雨夜の月 2
-cross road-
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本庁内に設置した本部に室井も任命され、詰めるようになって、ひと月も過ぎていた。
いい加減、配給弁当にも辟易してきたために、気分転換も兼ね、休憩は一人、外で過ごそうと会議室を抜ける。
こういう所が、協調性がないと言われる所以かもしれない。
しかし、室井にしてみれば、ほぼ24時間顔を突き合わせる連中と、食事まで共有するのは、息が詰まった。
別に、彼らに、苦手とか嫌悪感とか、仲違いなどのネガティブな関係に陥っている訳ではない。
昔なら、いざしらず、今は割と落ち付いた関係を築いていた。
ただ、頭を真っ白にし、リセットする時間が、自分には必要だった。
それほど感情の転換が得意ではない室井にとって、それでスムーズな仕事が出来るなら、多少の温度差は、許容範囲と言えた。
人に会わないようにと、いつもは使わないサウスゲートから出る。
陽はとっぷりと暮れていた。
ビル風が冬の乾いた空気を巻き上げる。隅に寄せられた落ち葉がカサカサと鳴った。
埃臭い都会の空気でも、冷たく新鮮な風は、肺にも脳にも気持ちが良い。
空気はすっかり冬の匂いをさせている。
もう今年も残す所、一ヶ月を切っていた。
解放感を感じながら、夜の帳に満ちたコンクリへ足音を響かせた所で
何故か一倉と鉢合わせる。
「おう、室井。残業か」
「そっちは」
「俺はカラスだよ。休憩か?だったら何か喰うか」
「そんなに多くの時間は取れない。すぐ戻らなきゃならないんだ」
やんわりと断ったつもりだったのに、一倉は室井を引き摺るようにして表通りへと歩きだす。
「どうせ空気の澱んだむさくるしい男共とのごった煮だろ。このくらい思いきったことをした方が脳のリフレッシュに成る」
「それと、時間制限は、関係ない」
「いいから、いいから」
どうせ、本庁の連中行き付けの角の蕎麦屋だろうと思い、室井は抗うのを止め、二の腕を引っ張られながらも大人しく付いていく。
一倉は昔から少し強引なところがある。仕事にもプライベートにもそれは表れた。
すると、意外にも一倉はタクシーを呼び止める。
「おい、そんな時間はないと言っただろう」
「いいから、いいから」
先程と同じ文句で流される。
「まだ仕事中なんだ」
「だからだよ。徒歩で10分の蕎麦屋と、タクシーで10分の蕎麦屋。手間の差は?」
「・・・・・」
「乗った乗った」
半ば強引に押し籠められて、続けて、一倉が圧し掛かるように隣へと滑り込む。
「おい・・・っ」
「運転手さん!数寄屋橋方面!」
室井はまた大きな溜息を吐いて、座りなおした。
カーラジオから昭和の古いヒットソングが流れてくる。
暗い車内にシャッターを切るように車道の街灯が射し込んだ。
時折、造形が浮かび上がる。
静かに伝わるエンジンの振動が、じわじわと凝り固まった思考と心情を崩していくようで
確かに、数十分前には、黄ばんだ室内で煮詰まっていたとは思えない環境変化に
室井は、気分もすっかり入れ替わっていることを感じた。
一倉はこう見えて、世話好きでお節介な所もある。
もしかしたら、エントランスで自分を見つけた時、余程酷い顔をしていたのかもしれない。
何となく室井はそう思って、少しだけ感謝と羨望の眼差しを、一倉へと向けた。
視線に気付くと、一倉は一瞬合わせた目をすぐさま正面に戻し
表情を崩さずに徐に口を開く。
「さっき、新城を誘ったんだが断られた。湾岸署の。例の事件がオオゴトになってるらしい」
「そうか」
「それだけか?」
「――・・・・・。何を言わせたいんだ」
一倉が反対の車窓を眺めながら、肩で笑う。
車内に響くのは、古びたメロディだった。確か二十歳頃に流行った曲だ。タイトルは何と言ったか――
歌手名すら思い出せないまま、何となく歌詞を追う。
失恋の歌だ。
2曲目のフルコーラスが終わる頃、見える景色が華やいできた。
車がウィンカーを出して、停車する。
外に出ると、街の匂いの異なる夜風が、遠出したことを伝えてくる。
場所を変えただけなのに、何かから抜け出せたような錯覚を起こす。
室井は味わうように、辺りの街中を見渡した。
コートの上から、夜風が吹き抜ける。
頬に当たる冷たさも心地良い。
「こっちだ」
一倉が顎をしゃくった。
のれんを潜り、古い木製引戸をガラガラと音を立てて開ける。
景気の良さそうな声に誘われ、小さな蕎麦屋に入った。
古そうだが、重厚感ある立派な店内だ。
黒鳶色の太い丸木をそのまま用いたような欄間と柱の間に、同色のスクエアのテーブルが並べられていた。
角の、堅い畳の座敷に、上がり込む。
客層も、サラリーマン風の男性ばかりで、みな仕事帰りなのか、ピンでスーツ姿のまま新聞を読んだり煙草を吸ったりしている。
誰も無口で、辛気臭い夜の空間を演出していた。
熱湯で淹れたらしき玄米茶が二つ置かれる。
適当に注文を済ませると、一倉がズイッと顔を寄せた。
「例の話なんだが・・・・・少し気になることがある」
「どの話だ」
「部署も担当も違う俺たちが指示語で話せる共通の話題って言ったら、もう昔話しかねぇだろが」
「だからどれだ」
「青島のことだよ」
「・・・・彼が何か?」
「ワザとらしくない程度に、距離を取れ、とは進言したらしんだがな」
「もったいぶらずに、全部言ったらどうだ。話したいんだろう」
如何にも室井の興味を煽るような言い方をする一倉に、いい加減付き合う気も薄れ、室井は素気なく促した。
見透かされたことを、半ば喜んだような笑みを寄越し、一倉が話し始める。
一倉の声に混ざって、遠くのテレビの雑音が重なる。
チラリと視線を向けると、古ぼけた昭和テレビが夕方のニュースを伝えていた。
どうやらこの店は小洒落たBGMなどを使う気はないようだ。
「・・・・――というのが大まかな捜査状況なんだが。もう一人、青島にも内緒で捜査員を送り込ませた。しかしガードが堅いらしい。
・・・・痴話喧嘩の末の死体遺棄なんていう、有り触れたヤマだったのにな」
それまで黙って聞いていた室井の片眉が、ピクリと持ちあがる。
一倉がズズッと熱すぎる玄米茶を啜った。
「青島が密着している上司が主犯格であることはほぼ確定だ。だが、警戒しろと忠告してもヤツは聞きゃしない」
「何か考えのあってのことじゃないのか」
「だからお前はアイツに甘すぎだって言われるんだよ」
「・・・・・」
室井は憮然とした顔をした後、頬杖を付いた両手の甲に額を乗せた。
女性アナウンサーが本日の政治の動向を伝えている。
それを何となく聞き流しながら、二人とも無言になる。
「いいねぇ、記者ってのは仕事という名目で海外旅行三昧だ」
「・・・・・・」
「何事も名目ってのは重要だ。・・・背後にある膿を炙り出したのはお手柄だった。そこからが八方塞ってことだ」
「任意で引っ張れないのか」
「証拠どころか、殺人事件の関係者ですらない」
「あぁ・・・、本部は殺人の方だったか」
「そういうことだ」
また訪れる沈黙。
「お前なら、このまま青島に任るんだろうな」
「後発の捜査員は、何で青島には内緒なんだ?」
「そこだよ」
意味ありげに一倉は意地の悪い笑みを乗せると、再び熱い玄米茶を啜った。
「そもそも表向きは、こっちの事件は本件とはかけ離れた対称外という認識で、別件の域を出ていない。新城にしたらとんだとばっちりだ。
まさか厄介払いした相手が黄金引き当てるなんて思いもしなかっただろうからな。管轄外だと無視しないだけマシだ」
「青島にも事情を全部説明するべきだ」
「牽制だろ。正体がバレた時の」
「それじゃ囮捜査と変わらない・・・・」
「もう今の状況は、敵に正体を知られる捜査員の危険性と、勘付かれることで更に証拠を隠蔽される、二重のリスクがある。ヘタすりゃ殺人の方もパァだ」
ふうぅ、と大きく肩で息を吐き、室井は顔を上げた。
「新城の胃が痛そうだな・・・」
「そうは言っても、新城だって青島を頼っているから、降ろさないんだろ」
