東京変奏曲Ⅲ
第九章
1.
小糠雨は、いつしか粉雪を混ぜ始め、氷の結晶を肌に咲かせた。
痛む足を引きずり、とぼとぼと行く宛てもなく歩く。
夜も更け、足早に通り過ぎるサラリーマンたちが酷く異次元の存在の様に見えた。
尤も彼らにしてみれば、青島の方が異世界の住人だろう。
何故か視界が滲んでいるのは雪が睫毛に濡れるせいか。
顎を滴る水滴を拭いもせず、俯いて足を引きずる。
着の身着の儘で担ぎ出された青島に、室井は様々な日用品を買い与えてくれたが
外出の必要性は薄いと、靴は買ってくれなかった。
今着用しているのはとっさに履いた室井宅にあったサンダルである。
つっかけのようなブラックのサンダルは、近所用であろうに、どこぞのブランドもののようで、洒落ていた。
存在感ある二本の太めのベルトが特徴的で、フィット感も良い。
しかしベルトだけのホールドなため、裸足の爪先をしとどに濡らした。
あんなこと、言うつもりじゃなかった――
だけど、結果は願った通りなんだから、いいじゃないか。
正月気分が抜け切らない都会の街を、傘も差さずにふらふらと彷徨う。
雪交じりの都会は凍てつくようで、コートも羽織らない身体は、結晶を幾つも飾り、肩から身体を冷やした。
目に映るオレンジの店の光が心細そうに濡れたアスファルトを細々と照らす。遮られるようにガードレールで皆打ち消えた。
それも、やがて店じまいと共に消えるのだろう。
スイッチが入っていた間だけぼんやりとした温もりを灯す。それは虚しく瞳に映された。
近付くうちに、二人の間の何かが歪んでしまった。
ほんとは、置いて行かれたあの秋に、途切れた縁だったんだ。
無理に歪めて繋げたから、こんなことになっちゃったのかもしれない。
濡れて額に畝って張り付く前髪の奥で、瞳に楽しげな店内の様子がオレンジの光に照らされて映る。
じんじんと疼く全身を、引き摺るように動かせば、吐く息が白く曇天の空に浮かんだ。
*:*:*:*
「くそ・・ッ」
荒い息の中で悪態を吐きながら、室井は繋がらない回線に苦情をぶつけた。
普段の室井ならば考えられぬスラングが口を出る。
キョロキョロと辺りに視線を走らせながら、人垣を確認する。
指先が、覚悟を決めて別の番号を呼び出した。
今度は数回で繋がった。
『はい、新城で――』
『すまない、急用だ!』
『何か』
『青島が家を飛び出した。官舎付近に留まると思っていたが見当たらない・・・!』
『何をやってるんですか!』
『お前こそ昼間青島に何を言った・・・!』
向こうから詰るような声が聞こえ、思わず合いの手のように叫んでしまう。
『私は何も言ってませんよ、ただ事件の進展を聞かれて――』
『それだけでこんなことになるか!』
珍しく感情的になった室井に、いつもとは違う波長を感じた新城が押し黙る。
押し殺したような息が双方で漏れた。
今夜の青島は食事の時から少し様子が違った。
食後改めるように切りだされた内容は室井の意表を付くもので、同時に室井の一番恐れていることでもあった。
だからどこかで冷静さを欠いていたのは事実だ。
だがそれでも、不毛な言い争いの主導権は、常に青島にあった。
乗せられたのは分かっていたのに――。
無言の責め苦が、今ここで自分たちが詰りあっても埒が明かないことを、室井に悟らせていく。
やるせない胸の蟠りの行き所を失くし、渦巻く怒号も憤怒も、歯を食いしばることで飲み下す。
『些細な口論をした。善後策の見解の相違だ。だが彼自身がまだ危険なことは告げていない・・・!』
『・・・・詳しい状況を』
『あ、ああ、そうだな』
冷静さを取り戻すかのように、室井は雨雪に濡れて落ちた前髪を掻き上げ、視界をきつく閉じた。
汗のように流れる水滴が頬を伝う。
今は感情的になっている場合ではない。
悔し紛れの吐く息が白く浮かぶ。
『出て行ってからまだ・・・一時間も経っていない。直ぐには追えなかった。そう遠くへ行くとは思えない。コートも着ていないし、金もケータイも持たせてな
い』
『特徴は』
『ぁ、っと・・・今日の服装は・・・上が赤のチェックシャツに黒のニットを羽織っていた、下はグレーのジーパンだ』
『応援を呼びますか』
『呼べるのか?』
『・・・・難しいですね。中野さんには?』
『今まだ本庁でな。そっちに向かった可能性もあるから探して貰っている』
『徒歩でしょう?もっと近場で行きそうな所は』
『六本木を案内したことなんかない・・・行きそうなところなんて――』
口にすると、より一層失意と絶望が室井を襲った。
自分は青島のことを何も知らないということを改めて認識する。
こんなとき、頼りにするような相手とか、行きそうな場所とか。
こんなに傍にいたのに、何も、知らない。
余りに情けない自分の声色が雪交じりの雨に浮かび、見上げた空は星も見えない。
凍えたケータイを強く握る。
慰めるかの如く、新城が窘めるように、電話口の向こうで溜息を吐く。
きっとそこは暖房も効いて温かい場所なのだろうと、何となく思った。
『今・・・細川も探しに出させました。・・・一倉さんは?』
『さっきから掛けているんだが通じない』
しょうもないという呆れた溜息が聞こえ、新城も口を閉ざした。
少しの沈黙に、背後の部下の声が聞こえる。
軽く指示を出す文句も聞こえ、新城もまた、仕事中であったことを匂わせた。
『直接狙われていることを理解してなくても、元々自分で蒔いた種で追われていた身です。まるっきり無防備とは考え難い。一応刑事だ』
『だが彼はまだ防御も抵抗も出来ない、走ることすら、出来ないんだ・・・』
自分で告げていく客観的動勢に、自分で絶望が加速する。
官僚であるからには、状況に呑まれる事態には訓練されているが、今は出来そうになかった。
目の前のチラつく雪と低い雲は悲観的な想いを止め処なく去来させる。
・・・・呆然と部屋で立ち尽くした。
胸の奥に空いた大きな穴を塞げなくて、身動きも取れなかった。
手の平から消えてしまった後悔と、彼を傷つけたのであろう罪悪感が、室井の明察な思考を奪った。
やがて、風が打ち付ける窓に、外の様子を感じ取り、彼がコートも羽織らず出ていったことに思い至る。靴だってなかった筈なのに――そこでハッとした。
青島を外に出してしまったことへの、こちらの都合ではない、リスクの高さに。
迂闊だった。
あまりに衝撃的な言い合いをしてしまったために、一番懸念しなければならないことを、見過ごしていた。
嘲笑うかのように旋風が雪を乱し、足元から冷気で熱を奪う。
『今朝の電話ですが・・・・』
『・・・ああ』
打ちひしがれる室井が言葉を次げずにいると、新城が様子を窺うようなトーンで喋り出した。
飛礫が剥き出しの肌に突き刺さる。
『捜査状況と、所轄からの撤退という話をしました。彼からは官舎を出たいという主旨の依頼は受けました』
『・・・・そうか』
『このタイミングでの引越しの件は、こちらの進展次第では確実になる可能性もありますからね、考えておくということだけ、伝えました』
『・・・そうか、助かる。・・・感情的になってすまなかった』
『いえ、貴方の感情を乱せるのは、やはり青島なんですね』
『・・・?』
思わずといった形で珍しく零れた新城の気弱な声に、少し意外な気がして室井が気配を窺う。
『声を。・・・荒げるのなんて、初めてでしたよ、私には』
『あぁ・・、君の捜査方針に水を差したことなら詫びを・・・』
『そういうところが残酷なんですよ、貴方は』
『え?』
移動をしたのだろうか、少し新城の背後の空気と声の反響が変わる。
これから新城が伝えようとしていることが本音であることを何となく室井に感じ取らせた。
