東京変奏曲Ⅲ
第十章
1.
航空障害灯がスポットライトのように天上を照らし、白煙が巻き上がった。
辺りは霞がかった紫霧に包まれ、極寒に冷え込んだ工場地帯は、紫苑の倉庫街を鎮め、剥き出しのパイプや排気管、タンクなども今は沈黙している。
芝浦埠頭からその先の海が背後に広がり、悠久に浮かぶ茫漠の境界は、レインボーブリッジだった。
視線だけが交錯する10mの距離は、熱さえも奪われ、幽かに二人を隔離する。
「なんだってこんな夜におまえに」
唸る潮風を耳に、長い沈黙を室井が破ると、その一言に青島の顔が僅かに歪む。
室井には今にも消えてしまいそうに見えた。
ゆっくりと室井が雪を踏みしめる。
「なんで来るんだよ・・・」
細く届けるつもりのない青島の言葉は、それでも室井に届けられた。
室井の足が止まる。
険しく寄せられた寡黙な眉が、その不満を雄弁と物語る。
青島は飛び出していったままの恰好でそこにいた。
細く長い手足が身体の熱を留めるには頼りなく、室井の心を酷くざわつかせる。
何度か、開きかけた口を閉じ、青島の声が雪風にか細く戦慄いた。
「こんなところまで何しに・・・?」
「同じ質問を返したい」
被せるように室井が口を開くと、また押し黙る。
嘲笑いにきたのかという台詞は不謹慎な気がして、それ以上の青島の口を閉ざす。
惨めに落ち濡れた自分とは真逆で、上質なコートに包まれ凛然とした姿は、室井を遥かな貴族風情のように思わせ、その身分を誇張した。
この場に余りにそぐわない姿に、前触れなく吹いたブリザードが打ち付ける。
ゴォォという空の怒号が絶えなく続いていた。
陰影深い空と海が遠くに霞み、背後の広大な海が途方もない二人を模しているようで、足元から救われそうな錯覚を抱かせる。
上空に黒々とした夏の積乱雲のような厚い雲が低く立ち込め、天候の更なる悪化を予感させた。
「暇なんですね、相変わらず」
「君こそ。ここは観光地ですらないぞ」
「・・都会育ちが今更観光するには穴場ってやつが必要なんですよ。ほら、・・・海観賞?ですかね」
「こんな天気にか」
「そこはオプションで」
上辺だけの会話で探り合う懐は、相手のタイミングをのらりくらりと交わす。
だが、そんな言葉遊びに追い詰められたのは、青島の方だった。
「・・・馬鹿じゃん、あんた、こんなところまで捜しに来て・・・、俺、捜しに来させて」
「――」
「何で来るんですか。放っておけばいいでしょ・・・!」
「・・・放っておけるか」
青島の静かな声に室井のはっきりとした声が被さる。
青島の視線が苛立たしく横に逸らされ、皮肉めいた口ぶりで言葉が連ねられた。
「そこまで使命感見せられるともぉソンケー越えて驚愕です」
「同居人が悪天候の中、出ていった。追いかけるのは常識の範疇だ」
「銃密売のシンジゲートを俺の口から吐かせるまでは?」
「・・・・思い出したのか?」
「知ってたって言いませんよ、あんたには」
まるで準備していたかのような文句が青島の口から並べられていく。
こうなることを事前に予測していたような言い訳だ。
「・・・お互い様だ」
「でしょうね」
「君の身が危険なんだ」
「子供じゃないんだから何とかなりますよ。それともこれもつまりは仕事とか?ほんっとに、御熱心なことで!」
「そうしろと言ったのは君だろう」
キッと睨みつけ、青島が濡れた前髪の奥から室井に冷酷な視線を貫かせる。
強い瞳は他人をゾクリと栗立たせる魔力がある。
「ええそうでしたね!室井さんは困っている人には優しいんですね、刑事だもんね!あんなに反目しあった新城さんにも頼られたらホイホイ協力するくらいだし
ね!」
「・・・・」
「でも俺のことはもうほっといてください」
「・・・違う。おまえだから放っておけないんだ。おまえだから追いかけてきた。俺の独断だ」
青島が俯いた。
「んだよそれ・・・・」
横から吹き荒ぶ雪風に、室井の黒いコートと青島の黒いニットが白い華を散らし、灰色の世界に翻る。
「・・・なんか、狡い・・・・」
「何がだ」
この土壇場で、一人称を変え、親しげに〝おまえ〟と呼んでみせる室井に、青島は舌打ちしたい気分だった。
無意識でやってるんなら、尚更性質が悪い。
ずっと呼んでくれなかったくせに。
ずっと他人行儀だったくせに。
鋭い北風が、胸の奥まで突き刺し、荒んだ青島の心をより苛ましていく。
「俺、今すっごく自己嫌悪な気分なんです。あんたの前に顔出したくない、顔出せた義理じゃない」
「君を苦しめたことなら、私にも一端がある」
「じゃなくて・・・、俺は大丈夫ですから。今夜はほんとに帰ってもらえませんか」
「ここに君を置いて?」
ごし、と、青島が顔に付いた水滴を拳で拭う。
立っているのもしんどい足元は、少しだぼついたシルエットのタイトストレートで、くしゅくしゅとした布が華奢に細く足を晒し、雪を溜め込んでいく。
身体は凍え切っていた。
体重を乗せている足裏の感覚もとうにない。
でもそれよりも痛むのは、目の前の室井にされてきた重圧と、自分が仕出かした悲しいキスだった。
あれは、腕を解くための策略だった。
でも、自分も不覚を付かれ口唇を奪われ、望まぬ相手に強淫される気持ちを思い知らされ、その振盪に冒される。