室井も玄米茶を口にする。
少し冷め始めたそれは、抹茶の香りを漂わせ、甘味があった。
「全く、青島が関わると、事件が派手になるな」
「全くだ」
一倉が楽しそうに笑う。
室井が窘めるような、嫌そうな、何とも言えない顔をして、一倉を半眼で見やった。
テレビが天気予報を伝え始めた。
厨房の方から、派手に使う水道水の音や、まな板を叩く音が耳を賑わす。
「一倉。本題は?」
「ん?」
「そんな世間話をするために俺を足止めしたんじゃないんだろ」
仮に、新城の仕事経過を気に病んだ愚痴相談だとしても
本件は一倉にも室井にも、関係がない。
他人の仕事状況を聞かされた所で、こちらはどうにもならないのだ。
本来なら情報すら入らない筈の独立した特捜であって、二人が関わる権限は何処にもなかった。
なのに、酒の席の余興とばかりに上がった話題の続きを
こんな関係者の耳に入らなそうな土地まで引っ張り出して、口にする。
室井がじっと一倉を眼で威圧した。
漆黒の瞳が、一倉の衒いを見透かすように深まる。
ただ、室井が今更そんな目をした所で、一倉にとっては、何の威嚇にも脅しにもならなかった。
子供が親に歯向かっているようなものだ。
室井の眉間に皺が寄っていることさえ、馴染みの所作だ。
室井をチラリと一瞥した一倉は、表情ひとつ崩さず、壁に寄りかかってテレビへと視線を流した。
注文の蕎麦がやってきた。
「ほら、蕎麦が来たぞ。お前の好きな鴨だ」
「一倉・・・・そんなんじゃ誤魔化されないぞ」
七味を渡してやりながら、室井が口を尖らせる。
「青島のことになると露骨だな」
「お前が気になるよう仕向けているんだろうが!」
室井が七味の壺で一倉の手の甲をパコンと叩く。
ニヤリと意味深に一倉が笑い、そのまま二人で蕎麦をズルズルと食べ始めた。
「目の届かない所に賭けるというのは、実に悪趣味なギャンブルだな」
「そういうスリル、好きなんじゃなかったか?」
「言ってくれるね。俺は少年漫画は好きだが腐った果実は口にしない性質なんだ」
「何の話だ」
「お前と違って、遠くで見守るっていうのは性に合わないんだよ。・・・・・・全く、なんて刺激だ。こんなん耐えたがるお前の神経を疑うよ」
「・・・・・。人を変態趣味みたいに言うな」
「大差ないだろ」
「・・・・・・」
ふ、と口の端を持ち上げた一倉は、次の瞬間、表情を鋭くさせ、低い声で囁いた。
「その企業から女が一人、一昨日から行方不明になっている」
「関係者か」
「だったら事は簡単だった」
街道のクラクションが微かに店内まで漏れ聞こえた。
室井は、蕎麦を掴む手を止め、黙々と蕎麦を掻き込む一倉を見る。
「何故その話を俺に?」
「まだ事件と関係があると決まった訳じゃない。一応、お前の耳にも入れておこうと思ってな」
一倉が、本当に無関係だと考えているのなら、こんな所で世間話を装って室井の耳に入れたりはしないだろう。
青島の話だから室井にふっ掛けたとも思えなかった。
室井が真意を計りかねて押し黙っていると、一倉はさっさと天ぷら蕎麦を平らげ、セットの栗ご飯に手を伸ばす。
静寂が訪れる。
一拍置いてから、一倉が御飯の椀をじっと見下ろしながら、まるでそこに答えがあるかのように見つめ、皮肉めいた笑みを浮かべた。
「まあ、お前には関係のない話だったな。無粋な真似して悪かった。忘れてくれ」
「・・・・・何をするつもりだ?」
「別に。何も?ただ、新城のクジ運の悪さも年季が入ってきたなと思っただけだ」
「・・・・・」
「早く喰えよ。伸びるぞ」
「・・・・・ああ」
室井ものろのろと箸を持ち上げ、残りの蕎麦を啜り始めた。
さっさと先に天ぷら蕎麦セットを平らげた一倉は、両手を合わせて食事を終える。
それから玄米茶の残りを飲み干した。
「ただ・・・そうだな。俺は、もう一度青島と出会うことあったなら、今度は踏みこもうと思っている」
「何故だ。任務外だろ」
「青島だってある意味任務外だ。バランスは取れてる」
「越権行為だと言っているんだ」
「友人として出来ることをするだけだ。職務は越えねぇさ」
「彼は仕事なんだ」
「その、仕事、とやらが機能するのは殺人事件の方だって今説明しなかったか?」
「そんな言い訳は通じないのは分かってるだろう」
「そこは上手くやるよ」
「一倉っ」
一向に引く気配を見せない一倉に、その本気度を感じて、室井は箸を止める。
「青島の迷惑になる」
「ならお前はそこでイイ子にしてればいい」
「仕事に手を出されるようなものなんだぞ。青島にだって失礼だ」
「お前は自分の仕事を全うしてりゃいいだろ」
「何かあってからじゃ遅いんだ。取り返しつかないことになったら、どうするつもりだ」
「そこは回避させてやるのが、男の甲斐性だろ」
これで話は終わりだと言わんばかりに、片手をひらひらと振って、一倉は湯呑を掲げた。
「おばちゃん!茶、もう一杯くれる!」
室井は両肘を吐き、身体を乗り出して、囁くような抑えた声で一倉に怒声を絞り出す。
「こんなところで甲斐性を持ち出すなっ」
「所詮、何も言う権利もない奴は後ろに引っ込んでな」
「・・・!」
一倉が、してやったりとばかりにニヤリと笑う。
一瞬遅れて、室井が顎を引いた。
「・・・・その権利が出来たと言ったら?」
「・・・・!!」
畳み掛けるように言うと、今度は一倉が物凄い勢いで、室井を見た。
瞳を瞬かせ、表情が変わる。
珍しいものを見たなあと、室井は見当違いのことを胸中に抱いた。
いずれにしても、好き勝手に奔走しそうな一倉に、この一瞬を以って、とりあえずブレーキを掛けられた。
室井はようやく全身の力を抜き、身体を戻した。
一倉という人間が、本来はそんなに無謀な行為をする躍動型ではないことは、充分熟知している。
策士で、もっと慎重な行動を取る男だ。
この状況は、もしかしたら乗せられただけかもしれなかったが、それでも室井は青島のことに関しては、少しの不安要素も覗いておきたかった。
ここまで室井が食い下がったとなれば、多少は一倉への圧力となっているだろう。
室井は目的を達成し、安堵のため息を吐いた後、止まっていた箸を動かし、鴨蕎麦の残りに箸を付けた。
「本当なのか?何をしたんだ?」
一倉が興味津々な瞳を向けてくる。
室井はそれには答えず、視線を逸らしたまま、つい数日前のことに想いを巡らせた。
あの日の青島の反応は、見物だった。
*******
ポケットからキーケースを取り出し、鍵穴に突っ込む。
そんな室井を隣で待ちながら、青島が落ち付かなさそう顔で躊躇いがちに口を開いた。
「あのぅ、本当にいんですか・・・?」
「ここまで来て何言ってる」
「それはそーなんですけど~・・・でも・・・・なんか・・・・」
首を傾げて困ったような顔をする。
横でごちゃごちゃ言っている青島をを全て無視して、室井は扉を大きく開け、青島を促した。
「ほら、開いたぞ、――入れ」
「・・・・。じゃあ、お邪魔、しま~~~~~す・・・・」
ペコリと頭を下げて、恐々と扉を潜る後ろ姿を苦笑して見つめた。
あの日、勢いで青島を夕食に誘い、二人で近場の大衆居酒屋で食事をした。
早い時間から取り始めたこともあって、店を出ても、何だか中途半端な時間だった。
そこで、こんな夜は滅多にないのだと、自分を奮い立たせ、室井は青島を自宅へと招いた。
一体、青島を連れ込んで、自分はどうしようというのか。自分で自分の思考が掴めない。
一倉に不用意に煽られたから、何かムキになっているのだろうか。
思考は明瞭ではなかった。
ただ、あの時は、一緒に居たかった。
我ながら、良くあそこまで熱心に誘い込めたものだと思う。
堅苦しく、見え透いた誘い文句であったにも関わらず
青島は、戸惑いと、遠慮を見せつつも、最終的には室井の誘いに乗ってくれた。
あの青島が隣にいる――それは酷く不思議な光景だった。
「そんなに緊張するな。ただの俺の部屋だぞ」
「ここに・・・・・・室井さんが住んでいるんですか?」
「当たり前だ」
「俺と出会った頃も?」