『どうせ貴方も傘も差さずに捜し回っているのでしょう?』
『・・・私のことはいい』
『室井さん』
『なんだ』
『ならばもし、私が貴方に・・・青島を探すのは止めて私の傍で支えて欲しいと言ったらどうなさいますか』
『しかし私がこの捜査に直接関わることは』
『そうじゃありません。青島よりも私の傍にいてくれと、・・・・そう言ったんです。意味、分かりますか』
『・・・よく・・・』
『だから、残酷なんですよ・・・』
ポツリと零れた小さな批難の言葉は、真意を悟らせずとも、室井の胸を的確に貫いた。
特別に何かを重ね合う仲でもなく、何かを共有する仲でもなかった。
付かず離れず、むしろ厭世的な思考の棘を持って成り立ってきた関係だと思っていた。
キャリアは皆そうだ。
ペシミズムに確立し、誰もが一寸先は己の闇である。
だが一方で、その閉鎖的世界観は、お互いの時間を細く長く、時に昼夜を問わず、寄り添い、共に過ごすことを可能とした。
頭の片隅に必ずこびり付いて、判断にも決断にも必ず意識させる。
いるのが普通で当たり前の存在で。疎み、嘲りながらも、同じキャリアとして一種の同胞感を皆が抱いている。
それは、出身派閥を持たない室井の、どんどん煌びやかに階段を上っていく一方的なライバル心でもあると思っていた。
『新城・・・・その、』
何を言って良いのか分からず、名を乗せただけで口唇が不自然に止まる。
思う様に言えなくて歯痒い。
呆れたように向こうから漏れた溜息が、やるせなく痛みを乗せて受話器から伝えた。
『少しは困らせられましたか』
『ああ・・・、いや、しかし・・・』
『貴方はいつもそうだ。肝心なところで口籠る。何も告げないことが優しさとは限りません。誠実なあまりに気付かないことは、残酷です』
『・・・だが、君だって・・・、いつも私を邪険にしてきただろう』
思わず拗ねたように口唇を尖らせて苦情を乗せると、くすりと、甘い嘆息が受話器から聞こえる。
新城がそんな笑い方をするとは知らなかった。
『認めていない相手と、こんな電話で長話をすることなど、私はしませんよ』
不安や疑念が真意を覆い尽くし、疑心暗鬼は怯えを呼ぶ。
好きなようにさせて、望みを叶えて寄り添ったことが、全て幸福に繋がるとは限らないのだ。
時に間違い、迷う、そんな人間は、だからこそ時に本音で拓いてみせなければ、歪み、滞る。
噛み合わない大切な想いは、相手を蝕んででも、伝えなければ届かない。
あんなに熱く、青島と燃えあったあの秋が蘇る。
いがみ合い、押し潰され、けれども、コートを手渡してくれた新城の瞳が蘇る。
『相手の意思を尊重し、相手の望みを叶えることが、結果的に相手に寄り添うこととは限らない。身を持って知ったのでは?』
『・・ッ』
『そして今、それを私が嘲笑うとでもお思いで?』
新城の声は、遠ざかるように細かった。
ああそうか、正直に、ぶつからなかったのは、自分の方だ。
扉は常に自分に開かれていたのに。
室井の胸の中に、確かな熱と共に針のような痛みが呼吸ごと圧迫した。
大事にしたくて、示せるのは結果だけだと思って、ただ黙々と精進することで伝えてきたものは
全て自分のための満足だ。
頑張ることと、相手に伝える努力を怠ることは違う。
粗暴なままに青島が叫んでいたことの意味を今になって理解する。
俺は、自分のことばっかりだ。
室井は雨に濡れたケータイを握り直し、暗愚な己を律するように瞼を閉じる。
凍え始めた指先でしっかりと耳元に当て直した。
『――私だって・・・・君を評価しているに決まっている。一番近くにある壁だった。他の奴らなんか、目にも入れてなかった』
『・・・悪趣味ですね』
『大体、逃げたのは君も一緒だろう?今更・・・唐突なんだ・・・・。私はいたぶられて喜ぶ性癖は持たない』
『・・フ・・ッ、ならば少しは期待してもよろしいので?』
『・・・そこに、君がこの先も居てくることを望んでいる』
ハッキリと告げたら、受話器の向こうの気配が少しだけ動揺を乗せた。
傍にと望んだ男に、この距離でと告げたことは、過酷に聞こえるだろうか。
だが今なら分かる。
きっと、彼とは、このままこのキャリアの階段を共に昇り続ける盟友となっていくのだ。
過酷ではなく、それが現実だ。
同じ場所を目指した同胞は、付かず離れず、物理的な距離を可能とし、室井が共に生きていく相手だ。
してやれることも、支え合うことも現実的にまだまだある。
・・・・心理的な幻想に囚われている青島とは違って。
今更気付いた男の愚直な熱意は、伝わったのだろうか。
新城は甘い溜息を寄越した。
『――、全く。キャリアは所詮、嗜虐心が強い者ばかりだ』
『それが商売だ』
電話口の向こうとこちら側で、同時に同じ笑みが溶けた。
それはこの降る淡雪のように、じわりと消える。
『――だが、私はあいつに何もしてやれなかったようだ』
『ということまで言って差し上げれば宜しかったのに』
『は?』
『今朝、青島と話した時に、彼が口にしたことで少し引っ掛かりましてね。・・・言ってましたよ、仕事だからと』
『仕事・・・』
そう言えば、言い合いをしていた時も青島もそんなことを口にしていた。
その時は売り言葉に買い言葉だと思っていたが。
『それを聞いてなんとなく納得できましたよ、青島に同情すらする』
『どういうことだ。何がわかる』
『分かりますよ、どうせ何でも命令口調の堅苦しいままで、仕事かプライベートかも分かんない男が、ご自身のことも私と呼んで、誰がどう距離が詰められるん
だか』
『な、おい、ちょっと待て・・・』
『弱音も吐かず感情も見せず、事務的に世話されることで、社交辞令とどう区別しろと仰るので?』
『そんな、つもり・・・ッ』
『――が、あろうがなかろうが、向き合う人間にしてみれば同じことです。家にまで仕事をやらせているのと同義だ』
いきなり不遜な物言いで責められ動揺する室井を尻目に、拗ねたように新城が矢継ぎ早に苦情を乗せる。
温かく接して、家族の温もりすら感じていたが、青島には冷たく映っていたのだろうか。
不器用な男だ、几帳面にこなすことしか出来やしない。
こんな結末しか呼べなかったのは、自分の責任なのか。それが怠慢だと青島は言っていたが。
朝も夜も傍にいられて、どんどん親しくなったはずなのに、君が遠くなる。今、相手のことが全くわからない。
『また、逃げるおつもりですか』
『――』
いつだってそうだった。
犯人に刺された結末を誰より気にするのは青島だと分かったから、何も告げずに美幌へ発った。
余計な事を考えず、自分のことすら忘れて、早く回復してまた現場に戻ってほしいと願った。
あの後悔が鎖となって室井を閉ざす。
傷を負わせた結末が悔しく、約束が振り出しに戻ってしまう事実が申し訳なく、だから何も言えなくなってしまう。
いつも思うようには世界は周ってくれない。
『だが・・・・どうすれば良かったんだ・・・・』
見えない空を仰いで、見えない星を捜した。
いつの間にか足は止まっていた。
路地裏の壁に凭れ、牡丹雪となった紙屑みたいな雪を漫然とした漆黒の瞳に映す。
飛礫が顔に突き刺さる。
三年経っても、青島は何も変わっていなかった。
青島は室井に追い付きたいと、あれだけ叫んでいた。
どうしてそれを無視して、気付かなかったふりなんてしたんだろう。どうしてなかったことになんか、出来たのだろう。
行くなと青島を抱きしめてやったら何か変わってただろうか?
傍にいることだけで、嬉しいんだと一言告げられていたら、何か拙くても、伝わるものがあっただろうか?
そう出来ていたら、こうにはなっていなかったんだろうか?
