東京変奏曲Ⅲ








第八章
1.
暗闇が蝕むように足元から躯を這い上がり、喉元まで侵食し呼吸を奪われる。
無重力の閉鎖空間は上も下もない。呑み込まれて硬直した四肢が好き勝手に腐食していく。

無尽蔵の恐怖に慄き、青島は飛び起きた。

「・・ッ、ァッ、は、ぁ・・・ッ」

大量の汗を掻いていた。
胸を掻き毟るように、パジャマのフロントを乱暴に掴む。
真っ暗な闇が起きても消えていない。・・・・隙間もない厚手のカーテンの裾から漏れる外の灯りは、まだ世界が夜明け前であることを伝えていた。

「ハッ・・・、ハ・・・ッ・・・」

荒い息を整えながら青島は部屋を見渡す。
胸が息苦しい。息が苦しい。潰れるように痛むのは、夢のせいか、それとも酸素不足か。
苛む馴染みの夢の記憶は、半分現実だ。

「くっそ・・・」

挙動不審に辺りを見回し、ここが完全なる現実であることを確かめる。

穏やかな日常が記憶を薄れさせても闇は災厄を好む。
意識を失った夢の世界では、引き摺り出されて、制御の効かない中で、自由を奪われ意思を勝手に覚醒させられる。
逃れられない悪夢は、まるで幻も現実も混濁させた。
不確かな中で、恐怖だけが確かなものとして増殖する。


蹴飛ばした布団を手繰り寄せ整え直す。

隣で眠る男の規則正しい寝息に、乱れた波長が同化し、次第に落ち着いていった。
誰かの気配が傍にある。それが異常なほどに、安心させる。

青島はようやく整ってきた呼吸を、大きく吸って、休息させた。
この夢を見るのは初めてではない。繰り返し見る、いつもの内容だった。
・・・・喉が渇いている。
ベッドに腰掛け、両手を付いて怠い身体をゆっくり持ち上げる。
ここに担ぎ込まれた時はどす黒く腫れあがっていた両手首も、今やすっかりと消えている。
時は、確かに自分の上で流れている。


「眠れないのか」

突然聞こえた声に、びくーっと飛び上がった。

「え、え、起きてたんですか」
「どこへいく」
「ぁ・・・、何か、飲もうと・・・思って」
「・・・・持ってきてやる」
「ぇ、でも――」

青島が何か言う前に、室井がもそりと起き上がり、キッチンへと行ってしまった。
しくじったなと思いながら、ベッドに腰掛け、垂れ下がった前髪を掻き上げる。

あまり、室井には知られたくない。


「冷たいものが欲しいかもしれないが、温かいものの方が身体が休まる」

ホットミルクを手渡された。
まるで赤ん坊扱いだなと思いながら、ぺこりと頭を下げてマグカップを掴めば、強い熱が手の平から伝わり、湯気が甘い匂いを芳せる。
自分以外の触感が、今ここにいることを実感させた。
痛みでも辛味でも、今は刺激が欲しい。

ほぅ、と甘い息を落として、青島はミルクを口に含んだ。

熱い湯も、口腔から心地良い刺激を与えてくる。
はちみつの甘さが、優しかった。


室井が不意にベッドに座った。

「起こしてすいません・・・、寝て良いですよ」
「・・・ああ」

そう言いながらも、室井は動かない。
何度か躊躇った手の平で、やがて青島の背中にゆっくりと触れた。風がそよぐように擦られる。
なんだか泣きたくなった。


「寝てて、いいのに・・・・」
「一緒に寝てみるか」
「・・・・」

なんとも奇妙なお誘いに、青島は微かに笑みだけを浮かべる。
子供じゃないんだからと冗談にしようとして、でも、言葉は何も出て来なかった。

こくんと、ミルクの甘味が喉元を通り過ぎると、熱が腹からほんわかとさせてくる。


「・・・知ってた、んですか」
「・・・・」

答えないことが、答えだった。
失敗したなぁと、また思う。
俯いていると、くしゃりと髪を掻き混ぜられた。

「寝るぞ」
「・・・・」

胡乱な目で見上げれば、闇に慣れてきた視界に室井の顰め面が見えた。
何かを飲み下し、口唇を噛んで、その顔を見上げる。
藍色の空気の中で闇色の瞳が艶めくのが、嫌だった。
光すら全部吸い込まれ、胸の内のどす黒いものまで曝け出されそうだった。