室井にこんな気持ちを抱かれているなんて。
嫌われた方がマシだった。
大切な人にこの先もこんな気持ちを抱かれ、弁解も出来ず今ここで別れていく。
何となく、室井になら戯れも赦されそうだと思ってしまった。
あの、冗談みたいな同居生活の距離感が、二人の距離も倫理も価値観をも変えていた。
そのことが、酷く、悲しい。酷く、苦しい。
境界を見失った自分を、この雪に消してしまいたかった。
何度擦っても消えない男の感触を、青島がまた、袖口でごしごしと拭う。
その顔が愍然に歪んだのを見取り、室井は眉を顰めた。
トマトレッドのチェックシャツがまるで雪原に咲く一輪の花のようにそこだけ艶やかに揺れる。
「俺に付き合うことないですよ。事件は終わったってのがあんたの常套句でしょ」
「迎えは違う相手が良かったか」
「あんたならもっと選べるって話です。何で俺なの」
「おまえ、俺を最低男にしたいのか」
「あんたのせいで、こっちが最低野郎なんですよ」
綺麗だったはずのものが、汚くなっていく。
ただ、正直になるだけで、周りを貶めていく。
動けば動くほど、事態は悪化して、貴方を貶める。
雪が冷たくて、頬に当たって砕け散った。
苦しそうに青島の眉根が寄せられる。
まるで、誰かに叩かれているのと、それは似ていた。
雪と同じ温度に、最低な気分だった。
ゆっくりと、青島の言葉を反芻した室井が瞬きを見せた。
「おまえ、今、ここでそう言えば俺から話題を反らさせると思って言っただろう」
「・・・」
「そうやって周りの状況を巧みに使うのはおまえの技術だな。・・・だが、俺までそれに引っ掛かるわけにはいかない」
返す室井の苦情も、嫌がっている風ではない。
こうも遠目だと、普段なら感じ取れる筈の心の機微も、今は緩やかだった。
室井が、部屋で別れた時とは明らかに違う気配であることに、青島は気付く。
ゆっくりと顔を上げ、青島の視線が室井に戻った。
漠然と生物の恐怖を煽り、建物の壁も風景が錫色に染まった世界は色彩を失い、極寒をより一層強める。
「いつかも・・・夜でしたね」
「・・・・」
「こんな、天気まで最低じゃなかったけど・・・こんな風にどうにもならないこと・・・、あんたとやりあって・・・」
「撃たれたおまえを見つけた暮れか。それとも――三年前の秋の日か」
「・・・・・」
室井は敢えて時間軸を明確化した。
誤魔化す気も、これ以上時間稼ぎをさせるつもりもない。
青島のペースに乗って事を有耶無耶にしていたら、きっとこの男には辿り着けない。
そこに、腹を括った男の覚悟が滲み出る。
あんな顔をさせるつもりなんてなかった。
いつも人懐こい笑顔で歩み寄ってくる青島が眉を寄せてあの透明な目で睨むように見上げてきて。
泣くのかと思った。
また、泣かせてしまうのかと思った。
「きちんと、けじめを付けに来た。これ以上苦しめたくはない。狂ってしまった俺たちの時間を、最初に戻したい」
「最初・・・?」
「俺が、君に――怪我をさせたあの日だ」
「今更そこですか」
「・・・・」
「室井さんの責任じゃない」
「盗聴器の件も君は聞かない」
「・・・、分かってるだろ。それとも責めてほしいんですか」
室井はただじっと強張った頬で、青島から視線を外さなかった。
もう青島の安い挑発に、動揺も隙も覗かせない。
「三年前。何も告げずに去っていくことが優しさだと思った。男の礼儀だと、君の気持ちを考えるふりをして、俺は逃げた、のかもしれない」
「逃げ・・・?」
「責められるのが怖かった。見限られるのが嫌だった。君と、ずっと続いていくと思ってた。俺は、あの秋の日に、恩田刑事の追尾を極秘で命じたことで君を貶
めたから」
「別に・・・・あれは・・・」
自分だけが安全なフィールドにいて、そこを固持し、青島にだけフィールドを裏切らせた。
官僚と違って所轄はチーム戦であることを再三青島が訴えていたのにも関わらず、敢えて、単独で危険な賭けをさせた。
メソッドを悔いるつもりは今もない。
ただ、逐一報告を上げて貰えなかったことで、即席タッグの脆さは見せ付けられた。
連結していると自惚れたプライドは、下らない競争社会の嫉妬に邪魔された。
あの件でどれだけ青島に苦しい想いをさせてしまったか。どれだけ追い込んでしまったか。
自分はキャリアという枠組みに属する以上、少なくとも社会的立場は護られる。事実、自己保身を計算し企てた賭けは確かに室井の立場と成果を死守した。
その結末を惜しみ、堪える自分を、それでも賭けてくれた男へ下された結末は、殺傷だった。
そんな報いを受けさせるために、俺は青島を選んだわけじゃない。
「問われないことは、言い訳もさせて貰えないんだな」
室井こそ、饒舌な方ではない。
政治の場では特に不利なことも多かった。
だからこそ、結果をと実学主義に変貌していったのに、今、青島に全て呑み込まれ、彼独りに抱えられ、初めてそのリスクに気付く。
言われないということは拒絶であり、絶念だ。
「官僚失格だ」
「別に俺は、官僚だから付き合った訳じゃない」
内心室井はほくそ笑むが、表には出さない。
フィールドなんてものに固執し、そこ意味を見出している限り、そこが崩落した時、人は自己価値をも見失う。
そんなことに青島を利用したくなかったのに。