青島の、室井の一番好きな綺麗な笑顔が思い出せない。
脳内に残ってるのは、何かを耐えてるような顔をしながら微笑む姿と、最後に薄っすら泣いてた姿。
都会の雪は水分が多く、コートから湿らせた。
シャーベット状になった塊を、車が押し退けていく。
『ただ傍にいて差し上げればそれでいい時もあるんですよ』
『可愛いこと、言うんだな・・・』
『ならば、いっそ弱っている隙間を攻めて支配してしまえば良かったんだ』
『付けこめってか』
新城の声は柔らかく、過激なことを口に乗せてもまるで棘はなかった。
どうせ そんなこと 出来もしないくせにと、そう言われている気がした。
かつて、想いを遂げ、貫いたことがある。
でも、そこで得られたのは満たされた幸福感ではなく、付き合わせた罪悪感だった。
それを引きずったまま、誰より愛しかった女は冬の海に消えた。
大人を巻き込んだ情動の結末は、室井の心もあの海に凍えさせた。
雪は、さまざまな想いをその結晶の中に閉じ込めて都会を一色に埋め尽くしていく。
『とにかく、今は青島を探す』
『責任で?』
『いや――、謝りたいんだ』
『青島は謝ってほしい訳ではないと思いますよ』
『ああ、それでも・・・・もう一度、会って話したい。必要なんだ、先に進むために』
責任も心配も危険さえも、そんなことはどれも些細なおまけだ。
本音では、ただ一心に、もう一度青島に会いたい。
もう手遅れなんだろうけれど。
『・・・どの辺を探すおつもりで?』
『この辺にはもういないのかもしれない。徒歩だとしても、私から――この場所から早く離れたいと願うだろう』
『そうですね・・・』
室井に痛みに同調したのか、言葉少なに新城が肯べいた。
『あんまりうかうかしていると、誰かに横から掻っ攫われますよ』
『・・・なんの話か解らないな』
『・・・、失くしてから気づいたって、遅いんですからね・・・』
『君のことか?』
『・・ッ』
『もう失くしたも同然だろ。・・・・君も見限るか。私に関わっているとろくなことにならない』
『何仰っているんだが。私といるなら二人共ホワイトカラーですよ』
『だから私に仕掛けたのか、君らしくもなく』
『いっそ玉砕してしまえばいい・・・何とも思われないよりは嫌われた方がマシだと思いませんか』
室井にしては皮肉めいた反用法に、受話器の向こうで新城が憮然と言いかえし、そしてようやく軽い苦笑を漏らした。
いつもの新城節も戻ってきたようで、なんだかほっとする。
『何かあったら連絡を頼む』
『了解しました』
『それと新城』
『はい?』
『君への返事はまた改めてする』
『ッ!何言って――』
初めて焦りの色を浮かべた新城の上擦った声に心底満足しながら、室井は通話を勝手に切った。
額に落ちてくる水滴を拳で拭う。
表情を引き締め直して、室井は牡丹雪が視界を覆う世界に、再び走り出した。
2.
一方的に切れた通話に唖然としながら、新城はのろのろとケータイを閉じた。
室井は礼儀正しく、年上なのに相手が電話を切るまで切ることはなかったし、ブツ切りをされたこともない。
だが今は、その乱暴な扱いこそが好ましく思えた。
ポケットに両手を差し込み、柱に凭れて窓の外を見る。
雪が窓枠を縁取り始め、古びた廊下を芯から凍えさせた。
――あんなこと、言うつもりじゃなかった。
一生黙っているつもりだった。なのに、室井があまりにも悲痛な声で情けないから。
同じ目線の高さで同じものが見える気がした男だった。
最後まで屈しない室井は、上に立つ器の片鱗を仄めかした。
なのに、不器用で融通が利かず、頑固だから無駄なストレスを溜め込んでいく。
捨てきれないものは、己の矜持なのかそれとも他者への意地なのか。
・・・・苛々した。
燻って、澱んで、爛れていく感情が、留めることが出来なくて増殖して。
持て余す熱はいつしか別な物に形を変えた。
そうしている内に、室井は青島と出会った。
〝君への返事はまた改めてする〟
室井の残した言葉が蘇り、思わず新城は眉尻を下げる。
柱から身を起こし、少し冷えてしまった身体を解すように歩き出した。
胸を刺す僅かな痛みも怯えも、今は気付かぬふりをする。
全身全霊で室井を呼んだ青島に、私の何が叶うというのか。
横恋慕などする気はないが、あんなに真っ直ぐ熱情を注いでいてくれる相手になら。
「・・・そりゃ大事にしたくもなるだろう」
相反する像の融合は思わぬ副産物を合成し、室井は見事に開花した。
長い間燻っていた新城の鬱憤すら晴らしていった。
覚悟を決めた室井の度量の深さは、常人より突出している。
先程の切り返しが頭に浮かぶ。
全てを抱えて受け止める決意を漲らせた男の器量が、妖艶に華やいだ。
室井の真の強さを見せ付けられる。
ああもう、敵わないなと思う。
ふと、今朝がた話した青島の妙に弱気な口調も思い出した。
渋面を露わにする素直な青島に、新城は小さく噴き出して喉を鳴らす。
所轄のくせに官僚に諂ってこようともしない、鮮烈な原石。
迂闊に触れば火傷するが、使いようによっては、もしかしたら爆弾にも匹敵する起爆剤に変わるかもしれない。
逃げ出したという青島の衝動と、新城の長年抱えていた苛立ちは、同じ根源から生まれたもののような気がする。
いつか、時が満ち、二人でゆっくりと向き合う時代が来ることがあったなら、話が合いそうだと新城は思った。
時折、窓を風雪が打ちつける。
雪が、さまざまな想いも音もその結晶の中に吸い込み、都会の夜を鎮魂していく。
3.
悲鳴を上げるクラクションが烈しい閃光で世界を揺らす。
酷い痛みと耳鳴りで時折、散乱する意識を必死に手繰り寄せた。
身体をズリズリと引き摺り、ひたすら真っ直ぐ歩き続けていく果ては、いつしか街の外れに行き着いた。
東京タワーが大気に霞んで消える。
どこへ向かおうか。なんだかどうでも良くて定まらない。
雨風凌げる場所で身体を温めるのが先決だった。この恰好じゃコンビニすら目立つだろう。
金もない、連絡先も記憶にない。ケータイにすり替わった世の中は存外に不完全だ。交番に駆け込んだら、留置所に連れていかれるならまだマシだ。
自分の迂闊さを呪う。
でも、本当に呪いたいのはこんな不始末を引き寄せた境遇だ。
こんな決断しか導けなかった自分自身に、憐れと思う程に雪は冷たく降り積もる。
「どうすりゃ良かったんだよ・・・」
大事にしてたのに。
どうしていつも上手くいかないのか、俺たちは。微細な歯車の乱れで、擦れ違ってばかりの仲だった。
初めて室井と出会ってから、季節が温まるのと合わせるように、分かり合えると錯覚させた道行きで、あのひとはいつも遠かった。
それでも大階段の下で理解しあえたと思った。
その矢先、盗聴器ひとつでまた噛み合わなくなって。誤解されたままに放り出されてしまった。
自販機の前で零された初めての弱音にあのひとの本音をようやく見た気になって
これで足並みを揃えられると思ったのに、今度は俺が怪我しちゃって、あの人は遠く北海道へ。
――世の中にはタイミングの悪い相手ってヤツはいるもので、運命が警告するかのように噛み合わない相手ってのはいるもので。
ごうと微かに轟く風の音が、止めた方が良いと叫んでいるように聞こえる。
縁がない人間と無理に関わろうとするほど、お互いが嫌悪と不利益に苛む。
終わるしかなかったのなら、じゃあどう言えば良かったんだろう。
行かないでとか、傍にいてとか、女みたいな台詞を言えてたなら、もっと惨めに落ちぶれられるんだけど。
「あーあ」
吐く息が白く宙に幾つも浮かんだ。
シャーベットになった泥を含む雪が爪先から凍えさせてくる。なんだかいつかもこうやって不自由な足で彷徨った夜を思い出す。
あの時と違うのは、今身体を濡らしているのは血ではなく天から責め立てられる牡丹雪で
自分を追い詰める追撃の手はないということだ。
それでも結局あの夜から一歩も抜け出せていないのかもしれない。
深い暗闇の森を心は今も彷徨ったままで。
身体に手を回すようにして、足を引きずった。爪先の感覚は既にない。
塞がっていた筈の銃創が燃えるように疼き、体力を奪う。
うねった前髪から熱い雫が滴り落ち、ふらりとよろめき、壁に肩を付いた。