「ああ。美幌に行っていた間は一時期引き払ったが」
「ふわぁ・・・・・」
何に感動しているのか、青島が子供のように口を開けたまま、仁王立ちしている。
パチリと電気を灯す。
その淡い髪をくしゃりと掻き混ぜて、背中を押した。
「早く上がれ。狭い」
「あ、すいません・・・・」
靴をぽいぽいっと投げて、そのままきょろきょろしながら青島が奥へと進んでいく。
無造作に投げ出された焦げ茶色の革靴を見て、室井はようやく、喉につっかえたままだった餅が飲み下せたような、全てのピースが揃ったような
何とも言えない温かいものに満たされた。
――此処に居るのは、間違いなく青島だ。青島なんだ。
見た目が違っても。時が経っても。離れていても。思い出の中にしか住めなくても。
「室井さんの匂いがする~・・・・・」
腹の底から、良く分からない熱い衝動と高揚感が込み上げた。
*******
「なぁ、会いに行ったのか?」
一倉の声で我に返る。
蕎麦屋の廃れたざわめきが戻ってきた。
「教えろよ。何したんだよ。まさか口説いたのか?」
一倉がまだ興味津々の眼差しを乗せて、間近に顔を寄せていた。
室井は鬱陶しそうに片手でその顔を押しやり、その猛攻から逃れる。
「・・・・・お前はどうしてそう、発想が下世話なんだ」
「落としたのか?」
「・・・たまたま会って、飯を食ったんだ」
「ほーお。やるじゃん。それで」
「それで・・・って?」
「まさかそれだけで、バイバイしたとか言わないよな?」
「・・・・」
「おい。マジか?」
困惑の顔を見せ、言いあぐねる室井に、一倉は思い切り脱力をしてみせた。
「ダッサ」
「・・・・っ」
「よくそれで、権利が出来たなんて大見栄切りやがったな」
「・・・っ!」
暫く睨み合った後、室井は、しぶしぶと言った感じで口を開く。
「そんなことはない」
「なら何したんだよ」
「・・・・・・・・・・・・・・・・・・連絡先を聞いた」
「・・・・ぷっ」
「笑うな!・・・・とにかく!これで少なくともお前とはイーブンだろう!だから余計な真似はするな!」
指を向けて、一言一句強調する。
一倉はまだ笑いの発作が治まらないらしく、軽く口元に手をあてながら、赤らめた顔を覗かせた。
「かーわいいねぇ。今どきの中学生だってもっと大胆だぞ」
「変な言い方をするな」
「どうして。仕事上ではないオトモダチになりましょうってことだろ。同じじゃねぇか」
「全然違う」
「ふーん。だったら、俺を止める権利まではないだろ。まだお前のものじゃねーんだから」
「・・・・っ」
「俺も今度はもう少し色のある話が出来るようにしておくよ」
一倉が挑戦的な目をして、頬杖を突きながら横目で室井を嘲笑う。
ぐ、と喉が詰まった顔で真一文字に唇を噤んだ室井は、煽られるままに口を滑らす。
「・・・・なら、家に連れ込んだ、と言えば満足か」
「――!!本当か・・・?」
「・・・・・朝まで一緒にいた」
一倉の、言葉にもならないといった驚愕の顔が面白い。
室井は胸の空く思いで、白菜の漬物を口に放り入れた。
*******
浴室から出てきた青島を見て、室井は思わず少しだけ顔を綻ばせた。
青島は、目ざとくその微妙な変化を汲み取り、不思議そうに首を傾ける。
「・・・?」
「青島だ」
「うん?」
「いつもの青島だ、と思った」
風呂から上がった青島は、髪こそ胡桃色に染められたままであるものの、セットされていた髪も今は濡れ、無造作に降ろされ
ピアスもカラコンも外されていた。
懐かしい、強い主張の赤錆色の瞳が、雫を転がしながら束になっている髪の間からくるりと覗き、悪戯っぽく揺れる。
「ああ・・・・」
ようやく合点が入ったように青島が微笑み、前髪を引っ張りながら、自分の髪を見上げる。
その分、少しだけ寄り目になった。
ベビーフェイスが更に幼さを増したように見える。
「やーっぱパーマにすれば良かったかなぁ~」
「毎朝大変そうだな」
「そうなんですよ~」
子供がお菓子を貰い損ねたみたいな口調でぼやく青島に、室井はとうとう口の端を綻ばせた。
そんな室井を、珍しいものを見た、と言わんばかりに、その瞳を大きくさせ、青島も笑う。
「室井さんが笑ったー」
「俺だって人間だ」
「超レア映像」
バスタオルでわしゃわしゃと髪を拭きながら、室井を指差しする。
悪企みをしたような、どうだ、と言わんばかりの、得意気で嬉しそうな顔だ。
乱れた前髪の間の悪戯な瞳が、キラリと光る。
指先をパチンと弾いて、キッチンへ向かう。
愛嬌のある揄う仕草に、室井は何となく愛しくなり、じっとその姿を眼で追った。
こんな風に、青島もまた気の置けない態度でいてくれるのは、自分を特別扱いしてくれる気がした。・・・・飽くまで社内比だが。
気のせいだとしても、青島が気を許しているのは、確かに伝わる。
それが、嬉しい。
しかし、加えて、青島に対しては、その無邪気に懐いてくる想いが以前から愛しいとは思っていたが
見た目や仕草に対して微笑ましいと思ったのは初めてだった。
「・・・・?」
何となく自分の思考回路が掴めなくて、室井は一人、首を傾げる。
「室井さーん、なんか喉乾いた~」
「冷蔵庫に入っているミネラルウォーター、勝手に飲んでいいぞ」
「らっきぃ」
冷蔵庫を開ける音がして、何故か青島の爆笑が届く。
「室井さーん。この山積みのポーション・ミルク、なんですか?これ?」
「・・・・ああ、つい。余ったものを放り込んでいるだけだ」
「んじゃ、その隣のレモンも?」
「ああ」
「・・・・何個か、貰っていいですかー?」
「いいけど、何に使うんだ?」
「これこれ!」
青島が楽しそうに出てくる。
片手にペットボトル。もう片手にポーション・レモン数個。
「レモン水にしたい」
そう言って、ペットボトルの蓋を開け、ポーションを4個注ぎ入れた。
それを横で、室井が腰に手を当てて、観察する。
「旨いのか?」
「絶対!おススメです」
ふーん、と感心したように室井は青島の作業を見つめる。
「うまいっ」
本当に邪気のない、嬉しそうな顔をする。
入れ違いに、今度は室井がバスルームへ向かう。
青島と擦れ違うとき、青島から、自分の使っているボディソープの匂いが鼻孔を擽り、室井は思わず振り返った。
裸足でペタペタと青島がリビングへ戻っていく。
室井が用意したダークグレイのTシャツを着て、バスタオルで無造作に髪を拭いながら、何かの鼻歌を歌っている。
その背中を、無言で見送った。
嬉しいのに、何故だか、胸の奥がグッと締めつけられた。
******
「朝まで何をしていたんだ?」
「教えない」
「お?言えないようなことをしたのか。男に」
「するか!」
「口説くくらいはしたんだろう」
「何を口説くって言うんだ」
「じゃ、お前、何したくて連れ込んだんだ?」
「――・・・・」
自分でも良く分かっていなかった行動を指摘され、室井は思わず言葉に詰まった。
あの時は、ただ、一緒に居たかった――――そんな曖昧な感情を、どう説明しろというのだろう。
そんな室井を、一倉は呆れたような視線で眺める。
「お前・・・・とっきどき抜けてるよなぁ・・・・」
「――――」
「普段は不器用とは言え、何でもキッチリカッチリこなすタイプなのに」
「放っておいてくれ」
「昔っから、青島のことになると、行動が突飛だよな」
「言うな」
「でも、楽しかったんじゃねぇか?」
「・・・・・」
虚を突かれたように室井が表情を上げ、眉間に皺を寄せる。
照れているのだとは、一倉ならお見通しだ。
「良かったじゃん」
「・・・・まあ、そうなるかな」
その後の、自分のした更に不可解な行動は、流石に口を噤んだ。
******
室井が風呂から上がると、青島はローソファに斜めに凭れるように眠りこけていた。
ガスファンヒーターが付いているとはいえ、季節柄、何も羽織らずに良く眠れたなと、室井は髪を乱雑に拭きながら苦笑して見下ろす。
そうは見せていなかったが、疲れているのかもしれない。
傍には飲み掛けのミネラルウォーターが転がっていた。
