と小さく呟いて、青島は頭の後ろで両手を組み、再び窓の外へと視線を流した。




一般道を抜け、バイパスに入る。
映る景色は一変した。
闇に閉じる民家やアパートが、一様に朧げな灯りを漏らしている。
車通りは然程多くなく、人影も全くない。

脇道に折れ、一倉は車を沿道に停車させた。

ハザードを点滅させ、シートベルトを外す。

遠くのビル街の夜光ライトが反射したように、車内を白く照らしていた。
車を止めると、辺りの音は全くと言って良い程、無くなった。


「参加ってことは・・・・いよいよお前を仲間に引き込むつもりか・・・」
「・・・・・」

そっぽを向いたまま、青島は無言で返事を返した。
わざわざ停車させてまで問い掛ける一倉に、何が何でも聞きだそうとする執念を感じたのか
青島が、うんざりとした顔を隠しもせずに乗せる。


「まさかと思うが、そこまで一緒になって犯罪するなよ?」
「しませんよ・・・」
「奴は何をするって?」
「・・・新城さんから聞いたんでしょ」
「聞いたが――・・・・俺が聞きたいのは、お前の仕事だ」
「・・・・それは特に指示されてません」
「なら、お前は何の役だ?」
「・・・・・・」

また、不自然な沈黙が車内を支配する。
カーエアコンの音が無機質に響いていく。


口調を変えて、青島が不貞腐れたように言った。

「さあ?・・・・言ったでしょ。エライ人の考えることは俺には分かりません」
「なら、どうして急にそんなことになった?」
「・・・・・・」
「青島」

畳み掛けるように問い詰めれば、再び黙ってしまった青島に、一倉は何やら奇妙な違和感を強めた。


「気紛れでしょ・・・・」

その言い方が、妙に寂しそうにも、心細そうにも聞こえ、思わず一倉は黙したまま青島の肩に手を伸ばす。
ピクンと青島の肩が揺れる。


ふと、先程手を掴んだ時にも、妙に過剰反応だった青島の姿がフラッシュバックした。

・・・・・・そう言えば、色々と、何かが可笑しい。
可笑しいと言えるほど、青島のことを知っている訳ではないが
青島との会話は、いつももっとリズムがあり、スムーズであった。
それは、青島が接客に長けているという、青島側のスキルに因る所が大きい。
しかし、今の会話はさっきから何かが、ぎこちない。
仮に、一倉との会話に乗り気じゃないにしても、それを一倉に悟らせる奴ではないだろう。


何だか、一倉には青島が何かを隠している様な直感がする。

捜査関係者ではない自分に言いたくないのは、一倉は無関係だからという理屈に他ならない。
単純な理屈だ。
しかし、今回の場合、不覚にも少し関わってしまっている。
部外者という理由だけで口を割らないのは、どこか説得力が弱い気がした。
もしかしたら、一倉にも関係があるからこそ、言いたくないとする方が自然だ。
そこまで気を使わせていると、自惚れても良い所だろうか。


さり気ない仕草で、青島にそっと、手を振り払われる。
その手は、思った以上に冷たい。


何となく拭い切れない消化不良を起こしたような重たいものが、胸中にふつふつと湧き出し
微かな疑問が確かなものへと腫れあがり、一倉を取り巻いた。
思考の渦の中から拭い去れない、湧き出るその黒いものに抗わず
無意識のままに、核心を口に出す。


「野上は・・・・この間のこと、何か言っていたか」
「この間?」
「とぼけるなよ。キスのことだ」
「・・・・・ん~・・、見てたって」
「それだけか?」
「面白くはなかったみたいですけどね」
「妬いたってことか?」
「ま、それで計画書の存在を知れたんだから、結果オーライでしょ」

――ということは、やはり、野上が青島に何かをしたのだ。

「どう脅した」
「人聞きの悪いこと言わないでくださいよ」
「なら、良く引き出せた、と言っておこう」
「もっと褒めてくれてもいいんですよ」

生意気な物言いに、思わず一倉の緊張が緩む。
軽く吹き出しながら、言った。

「そうだな。お前なら捨て身の戦法で、何だって、しでかし・・・――」

自分の言葉に、ハッとした。

――そうだ。忘れていた。
コイツは、大人しく相手が仕掛けてくるのを待っている奴じゃない。
仮に、相手に先手を打たれても、こちらが思いもしない方法で、結果を勝ちとってみせる。
それこそ、何だってしでかすリスクを常に抱いている。
コイツを黙って待たせるには、それなりの“エサ”が必要なのだ。

例えば、〝室井〟のような・・・。



「――・・・」

一倉は、黙ったまま青島を見つめた。
急に口を閉ざした一倉に、青島も不審そうな眼を向ける。


青島は表面的なことしか言わなかった。
だが、一倉の頭の中では様々な状況が計算されていく。
それに・・・・・・さっきのリアクション。
それこそ、たかが、女との蜜夜を知られたからと言って、壮年期にも入る大人が、あそこまで過剰反応するだろうか。
見られたいものではないだろうが、大人の男なら夜を女と共にするぐらい、極普通のことだ。
そこで何が起きるかくらい、誰でも想像の付く範疇である。

散りばめられたピースを、一つ一つ繋ぎ合わせていく。
疑惑に裏打ちされた、ある最悪の結論が一倉の脳内に弾きだされ、一倉の胃が重たくなった。
そうであって欲しくない一縷の望みを掛け、呻くように一倉の口から言葉が洩れる。


「その首の傷・・・・誰に付けられた?」

やはり青島は何の表情も浮かべない。
僅かに視線を伏せる。

ほんの、一瞬の揺らぎ。
しかし一倉は見逃さない。

まさか!