「着替えた方が良い」

穏やかな手付きで飲み干したマグカップを奪われ、その手で室井の布団に誘われ、パジャマのボタンを上から外されていく。
流石に苦笑して、自分でも下から外せば、その間に室井がチェストから新しいパジャマを用意してきた。
何故か室井と色違いで揃えられている綿のパジャマが、洗いたての触感を肌に伝える。

穏やかな手付きで身体をそっと横たえられた。
不自然なのに、自然なままに委ね、自分じゃない温もりに包まれる。

室井がベッドから上掛けやら毛布やらを引き寄せ、それを身体に巻かれると、不思議と優しい睡魔が襲ってきた。
室井は何も語らなかった。
寝ぼけた不明瞭な思考のまま、青島はその誘惑に身を委ね、簡単に眠りに落ちていった。









2.
『あ、新城さん?俺です俺~、青島です~』
『・・・・何の用だ』
『釣れないなぁ、もう少し他に言うことないんですかぁ?元気か~とか久しぶり~とか』
『貴様と世間話するほど暇ではないんだ』
『でも俺からかかってくるって分かってたでしょ』
『・・・・聞いたのは今朝だ。そんなに私に詰られたかったとは貴様も相当だな』


憎まれ口を叩いても、受話器の向こう側の男はのほほんとした気配を漂わせて笑っている。
わりと甘い声色に、少しだけ意外な気がした。


『事件。どうなったのか教えてくださいよ』
『どうにか。なってたら室井さんの方から聞かされると思わないか』


昼下がり。
早速掛かってきた電話は丁度昼休憩の最中で、まるでタイミングを読んだかのようなコールに、これが偶然なわけはなく
恐らく室井からのサインがあったと匂わせた。
青島が連絡を取りたがっていると室井から聞かされたのは登庁してすぐで、恐らく事件の概要に業を煮やしたのだと推測する。
辛抱の足らない性格は、やはり所轄体質なのか。
余りに意外性のない想像通りの質問に、変わらぬ何かを感じ取る。

あっけらかんと軽やかに聞こえる口調は依然として平和そうで、新城は思わず口角を持ち上げた。


『つまり何の進展もないと』
『聞きたいのはそんなことじゃないだろう』
『ま、ね』
『言ってみろ。聞くだけ聞いてやる』
『んじゃ遠慮なく。俺、そろそろ復帰しちゃ駄目?っすかね?』
『医者から止められているだろ』
『でも外出くらいできそうなんですけど・・・、そっちで許可出さないようになんか仕組んでんじゃないの?』
『悪いが暇じゃないと言った筈だ。仕組むほど興味もない』
『むー』


素直に剝れる男に、新城の警戒が解かれ、ポケットに手を突っ込みながら後ろの銀杏の木に背中を預けた。
先に中座していく一課の捜査員たちが一礼して去っていくのを、目線でやり過ごす。


『奴らの居所、ホントに掴めてないんですか?だったら俺を使えない?』
『何かをやりたいということか』
『あったりまえっしょ。でもまず、自宅に戻りたいです』
『――』

自宅が危ないと言えば、見張られていることを連鎖的に悟り、家族や所轄も危険に晒している現状に、聡いコイツは直ぐに推理するだろう。
室井は確かに現状について詳細は伝えていないことが伺えた。
新城は巧みに質問を変えた。

『退屈したのか。そこの居心地が悪いのか』

だがそれが、思った以上に急所を突いたらしい。
急に受話器の向こう側の気配が変わった。

『悪くは・・・・ないですけど。良くしてもらってるし・・・』
『仲良しの室井さんと一緒にいられるんだぞ。適当に楽しんで誇大妄想でも語ってればいい』
『妄想ってアンタ・・・、まあ、こんなに近くで話せる機会ってなかったですしね・・・』