まるで子供のようなあどけない顔をして眠っている青島の傍に、そっと跪く。
室井が渡したフリーサイズのTシャツは、青島にはぴったりのようで、腰に掛けてのラインが生々しく見て取れた。
そこから覗く長い手足を、だらりと伸ばし、片手に何故かテレビのリモコンを握っている。
テレビは点いたままだ。
青島を起こそうと、肩に触れた手から人肌のぬくもりが伝わった。
秋も深まったこの時期、人の体温は過剰な程、本能的な恋しさを抱かせる。
僅か薄いTシャツ一枚越しに伝わる体温は、風呂上がりに火照った室井にも、ホカホカとした穏やかな温かさを齎し
その肉感も合わせて、ダイレクトに室井に伝わった。
思ったより筋肉は少なく、柔らかく手の平にフィットする。
手が離せない・・・。
室井の胸が再びきゅっと縮まった。
スーツを脱ぎ、華奢になった体付きが妙に頼りなく思え、年相応の幼さに庇護欲を感じる。
室井の手がそのまま止まる。
手を掛けたまま、室井はその寝顔をじっと見つめた。
つい先ほどまで、真っ直ぐに自分へ向けられていた瞳の輝きは、今は瞼の裏だ。
記憶の中で、先程までの、柔らかい眼差しと共に表れた真っ直ぐな笑顔が何度もリフレインする。
交代で何かを作っては、共に呑んだ。
同じローソファの端と端に並んで座っただけの、気の置けない空間が、くすぐったい。
青島はローソファの上にまで乗り上げ、肩膝を立てて、ちょこんと収まっていた。
テーブルの上に並べられていた酒瓶やツマミも、いつしかフローリングへ直接散在していく。
マシンガントークかと思っていた青島が、意外にも無口なことも、初めて知る。
静かに、トーンを抑えた口調で、ゆったりと語られる青島の声は、鈴生りのように耳を掠めた。
くるくると良く変わる表情は成りを潜め
ちょこんと座り、首を僅かに傾げてじぃっとこちらを見てくる。
その顔が、年がいもなく幼く見えることも新鮮だ。
腕が擦れる程、近くに居座り、向けられるその眼差しが何ら変わりないことも。
青島は終始ご満悦で、楽しそうだった。
そんな雰囲気に流されたとは思わないが、室井もまた、釣られるように、昔話を語ったりもした。
意外な面を見れたからだろうか
青島は興味深そうに、柔らかい顔をして聞いていた。
初めて青島と酌み交わした酒は、極上だった。・・・・・例えそれが、安売りで買ってきた缶でも、有り触れたメーカー酒でも。
室井にとっては銘酒となった。
酒を買うために帰る途中で立ち寄ったディスカウントストアで、青島がウケを狙ってカゴに放り込んだ、良く分からない外国産・瓶ビールの名前は
一生忘れないと思った。
恐る恐る指先を伸ばし、そっと、その前髪を梳き上げる。
柔らかい猫っ毛のような、ふわふわした触感が、指の間を通り抜けた。
まるで夢のような時間だった。
そして、思う以上に楽しかったのだと、深く実感する。
人との距離感を取るのが不得手な室井にとって、青島との距離感は最初からイレギュラーだ。
何の抵抗もなく、簡単に自分の一番深い奥底まで入り込まれた。
煽られるように、巻き込まれるように、自分もまた、違和感なく射程距離を詰めていた。
人との関係性に於いて、こんな思い切ったことをしたのは初めてだ。
口下手で、不器用な返事しか返せない自分が、人との距離を縮められるのは、時間を掛けて知り合ってからだということは
長年の人生経験の中で熟知している。
いつだって、礼儀や作法・常識の範疇から、徐々に紐解いてきたのに。
なのに、初めから青島は室井の心の真ん中まで飛び込んできた。無邪気に。警戒心も知らない子供のように。
無礼とか、無遠慮とか、そういう第一印象さえ吹き飛ばされ、酷く混乱したことを覚えている。
同時に、自分の深部も自ら曝け出してしまったことが、余計に室井を動揺させた。
剥き出しの感情を堂々と他人にあそこまで開け広げにするなんて。
室井にそうしてくる相手は数居ても、室井にそうさせる相手は、今までいなかった。
人間関係は一方通行では成立しない。
室井が幾ら思っても、駄目なのだ。
幾ら沢山の人に思われていても、無駄なのだ。
思った相手から、それを許可されなければ、それは独り善がりの幻である。
果たして、青島以外の人間に同じ感情を抱けるか?と問われると、それはない気がした。
どんな自分をぶつけても、ほんの一握りの心の欠片さえ拾い上げてしまう青島だから、可能なことで
青島だから、護りたいし、傍に居たいし、賭けられるし、見せられる。
それは、一種の魂の解放を、室井に齎した。
今まで敢えて考えたことはなかったが、それはとても不思議で神秘的なもののような気がした。
想像以上に淡い髪の感触を、くしゃりと手の平全体で味わう。
青島の細く長い胡桃色の髪は、まだ少し湿っていて、室井の指に柔らかく纏わりつく。
滑らかで心地良くて、もう一度手を伸ばした。
他人の髪をこんな風に触れるのは、久しぶりだった。
眠っている今しか、出来ない。
一心に必死で自分を信じてくれること。
直向きに求めてくれること。
僅かに特別視してくれること。
何の確約もなく、それでもただ隣に在れる。何となく切れずに繋がっていける。口裏を合わせなくとも同じ空間を繰り返していける。
本音で摩擦を起こし、擦れても寄れても、千切れない。
・・・・・それが、どれほど貴重で得難く、どれほど自分の心を癒す重要なものなのか、青島は分かっているのだろうか。
常に人の輪の中にいる青島には、知る由もないことだろう。
人間関係に於ける基礎とも言うべき関係は、みな、青島が与えてくれた。
そういうものは、得ようとして得られるものではなく
場合によっては一生、経験出来ない人だっている。
自分ももう諦めていた。
それを何故か惜しみなく与えてくれた。
人生でたったひと時でも、その幸福を味わえた。
稀有な存在を与えられ、一方的ではない関係を持たせてくれたことに、室井は最早、何に感謝して良いのかすら、分からない。
知ることのない筈だった温もりを教えられ、自分は幸福な男だと思えた。
胸がきゅうう、と軋む、その音さえ聞こえる気がする。
こんなにも大事だと思っているのだと、改めて思い知らされた。
この、細い糸の様な繋がりを、命綱のように必死で乞うている自分が、痛く切ない。
絶対に、こいつを傷つけたくない。
この貴重な存在を、失くしたくない。
泣きたくなるほど、大切だった。
護れるのであれば、どこまでも俺が護りたかった。――――それを、青島が赦してくれるのであれば。
柔らかい前髪を掻き上げ、風が撫でるように、指で頭の形を辿っていく。
露わになった額とこめかみが、無防備さをより強調する。
意外に長い睫毛が影を作り、肌理の細かい肌が電灯に光る。
若いんだなと何となく思う。
「・・・・っ」
割り切っていた筈だった。
なのにこうして、ふいに訪れた一夜の逢着は、こうも呆気なく室井の中の何かをざわめかす。
室井にとって青島は、真っ暗な部屋の中で、確かに導いてくれる光のようなものだ。
その導かれる先が、例え地獄でも、もう自分はその光を求めるだろう。
青島が隣に居るのなら、そこが何処だろうと構わなかった。
だけど、駄目なのだ。
自分の望む未来は、青島の望む夢は、そんな風に、今に留まる関係ではない。
自分がその世界を壊す訳にはいかない。
健全ではない思考を抱く度に、室井は己の弱さを目の当たりにする。
青島がいなければ、一歩も動けないのは、俺の方だ。
俺たちは確実に明日に向かっていく。先へ進んでいる。もう、戻れない。
この手を取ってはいけない。
どんなに願ったって、二人、草原を走るように冒険した、あの灼けるような陽射しの中には戻れないのだ。
大切ならばこそ、もう二度とこの先、未来に二人の道が絡み合うことがないと分かっていても、俺たちはここに背を向ける。
その事実から目を逸らすことは、過去への冒涜に等しい。
割り切っていた筈なのに、今宵の甘い空気が、室井を惑わす。
柔らかい髪から手を下ろし、温かい頬へと滑らせた。
滑らかな肌の触感と、頬の柔らかい肉の感触を、堪能するように手の甲でそっと押してみる。