一倉は力任せに青島の手首を掴み、引き寄せた。

「な・・・っ!」


通り抜けていく車のヘッドライトが、鋭く車内に射し込んだ。
一瞬にして通り過ぎた光明に、両者の瞳が交差する。

ジロリと一倉は青島を目線で威圧する。
至近距離のまま、その瞳の奥深くまでをじっと見透かすように、強い眼差しで射抜き続ける。

「・・・・」
「・・・・」

気不味そうに、青島が顔を背けた。
さらさらと前髪が揺れ、また、その表情を覆い隠していく。

掴んだ手首を解放しないまま、一倉は全身に走らせていた力を、一気に意識して抜いた。
溜息のように漏れた息で、確信を持って静かに断定する。


「アイツが、付けたのか」
「・・・・・」
「何を・・・・・された?」
「・・・・・っ」


何をされたか。だって?
一倉は自分で問うておきながら、可笑しくなった。
こんな傷跡を付けられて、何があったかなど、それこそ推して知るべき範疇だ。


嫉妬深そうだとは思っていたが、まさかここまでするとは思わなかった。
というか、青島に執着しているなとは思ったが、キスで煽ったのは、より密接な関係であると見せ付けたかったからだけであり
まさか、こんな、色恋沙汰のようなライバル心を燃やしたつもりはなかった。
いや、それは言い訳か。
青島への独占欲を煽ったのは確かだったが
野上の、青島への執着が、こんな類の――恋情と呼んで差し支えない、狂気にも似た陶酔だったとは。

罪悪感と共に後悔も押し寄せ、一倉はそっと手を離す。


「襲われたのか」
「・・・!」

その表情が、全てを物語っている。
青島が唇を噛み締め、俯くのを、一倉はただ黙って見下ろした。





***


「・・・め・・・・っ、ちょ・・・・っ」

両手をデスクに押さえ付けられ、上から圧し掛かられる。
青島の脚が僅かに宙に浮いた。
そのまま、いきなり口唇を塞がれる。

「・・・ッ!!・・・・っん・・・ぅ・・・」

余りの衝撃に、青島は一瞬抵抗も忘れ、目を見開く。
まさか、こんな深夜のオフィスで、冷たく硬質なグレイのデスクに押し付けられ、男が男にキスされるなど、想定もしていなかった。
完全に警戒も抵抗も失っていた。

背中に、痛みと冷たさを感じる。

その隙を聡く感じ取り、野上が強引に青島の口唇を開かせ、分厚い舌を割りこませる。
流石に慌てて身体を捻るが、僅かに足が浮いた状態では、上手く力が入れられない。

「んぅ・・・・っ・・・・ぅ・・っ」

抗議の声は、喘ぎのように口の端から漏れ、そのまま野上の口に吸い込まれていった。
それに勢い付けられるように、野上が更に奥深くまで、その熱を帯びた舌を侵入させてくる。

「・・・・ッ・・・・ぅん・・・・・っ・・くぅぅ・・んぅ・・!」

喉の奥まで制圧され、息すら出来ない。
青島は、必死に口付けを解こうと左右に首を振った。
細く柔らかい胡桃色の髪が、ほわほわと後方へ揺れる。
それさえ野上の欲情を煽るようで、ますます力任せに上から圧し掛かられた。

堅いテーブルの上に押し付けられたまま、青島の脚を割って、野上が割り込む。
完全に押さえ込まれた。





深夜、いつものように野上に残業という名の野上のアシスタント業務を依頼され、一人、パソコンと格闘していた。

そういうのはこれまでも度々あり、青島は何の疑問も警戒も抱かず、承諾した。
多くの資料に触れ、その情報を目にしておくことで、いつか何処かで事件の関連性と結び付く可能性もあると睨んでいる。
あからさまには出てこないだろうが、どう見ても組織的な商業目的の犯行だからだ。
むしろ、野上の直属として仕事を一任されることは、青島にとって有益だった。

就業時間を大分過ぎ、午後七時も回ると、他の社員が全て引き払い、室内は誰もいなくなる。


何か仕掛けてくるなら、こういう夜だと思えた。
なので、青島も敢えて一人でいる状況を作る。
どう仕掛けてくるか。一派遣の俺に仕掛けるのなら、何が効果的になるだろう。

一倉の言う自分への執着はそれほど信じてはいないが、野上に重宝されている現状は確かなので
恐らく、情報横流しの線で探ってくるのが、王道だろう。
そこから、どう野上の本音まで引き出せるか。

そこからは、青島のスキルに掛かっていると思われた。


広いオフィスのベースライトは、青島のデスク付近だけが付けられ、他は節電のため消灯された。
ぼんやりとした青白い灯りの中、CPUの音だけが響く。
上層階で開かれていた会議が終わったのだろう、夜分になって野上が一人、オフィスに戻ってきた。
いつものように、出来あがったレポートと、今後の工程表を揃え、青島は与えられた個室へと引き籠った野上を追った。

そこで、何とはない会話をして、必要なものを手渡せば、早々に立ち去る。いつもの流れだ。


しかしその日は違った。
扉に向かおうとした青島の手を引き止めたかと思うと、直ぐ背後に野上が立った。
気配に振り向きざまに、両手を取られ、デスクに押し倒される。

ドサドサと、デスク上の書類の山や重厚な資料本が、雪崩を起こして床へと落ちていくのを、何処か遠くで聞いていた。

そんなのに気を止める様子もなく、野上が抑え込んでくる。
その身体を押し退け、体制を整えようとしたが、既に重心を崩された状態では、勝敗は見えていた。

――何でこんな・・・!

