-cross
road 2-
3
「うわっ!」
「おっと!」
扉を思い切り引いた途端、誰かの声が重なった。
どうやら丁度、向こう側からも、ノブを掴んでいたらしい。
新城に、例のことについて室井の口からも聞きたいと請われ、室井は時間を取って本部を抜け出した。
丁度、新城も本庁に戻ってくる件があるらしかった。
本庁の一室で落ち合い、店での騒動を報告する。
その後の接触騒ぎについては、一倉も口にしてなかったようで、新城を大いに呆れさせた。
しかし、一倉がこれからしようと更に企んでいることは、流石に伏せた。
わざわざ自分たちの失態を公表することもあるまい。
それに、一倉だって、そうそう軽はずみな行動はしないだろう。
通り一遍の事情を説明した後、失礼しようと扉を開ける。
途端、誰かが腕の中に雪崩れ込んできた。
倒れこむ身体に、室井は咄嗟に、ファイルを持っていた手を差し出すと、相手も手を差し出していた。
パラパラとスライドするように手元から崩れる幾つかのレポートが足元を舞う。
それを目の縁で追いながら相手を見遣ると
それは意外な人物だった。
「青島!」
「室井さん!」
「何でここに居る」
「室井さんこそ」
室井は本庁に青島が居る事を問うたつもりであったが、青島はこの部屋に室井が居る事を不思議に思ったらしかった。
「俺はね、新城さんにお届けモノです」
「そうか」
「室井さんは何で部屋の中でコート着ているんですか?」
「ああ、これから所轄の方へちょっと足を運ばなければならないんだ」
「今から?大変そうですね」
「君ほどじゃない」
そう言って、今日も御大層な変装をしている青島を眩しそうに上から眺めた。
無意識に目が細められていく。
青島の首が、コテッと傾く。
柔らかい前髪がさらりと舞った。
サックスブルーの無地のジャケットに、ボルドーとアッシュグレイのトリプルストライプ・タイ。
合わせたようなローズレッドに艶めくタイピンが良く映えている。
敢えてホワイトではなくパールホワイトのレギュラーシャツを合わせている所に、センスと遊び心を感じた。
見知らぬ引き込まれそうな瞳の色。
青島本来の、柔らかく朗らかな印象を、良く引き出していると思える。
本人のセンスでないのなら、青島を余程好意的な目で以って吟味した、側近の愛着であることは室井にも分かった。
手元に抱えているカシミアのロングコートも、恐らくかなりの値が張るものだろう。
・・・・・これも、どこぞの顔も知らぬ男の趣味で着飾られたものなのか。
以前には感じなかった、鮮烈な焦慮を感じて、室井は少しうろたえた。
いつもは緩められている青島の首元が、カッチリと締められている姿にまで、背後の強い主張を感じて、奇妙な苛立ちを覚える。
一倉に諫められた通り、確かに自分はそこに口出しする権利がない。
室井は波立つ感情をぐっと押し込み、後ろ手に扉を閉めた。
辺りに舞い散ったレポートの束に、青島が気付いてしゃがみ込む。
合わせて室井も片膝を付き、一緒に集め始めた。
「その後どうだ」
「今度クリスマスパーティやるんですよ」
「楽しそうだな」
小さな笑みを二人で交わす。
室井が多少なりとも事情を知っていることは、まだ青島には内密にしているため、多くは聞けなかったが
見た所、変わりないようで、室井は少しだけ安堵した。
知らず張っていた肩の力を抜く。
「あ、室井さん、所轄ってどこですか?何だったらお送りしますよ?俺、車で来てるんで」
「君の仕事は」
「今日は直帰です」
「――――そうか・・・・・悪いな」
「いえいえ。んじゃ、下で待ってますね」
室井がエントランスに降りると、青島は先に待っていて、熱心に窓の外を見ていた。
足音で勘付いたのか、その姿がクルリとこちらを向く。
無造作に羽織ったコートが円を描く様にひらりと舞って、小さく片手が上げられた。
その流れるような動作さえ、映画のようで見入ってしまう。
本当に、いちいち、人目を引く奴だ。
スラリと伸びた長い手足。コートに包まれた隙間から見え隠れする滑らかなボディラインも、成熟した妖艶さを主張する。
何より室井は、そのスタイルの良さを、もう見知っている。
思わずあの夜、どさくさに紛れて思い切り抱き締めた身体の感触を思い出し
室井は頬を少し堅くさせた。
「お疲れ様ですっ」
青島が人懐っこく微笑んで、近付いた室井の前に駆け寄ってきた。
カラコンで色素の薄くなった瞳が、興味深そうに見つめる。
青島は、笑うと、その整った顔立ちがよりチャーミングになる。
他人に警戒心を抱かせない、人受けのする顔だろう。
平たく言えば、女性にモテそうな。
改めてこんな風に見たことはなかったため、そんな自分に、また判然としない感情を抱き
自然と眉間に皺が寄った。
「待たせた」
「俺も今来たとこです」
「仕事じゃないのに悪いな」
「いえいえ全然」
「宜しく頼む」
上目遣いで照れくさそうに微笑む控え目さに、何となく青島の遠慮を感じる。
噛み付いてこない分、少しだけ、物足りないと思うのもまた、隠しきれない事実だ。・・・・尤も、事件が絡めばまた話しは変わってくるのだろうが。
二人の隔たった、置かれた立場の違いが、否が応にも押し寄せる。
もう自分たちは、仕事でさえ、歩み寄れる距離ではない。
青島は元々、思ったほど室井に――周囲に、個人的な感情をぶつけてくる人間ではない。
愛されることに慣れているくせに、そんな相手の邪念を聡く察する勘の良さもあるくせに
いつもこうやって、一歩下がったその後ろから、必要な相手に、必要な分だけ、器用な甘えを浮かべる。
意図せずとも、その思考で以って室井を震わせ、その強い光を放つ瞳で誘い込み、大胆にも室井の奥深くまで入り込んできた傍ら
自らの意思では、決して室井を翻弄しようとはしなかった。
まるで、捕り込まれたこちらが悪いのだと言わんばかりに。
そしてそれは、今は最早室井の役目ではなくなった。
室
井が勝手に夢見ていただけの儚い幻想だったと見せ付けるかのように
奥底に熱風だけを残している。
そういった、人に対して、青島が何処か脅えを残した瞳を見せることに気付いたのは最近のことだが
それは、室井に対しては特に強く感じられた。
その、距離を取ろうとする心遣いが、今は妙に心に寂しさを齎した。
「外、すっごい夕焼けですよ。ドライブ日和ですね」
「そうか」
「マジックアワーになりそうだな~・・・」
遠くを見る目付きで青島がもう一度外に向け、瞳を輝かせた。
青島といると、懐かしさの向こう側に、いつも胸に哀調を帯びた物悲しさが付き纏う。
その切なさの本質は分からなくとも
こうして傍に在る度、それはリアルに室井の胸を強く圧迫する。
もっと、傍に居たかった。
・・・・だが、何のために?
