東京変奏曲Ⅲ









第七章
1.
本庁第一会議室から捜査一課へ向かう長い廊下は北向きで、日当たりも悪く薄暗かった。
緑靄の大気が充満し、窓枠に沿って僅かに射し込む木漏れ日を拾って幾筋もの光の道を作る。

建築年数の古さから埃っぽくもあるその鼠色の回廊が、複数の皮靴を響かせる。
慌ただしく黒い塊が重々しい鋼鉄の扉の向こうに吸い込まれていった。

その一つ離れたもう一つの扉の前に、小さな影が寄りかかっている。
ブラックのシンプルなショルダーバッグを肩から下げ、白いAラインコートを着込んだままの女が気怠そうに顔を上げた。
扉に凭れるその姿に、いつかも似たような状況だったとフラッシュバックしながら、新城も足を止めない。
いつかと同じように視線も向けず過ぎ去り、ドアノブに手を掛けると、いつかと同じように女が口を開いた。


「ご無沙汰ね」
「何か用か」
「分かってんでしょ」
「――」


強く請われ、新城は足を止めて女の顔を見た。
刺すような眼差しが朝陽に色付く。
あの日と違うのは、ここは本庁で、女は余所者だということだ。

表情を変えぬまま、新城は配下の者に伏せた視線を走らせ、先に行くよう促す。
向き合ったままの二人の横を、数名のダークスーツに身を包んだ男たちが、目礼をし、風も立てずに通り過ぎた。
一名だけ扉に吸い込まれずに少し離れた円柱の裏でこちらの様子を窺っているが――新城のSPだ――
通路脇に視線で誘導し、新城は改めて恩田すみれと向き合った。
すみれもまた、深い眼差しで見上げてくる。


「本庁のこんなところまで所轄の女が何の用だ」
「そんな言い方は偏見よ」
「所轄差別は今に限ったことではない」
「肯定しちゃう・・・、そんなんだから誤解されるのよ、・・・貴方も!」


物怖じしない口調は気持ちの良いほどで、口唇を尖らすその表情から特に気を悪くしている様子は伺えなかった。
内心で密かに口角を上げる。
が、此処、本庁では例外は通用しない。
身分を分からせるため、新城は敢えて煙たい表情を造る。


「トップダウン。それがここのルールだ」
「ヤな男ぉ~」


少しだけ頬を膨らませてみせるその表情は、久しく感じていない人付き合いの温もりというものを思わせる。
いつからだろう、駒であり兵である筈の所轄もまた息衝いた人の塊であると、距離が変わった。
距離が見えたと言った方が正しいかもしれない。
新城の行動原理は今尚変わることはないし、キャリアで生きることに矛盾もないが、何処か雲を掴むようだった遠い存在集団が、今は肌で感じ取れる。
こんな風に、感情をぶつけられることもまた、不愉快ではない自分が居る。


嫌悪感を漂わせる目の前の女に、今は返って誤解されることの方が疎ましくなった。
ある意味不本意な感情変化を自覚し、新城は自戒の意味も含めた大きな溜息を肩から零した。


「・・・違う・・・、あまり、ここでの目立つ行動はお前たちの立場を悪くする」

すみれの瞳がしっとりとした色に変わり、警戒が消えた。

「・・・・不器用ね」
「・・・用件を言え」


うん・・と俯いて、すみれは背を向け、言い難そうに両手を後ろで交差した。
ショートカットに揃えられた今どき珍しいストレートの黒髪が、辛気臭い廊下の緑光を吸って、彼女の動きに合わせて天使の輪を描く。
それをなんとなく見つめていると、やがて小さな声が聞こえた。


「青島くん・・・・どうなった?」
「・・・・」

予期していた答えとは言え、その震えそうな声色に、新城は様子を窺う。
新城が答えないので焦れたのか、すみれが膨れた面で、肩越しに振り返った。

「驚くようなこと、質問してないでしょ」
「イタズラ盛りの子供並みだ。・・・・と聞いている」

なにそれ、と言いながら、すみれは顔を背け、口唇を歪ませた。
それを隠そうと覆った手元も震える。
天邪鬼なのはお互いさまで、必死に涙を堪えているということは新城にも分かった。

「言伝があるなら伝えるぞ」
「私達に連絡手段はないの」
「今の時点での対応は考えていない」
「――、そんなに、危険、なの」



病院の襲撃からひと月を越えていた。

いつの間にか年は明け、新年が始まっている。
粗方の残党は捕えたものの、彼らの中枢に切り込めたかというと、それはまるで空論だった。
恐らくトカゲの尻尾切りと同じで、幾ら追いかけても肝心の主要幹部にメスを入れなければ、このグループは幾らでも蔓延るのだろう。
そんなことは先から分かっていたが、進展のない捜査が漫然とした心騒ぎと憂慮を増幅させる。

本拠地を持たない集団は、実態のない幽霊と同じで、掴み所がない。
まるで手応えの無さは、こちらの動きを読まれているかのような背筋の寒さがある。

あの救出劇以外の猛攻は何故か後手に回っている奇妙さ。
取り調べで浮き上がる残党からの的を得ない証言。
――情報が筒抜けである気配が消せない。

ただ、救出劇の情報は、相手には伝わらなかった。
現在の青島の居所も知られていないと見て良いだろう。
内通者がいるのだとしても、少なくとも新城が管理官となってから選抜しなおした現チームには、裏切り者はいないと言えた。
だが、これ以上、増やす気にはならないし、無闇に情報を拡散させることも、出来ない。
このまま後手に回って取り調べていても、恐らく何も有力な手掛かりなど出て来やしない。