動揺の方が激しかった。
口頭尋問ではなく、いきなり暴力に出るとは考えもしなかった。
正体がバレたのかもしれないという危惧の方が先に出て、抵抗が一瞬遅れた。
それが、致命的となった。





体重を掛け、両手首を強く縫い付け、野上が口付けの角度を変える。

愛撫にも似た仕草で、青島の口唇を味わい尽くすように舌が轟き、濡れた音が立てられた。
押し出そうと突き出した舌を、待っていたかのように捕えられ、敏感な縁を辿るように繰り返しなぞられる。
覆う様に被せられた口唇からは、思うままに息を継ぐことさえままならず、青島の口からは喘ぎに近い吐息が堪え切れずに漏れた。

「・・・ぁ・・・・くぅ・・・んん・・・っ」

それを見下ろす野上の眼差しが、淫猥に滲む。

押さえ付けられていた両手を頭上にスライドし束ねられる。
片手がネクタイへと伸ばされた。
口付けは解かれないまま、スルリとタイが緩められ、ワイシャツのボタンが外されていく。

「んっ・・・・ぅ・・・ん・・・・・っ」


頼りない抗議の喘ぎは、夜のオフィスに呆気なく溶けた。
青島の眉が切なげに寄り、首を何度も左右に必死に振る。
しかし、覚束ない仕草は、簡単に去なされる。
バタバタと脚をもどかしげに動かす度、デスクを蹴る音と、軋む音が身体の下から響いた。


一つ一つ、釦が外され、やがて、野上の口唇も離れ、そのまま顎から喉へと辿られる。
はぁっと、酸素を求めて喘いだ。
左右に首を振りながら、腕を押し上げようとするが、ビクともしない。

・・・・めっ、・・・っ・・・・・やめ・・ろ・・・・っ」

釦が全て外され、シャツの間から白い肌がデスクライトのオレンジに浮かび上がる。
野上が艶かしく音を立て舌を這わせながら、味わうように開かれたシャツの間へと侵入する。
その湿った感触の気持ち悪さに、青島は顎を逸らした。

「・・・ッ、・・・ぅ・・・」
「やっぱり極上の逸材だ・・・」
「な・・・っ」

ゾロリと濡れた舌が這い、逸らされた喉仏を舐め上げられる。

「・・く・ッ・・・・」

濡れて、熱を持った感触に、どうすることも出来ずに、ただ身体を震わせた。
肌を舐めまわす動きに、今はただ、受け容れるしか出来ない。
キツく目を閉じ、顔を横に背け、口唇を噛み締める。

「可愛い反応をしてくれるね」

胡桃色の髪が、ぼんやりと灯されているデスクライトに浮かび、ふわりとその表情を隠す。
そんな青島を楽しそうに見下ろしながら、野上は愛おしげな手付きで前髪を掻き上げた。

「そんな顔もいい」
「・・・・っ」

鎖骨に軽く歯を立てられた。
微かに身体が揺れる。

解いたネクタイで、野上は青島の両手を縛り上げ、満足そうに上から見下ろした。

「ゃめっ、解けよ・・・ッ」
「同じ体格・・・・同じ身長・・・・同じ肉付き・・・。そして・・・・・整ったこの顔・・・・」

野上の舌が、今度は顎から耳たぶへと登り、ゆっくりと濡れた音を立てて耳の中へと押し込められる。
濡れた音が直に響く。

、だ・・・・・って、言ってるだろ・・・っ、放 せ・・・・・・っ」

カリ、と、今度は少し強めに耳に歯を立てられる。

「・・・ッ」

ゾワリとした鳥肌が全身を走った。

気持ち悪い。そして、何より、怖い。


「分かってないね・・・・ネクタイ縛りはオフィスラブの基本だろ・・・」
「ふざけ・・・っ、ぅん・・・ッ」

苦情は掠める様に野上の口の中に消えた。
鎖骨から胸の尖りを回すように撫で、その指先がバックルに掛かった。

「ずっと探していた・・・・俺のものだ・・・」
「な・・・?どういう・・・?」
「知る必要はない・・・」


四肢を封じられているだけではない恐怖が、全身を駆け上がる。
多少仰け反らされた格好をさせているため、開かされた下肢に向け、滑らかなウエストラインが程良く引き締まり、薄暗いライトの下に骨格が浮き上がる  。
少しだけ汗ばんだことで、若い肌も艶めき、浮き上がった肋骨が、誘うように捩られる。

野上の瞳に、確実に雄の獰猛な野性が宿った。


「・・く、・ふぅ・・・・っ」

息を吹き込む様に重ねられた口唇が、容赦なく擦りあわされる。
湿った素肌を手の平全体を使って、味わうように野上がゆっくりと青島の総身を上から撫で降ろす。

「・・・・ぅ・・・ッ、んぅ・・ッ」

恐怖を堪え切れず、思わず喉を呻かせると、野上は、嬉しそうに目元を細めた。

一つ一つ反応を確かめるように、舌と指が素肌を辿っていく。
胸元をねぶられ、素肌に吸い付かれ、引き出される感触に身を投じる恐怖に慄く。
青島の眉が潜められ、唇から呻きのような吐息が漏れた。

「反応もいい・・・」
「・・・っ、め・・・・っ」
「いい貌してくれんね・・・・」
「さわんな・・・っ」
「俺があげたスーツ・・・仕立て直しもせずにここまでピッタリだとは予想外だった・・・」
「・・ぁ・・・っ」
「よく似合っている・・・」
「・・・・っ」
「これなら、遠目からではどちらかなど、俺たちを見分けを付けられる奴はいないだろう・・・」