「あ、すいません、こっちなんです。・・・って、何かあったんですか?」
青島が明後日の方向を指差しながら、室井の顔を覗きこむ。
「何がだ?」
「だって、これ」
そう言って、青島は自分の眉間に人差し指を当てた。
胡桃色の髪が、また、さらりと揺れる。
「・・・・何でもないんだ。気にしないでいい」
「・・・・そ?」
青島が、少し強張った感情を乗せる。
聞いても良いのか、聞いた方が良いのか、迷っているといった所だろう。
青島の感情の変化が手に取るように分かって、少しだけ室井の頬が緩んだ。
――自分はこんなに他人の感情に敏感な男だっただろうか
それは、青島と逢って、そう変わったのか。或いは青島だから分かるのか。
それもまた、少し不思議な感覚だった。
「それより、何で駐車場じゃないんだ?」
「・・・・実は会社の車でして」
「会社?」
「そう、潜入先の」
「――!・・・・全く君はいい度胸だな」
「お褒めに預かり」
キラリと悪戯っぽく青島の眼が光る。
近くの駐車場まで辿り着くと、青島がバックポケットからキーを取り出し、遠隔操作でロックを解除する。
カチッという音の発する方へ視線を送ると、鮮やかなスカイブルーの車が止まっていた。
成程、これでは本庁に置けなかった筈である。
「乗ってください」
そう言って、青島がコートを後部座席に放り込むと、音もなくスルリと運転席に滑り込んだ。
気品ある服装のせいだろうか、何だか身のこなしまで上品で優雅な気がする。以前はもっと、ポテッと乗っていた気がするのに。
これも、その背後の存在の指導なのだろうか。
渋々コートを脱いだ所で、一旦室井の手が止まる。
「ちょっと待て。これで所轄に向かうのか・・・・?」
「いいじゃないですか。送迎って感じで」
「どこがだ。・・・体裁というものがある」
「体裁?なにそれ旨いんですか?」
「・・・・・・」
「気にしない気にしない。ほら、早く乗って!」
諦めて室井も乗り込むと、青島がじぃっと見ているのに気付く。
「・・・・・何だ」
「何か、室井さん、すっごくフツーに助手席に乗ったから」
「駄目か」
「いぃえ~。んじゃ、出発しま~す」
ネクタイをグイッと緩め、物凄く満面の笑みを浮かべて、青島がアクセルを踏み込んだ。
+++
ポツポツと灯りだした高圧ナトリウムランプのオレンジが流れていく。
窓の外は、太陽がクリーム色の光を放ち、西の空を紅く染め上げていた。
青島の運転は久しぶりだったが、何処か懐かしさがあって、室井は気付かれぬよう、窓の外へ視線を流し口の端を持ち上げる。
極近くで青島がそこにいることを、五感全てで意識する。
ブレーキを踏むタイミングなど、細かな癖が、懐かしさとリアルを実感させる。
何かが始まりそうな躍動感、そして、妙にしっくりくるフィット感、それらを肌で感じるこの再現された空間は
深まる季節の肌寒さを埋めるような満足感を齎し、行き場を失くしていた想いを容易く救いあげてくる。
いつだってこんな風に、青島から与えられる心地良さに、室井は酔いしれてきた。
こんな風に隣にあれることが、今も普通であったなら。
青島の見せる、その僅かな遠慮は、いつかこの手から擦り抜けて通り過ぎていく不確かさと近いものがあり
霞を掴むような幻影を思わせた。
いつかは青島は自分のことなどは忘れ去って何処か遠くへ行ってしまう。細い糸で繋がっているだけの、儚い存在になる。
その当たり前のことが、今はこんなにも苦しい。
手塩に懸けた愛息を送りだすように
それを一番望んでいるのは他でもない自分の筈なのに、息苦しくなるのは何故なのだろう。
想像以上に居心地の良い二人だけの空間は、返って室井の胸を締めつけてくる。
割り切った筈の、埒の明かない思考が、流れる景色に合わせて走馬灯のように脳裏を過ぎった。
室井はそっと運転席の青島を横目で盗み見る。
涼しい顔で前を向くその横顔は、窓の外の夕日の逆光で、影になり、陰影を濃くしていた。
エレガントな出で立ちで別人のような装いを見せる青島は
確かに記憶の中のあの頃とはまるで違った。
誇らしくもあり、そして――一人の別の男なのだと思い知らされる。
どんどん青島が遠くなる。
そんなことは今までだって数多く経験してきたし、ましてやそんなことで今更二人の仲までリセットされるとは思っていないが
擦れる程近くに合って魂を昇華し合えた、あの時代が、どれほど奇跡的で、どれほど自分にとっての幸福だったか
時が重なるほど、それは室井の中に強く刻みつけた。
青島だけは、何かが違う。
このままこんな風にずっと隣にあれたなら――
・・・・・あれたら、どうしたいと言うんだ自分は。
室井は眉間を指で揉みながら、気付かれないよう、溜息を吐く。
このまま一緒にいたって、何の生産性もないばかりか、行き詰まることしか出来ない。
そんな男のことなど、忘れてしまった方が、青島のためにもなる。
それぞれの場所で、それぞれの戦いをすることが、背中を合わせて戦う俺たちの在り方だ。
なのに、何故だろう。
以前より、自分の中で、青島の存在が強くなっている気がする。
青島を想う度、どんどん苦しくなっていく。
どうして青島だけ――
「室井さん・・・・、室井さん?寒くはないですか~?エアコン、強めます・・・?」
「大丈夫だ」
ヒリつく喉で、何とか答える。
「なんか・・・お疲れ?」
「・・・・いや、大丈夫だ」
「ちょっと・・・楽にしてても良いですよ~。カーナビ付いてますし」
「大丈夫だ」
「室井さん、さっきから、そればっかです」
「ああ・・?・・・そうか、すまない」
青島が、少し寂しそうな顔で苦笑した。
途端、何だか申し訳ない気持ちでいっぱいになる。
「そうじゃないんだ。ちょっと・・・・その、面倒なことを思い出していた」
「・・・仕事?」
「そんなとこだ」
「室井さん、また板挟みになって虐められてたり?そんな連中ほっときゃいいんですよ」
「君にかかると物事は気楽だな・・・」
「まあね~」
「・・・・・・・今のは嫌味だ」
「・・・!!」
くくっと笑って、シートに身を埋める。
仄かに薫る、嗅ぎ慣れないオーデパルファムの香りが、咽返るように一気に室井を強く深く溺れさせていく。
それに振り切るように、瞼をきつく閉じた。
こんなにも、自分にとって青島という存在が、良くも悪くも瞭然だなどとは――。
こうして、関わる時間が減ったことで生じる、ぎこちない温度差は
出会ってしまえば急速に引き合う磁石のようなこの距離感と、鏡像のようにそこに存在し
不確かなものを、より確かなものとして、室井に知らしめた。