ふっくらとした弾力と、肌の瑞々しさが、手に貼り付くようだ。
もっと、と、泉のように湧き出る欲望に任せ、室井は名残惜しむ様に、頬の感触を確かめた。
抑えきれぬ衝動が溢れた。
愛おしくて、可愛くて、大切すぎて。
これが幻ではないのなら、自分は青島にどこまで許されているのであろう。
目が覚めても、こうして触れることは、可能なのだろうか。
青島は、万人に開放的だから、恐らく室井にだって分け隔てなく、一定の接触は赦してくれるだろう。
今
の室井と青島の関係を、辛うじて成立させているのは
この、青島の見返りのない、ほんの少しの優しさだ。
・・・・・別に熱烈に、触れてみたいとか抱きしめたいとか、常日頃、焦がれていた訳ではない。
どちらかというと精神面の方の渇望が強くて、傍に在りたいとか、重要な人だとか、そういう存在であった。
しかし、今夜一緒に居て、久しぶりの至近距離で変わらない笑顔を振り撒く青島を、本能的に愛おしいと思ったのは確かだ。
その破顔するこいつを、引き寄せたいと思ったことも。
この温もりを誰にも分け与えたくないと、望んだことも。
ぐっと拳を握りしめ、青島から手を離す。
埒の開かない戯言を考えている自分に嫌になり、室井は哀しみに満ちた笑みを浮かべ、思考を閉ざした。
未練だらけの感情など、何の価値もない屑だ。
幻のような一夜が、どうにも現実感覚を薄れさせる。
・・・・・気が付けば、終電の時刻をとうに過ぎていた。
居過ぎたことを申し訳なさそうに謝る青島に、もう泊まっていけと、小さく呟いた。
タクシーを呼ぶから、とか、深夜もバスが、などと言って困り果てる青島を、今度はどう口説いたのかも、もう思い出せない。
酒の勢いもあったことは、確かだろう。
何故だか、必死に繋ぎ止めた。
「流石にそこまではずうずうしくないですよ」と遠慮していた青島も
もう少し話たいんだ、と縋る室井に、今更だと諦めたのか、泊まっていく、と、小さく頷いてくれた。
青島と過ごしたこの数時間は、この上なく室井の心と体を芯から震わせた。
何てことはない。それほどまでに、無意識の深層下では焦がれる程、青島を求めていて、割り切った大人のふりをして、それに気付かないで振りでいただけなの
だ。
身体の方が、余程正直だ。
いちいち、青島の全てに、その視覚が聴覚が、嗅覚が触覚が、反応した。
――今も。
室井は額に手を当てて、大きく溜息を吐いた。
俯き、苦悶に満ちる瞳を閉ざす。
「呑み過ぎだ・・・」
人生は諦めと妥協の連続だ。
ネガティブな思考回路から投げ遣りにそう思うのではない。
自分も歳を重ね、幸いにも人間社会の一番暗い部分に触れる職業に身を置き、その中で淡い夢と現実の狭間を、正しく理解してきたつもりだ。
ある程度の自己抑止力は、人生の中で大切なスキルである。
重要なのは、多くを求めることではなく、目の前に在る制限の中から、最上級の幸運を嗅ぎ分けられる能力だ。
そんな理屈など、もう充分過ぎる程、分かっていたつもりだったのに
青島とこうして直に対面してしまうと、その根源が揺らぐ。
ましてや、少なくとも、一緒に酒を呑むくらいの面倒は迷惑じゃないのだと、独り善がりじゃないベクトルを今夜教えられ
一つが決壊すれば、欲望は際限なく膨れあがる。
もう、理屈じゃなかった。
居心地の良さに、どこまでも甘えてしまいたくなる。
立ち上がり、ベッドルームへ向かう。
クローゼットから、寝装具一式を引き摺りだし、糊の効いた新しいシーツを下ろす。
ベッドのシーツだけを交換し、もう一式、寝床を整えると、羽毛の掛け布団だけ持って、リビングへ戻る。
青島の手からリモコンを取り上げ、テレビのスイッチを消した。
静まりかえった室内には、ヒーターのモーター音と、青島の寝息だけが、室井の耳を擽る。
そっと、手の甲を青島の頬に当てる。
柔らかくて、温かい。
この温度を忘れたくないと思った。
今だけは、確かに俺のものだ。
きっと目覚めたら、もう触れられない。だから、今だけ・・・今だけ。
このままこの手を引き寄せたら、これまでの繋がりも、室井自身まで全て、砂の城のように崩れ去ってしまう気がした。
過ぎ去って行く時の中で、悪戯に絡み合った強烈な運命。
何処かで終わりがあるから、命は美しいのだ。
そこに捕らわれるのは、自分だけでいい。
指先に触れる、この綿菓子のような存在も、ただの幻だ。
忘れられても、捨て去られても、自分は未来永劫、夜毎こいつの夢を見るだろう。
ありがとうという感謝の念と共に。
もう少し、このままで。
もう少し、一緒に。
もう少しだけ・・・
それは、今夜のことなのか、それとも、青島とこうして笑いあえる関係のことだったのか
室井には、もう分からない。
深まる秋の足音と共に夜が更けていく。
青島にだけは、出来ることなら、このままずっと、と、夢言を告げてみたかった。
ふわりと羽毛を身体に掛けてやると、舞い上がる風に誘われるように、音もなく青島の睫毛が震え、瞳が開いた。
室井は慌てて手を離す。
至近距離に居る室井に、青島はだいぶ驚いたようだった。
目を擦り、欠伸をしようとして大きく開けた口のまま、固まっている。
驚いたのはこちらも同じだが、そのリアクションも可愛く思えて、気が抜けた。
室井は口の端に笑みを滲ませる。
「ベッドで寝ろ。もう時期的にゴロ寝は風邪を引く」
「あ・・・なんか、スイマセン・・・」
「いいんだ。引き止めたのは俺だ」
「・・・・室井さんは?」
「俺も、もう寝る。気にするな」
「うん・・・・・俺・・・室井さん、待ってたんですよ・・・」
まだほとんどまどろみの中なのだろう、再び目は閉じられ、子供みたいな返事をして、青島がゆっくりと吐息を漏らした。
全く、懐かれたものだな、と思う。
一体、青島は自分の何を気に入ってくれたのであろうか。
それが、どれだけ嬉しいことなのか、分かっているのだろうか。
「慣れない職場で気を張って、頑張って、疲れたんだろう?早く休め」
「俺・・・・頑張ってる?」
「ああ、おまえはよく頑張っている」
そう言って、感情のままに、室井は指先を伸ばした。
ちょん、と、前髪を一束、戯れのように引っ張ってみる。
青島が嬉しそうに微笑む。
手を払い除けられないことに気を良くし、室井は今度は頭を撫でるように髪を梳いた。
まるでこれでは親子のような触れ合いだなとも思い、室井は眦を細める。
「俺、室井さんに褒められるのが、一番嬉しいんですよね」
「いつだっておまえを見ている」
「ほんとう?」
「・・・・調子に乗らせるのも癪だから口にはしないが、毎日心の中で褒めている」
「ふへへへ」
青島がバスタオルを口元に当て、くぐもった笑い声を漏らす。
まだ、眠りの縁にあるのか、瞼は閉じられたまま、コテンとソファに倒れ込んだ。
「嬉しいなぁ」
「俺もおまえに認められるのが一番嬉しい」
目を瞑っているから・・・・酔った上だから・・・・寝ぼけているから・・・。
言い訳なら何でも良かった。
久しぶりに会えて、また会えなくなるのなら、一度くらい言っておきたかった。
朝になって、青島に忘れられていても、それでも。
「もう寝ろ・・・」
「・・・・・・ハイ、そーしま~す・・・・」
青島が、目を瞑ったまま、何とか身体を起こそうと、もそもそと身じろぎする。
ソファのスプリングに阻まれて、あまり鋭敏な動作にならないのも、愛おしい。
「ん~・・・・」
甘えたような青島を初めて見て、室井は何とも言えない感傷と慈愛を抱いた。
それから30分ほどして、室井が簡単な片付けを済まし、もう一度リビングへ戻っても、青島はベッドにも行かず、丸くなって眠っていた。
今度は室井が落としていった羽毛布団を抱き枕のようにして眠っている。
完全に寝入ってしまっている安らかな寝息が、しんとした室内に響いた。
室井はそっと傍に腰を下ろした。
少々乱暴に羽毛を抜き取るが、もう青島が起きる気配はなかった。
コテンと首だけがローソファから落ちる。
「堂々とベッドで眠れば良いのに・・・・」