どうも歯切れの悪い口調だ。
何か、二人の関係性で不具合でも生じたか。
室井から聞いていた様子とはだいぶ違う。


『のんびりしてればいいだろ。何が不満だ。お前がそこに閉じこもっていてくれればこっちも余計な心配をしなくて楽だ』
『不満っていうか・・・』
『なんだ』
『ちょっと・・・煮詰まってる・・・?』

考えあぐねて絞り出したような答えは、見当違いのようで的を得ていそうだった。
ふむ・・と腕を組む。

『まあ、部屋に閉じこもってばかりでは、お前のような野生児は鬱屈するんだろうが』
『はは、・・・まぁねぇ、ここなーんもないし。殺風景で面白味もない部屋だし。俺、黴になっちゃう』
『それは元からだろ』
『ひでぇ』

くすくすと笑う吐息からは、もう不安定な様子は辿れない。
ただ、やはり少し、記憶の中の青島よりも元気はない気がした。

『どんな状況でも楽しめるのがお前の得意技だろ』
『ん~?だって、あのひと、仕事じゃん』
『お前の面倒を見ることか?まさか。楽しんでるだろ、あれは』
『なにそれ』


くすりと笑う吐息に混じるやるせなさが、虚しく届く。
何だろうと思って、新城はさり気なく探りを入れてみることにした。
半ば、興味本位だ。
後日室井を揄うネタの一つでも上がれば儲けものだ。


『気は合うんだろ、どうせ』
『そりゃね。俺たち名コンビですもん』
『だったら別にいいだろ。お互い満足しているなんて理想的で気分が悪い』
『棒読みですね~。でも・・・・ほんとのとこはもう分かんないですよ』
『・・・・』
『男同士だから、そんなに踏み込める訳でもないですしね~、俺もぅ何言えば良いのかわっかんなくなっちゃった』
『で、逃げ出したい訳か、友情ごっこが笑えるな』
『あーのーねー、事はそんな単純じゃないんですよ。アンタも暮らしてみれば分かるよ』
『言えばいいだろ、直接。いつもみたいに』
『あの。俺そんな不躾に思われてる?』
『割とな』


あっさり肯定してやると、向こう側でげぇえと苦情の声が響いて、新城は少し可笑しくなった。

何となく、青島の気詰まりの原因が分かった気がした。
室井の過剰なまでの情熱は、真摯で真っ直ぐな分、ある意味重く深く、一途だ。
それは仕事面でも良く分かる。
手を抜くということが、あの男は出来ないのだろう。
だが、青島はその一心なる情熱を受け止められる器を持つ相手だと思えた。

その意味で、新城もまた仕事面での室井の直向きさは密かに尊敬もしていたし、同じ強さを持って臨んでいるからこそ理解も出来るし
環境が整えば、自分もまた受け止められる側の人間なのだろう。
だからこそ、室井と青島の擦れ違いの要素に察しが付く。
要は、気付いているかいないかの問題だ。

そのことを、青島自身が気づいていないから、単なる社交辞令として重さだけが残っている。
情愛が形式の様相を深めていく。
何だか初めて青島が身近に感じた。


『だからですね、署も心配だし・・・連絡取っちゃだめ?』
『お前がいない方がそっちは回るんじゃないか』
『そんなこと――ないもん』


室井と青島を離れさせることは、果たして現実的だろうか。
他愛ない話を続けながら新城は頭を巡らせる。
一倉の提案は正直悪くないとは思ったが、リスクを冒してまで得るメリットは少ない。
もっと、警察関係者以外の保養所が理想なのだ。
それでもタイムリミットは近い。
官舎が危険になりつつある今、青島の方から相談を持ちかけられた事態は、ある意味好機なのかもしれなかった。
そんな新城の思考を読んだ訳でもないだろうが、青島がタイミングよく声色を変えて恐る恐る聞いてくる。