それは、何か大事なことを忘れているかのような不安を呼び覚まし、追い立てるように室井の奥底をざわめかせてくる。
再び出会わなければ、このまま消えていく感情になる筈のものだった。
出会ってしまったがために、加速度的に焦がれる想いが破裂せんばかりに膨らんでいくのだ。
人間の欲望とは、実に身勝手で、際限がない。
一度その生身に触れてしまったことで、その焦燥は、より一層急き立てられているように思えた。
離れた方が良いのに、離れていくのは、室井の中の虚無感を強くさせる。
矛盾した感情は日増しに室井を苛ませた。
「あ。この先、来る時、渋滞してたんで。迂回しますね~。確か次の信号で抜け道が」
「迷うなよ」
「俺を誰だと思ってんですか」
「・・・・・とりあえず、もうちょい、スピード落とせ」
「えー。だ~いじょぶですよ。こう見えてね、ゴールド」
「・・・・それ以前の問題だ」
青島がペロリと下唇を舐めて、ハンドルを切る。
一体、何が自分をそこまで彼に執着させるのだろう。
唯一人だと分かっていても、それ以上の狂気染みた執着に、自分で戸惑う。
自分のことなのに、青島に関してだけは、感情的な部分に大きく左右され、理論で動く室井には、やりにくさだけを強く意識させる。
思えばこのやりにくさに、出会った当初は随分と苛立たせられたのだった。
自分と同じ理想を掲げられる幸運は、確かに魅せられるものがある。心強い支えにもなっている。
その、思いも寄らぬ発想力や行動力も、室井には憧れるもので、惹きつけられる。
一心に自分を慕ってくれる直向きな慕情は愛しく、寄せられる信頼は胸を締めつける。
ただ、もうそれだけでは、この感情の全てではない気がした。
―― 全く、どうしようもない・・・
「そういや、室井さんの運転って行儀良さそう~。法定速度守ってんですか?」
「・・・・若い頃は無茶をしたこともある」
「!!・・・うそ・・・っ」
「前を向け」
どうしようもなくそこに横たわる、無視できない時の長さは、確実に深まっていた。
想えば想うだけ、二人の距離は遠くなっていく。
だが今はその隙間を埋める方法も持たない。
人は変わっていく。
身のこなし一つに反応している自分にうんざりするのも、胸が軋むのも、みんな気の迷いだと思いたかった。
たった、数十分の二人きり。
それでも、こうして思いがけず同じ時間が過ごせることは、幸運なのだ。
暫く無言で沿道を走っていると、青島が遠慮がちに口を開いた。
「えっと・・・室井さん、所轄で・・・・えっと、これからまだ仕事?ですか?」
「あぁ、軽い確認作業と書類提出と・・・・・今後の予定を少し・・・・」
「大変な事件なんですか?」
「もう終わる。何事もなければ週明けには本部は解散だと思うが」
何だか要領を得ない青島の問いに、何が聞きたいのか分からなくて、室井は青島の方へと視線を向けた。
その視線に気付いた青島が、チロリと室井を見て、それからまた前を向く。
顔を苦笑させて、もう一度口を開いた。
「ん~~~っと。帰り・・・・は、どうすんですか?」
「ああ、タクシーでも拾うから大丈夫だ」
ようやく言いたいことを察して、安心させるように室井が答えると
青島は、更に、あーとか、うーとか、口籠る。
「何だ。はっきり言え」
「あのぅ、そんなに時間掛からないなら、俺、待っててもいいですよ。ってか、待ってますよ?」
「――・・・・」
一瞬、思考が停止する。
ここにきて、鈍い室井にも、ようやく青島の言いたいことが明確に分かった。
“もう少し一緒に居たい” “この後の時間があれば” “なんか心配だ”
そういうことなのだろう。
察しの悪い自分に、室井は返って可笑しくなった。
これが女性なら。いや、女性でなくとも、青島以外の誰かなら、言いたいことはもっとストレートに伝わっただろう。
青島に関しては、多大な欲求を持ってしまうだけに
自戒を込めて、妙に鈍感な反応になってしまっている自分が滑稽だ。
全く、自分の不器用さが、ここまでくるともうピエロだと思った。
このまま無闇に近付いてはいけない警戒信号が、胸の奥で警笛を鳴らす。
何処かでケジメを付けなければならないことは、分かっていた。
室井は堅く目を瞑り、グッと奥歯を噛み締める。
再び目を開け、強く前を見据えた。
「・・・・青島」
「はい」
「この後の予定は?」
「特に」
「もう一箇所、寄る所が出来た。近くで待っていてくれ」
「・・・・・了解です」
前を向いたまま、青島が柔らかく笑った。
きっと、理由なんてものはどうでも良くて、室井の言いたいことを察してくれたのだろう。
二人の距離は、縮まらない。もう戻らない。戻してはならない。
それでも、束の間の休息を夢見れるのなら、どうか――彼にとって有益な人で終わりたい。
今出来る事をするべきだ。
今大切なのは、二人の未来ではなく、それぞれの未来の行く末だ。
俺には青島を飛ばしてやる義務がある。たとえそれが、二人の別れを意味していても。
悲愴的な思考を苦いままに飲み下すことは、慣れていた。
~~~~~
所轄での野暮用をとっとと済ませる。
室井は掛け足で舞い戻り、再び青島の運転する車に滑り込んだ。
「どうせ本庁に戻るだけだ。ちょっと寄り道するぞ」
「はい。どこへ」
「それは着いてからのお楽しみだ」
4
車を降りると、潮の匂いがした。
東空は徐々に群青色に色を変え、辺りは強い西日の中、長い影とススキが遠くまで揺れている。
陰影が濃くなり、誰の顔も紅く染まる。
室井のナビが案内した場所は、意外にも近くの海沿い公園だった。
帰り際らしき、数組のカップルや、学生服の少女たちと逆行し、公園の奥へ奥へと歩いていく。
整備された歩道は綺麗なレンガの石畳で、並列していく花壇は、季節になれば、美しく咲き乱れるのだろう。
今は等間隔で連なる、丸型の投光器にライトアップされている。
季節柄、周辺の樹木はイルミネーションライトが巻きつけられ、眩いくらいのネーブルイエローに包まれていた。
「あのぅ、何でこの公園なんですか?」
「来たことあるか」
「ないですけど・・・」
青島が室井の後ろを、ちょこちょこと飛び跳ねるように付いていく。
「何かあるんですか?現場とか?」
「何もない」
「・・・・・」
ジト目を寄越す青島を他所に、室井は眉間に皺を寄せた。
前を向いたまま、歩きつつ口を開く。
「この先は海に面していると一課の連中が言っていた」
「へぇ、そうなんだ」
「本庁から然程遠くないこともあって、割と有名らしい」
「はい」
「近くで仕事の際には、ランチタイムなどの休憩に使う捜査員も多いと聞く」
「はい、それで」