そっと、腕を取り、中へ入れてから羽毛布団を肩から掛け直してやる。
こんな風に、今も誰かがこの髪を触るのだろうか。
誰かの傍で、あどけないこんな寝顔を見せているのだろうか。
こいつは俺のものだと、誰かが主張しているのだろうか。
想像以上に心地良い触感が、想像以上に胸を軋ませる。
――このままずっと・・・・・
「・・・・・・」
室井は緩く首を振って、立ち上がる。
目の前に飲みかけのペットボトルが転がっていた。
それを取り上げ、口を含む。
思ったより旨い。酸っぱいレモンの味が広がった。
羽毛布団と毛布を抱え、リビングへ持ち込んだ。
敷布団を青島の隣に敷き、常夜灯に照明を落とす。
部屋が薄暗いオレンジの灯りに包まれた。
そのまま、ソファに眠る青島の横に布団を頭から被って寝転ぶ。
縮こまっている青島を、そっと抱き寄せる。
青島はコテンと腕の中に落ちてきた。
胸に抱きとめると、青島から室井のボディソープの匂いと共に、懐かしい煙草の匂いが鼻孔を擽る。
――あの煙草だ・・・
愛用の銘柄が脳裏に浮かんだ瞬間、思わず室井は強く青島を抱き締めた。
思った以上に、細く、柔らかく、温かく、ふわふわの身体をぎゅっと腕に抱き込む。
なんだか色々たまらなかった。
「・・・・っ」
溢れる感情を必死に呑み込んだ。
壊れ物を扱うように、掴むことも捨てることも出来ない。
過去の幻想に捕らわれていると笑われたって、室井には、それを捨て去ることなど、出来ない。
もうどんなに願ったって戻れないから―――ー未来のこいつの傍に、俺がいなくとも、こいつの未来が幸せであってくれと願う。
本気でそう願う。
青島の匂いが、仄かに室井を包み込む。
その温もりを、ただこの手に抱き締めた。
そのままゴソゴソと、布団の中へ引き摺り込んだ。
布団は、青島の体温で、眩暈がするほど心地良い温もりに包まれていく。
眠りの浅い室井にも、あっさりと、たゆたうような睡魔が訪れる。
もう、余計な邪念を考えることも億劫で、室井にしては珍しく、そのまま欲求に忠実に身を委ねた。
青島の身体をしっかりと引き込み、同じ眠りの中へと誘われる。
青島が微かに身じろいで、室井の胸に顔を埋めるような仕草を取った。
細い髪がさらりと室井の頬を撫でる。
そこで室井の意識も遠くなった。
*******
「助かった」
「今度はお前が奢れよ」
再びタクシーで本庁前まで戻ってきた。
あれから、一時間ちょっとしか経っていない。
なのに、随分とリセット出来たような気分だった。
「・・・じゃ」
軽く顎を引いて黙視し、足早に本庁正面エントランスへと歩き出す。
「室井」
大分行きかけた所でふいに呼びとめられ、室井は首だけ振り返る。
「実は、その男に会った」
「?」
「あの店で。青島と話している時に、たまたまな」
思わず、足を止め、もう一度一倉と向きあう。
「実は、ここからが本題なんだ。青島がマークしているその男に、俺たちの面が割れている」
「!!」
一拍置いた時間で冷静さを取り戻した室井は、一倉の言いたいことを察した。
一瞬で表情を変えた顔色を見て、察しが良いな、と思いながら、一倉も頷く。
「俺たちの線から青島の身元に繋がる可能性は」
「今の所は限りなくゼロに近い。・・・・・が」
つまりは、そのリスクを告げるために、一倉はずっと機会を窺っていたということだ。
室井が本気でこの件に関し、青島と関わる気があるのかどうか。
ないなら、わざわざ告げる必要もない情報を。
これは、単なる青島の心配などではなく、既に関係者になりつつある自分たちの立場を知らしめ
“お前も乗るか?”と問いかけているのだ。
「会ったって・・・・。何を話したんだ?」
「普通の挨拶だよ」
-そちらは?
-ああ、えっとー・・・
-昔の上司です。たまたま会いましてね
-そう、前の会社の、です
-昔の?それは凄い偶然ですね
-私達も驚いている所です
-今日は仕事で?
-いえ、完全にプライベートで。実はこの店が私の昔馴染みの行き付けでして。女将にも懇意にしてもらっているんです
-そうでしたか。あ、だから・・・・
-はい?
一倉は、相手の男の、何ともふてぶてしい態度を思い出し、珍しくも少し顔に感情を表し、軽く顰めた。
今思い出しても、腹立たしい。
人を見下したような口調をし、随分と自意識過剰な感じの、調子に乗った男であった。
上から目線のその口ぶりもムカつくが、何より一倉を苛立たせたのは――・・・・・
「本当だな?」
「この件に嘘は吐かない」
「顔を合わせるのだってマズイだろう」
「ああ、今となっては不味かったなと思っている。だが、ありゃ不可抗力だ」
「こちらの身分がバレたのか?」
「いや。ただ、一番最初の時、チンピラ騒ぎがあったろ、あの時点で俺たちのこと認識してやがった」
「・・・・・」
室井が事態の急迫性を理解し、眉を顰める。
「あの時、俺たち、手帳を出す前だったよな」
「・・・ああ。だが――」
「そうだ。俺たちは、止めるつもりで中に入った。何か勘付いていたとしても――・・・」
「第一、あの時かなりの客が出てきていただろう?」
「なのに、俺たちを記憶していた。職業病か、或いは危機察知能力か・・・・」
ともかく先手を取られていたことが、一倉にとって許容し難い失態だった。
室井が腕組みをして、視線を落とす。
「いずれにしても、ちょっと不気味だな。・・・・青島には?」
「ヘタに余計な情報は与えない方が良いと思った」
「だな」
二人の間に沈黙が支配する。
ビル風が渇いた冬の空気を巻き上げた。
立ち尽くしている二人の体温を、急速に奪っていく。
「店にはしばらく行かない方が良いんじゃないか。本部に報告は?」
一倉は大きく頷いて、報告を済ませたことを明かし、それからちょっと顔を寄せる。
「そうも行かなくなってきた。ちょっと気になることがある」
「まだ何かあるのか」
室井が呆れたように、腰に手を当てて一倉を見遣る。
視線でさっさと全部喋ってしまえと促す。
「その男。何て言うか・・・・青島を相当惚れこんでいるような態度だった」
「惚れこんでいる?」
「まるで自分のものだと誇示するかのような態度。着飾って連れ回すあの顕示欲。・・・俺が旧知だと知るや、腰に手を回して今の所有権を主張しやがった」
「・・・・・」
「それが俺たちへの威嚇なのか、本当に青島を取り込みたいのかまでは、分からなかったが」
「気に入られているのは良いことと見るべきなんじゃ?」
「本気で言ってるか?」
「・・・・・少なくとも、警察だと分かって取り込もうとするリスクは、彼らにはないだろう」
そうも思ったが、実際対面した一倉にとっては、あの眼が本能的に気に食わない。
刑事の勘と言えば聞こえは良いが、もっと原始的な部分でハザードが鳴っている。
会話も終始、後手に回ってしまったことも、プライドを逆撫でした。
挙句、話をしている最中に青島を連れ去ったことも、異常な執着心を感じた。
「とりあえず、今度会ったら俺はそっちの線で揺さぶって見る」
「おい・・・事はデリケートな局面に入っているんだぞ。不用意な行動は取るな。大体そっちの線って何だ」
「ヤツの嫉妬心を挑発してみるんだよ。本性が見えるかもしれない」
「そういうことは、青島の方が得意だと思うぞ?」
「かもな。俺はただ、友達として、接触するだけだ。あの手のタイプにはそれで充分効果ある」
「それでもだ・・・っ」
一向に聞かない一倉に、一向に引かない室井がついに声を荒らげる。
ゆっくりと一倉が正面を向いた。
いつになく真顔であることに気付く。
二人の視線が中央でぶつかり合う。
お互いに相手が本気だと、分かった。
「不用意なことはするな。青島にまで危険が及ぶんだぞ」
「その危険は俺たちが呼び込んだかもしれないんだぞ」
「だったら尚更だ」
「傍に居たら、いざという時助けられる。情報も入る」
「店で情報が入るとも思えない」
「ルートは確保出来る」
「まさか、まだ青島に直接会うつもりか?」
「確実だろ」
「お前、公私混同してないか?」