『ねぇ・・・俺の居場所を誰にも言っちゃいけない理由って・・・・?何なの?』
『――』
『もしかして、まだ狙われてんの?』


少しだけ考察し、新城は性急な判断を避けた。
移動を確実なものとすれば、青島の居所は白日の元になる。
何より、事態の切迫性を青島自身に知られることが、今一番の危険要因に思えた。

『病院の事件も俺を狙ってたんでしょ?捕まえてないの?』


とりあえず、青島が一番堪えそうな言い回しで押さえ込む。

『室井さんの存在を上にも知らせていないからこそ欺けた。だが上はそんなアドリブは好まない。ここでお前に勝手なことをされたら、室井さんの立場が悪くなるぞ』
『やっぱり俺、おにもつじゃん』
『知るか。今に始まったことじゃない』
『けどさぁ』
『お前が逃亡した日の件だが、あれでお前が死んだことになっているんだから、うろちょろされたら周りが腰を抜かす。時期を待て』

何やら不満げな唸りが聞こえたが、どうやら納得したようだった。
思えば、室井を使えば青島を制御できる一方、青島は乱暴で威圧的な制圧でなければ、割合素直であることに気付く。
だからこそ、扱いづらいのだが。


『ねぇ、あの。あのひと仕事ヤバイんじゃない?手伝いってどのくらいの配分?』
『全面協力だ』
『全面?!指揮官は新城さんですよね?』
『表向きはな』
『抜擢された理由って?俺の世話、誰が決めたんですか?』
『そこは色々偶然が重なったが――』
『なんか絶対貧乏くじ引かされた気がする・・・』
『・・・・』
『やっぱり俺、此処出たいですよ。自宅も駄目ならそっちで別のアパートでも用意してくださいよ。それなら文句ないっしょ?そっちの方が官舎にも迷惑かかんないんじゃないの』


それでもこの一点だけは、何故か青島は引かなかった。
どうしても出たい理由があると見て良いだろう。
いや、室井の手を煩わせないためか。
偶然にも官舎の件を持ちだされては、勿論、新城に異論があるわけはない。

新城が仕向けた部分もある手前、少し分が悪く、新城の瞳が不穏に染まった。
どうするか、と考えていて、ふと、新城はあることを思い出した。

『この間・・・・』
『え?』
『この間、女が来た』
『女?』
『所轄の女だ。お前のことを聞きにきた』
『――』
『言伝がある』
『・・・・何?』
『さみしい、だと』


電話口の向こう側から息を呑む音がする。
それから、やるせない吐息が耳に届いた。
そっかと一言漏らす口ぶりは、そっちの方が寂しそうに響いた。
名を告げずとも相手が分かった様子に、引き裂かれた苦しみも見て取れた。


『居場所を悟らせないという条件ならば、お前の方から連絡を入れてやれ』
『そか。ありがと、ゴザイマス』
『なんだ、妙に殊勝だな』
『新城さんこそ、どうしたの』
『お前があまりにしょげているから調子狂った』
『うぇっ?しょげてないですもんっ』
『嘘吐け』
『ちょっとホームシック!』

それで全ての憂慮に応えられるのならば、良いのだがな。

『お前にそんな可愛気のある感情があったとはな。引越しの件は考えておく』
『ぇ、ちょっ――』

文句は言わせず、言いたいことを言って新城は通話を切った。




*:*:*:*:*

切れた電話を溜息を付いて、青島は見降ろす。

言いたいことは告げられたし、目的は果たせた気がする。
電気も点けない部屋の中央で、ぼんやりと立ち尽くした。

外は朝から灰色のどんよりとした曇天で、寂れたような雰囲気が冬の乾燥した空気を重くした。
気温も低い。
今日はこれから雨が降りだすのかもしれない。
いつかもこんな朝を室井と迎えたことを思い出す。


もう限界だ――
どこまで行っても、室井の心の奥が見えない。
見えないから、仮面のような優しさが嘘のようで、誤魔化されていくようで。
曖昧に澱んでいく。

あそこまで開放的でありながら、決して室井はその深部を晒すことはなかった。
空気を押しているような手応えの無さ。
隠されてしまう室井の本音は、まるで夢の中で暗闇に押し潰されているのと同じ感覚だ。
見え難い優しさは、どこか空疎で、どこか願望で。