倒れたくないのか、倒れたいのか。全ては成り行き任せで構わない。
後ろからべちゃべちゃと雪を踏み潰す足音が足早に近づき、二の腕が誰かにグイッと引っ張られた。
突然のことに反応が遅れ、僅かな抵抗も伝えられぬまま、青島が小さく声を上げる。
体重が後ろに傾き、何かに支えられた。
「おい・・?やっぱりお前・・・なんでここにいるんだ?」
ぼんやりと太い声に振り仰げば、そこに見知った顔がある。
えーとえーと、誰だっけ。確か名前が――
「桶永、さ・・・?」
「お前一人か?いいのか?外出たらマズイんじゃないか?!」
「あ――・・・・、」
なんと説明して良いか分からず、青島は視線を彷徨わせた。
その現実と混沌の狭間に蕩揺う覚束なさに、桶永は二の句を告げず唾を飲み込む。
今の青島はこの雪に霞んでしまいそうに危うく見える。
桶永は少し逡巡した後、一瞬付近に視線を走らせ、それから道路脇の雨除けに青島の肩をそっと押した。
商業ビルの裏口となっていたそこは、吹き溜まりになっていて光も射し込まないが、ひと気もない。
傘を閉じ、青島の格好に眉を潜め、上から舐めるように観察する。
青島は壁に背中を凭れさせ、しんどそうな息を吐いた。
血の気の失せた紫の口唇を噛み締める凍えた姿に、桶永が事態の異変を感じ、渋面になる。
「ずぶ濡れだな。まるで濡れ鼠だ」
「はぁ・・・、すいません・・・」
「今夜は雨から雪になるって天気予報で言ってたろ」
「きーてない、で~す・・・・」
暫しじっと、熱い息を重そうに吐く青島の顔を見つめる。
が、青島の視線は横を向いたまま噛み合わない。
ガクガクと震える身体を両手で抱きかかえるように抑え、壁に凭れる。
じっとりと濡れた肌が光り、襟足から覗く筋張った首筋のラインを、光の粒が滴り落ちた。
「何があった。送っていった方が良いのか」
「・・・・・」
帰る場所なんか、最初からないのだ。
みんな奪われてしまった。馴染んでいた筈のこの大都会がまるで余所行きの装いに変わる。
でも、間違ったことはしていない。自分たちが先に進むためには、こうするしかなかった。
酷い別れにしてしまったことだけが悔まれる。
あんな理屈も建前も置き去りにしたような言い方、するつもりはなかった。
だけど室井があんまりにも直向きだから。
優しくされるほどに辛くなることもあるんだなと、ぼんやり思った。
分かってほしかった訳じゃない。室井には室井のやり方と意識がある。脛を齧るだけの寄生虫のような、自分を消してしまいたかっただけだ。
押し黙り、痛みを乗せた顔をする青島に、ふっと桶永の指先が触れ、滴り頬に張り付いた髪を退けた。
その腕を、青島が鬱陶しそうに振り払う。
「アンタに送って貰う義理はないよ」
「警察官のくせに示しが付かないことをする方が悪い。いつから外にいた。冷え切ってるぞ」
そう言われ、初めて何故この男がここにいるのか疑問が湧いた。
視線を持ち上げ、青島が目の前の男を見上げる。
初めて視線がしっかりとぶつかり、割とがたいの良い男だったんだなと初めて思った。
本部の長テーブルで、中央に座っている姿しか印象に残っていない。
青島の張り付いた前髪から、上向いたことにより幾筋もの水滴が滴っていく。
「あんたこそ、こんなとこで何してんすか」
今からそこなのか?と呆れを滲ませ、桶永が苦笑する。
桶永が徐にコートを脱ぎ、青島の身体に被せた。
「仕事を上がった後の独身男がどこで何しようと勝手だろ」
「仕事・・・・、」
「社会勉強も大事だろ」
「キャリアがそれはマズイんじゃないの」
「公人としての境目は身に付いてるさ。お前と一緒にするな。迂闊な真似はしない。こちとら桜のシンボルに背かぬよう幼児教育から徹底された身だ」
ひょいと桶永が肩を持ち上げ、おどけて見せる。
室井もそうだった。
血統は庶民でも、東大出のエリートでなくとも、エリートキャリアとして隅々まで仕込まれた生粋の器だった。
逃げられぬ堅牢な狭窄世界である反面、優遇されるその頂点を飽くことなく欲しがる集団の一派だ。
目の前に、広大で高潔な道が拵えてある側の人間だ。
「イイ年してよくやんね」
「その気になりゃ一夜の慰みだって男の活力さ。社会平和の安寧だ」
「キャリアのくせに結婚してなかったのかよ、アンタ」
「まあ、そこは色々あってね」
言葉尻を濁した男から、興味が失せたように青島の瞳が伏せられ横を向く。
適当に口を合わせているが、正直本音はどうでも良いことだ。
雪は止みそうになかった。
ぼんやりと視線を持ち上げれば、低く垂れこめた煤色の多重雲と遥か遠くから途切れなく落ちてくる紙屑みたいな飛礫が街を鉛色に染め上げる。
今夜は都会でも積もるかもしれない。
とっぷりと陽の暮れた東京は、まるであの日の再現のように深々と冷え込んだ。
桶永が、手持無沙汰になった間を持て余したように、足元の雪をくしゃりと踏み潰す。
「こっちのプライベートよりも、なんで保護されてた筈のお前がこんなところで傘も差さずに出歩いているのか。そっちの方が興味あんね」
「そんなのも俺の勝手ですよ」
「どうかな。今のお前は確かまだ観察対象だった筈だ。外に出ることも禁じられていた。違うか?」
観察対象?・・・保護対象ではないのだ。
やっぱり、何かあったんだ、この裏に。
「そゆことか・・・、今ので全部分かっちった・・・」
こめかみから顎へと伝う雫を乱暴に袖口で拭い、青島が顔を顰めて舌打ちをする。
これは単なる療養を兼ねた保護ではない。
どうりで室井がヤケに過保護だった訳だ。世話を焼く傍ら見張られていた。最初から青島に自由はなかった。
それはつまり、敵は継続して青島を狙っているということを示す。
身の安全という身辺警護のレベルではない。
確かにあの程度で彼らが諦めるとは思えなかった。
恐らく逮捕したのは極一部で、主要幹部の面子は野放しか。
青島への個人報復だけでない、ルートの口止めを求め、奴らが躍起になり治安が狂うことを、警察は警戒している。
・・・・だが本当の狙いはなんだ?
青島が痛む腕を擦り、通りの方へと投げた目を細めた。
車も通らない細道は、足早に帰途に着く会社帰りの影が流れていく。
警察の狙い、奴らの狙いが、自分にだけ暈されている。
いや、騙されている。
この状態で警察が先手を取るには、何か向こうの統制を乱すような一手が必要だ。
新城の口ぶりでは囮に使われるとまでは想定してなさそうだったが、何かしらのタイミングを図っている可能性はある。
奴らにしてもそうだ。
チップが渡り、顔がバレていることは知れている筈だ。
次の取引を抑えられたなら、青島に接触を図る方が奴らに不利だ。
なのに青島を追いまわすメリットは何だ?
一体何が起こっているんだ?
暫し黙してしまった青島に飽きたように、或いは逸れた興味を引き戻すためか、桶永は片手を青島の横に突く。
「何があったんだよ?・・・いや、何をするつもりだ?」
「・・・・」
その低い声に我に返り、青島は目の前の男にゆっくりと視線を戻す。
「・・別に」
「今お前が勝手な行動を取ると、捜査本部に水を差すことになるぞ。分かってんのか」
「・・・・」
キャリアが考えることは皆、捜査本部の健全化だ。
何かしらの違和感と拒絶感が青島の胸を渦巻くが、今はそれすらどうでも良かった。
無垢な視線には何の感情も表れない。
答えない青島に、桶永は好奇心に満ちた目を眇めた。
不自然に近い距離に、それでも身を退けることはせず、その瞳には救いを乗せることすらせずに、青島の瞳は桶永をただ映してくる。
「本部の指揮官は新城に渡った。聞いてるだろ」
「・・・下ろされたの間違いだろ。それで?」
「切れ者で有名な男だ。受けた仕事は必ず完璧に結果を出す。気真面目で融通が効かない、小細工は通用しない。・・・・上の評価は高い」
「大差ないですよ、俺にしてみりゃキャリアのやることなんて」
「情の欠片もない男だぞ。・・・お前なんか簡単に見限られる」
「きょーみないね」
ハッと息を吐き、桶永が渇いた笑いを乗せる。
吐く息が白く宙に浮かんだ。
「年下の部下に抜かされるのは性に合わなくてね。向こうも同じようで、俺を好意的な目では見ていなかった」