「最近整備が行われて、綺麗になったと」
「ふむふむ」
「・・・・・・」
「室井さん?」
立ち止まって、決まりが悪そうに、室井が青島を見る。
青島も向きあって足を止め、首を傾げて室井を見た。
「室井さん?それで?」
「まだこれ以上の説明が必要か」
「へ?」
「・・・・・」
「・・・・・」
押し黙った室井に、釣られたように、青島も押し黙る。
虚を突かれたような男二人が、道のど真ん中で見つめ合った。
「・・・・・」
「・・・・・」
少女たちの笑い声が、遠くから風に乗って通り過ぎていく。
ややして、吹き抜ける風に横髪を掻き上げながら、青島が目を逸らして横を向いた。
「えっと・・・・。んじゃ、その海・・・・見に行きますか」
頬が少し紅く見えたのは、夕日のせいだろうか。
室井は無言で前を向き、再び歩きだした。
~~~~~~
途中の自販機でホットの缶コーヒーを二つ買い、最果てに辿り着く。
そこは本当に海に面していて、建物の死角になるとはいえ、絶好の展望ロケーションだった。
ロートアイアンの鋳物フェンスが長い影を伸ばす。
眼下では、ちゃぷちゃぷと打ち寄せる波が、夕日に照らされ、さざ波立った。
青島があちこち覗き込むのを、室井は後ろから目を細めて眺める。
何故この場所へ誘ったのか、訝しげな顔をしていたのも束の間、もう何もかも忘れたように、目の前の情景を楽しんでいる。
ふわりとマントのように鈍色のコートが風に舞った。
余計なことは一向に気にせず、目の前のことを楽しんでいる青島を見ていると
自分もまた、些細なことはどうでもよくなってくる。
今、二人きりで居るこの夕闇が、それだけで特別なものに思えた。
青島はこうやって、その存在自体が、容易く周りを気楽にさせ、幸せに導く術に長けている。
他人に合わせて、自分を染め上げる遊びを、知っている。
・・・・ノリが良い、と言えばそれまでだが。
その態度に、思考に、どれだけ救われてきたことか。
一つのことに徹底的な拘りを見せ、驚異的な集中力を持つ室井は、その反面
切り替えが悪く、いつまでも同じことを引き摺ってしまう。
メンタルの切り替えは、高い役職に付く毎に必要なスキルであり、そのことは常日頃意識はしているものの
青島の思考の早さには、憧れにも近い尊敬を持つ。
回転が速いというよりは、同時に複数のことを描き、常識にとらわれない大胆な発想力を持つ脳は
訓練さえすれば、管理職向きだとさえ室井は思う。
・・・・・・勿論、そんな箱の中で黙っておける逸材ではないので、本当の意味では望んでもいないが。
そういう諸々のところが、室井が強烈に青島に惹かれてしまう所以でもあった。
息が合うからだけではない。
同じ理想を見出したからだけではない。
室井にとって青島は、捨ててきた夢の欠片を寄せ集めた結晶体だ。
スマートで格調高い格好をしているのに、ちぐはぐにはしゃいでいるような青島が可笑しい。
その背中は、室井にとっては誇らしいものだが、果たして他人の目からみたらどうなのか。
周りにはもうほとんど人がいないから気にしないが、中年の男が二人――今の自分たちは、随分奇妙な図だろうと思えた。
室井は腰に手を当て、愛しいものを見る目付きで苦笑を漏らした。
青島がその視線に気付き、じぃっと下手に見上げる。
「なんだ」
「ん~、なんか室井さんって、デートとかするときもそうやって後ろから見ているタイプでしょ?」
「おまえは一緒になって泥塗れになるタイプだな」
「どんなデート想像してるんですかっ」
「違うか?」
「違いませんけど!・・・・室井さん、俺のこと幾つだと思ってます?」
「・・・・」
くすりと微笑する青島の笑顔が夕靄に霞む。
――だが、その分、自己が希薄なのだ。
割り切ったような顔をして、誰にでも包み込むように接する傍ら、ふとした隙に見せる視線。瞳の彩度。・・・・・そういった僅かなものから
青島が見せているものだけが真実ではないと、感じ始めたのはいつ頃の事だっただろうか。
他の人間ならその笑顔に巧妙に騙され気付かないだろうし、もしかしたら、本人も気付いていないのかもしれないが
意地を張って脅えている小さな子供みたいな彼が、時々、室井には見える。
恐らく今が、そうだろう――その笑顔の下に、色んなものが渦巻いている筈だ。
人が傷つくことには人一倍堪える奴だから、今回の件も恐らく、自責の念で一杯なのだということは
室井にも容易に察せられた。
一歩先を行く、笑みを零して辺りを観察している青島の横顔を、じっと見透かすように見つめた。
夕日に照らされ杏色に染まる頬は、今は探究心に満ちた少年の様な瞳の輝きしか見えない。
「あ!いいもん見っけ!」
青島が元気良く振り返った。
「室井さん、室井さん、向こう側へ行けそうですよ!」
「向こう?」
「海!」
「・・・子供みたいなことするな」
「ほら、この柵のここだけ低くなってる・・・・これなら・・・」
「みっともないからやめろ」
「平気ですよ。もっと海に近付けます」
「おい・・・・」
青島の指差す方を見れば、船舶用なのだろうか、少し坂になり下った先は、まだ防波堤らしきものが続いていた。
「行ってみよう」
徐に、青島がフェンスを跨ぎ始めた。
「待て・・・折角の服が汚れるぞ」
「へーきへーき。どうせ貰いものだし」
「青島」
室井の制止も聞く耳持たず、青島がぴょんっと、軽々向こう側へ降り立った。
まだ、辺りは明るく、足元が確認出来ないほどではない。
日没間際の残照が、辺りをカナリア色に染めている。
しかし、じき、確実に闇がやってくる。
「危ないから戻れ」
「えー。あっちまで行ってみましょうよ」
「どうせ何にもない」
・・・・・・何だこの、かつて若かりし頃デートで繰り広げたようなデジャブな会話は。
室井は頭を抱えたくなったが、とりあえず理性的に振る舞う。
「そもそも警察官がルールを犯すようなことをするな」
「えー」
「えー、じゃない。早く戻れ」
「室井さ~ん、アタマ堅過ぎ。だから融通が効かないんですよ」
「・・・いいから戻れ」
「・・・・じゃあ、妥協案。この下ならどうです?あそこに座りましょうよ。折角来たんですし」
見れば、砂利と砂が盛られた小さな砂浜が直ぐ下に続いていて、テトラポッドで仕切られている。
少しばかり挑発するように青島が視線を向ける。
「それとも室井さんは、もうフェンスも越えられない?」
「・・・・・」
ヒラリと室井が無言でフェンスを飛び越えた。
~~~~~~
小さなコンクリの塊が一つ無造作に投げ捨てられていて、そこに男二人、座って海を見る。
一体何でこんなことになったんだか。