「その台詞をお前に言われるとはね」
「一倉っ」
視線と感情が熱く摩擦を起こし、真っ向から睨み合う。
お互い一歩も譲らない。
鋭い風が、二人の間で旋風を巻いて舞い上がる。
「とにかく、金輪際もう青島に余計なちょっかいは出すな」
「大きく出たな。お前にはまだそこまで言う権利ないだろ」
「権利は関係ない。同僚を心配して何が悪い」
「どっちの心配なんだか。約束はできないな。俺だって同僚だ」
「・・・・っ」
このまま話していても平行線であることは容易に推測がつく。
一倉はもう一度室井へ鋭い眼光を向け、それから視線を空へと向けた。
正面から向き合っていた身体も、少し逸らす。
「それに、牽制なら、俺より向こうに言うんだね」
「俺は別に・・・・っ」
「恋とか愛とか、そういう色の付いた話じゃなくてもだ。今のお前らは、何の確約もない過ぎ去った昔馴染みだ。絆はいつか、簡単に千切れるぞ」
「俺たちの間はそんな簡単じゃない」
「吠えてろ。時は平等に人の上に刻むんだよ。優先されるのはいつだって、昔じゃなくて今だ」
スッと一倉が音も立てず、室井に身を寄せる。
耳元に口を近づけた。
「このままだと本気で青島を掻っ攫われるぞ・・・!」
眼を見開いた室井を他所に、それだけ言うと、一倉は室井に背を向けた。
*******
ふ、と覚醒すると、夜明けだった。
薄暗い。
腕の中に、しがみ付く青島が居て、思わず凝視する。
子供みたいだ、と、じっと寝顔を見つめた。
こんな風に、誰かの寝顔を間近で見つめるのも、凄く久しぶりな気がした。
そのまま、まどろんだ思考のまま、青島の整った顔を見つめる。
しばらくそうしていると、長い睫毛がふるっと震えて、奥から赤錆色の瞳が表れる。
ゆっくりと焦点が合っていく。
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「ぇ・・・・・・えっ!?あっ・・・・あの・・っ???」
「おはよう」
慌てて逃れようとする青島の腰をグッと引き寄せ、額をくっ付ける。
「なん・・っ、何で・・・・っ、室井さんが・・・っ、あ、あぁ、そうだ、俺・・・・っ!」
「思い出したか」
「は、はい、すみません・・・。俺、あのまま寝ちゃったんですね」
「もっと寝相悪いと思ってた」
冬も近い季節の夜明けは遅い。
窓の外で焼けるような柿色に近隣ビルが染まり、その反射光が薄明の部屋に射し込む。
ガラステーブルが一筋の金色を放った。
遠くからの鳥のさえずりが、朝を告げる。
「お、おはよーございます」
「眠れたか?」
「室井さんはベッドで眠れば良かったのに」
「学生時代の合宿とか修学旅行とか・・・・思い出した」
「あー」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
至近距離で、どちらも無言になる。
冷たい朝の空気が頬を冷やしていく。
青島にしてみれば、ついでに雑魚寝に付き合ったということなのかな?と邪推は出来ても
だからと言って一つの布団を分けあって眠る必然性はないだろうと、言ったところだろう。
その疑問を分かっていて、室井はワザと口にしなかった。
じっと青島を見つめる。
腰に回した手を解放せず、余りに強い視線を向ける室井にたじろいだのか
頬を少しだけ赤らめ、青島が戸惑った視線を上目遣いで寄越してくる。
その瞳が不安そうに揺れていた。
「おまえは瞳が綺麗な色をしているんだな」
「そう、かな・・・」
「光の加減によって、色が変わってる・・・・今は、梔子色に光ってる」
「室井さんは――真っ黒だ。・・・・・墨汁?」
「・・・・・」
「・・・・・」
スルっと、青島の手が布団から出てきて、室井の方に躊躇いがちに寄せられた。
人差し指がゆっくりと近付き、彷徨った末に、ちょこんと室井の眉間に触れる。
「皺、ない」
ふふっと笑う。
触れた指先は熱く、その顔があまりにも無邪気で、室井の視界がぐらりと揺れた。
ぐ、と息を詰めて、青島を見つめた。
青島もじいぃっと見返してくる。
実際年齢より大分幼く見えるその顔が、優しく微笑んで、ひとつ、欠伸する。
「室井さん、あんまり休めなかったんじゃないですか?」
「そんなことはない」
「そ?」
何故かひそひそ声で話す囁くような口ぶりが、甘く耳を擽る。
淡く、冬の朝に溶けていく。
「昨日、楽しかったですねぇ」
「ああ」
「久々に会えて、良かったなぁ」
「俺もだ」
「室井さん、お酒強いんだもん」
「君も結構呑んでたじゃないか」
「セーブしてたんですよ、あのペースに付き合わされたら潰れちまう」
「気付かなかった。・・・さすが営業マンだな」
「強いんだろうな、とは思ってたけど・・・、ちょっと想像以上です。久々に手応えのあるお酌でした」
青島にとってはやはり、仕事、とまでは言わなくても、上司と部下という認識だっだのか、と気付き、室井が返答に困っていると
青島の口の端が少し持ちあがる。
「一度・・・一度だけ、室井さんと呑んでみたかったんで、嬉しかったです」
「・・・・そうか」
「夢の様な時間って、こういうの言うんですかねぇ?」
「・・・・・」
喉が苦しい程に詰まる。それでも必死に動かす。
「・・・・・大袈裟だな」
青島が目を擦りながら、緩く首を振る。
「じゃ、今日も一日頑張りましょうかね」
「そうだな」
「あんまり無理しないでくださいね」
「・・・ッ」
そのまま、その身を衝動のままに引き寄せてしまいたかった。
しかし、もう昨晩のような勇気は、ない。
もう、終わりなのだ。夢の時間は。
幻は、朝日と共に霞のようにこの手から消えていく。
青島の腰に回したままの手が、妙に汗ばんだ。
「君もな」
せめて、とばかりに、室井は未だ自分の眉間の辺りを彷徨っていた青島の手を強く掴み、額をコツンと合わせた。
多くを望めないのは、分かっている。でも、せめて――
「――・・・・」
視線を伏せ、祈るように目を瞑る。
せめて、何かを告げたかったが、何も言える言葉などないことを知る。
室井は、奥歯に力を入れて声を殺した。
伝えようと開けた口からは、何も出てこなかった。
室井にとって、最後に決定打となるのはいつだって、神などではなく青島の存在そのものだ。
青島との時間が、室井を支えている。
繋ぎ止めるような言葉を音にしたら、ルール違反な気がした。
昨夜の一時の酒もまた、有り得ない筈の一夜だ。
まるで、二人の約束が二人の自由を縛っている。いや――約束は関係ない。
二人の男の生き様が、重ね合うことを善しとしないだけだ。
しかし、その縛めが、二人に翼を与えているのも、また、事実だった。
これは、何の哀しみなのだろうか。
ただ傍に居たいだけなのに。ただ、一緒に居たかっただけなのに。一緒に話し、笑いあえたら、それで。それだけで。
こんなにも遠くなってしまった二人の現実が、儚い。
何をしたわけでもないのに、運命は残酷で、二人を共に歩ませてはくれない。
大切だった。大事だった。何よりも、誰よりも。――ありがとう・・・ただただ、君が幸せであるように。
気持ちは溢れて止まらない。
平行線のまま、夢は醒める。
平行線のまま、現実も終わる。
抱き寄せたい腕は、必死に留めた。
絞り出すような声で、一言だけ、囁いた。
「無茶だけは、するな」
******
片手を上げて去っていく一倉の後ろ姿を見送りながら、室井は大きく息を吐き、思考を巡らす。
確かに、一倉の言う通り、あまり楽観視出来る事態ではないと思われた。
でもそれは、又聞きであり、実際の所はどうか分からない。
青島視点では、また少々話も変わってくる可能性もある。
いざという時は、手を貸すつもりだが、その時期は今じゃないだろう。
落ち込んでいるだろうから、連絡くらいは入れたかったが、佳境に入っているだろう仕事中に、個人的な連絡を取るのは、気が引けた。
男なら、仕事は最後まで一人でやり遂げたい自尊心がある筈だ。それを尊重したい想いもある。
それに、例えそれが、どんな結果になろうとも
誰かに手を貸して欲しくとも