本部は新たな一手を迫られていた。



「来週末には、捜査本部は一旦縮小する。湾岸署からも引き払うことになる」
「どういうこと?」
「残党とは言え、一時期的にでも密輸グループを追従・壊滅させた。一つの解決を向かえた。上はそう評価している」
「青島くんを殺そうとまでした奴らを見過ごすの!」


キッと強気な視線で睨み上げる仕草は、何者にも穢れない純潔の中に、穢れた人の業を見てきた人間の蔑みが見えた。
きっと、こうやって責め立てながらも、青島とは違い、この女は仕方ない部分もあると割り切ってもいるのだろう。
理解と妥協の深さが見える。――いや、諦観か。


「病院の襲撃も、逆恨みした一般人ということで落ち着いている。表向きはだ。これ以上本庁の人間が所轄に入り込むことは敵に不自然に映る」
「でも!」
「青島のためだ。何も捜査打ち切りという訳ではない。殺人事件で立てた本部が逮捕後も湾岸署にあるのが不自然だと言っているだけだ」
「それがあんたたちのやり方だとでも言うんでしょ、逃げ口実だわ」

すみれが悔しそうに口唇を噛んで俯く。

「奴らに警察が満足したことを知らせない内は付き纏われる」
「逆じゃないの、こちらの手が及ばないと分かればチャンスと思われるわ」
「・・・・」
「まさか、それが狙い・・・?嘘でしょ!まだ青島くんを危険に晒す気なの!」


黙った新城に、聡く違和感を感じたすみれが、声を潜めて語気を荒げた。
ジロリと新城もねめつける視線を返す。
多くを語れないもどかしさは苛立ちを沸々と滞留させる。


「安全な場所にいると最初に言った筈だ」
「この世に本当の安全なんてないのよ、そうでしょう?」
「君らも連絡を取れるようになるぞ」
「・・・・馬鹿にしないで。随分奥手なのね。意外だったわ」
「私は本来派手な舞台は好まない。見当違いの理想論を押し付けられても迷惑だ」
「意気地なしっ、指咥えて待っている方が子供の浅知恵よ」
「室井さんのように、か?乱交なんて統制能力のない証拠だろう。パフォーマンスも戦略のうちだ」
「良く言う・・・」


口元に曲げた人差し指を押し当て、すみれが俯いた。

聡明な女だと新城は思った。
恐らく、憎まれ口を叩きながらも、新城が告げた言葉の裏を、彼女は感じ取った。
誰に聞かれるとも分からない雑談を本庁ですることのリスクと警戒で、敵は何も外部だけではないことを、悟った。

しかし、可愛げはない。
こんなところまでそんなことを聞きに来る瑕疵も、堪え性のなさも、油断でしかなく事態を惑わせることにしかならない。
新城にはただリスクを上げただけの無防備でしかみえなかった。
大人しく上の言うことに従うだけの従順な馬であれば良いものを。
刑事としては半端者だ。


暫く沈黙が続いた。
そろそろ会話を打ち切ろうかと新城が息を吸った時、先にすみれが口を開いた。


「さみしい・・・」
「ぇ・・?」
「・・・って、言っといて」

お願いと小さな声が続き、そんな可愛らしい言葉が出てくるとは思っておらず、新城は目を剥く。
青島になら、この女はこんなにも素を見せ甘えられるのか。

二人の湾岸署での姿が新城の脳裏に鮮やかに蘇る。

風ひとつにも飛んでしまいそうな儚さは、女の脆さにも見えた。
抑えきれない不安と、奪われてしまう恐怖に突き動かされ、その一心で、他には何の邪気もなく、都合を付け本庁に来たのだろう。
その直向きさを引き出したのは、青島なのだ。

人は、命令だけで動くのではない。
人が人を動かすのは、こういう重ねた時間の方なのだ。
あれほど実学主義の堅物だった室井を人文主義の夢想家に揺さぶったのも、この小細工なしの情熱だったと言える。

弱さも脆さも越えた所で、人が人と繋がる脆弱性に、そして凌駕する力に、新城は一つの開悟を見た気がした。


「信頼出来る相手に預けてある」
「・・・信じるわ」
「怪我の回復も順調だ」

うっすらと瞳を細めたすみれに軽く頷き、足早に新城はその場を後にした。










「コンサルタント会社?」

怪訝な声を上げて報告書から顔を上げた室井が眉間を寄せた。

「ええ、表向きは」
「どうやって突き止めた」
「あの決行日に横浜港に入港届を出していた船舶と関係を持つ企業を全部洗わせました。その中で浮かび上がってきた奇妙な会社のリストアップです」
「何が不審なんだ?」


室井が新城が手向けたファイルを受け取り、長い指先を滑らせる。

昼下がり、呼び出されて幹部との面会をした後の足でそのまま室井がデスクに戻ると、そこに新城が座っていた。
自分の報告書もそこそこに、ファイルを捲っていく。
渡されたファイルには企業名と共に事業内容が一覧となり、合わせて登記簿などの資料も付いている。
貿易会社や商社などが多い。


「決算書・・・?」
「資本規模のわりに事業が不透明なものや、やけに海外投資に積極的な企業などを中心に洗わせてたんですがね・・・」
「・・・・」


新城の話を聞きながら、室井が窓際に寄りかかり、足を組む。
徐に椅子を鳴らし、新城も立ち上がると、一緒になってファイルを覗き込んだ。
寄り添うように肩を寄せた新城が、リストの一つに指を差す。