野上が、乱暴に青島の頤を強く掴み上げ、上向かせる。

「この間は見せ付けてくれたな」
「・・・・!!」
「だが、そんな抵抗も可愛いものだ」

親指で、唾液で濡れたままの下唇を、ゆっくりとなぞられる。

「どれだけ手間暇かけて可愛がってやってきたか」

恐怖をグッと呑み込み、下から怯みを覗かせない瞳で睨み上げる。

「・・・あ、んた・・っ、男をバカにしてんのか?」
「男だろうが女だろうが、関係ない。男で好都合ではあったけどね。・・・・お前が俺から離れていくことを、俺は許さない」
「何、言ってるんですか・・・!」
「これからは、俺の傍で俺と同じ仕事をして貰う。一時たりとも離さない」

顔をグッと近付ける。

「俺から逃げるな。お前に逃げ場は、もうないんだ」

そのまま、口唇を強く強く重ねられる。
噛み付いてやろうと僅かに口を開けば、そこから乱暴に舌を挿入された。



「・・・・っ・・・ぅ・・・ん・・・っ」

女性とのキス経験は数え切れぬほどしてきたのに、主導権を奪われ、こんなにも良い様に好き勝手に翻弄されるキスは初めてだった。
何もかもが自分の思い通りに進められず、弄ばれるだけの、意識さえ奪い取られていくような錯覚。
それは、恐怖に近く、青島は身体を竦めて眉を寄せ、必死にその感覚に耐える。

「ぁ・・・・・・ぅ・・・・・んっ・・・」

震える身体は、野上にも気付かれているだろう。
男に組み敷かれ、開かされた脚が、卑猥に誘う。
屈辱的な体制のまま、野上の思うままに貪られていく。

――悔しい。悔しい。悔しい。でもそれ以上に、怖い。この先、何をされるのか、どこまでコイツに――


舌を奪われ、思う存分舐め回される。
そのまま、片手が胸の尖りを弄り、もう片手はスラックスの中に指し込まれた。

「・・・んん・・・ッ・・・・は・・・・ぁ・・・っ」
――くっそぉ・・・っ!



散々掻き回した後、口唇を少しだけ解放される。
荒い息を吐きながら、それでもキッと輝きを失わない強い眼差しで、青島は睨み返した。
その穢れない魂もまた、野上の欲を煽る。

「男をその気にさせる素質あんね」
「気色悪いこと・・・ッ」
「その、気の強い所も、最高だ」
「離せ・・・っ」
「大人しくするなら、手荒なことはしないさ」
「あんたの思う通りにはならない・・・っ」
「必要ない」
「・・・・どういう、意味だ?」
「君はただ、僕の傍にいるだけでいい」


ニヤリと笑い、再びゆっくりと舌を顎から喉元へと這わされる。
ボタンを外していただけのシャツがずれ、丸い肩が野上の眼下に晒される。
鎖骨に舌を這わされ、胸元を何度もねぶられて、青島は首を振っては抵抗の意思を示す。


肌理の細かい青島の肌にのめり込む様に、卑猥な音を立てながら野上が至る所に、きつく痕を残していく。
その度に、青島の開かれた脚がデスクを叩き、痙攣したように波打つ。
スラックスの中に差しこまれた手が、トランクスの上から、的確な動きで秘部を揉みあげた。

悲鳴に近い声を上げ、制止を求めるが、野上に効果はなかった。
されるがままに身体を遊ばれていく。
喚き叫ぶ声は、部屋の外には届かない。

完全に野上の方が攻守として上だった。


初めての経験に、青島の心臓はこれ以上ないくらい早鐘を打っていた。
最早、最後の手段とばかりに、青島は叫ぶように切り札を口にする。

「・・っ・・・・は・・・っ、今度の・・・っ、来週の商談の裏で、俺にやらせるつもりか!チャンスだもんな、海外ルート確保の!」



野上の舌が這いまわるのが止まった。


期を逃さず、畳み掛けるように言う。

「その様子じゃッ、今度の交渉で契約確定ってとこか・・・っ」

乱れた髪の間から、不敵な笑みを、わざと見せる。


「・・・・あれ、良く知ってるね」
「俺を・・・・囮にでも使うのか・・・っ」
「まさか。大事な君に、そんな危険なことはさせられないよ」
「・・・へ?じゃ、何をさせるつもりだ・・・?」

思わぬ解答に、不覚にも抵抗を止めてしまった。

その隙を付かれ、再び口唇を塞がれる。

「ぅん・・・・っ、は・・・・ぁ・・・ッ、ゃあ・・・ッ」

両手を頭上で縛られ、デスクに縫いつけられたまま、顎を固定され、口を力で開かされる。
いささか乱暴に奥深くまで奪われ、隙間なく堪能していく舌に成すがままになる。

「やっ・・・・ぁ・・、ぅぅん・・・・・っ」


ゴクリと野上の喉元が上下する。

「君はただ、現場でうろついていてくれればいい・・・。後のことも、気にしなくていい」
「・・・?」
「そうやって、俺の一部となっていくんだ」
「どういう・・・?」

野上が、目尻だけに僅かな感情を見せる。

「商談は俺がやる。取引も進めるのは俺だ。君はただ――現場で俺と同じ格好をして表に居てもらう。それだけだ・・・」
「・・・・・?」
「買い物したりお茶を飲んだり・・・するといい。・・・そうだ、あのホテルは有名なカフェも入っている」
「何を・・・考えてる?」

首筋にキツく噛み付かれた。

「ィ・・・ッ!」

「もし、離れていこうものなら、力づくで俺のものにするから」
「――俺、男ですよッ?」
「関係ない」

そのまま、再び強引に口付けられる。



片手が乱暴に胸元から腹部を辿り、素肌を暴いていく。
やがて、青島の身体の上を好き勝手に彷徨っていた野上の手が、トランクスを半分引き下ろし、秘部を空気に晒した。
その時、左腰の大きな傷跡に触れる。
触感が違うので、すぐ分かったのだろう、野上が執拗にそこを撫で始める。