「アンタが睨むから臍曲げちゃったんじゃないの」
「そんな可愛いタマか。舐めてっとしっぺ返しがくる」
「ああゆうのが普通なんじゃないの。足引っ張られるアンタが抜けてたんじゃないすか?」
ふん、と鼻を鳴らして桶永は口端を滲ませる。
結構ズケズケ言ってる青島の相槌にも気を悪くした様子はない。
あんな扱いをしていたのにも関わらずだ。
「突け入る隙もない。・・・・だからいつかアイツに泡吹かせたいと思ってたさ」
「どーでもいいよ」
「お前、捜査本部に逆らう気か?所轄は気侭なこと出来ていいな」
「・・・・」
「責任を取らされるこっちは、たまったもんじゃない。それで足を引っ張られる。俺の計画は台無しだ」
「失敗を所轄のせいにしている内は、新城さんもアンタも同じだろ」
「御大層な理想を口にして、結局身勝手に動く。お前らも同じだよ、自分が一番可愛いだけだろ」
「人のこと言えないくせに。その捜査本部で勝手なことしたのは誰だよ・・!・・・そうだよ、そもそもアンタの命令で俺こんな羽目になってんすよ!」
道楽のように指摘された口調に、少し理不尽な気分になり、そのことがそもそも発端がこの男から始まっていたことを青島に思い出させた。
去年末の単独潜入捜査。全てはそこから狂いだした。
「すっげえ怖い思いしたし、死にかけたし、生活変わっちゃうし!いまだに家に帰れねーしっっ」
「はっはっは!相変わらず威勢が良いな」
「どうしてくれんですか!」
「・・・まあ、そこは気にすんな」
「しますよっ」
「お陰で俺もクビになった。イーブンだ」
「何だその理屈・・・」
絶え間なくシャツに纏わりつく雪を払い除け、青島が鬱陶しそうに溜息を乗せつつ前髪を掻き上げる。
深い色を湛えた胡桃色の瞳がまあるく瞬き、桶永を映した。
怒りを乗せつつも責めていない青島の瞳に、桶永は少し驚く。
少し半開きの血色の悪い口唇が、温もりを強請るように誘い濡れた。
香り立つようなその妖しさに、桶永の背筋が戦慄き、咽ぶ。
――なんて眼だ・・・一瞬この俺が喰われた・・・
桶永のたじろいだ視線に気付かず、青島はセーターや掛けて貰ったコートに纏わりつく雪をパタパタと叩く。
少し大きめのシャツの袖口から丸っこい指先が覗いていた。
どの爪も紫色だ。
「何かアンタ、ちょっと変わりましたね・・・」
「別に・・・普通だが?」
口が渇き喉が張り付いた。
同性なのに醸し出す不思議なフェロモンがある。
桶永は見逃さないよう、ただ視線を張り付かせた。
ポケットに温もりを捜すように青島の紫色の手は忍ばせられ、また通りの方へ視線を投げる瞳は、漫然としていて何を映しているのか定かではなかった。
ここにはないものを見ている気がした。玲瓏に白い電灯を反射させる。
「そうかな、前はもっとぎらぎらしてた。人なんか見てないみたいに。・・・違うか、俺が気付かなかっただけか」
「・・・?」
「最初から・・、何で俺を名指ししたのかとか、キャリアなら本心隠すのが本職だろうに敵対心隠しもしなかったなとか。今思うと不自然なことだらけ。・・・
なんであんな無茶な捜査させたんですか」
チロリと視線だけ戻され、桶永が顎を逸らす。
「へえ・・・、お前、やっぱりそこそこ頭切れるんだな・・・勘の良さか」
「やっぱり点数稼ぎ?」
「まあ、キャリアは打って出なきゃならないゲームだからな」
「・・・くっだらね・・・」
ここは会社じゃない。だけど所詮、金稼ぎとランクアップのサラリーマンだ。
くだらなさ。それは青島が自身に刺した言葉でもあった。
桶永の存在すら忘れ、青島は遠くに意識を馳せた。
まるで室井をこれからの人生の拠り所みたいに考えていた。
そこに帰ってさえくれば、また明日が明けて走りだせるような気で、求めていた。
必ず受け容れてくれる場所を期待した。
そんな物的なものに頼っているうちは、こんなにも脆く、奪われれば支えを失う。
室井は自分のための柱じゃないのに。
成果が人の価値を決めるわけじゃないと身に沁みたのは、前の会社の時だった。
結果があっても満たされないこともある。
その後、夢を見出し、それを託す相手と出会い、支えたいと思えた相手に出会えたけど、結局その役目は自分でなくても良いわけで
共にと言ってくれたけど
出会えたことを評価してくれたけど
そのこと自体が青島の居場所を定めたものにはならなかった。
自分に価値がないのなら、存在する意味はどこに見つけるのだろう。
愛でも夢でも成績でもない。
ならば人は、何を支えに戦い、生きていけばいい。
なんだか話すことも億劫になり、青島は自分を塞ぐように延びていた桶永の手を退ける。
「いろいろハナシ聞いてくれてありがとう・・・ございます。――もういい、ですから」
一体何を間違えてしまったのだろう。
どこからズレてしまったのか。
遥か遠い湾岸の抜けるような青空を思い描く。
あの日から何度も何度も自分にそう問いかけてきた。遠い出会いの記憶を探り、全ての始まりの大階段を思い出して、隙間を捜した。
でも、歪みの根源を捜しあぐねたって、きっと、何の解決にもならないんだろう。
俺が悪かったんだろうか。
逃げ出したのは、酷かったかもしれない。
俺に関わったせいで、駄目にしてしまったのかもしれない。
誰にもいわないけど、死ぬまであのひとだ。あのひとがいれば他に何もいらない。
本当は、それだけで良かった。
求めすぎた俺は、あのひとの隣に立つ資格も同時に失った気がする。
なんでこうなっちゃうんだろう。
大人だから、真っ直ぐ行けてたものが行けなくなる。
「待てよ、どこ行くつもりだ?」
「それこそ、アンタには関係ない」
店じまいを終えた通りはひっそりと夜を深め、人通りを雪の中に消していった。
雪は音を吸収する。
みんな埋もれてしまえばいい。
「憂さ晴らしの相手は御免です・・・。アンタも俺に関わっても仕方ないですよ・・・。俺、何の価値もない、・・・から・・・」
出会った季節も、こんな冷たい北風の舞う冬だった。
戻せるなら戻したい。
壊れるなんて、一瞬だ。なんてあっけなかったんだろう。
室井の直向きな優しさと、青島を傷痕に眉を顰めて傷ついた優しさが、脳裏に淡く浮かぶ。
仏頂面が、時折不意を付いて笑うのが好きだった。
柔らかく髪を撫でる長い指先が綺麗たっだ。
これまでいなかったひとが、この先もいないってことが決まっただけだ。
それなのに、支えたいと願う心が此処で粉雪と共に荒れ狂うように叫ぶ。
一体どうすれば、この5年分の想いを消せるのだろう。
「ちょっと、待て・・・」
肩をぐいと掴まれる。
何かが少し決壊した。
「俺・・っ、今、結構限界なんです、一人にさせろって・・・っ」
「なんだよ、女か?抜きたいなら紹介するぜ?」
「・・・っ、そんなんじゃ、ない」
喉を少し詰まらせた青島を桶永はどう解釈したのか、その手を離そうとはしなかった。
「女には苦労してないタイプだろうに」
「ほっとけ・・・って。キャリアに誤解されんの、慣れてっけど、俺そんな器用じゃない・・・」
器用だったら、もっと上手くあしらえた筈だったのだ。
室井を傷つけずに、想いを受け止め、背中を押してやれた。
臆病になって、掴むことすら怖くなって、逃げ出すような卑怯なこと、しなかった。
桶永がじっと見据える。
その沈黙が誘導になる。
「俺・・っ、いっぱいいっぱい好きで・・・っ、見てほしくて、頼りにしてほしくてっ、・・・がんばったんですよ・・・っ」
「・・・?」
放されない手に、不甲斐ない過去を引き摺る自分が重なり、思わず、青島の胸中に濁る澱みを堪え切れなくなる。
こんな結末、望んでなかった。
傍に、居たかった。
「でも迷惑にしか、なりませんでした・・・、努力は成果じゃない。分かってるけど」
「・・・・」
「分かってて無茶するほど、神経太くないんですよ俺」
「意外だな。もっと図々しい粋がった男だと思ってたよ。抑制が効かず気持ちを奪っていくだけの」
「・・・、新城さんを見返したいなら一人でやってください。正々堂々と実力で勝負すればいい」
袖口を口元に当て、青島の顔が歪む。
「キャリアに取り入ろうとしていた訳じゃないのか」