室井の脆さは、無自覚に青島を求めてしまう。
「階級社会を強いるなら、健全たる命令を下すのが我々の使命だった。いつもそこで、俺は自問する」
「もう・・・いいですって・・・」
「あの件で、階級を踏みにじったのは、一体どっちだったんだろうな」
「あんただって俺に言わせるつもり?盗聴器だって、そこまでする場所なんだって何の不思議もないですよ。信用なんて紙屑だ」
「間違っても頭を下げる訳にもいかないんだ。だが、今だけは、謝らせてくれ。一度だけでいい、君にはきちんと贖罪したい。誰に批難されてもいい。
それだけを思ってきた」
「・・・・」
「すまなかった」
頭を下げることはなく、ただ、視線を外すことも、なかった。
美しいまでに延びた聡明な立ち姿はその意思と清浄さを凛然と物語る。
真っ直ぐに恐れず、ただ審判を下されるのを全て無防備に青島に委ね、そこに佇んでいた。
その強靭な視線に戸惑い、青島の視線が雪と共に落ちる。
「そんなこと・・・・こんな雪の中言いにきたんですか・・・」
「ああ」
「・・・・・」
今回飛び出したことよりも、他のどんなことよりも、室井にとって、青島との関係性が一番大切で重要視しているのだと言っているも同然だった。
今も三年前の悲劇を抱え込む執着は、後悔でも懺悔でも、まるで激しい情痕のようだ。
それだけ、室井の中は青島で締められていたという証だった。
余りに強い意識に、青島の胸は烙印されるほどに焼き付く。
ずっるいなぁと思う。
なんで室井はこうなんだろう。出会った頃からその精神の厳格さと信念は、持て余すほど熱く青島へと向かう。
「赦されないなら、それでいい。君のしたいようにしていい。ただ、もう、俺は、君から逃げたくない」
「何を・・・ばかな・・・」
「俺の人生の中でただ一つの救いだった。共に過ごせた日々は宝物だった。この先もそこに恥じることなく、先に進みたい」
下手な告白より熱い白状に、青島の頬が仄かに色付く。
今、確かに輪郭を曖昧にさせてきた室井の、奥深く、核が透けていた。
何で今。
何でこんな最悪なタイミングなのか。
あんなに見せては貰えなかったのに。
青島は口唇を噛み締め、剥き出しの指先が小さくジーンズを握っていた。
風に煽られる度、足元がふらつく。
室井は言い切って放り出された言霊に全てを乗せる。
届くだろうか。
きっと、これが最後だと思った。
結果論が物事の尺度なら、確かに三年前の不祥事は室井の失態なのだろう。
そう思っていたし、周りもそう評価した。
派手な無線のやりとりに浮足立って興奮したのは、出世レースに無頓着なヒエラルキーの末端だ。
だが、それでも、青島と共に走り抜けたあの湾岸の街は今も眩しく室井の中に宿り、色褪せない。
悔いた過去の向こう側で、鮮やかに蘇り、穢れなく敷き詰められる。
少し磯の混じる風の匂い。
古臭い街角。
本庁への国道沿い。
人生は山も谷も合って、一概にあの時代を捨てきることはどうしても室井には出来なかった。
そのことが、青島を苦しめるのだとしても、室井と言う人格の確かな礎となっている。
秋田の土の匂い。
うっそうと茂る深緑の山林。
澄んだ水と空気と冷たい海。
過去の確執とは、どれも人生における一角だ。
そこに至るまでに共に交差した時間は嘘にはならない。
そのことを、室井は青島を通してようやく理解する。
手足が悴んできた。
雪の向こうの身体が、頼りなく風雪に打たれていく。凍え切っているに違いない。
普段、室井より高めの体温であったことが思い起こされ、無造作に開いたトマトレッドのシャツの隙間から伸びる細長い首筋まで痛ましく映る。
ああ、どうしたらいい。こんなにも大切に思えるのは、そこに君がいるからだ。確かな過去があるからだ。
感情を揺さぶる程のそれは、烈しさを以ってうねり、姑息だろうが卑怯だろうが、青島へと向かう。
普段寡黙で泰然たる室井の、隠された真紅さを見るのは、青島だけだろう。
青島がいつだって室井の救世主だった。
行く先々で敵を作るしか出来ない室井の、何を認めたのか慕ってくれて。
共に暮らす内に、もう何度も手放せないと何度も思ってきたのに。
こんな形で別れなきゃならないなんて。
ありがとうという言葉と共に、未練が凍り付いた。
駄々を捏ねる心も理性も、夜の雪と共に浸みていく。
雪のように凍てつく心を、堪えて室井の噛み締めた奥歯から嗚咽が漏れた。
冷めやらぬ感情が、拳に表れた。
「過去を終わらせたいってことですか」
余りに崩れそうな声に、室井は虚を突かれた。
ハッと意識を戻す。
もっと、蔑む言葉が返ってくると思っていた。もっと肯べく言葉で、断罪されると思っていた。
予期せぬ返答に室井のリアクションも遅れる。
どうしてこの期に及んでそんなことを確認するのか。
その答えは最早青島の表情が、語っていた。
まさかという思いで、その言葉を口にする。
「始めても、良いのか」
室井が思わず右足を踏み込む。
青島はただ緩く首を振った。
「それを言う相手は、俺じゃないよ、室井さん」
その言葉に、ずうずうしくも強い拒絶を感じた。
おこがましくも悲しくて、己の中の浅ましい欲望を自覚させる。同時に、青島の中の矛盾を感じ取る。
――本当に終わりに出来るのか?