「・・・ッ・・・・ァ・・・、っく、んぅ、ん・・・っ」

重ねられたままの口唇の間から、戦慄くような嗚咽が漏れる。

元より他の肌より少しだけ敏感になっている肌は、触れられる度、もどかしい程のビリビリとした電流みたいなものを青島の総身に走らせた。
眉を寄せ、避けようと必死にもがく。
しかし当然、それは些細な抵抗にしかならない。
思わず身を捩れば、野上の手が、押さえ付けるように青島の抵抗をいなした。

「ぁ・・っ、ぁ・・・っ、は・・・っ・・あぁ・・・っ」

傷痕に絶え間なく触れられる刺激に、従順な反応を返し、身体を震わせていく。
喉元を朧な電灯に晒し、今までで一番の反応を返す青島に、野上がいやらしい笑みを浮かべた。
逃れようと身を捩る程に服が乱れ、善がっているようにしか映らない。

頭上で拘束された腕が堪え入るように悶え、開かれた脚が小刻みに揺れた。


同じ体格であるだけに反動も等しく、ましてや圧し掛かられては、力だけではどうしようもない。
宙に浮いたまま、男の下で開かされたままの脚が、踏ん張りも効かず、行き場を失う。


「随分大きな傷跡があるんだね・・・・」

淫猥な響きを乗せ、野上が青島の耳に唇を押し付けるようにして、掠れた声で囁く。

「そ、・・・こに・・・っ、触れるな・・・っ」
「どうして?」

――どうして?


ねっとりと、口唇が重ねられ、濡れた舌がもう慣れた仕草で侵入する。
分厚い舌に歯列を舐め回される。
舌に軽く歯を立てられる。

「そそられるよ・・・」

わざと傷痕を弄びながら、片手でトランクスを降ろされ、空気に触れていた秘部に直接手が宛てられた。
口腔を掻き回されながら、二点を同時に刺激され、喚き咽ぶしかできなくなる。
与えられる強淫に目尻から雫が落ち、キツく眉を寄せながら、思うままに奪われていく。


その時―― 一人の男の姿が頭上に浮かんだ。

この恐怖の中、初めて浮かんだその肖像は、何より縋るに価する、青島の聖域だった。
淫猥な視界において、それは強烈に、そこに触れて欲しくない想いが破裂したように湧き上がる。

強烈な自我が身の奥から溢れ、青島が鮮烈な視線で野上を見上げる。
ありったけの力で、自分の口内を猛々しく振る舞う舌に噛み付いた。


「・・・ッ」

野上が小さく呻き、口唇を解放する。
至近距離の野上を、荒く息を吐きながら青島は強い色で睨み上げた。
息一つ乱さず、野上がじっと見下ろす。

ここで引いたら、この闇に呑まれる。
青島は、必死に視線を逸らさない。


「俺に、触れるな・・・っ」
「・・・・・・ますます気に入った」

腕から力で押さえ込まれ、首筋に、勢いよく噛み付かれる。

「ィ!・・ァ・・ッ!」

野上の前髪がパラパラと崩れ、青島の頬を擽る。

「ここで咥え込ませてやってもいいんだぜ」
「やんねぇよっ」
「二度と他の男にあんなことさせるな」
「男に嫉妬?」
「好きだ、とでも言えば、満足かい?」
「馬鹿にす・・・・・っ」
「もう放さない・・・・」


強く、キツく、唇を塞がれる。
太股を弄り、脚の付け根を指で辿られ、もどかしい刺激を繰り返される。

「んぅんッ、っく、ぅんッ、・・ぅ・・・っ、ふ・・ッ」

開かれた脚は戦慄くだけで、何の抵抗にもならない。
深夜のオフィスに助けてくれる者はない。

哀しみと絶望が入り混じったような感情を、青島は胸中で聞いた。
この窮地をどう逃れるかよりも、もう、どうにも戻れないことを、ただ、理解させられる。

願う聖域は、なんて果てなく遠い。


青島は、最後の気力で、哀愁を帯びた眼差しを閉じた。
世界なんか、見たくない。
首筋を彷徨う濡れた感触に、ただ従わされていく。

一拍置いて、ゆっくりと瞼を震わせる。
乱れた息のまま、野上の視線を捉えた。

「だったら―――――!」



***


「他に、何をされた」
「別に、大したことないです」
「正直に言え。俺にだって責任の一端がある」
「責任って・・・男相手に責任も何もないでしょ」

ようやく青島が顔を綻ばせ、表情をくしゃりとさせる。
一倉をチラッと見上げ、安心させるかのように、笑みを見せた。

「・・・・・・未遂ですから」
「・・・・・」


その言葉通り受け取って良いものか、一倉はしばし悩んだ。
青島は、首筋に手を当てたまま、もう話はこれで終わりだと言わんばかりに、身を戻す。
こうなったら、この意地っ張りは、頑として口を割らないだろう。
その凝り固まった心を開く方法を、一倉は知らない。

一倉は、青島の方を向いたまま、鼻から大きく息を吐いた。


「モテる男は辛いな」
「こんなの、モテた内に入るんですか」
「入るだろ」
「嬉しかないや」
「男は何に付けても経験だ。心置きなくカウントしておけ」

ふふ、と青島が肩を揺らして笑う。

「室井に怒鳴られそうだ」

額に手の平を当て、一倉がハンドルに頬杖を付く。

途端、ピクリと青島の頬が硬直した。
空気が強張ったのを感じ、一倉が不思議そうに青島を見た。


「・・・・・・何でここであのひとが出てくんの」

青島の声は、何故か酷く震えるように小さい。


「聞いてないか。・・・実は野上に宣戦布告してみると言ったら、室井に釘を刺された経緯がある」
「なにそれ・・・?て、ちょっと待って。あのひと、何処まで関わってんの?」