「小細工は通用しないんだろ」
肩に乗った手を甲で払い、コートを突き返した。悴んだ足を再び持ち上げ、青島はその場を後にする。
直ぐに背後から桶永の声が追った。
「だったら俺んち来るか?」
「・・・、冗談、アンタも官舎じゃないか」
去りかけた足を止め、気怠そうに青島が濡れた前髪の奥から瞳を向ける。
青島の透明な瞳に反射した電灯の光が、艶めく様に潤ませ、その頼りなげな線の細さと美しさが、淡い輪郭を伴って今生のものとは思えない姿を描く。
桶永は今度こそはっきりと息を呑んだ。
ほとんど誘い込まれるように指を伸ばし、その頬を滑らせ、肌理の良さを確かめる。
そのまま顎へと侍らせ、振り向かせてクイと持ち上げた。
「行く所がないんだろ、囲ってやるよ」
「は・・っ、喜劇だな。仕向けた本人に言われてホイホイ付いて行けるか」
「ほんと勝気な・・・。可愛げのなさは人を惑わせるが・・・・痛い目見るぜ」
「男が可愛くてどうすんだよ、・・・放せよ」
「本部はまだ捜査中だと聞いている。追い出されたとは思えない。お前も逃げ出したクチだろう?」
「・・・ほっとけよっ」
「図星か。どこへ行っても厄介者だな」
「・・・っ」
不意に青島の気配が動揺する。
それを見逃さず桶永は顎を片手でホールドし、強く瞳を覗き込んだ。
「何を怯えている?」
「何も・・・・」
グイと引き寄せられ、押し返そうとした片手を桶永に掴まれる。
至近距離で焔を宿す二つの瞳が見合った。
反発を強めた青島の瞳がより一層輝きを増し、桶永を焼き付ける。
「三年前だ」
「・・・あ?」
「三年前、本部をけしかけた男に興味を持った。前代未聞の副総監誘拐事件だ。覚えているだろう?」
「ッ!」
「忘れるわけがない。特にお前は」
「・・・だったら何だ」
「あの時俺も本部にいた。上に目にもくれない勝負魂を買った。そこからずっと密かに見ていた。だが近付く隙がない。そんな時ようやく舞い込んだのが今回の
特捜だった」
「・・・」
「チャンスだと思ったね」
「・・はなせよ・・・」
「いい眼だ。その瞳に映って見たかった」
「放せ・・・っ」
「その強さでこっちも美味い汁が吸えると期待した」
「アンタはもう関係者でもないだろ、首突っ込むなよ!」
「震えてるぞ」
掴まれた手首を振りほどこうと捩るが、強く掴まれた腕は力の差をを知らしめる。
抗うもう片手も取られた。
それでも呑まれまいと虚勢を張る瞳が、強気に満ち、桶永の雄を苛烈に劣情する。
ドサリと桶永のコートが地面に落ちた。
「価値がないって言ったな。だったら俺が価値付けてやるよ」
「何言っ・・?!」
「どうしたんだよ、キャリアに喧嘩売るわりに、震えてるぞ」
「く・・っ、放せったら・・ッ」
引き寄せられたまま挑発的に睨む瞳は鮮烈で、熱を持つ呼吸がより一層鮮やかに夜に映えた。
「慣れてんだろ、こういうの」
「ちが・・っ」
「やること大胆なくせに初心な演技か?」
「ッ!違うって言ってんだろ・・・ッ!何度も言わせんな・・・・っ」
青島が両手を掴まれたまま、膝を桶永の腹に突き上げる。
呻いて僅かに桶永が背中を曲げるが、傷痕が疼く足では大した効果はなく、両手を解放されるまでには至らなかった。
キッと睨みつける敵意を剥き出しにした負けん気の強い瞳が、雪に美しい華となる。
「ぐぅッ・・・フッ、ホントじゃじゃ馬だな、聞いてた通りだ・・・」
片手を引かれ、桶永が胸元に青島を引き寄せ、頤を強く持ち上げた。
それでも青島の瞳の輝きは失われない。
荒く二人の吐く息が無数の白い靄を大気中に浮かばせる。
「・・・ィ・・ッ、・・!」
「気に入ったよ・・・何より堅物の室井を動かした威勢が気に入っていた」
「だったら何だよッ、俺に用があんなら新城さんを通せッ」
「お前にそれが言えるのか。立てた特捜を想定通りに動かさない駒を上層部は見過ごさない。容赦なく始末されるぞ」
「そんな正論に俺がビビるとでも?」
掴まれた青島の手首に桶永の太い指が強く食い込み、青島は思わず顔を顰めた。
凍えた指先は思うように動かず、振り払うことも出来ない。
「――っに、すんだよ・・っ」
顎を掴む桶永の指先に力が入り、思い切り上向かされる。
「俺は現実主義でも理想主義でもない。新城のように階級主義に封建思想は抱いていないし、室井みたいに下らない啓蒙思想に生きるほど片生でもない」
「何が、目的だ・・・!」
「そんな風にあの男を一心に見つめる瞳が欲しかった。俺こそが欲しかった」
「は?な、何・・・言ってんの・・・?」
「羨ましくて・・・妬ましくて・・・・壊してやりたくなる」
「・・・ィ・・・ッ」
ギリギリと骨が軋むほどに遠慮ない男の力が、青島の顎を締め上げる。
小さく呻き、眉を潜めた。は、と荒い息が喘ぐように溶ける。
「また室井を呼ばないのか?あの時みたいに呼べよ。それとも呼べない理由があるのか?」
「・・放、せ・・!」
「お前が行かないというのなら、俺がお前を攫って行くぞ」
「!?・・・・ざけん、な・・っ」
喉を殺した刹那、手首を掴んでいた桶永の手が青島の肩に回り、顎を掴まれたまま、桶永が顔を傾ける。
「んぅ・・・っ!」
余りの衝撃に一瞬何をされているのか分からなかった。
無遠慮に口唇を塞がれ、男に制圧された汚辱が苛烈な反発を呼ぶ。だが、それを振りほどく力は既にない。
「ぅんっ、・・んんッ、・・ぅ・・・」
凍えた指先が虚しく桶永のスーツを這いまわる。
桶永は男の余裕でぬるりと角度を変え、青島の口唇を隙間なく密着させた。
吸い上げるようにふくよかな弾力を堪能する。
目の前に迫る男を睨み上げながら、青島は必死に逃れようと空いた手で身体を突き離そうとした。
だが、乱暴に塞がれた口は解放されず、抱き込まれた身体は解けない。
降り積もる雪がより一層指先を凍えさせ、きつく抱き込まれた衝撃で身体中の傷口が悲痛な叫びをあげている。
青島の力では肩を叩くぐらいにしかならない。踏ん張る体力も最早なかった。
キャリアは皆日々の努力を怠らない。
それを辛苦の思いで実感する。スーツ越しでも室井以上の屈強な筋肉を感じた。
その逞しい上腕二頭筋ががっしりと青島を抱きかかえる。
「ふぁ・・・ッ、ん・・・ぅ・・・ッ」
抵抗も覚束ないままに、男の口唇が逃げ場も奪う。
まるで熱烈な情愛の接吻のように、烈しく密着された。
僅かな灯りと取った青島の細髪が、ビーズを散りばめたように水滴を光らせ、影となった輪郭が縁取られたように黄金に浮かぶ。
眉を潜め、青島が顔を頑是なく横に振った。
外そうと踠く拙い指先の仕草まで、桶永を苛烈に煽情していく。
腰から抱え込まれると、後頭部を押さえ付けられた。
「んやぁ・・はッ、ゃ・・・、・・ッ!」
上向かされ、肉厚の旨味を堪能していた分厚い男の舌が、ついに決壊を破り侵入を果たした。
息苦しさと悔しさに、青島は視界をきつく閉じる。
「んは・・っ、ふ、・・・っ」
口腔を甚振るように蹂躙されていく。
わざと粘着質な音を立てて、掻き混ぜられた。
口を閉じようとしても、顎を抑えられた指が強く食い込み、無理矢理開けさせられ、委ねられる。
密着した身体が自分の意思では動かせず、ただ、促されるままに明け渡した。
ねっとりとした唾液が絡み合い、呑み込みたくもない粘性の水分が喉を伝えば、青島の喉から嗚咽のような咽びが漏れる。
強い力で舌を吸い上げられ、呼吸が乱れ、酸素を欲して顎を逸らせば、更に深く蝕まれる。
何で突然こんな羽目になったのかも分からない。
嫌悪感を表わされ罵倒されるのは慣れていたが、こんなやり方は初めてだった。
どうして、と思う。
桶永は『貰う』と言った。
どういう意味なのか。口唇を奪われながら青島の頭の中は混乱する。
〝戦えもしないくせに〟という室井の言葉が蘇った。
これも自分が悪いのか。
こんな仕打ちをされるほど、罪を犯したのか。
全ては自分の力無き不始末なのか。
恥辱の奥で強い当惑感が、倫理を揺さぶるほどの現実味もなく押し寄せた。
薄っすらと、青島の睫毛が黒く濡れて震える。
「んゃ、ぁ・・・、は・・・ッ、ぁ・・・ぅ」
甘ったるい強請るような嬌声が漏れ、情けなくなる。
口接は長く、ちっとも終わらなかった。