今頑なに室井を拒絶するのは、理由はそれだけではないと感じた。
青島も、二人の過去が終わることを、心残りに思ってくれているのだろうか。
辛いと口にして逃げられた。
だが、辛いのは、青島が室井にまだ何か、望んでいるからだ。
望まれていた。――室井にそう自惚れさせるだけの余地が、今の青島には見えた。
そんなことを言われたら、意地でも攫ってでも手元に置きたくなってしまう。
「・・・君はどこで・・・俺を諦めた?」
ヒリついた喉が絞るように言葉を紡ぐ。
きっと、こんなことがなくたって、青島は室井の前から姿を消していくのだろう。
約束を共にし、未来へ賭けた二人の夢は、室井の上にこそ具現化する。
全てを成し終えた暁に、青島は室井の前から姿を消すだろう。それは予感ではなく確信だ。
役目を終えたとばかりに、此処に居る意味を終え、警察も去っていく。青島らしい決断だ。
青島が室井に託した後の警察に残留する意味を持つとは思えないから。
男の去り際に口出しするほど野暮ではない。
だが今青島をそう思わせたのは、室井自身だ。
新城が言っていたことをふと思い起こし、僅かな予見性を抱いて口を開く。
「俺が、諦めさせたのか」
「――どうでもいいことだよ、室井さん」
「よくない」
子供の駄々のように、珍しく口唇を尖らす室井に、青島が閉口する。
「終わりにするんでしょ、勝手にすればいい――」
「俺は呆れられたと思っていた。なのに君は〝そんなこと〟と嘲る。勲章だとまで言い退ける。だったら、今の君にその決断をさせたものは何だ?」
「もういいって・・・」
「仕事人間だと思ったか。俺には心もないと思ったか。この同居生活が、本気で仕事に邁進している利権主義に見えたか」
「いいってば・・・っ」
青島が初めて崩れそうに動揺する。
「本当は気付いていたんじゃないか?おまえも分かってくれたんじゃないか?」
「知らないですよっ」
「言ってくれ。おまえをこれ以上引き摺らせないでくれ」
畳み掛けると益々青島はおろおろと声を上擦らせた。
苛立ちのような感情を募らせていくのが見て取れる。
核心を付いているのだと思えた。
「散々もぉ言いました!」
「きっと本音は聞いてない」
「何で俺がそこまですんのっ」
「君が大切だからに決まっているだろう・・・!」
「・・っ、だったら!だったら何で美幌から帰ってきても会いに来てくんなかったんだよ・・・!」
「――」
「それでさっさと終わりにすれば良かったんだ、なのになんだよ、今更・・・っ」
「だからそれは――!」
「報告しなくてもいい、会うほどのことじゃない。結局その程度の気持ちだったんだよ。離れても仕方ないと思える仲だった。もう今更どうにもならない
よ・・・・っ」
「君こそ俺に連絡もしなかったろう・・・!」
言い返しながら室井は宙を泳ぐ青島の視線に確信を深める。
やはり、青島もまたあの秋の別れからずっと傷つき、でも室井を想い、室井を待ち続けていた。
こんな奇跡とはあるだろうか。それに名前を付けるとしたら、倖だ。
ならば。
「この同居生活の中で、俺の態度を見て君は判断したんだな」
「こんなこと・・・言い合ったって仕方ないですよ・・・・終わったことです」
「何を見て誤解した?」
「・・・、・・・誤解・・・なんて・・・してない」
「予期せぬ同居生活は俺にとって思わぬ休息だった。本当だ。新城に言われたからではない、俺が選んだんだ。他に選択肢は幾らでもあった」
「・・・っ」
「俺が君と一緒に居たかったんだ・・・!」
「・・・だって、だって初めに室井さんが・・・・言ったんじゃん・・・。仕事だから気にするなって・・・言ったんじゃん」
語尾は風に飛びそうに小さい。
そう言えば、発端の口論の際にも似たようなことを言っていたことを思い出す。
今度は恥を抑え、ちゃんと言葉を返した。
「君が気に病まないようにと思った。俺ばかり浮かれていたってみっともないだろう」
「・・・っ、い、一線引いたのもあんたじゃん」
「一定の距離感を保ってた方が、君の気が楽かと思ったんだ」
「ずっとッ、自分のこと〝私〟だし、文句とか愚痴とか言わないし・・・っ」
「馴れ馴れしく親しげな態度で良かったのか?」
「言葉使いだって、他人行儀のままだったじゃん・・・っ」
「距離感が掴めなかったんだ、三年も離れてたんだぞ」
「何でも一人で背負っちゃうし、俺・・・には努力させてもくれない・・・」
「世話を焼くことが心地良くて夢中になっていた・・・」
「何で・・・責めないの?こんなことされてまで、まだ、あんた・・・!」
ぽろぽろと、雪と共に零れ出てくる青島の本音は、こんな場面において何とも室井を和ませた。
いつからだろう、本音をまるで口にしていないと気付いた。
気を遣いすぎて、気持ちを消していって。
大事すぎて、触れるのさえ、怖くなって。