急に青島がこれまでにないくらいの不安気な顔を浮かべ、一倉を縋るように見た。
そのあまりに真剣な眼差しに、少したじろいで、一倉は不審な視線を返す。
こんな青島を見たのは、初めてだ。


しどろもどろに記憶を辿る。

「どうした?何処までって・・・・一通りは耳に入れていると思うが」
「・・・・なんで・・・・・」
「一番最初に、ほら、店で俺たちの面が割れちまったから。警戒を含めて」


一瞬、今にも泣き出しそうな顔をして、青島が唇を噛む。
しかし、瞬時にしてその感情は幻のように表面から消え去った。


「あのひとを巻き込むな」

その瞳はまるで野生の雄のような煌めきを乗せる。

「あのひとの手を煩わせるようなこと、するなら俺が許さない」
「青島・・・・?お前――」


あまりの変貌と、そのメンタルの切り替えの鮮やかさに、一倉は不覚にも呑まれ、魅入る。
この意志の強さは、プロ並みだ。
なんて繊細で鮮烈な感情を見せるのだろう。



そのまま二人、無言で睨み合う。
エンジンが幾度目かの唸りを上げる。



一倉が静かに口を開いた。

「もし、俺がこのことを室井に告げるって言ったら?」

青島は、黙ったまま瞳に強い光を瞬かせる。
気を抜いたら、青島の造り出す狂気に呑まれそうな威力を肌に刺さるように感じ、一時たりとも視線が外せない。


青島の感情は隠されている。いつものように。
だが、今の空白で、一倉には全てが分かってしまった。

青島が室井をどう思っているのか。
青島にとって室井がどういう存在なのか。
笑顔の裏に巧妙に隠され続けた、この先の恐らく隠し続ける、誰も知らない本当の彼――
その直向きなまでの感情が、時空を超えて一倉へと圧し掛かる。


「言う必要のないことだ。もう仕事は終わったんだ」
「だけどお前と野上はまだ切れていない」
「それこそ、あのひとに関係ないことですよ」

「そうかな。室井は言って欲しいと思ってそうだが」
「巻き込むメリットないでしょ」
「お前のことなら、話は別だ」
「どうして?」
「“どうして”?」

クッと一倉が喉で笑う。
室井との関係が、本気でスポット的なものだったなどとは、青島自身が一番思ってもいないくせに。


強い視線なのに、青島の口調は終始、何処か脅えているように、一倉には聞こえた。
野上に襲われたと言った時だって、苦しそうな顔をしただけで、ここまでの動揺は見せなかったくせに。
この脆さは何なんだ?


急に見せた青島の、これまで隠され続けてきた意外な一面に、突き崩すのならここだと、一倉の本能が告げる。

「お前らは、この先も一緒に戦っていくんだろう。情報共有は不可欠じゃないのか?」
「俺たちが目指すのは自立した組織だ。あのひとにはあのひとの、居るべき場所がある」
「室井を護るためか」
「現場のことは現場でやるだけだ」

「そんなの、室井の方は納得しないぞ。その温度差はどう解決する」
「・・・・あの人の方が現実を分かっているんじゃないですか?」
「逐一の報告義務が、円滑な捜査の基本だ」
「伝わる情報はシンプルでいい」


強く、揺るぎなく、青島が伝える言葉は澱みない。

そこまで、室井が大事か。室井の立場が、そしてその存在が。
信じ合っているなどと幼稚な言葉を口にしていた時も腹立たしく思ったものだが
こうまでして身の犠牲も厭わず護ろうとする、その意志の強さと想いの深さに
一倉の中に、新たな腹立だしさが湧いてくる。


これまでの青島の行動原理はすべて、その少年漫画のヒーローにで もなったような、お気楽な正義感から派生しているのだと、一倉は考えていた。
あながち、それも間違っている訳でもないのだろう。
しかし、それとはまったく別の次元で
青島は確かに室井を想っている。
強い心で、室井だけに委ねている。
二人の理念が一致しているから、室井の存在が影となり、青島の強引さばかりが浮き彫りになるが
それは違う。
そうすることで、青島は室井を導いているのだ。
そして、それは、室井の本当の理念を護るためでもあるのだ。



「この程度の情報で、室井が潰れるとでも?」
「室井さんを見くびっているのは、あんたら本店だ」
「本気でそう思うなら、傍に居たらいい」
「その役目は――・・・・・俺じゃない」

語尾が、少しだけ震えた。
これまで見合っていた視線を外し、青島が横を向く。
その、鮮烈な眼差しはそのままに、遠くの何かを追う。

「・・・・」


――ここまで傷ついているのにか。

全く、すっかり騙された。
コイツがどれほどの覚悟と情熱で、室井を想っているか。
恋だの友情だの、そんな安っぽいものなんかではない。
もっと深い、もっと、とてつもなく大きな覚悟の、情の選択なのだ。
なんて深さだ。


全身を掛けて想いを紡ぐ室井と
全霊を掛けて想いを捧げる青島と。

何の確約も、意思確認もないのに、そこには根強い相互作用が見えた。
それは、火がないのに立ち昇る煙のように不可思議なものに思え、空恐ろしい程の引力を感じさせる。
途方もない繋がりを、今この場に居ないのにも関わらず、またしても見せ付けられ
一倉の背筋がゾクリと震え上がった。

それは、嫉妬という生温いものでは最早なく、殺意に近い嫉ましさだった。



「そこまで室井が大切か」
「・・・それはあんただって同じだろ」
「・・・・・」


一倉は、声も立てずに息を呑む。
正確には、青島の気迫に、呑まれた。
本音を見透かされたことに、気勢を削がれ、思わずカッとした感情を露わにする寸前
今にも潤みだしそうな青島の瞳に、一倉は返す言葉を失った。