「あれほど精巧な銃器が大量輸入されているとなると、かなりの大金が動く。どこかと結託していないかと考えまして」
「成程、裏金ルートは途切れたから表から攻めたか」
「その中の一社。中小企業向けの経営コンサルに強みがある。去年から急激にシンガポールとの口座が積極的になっている」
「海外との取引があると?」
「いえ、そこは主に事業実態はなく・・・、大蔵省が去年立ち入りを検討していたとの裏情報が」
「飛ばしを行っている可能性を言っているのか?・・・よくあの頭でっかちの大蔵が教えてくれたな」
「そこは、まあ、伝手で」

チラリと視線を交わし合うが、直ぐに同時にファイルに目を戻す。

「ただ、その時は大事にならずに済んだようで」
「何も出て来なかったということか?」
「立ち入りを検討したのが3月決算時。別企業の乗っ取り裁判で、どうやら流れた模様です」
「ああ、あの経営権争いのか。運が味方したな。・・・いや、付いているのか、いないのか・・・・」
「まあ、大蔵省には逮捕権もないですしね」
「何か出てきたとしても地検が動くまでは野放しか」

軽く頷くと、新城が報告書の一枚を捲り上げる。
少し声の調子を変え、指を滑らせた。

「それで連鎖的に出てきたのが・・・・この会社。一番の得意先のようなんですが」
「重工業?ここの経営者がコンサルを依頼したということか?」
「そんな綺麗な理由なら可愛いものですが、今のところ他の接点は出てませんね」
「それが密輸とどう関係が?」
「シンガポールの先物取引を大手証券会社と頻繁に行っていますが、その口座名義がこの経営コンサルの重役なんですよ」
「ペーパーカンパニーか・・!」
「そうとも言い切れませんがね、お忘れですか。青島に潜入させていた間、奴らが隠れ家としていたのは、廃工場ですよ」
「・・・・なにか見えてきそうだな」

室井が顔を向けると、新城は身を起こし、窓枠に寄りかかった。

「でもここまででした。芋づる式に簿外債務の実態を追っていくと、いずれは網に引っ掛かっていくのかもしれませんが、それではあまりにも時間がかか りすぎる」
「やらせるだけの価値はあるだろう」
「貴方はそういう地味な作業が好きなんでしょうが、私はそんな生産性の薄い捜査には疑問を抱く」
「可能性の高さが問題なのか」
「大蔵省の立ち入りを警戒した企業ですよ、花替えの証拠を今尚持っているとは考え難い。第一それが銃の密輸だとどう証明する気です」
「・・・・」


人手が余りに足りない。
時間も足りない。
それは室井も分かっているだけに、それ以上追及するようなことはせず、思案気な顔で肩から息を吐いた。


「接触は」
「それはまだ」

パラパラと報告書の続きを捲りながら、目を走らせる。

「彼らが直接手を下していると思うか」
「青島が入手したあのチップに該当する顔があるかということですか」
「そう簡単には悟らせないか」
「そもそも新参者の筈の青島が取引現場へ行けたことも考えると、システムとしては末端の者が事情も知らずに授受を行っていると考えた方が自然ですよ」
「受け渡しはコインロッカー、鍵一本では現行犯逮捕も難しい、か」


現実的に考えて、銃の密輸などに関わる企業が負債を抱え込んでまでそこに根付く価値は薄く
結論として、いつまでも簿外債務を抱えているとは考え難かった。
目立つ犯罪に手を染める人間が、足を取られる仕事を公にするわけもない。
経営が行き詰まり、その果てで手を出したギャンブルだったのだとしても、今は百万単位の金が一度に動く商売に味を占めている筈だ。
簿外債務を追うことは大蔵省では限界だろう。
最早ブラックリストにも載っていないに違いない。



*:*:*:*:*


「よう、」

不意に声をかけられ、新城と室井は弾かれたように顔を上げた。
デスクに指を付き、見知った顔がこちらを探るように見ている。


「ノックくらいしてください一倉さん」
「したよ、お前らが気付かなかったんだろ。なんだよ、ヤバイ話でもしてたのか?」
「・・・何の用だ一倉」


大袈裟な溜息と同じ吐息で室井が呆れた声を出せば、スッと口端を擡げた笑いを浮かべ、一倉がデスクに腰を乗せた。
持っていた缶を開封し、一口煽る。
焙煎の香りが微かにこちらまで漂ってきた。


「渦中のおてんば姫はどうしてる」
「そんなことを聞きにきたのか」
「俺だって人の子だ。ご機嫌伺いをして何が不味い」
「・・・・変わりない」
「順調に回復ってとこか」
「もうだいぶ一人で出来る。部屋の中なら歩き回れる・・・が、外出許可は下りてない」
「まるで子供を持つ父親のような言い回しだ」
「新城に踊らされただけだ」
「その言い訳がいつまで持つか」


揄いの声色に室井が眉間に皺を寄せた。
剣呑な表情は見る者に冷酷な印象を与えるが、一倉はそれを面白そうな瞳で往なす。
空気に亀裂が走った。


青島が室井宅に保護されていることは、新城の側近と一部の本部関係者しか知らない。一倉は例外中の例外である。
だが、仲間意識などという甘い思考とは無縁のこの男でも、口は堅い。
警察官は、情報に対する秘匿の意識は高く、特にキャリアともなると、情報一つで首を左右することもあるラストカードだという認識は常に身に浸みていて
情報取扱いという意味に於いては、信頼出来た。