まだ足りないとばかりに奥歯まで辿られ犯される。
後頭部に回った手が後ろ髪を掻き混ぜ、青島よりずっと厚い胸板と少し高めの上背に、捩じ込まれる形で身動ぎが封じられた。
息苦しさに身体を振れば、まるで強請るように腰を振る仕草に誤解され、塞いだままの桶永の口端がニヤリと厭らしく持ち上がる。
嬉しそうに舌をねっとりと押し重ねられた。
気持ち悪い、悔しい、息苦しい。でも解けない。
「んんっ、ぅ・・・んぅ・・・っ」
時間の感覚も薄れていく。
桶永が支配欲を誇示し覆い被されば、青島の背筋が少し後ろに反り返った。
少しだけ浮き上がった爪先がゆらゆらと揺れ、彷徨う気持ちを表すように、足元を失う。
支えを失った身体が、条件反射で縋るように桶永の背中のスーツを鷲掴み、容易い制圧に、桶永は心底満足感を得た。
悔し紛れに奥深くを舐め回す舌に青島が噛みつこうとした刹那、薄っすらと解放してやる。
「これでお前は俺の物だ・・・」
喘ぐように薄く開かれ荒く息が掠れる青島の口唇が紅く濡れ、頬がほんのり紅く染まった煽情的な貌が羞恥に歪んだ。
雪灯りか、大気中に僅かに溢れる粒子を纏って光る肌が、艶かしい。
芯から男を劣情に狂わせる。
「・・・ぃ・・・や・・・」
薄っすらと水分を湛える瞳ごと奪いながら、囚われ、伏せ眼がちに桶永は否定の言葉を乗せる口唇を再び塞いだ。
雪が二人を世界から覆い尽くしていた。
誰にも見つけられない人影失せた路地は、寂びれたように寝静まり、雪が音を吸収し鎮まり返る。
青島の荒い息だけが鋼鉄の街の一つの息吹であり、桶永の耳を愉しませた。
もう力が弱弱しく大袈裟な抵抗もないままに、青島は桶永の成すがままだった。
甘い唾液に夢中になる。
一目会った時から気にはなっていたが、これほどの逸材だとは想像以上だった。
この年で情動に翻弄されるなど、有り得ない。女と共にした幾つの夜も、快楽だけを得られる有意義な時間だった。
だが、今は意識ごと持っていかれそうだ。男相手に。
「やべ・・・ぇ、な・・・」
一旦口唇を外し、その躯を抱え込み直し、再び吸い過ぎて紅く腫れ始めた弾力のある膨らみに喰らい付く。
仰け反りながら喉元を晒し、僅かに抵抗を見せて尚落ちて来ない姿が、この上なくそそる。
耳元にぬめる口唇を滑らし、耳を玩ぶ。
反応を見ながら、甘噛みした。
「・・っ、・・ゃめ・・」
「お前はこっち側の人間だよ。何、俺がこれから仕込んでやるから・・・」
綺麗に反り返る背筋を指で辿り、躯を戦慄かせる。喘ぐ口唇を深く塞いだ。
容易に嫋々の声で媚びる姿を想像し、劣情した。
その妄想に、このまま蹂躙してしまいたくなった。
連れて帰り、ベッドに組み敷いて、あられもない声で啜り鳴かせてみたくなる。
サクリという雪の音。
「なにやってるんですか・・・!!」
下界を置き去りに、桶永が恍惚と性の快楽に浸り始めた時、誰もいないと思われていた路地に足音が響き、いきなり強い力で腕を引かれた。
青島に巻き付いていた肉体が弾かれ、突き飛ばされる。
シャーベット状になっていた雪で靴底が滑り、桶永は少しバランスを崩した。
「な・・・!?」
驚愕の瞳を開き、よろめいた態勢で膝に手を当てれば、目の前で細川が青島を庇うように肩を支え、こちらを睨みつけていた。
「なにやってるんですか桶永さん!」
「細川か・・・」
「自分が何をしてたか分かってるんですか、これはバレたら降格どころじゃ済みませんよ!」
「脅かすなよ・・・」
「ちょっと聞いてます!?」
「お前がバラさなきゃいい」
「馬鹿言わないで下さいよ、そんなことできませんよ!」
相手が身内と分かり、桶永は態勢を整え直しながら、青島によって乱れたスーツを直した。
ぽんぽんと雪を払う。
細川の横で頬を朱に染め、涙目で睨みつけてくる青島の瞳に遣り切れない憤怒を見て取り
その苛烈な感情を引き出し、自分にだけ向けられている感情の烈しさとその独占に、それすらも桶永の歓びに変わる。
ゆっくりと桶永の眼が眇められた。
「その心配はないだろ」
「・・・え?!」
「ソイツを野放しにしたのは新城の失態だ。それを公にするほど、お前のご主人様は馬鹿じゃないさ」
「!」
ゆっくりと桶永は両手をポケットに仕舞い、不遜な態度で細川と向き合う。
細川も負けじと眉を険しくする。
だが、階級が遥か上の桶永に然程効果はないことは分かっていた。
「とりあえず報告はさせて頂きます」
「どうぞ。俺は保護してやっただけだ。大事にならなかったことを感謝してほしいもんだ。どうせ、お前も新城の命で探していたんだろ」
「――・・・」
真意を探るように視線を向けていた細川だったが、悪意がないことを悟り、少しだけ小さく溜息を落とした。
「そこまでお気づきになられていたのでしたら一報くらい入れてください」
「新城に似て正論言うようになったな」
「貴方にかかれば世の中全ての人が正論ですよ」
内ポケットを弄り、ああ今日は煙草なかったわと呟く顔に、細川は更に呆れた視線を投げた。
「煙草、普通は止めてるものでは?」
「女の前と、つまらない夜だけな」
「ほんっと昔から変わりませんねぇ。青島さんになにかあったら新城さんにこっぴどく怒られてくださいね」
「あんなやつ怖くもないわ。小童め」
「ったくもう・・・・困った人だなぁ、ああ、そうだ、大丈夫ですか、青島さ・・・・あ、あれ?」
ほんの僅かな隙だった。
忽然と青島の姿は消えていた。
後に残された二人は、思わず顔を見合わせる。
「青島さん・・・?あれ、どこに行っちゃったんだろ?桶永さん、見てました?」
「いや・・・煙草探してたから・・・・」
まるで音もなく、この雪に溶けるように、青島の姿はなくなっていた。
その主を捜すように、置き去りにされたコートだけがくしゃりと道隅にうらぶれていた。
雪が、さまざまな想いも音もその結晶の中に吸い込み、彷徨う都会の姿を覆い尽くしていった。
4.
『今何処ですか』
『首都高沿いに真っ直ぐ来て・・・・麻布を越えたところだ。・・・引き返すか・・・』
『皮肉なものですね・・・そのまま芝公園方面へ向かってください』
『何?』
新城の苦笑交じりの声に、思わずケータイを強く宛て、室井が聞き返す。
『東京タワー付近で細川が青島と遭遇しました。ただ、取り逃がしたと。そんなにまだ遠くへは――』
『いつだ!?』
『たった今ですよ』
『そうか!・・・分かった・・・、そっちへ向かう』
『闇雲に走っているようで、自然と似た方面へ向かうなんて、やっぱり何か符号があるんでしょうかね』
『冷やかしは結構だ。・・・それより良く見つけてくれた』
『桶永警視正が偶然いたようでしてね』
『桶永?』
粗方の事情を大雑把に聞き齧り、室井はケータイをポケットに仕舞った。
雪は本降りとなって地面を白く埋め尽くし始めている。
少し濡れたコートが重い。
この大都会で、闇雲に走ったって、自分たちが出会わない訳がない。
取り逃がした不始末に、確かに絶望も感じた。
だが走り続けている内に室井も思っていた。
―この大都会で、闇雲に走ったって、自分たちが出会わない筈がない―
心の赴くままに。
彼ならどっちに向かうか。何を思うか。何を目指すか。右か左かという些細で愚盲な感性の問いにでも、二人の間になら答えを見つけられる。
伊達じゃない。
共に走り、ぶつかり、そしてあの部屋で過ごした時間は、決して伊達でも体裁でもないのだ。
同情だろうが憐情だろうが、上等だ。
自分たちならきっと、必ず、どこかで、出会える。
その幻想みたいな理由に本気で賭け、頭を張り巡らせ、室井は心の赴く方へ、街を駆け抜けた。
*:*:*:*
ごしごしと、何度も何度も口唇を袖で拭う。
拭っているのに、男に塞がれた熱や感触が消えない。
青島もまた、夜も静まった都会の街を、ふらついていた。
職質されないのがもう不自然な出で立ちにまで薄汚れていたが、幸か不幸か、雪に染まる街角で青島に気を止める者はいなかった。
誰もが素知らぬ顔をして冷たく通り過ぎていく。
悔しい。苦しい。ただ、惨めだった。
一生消えない烙印を刻まれたような酷烈な予感を伴い、限界まで打ちのめされた。