雪がまるで世界を浄化するように舞い落ちて、逆に、二人の本音だけを透かしていく。
「本気で大切にすることと、尽くすことが、ごっちゃになっていた。悪かった。責めるわけがない、この私生活はとても充実していた」
「・・・」
「本当だ。感謝したいくらいに」
青島が無言で言葉を詰まらせ、横を向く。
髪が靡いて、その目元を隠してしまう。
きっと、青島も同じだった。
同じ時間を過ごす中で、同じく戸惑い、言葉を選び、室井に遠慮していた。
だから、理屈なく融合してしまう自分たちの魂と反比例するように付けこむ建前が、雁字搦めに陥らせた。
青島の苦しみに、今ようやく室井が辿り着く。
微かに青島の表情が戸惑いを乗せた後、気配の尖りが鎮まった。
逸れた野生のように警戒していた顔が、泣き出しそうに歪んでいた。
すっかり濡れて垂れ下がった雫を払い落すかのように、青島がふるっと首を振ると、キラキラと粒が飛び散る。
それを、青島が気怠そうに、掻き上げた。
ふらりと、足元がまたバランスを失う。
「・・っ、ばっかみてぇ・・・」
「おまえのせいだ」
青島の透明な眼が、この距離でも見て取れる。
「俺・・・あんたにも散々失礼なこと・・・・言っちゃって。謝んなら、俺もです。ごめんなさい。あんたを困らせるつもりはなかったです」
「別に困ってない」
「そこまで言わせるなんて、最低だ・・・」
「俺だってただおまえに軽蔑されるのを恐れて取り繕っていただけの、惨めな男だ」
「・・んっとに、真面目なんだから・・・・。そんなとこが、ま、あんたらしいんですけどね」
暗がりの吹雪の中でも、その瞳がじっと自分を捕えているのが分かり、室井の肌を栗立たせた。
無色の中に於いて消えない瞳のヴェールまで、まるで絵になる青島の一挙一足に、室井は青島の容姿の端正さを改めて思う。
それは、室井にもまた非現実な感傷を抱かせた。
きっと、室井の知らぬ所で青島は多くの人を惹きつけ、その魅力で虜にしていくのだろう。これまでも、この先も、ずっと。
その評価に、今初めて胸の奥が悪くなる。
「赦して、もらえないだろうか」
「もう、いいんです。怒ってなんかないし、傷ついてもいない。忘れたいなら、忘れていいんです。おしまいでいい」
「・・・」
「あんたは先に進む人間だ」
はぁ、と息を天に向かって吐き、青島が白い靄をひとつ浮かばせる。
言葉は発せられなかった。
室井へと優しく微笑んだだけだった。
「でも、帰って、ください。ここからは・・独りにして・・・ください」
酷く、辛そうに見えるのは、疲弊のせいか、それとも体調のせいなのか。
熱っぽい表情は、気怠げな色気を纏い、妙に婀娜っぽく仄めかされる。
室井は駆け出したい衝動を抑え、息を詰まらせた。
最初から期限付きの関係だと分かっていたから、ここまで惚れこんだのだろうか。
青島の口からようやく別れの言葉が紡がれて、それを望んでいた筈なのに、室井の心は反して締め付けられた。
いや違う、確かに望んだことだが、こんな顔をした青島に言われたい言葉ではなかった。
ふらりと青島の身体がまた揺らめく。
今にも消えてしまうと思って、掛け寄ろうとする足が、手が、気持ちが逸る。
こんなに優しい顔をして送り出してくれる男を、どうして手放せようか。
きっと、何度巡り合ったって室井は青島を選び出せる気がした。
なら、何故青島は室井を求めてはくれないのだろう。
何故ここまでの想いを滲ませながら、それを与えてはくれないのだろう。
過激な焦燥と違和感が室井の背筋を震わせる。
「なにかあった・・・な?」
「・・・聞かないで・・・」
「俺には言え。言ってくれ」
「あんたには・・・」
震えそうになる声を押し殺して、首を振って、青島はそれだけ言うのがやっとだった。
しかし、強い光を宿す男の決意の眼が、室井を留まらせる。
だが、室井には、泣き出す寸前の子供のような顔に見えた。いつかも見た顔だ。今宵、確かに何かがあったことを確信する。
新城からの電話では桶永が発見したことしか告げられていない。
その後の擦れ違いが悔まれた。
気詰まりとなり、虚しく風の音だけが唸る。
垂れた前髪から鼻梁を通り、水滴が零れた。
コートを着ていても底から冷える極寒に、北国生まれでも堪え始める。
しばらくの沈黙を堪え、室井はゆっくりと口を開いた。
「・・・わかった・・・、言いたくないなら無理には聞かない・・・そのかわり・・・、俺のところに戻ってきてくれ・・・」
思いがけない言葉に、青島の眼が瞠目する。
「戻ってくれないか」
「あんたんとこ、戻れた義理じゃない。あんただって解放されるんですよ、ほんとのとこ、清々してる部分もあるんじゃないの」
「・・・君は意外と俺を分かっていないんだな。伝わっていないと言うべきか。・・・君のことは、本当に大切になっていた。君と居る方が楽だ。悔しいが、誰