「大事にしてもらわないと、今はこっちが困るんですよ」

新城が横から口を挟む。

「確かに室井はうってつけだったな」
「その点につきましては否定はしませんが」

横目で一瞬だけ室井を一瞥した新城が、皮肉めいた笑みを見せる。
一倉は肩で笑った。

「あまり、このような場で話題にするのは控えて貰えませんかね」
「だから隠語使ってやってるだろ、〝おてんば姫〟」
「・・・・バレバレですけどね」


ぴったりだろと肩を揺すって笑う一倉に、新城と室井はそれぞれ大きな溜息と共に逆方向に顔を背けた。
確かに人も出払っていることを確認した上での発言なのだろうが、肝を冷やされる。
盗聴器など仕掛けられてなくとも、本庁内では誰に聞かれるかも分からない。


「楽しんでいるくせに。・・・と、まぁ、冗談は後にして、用件はそのことだ」

一倉は両手を上げて降参のポーズをしてみせた。
瞬間、新城と室井の視線に険しさが走る。
空気を動かさぬまま尖鋭な視線を一倉へと集中させた。


「小耳に挟んだことだ。・・・お前ら、本部でもおてんば姫の居所は伝えていないよな?」
「当然です。私の直属の部下と本部統括者に緘口令を布きましたが」
「それだ・・・。統制に温度差が出ている。管理官の態度を不審に思った連中が騒ぎ始めているぞ」
「そんなのいつものことでは」
「病院襲撃の件も含め、マスコミとの情報の違いは広報にも叩かれている。抑えておくのも限界がある、ということだろ」
「捜査員が騒ぐことで何のメリットがある」
「ワザと騒ぎ立てることで混乱を起こし情報を晒そうとしている者がいる」
「撹乱で我々を誘導する気か」
「そう、俺は考えたがね」

ふぅと鼻から息を吐き、淡々と一倉は述べた。


やはり内部に、情報を得ようとしている者がいるということらしい。
新城は心の中で舌打ちし、苦みを潰したような顔で奥歯を噛み締める。

青島の診療のために時折金岡医師に早朝寄って貰っていることも、官舎に何かあるとキャリア連中が勘付くのは、当然と言えた。
問題は〝誰の〟部屋か、なのだろうが。
それを炙り出すよりも先に、こちらが尻尾を捕まえなければ逃げられる。


暫し考え込んでしまった新城の横で、これまで黙っていた室井も腕を組み、新城を見遣った。
新城もチラリと視線を向けるが、口は開かない。
そんな二人を交互に見た一倉が、煽った缶珈琲をデスクに置いた。カコンと金属の当たる音が鳴る。


「で、どう出る?」
「裏切り者がいるのだとしても、どうせ騒いだところで何も出やしない」

室井が先に口を開いた。
持っていたファイルをデスクに投げ、ポケットに両手を差し込み、ブラインドカーテンの降りた窓の方を向いた。
チルトポールを回し、スラットを開く。
まるで穴倉のように閉ざされていた部屋に、パッとカナリア色の陽光が降り注いだ。


「だがいずれ、勘付かれるぞ。時間の問題だ」
「どうかな・・・出て来ない宝箱を探すより、分かり易い協力者を叩く方が早い。恐らく今危険なのは周辺の方だ。見張られていると考えた方がいい」
「家族か・・・、いや、所轄のことか」
「・・・・」

沈黙が、肯定だと悟らせた。
妙に納得した顔で、一倉が今度は新城に先を促す。

「姫が連絡取りそうな地点の警備は?」
「ですが、まさか警察関係者の顔ぶれまでをチェックはしていないでしょうね」
「ああ・・、切りがないか」
「上がそんな部分までの危険性と捜査員の安全を天秤に賭けるとも思えませんよ」
「マスコミに発表したメンツもあるしな」


新城が肩を竦めて、ファイルを取った。
さもありなんという顔で一倉も真似して肩を竦める。
それから、室井を見た。


「このこと、おてんば姫には言うなよ」
「言うか・・・。言ったら黙っちゃいないだろう・・・」

窓の方を未だ向いたままの室井が、ぼそりと答えた。

誰よりも人を愛し、大切にしたい青島に、自分のせいで家族や湾岸署に魔の手が迫っているかもしれないなどとは、とても言えそうになかった。
飛び出して身を晒しそうなリスクを警戒している部分もあるが、そんなことよりも青島自身が傷つきそうで、室井は言い出せないと思った。


「で、肝心の姫君はどうする」
「・・・・」

黙ってしまった室井を視線の端に捕え、新城が退散しかけていた足を止めた。
肩越しに顎を上げる。

「結局我々だけでなんとかしなければならない、ということですよ」
「移動させるか?なんなら俺が引き継いでも良いぜ」
「なんでそうなる、馬鹿言うな」


室井が空かさず口を挟んだことに、自身の顎を片手で撫ぜながら、一倉がニヤリと笑う。
まだ窓の外を向いたままだった室井が横目で視界に治め、煩わしそうな顔を浮かべる。


「同じ部外者。条件は俺も室井と同じだぜ、なぁ、新城?」
「私は誰も良いんですがね・・・、面倒は御免ですよ。移動させるリスクも考慮しての御発言ですか?」
「おうよ、リスクは同じ場所に留まるのと変わらねぇさ」

トントン拍子に話を進める一倉に、室井が不機嫌を語気に乗せる。

「生活を共にするってそんな簡単な話じゃないぞ。お前に出来るのか」
「姫の?部下としちゃあ、扱いに骨が折れるタイプだが、お互い大人の仕事なんだぜ、事態を重く見れば自ずと利害は一致する。それに」
「それに、なんだ」
「個人的にはああいうじゃじゃ馬は嫌いじゃない」
「向こうの気持ちはどうなる」
「ほ~ぉ、俺は気に入られないと?」
「何が言いたいんだ、お前」