即席の椅子は小さすぎて、動かすとお互いの肘が擦れた。
座り心地も悪く、浜辺の冷却された空気が身に凍みる。
青島がコートのポケットから先程買った缶コーヒーを取り出した。
無言で脇下から差し渡される。
そのまま暫く二人で海を見ていた。
透明な海水が、チャプチャプと小さな音を立てて揺れる。
驚くほど透き通り、苔の付いた石ころが底に沈んでいるのさえ見て取れた。
透過度は高いだろう。
波の鳴く音が、静かに耳に打ち寄せた。
「本当は室井さん、知ってんでしょ」
「何をだ?」
「とぼけなくても」
「・・・・・・」
「俺を慰めようとしてんの?」
「・・・・」
冬の冷たい風が頬を突き刺すように通り過ぎる。缶を持つ指先が悴んだ。
幾度目かの緩い風が吹き抜けたのを合図に
少しだけ考えて、室井は慎重に言葉を選んだ。
「出過ぎた真似をするつもりはなかった。もう少し一緒に居たかっただけだ。ただ・・・・そうだな。ある程度までは」
青島は、やっぱり、と口の中で呟いて、ぱふっと砂の上に両足を投げ出した。
子供みたいに、所在なく股の間に両手を付いて、ふうっと溜息を吐く。
海は穏やかで、鏡のように煌めいていた。
暮れていく太陽が、海の明度を急速に下げていく。
岩壁の横から、こちらに向かって一筋の光が射し込み、海風に遊ぶ青島の髪をキラキラと漂わせた。
「お見通しってやつですか」
「めげないことが取り柄のおまえは、その分、自分には無頓着だから」
「・・・・・」
「私が居たたまれなくなっただけだ」
「ちぇ~。敵わないなぁ。・・・・・どこまで?」
「大枠だけだ」
「女の子、失踪しちゃったことも?」
「・・・・・・やはりそれも関係あるのか」
「うん。どうしよう。俺のせいかも」
青島は、笑おうとして失敗し、顔に痛みを乗せた。
確信を持って淡々と告げる室井には、隠すことは無駄だと悟ったようで、大きく息を吐き、両手で頬杖を付いて海を見る。
室井も、青島から目を離し、海へと視線を送った。
「新城さんに、何か言われました?」
「いや・・・。私の意思だ」
「なんでこうなるかなぁ・・・、また面倒なことに・・・させちゃってます?」
「関係ないと言っただろう。新城に呼ばれたのは全くの別件だ」
「・・・そか」
未だ少し納得のしていない様子だったが、青島は小さく笑って、大人しく引き下がった。
飲み干した空き缶を、コートの袖口から僅かに覗く指先で弄んでいる。
全く、相変わらず余計な気ばかり回す奴だ。
そうやって、こいつはいつも、自分のことより周りの誰かのことを優先させてしまう。
だから余りにとっては居心地が良く、優しいから、みんながそれに甘えて、頼って、多くを求めていく。貪るように。
自分自身も例外ではない気がして、室井は苦みを残したコーヒーの残りを煽ると、空になった缶を足元に置いた。
彼は、そうやって、自分自身さえも自己から遠避け、集団アイディンティティを尊重する。
社会に対するベクトルが拡散的で、その中にこそ、自己実現を求めているかのようにも見えた。
社会本質を求める強さが、仲間意識の強固に繋がっていく一因なのかもしれない。
だが、室井にしてみれば、そんな生き方は、悪戯に己を矢面に立たせているだけの、無防備さにも見える。
他者や環境に自己実現を求めるなど、浅はかな錯覚でしかない。
室井には、青島が決してポジティブ思考の直情型だとは思えなかった。
確かにその直感力は、抜きん出たものであるが、その全ての根源は、いつも利他的意識に直結している。
誰かの心に敏感で、予想外の機転を利かせられるのは、俯瞰した視点がある証拠だ。
そこには常に一貫した冷静な判断が必要である。
冷たい海風が吹き抜ける。
人の話声一つ聞こえない、清浄な世界だった。
「無理に話さなくていい。ただ私は、君が悪戯に波風立てるようなことをする奴ではないのを知っている」
「・・・・・」
「今の現状だって、偶発性に因る所が大きいのを、本当は君だって分かっているんだろう?」
我儘を言う様に強い意志を貫き、頑固な程の正義への拘りを見せ、強引に結果を手繰り寄せる資質。
それらは、みな、理性的な思考が弾き出した社会的行動であり、利他的行為であって、青島本来の本質的意思ではないのだ。
そこに自己矛盾はなくとも
明るく前向きで、自信たっぷりの見せかけは、それは巧妙に計算された虚像であり、偶像だ。或いは無意識の。
自己防御を兼ねた、虚勢とも言えるだろう。
なのに、その結末にまで、自己責任を抱いている。
「でも・・・もうちょっと俺が気を付けてたら・・・・」
「君はいつも、そうやって一人悩んでるんだろうな。誰にも気付かれない所で」
「買い被りですよ・・・」
・・・・でも、だからこそ、青島の本心はどこにあるのだろう。
何を考えるのか。何を思うのか。
本当の青島は、何処にいるのか。
青島と共に、燃えるように同じ時を過ごし、魂に触れてしまったからこそ
室井には、その表裏の境界が見えた。
青島がチラリと横目を寄越して、口の端に薄っすらとした笑いを滲ませる。
「何も言わないのは、あんたの方でしょ」
見え透いた誘い文句にも、青島は、小さく微笑んだだけで、黙って付いてきた。
だが、それは室井に何かを期待したのではなく
室井の意思を尊重してくれただけで、青島は多分、端から室井に救済など求めてもいないだろう。優しさから付き合ってくれただけだ。
こういうシチュエーションを用意したからといって、簡単に口を割ったりしない。
気を抜けば、余計なことを暴かれるのはこちらの方だ。
俺にはきっと何も言わないし、肝心な部分ではきっと、青島は俺を頼らない。
俺だけじゃない、きっと何かあっても、こいつは、そういう意味では、誰も頼ろうとしない。
手を差し出す隙すら、見せたりしないだろう。
それは、俺も同じだ。
・・・・実際、何かする術なども、ありはしないのだろう。
でも、それでいい。
落ち込んでいるだろう青島を、放っておけないのは、自分の方なのだ。
ふと、空き缶を弄ぶ青島の指先が丁寧に手入れをされ、そこで悠然と光る銀色のリングが目に入り
室井はそっと視線を逸らした。
「ラストで大逆転を狙うのが君のやり口だろう」
「でしたね」
「今回は妙に殊勝なんだな」
「時期を狙ってるんですよ」
「その格好、似合ってるぞ」
くすりと青島が笑う。
「嫌味ですか」
「褒めたつもりだが」
「大きなお世話ですよ。身に余るのは自分でも分かってるっての」
「そうやってすぐ拗ねるのは君の悪い癖だ」
「室井さんはね、そうやって何でも背負っていると足元見られますよ、また」
「大きなお世話だ」