どうしてだろう。
昔はもっと、ヒリヒリするような灼熱を感じていた。
命の燃焼がリアルで、魂が震えた。
死にかけて、終わりだと思った時、怖くて瞼の裏で縋った幻。
一目だけ、一人で死ぬのが怖い俺に、最期に一目だけ。


その願い事が造り出した、これは性質の悪い夢の続きに思える。
青島に全てを委ねているようで、でも、室井は決してぶつけてはくれない。

エロ本すら見つけ出せないこの部屋と同じだ。







3.
「家。出ようと思いまして」
「別に必要ないだろう?」

夕食後、淹れてもらったお茶を啜りながら、いきなり切り出したら、室井が頬を強張らせた。
表情の乏しい男でも色々変化はあり、青島にも読み取れるようになってきているのが、好ましいことなのか悪いことなのか。
何とも言えない笑みを浮かべ、青島は上目遣いで伺う。
因みに今夜は玄米茶だ。


「ん~、でも新城さんの了解も取れましたし」
「了解・・・?」


そんな筈はないという顔をする。
やはり、青島の背後で何かが動いているのは間違いないようだ。

事は急ぎたかった。
だから、今朝の電話報告と共に、室井に探りを入れてみることにしたのだ。
事件はまだ、終わっていない。
背景と現状を知っておきたかった狙いもある。

営業時代、相手の反応を窺うスキルは必然的に磨かれている。
後はそれが官僚である室井に通用するかどうか。根拠のない自信はある。
読み間違えるわけにはいかない。
タイミングも図る必要性がある。
青島は、じっと漆黒を窺う。


「どこ行く気だ?」
「それはまだ」
「・・・・何か、居心地が悪かっただろうか」
「まさか!とても良くしてもらいまして」
「なら、まだここにいればいい。事件は解決していない。無闇に動くのも危険だ」


自宅というフレーズを使わなかったことで、こちらの事の信憑性は伝わったようだ。
室井みたいな論理思考タイプは、現実性を積み重ねていけば、感情に訴えるよりも早く、崩せる。

背筋がピンと伸びる綺麗な座位を、こんな風に見るのはもう見治めかもしれない。
じっと瞼に焼き写す。


「ん、それはそうなんですけど、でも俺ももう元気だし、ここにいる意味がないなぁって。逃げ切れるのがゴールのかくれんぼなら、隠れ家はどこでも良い筈だ」
「事件を早期解決に導けないことはこちらの力不足だ」
「そんなこと言ってません」
「もう少し、ここにいろ。傷が治ったといったって、まだ君は歩くのがやっとだろ。いざという時第三者の目があったほうがいい」
「でもここ、官舎です。もしいざという時があるのなら、他のキャリアさんたちに迷惑がかかります」
「だから君の安全も多少、保証される」
「そんなことしたら、益々俺、厄介者ですよ。嫌ですよ、恨まれんのは。それにむしろ定住地を造らない方が奴らも誤魔化せる」
「だが、君はまだ戦えない。凶器を持たない子供を野外に放つのは自殺行為に等しい」

皓々と明かりがついたままの部屋で淡々と言われる言葉はどれも利他的で、事務的だ。

「新城に何か言われたのか」
「いえ、特には。これ以上、室井さんの手を借りたくないんですよ」
「・・・・、困っている時に助け合う存在ではないということか」
「そんなんじゃない」
「だったらなんだ」
「だって・・・・、俺が甘えさせられるたんびにあんたが悪く言われる」
「悪く・・・?」
「まさか無自覚なわけないでしょ。大体ここに匿われてるって、ものすごく不自然ですよ?」
「だから好都合なんだ」
「え?」
「――、キャリアに、だ」