今、はっきりと分かる。

青島が、ずっと追っている視線の先にあるものは――
最初から、ずっと、コイツは室井しか考えていない。
その存在そのものを慈しむように、賭けている。自身全部を。
そのくらい、青島にとっての室井の存在は絶大で・・・・愛に満ちている。
・・・・・室井の中で、青島しか見えていないように。

しかも、それが、普段は巧妙に隠される。誰もそこまで立ち入ってはいないだろう。室井自身でさえ。
こうやって、ほんの少しだけ、精神的に弱った今だからこそ
その脆くなった隙間から少しだけ、本音が顔を覗かせた。

全く、大したものだ。

これが、青島の愛し方なのだろう。
そこに物理的時間はなくとも、空間を越えて結び合う。
室井はその意思を受け継ぐように、仕事に邁進する。
それが室井の返答になる。
双方が、実に利に叶っているように思えた。

だが―――――


一倉は、眼差しを強め、太く低い、威圧するような声で挑発する。

「お前がここでこんなに傷ついているのにか」
「傷ついてなんかいません。第一、それこそ、室井さんに関係のないことですよ」
「傷ついていない?」


だが、ここでこんな風に青島が泣いていることを、室井は知らない。
同時に、室井がどんなに追い詰められていても、それを青島が知ることはない。
そんなのは、共に生きているとは、言わない。
それで満足してるっていうのなら、お互い一生、その妄想の中で夢でも見ていればいい。


薄っすらと一倉は魔性の笑みを浮かべ、青島の手首を強く引き寄せた。
街灯が反射している車内に強気な瞳が宿る。
それを、見透かすように見下ろした。


「強がるな」
「強がってません」
「室井が本当にそんなことまで望んでいると思うのか」
「関係ない。俺は俺のやりたいようにやる」
「そんな子供の我儘が社会に通用すると思うか」
「それでも、やるべきことを全うするだけだ」
「お前のやるべきことって?」
「汚れ役は俺が引き受ける」
「それでいいのか?」
「いいんじゃないの?みんな丸く収まって」
「それでお前は良いのかって聞いてんだよ」
「当然でしょ」
「・・・・・」

じっと一倉が青島の色素の薄くなったブルーアイズを見据える。
このグリーンにもブルーにも見える美しい宝石が、綺麗だと場違いにも思った。
しかしいつだって、そこに映し出しているのは、一倉ではない。
どんなに青島と一倉の関係が熱を帯びたものに変わってきていたとしても
そこに一倉は、映らない。

さっきまでの和やかな空気も、これまでの時間も、何か全てを裏切られたような気持ちにさえなり
一倉の胸がはち切れそうに痛んだ。
その感情に、自分で少しうろたえる。


掴んでいた手の力が、無意識に強まった。
流石にキツかったのか、青島の眉が少し歪む。


――お前がそんな態度なら、俺が現実を生きる。

じっと、青島を見つめた。
揺るぎない視線で青島も見返す。
いつもの青島なら、このまま絶対引かなかったことだろう。
しかし、今日の青島は、既に端折れている。

出方を待っていると、予想通り、少しだけ、青島が肩の力を落とした。
掴まれていない方の手の甲を口元に当て、横を向き、か細い声を出した。


「どんどん汚れていく俺に、一体、あのひとに、これ以上何をしろって言うんだよ・・・・」
「・・・・・お前のせいじゃないだろう」
「・・・・・・」
「青島」

更に俯いたため、前髪が、表情を隠していく。
無音の車内に、微かに嗚咽のようなものが聞こえたような気がした。


「もう放っておいてくださいよ!どうだっていいでしょうが!一倉さんには関係ないでしょ!」
「それで室井が離れていってもか」
「願ったり叶ったりですよっ」
「だったら、俺が室井を貰い受けるぞ・・・っ」
「!!」

青島が、思い切り振り仰ぎ、驚愕の瞳を揺らすが、それも一瞬だった。

「・・・・今更何を?最初っからそうなんじゃないの?そして、もう事件は終わったんだ」


青島の艶やかな瞳が、濡れたように光る。
一倉を凝視したまま、青島が強く告げる。

その物分かりの良さが、更に一倉の勘に触る。


「それが強がりだって言ってんだ。引き止めないのか、アイツを!」
「二人、傍に居たって何にも始まらない!」
「それでお前らの仲が終わってもか!」
「そこまでアンタに教えてやる義理はないよ!」
「欲しいなら欲しいって言ってみろ!」
「・・・っ!」

青島が、何かを言い返そうとしているものの、その熱は言葉にはならず、この狭い車内へか細く溶ける。
開けた口で何度か吐息みたいなものが漏れたが、やがて、それはそのまま、閉じられた。


「・・・・・・もう、過ぎたことです、俺たちのことは」
「俺のせいか」
「違います。切欠にはなったけど、丁度良い」
「・・・・・・」
「室井さんを、お願いします・・・」
「大事にする、ということだけは、約束しておく」


一瞬だけ、緩やかに青島の瞳が一倉を捉える。
それはすぐに伏せられた。
まるで、何かの儀式のようにも思えるその仕草は、青島なりの餞別だったのだろうか。

何故だか、一倉の胸が苦しくなった。




車が一台、真横を通り抜けていく。
それが現実に戻る合図であったかのように、青島が身を捩った。

「もうこの話はこれで」
「悪い・・・」
「ホントに。大丈夫ですから」
「お前を責めるつもりはなかった・・・・」
「・・・・気にすることじゃありません。話、それだけなら、も、俺、帰ります・・・」


クルリと背を向け、青島がドアハンドルに手を掛ける。
一倉は素早く、運転席側でロックを掛けた。

このまま、帰したくなかった。
というより、こんな状態の青島に追い打ちをかけたのは、自分だ。
ボロボロになった青島を、このまま一人にさせるなど、到底出来るわけがなかった。