それを支えるのは、仲間であり、同僚であり、同志である筈だ。
今の時点では、何の関係性も権限もない、友人という枠を超えない自分が、横から手を出すのは余計な蛇足に過ぎない。
部外者が関わることで、予期せぬ事態を招くのも避けたい。
もし、それでも――室井の肩書や役職、能力が役立つというのであれば
青島が、一人で対処出来なくなった時、他の誰の手も間に合わなそうな時、或いは命の危険が出てきた非情事態に
必要な分だけ手助けすれば良い。
いつ介入するか、個人的な行動となるだけに、慎重に見極める必要があった。
どうするか、と室井は腕を組んだ。
とりあえず、一人失踪していることは確かなのだ。
身分を隠している以上、命の危険も考えられる。
せめて、少なくとももう、そのくらいの心配は許される仲だとは、思いたかった。
2
捜査本部が設置されている大会議室の上座で、新城は提出された資料に鋭く目を通し、強く握り締めた。
恋人を殺したと認めた男を緊急逮捕したのはいいが、どうもその証言の裏が取れない。
監視カメラ映像にもその姿はなく、被害女性の部屋からも、ワザとらしいまでのお泊りセットが発見されたくらいだ。
マンションの住人に聞いても、目撃情報どころか、その男と女性が付き合っていたという事実すら
浮かび上がってはこなかった。
明らかに、ダミーであることが見え見えである。
しかし、男は自分がやったと言い張り、事情聴取も一向に進まない。
何処かで何かの隙が出る筈なのに、そういう足掛かりも途絶えつつあった。
実に計画的かつ組織的な犯行であると考えられた。
扉が開いて、部下の一人が足早に近づいてくる。
「管理官。お電話です。直接話がしたいと言い張られまして」
「誰からだ」
「――・・・・」
本部設置のケータイを差し出しながら、スッと身を寄せ、耳打ちする。
新城も、無言で頷き、受け取る。
手で犬を追い払うように周囲を人払いをすると、後ろを向いた。
『新城だ』
新城が乱暴に受話器を当てると、向こうから呑気な声が聞こえてきた。
『あ~青島ですぅ~』
『挨拶はいい。用件を言え』
『忘年会に呼ばれちゃいました~』
『だからなんだ!勝手に行けはいいだろう!・・・いや待て、仕事中だろう!』
外の公衆電話を使っているのだろう、背後から軽快なクリスマスソングが流れてくる。
浮き足立った世間の賑わいを電波に乗せ、新城に季節の概念を思い起こさせた。
――どうやらこの事件の年内解決は諦めたそうが良さそうだ・・・
青島の軽やかな口調が耳元に届く。
『だ~か~ら~、得先を集めたパーティです。参加企業の名簿、要ります?最初の事件の企業も入ってますよ。あれ程接触を見せなかった面子が一堂に会すと思
います』
『出会ったからって、そこで接触するとは・・・』
『でも会場はホテルで、主催はウチですよ』
都合が良すぎる気がして、一瞬迷ったものの、新城は即答した。
『すぐ送れ。・・・お前も入り込めるんだな』
『ええ、俺だけ、ですけど』
『どういう意味だ』
『部署全員が呼ばれている訳ではありません。仮に今から捜査員派遣しても、推薦がないから入れませんよ』
『何でお前は入れるんだ』
『そりゃ、お気に入りだからでしょ』
青島が電話口の向こうで、事も無げに笑う。
本当にそうだとしたら、役得といったところだろう。
この口ぶりだと、既にもう一人潜入させている捜査員は、外されている可能性が高い。
『名簿は参加メンバーの末端まで載っているんだろうな?コピーでも良い』
『フルネームから勤め先、趣味まで載ってましたよ。でも隙を見ないとちょっと何とも。ま、絶対手に入れてみせますよ』
『打ち合わせはそれからだ』
『わっかりました~。でも良いんですか?』
『何がだ』
『だって新城さん、この間はターゲットから離れろ、みたいなこと言ってたじゃん』
青島の口調が、急に拗ねたように砕けた。
用件だけ要点を付いて報告し、その後、口調を変え柔部を付いてくる。・・・・なかなかの計画犯だ。
その仕掛けぶりも、気に入った。
新城は、口の端に笑みを滲ませると、椅子の背もたれに寄りかかる。
ギイィとパイプが軋んだ。
これだと、まだ何か他に要求がありそうだ。
『危険だからだ』
『新城さん、実は俺のこと気にしてたんですね』
『どう解釈すればそういう発想になるんだ』
『だって・・・っ、新城さんの声、楽しそう』
『・・・・・』
『捜査、楽しんでるでしょ』
電話口から青島の楽しそうに笑う声が耳を擽る。
受話器を通すと、青島の声は思っているよりも、甘く、柔らかい。
このまま甘い雰囲気に流され無駄話に付き合い、青島のペースに乗せられるのは、性に合わない。
スルリと話題を促す。
『・・・・・・お前だって本音は奴がクロだと思っているんだろう』
『まあねぇ』
『その割には随分可愛がられているようだが』
『ポーズですよポーズ!』
『どうだか』
すると、困ったような声で、クスリと青島の吐息が流れた。
『なーんかねぇ。気に入られちゃったみたいで。ま、俺も任せてくれる仕事が増えればその分、情報も入るし。願ったり叶ったりではあるんですけど』
少しだけ照れ臭そうな声に変わり、伝わる気配も変化する。
その様子からも、青島の方は好意に当惑している様子が伺えた。
一倉から得られた情報と照らし合わせても、ヤケに贔屓にされている身分に戸惑っているだけで
悪意のある利用をされそうな気配や、危険を察知したというような状況には、陥っていなそうだった。
『それより緋森さん、見つかった?』
『いや・・・・消息なしだ』
受話器を通す青島の声が、幾分硬くなった。
反対に、ヤケに後ろの派手な音楽が大きく耳障りに聞こえる。
『彼女が通っているスクールの仲間とか当たってみました?』
『所属している料理教室じゃなくて?』
『スクールの方。パソコン関係だったと思うけど。趣味サークルより絶対打ち解けた関係になりやすいから』
『それは聞いてない。何故報告しなかった』
『俺も後で思い出したんですよ。ってか、言いましたよ、本店の誰かに!』
『・・・・すぐ調べる』
『うん・・・・お願い・・・。彼女が消えたの、多分、俺のせいだから・・・』
『どういうことだ』
『彼女は事件とは無関係なんだ』
『青島?』
『でも、もしかしたら彼女、俺のために、事件のことまで知っちゃったかもしれない』
『消されたと?』
『そうならない様にして欲しいんだよ』
何か面倒な事情がありそうだったが、電話口ではそれを問うのは躊躇われた。
青島の苦しそうに何かを堪える声は、機械を通して伝わる。
何かありそうだとは思っても、現状どうすることもできないのも、事実だった。
しかも、本命の殺人事件の方が、こうまでドン詰まりとなると
この先は、潜入先であるその企業の線から探るしか、方法もなくなってくる。
今、このラインが途切れるのは、痛手だ。
もう一人内密に捜査員を派遣しているとはいえ、二人を勝手に潜入させていることは
新城にしては珍しく、上層部や他の一課捜査員にさえ、公言していなかった。
この細いラインしか頼れなくなりつつある現状が、歯痒い。
新城は少し考える振りをした後、話を打ち切る。
『お前の立場が一番危険なんだということを自覚して行動を取れ。名簿も無理のない範囲に留めろ』
『大体これ、法律違反ですよね?』
『・・・・・。軽口を叩く余裕があるなら大丈夫だな』
受話器の向こう側で、青島が少し笑った気がした。
らしくもなく、慰めていることに気付かれたか。
新城はチッと舌打ちをして、椅子から立ち上がる。
『くれぐれも正体はバレるなよ』
『・・・・じゃ、このまま張り付きますよー』
『仕方ない。仲良くしてろ』
『どうしよう、後継者だって紹介されちゃったら』
『そんな大層なパーティなのか』
『名簿見て卒倒しないでくださいよ』
『するか!』
『ねぇ、俺の価値、ちょっとは見直した?』
『せいぜいお世辞並べてフルコースでも平らげて腹壊してこい!』
言うだけ言うと、新城は青島の返事も聞かず、受話器を放り投げた。