室井の顔が更に煙たくなった。

「大事に囲っているって見え見え。お前、誰にもその役、譲る気ないだろう」
「・・・・」
「何にも執着を見せず、ただキャリアの道に邁進していたお前がなぁ・・・、人って変わるもんだ」
「お前、私を揄いたいだけなら帰れ」
「本気だって言ったら?」
「――」


暫く室井はブラインドの向こうを漫然と見つめているだけだった。
ややして、激情も失意も綺麗に治めた涼音のような風貌で、鎮かに口を開いた。


「・・・、悪いな、一倉。私がこのまま預かる」

ハッキリと言い切った室井が、ゆっくりと振り返った。
しっとりと一倉を見据えた後、新城の方へと顔を向ける。

「良いか?」

新城も、室井がこう言いだすと分かっていたかのような顔で、特に反応もしなかった。
一倉もまた分かっていた風で、聞きたい言葉を引き出せたのか、満足気な顔で立ち上がる。


「大変なのはこれからだぞ」
「分かってる」
「手放すなよ、元気になったとはいえ、あの天邪鬼が素直に本音を出せるのはお前だけだ。その分、室井を護るためなら――動くぞ・・・!」

室井と一倉の視線が火花の如く交差する。

「今のアイツは奴らにとってジョーカーだ。それを恐らく本人も分かっている」
「・・・・ああ」

室井は力強く頷いた。


自分にこそ効果があるのだと分かれば、チャンスを与えれば、今も青島は一人飛び出して身を投じるのだろう。
もう、そんな孤独な戦いにはさせたくない。

普段は平気そうに柔らかく笑い冗談で済ませているが、夜は相変わらず寝苦しそうな時もあった。
強気な瞳を向ける一方で、どこか迷子のような淡い瞳を見せる。
命の限界まで擦りきって、その先の絶望の中で追い詰められた青島がようやく求めたのは、室井だった。
それは、何でも取り繕ってしまう柔軟な青島の、唯一の本音だと思えた。

いつだって、青島は室井を選んでくれるのだ。

〝俺でいいのか・・・・ッ〟
〝これが最期なら、あんたが、いい・・・〟

苦しいほどに、胸が締まる。


元より手放す気はない。
二度と擦れ違うのは御免だった。
青島のためというよりは室井自身のために、傍にいて欲しい。何を告げられずとも。



「では失礼します。また追ってご連絡します」
「ああ」


もっと知りたい、もっと分かち合いたい。
笑わせてみたくて、喜ばせてみたくて。ただそれだけのシンプルな望みが深まっていく。

笑っている人間が幸せだとは限らない。

それは特に青島には言えることだと思った。
自分だけを瞳に映して幸せに微笑んでくれたらと願う。
あえかな飴色の瞳に映りたいと願う。
でもきっと、それで救われるのは、室井の方だ。

青島といると、室井の中の消えかけた息吹が映えた。
圧倒的な強さに憧れた。
縮こまっていた魂が解きほぐされるように満ちて、自分がどれほど怯えて、逃げ出したくて、そんな自分の慰みにしたかったかを知らしめる。


「んじゃ、俺も行くが。何かあったらすぐ入れろ。アポなしで対応してやる」
「ああ」
「それと。俺はまだ引き取る件、諦めたわけじゃないぞ」
「・・・言ってろ」


室井は呆れた視線で一倉を見送った。
片手を上げて去っていく男の背中に、口端を持ち上げる。
ポケットに手を入れ、窓の外を見た。


笑ってくれるから、安心して、室井はここに存在出来た。
護られ、癒されているのは、こちらの方だ。
祈りも許しも誰に乞うたら良いかも分からない渇望が、沸々と不安を掻き立てる。
まるで恋の妄執だと片隅で嘲笑うが、最早別々の道を歩めるほど室井の中の黴は理性的ではなかった。
室井の中で青島は、もう、厳然とした公理としてそこにあった。

危うく手の平から零れ落ちてしまいそうな儚さは、狂おしいほどの情動を持って室井の心を締め付ける。









3.
回鍋肉の湯気が食欲をそそる。

「捜索は順調のようだな」
「順調ならとっくに終わってます」


二人で向かい合っての食事はもうすっかりと馴染んだ。
食卓に並ぶ出来たての料理を楽しむ夕べが、室井の一日を癒す時間である。
咀嚼しながら部屋をくるりと見渡した。


「今日はあの辺か・・・サイドボード付近」
「なんで分かるの」
「少しカーテンがずれている」
「うへぇ」


眉尻を下げ、青島が心底呆れた顔をした。
箸を止め、天井を見上げている。
その反対側で、涼しい顔をした室井が、回鍋肉を口に運ぶ。
キャベツの歯ごたえと少しピリ辛に仕上げた味付けが、割合本格派だ。


「辛味はどうだろう」
「んまいですよ」
「それは良かった。塩味の方が好みだと思って少し下味を控え目にしたんだ」
「なんで・・・」
「肉は塩胡椒のシンプルな方が君は食が進んでいるだろ」
「・・・あ、そう・・・」


自分より自分に詳しくなりつつある室井に、何を言うのも無駄だと悟ったのか、はぁ、と溜息が聞こえる。
今日はミリタリーベージュのシャツを羽織る青島が、袖を捲った腕で茶碗を取った。
手の包帯は取れ、滑らかな素肌が覗いている。