驚き、苦情を言おうと振り返る青島の二の腕を、思わず後ろから力強く引き寄せる。

「一倉さ・・・・っ?」

振り向かせて、そのまま胸に抱き込んだ。


その崩れて消えていきそうな肩を、力任せに抱き締める。

今、青島がどんな気持ちで想いを飲み込み、一倉に未来を託したか。
どんな想いで室井を断ち切ったか。
今までだったら気にも留めなかったことだが、先程一瞬だけ垣間見えた青島の深い情を知ってしまった今
無かったことにして平静を装うのは、不可能だった。
そこに想いを馳せると、どうにもやり切れない想いが、切々と溢れる。

青島がいじらしくて、止まらない。
青島の想いの結末が、切なくてやりきれない。
流石に一倉の胸も潰れそうに軋む。


「すまなかった」
「いいって・・・・っ」
「青島」
「放せよ・・・」
「・・・・っ」
「俺だって・・・俺にだって、分相応って言葉ぐらい、知ってる。後のことは貴方に――」
「・・・・っ」

ほとんど、衝動的に頤を掴み、青島を上向かせる。
そのまま、一倉は上から口唇を押し付けた。

「・・・・ッ!!」

――なんでコイツだけがこんな目に。


抵抗する間も与えず、顎を強く掴み、口腔を開かせる。
見開いた瞳を凝視したまま、躊躇うことなく分厚い舌を滑り込ませ、口内を制圧した。
後頭部を押さえ付け、腰から引き寄せる。
想像していたより小さい身体が、ふわりと薫った。

逃げ場を奪われた青島は、一倉の思うままに口内を弄ばれ、瞳を思わず堅く閉じた。

「んぅ・・・・・っ、ぅ・・・・っく、・・・ッ」


ドンドンと青島が一倉の胸を叩くが、大した抵抗にはならない。
身じろぎひとつ出来ない青島を良いことに、一倉は思う存分、舌を轟かせていく。
思った以上に甘く、柔らかい感触は、一倉に、遠慮を底から忘れさせる。
息苦しさからか、苦しそうに眉を寄せ、シャツを引っ張る仕草にまで煽られ、青島の舌を強く吸い上げた。

「・・・ぅ・・んん・・っ、んぅ・・・っ」



何故この方法だったのか、自分でも今の時点では理由は不透明だった。
ただ、必死に一人で耐えようとしている青島が切なかった。
愛おしかった。
何より、これ以上、青島に辛辣な言葉を吐かせたくなかった。
もっと、泣いたり叫んだり、恨みごとの一つでも露わにしてくれれば、揄ってでも、口車に乗ってでも、やれるのに。
このまま、独り冬の夜の街で彷徨い、恐らく、誰にも涙を見せないのだと思うと
思わず手が伸びていた。

この意地っ張りには、このくらいの暴力的行為をしないと、崩壊しない。

愛しさが溢れる。

大人になるほど、男は簡単には涙を見せない。
全く、不器用な生き物だ。
そして、ずるく、哀しい生き物だ。

同情はしないが、室井と青島の運命も、もう少し違った結末が用意されていたなら――


身勝手にも、何故自分を頼ってはくれないのかという思いが溢れる。
・・・そうだ、こんなになっても、きっと青島の心が占めているのは、今も室井だけなのだ。

声なき叫びで、アイツを呼んでいる。


悔しさと、嫉妬と、やり切れなさが、入り混じる。ごちゃごちゃした感情が湯水のように奥底から溢れた。
ここ数カ月で、お互いの距離が近付き、心地良さを感じていただけに
この非道な顛末が一倉を苛ませる。
その憤懣のままに、青島の口唇を奪った。

重なる口唇が、生々しく、灼けるように熱い。
スリムで柔らかい肉体が、一倉の腕の中で小刻みに震える。
僅かに逃れようと微々たる虚勢を見せる仕草さえ拙く、一倉にとっては子供程度の抵抗でしかない。
青島の体温と、最近嗅ぎ慣れたパルファム。この感触が一倉を夢中にさせていく。

頤を押さえ、固定したまま、胸に浚う様に抱き込み、力強く吸い上げる。
逃げる舌を執拗に追いかけ、幾度も絡め取った。
逃げ場も、意地も虚勢も、その愛情さえも、今は全てを奪ってしまいたかった。

「・・ぅ・ふ・・・っ、ぁ・・・ぅん・・・っ、・・・ッ!」



ピリッとした痛みが走る。

唇を解放すると、激しく肩を上下させながら、潤ませ睨み上げてくる青島の瞳が目の前で揺れた。
青島に噛まれたのだということは、血の味がしてから理解する。

「・・・・っ」
「これで、野上の記憶も消えるだろ。ついでに・・・・室井のことも忘れたらいい」

手の甲で口唇を押さえたまま、青島の瞳から、堪え切れぬように一粒だけ雫が転がり落ちる。


「あんた、最低だ・・・!」

残像のように一粒の光を残して、青島が車外へ飛び出した。
開けっぱなしになっている助手席のドアから、冷たい空気が怒涛のように押し寄せてくる。
この手に、今の今まであった温もりが、幻のように失われていく。

一倉は走り去っていく姿を、ただ、見送るしか出来なかった。


「くそ・・・っ!」

ハンドルを力任せに叩き付ける。
いつの間にか降り出していた霧雨が、煙の中にその小さな背中を霞ませていった。













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★青島くんにコスプレさせたくて決めた設定でしたが、同じ体格の持ち主ということで、大好き な とある作品の設定を後付けで思い出し、そのまま採用しちゃいました・・・。分かった人は黙って笑ってスル―。