よりもだ」
「そんなの、俺もですよ。あんただって分かってない」
事も無げに言ってのける青島は、全てを共有するまで、ある意味、飢えた野生動物のように苛烈な飢餓を室井が抱えていることなど、想像もしていないのだろ
う。
実際、室井などいなくても青島は生きていける男だ。
その幼く他愛ない熱誠に、彼の脆弱さと未完成さを危ぶむ。
「でも、これ以上はお荷物でしょ」
「荷物?何故だ?」
「あんたといると、変わってっちゃう自分が嫌です」
「変わったら駄目なのか」
「こんな夜に散歩することもなくなる」
室井はほぅ、と甘い吐息を浮かばせた。
「俺は今のおまえのほうがいい。我儘言って、生意気で、すぐ怒って、すぐ拗ねて。可愛くてたまらない」
「・・・んな・・っ、何だよ・・・それ・・・」
青島の顔が、こんな薄暗がりでも動揺したことがはっきりと見て取れた。
想像以上のリアクションに室井が目を剥く。
どんなに想いを共有させても、信念の共鳴に陶然となっても、分け隔てた壁は悠然と聳える。
恐らく、室井がその時感じたものを青島が知ることもないのだろう。
それは崇高で酷く儚く見えた。
だが的確に室井の深部に突き刺さった。
「尊厳を否定したくもなるほど、おまえと関わるのが・・・俺自身が変わっていけるのが、その、それが嫌じゃなかった」
「時が経てばみんな嘘になりますから」
「俺との記憶は本物だ」
何もかも承知の上で、青島を爛れた感情のままに引き込み、輪郭の不確かな世界の結論を、卑怯にも青島にも委ねた。
粉砕した後の不吉な世界を怖がるだけで、自分ではどうしようもなくなっている。
でも、忘れたとは言わせない。
独りにしないでと最初に泣いたのは、青島だった。
くりっとした目が伏し目がちになって、風によって隠されたことで、不確かな空気をそのままで掴むように室井は前だけを見据えた。
「俺の記憶に同じものがある」
そうだ。記憶だけは消せないから、何が変わっても確かなものはそこに存在出来るのだ。
過ぎ去った時間も、共に過ごし笑い寄り添った眩しい時間を消せはしない。
傷痕も真実なら、それもまた、本物なのだ。
昔、室井の手から零れ落ち、海へと消えていった女がいた。
受け止めきれない愛情に煩った褪せた記憶があった。
あの時と同じ後悔はしたくない。
「こんな凍えそうな夜は、確かに古傷が疼く」
理性を揺さぶるほどの情動に結論など付けられなくとも、もう良い。
ただ、もう全てを手に入れなくとも、室井から青島を失くすだなんて、最早不可能なことだった。
捜している間感じていたこと――共に走り、ぶつかり、そしてあの部屋で過ごした時間は、決して伊達でも体裁でもない。
絶対出会えると思えた。そして、出会えた。
室井の中に新たな覚悟が生まれる。
シンプルで甘いその要求は、とてもしっくりときた。
「昔の女でも思い出したの?」
「――」
「・・・・ごめん」
室井の僅かな表情筋に変化を見て取り、威嚇射撃が期せず掠ってしまったことを青島に悟らせる。
青島が口唇を噛んで横を向いた。
きっと、俺たちはもう、見ない振りなんか出来ない所まで来ている。
「終わらせるつもりで来た。だが、いざおまえを目の前にしたら・・・怖い。君だけは失いたくない。失うのはもうたくさんだ」
夜が溜息を吐く。
波のように寄せては返して深まっていく。
どうにもならないことが積み重なって、人が人を別つ。
そんな哀しみを抱えて、人は歩いていかなきゃならない。
それが大人になるということだ。
「人間、長く生きていれば傷のひとつやふたつある。それでも笑ってみせるのがお前の流儀じゃなかったのか」
ゆるりと室井が語れば、また、より一層青島が苦しそうな顔をした。
今は、発する言葉はどれもお互いを傷つけ合うものにしかならない。
頻りに振り続けるこの氷の飛礫のように、冷たく心を打ち叩く。
「笑ってりゃぁ前に進めるなんて錯覚、信じてた時代、俺にもありましたよ」
青島の、その笑顔が曲者なのだ。
みんなそれに騙され、癒され、貪っていく。
室井もまた、今回それに惑わされた。
だが今それは二人の感情が溢れて飽和し、剥き出しに晒す糧となる。
まるで不器用な二人の心を代弁しているかのように宙が戦慄いていた。
「俺に頼る気はないということか」
「一緒にいて、どうなるんですか」
「俺だって、なんだってこんな夜におまえなんかにって思っている。でも仕方ないだろう。おまえがいいんだから」
「そんな理由で人生棒に振るほど若くないでしょ」
「無駄なことが必要だと俺に教えたのは、おまえだった」
夜明けと夕暮れが美しい湾岸の街は、今は遥か遠い。
海への憧れをそっと瞳に閉じ込めた愁いが、雪に凍っていった。
戻れなくなったあの街を見渡せるこの高台まで来て
おまえは、誰を待っていたんだ?