これも室井の見立てだ。

ほんのりとした襟抜きのシルエットがデコルテを美しく見せ、切り替えステッチのある仕立てがこなれ感を演出していた。
ボトムスはチャコールグレイのストレッチで、アンティークな生成りがシンプルなのに婀娜っぽい。
落ち付いたトーンで纏めれば、大人っぽく若い肌を引き立てた。
良く似合っている。

室井は満足して食事を進めた。


「一体何を探している、何も出て来ないぞ」
「・・・・・そのようで」
「言えば用意するが?」
「それじゃ意味ないでしょ」
「・・・?・・・意味がわからん・・・・」


青島が家主のいない隙に家中を掻き回していたことは、その日の内に気が付いた。
無論、嫌悪感などない。
独り暮らしが長く、プライベート空間に誰かを匿うこともなかった生活から様変わりし、自分のいない間に自分に興味を持ち青島が触れているのだと思うと
可笑しくも、擽ったくもあった。
確かにこれでは一倉に馬鹿にされても仕方がない。

まさかこの浮いた感覚を伝えるわけにもいかず、室井は顰め面で誤魔化して、備え付けの葱と玉子とワカメのスープを啜った。




目の前でスープを啜る男をじっと見る。

いつもは和食で味噌汁だが、今日は洋風なのでスープが付いた。
毎晩食事は室井が帰宅してから二人で用意するのだが、いちいち汁物まで付ける几帳面さに、毎回青島は舌を巻く。
基本、育ちがハイスコアなのだ。

庶民育ちで庶民感覚の独身男には、億ションで暮らしそうな男の背景など所詮想像も出来ないのかもしれない。


「辛い分、この焼き茄子が合いますねぇ~、いい組み合わせ」
「気に入ってくれたなら結構だ」
「いっつもこんなの作って疲れないんですか?」
「疲れるの意味が分からない。君は食生活に無頓着すぎるぞ。刑事は身体が資本だろう」
「だぁって・・・。時間ないですよ」


室井のいない間に家探ししていたことは、あっさりバレた。
どうやら右の物が左になっただけで、ここの家主は反応するらしい。
全く細かいというか、繊細というか。
青島に言わせれば、神経質だ。

それ以来、気を付けて探索しているのだが、やっぱり必ず言い当てられる。


「こういうメニューも自分で考えたんですか?」
「そこは割と同期の間で情報交換するうちに」
「同期?食事の話なんかすんですか?」
「まあ・・・女性のような今晩の献立ではなく、スーツブランドや肉体メニューの一環で。先輩からのアドバイスもある。キャリアは頭脳戦だからな」
「はぁ、」


室井の官僚としての私生活は、知れば知るほど異次元だった。
刑事として、例えば家宅捜索にしたって、そのイロハは和久に叩き込まれていたつもりだったのに、室井には敵わない。
これが、本店と支店の違いというやつなのか。それとも刑事としてのキャリアの差なのか。
ルーチン的な部分ではかなり遠い人だった。
室井との経験の差を、こんなところで見せ付けられる。


「んん、じゃあ毎朝やってるセットも?筋肉の」
「ああ。入庁の時に指示された」
「うへぇ~」


一緒に暮らす中で知れてきた生活習慣も、青島には理解のし難いルーチンで埋められていて、隙がない。
室井は小食で、しかも偏食にも見えていたのだが、官僚の不規則な生活リズムの中で、体調管理は貪欲なまでに徹底されていた。
尤も自己管理の出来ないキャリアなど、出世レースに勝ち残れないのだろう。
室井も立派な、いや、正式な官僚なのだ。
確かに睡眠不足や栄養失調で倒れるような人間では、上に立つ器としても未熟だ。

毎朝の筋肉のパンプアップから始まり、クールダウンで終わる作業を、時折真似しながら見つめた。

努力の人。
本当に、その言葉がぴったりだと思った。


「時間掛かる料理も作ります?」
「そうでもない。いつもパッと出来るものばかりだろ」
「リクエストしたら?」
「なんだ、何か食べたいものでもあるのか」
「んん、じゅーぶん!ただ・・・」
「うん?」
「そうだな、こう辛い系だと、酒、欲しくなりません?」
「ああ、熱燗が合いそうだな」
「晩酌ってしないんですか?好きそうなのに」
「割と一人の時は呑んでたな・・・」
「え、ぁ、じゃあ、どうぞ?」
「いや・・・」


何やら口籠って室井が茄子に箸を伸ばす。
釣られて青島も茄子を取った。
中華ダレを掛けた焼き茄子は、さっぱりとしていて付け合わせにぴったりだった。
酢の分量も、青島好みだ。
まさかこれも、どこかで悟られたんだろうか。


「あの、もしかして、俺に遠慮してるんでしたら・・・」
「酒は君が治ったら付き合ってもらおう」
「・・・いいの?」
「ああ、楽しみにしている」
「そか・・・、へへ」


室井と酒を呑んだことなどもなかった。
何だか嬉しくなって、その日を待ち遠しく思う。

完璧で隙のない男。
その分、執着の見えないこの部屋が、逆に寂しくも孤独にも思わせた。
徹底して精査された室井の人生は、一方で質素で温もりがない。
この部屋が、それを更に確信させた。

きっと、キャリアは異動も多いから、必要とあらばいつでも何でも切り捨てられるように、敢えて何も持たないのだ。
時が来たら、迷わず飛びたてるように。

そんな男の生き様は潔く、格好良いと思わせられたが、自分もまた時期が来たら同じように切り捨てられるのだろうという可能性を示唆していた。
何もかも、赤裸々に青島に晒して委ねているようで、その実、室井はその深部までを完全に預けない。
どこか一線が凍てつくように薄く張り、氷の向こうで完結している。
求めればどこまでも侵食してしまう分、確かなものが何もなくて。
見え難い優しさが沁みる度、叫んでいる声が届かないもどかしさを覚えた。