少し、口籠る仕草が、何か違和感を抱かせる。

隠されることが嫌な訳ではない。
男なのだ。仕事で言えないことなど幾らでもある。
でも。


「俺と室井さんの繋がりはキャリア連中には有名でしょ。俺が動くたび、彼らも刺激しちゃいます」
「もう慣れた。目が届かない方が不安だ」

仕事だから。
分かってる。そんなことに駄々を捏ねたい訳じゃない。だけど、胸が歪み軋み始める。

言ってくれないことが辛いんじゃない。
一人抱える室井が、悲しいのだ。
そして、隣に立たせても貰えない自分が、思った以上に頼られないことが、惨めで。
だけど、そのための努力もさせてくれない。


「君は安心してここにいればいい」
「だから・・っ、だからそういうとこがしんどいんですよっ」
「・・・・え?」
「・・・ッ」


思わず声を荒げた失態に、澱み始めた感情が噴出しそうになる。
室井を詰りたいわけじゃない。
湯飲みを握る手に力が入っていた。


「私に・・・気遣われるのが嫌なのか?」
「嬉しいんだけど、苦しいんです」
「よく分からない」
「俺だって分からない」
「・・・・」

暫く黙し、青島を瞳に映していた室井が、やがてほぅ・・・と重たい溜息を吐いた。

「なにか、辛い想いをさせたんだな・・・。君はガンガン突っ走る割りに、肝心なことは口にしないし・・・私も察しの良い性質じゃないから・・・」


深い寛容を見せられ、胸が詰まった。
ここまで言っても、室井の感情には届かない。どろんと交わされ、逃げられる。
ズブリと何かに埋もれていくような錯覚を抱いた。まるで悪夢の続きのような感覚に、どこが現実なのか曖昧になる。
苦しくて、痛くて、鉛のような何かが圧迫してくる。
逃げ出すように腰を上げた。


「そゆとこっ、が、も、ヤです」
「青島・・・・?」

続けざまに立ち上がった室井が、テーブルを回り込み、後ろから二の腕を掴んでくる。

「青島、」
「じゃ、室井さん、俺がもし、あーしてこーしてって我儘言い放題したらどうする?困るのそっちじゃん」
「・・・、どうだろうか・・・」
「は?」
「そうして貰えた方が嬉しい気がする・・・」
「なな、何言ってんの?!」
「嫌か」
「ヤに決まってんだろ!じゃ、もし俺がずっとここにいたいって言い出したらどーすんの?」


目を剥いて室井が固まる。
口籠った室井に、青島は痛んだ自分の胸からも目を逸らした。
やっぱり室井は先々のことを考慮していたわけではなく、今に必死だっただけなのだ。
正確には、事件捜査に。


「それは――、気に入って貰えていたのか?」
「・・・・っ」


優しい台詞に瞼の奥が熱くなった。
二の句を告げられなくて、只一人感情に走っている自分がみっともなく思え、でも今口を開いたら口走りそうなのは鬱憤ばかりで
青島は二の腕を掴まれたまま、顔を横に向ける。

洗いざらしの前髪が鬱陶しく視界を遮る。
掴まれた二の腕が熱い。

冷たい沈黙が二人を取り巻いた。


近付くほどの露わになるのは、貪欲なまでの爛れた感情で、どろどろとした胸の罪と呼応する。
濃密に交わる感情が、有りもしないことを口走らせる。
喪失に伴う恐怖も怯えも、室井に乞われて振り払えない腕も、みんな溶けて散り落ちる。

何かがじりじりと焦れて、導火線に付けられた火がもう残り少ない理性を追い立てているようだった。


「放せよ・・・」
「・・・青島・・・」


その時、何かを言い掛けた室井を遮るかのように、突然、室井のケータイが鳴り出した。

機械音が強張った空気を振動させる。
だが、室井は青島の変化を凝視し、出ようとしない。
長々と、無機質なコール音が二人の間を切り裂いた。


「電話。・・・・鳴ってますよ」
「・・・ああ」
「しごと。大事でしょ」
「・・・・」

電話のベルが急き立てる。

「出ろって!しごとっ!放りだすような真似すんな!」
「――?」
「俺にあんたの足を引っ張らせる真似させんなっ。あんたは・・・あんたはずっと俺に対して仕事してきたんだろ!それで合ってるよ、完璧だったよ、早く出ろよ!!」
「――」