無音の世界に包まれる深い憧憬が広がり、古里の山々を海を、室井の脳裏に描かせる。
苦しいだけだった室井の久遠の過去が青島によって浄化されていく。
きっと、あの海を見てももう零れる涙は偲ぶだけだろう。結末を間違えても、共に過ごした日々に悔いはない。
全く違う記憶を乗せて、二人の後ろで出会った東京の海が啼く。
「だから、もう逃げるな。おまえも」
強い突風が、室井の声を抱き込み、再び雪を切ない程に狂わせ巻き上げた。
合わせて、風圧に青島の身体が少し揺らぐ。
「こんなこっ恥ずかしいこと言わせるのは、一度切りにしてくれ」
「知らねぇよ・・・」
「だから言うのは一度だけだ」
「・・・」
「俺と一緒に居てくれ」
きつく青島が目を閉じたのが分かる。
「・・だめ・・」
「誰ならいいんだ」
「俺、傍にいる資格ない、から」
「資格ってなんだ」
「・・・・出来るなら・・・俺だって・・・っ」
男に蹂躙されなければ、応えられたのだろうか。
男に辱められたことを理由に、逃げられるから良かったのだろうか。
対抗できない自分は、室井になんの足しにもならないことを、あんな形で思い知らされ、胸が張り裂けそうに啜り泣く。
こんなことなら出逢わなけりゃ良かった。
悔しい。でもそれよりも、室井と乖離した未来が、こんなにも悲しい。
抜け出したくて飛び出したのに、事態は更に悪化した。
どうして上手くいかないんだろう。
こんな惨めな姿で向き合いたくなかったのに。
青島の、その小さな呟きは、確かに室井の耳に届く。
「ここから、始めても良いか」
「駄目って言いましたよ・・」
一歩、室井が前へ踏み出した。
「来ないで!・・・ください・・・っ」
「青島・・ッ」
「あんた、もう帰りなよ・・・っ、帰れ!」
青島の悲鳴染みた叫びに呼応し、胸の奥で室井の意識がざわめく。
ガクガクと体重を支えるのがやっとの青島の膝が揺らぎ、一歩後ずさる。
「少しでも、あんた、幸せだった?」
「ああ」
「ちょっとは、嬉しかった・・・?」
「ああ・・ッ、家に帰ることも、同じベッドで眠ったことも」
「いい、休暇じゃん」
「全てが色どりだった・・・っ」
「充分です。それで、終わりにさせてください・・っ、ごめん・・・っ」
「嫌だ・・ッ」
「行ってよ・・・!」
いい加減、青島の声が感極まり、泣きそうに咽ぶ。
「いつか・・・!いつか、また逢えたらいいなって思うよ・・・っ。出来たら、忘れないでほしぃけど、あんたは忘れるべきだ」
「ふざけるな・・!一体何を隠してるんだ・・・!」
「もう、いられないですもん・・っ」
「このまま、無かったことにしろと言うのか・・・!」
キッと青島が室井を睨みつけた。
「駄目なんだってっっ」
「何でだ!」
「ヤだって言っただろ・・・!あんたがいつか俺を置いていくんだ・・・!」
「連れていくと言ったら・・・ッ?」
「お断りしますよ・・・っ」
猛攻な嵐の中、二人の怒号が途切れ途切れに響き渡る。
今度こそ逸れたパズルのピースを嵌められる気がした。絶望に染まっていた微かな希望が室井の背中を押す。
自分は見限られていない。たぶん。きっと。
怖がっているのは同じなんだ。
きっと、土俵のあるキャリアと違ってノンキャリの彼では、抱えるものが多すぎて、見える世界も違って、背負わせるものも重い。
自分はそれを支えられるのか?
今だって了見の差くらいでこんなにも傷つけてしまっているのに?
男とは幾つになっても無骨な生き物だ。
「そんなに俺は信用ならないか・・っ!」
「信用以前の問題ですよ・・・っ」
「一緒に約束したろう!いるだけでいいんだ!」
「しつこいな、あんたも!」
愚かだが世の中にはどうにもならないこともある。
誰よりも焦がれた男を、これ以上この手で貶めたくなかった。
袖口を口元に当てる青島の声が涙声になる。
「そんなの赦されないでしょ・・・!もういられなくなっちゃった・・・っ、そんなこと世の中いくらだってあるでしょっ」
「おまえがいなきゃ駄目なんだ・・・!何が駄目なのか言ってくれ・・ッ、俺がなんとかしてやる・・ッ」
「勝手なこと言うなよ!」
「もっと頼れ!」
「無理だよッッ!あんたに!!」
「青島ッ!」
「一緒に、居たかったよ・・・っ、でも、お願いだからっ、捨ててください・・・っ」
「出来るかッ」
二人を隠すように渦巻く白い飛礫が何もかもを閉ざして、恐怖を巻き上げた。
「俺を置いていくのが君の答えか・・ッ!」
「来ないで・・・ッ!!」
青島の足元がまた、大きくふらついたように見えた。瞬間、室井は駆けだした。
数メートルの距離を大股で消滅させていく。
逃げる余力もない青島が、その場でたたらを踏んだ。
両腕を覆うように差し出し、室井がこの手に掴み取る。
雪が舞って、くしゃりと薄手のニットごと潰れて、思うより華奢な冷たく濡れた身体が収まった。
黒いコートが優雅に翻り、室井が筋肉質の腕を青島の身体に巻き付け、顔を肩に埋める。
そのまま、腕に力が込められ、強く抱きとめた。
「・・来ないで、って言った、のに・・っ」
言葉より先に溢れる想いが、視界を凌駕する。
「帰るぞ」
他に何も告げる言葉はなく、また、返す言葉もなく、ただ室井の体温と匂いが青島の身体を包み、息を奪った。
室井の起こした風で、積もった雪が辺りに舞い落ちる。
「ばか、だよ、あんた・・・・」
「・・・・」
「ばかだ・・・」
室井の腕がただ強く、強く引き締められる。
どうするのだろう。これから・・・この先の長い道のりを。
目の前に見慣れた東京湾が、波立たせて広がっていた。
どこまでもどこまでも雪が降る。
「室井さん・・・・、海が、すげぇ・・・真っ白だ・・・・・」
「――ああ。おまえにも一度、白いだけの大地を、見せてやりたい・・・故郷の」
「・・ッ」
滲んでいく視界が一色に染められ、空と海に雪が一面降り積もっていく。
懐かしいあの街もあの橋も、今は悠遠の彼方だった。
ハラハラと牡丹雪が無尽に舞って、深々と音まで吸収し、静寂に包まれる。
さまざまな想いをその結晶の中に閉じ込め、白く埋め尽くした。
雪灯りだけが周囲を知る頼りだった。
2.