酒の誘いが、嬉しかった。
自分が室井をあったかく癒すことが出来たら良いなと、期待した。
そのくらいしか、してやれることなんか、ない。


少し湿った気分になり、スープに浮かぶ脂のリングをじっと見つめる。
・・・ハッとする。


「・・・んん?あれ?俺、まだ酒、呑めない?」
「もう呑みたいのか」
「ん~、室井さんと。ね」


そう答えると、室井の頬が少し強張った。
・・・・何だろう。


「――、そうか。でも薬の服用中は普通にドクターストップだろ」
「・・・・でしたね」


包帯でぐるぐるに巻かれていた時期は過ぎたが、痛み止めや化膿止め、抗炎症剤など、まだ幾つも薬が処方されていた。
妙に残念な気持ちが湧きあがり、それを打ち消すため、食事を再開する。


「そんな顔するな」
「ぇ・・?」
「酒ならいつでも呑める」
「・・・・」

そんなに物欲しそうな顔でもしてたんだろうか。
見透かされたことに少し頬を染め、青島が上目遣いで伺う。
茶碗越しに箸をがじがじと齧った。

「早く治せ」
「・・・って言われても」
「回鍋肉は何と言っても豚肉だ。ビタミンB1だ」
「びたみん・・・」
「疲労回復にも効果的だ。家探しで疲れてるだろう」
「馬鹿にしてます?」

そっぽを向いた室井をなんか近く感じながら、青島は顔を綻ばせた。

「このトマトとズッキーニのサラダも美味いれす」
「ズッキーニは今日珍しく安かったんだ。最近野菜が高くてな・・・物価が上がったな」
「・・・・・」


やっぱりこのひとの感覚ってなんか変だ。




*:*:*:*:*


夕食を終えたのはほぼ同時だった。
青島が両手で身体を支えて立ち上がろうとすると、室井が先に皿を取り上げる。
まだ、立ったり座ったりする大きな動作では、身体中にある傷痕が痛んだ。
目線で礼を言う。

キッチンから戻ってきた室井は食後の茶まで用意してくれた。
今日はほうじ茶だ。


「明日、会議と地方研修会が重なってしまったんだ。ついでだから引き延ばしにしていた残務処理も一気に終わらせてくる。悪いが夕食は一人で済ませてくれ。 何か造り置きのものを・・・」
「そんなに俺のこと、気にしないで良いですよ」
「ああ、私が心配だから」
「そりゃ室井さんが責任負っているのは分かりますけど、俺、身の回りのことくらい・・・」
「君の健康管理まで請け負っている。ちゃんとしたいだけだ」

その答えにキリッと走った胸の痛みを、青島はほうじ茶をあおって飲み込む。
同時に今日の分の服薬を室井が並べているので、それを指で押して弄ぶ。

「ちゃんとしたいのを否定したい訳じゃないですけど・・・。あんたは身体が付いてくるからって背負い込みすぎだ。パワーは無尽蔵じゃないんですよ」
「・・・そう見えるのか?」
「わりとね。俺からしたら、なんでそこまで追い込むのって思うとき、あります」
「そうなのか・・・・。性分なんだ」


別に気を悪くした風でもない室井が、不思議そうに小首を傾げる。

本当に、無意識に背負い込んでしまうタイプなんだろう。
何でも救いたくて、何でも護りたくて。自分のキャパシティを把握している大人の男だから、余計その包括さが現実的に見える。
きっと、本当は青島などが心配しなくても領分を弁え、対処していけるのだ。
でもある意味とんだ夢想家だ。
恐らく明日の残業も、いざという時に青島に時間を割けるように予め計算された配慮なのだ。

有り難いし、気遣われて嬉しい。のに、心は苦しい。
歓喜の裏で、ドロドロに澱んだ何かが広がっている。

こんなに近くなったのに、近付く程にこのひとが遠ざかっていく。


「室井さん・・・。俺、 そろそろ仕事に戻りたいです」
「今、君に無茶をされたら本部は混乱する」
「しませんよっ、俺をなんだと思ってんですか」
「経験則だが?」
「・・・、けど、湾岸署にだったら」
「外出許可が下りてからだ」
「嘘ばっかり・・・。どうせドクターストップに本部のストップでしょ」
「湾岸署は今少し暇みたいだが」
「何で知って――、ってか、あの署に暇なんて文字あったの!?」


はぁ、と天井に向かって溜息を吐き、懐かしいあの空気を脳裏に描いた。
もう随分と昔のことのような気がする。
平和だった日常。
温かい仲間たちとの、陽の当たる毎日。

遠い記憶は、取り戻せない日常に近い。
そう言えば、どうしてこんなに遠くなっちゃったんだろう。こんな筈じゃなかったのに。
あの頃は、こんなことになるなんて、思いもしてなかった。


「心配か?」
「んん、へーき。てきとーにやってるよ、みんな」
「・・・、案ずるな。必ず戻してやるから」
「――・・・」


戻れないと戻さないは同義語ではない。

しょうがないかと思いなおし、アンニュイな気分になって両手で頬杖を付いた。
目の前の室井は、こんな時まで背筋を伸ばし、両手で湯飲みを掲げている。
きちんとした躾と品格が、胡坐を掻いていたって損なわない。