同性同士の接吻など、所詮冗談のなれの果てだ。男だがら純潔に理想など抱いてはいない。
しかし今は、なんとか誤魔化せていたつもりだった穢れている自分の傲慢を、淫らに暴かれた気がした。
先程の桶永の強淫な仕打ちが脳裏を苛む。
男の荒い煽情された息遣い。獰猛な性の圧力と、それを自分に向けられる恐怖。
淫戯を押し付けられた屈辱が、耳に躯に残る。
力や能力では敵わないものなど、社会には幾らでもある。
それでも自負する何かしらの支えを伴って、人は己の小さな矜持や意味や、足りない分を補い合うのだ。
自己欺瞞かもしれないし、逃避かもしれない。
それでも人は、誰もがそんなに強くはないから、縋るものとか拠り所を抱き、誰かに認めて貰えて、そうしてまた明日を迎える。
ほんの少しの理想を夢見て、認めた人が認め返してくれたら、誇らしくも幸せにもなれるのだ。
それを潰された。
望まぬキスに翻弄されたことは、室井の傍にいる資格も価値もないと戒められたも同然だった。
足掻くことさえ封じられたような、能力も才能もない差を見せ付けられたことが、室井に、努力さえさせて貰えなかった事実と重なってみえた。
男の淫戯に流され溺れ、この意識に呑まれたら、これが最後だと思った。せめてもの痛みに堪える躯が、青島を支えていた。
どうして、室井の傍で同じ世界が見れていたなんて幻惑に囚われていられたんだろう。
こんなにも惨めで憫然な想いをさせられ、それが飽和する。
青島はズルズルと重い足を引き摺り、宙を見上げた。
どこも灰一色だ。
痛覚が支配する身体はもう自分のものじゃないみたいだった。
失くした欠片が見つからない。
またごしごしと口唇を拭って、視線を投げた。
どんよりとした鉛色の雲と、少しだけ盆地になっているらしい地形なのか、立ち並ぶ鉛色のビルの向こう側が見渡せた。
小さくジオラマみたいに広がるマッチ箱が皆同じ色に染め上がる。
その先に広がる、あるものを見つけ、足が無意識にそちらへと向いた。
*:*:*:*
額の汗だか雪だかを拭った。
すっかり落ちてしまった前髪が鬱陶しい。
〝官僚である以上、他人に舐められないよう、身形から威嚇しろ〟
そう、助言してもらったのは、警察学校だった。
喪失の痛みも恐怖も、何も知らぬありふれた若葉の中で、深い意味など実は然程ないことも知らずに、感情を揺さぶるほどの現実味もないままに
鉛色の建物の中で従った。
膝頭に両手を当て、室井は荒い息を整える。
すっかりとスーツも着崩れ、前髪も額にうねっている。
「くぅ・・っ、さすッがに、きついな。・・・この程度で息が切れるようになるとは・・・ッ」
あの強さに惹かれる。
思い出せない笑顔を必死に記憶の奥から捜しあぐねる。
俺は、「良い人生だった」などとあんな顔をして笑えない。青島と出会えてから笑えなくなった。そんな強さはないし、未練も求める心も多すぎて。
ずっと一緒にいる未来を造り出したかった。
俺の方が好きなんだと、強く強く思い知らされる。
「はぁッ、はぁ・・・ッ、」
雪が頬を叩く。
もう嫌だ。護ったつもりになって傷つけているのも、傍にいるつもりになって逸れていくのも。
こんな形でこの眩しかった季節を終わりになんて、したくない。
以前よりずっと、その想いが鋭く尖る。
良かれと思って動くことでまた彼を傷つけるのかと思ったら、怖くなった。そしてまた逃げて。
追い続けた先がここなのか。
何度繰り返せば気が済むのか。
きっともう、青島じゃなきゃだめなんだ。それは立っていられないほどに、室井という本質を最早濁してしまうほどの欠片となって埋め込まれている。
相反する像の融合は、いつしか曖昧な関係に紛れもなく弾効を突き付けていた。
誰よりも俺は青島に認めてほしかったんだ。
ああ、そうだ。青島に見つけて貰えて、嬉しかったんだ。
「好きだ」
初めて言葉にしたら、胸が張り裂けそうになった。
東京タワーが煙に霞む。
展望台から上は厚い雲に隠れて見えなかった。
東京のシンボルのこのタワーは、お馴染みの深緋色を噴霧の大気に朧に照らし出し、強く美麗なフォルムを雄大に起立させていた。
高峻なその姿を、眼を細めて室井は見上げる。
ぎゅっと拳を強く強く握り締める。
終わりであるなら、きちんとケジメを付けて終わりにしたい。
綺麗な終わりに、させてくれるだろうか。
今はただ、青島だけのために。
こんなに追い込まれてから、自分の眼を逸らしていた気持ちに気付くなんて。なんて滑稽なのだろう。
もう逃げるのは止めだ。何度思っただろう。その度に爛れて持て余す熱に怯えて恐怖だけを抱き幻影を追った。
終わらせ方を、知らなかったんだ。
今、そのためのどんな苦労も惜しまない。
誠実な想いのままに駆け抜けた若い恋が、雪嵐に呼応して胸を抉った。
青島と出会って、引くことの深さを知った。
遠き古里で描いた泡沫の恋は、この雪に煽られ、失うことの寒さに立ち竦ませる。
大事に出来なかった自分の未熟さを、心底呆れ果てる。
一体何を間違えてしまったのだろう。あの日から何度も何度も自分にそう問いかけてきた。
遠い過去の記憶は血に濡れて、全ての始まりは桜に舞う。自分がうまく立ち回っていれば、あの惨劇は起こらなかったのだろうか。
いつも傷つけてしまうことしか出来なくて。
そこまで賭けてくれる男に、一体自分は何を残せただろう。
雪は、さまざまな想いをその結晶の中に閉じ込め、美しく過去を幻想に変える。
甘い声音で自分を呼んだ男を、瞼に思い描いた。
名を返しそうになった薄い口唇を、室井はグッと噛み殺す。
正々堂々と立ち向かい、玉砕するだけの誠意がなかっただけの男に雪が降り積もる。
覚悟の断末に雪が華になる。
新城の声が僅かに蘇った。
この場に不自然にも、室井の口端が少しだけ滲む。
同胞者の憐みは、凍える雪の中にあって、淡く室井の心に降り積もり、少しだけ室井の痛みを和らげた。
整いだした呼吸で、一度だけ大きく深呼吸をする。
顎の水滴を拭い、四方へと視線を走らせた。
街の向こうに海が見えた。
ここから先は少し地形が盆地になっているらしい。
どす黒くうねるような東京湾が、まるで心のうねりを再びなぞるように遥か彼方に広がっていた。
灰色の雲が低く立ち込める。
暫くじっと見て、あの地で起きた記憶と過去を封じるように、室井は背を向けた。
二、三歩足を踏み出してから、また立ち止まる。
「東京湾・・・」
ゆっくりと振り返った。
5.
室井がその工場地帯を通りがかると、既に閉門した敷地は人影がなく、航空障害灯が無機質な赤い光を点滅させていた。
ゴォォと聞こえる獣の唸りのような音は、風の音か。それともまだ何処かの稼働音なのか。
心の恐怖を嘲笑うように、雪風に巻き上がる。
白い電灯が等間隔に照らす歩道を、小走りに室井は海へと回っていく。
桟橋に続く鉄柵で、黒い塊が動いた。
薄っすらと白く敷き詰められた雪に足跡一つなく、黒い染みのように、或いは影の一部であるように佇むその塊を
だが、室井は遠目であっても一目でそれが彼だと分かった。
彼だ。本物の青島だ。
室井の心拍数が急浮上する。
手懐けるのはそう簡単じゃない。気は強く、必要以上に近づくと逃げるし、擦り抜ける。
本心が掴めず、その鮮烈な瞳で妖女のように周りを惑わせる。
青島に誰もが惹かれる心理は、誰より室井が身を以って実感している。モテていることも承知の上だ。
こんな存在を、形だけは酷く親密な関係でいた不自然な距離感を、今更ながらに可笑しく思う。
過去を美化するでもなく、現在に固執するでもなく、ただ、淡々とそこに今存在する彼を、室井はじっと漆黒の瞳に映した。
海辺に面したフェンスに腰掛け、青島はただ海を眺めていた。
チラチラと埃のように牡丹雪が散っていて、微かに潮の混じる海風が肌に突き刺さる。
辺りに人影はなく、閑散としている遊歩道は、灯る電灯までうら寂しげに人を誘惑した。
「こんな所にいつまで居るつもりだ?」
見知った幻のような影に声掛けすれば、影はピクリと立ち上がり、こちらを振り仰いだ。
雪が舞って、その中に、焦がれ求めた幻がそのままそこにいた。
約50mの距離を残し、雪が斜に描く世界の中、今、二人は正面から向き合った。