「俺に構う余裕なんかないでしょ」
「そうでもない」
「暇でいいですね~」
「君と違って仕事にはメリハリを持たせているんだ」
「気を使わせちゃってるの?」
「一倉にばっかり出し抜かれているのが不満なだけだ」
「へ?・・・一倉さん?」
突然出た名前に、青島は意外だったようで、大きくぐるんと振り向く。
「会っていると聞いた」
「あー」
何か納得したような顔で、空を仰いでいる。
そのままパタリと二人とも無言になる。
西日が最後の光線を放ち、海を深い藍色へと変化させていく。
・・・・いずれ、別れは必ず訪れると分かっていて、それでももう少し、もう少しと、引き延ばしたくなる強さは何故なのだろう。
こんなことをしていたって、何の解決にもならないことも分かっているのに
それでも、この時間を終わらせられないのは、何故なのだろう。
こいつにだけは、深入りしてみたい。――ああ、それが本音だと、室井は思った。
俺たちは、この先も変わらない。
変わらず共鳴して生きていく。
全部を一人で決めて、一人で終わらせて、そして何事もなかったような顔を見せるのだ。
ましてや、時が満ちれば、惑うことなく、俺のために俺の前から鮮やかに消えてみせるのだろう。
男の背中とは、そういうものだ。
なのに、そんな建前が、軽薄に響く。
忘れられないから、そう思うのだろうか。
それとも、勝手に奥底まで入りこまれたから、同じように入ってみたいのだろうか。
造られた青島を見つける度、室井は、もうそんなに無理するなと、自分を傷つけるなと、庇ってやりたくなる。
バカだなと言って、腕を引き上げ、ただ強く、抱き締めたくなる。
出過ぎた真似と知ってて、全てを暴いてみたくなる。
自分を容易く救いだしてくれたように、自分だって青島のために何か残したいのだと、伝えたかった。
・・・・・でも、そこまで厚かましいことが出来ない。
無理矢理抉じ開けることは、男の生き様だとか権利云々以前に、大切な相手だからこそ、そんな暴挙を躊躇わせる。
いや、それも詭弁だろう。
ただ、嫌われたくないだけだ。青島にだけは、思い切ったことが、出来ない。
これが仕事であれば、それを隠れ蓑に強く支配することも出来たのに。
室井は気付かれぬようにそっと溜息を吐き、片手で頬杖を付いた。
中途半端に、こうして海を見ているだけ時間が、悪戯に、静かに、過ぎていく。
もどかしさだけが胸で燻った。
チロリと青島を横目で見る。
漫然とした表情で海を見つめる彼は、小さな少年のようだった。
「ありがと、ゴザイマス」
ぺこりと青島が頭を下げた。
見れば、青島が微かに笑みを浮かべたまま、下を向いていた。
その瞳に西日が反射し、色素の薄い瞳は、さっきよりも心細そうにも哀しそうにも見えて、室井は言葉に詰まる。
掛ける言葉が何も見つからない。
青島が、チラリと室井を見て、小さく微笑む。
ドキリと心臓が高鳴った。
「心配かけて、すみませんでした。元気、出ました」
「・・・・・・・・そうか」
嘘ばっかりだ。俺も、青島も。
室井は手の平をグッと握り締める。
「室井さんにしてはロマンティックな演出で」
「偶然そうなっただけだ」
ぶっきらぼうに答えると、青島がまた優しく笑う。
それを見ると、やるせなかった。
こんな風に話題を終わらせられたら、これ以上踏み込むなという拒絶と同義である。
室井には何の期待もしていないのだと、突っぱねられたのと、同じだった。
青島に必要とされていない。その事実が、一番室井を打ちのめした。
何より痛烈だ。
それは同時に、彼の孤独を意味してもいた。
だからこそ――この拒絶が痛い。
風に揺られる胡桃色の前髪が、その表情を室井の視界から遮った。
時折覗く細い視線が、海を見つめている。
何処か遠くを見つめるその眼差しに、室井の胸が強く軋む。
――俺がいるのに。
その言葉を寸での所で呑み込む。
小器用に見える青島も、その真の輪郭は曖昧で
もしかしたら、不器用にしか生きられないのは、お互い様なのだろうか。
結局、似た者同士だと思うのは、室井の勝手な思い込みだろうか。
浮かべる笑顔は本物でも、その瞳の奥に閉じ込めた、息苦しそうな、生き辛そうな、もがいていそうな等身大の彼を
いつしか、どこか本能的な部分で感じ取り
それが、無機質なコンクリの中で足掻き続ける自分の中に閉じ込めた何かと、人知れず、リンクした――
そんな、寓話の様なシンクロニシティを、室井は、一人勝手に本能的な部分で察知している。
だから俺たちは言葉なくとも、見透かし合ってしまうのだと。
青島はきっと、室井が何を想ってここへ自分を連れてきたか、もうとっくに察している。
その上で、関わるなと拒絶しているのだ。
青島は孤独を抱えた瞳で、或いは無意識のまま、遠くを見ていた。
室井など、見えてもいないように。
人には・・・室井には踏み込ませない聖域が、そこにはあった。
自分は、何の役にも立たない。
そのことを、痛感した。
そもそも、枷が多くて柵に捕らわれているのは、自分の方なのだ。
立ちふさがる壁から抜け出せなくて、水面に顔を出すように救いだして貰った自分が、何をおこがましいことを、と思う。
だが、こんな風に、傍に合っても、何ひとつ確かなことが出来ないなんて。
青島にとって、傍にあれないならば、何か有益な存在でありたかった。
束の間の休息を与えられもせず、傷を舐め合うことすら、叶わない。
相談相手にも愚痴相手にもなれず、だったらせめて、傍に自分が居るのだと伝えることで、少しでも気を紛らわして欲しかったのに
それすらも役に立てない。
俺たちが過ごしてきた時間は、そんなにも頼りなく、そんなにも無価値なものなのか。
青島にとって、自分はそれほどまでに無意味な人間なのか。
自分は、青島に、頼っても貰えない――その事実の方が、室井にとって余程大きい。
夕日が儚く揺れていた。
長い紅樺色の影は、遠き日々の記憶と重なり、もう戻れない時の無常を映し出す。
そうして、本日の終わりを暗に告げる。
心細さにも似た寂寥感と無力感が、海風と共に室井に押し寄せた。
自分が酷く不甲斐なく、哀しかった。
想いはいつだって空回る。
胸の奥の方が、潰れる程、痛んだ。一人で決着を付ける青島が、愛しく、切ない。
その腕を、強く引き寄せてしまいたかった。
青島の向こう側で、本日の太陽が沈んでいく。
「日没ってソーゼツって感じ・・・・」
「・・・・・」
「オンナノコと来た時は、綺麗だねーなんて言ってました、けど」
・・・・・一倉は、いつかそのポジションを奪われると布告してきた。
だが、そんなものが何の役に立つ?