――みんな、こんな室井さん見たって言ったって、信じないんだろうなぁ・・・。


「あの。じゃあ新城さんのケー番教えてください」
「何を聞く」
「俺だってあの事件の関係者だ。直接進捗状況を聞いてみたいです」
「――、何か、思い出したのか?」
「・・・ぇ、や、そうゆうんじゃないですけど・・・・、うん、でも、ちょっと知らせておきたいこととか、・・・・あるし」
「私では駄目か」
「そうゆう・・・・わけでも・・・」

口籠った青島に、先に何かを感じ取ったらしい室井が湯飲みを置いた。

「いいだろう、時期を見て、番号を渡す」
「そですか。家電、使っていい?」
「ああ」


〝なんで笑うの?〟――頭の中の自分が自分に問い掛ける。
人間はそんなに強くないことを、青島は経験上知っているから。

「どーも」

口端を持ち上げて、笑って見せた。


かつて、笑うのが馬鹿らしくなって笑うのを止めたことがある。
その時、闇は青島を蝕んだ。
無理にでも笑うことは、自分を鼓舞し明日への元気を生み出す大事な儀式なのだ。
無理にでも取り繕って、笑顔を張りつけて。
光を取り付けて、顔を上げる。
無意味なことに思えても、それが大切になる時だってある。

そうやって歩んでいく未来に残るものは何なのだろう。
答えが見つからなくても、歩みを止めることだけは、人間出来ないから。命ある限り。


「一応、話した内容は事後報告で構わないから私にも伝えてくれ」
「・・・・はぁい・・・」

もう幾つめかも忘れた言いたいことを、青島は呑み込んだ。




*:*:*:*:*


湯飲みを片付け、風呂を沸かしに行った室井が、部屋に戻ってくると徐に鞄を探りだした。
何だろうと思い見ていると、何かを取り出した室井が振り返る。


「ところで青島、煙草、吸いたくないか?」
「え!吸いたい!!」
「なら交渉成立だな」
「やったぁぁ~、いやぁ~~~もぉさぁ~~、ずぅっと吸ってなかったから禁断症状出ちゃって。俺、夢にまで・・・・え?交渉?」


きょとんと青島のまあるい瞳が室井で止まる。
室井がニヤリと目だけを細めた。


「取引だ。賭けようじゃないか」
「昨日の続き?」

キラーンと青島の飴色の瞳が悪戯っぽく光る。

「今夜の種目は君が決めたらいい」
「余裕ですね」
「武士の情けだ」
「俺には勝てるって思ってるでしょ」
「悔しかったら」
「・・・・トランプ」
「了解した」


室井が手の平から、久しく見ていない、見慣れたパッケージを取り出した。
ミントグリーンのアメリカンスピリット。
それをテーブルの中央に厳かに置く。

「よっしゃ!今日こそ勝ち越してやる!」


身体が回復し始め、歩き回れるようになった青島が勝手に部屋を嗅ぎ回る行為を、退屈しているのだろうという何とも的外れな解釈をした室井が
少しずつ、この部屋に娯楽性のあるものを持ち帰り始めた。

トランプ・・・オセロ・・・・将棋盤・・・花札・・・

そのチョイスの昭和臭に苦笑を浮かべた青島も、同じくバブル期に青春まっただ中だった昭和世代である。
大学時代、酒の味と共に覚えた各種アナログゲームは、懐かしさと共に忘れていた無垢な青春の甘酸っぱさを想起させた。


「笑っていられるのも今の内ですからね」
「君の手の内くらい、簡単に読める。もう少し捻るんだな」
「いずれ、それが通用しなくなりますよ」


わりと器用だったこともあり、何でもこなせた青島だったが
室井相手に行うゲーム性の楽しさはまた格別で、その抗い難い魅力に取り付かれる。
運も左右するトランプなどでの勝率はまちまちだったが、頭脳戦ともなると、ほぼ勝てないのだ。
駆け引きが勝機となる将棋や囲碁などで、それは顕著に表れた。

テーブルを渡された布巾で拭うと、青島は部屋の片隅に転がっていたトランプを切り出す。

「今日は何にします?」
「私が選んでもいいのか?」

青島にとって室井相手で挑むゲームは、この上ない興奮を齎していた。
思いの外、ゲームが楽しいのは室井も同じようで、二人のギリギリの対戦はいつも白熱した。
二人が真っ向から向き合うと、こんなところでまで熱くなる。

「じゃあ、まずは――」




もうあんな風に無邪気になった時代には戻れない。
もう二度と想いを打ち明けることもない。
近付き過ぎたから、近付けなくなった。

好きになんてならなけりゃ、こんな痛みも苦みも知らずに済んだのに。
完全な愛に憧れて、でも不完全な熱は澱み、捩じれながら、澱みながら、堕ちていく。


室井じゃないことで頭も胸もいっぱいにして、そう出来るようになりたい?そんなの、もう無理だ。
こんなにも隙間までこのひとでいっぱいにされてしまった。
甘えと限界の狭間で、どうにも動けなくなって。
きっと、そのまま平行線で終わるんだ。

目を閉じて、瞼の裏に室井の姿を思い描く。熱く、灼きつける。
もっと早く、気付きたかった。この気持ちが恋でないことを願った。





「~~~っしゃ!!」
「待てッ、もう一度勝負だ!」
「また明日ね、で、これ貰いっ」
「じゃあ風呂のあとだ」
「早く寝ろよ」

煙草を嬉しそうに掴む青島の手を、室井の手が背後から覆い被さるように追ってくる。

「こら、ちょっと待て!」
「やーですよ~ぅ」
「狡いぞ」
「ずるくないですもん」

縺れ合って。縺れ合って。

「あ」

折り重なって、倒れた。






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