少し感極まった青島の声が冷たいコール音に重なり脈動する。
室井がまるで見定めるように青島を凝視していた。


電話が止まった。


「・・・・切れちゃっ・・・たじゃん・・・」

さっきより一層沈黙が重く纏わりついた。


「私は君との生活を、仕事の延長とはいえ、そんな――つもりで接してきたわけじゃない」
「仕事じゃなきゃ・・・なんなの」
「人として、向き合っていなかっただろうか。この生活に愛情を込めてたつもりだった。私達に確かものはなかったか?君だって少しは――」
「愛情だと思った?同情だよ、あんたの茶番の」
「・・・ッ」
「行けばいい。あんたを待ってる人がいる、あんたを必要としている人がいる」
「君には必要ないか」
「最初から呼んでません。ずっと・・・放せって言われた。離れろって言われた。傍にいるだけで、邪魔だって・・・!もういけばいいじゃないですか。あんたは充分役目を果たしたよ!」


煽られて、そのまま口走って、失敗した。
言わんとしていたこととは、大分口論の方向性が違っていた。
でもこう来たのなら、これは使えるかもしれないと、潰れそうな胸の奥で冷静な頭が計算する。

室井が自分に対する執着を人より深めていることは気付いていた。
室井にとって、もしかしたら意味ある存在であったかもしれない。
だからこそ、何も告げられずに置き去りにされた時だって、ある意味、正しいと思えた。
前を向いて歩き続けるこの男の背中に、賭けた未来は輝いたのだから。

でも、今のこれは全然違う。
断ち切らなければこのひとは、永遠に俺から飛び立てない。俺の傍なんかで満足するような男ではないのだ。


「放して、ください」
「本気か」
「ええ、本気ですよ?ここ出れば小煩い説教聞かなくて清々だ」
「迷惑だったならハッキリそう言ってくれればいい・・・ッ」
「聞く耳持たなかったじゃないですか!」
「目的と手段は違う!君の言葉ならいつだって聞こうとした!」
「そんで?二人でママゴト続けんの?冗談ッ、俺はそんなの目指して刑事になった訳じゃない」
「仕事には色々な形がある!君だってそれは分かってるだろう!」
「やっぱり仕事なんじゃないか!」
「揚げ足取るな!」
「先に線引したのはそっちでしょ・・!これがあんたの望んだ結末だろ!」
「私がいつ距離を取ったというんだ・・・!」


室井の掴む力が逃がさまいと強まるのを、どこか遠くに感じながら青島は顔を歪めた。

きっと無自覚なのだろう。無自覚だからこそ、哀しい。
それが室井の本音なのだと間接的に証明している。


「あんたは、何でも一生懸命だし、手を抜くこともしないし。・・・・けど、そういうのに言い訳して諦めちゃうから周りに良いように使われるんじゃんっ」
「私は諦めてなんかない!」
「意味は同じなのっ、不器用だからとか!頑張りすぎてストレス溜めるとか!そんなのみんなあんたの我儘じゃん!あんたは自分に一生懸命なだけだっ」
「こういう風にしか生きられないんだ!じゃあどうしろって言うんだ!」
「それが自分に夢中なだけって言ってんだよ!周り見えてる?俺、見えてる?俺たちはあんたの人形じゃない・・・っ」
「・・ッ!そんなこと思うわけないだろう!どんなつもりで君と信念賭けたと思ってんだ!」
「思ってなくても周りには同じことなんだよ!面倒見きれないよ!」
「こっちだって世話をしなくて済むなら清々する・・・!」


言ってしまってから、室井がしまったという顔をして、舌打ちをした。
乱暴に落ちてきていた前髪を掻き上げ、深呼吸を見せる。
青島に乗せられて挑発されていることを、多分、賢い男は理解しているのだろう。