そのポジションが合ったって、自分はこんなにも無力だ。
なのに、その子供騙しのポジションすら捨てられない。
自分が酷く、ちっぽけな生き物のように思えた。
悔しさにも似た、憫然たる感傷が湧き、室井は目の前の海へと視線を背ける。
爪が喰い込む程拳を握り締め、腹に力を入れた。
「世界は――俺が消えても変わりなく美しいんだ」
「え?」
唐突な室井の言葉に、青島がきょとんとした顔を向ける。
「別に自然は人間のために美しくあってくれてる訳じゃないと、いつだか気が付いた」
「はぁ・・・・」
「どんなに世界が美しくても、それらはみな人間存在とは無関係なもので、勝手に輝いているだけなんだ」
「なんか・・・・随分・・・・」
目の前の海を睨みつけるような眼差しの室井を見て
青島の視線も海へと戻る。
「だから俺は、綺麗な景色だの輝く木々だの見ると、苦しくなる」
「・・・・・」
「見る度、俺は要らないのだと言われている気分になる」
「そんなこと・・・・」
「美しいものを美しいと思う気持ちも、馬鹿にされた気になった」
「・・・・・」
絶え間ない波の音だけが、聞こえる。
二人並んで、真っ直ぐに海を見つめていた。
薄明光線がカナリア色の空に放射状に射し込む。
「居ても居なくても同じということは、価値はないってことなんだ」
「・・・・・」
「目に映る優美さなんか、人には無意味なものなんだ、本当は」
「まあ・・・・人類が滅びても、きっと変わりなく太陽は登ってくんでしょうね・・・」
「考えてもみろ。波だって、あれはただの引力に因る水面の高低運動だ」
「室井さん、モテないでしょう」
「そんなことはない」
クスクス笑う青島の微かな吐息が、光の中へ溶けていく。
波の音だけが、途切れずに耳に響いた。
夕日は、極限まで長い影を砂浜に映し出していた。
「何で今日、ここに?」
「・・・もうじきマジックアワーなんだろう?」
「・・・・・うん」
「俺にとって、おまえは要らなくない。それだけだ」
「・・・・・」
青島がゆっくりと海から視線を戻した。
そうして、室井の眉間に刻まれた、いつもより深い皺を認めて破顔する。
「室井さん。俺、一緒に海、見れて、嬉しいです」
「・・・・・・・そうか」
「なーんか、結局いっつも支えられている気がする」
「・・・・・それは俺の台詞だ」
これが、最後の二人のフィナーレなのだとしても、青島の中の一欠片でも温められたらいい。
今はそれだけを願った。
波の音がBGMになる。
「まだ、当分捜査は続きそうなのか」
「ん~、そうですねぇ。尻尾、掴めなくて」
「何をやってるんだ、だらしないな」
「ははっ、テキビシイ」
「・・・・マークしている男と大分懇意にしていると聞いたが・・・・」
「あー、まあ、そうかも」
「大丈夫なのか」
「なんとかなるでしょ」
「・・・・・その好意を逆手に取って、何かを強要されたらどうするんだ」
「黙ってやられるようなタマじゃありません」
「・・・・・・そういうことにしておく」
「ちぇー信用ないな」
不服そうな青島が、素直に愛おしい。
紅い夕日の中で淡く染まる彼は、良く見知っているようでいて、同時に、まるで知らない人のようでもあり
返って、未知なる彼を知らしめる。
何だか、等身大の青島のように思えた。
繕われていた壁や、二人の属性が取り払われ、何にも着飾らない素の青島が曝け出される。
室井の知っている所轄の刑事でもなく、造られた上流階級の若者でも勿論なく、社会人として構成されてきた一人の大人でもない、
年相応の4つ下の、何者でもない青島が、そこに居る。
それは酷く、不思議な感覚だった。
今まで室井が見てきた青島は、酷く断片的なものであり
自分は青島のことを本当は何も知らないのだと、痛烈に理解する。
それはつまり、彼にとって自分は、何の特別ですらないことを意味していた。
「・・・っ」
「・・・何?」
「・・・いや・・・」
「ヘンな室井さんっ」
室井は欲に浅ましい自分に、自嘲気味に唇を噛み締め、視線を落とした。
彼
を暴いてみたいと思っていたくせに、いざ、新たな深部に触れれば、こんなにも距離を思い知らされ、不安を掻きたてられる。
近付く程に、彼は遠くなる。
――いやだ。
彼が世界に居ないと思うだけで、こんなにも自分は心許ない。
それらの消化不良を抱いたまま、この先を生きていくのか。
それに俺は耐えるのか。
その瞬間、苦しみが急速に膨れ上がり、腹の底から烈火の如く走り抜けた。
彼の幸福だけを願い、身を引くつもりの潔さも、そんな強がりを一気に見透かした。
凍えるような空気が、幸いにも痛覚を通じて辛うじて自我を取り留める。
置いていかれるのが苦しいのか、傍にあれないことが苦しいのか。
根幹は不明瞭で、最早何に苦しんでいるのかさえも曖昧だ。
欲しいと思うからこそ、その距離が果てしなくこの身に圧し掛かる。
理性では離れろと言い聞かせているのに、本音はこんなにも脆い。
脆弱な精神は、焦がれる存在を的確に乞うていく。
渦巻く感情の中でただ強く胸の中で主張するものが、溢れる程膨れ上がり、室井は自分の狂気とも言えそうな激情に、翻弄された。
自分の感情なのに、制御が効かない。
肝心なことは何一つ告げていないまま。
その瞬間を脅えながら、それでも今にしがみ付く。愚かなことだと知っていて、変わらないことを祈り続ける。
時計仕掛けの人形のように、繰り返すだけの――
この先もそうやって生きていくのか。
俺たちは、そんなことのために出会ったのか。そんな哀しい出会いにしてしまったのは、誰だ・・・!
「室井さん・・・?」
俯いたままの室井を不自然に思ったのか、青島が躊躇いがちに声をかけてきた。
室井はゆっくりと視線を上げ、強張るように握り締められていた拳を開き、そっと青島に手を伸ばした。
いつかの夜のように、つん、と、前髪を引っ張ってみる。
「何だよ、室井さん・・・止めろって」
そう言う青島が、煩わしそうに頭を振って、隣でくしゃりと笑う。
そんな風に委ねてくれる存在が愛おしい。
「君もいつか、消えてしまうんだろうな・・・・」
「何・・・?」
「いや、お守する連中も大変だなと思っただけだ」
「なにそれ」
「まだ、諦めてないんだろ」
ニッと口角を上げ、強気な視線で応えた青島は、髪色も瞳も異なってはいても、確かに室井の知っている青島だ。
欠乏していた何かが満ちるように、胸の奥がキツく軋んだ。
やっぱり、この温もりを、失くしたくない。
誰にも取られたくない。
彼に自分を刻みつけておきたい。俺を――消さないように。
いつまでこうしていられるか、分からなくても、この手を引き寄せてしまいたかった。
例え、煙のように、青島が自分の前からその姿を消す結末は変わらないのだとしても――・・・・
どうしたらいい。
どうしたらこの胸の圧迫感から逃れられる。
どうしたら、この矛盾から、この苦しみから解放される。
いつも想う以上に、荒っぽい我情が眩暈がするほどに強く湧き出た。
だけど、もう、どうすることも出来ないなんて――!