自室の扉前に着き、室井は担いでいた青島を一旦降ろした。
そのまま跪く。
「なに・・・?」
壁に凭れ、疲弊した身体を気怠く預けながら、青島が問い掛ける。
その声は弱弱しく寂びれた廊下に響く。
裸足のままサンダルをつっかけた足先は雪に凍え、紫色に変色していた。
凍傷のリスクも憂慮し、室井が破った自分のシャツで軽く包んである布が、古い電灯の下で灰色に映る。
室井のコートを掛けられた身体も、まだ体温を取り戻していない。
片膝を付き、ドアの隙間から回収した細長い破片を、室井は手の平に広げて見せた。
「オーソドックスだけどな。無いよりはと」
「紙切れ・・・?まさか」
室井は肯き、それをポケットに仕舞い、続けて金属音を立ててキーケースを探る。
「ああ、侵入者チェックだ」
「そこまでする?・・・え、もしかして俺がいる間も・・・?」
当たり前だろという顔をして、室井は鍵を取り出した。
「うっそだぁ・・・」
「ここは官舎だ。自分がいる時にやるか。おまえの警戒に決まっている」
カチャンと解錠され、室井が扉を手前に引いた。
「入れ」
そこに、出ていった時のままの部屋が灯る。
視界に入ったその光景に立ち竦むように青島が扉の前で立ち止まった。
強張った筋肉で動けない青島の動作も強張る。
数時間前と同じ景色に、あの傷つけ合うしかなかった衝突と、もがいてもどうにも逃れられなかった悪夢が合わさり、青島の脳裏にありありと蘇る。
絆されて戻ってきた所で、現実は何も進展していないのだ。
それを、無言の部屋が知らしめる。
自分は、そこに舞い戻る覚悟が本当にあるのだろうか。
室井と共に戦っていくだけの能力が、あると言えるだろうか。
口唇を真一文字に引き結び、じっと青島が固まっていると、室井が自分を見ていることに気が付いた。
愛想で笑って誤魔化そうとしたが、失敗する。
「これからゆっくり二人のことについて話そう。これまでのこと、これからのこと、きっと話すことはいっぱいある筈だ。そのための時間も」
「・・・」
不安な思いのままに判断を室井に預けるように青島が室井と視線を合わせると、室井はただ静かな、だけどもう逸らさない瞳を手向けた。
それから、そんな青島を一瞥したあと、青島を置いてさっさと部屋へと上がっていく。
下を向き、上を向き、もう一度視線を横に向け、ああもうっ、と、青島は悔し紛れに零した。
痛くて動かない筋肉を引き摺り、脱げないサンダルを放るように脱ぎ捨て、室井の後を追う。
「あんたも。俺の前でも頑張んなよ」
「馬鹿。おまえの前だからカッコ付けたいんだろうが」
「俺だってそうですもん。でもイイとこ見せんのは誰でもできるだろ。それに俺はもう室井さんがカッコイイのは知ってます」
「・・・・」
室井が振り返る。
びっこを引きながら付いてくる青島を無表情のままに見つめる。
「俺はみっともないとこまで合わせて知りたい」
「・・・・」
「あんたが護ろうとするもの、俺にも護らせて」
どうしてこいつはいつも俺の気付けもしなかったことまで気付かせるんだ。
青島の魂胆は透けていた。
気張るなと言っているのだ。
二人の責任を一人で被り、自分を悪者にしろという意味だ。
いざ、共にいることを叩かれた時、表立つ室井が全てを背負うことになる。
室井の性格からして、死力を尽くして青島を護ろうとするだろうと、青島は踏んでいる。
だからその時は、青島を利用して、保身を図れと言っている。
「どうせ丸見えだ」
――――でも、それを決めるのは、おまえじゃない。
青島の中で室井は、清廉な理想の存在で、実学主義に浸る狡猾な遊泳術など、存在もしていないのだろう。
その仮面を演じることは容易いが、その理想に答えを見出されても困る。
何でも一人で決めて、人を振りまわして。犠牲心に際限がないのは青島の方だ。
自分を護ることに無頓着だから危なっかしい。
この意地っ張りを手懐けるのは、一筋縄ではいかない。
じっと見つめたまま視線を逸らさずにいると、やがて青島の顔が崩れた。
室井は大きく肩で息を落とす。
「俺、いていいのかなぁ?」
「・・・・泣きながらそんなことを言われたって、手放せる訳が無い」
ぐいっとその手を引く。
「あ・・っ」
倒れ込んできた青島に顔を傾け近付けると、息を殺して青島が弾かれたように上半身を反らす。
それでも手を解放せず、口唇を寄せた至近距離で室井がじっと見つめる。
深みに吸い込まれそうな漆黒の宇宙が青島を真っ直ぐに捕える。
「・・っ」
「自分からはしたくせに、俺からはさせてくれないのか」
「・・っっ」
真っ赤になった青島が、手の甲を当てて口籠る。
くりっとした飴色の目が泳いで、ほんのり色づく目尻。
ありありと意識するのは数時間前ここで男同士にも関わらず触れ合わせた肉の感触だ。
陰がかった青島の、目の前の瞳に室井は逆に吸い込まれそうになる。
薄く、口唇を開いた。
その時、室井のケータイが鳴りだした。
数秒のタイムラグ。
渋々胸ポケットからケータイを取り出し、青島の腕を解放せず、視線も固定したまま、室井はゆっくりと通話ボタンを押した。
『よぉぉ、何だ、随分ラブコールしてくれてたみたいじゃないか。進展か?俺も混ぜろよ』
一倉の呑気な声が流れ出し、室井は理不尽にも脳が沸騰した。
「~ッッ用なんかない!邪魔すんな!!」
The next stage begins…

このシリーズはキスすらしないで取りまとめるが裏テーマで
した。