「交渉、成立ですね。仕事なら俺は役不足だ、他を当たれよ」

こんな口論は、青島だって逃げたかった。
だけど、もう、止まれない。


「仕事だというのなら、もうそれでいい。ならば、危険と分かってて君をここから出すわけにはいかない、これは本部命令でもある」
「その本部が良いって――」
「自殺行為だ、戦えもしないで!捜査員みんなに迷惑がかかるんだぞ!」
「・・・ッ」
「新城には明日私が言う。君も私もここにいるしかないんだ!」


室井の手が掴む二の腕が指が食い込むほど強く握られ、捕らわれる。
上から闇に制圧されているのを感じた。
逃がしても、貰えない――


「じゃなくて!もう息が詰まるんだよ!」
「なにか、不手際があるのなら、言ってくれれば良かったんだ!」
「だから!そうじゃなくって――」


何が何だかもう、ごちゃごちゃだった。
言葉が通じない。気持ちが通じない。
あんなに熱く共鳴しあった人間との、この顛末が、悲しかった。

逃がしても貰えないのなら、この手でトドメをさせということか。
なんて人生は意地悪なんだろう。

大きな瞳に自分が映っている。
この荘厳な瞳に映りたいと願ったのは、桜の花が咲く頃だった。


目の前の室井の腕を引く。


そのまま、顔を傾け、掠めるように口唇を押し当てた。
今何が起きたか分かっていない室井の漆黒の瞳に映り込む自分の顔が、酷く歪んで見えた。
でもその視界も滲んでぼやけて、溶けていく。
眼を伏せて、薄い口唇の弾力を確かに覚えて、熱を奪って、そして。


「ざまぁみろ・・・ッ!キスだって凶器になんだよっ」

室井の腕から力が抜けた瞬間、振り切った。
コートも羽織らないまま、外へ飛び出した。

外は、小糠雨が降り出していた。




*:*:*:*:*


呆然と、締まる扉の硬質な音を室井は聞いていた。

今何が起こったのか。
何か柔らかいものが口に触れて、そこに刺すような熱を感じて、至近距離で見つめた飴色の瞳が零れ落ちんばかりに透明な水を湛えていた。

巻き起こる風と共に、鼻孔を擽った甘い青島の匂い。
息が詰まるという拒絶の言葉。

その全てに驚き、室井は指先一つ、動かせなかった。



〝あんたは仕事してただけだろ!それで合ってるよ!〟

悔恨に満ちた青島の声が震動する。

仕事だなんて一度たりとも思ったことはなかった。
どこで擦れ違ってしまったのか。
どこで間違えてしまったのか。
沢山寄り添い、歩み寄った時間は、何の価値にもならなかった。


意識が明瞭になってきた瞳に、部屋が映る。
閑散としていて、長く暮した筈の見慣れた部屋が生気を感じない。
がらんとひと気のなくなった空間が、酷く空疎に見えた。

あちこちに散らばる、片割れの残骸。
自分のものではない服と気配。
飲みかけの湯飲み。

以前はなかった将棋盤やオセロボードなどが、確かに居た共同生活者の存在を主張した。


「・・ぁあ・・・」

澱んで霞む胸奥に、切り裂かれそうな程の絶望と孤独が押し寄せた。


違う、あんな言葉を言わせたのは室井なのだと気付く。
追い込ませて言わせた言葉は、つまりはそれだけ青島は室井と真正面から向き合いたいと全身で訴えていたということだ。
なのに、それを言わせず、向き合うことを恐れて逃げた。

いつだってそうだった。
青島は室井を選んでくれていた。
それに衒いなく応えることが出来る出会いであったなら、どんなに自分の人生は倖だっただろう。
自分は青島の隣に立つ価値なんかない。裏切ることしか出来ない男だ。恐らくこの先も。
だけど、引き裂かれた半身が、ジクジクと疼く。


両手で頭を囲う。
崩れるように膝が折れた。


どうすれば良かったのか。
それが分かれば彼を追い詰めずに済んだだろうに。
肝心なことは何も伝わっていない。
大事なことは、何も告げていない。
何も分からない。

分かるのは、たった今、この部屋から青島が消えたということだけだ。
自分の手から、擦り抜けて。

全てが通り過ぎ、閉ざされた扉から入った新しい風が、残り香すらを消していった。







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