腕を組み、海に視線を戻す。
青島の方は見なかった。見ないまま、感覚だけで強く強く感じ取る。
「無理はするな」
「分かってますよ」
「出来れば心配もかけるな」
「善処します・・・」
「怪我もしないで帰ってこい」
「はーい・・・・」
「困ったことがあったら私を呼べ」
「え・・・・」
「少なくとも私は味方だ」
「・・・・・」
「帰りを待っている」
「・・・・・・」
「・・・・なんとか言ったらどうだ」
姿勢の良い背中と、少し丸まった背中が二つ、海辺に並んだまま、日が暮れていく。
「呼んだら・・・・・来てくれるんですか?」
「行けるよう、努力する」
「なら尚更呼べませんよ」
青島が、光の中で拗ねたように向こうを向いてしまった。
室井は微かに下を向いて口の端に笑みを滲ませる。
潮風が、波を逆立てて海を撫でていた。
今だけは二人だけの世界だ。この優しい空間全てが、愛おしかった。
泣きたくなるほどに。
「終わったら連絡しろ」
「連絡入れたら、特典でも付くんですかぁ~」
「分かった」
「・・・えっ?!あ、嘘ですよ、嘘。冗談です・・・っ」
片手で頬杖を付いていた青島が、慌てたように振り返る。
取り繕うことを忘れた慌て様が面白い。
「考えておく」
「室井さん・・・!」
「君も何か考えておけ」
「ぇ・・・・・マジ・・・?ホントに何かくれるんですか」
「だからそうしてやると言っている」
「・・・・・」
一瞬、驚きに目を見開き、それから照れ臭そうに目元を綻ばせて、青島が笑った。
スッと身を寄せ、青島が室井の耳元に囁く。
「じゃー期待してます」
至近距離でニヤッと微笑む。
瞬間、室井の時間が止まった。
瞠目して青島の色素の薄い瞳を間近に直視する。
雷に打たれたように、動けない。
余りに無垢で、素っぽいその笑顔に、魅入られる。
青島の瞳は一途で、今だけは室井を映し出していた。
柔らかな視線だった。
柔らかな束縛なのに、それは、室井の胸を鷲掴みにする程のショックを与え、身体の奥底まで入り込む。
息が苦しい。
ああ、そうだ。
いつだって、こうして、青島に見つめられている時、全てものが信じられた。
青島を見つめている時、漲る力が湧いた。
ここが、室井の原点であると。
もう駄目だ――
それまで、室井の脳内であれこれ巡らされていた全てのことが、全て吹き飛んだ。
それでも、あの時代を終えた二人が、ここにいる。
新たな二人を造る未来くらいは、許されないだろうか。
もう少し、幻を長引かせることは、本当に浅短だろうか。
本当にもう、手遅れなのだろうか。
手放すなんて出来ない。
離れたくなんかない。
言葉ではなく、澱み、滞る想いが泉のように溢れる中、視線はもう、逸らさなかった。
別な意味で、それは青島も同じだったのだろう。
喜色を瞳に乗せていた瞳の色が変わり、室井を至近距離で見つめ返してくる。
適当に、ご褒美なんて物的な物を例えに上げてはいたが、本当に伝えたいことは、そこではない。
きっとそれを、青島は正確に分かっている。
同じように多分――持て余すこの感情も。
室井の身体が斜めに傾けられ、吸い寄せられるように顔が近付く。
明確な思考は何もない。自然と身体が青島へと寄せられていく。
視線を伏せ、そっと顔を傾ける。
仄かな青島の煙草の匂いの混じったオーデパルファムが甘く漂う。
隣に確かに、青島が居る事を実感させた。
波の音が、二人の間を包みこむ。
それ以外は、何もない。
オレンジ色の光霧が舞い上がる。
息遣いが肌で感じられる程、近付いた所で、一旦止まった。
顔を斜めに傾けたまま、伏せていた視線を持ち上げると、すぐ眼の前に青島の瞳があった。
いつもより近くにある青島の瞳が、夕日の残照を散りばめた空気に、緩やかに溶け、淡く光る。
青島は固まったように動かない。
瞬きもせずに、驚いたように室井を映していた。
震える湿った吐息が、口唇に掛かる。
薄いアクアマリンのような瞳が、夕日を反射し、プリズムのように数多の光を閉じ込めた。
光の結晶のように煌めく冬の空気と、何処か哀しそうな色を帯びる瞳が、薄明の空気に溶けていく。
その瞳を間近でじっと見る。
胡桃色の毛先が、綿毛のように、光の中で踊る。
青島の背後には、恐いくらいの鉛丹色の空が広がり、辺りの砂浜をビーズのように散らしていた。
壮絶だと思った。
――逃げないおまえが悪いんだ・・・
視線を落とし、室井はゆっくりと、口唇を重ねた。
***
微かに震えていることが伝わり、青島の存在をはっきりと実感する。
欲しかった確かな物が室井の中に流れ込む。
そっと、強張る指先で青島の耳を包むように触れると、青島の顔を捕えた。
長い睫毛に残光が粒を乗せ、淡く輝く。
そのまま、ふっくらとした感触を堪能するように、次第に口唇を強く押し当てる。
自分を遮るものなど、何もなかった。
柔らかい感触が尾を引き、口唇で辿るように舐め上げる。
青島の口唇の間から漏れる、確かな息遣いが室井の口唇を掠めていく。
それを呑み込むように口唇を塞いだ。
室井の耳朶に、残像のように残った熱い吐息と、風で流れた髪が、そっとそよぐ。
重ねるだけの口唇が、熱い。
冷たい空気の中にあって、それだけが真実であるかのように、強く主張する。
初めて触れた口唇は、柔らかく濡れていて、しっとりと室井を包み込んだ。
何の反応も返さない震える唇を、食すように、何度も何度も塞ぎ直す。
息苦しくなったのか、我に返ったのか、やがて、青島が僅かに顎を引いて、口付けを解こうと身じろいだ。
それまで無反応だった両手で、室井の胸を押し返そうと僅かな抵抗を見せる。
袖口から僅かに飛び出ていた指先が、もどかしげに室井の胸元を彷徨った。
その弱弱しい抵抗を気にも留めず、室井は唇を何度も押し付ける。
上に逃げようとした口唇を、室井は頬を両手で掴み、追いかけるように塞いだ。
後頭部に片手を滑らし、自分に引き寄せる。
スッと上向かせると、回した指に青島の細い毛がそよいだ。
更に顔を斜めに傾け、唇を吸い上げる。
次第に熱を帯び、甘く熟れて蕩けていく。
細く、柔らかい後ろ髪を、くしゃりと握リ潰した。
お互い、一言も喋らなかった。
室井は、ただ、黙って口唇を重ねた。
何で、こんなことをしているのか、分からなかった。
ただ、長い間、干上がっていた何かが静かに満たされていくのを感じていた。
マジックアワーの光霧が二人の背後に描かれる。
二つの影は闇に溶けるまで重なっていた。
~~~~~
その夜、東京湾に一つの遺体が浮かび上がった。
